和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

チャイナ・マネー。

2007-11-30 | Weblog
月刊雑誌「VOICE」。その「巻頭の言葉」は古森義久氏が連載しております。2007年11月号は「疑惑のチャイナ・マネー」と題して、ノーマン・シューという全米でもトップ級の献金者について解説しております。じつはノーマン・シューは1992年に詐欺や窃盗で禁固3年の実刑判決をうけながら、服役直前に逃亡したままの有罪被告であること。それが解説によると「いやはや、単独の人物による民主党側に絞っての、まさに洪水のような献金なのだ」とあります。誰に献金していたのか。「・・慰安婦決議案のマイク・ホンダ下院議員、さらにはエド・レンデル・ペンシルベニア州知事から民主党全国委員会まで、じつに数が多い。」。そして「アメリカの選挙がきわめてオープンであり、その資金提供には中国政府ときずなをもつような怪人物でも容易に参加できることをあらためて印象づけた。外国勢力がアメリカの政策や態度を自国に利益となる方向へ動かすことが、政治献金という方法で可能なのである。慰安婦決議案に対するホンダ議員の動きなど、いかにもそのメカニズムの機能をうかがわさせる。外国の機関や個人からの政治献金は法律で禁じられているとはいえ、中間にシュー氏のようなクッションを置けば、それも可能になる。・・・」

これについては、産経新聞2007年10月13日「緯度経度」の古森義久氏の文もあります。



さて、2007年11月30日つまり今日の産経新聞をひらいたら、ワシントン・山本秀也氏の署名記事で「カナダ下院、慰安婦決議を採択」とあります。記事のはじめはこうです
「カナダ下院本会議は28日、いわゆる慰安婦問題で日本政府に対して、『公式かつ誠意ある謝罪』を要求する決議を全会一致で採択した。慰安婦問題をめぐる対日非難決議の採択は、米下院、オランダ下院に続き、主要国で3例目となった。・・・」

記事の最後には「決議は米国などと同様、法的な拘束力はない。審議過程での修正によって、決議には戦後日本の国際貢献などの評価も併記された。カナダ下院の決議は、野党・新民主党所属の中国系女性議員、オリビア・チョウ氏らが提案した。」



これに関して、国として対処の仕方が異なるトルコの場合が日本には大変参考になります。

2007年10月10日産経新聞。
古森義久氏の記事。見出しは「アルメニア人虐殺非難決議案 トルコ猛反発 「慰安婦」日本と対応に差」。
そして2007年10月28日産経新聞「日曜日に書く」。ワシントン支局長・山本秀也「非難決議で見えた外交の差」と題してトルコ政府の警告を示しております。ここでは、山本氏の文章から引用してみます。

「1915年に始まる『アルメニア人大虐殺』をめぐり、オスマン・トルコ帝国の歴史責任を追及する米下院の非難決議案である。・・・・嫌でも思いだすのが、下院本会議で採択された慰安婦問題をめぐる対日非難決議だ。結果において対照的となったふたつの決議案だが、その様相や狙いは、もう双子といえるほどの共通項にあふれている。すなわち、
①米国の忠実な同盟国が標的となっている。
②数世代を隔てた歴史責任を現在の政府、国民に問う内容
③歴史の細部に関する議論を避け、「人権」「女性」といった【錦の御旗】に等しい今日的な価値観へのすりかえ――などであある。
いずれの決議案も、セミの冬眠なみに長く下院内でくすぶってきた。今年になって飛翔の機会を得た背景には、昨年の中間選挙における民主党の大勝がある。ブッシュ政権を追い詰める党略が見え隠れしている。・・・・ここで指摘したいのは、当事国ですらない米国の議会が、後付けの正義を振りかざして歴史を裁く愚かさである。歴史に仮託して日本をたたく米国経由の決議攻撃は、今後も繰り返されよう。日米同盟堅持に立つ限り、日本が自国の「重要性」や「魅力」を米国に向けて発信する国を挙げての表現力が求められる。トルコ外交の表現力を見ていて、つくづくそう思う。」

(トルコ外交の表現力について、あまり日本では関心がなさそうなので、あらてめて引用はしませんでした)



コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

早晩、廃れる。

2007-11-29 | Weblog
「WILL」1月号の巻頭随筆。
日下公人「繁栄のヒント」は、こうはじまります。

「今はマスコミが大改革を迫られている。
テレビや新聞は、毎日、放送時間や紙面を埋めるために、あたかも問題があるかのような報道をする。『問題なし』と言えば視聴率が取れず、新聞も売れないから、わざわざ問題らしきものを探してくる。それでも見つからなければ無理やり政権や企業を叩く。テレビでは政治家と芸能人を一緒に登場させて議論させる番組が増えてきた。相手の言うことも聞かず、一方的にしゃべり続けるだけで、見ているほうは単に『騒いでいた』としか受け取れない。一時間も使って、一体何を議論したのか分からない。それでも番組制作側は『実に盛り上がってよかった』と言っているのだろうが、こんな番組は早晩、廃れる。国民はいまや、バカ騒ぎではなく意味があるものを求めている。【教養新書】が売れているのがその証拠である。・・・」

ここから本題にはいるのですが、サワリの部分を引用しました。


ところで、産経新聞2007年11月28日の1面に、岡本行夫氏の特別寄稿が掲載されており、3面にも続いて書かれております。見出しが「インド洋に補給艦戻せ」。その最後のは、こうおわっておりました。
「補給支援特措法案が参議院で否決された後も世論の支持が低い場合は、政府は衆議院での再可決を強行するべきではないだろう。そのかわり、政府は、日本の不参加の影響を、国民に率直に説明すべきだ。国民は、全体像を理解すれば、必ず文明国家としてとるべき道に賛成するだろう。・・・政府が正面から国民に訴えるときである。日本を救うのは政治家ではない、国民自身なのだから。」

このように産経新聞の1面と3面のほとんどを使って岡本氏の論証が語られております。
政府へと語りかけているようですが、ひとえに、国民へと語りかける堂々としたものでした。ただただ、マスコミの騒動で、この文章がかき消されないでほしいと、それを願うばかり。

うん。「こんな番組は早晩、廃れる」という日下氏に拍手。
そういう番組しかなかったら、テレビを消せばよいですね。
そしてあらてめて、岡本氏の文章を読み返してみましょう。
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

徳は孤ならず。

2007-11-28 | Weblog
今日は一日雨。いつ降っていたのやら、いつやんだのかわからないような、それでも降り続けているという雨模様。パソコンの位置替えをして、しばらくたちます。壁から窓際に移しました。台所兼居間のスペースに置いております(聞こえはよいのですが)。窓からは柚子の木がそばに見え(ちなみに、家には庭はありません)。柚子が枝全体になっております。ということで柚子の詩。

   柚   竹内勝太郎

 冬のあたたかい日当りに
 緑色の葉と黄いろい柚の実。
 妹の笑いのように純な心の幸福。


ここから、蜜柑へと話をうつします。
漱石の俳句に

  累々(るいるい)と徳孤(こ)ならずの蜜柑哉

半藤一利氏は、この俳句の解説をして

「熊本市西郊の河内地区から天水町への海岸線は、ミカンの名産地。漱石先生も来熊の年の秋から冬へ、その見事なミカンのなりようをみて、目をみはったに違いない。・・・・そこでふつうの俳人ならさっそく写生句、となるところを『論語』をひっぱりだして独得のものとする、そこに漱石先生の真骨頂がある。すなわち、里仁篇の『徳は孤ならず必ず隣あり』を、いっぱいのミカンのなっている風景とした。たしかに蜜柑はそんなふうに生(な)る。・・・」(「漱石俳句を愉しむ」PHP新書 p133)。

うんうん。今年の、柚子も孤ならずの盛況ぶりです。
平岡敏夫著「『坊つちやん』の世界」(塙新書)に
【ただ一本の蜜柑の木  「坊つちやん」における自然と人間】という章がありまして、読み飛ばしておりましたが、あとあとになって気になって思い浮かぶのでした。
コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

岡野弘彦。

2007-11-27 | Weblog
新聞の歌壇俳壇を読むのが好きです(自分で歌を詠むわけではないのにね)。
だいぶ以前、土屋文明選の読売歌壇が本になっており、読んだことがあります。
土屋文明の短歌はまるでわからなかったのですが、土屋文明の選評はわかりやすく、選ばれた短歌を、なるほどなるほどと納得しながらの選評読みを楽しみました。今だったら土屋文明に変わる人はどなたかなあと思うと、私には岡野弘彦氏が思い浮かぶのでした(いそいで、つけくわえれば、岡野氏の短歌はわかりやすいと思います)。
さて、朝日新聞11月21日の文化欄に「歌人岡野弘彦さん天皇家の和歌指導役退く」とありました。河合真帆氏の署名記事です。「歌人岡野弘彦(83)が先ごろ宮内庁御用掛の職を退いた。四半世紀にわたり、天皇家の和歌指導・相談役という側近の重責を果たした岡野さんに心境を聞いた」とあります。
都内に借りた家を引き払い、年内に住み慣れた伊豆に戻るのだそうです。

ところで、読売歌壇10月22日の岡野弘彦選を、ここに取り上げてみたくなりました。

 玉音放送兵ら土下座し聴きいたり蝉なく枝に吊りしラジオに 香取市 関沼男

【選評】 私も霞ヶ浦周辺の村で、一少隊が竹藪にかくれて敗戦の放送を聞いた。朝からじりじりと太陽の照りつける日だった。体から一切の物が虚脱してゆく思いだった。苦悩の始まりの日だった。


 戦ひの終りし日まためぐりきて皇居前広場松のかげ濃し  東京都 松井和治

【選評】私どもに吉田松陰を講義した教授が、敗戦の日この広場で割腹自殺したと知ったのは少し後のことだった。この広場を見るたびに、それを思う。


 戦友の通夜より帰る雨の道ひとり軍歌をくちずさみをり  埼玉県 沢野朋吉

【選評】最初の「宮さん宮さん」は別にして、「ああ戦友」をはじめ日本の近代の軍歌はみな、どうしてあんなに淋しくもの悲しいのだろう。



以上、10月22日の岡野弘彦氏の短歌選最初の3首でした。


岡野弘彦著「万葉秀歌探訪」(NHKライブラリー)には
「この本の、はじめに」とあります。ではそこから引用。

「戦に敗れた軍隊から解放されて、ふたたび大学に帰ってきた戦中派の私達の心は、まだどこにも生き甲斐を見いだせず、荒涼としていた。・・・・・
現在のような言葉の氾濫する時代の人々には嘘のように感じられるかもしれないが、小学校に入ったのが満州事変の起った年で、それ以来ひたすら軍国教育を受けた者には、突然に戦争が終わって解放されても、お仕着せの言葉ばかりで胸の底の真実を表現する自在な言葉がなかった。自分の言葉を模索し苦しんでいる私に、折口先生は『万葉集の東歌を暗唱してごらん』と言い、それが完了した頃にまた、『近代の作家なら古泉千樫の歌集を暗唱してごらん』と言った。・・・今にして言えることだが、それは、日本人の長い心の伝統をよく知った人の、あたたかく適切な教えであった。千四百年の永い生命を持った、定型としらべに宿る日本人の魂の表現は、戦争によって荒廃した若者の心に、凝縮した言葉の感染力による、奥深いよみがえりの力を与えてくれた。まさに、歌は日本人にとって、集中した魂の声であり、新しい生命の指標であった。殊に『東歌』という、東国の村々の生活の場で、長い歳月と多くの村びとの情念をそそいてはぐくみ育てられた歌には、都の創作歌人の個的な作品と違った、底ごもるように深く根づよい人間の本性と情熱が、濃密でしかも高らかに歌われていて、現代の観念やイデオロギーに傷つき痛めつけられた戦中派の未熟な心の回復に、大きな力を与えられたのである。・・・」

もう一度、宮内庁御用掛の職を退いた岡野氏という新聞記事にもどりましょう。
そこには岡野氏の言葉としてこうありました。

「心の中でまとまってきた、師の折口信夫の学問と文学をまとめる時間がほしい。ただそれだけなんです。20代に起居を共にして教えられた『折口学』を、僕はひたすら継承に集中した。でも次第に、体系だてて書かれてはいない『もののふの歌の系譜』といったことをめぐる先生の考えが見えてきた」


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ここですよ。

2007-11-26 | Weblog
月刊雑誌「WILL」1月号が出たところです。
私は、曽野綾子さんの29ページほどの文章に感銘をうけました。

手紙のかたちをとっております。宛名は松本藤一先生(集団自決裁判原告側弁護士)。

ちょいと、気持ちがこみあげてきて読むのを途中でやめたりして、うろうろしてから、また読み継ぎました。

ここには最後の言葉を引用しておきたいと思います。

「長々とお手紙を書きました。お読みになるのも大変でしたでしょう。お詫びいたします。この裁判はもしかすると長い戦いにおなりかもしれませんが、かつて私がお会いしたすべての関係者は大変静かな方たちでした。政治的行動など採った人は見当たりませんでした。私たちもそれに見習って、真実を述べ続けていけばいいだろう、と思います。実は私は、政府と教科書会社が、好みの形に教科書を書き換えるのを見たい気もするのです。お怒りにならないでください。この事件に関してだけ、私は他の人々より少し深入りして勉強しました。その事実をよく知っているだけに、日本の子供たちの前で事実が曲げられて行くさまを、改めて見ているのも、作家としては悪くない、などと思っているのです。・・・・」

お買い下さい。読んでください。ここに今現在の名文が書かれております。私はそこに立って、ここですよと手を振ってみます。ここですよ。ここに言葉があります。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

尼崎安四の柿。

2007-11-25 | Weblog
佐藤哲三は明治43年生まれ(1910~1954)。
洲之内徹は大正2年生まれ(1913~1987)。
尼崎安四も大正2年生まれ(1913~1952)。
彌生書房より「定本尼崎安四詩集」が出ております。
その尼崎安四の詩に「柿」があります。


    柿

 暗い山がある 暗い野がある 暗い空がある
 暗い世界の中に人間のともした灯火でなく
 空と地がおのづからともした灯火がある

 往くところいづこにも熟れる枝々の柿
 陽と月の周期につれてめぐつてくる
 地球の上の翳りにも似て この季節
 地の涯からあげ潮のやうに覆うてくるとり入れの色

 崩れた古い寺の庭に 人住まぬ兵舎の跡に
 柿の実は人の知らぬ期待のために輝いてゐる
 永劫にめぐつてくる寂かさの中のいとなみの輝き
 言葉のないその歩みはただ見えぬものの歩みにつれてめぐるばかり

 森の野の風にとぼり消える灯火でなく
 人のとぼし 人の吹きけす幻でなく
 暗い山に 暗い野に 暗い空に
 木枯しの中にもおのづからともつてくるひそかなその灯


あと、尼崎安四に「高橋新吉に」と副題がある「柿の木」という詩があります。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

私の学校。

2007-11-24 | Weblog
昨日のブログで、芥川喜好さんの言葉に「現代画廊は私にとっての学校でした」とありました。
学校といえば、梅棹忠夫著「知的生産の技術」(岩波新書)に「渡辺照宏氏は、日本の大学では、本のよみ方などをおしえられる機会がすくないのではないか、ということを指摘しておられる。じっさい、アメリカの大学のように、来週までにこれだけよんでこいと、部あつい本を何冊もわたされるというようなこともない。どうも日本の教育は、やっぱり教科書中心・講義中心で、本をよませるという訓練方式がひどくかけているのではないだろうか。わたし自身の学生時代をふりかえってみても、読書法についての指導は一ぺんもうけたことがない。現在の学生も、事情はかわっていないようである。・・・」(p99~)
この新書が出たのが1969年です。現在はどうなんでしょうね(笑)。
もし、1969年のまま止まっているのなら、さしあたり、ネット上が「私の学校」といえるかもしれないという仮説が生まれる。そんなことを思ってもよいですよね。

私は、レビュージャパンやbk1で、書評の書き込みをしております(ここで書いた文をあげてるのですけれど)。
他の方の書評を読むと勉強になります。ということで、私の学校は(本についてですが)ネット上にあるといってよい。
そういえば梅棹氏のこの本に
「まず、はじめからおわりまでよんだ本についてだけ、わたしは『よんだ』という語をつかうことを自分にゆるすのである。一部分だけよんだ場合には、『よんだ』とはいわない。そういうときには、わたしはその本を『みた』ということにしている。そして、あたりまえのことだが、『みた』だけの本については、批評をつつしむ。」(p102)とあります。う~ん。私は『みた』だけの本でもどんどん感想を書きこんでしまうタイプですので、痛い指摘だなあ。これじゃ私のレビューは、平均点以下ということになります。梅棹氏の「あたりまえのこと」これが私に出来ない。

その新書では、「本をたてる」「積読」の違いも参考になったなあ、と思いだします。
「おくときには、つんではいけない。なんでもそうだが、とくに本や書類はそうである。横にかさねてはいけない。かならず、たてる。ほんとうにかんたんなことだが、この原則を実行するだけでも、おそろしく整理がよくなる」(p82)

「一ぺんよんでから積読のである。よみおわって、鉛筆で印をつけた本は、しばらく、書斎の机の上に、文字どおりつみあげてある。さきにのべた、傍線にしたがってのノートつけは、よんだあとすぐではなくて、数日後、または数週間後におこなうのである。そのあいだ、本の現物は、目のまえにつんどかれる」(p110)

どちらも、そうしようと思ったのですが(笑)。
ちょいと、「知的生産の技術」を開くとまた、読み返したくなってきます。
このくらいにして、そういえば、机に置いてある、新聞紙がありました。
このブログで引用したのですが、あらためて、再度、引用してみます。

松岡正剛氏「半歩遅れの読書術」(日経11月18日)

「自分が好きに選んだ本の感想を綴っていくときに、
 ケチをつけるのはつまらない。
 そういう本はとりあげなくていい。やはり
 どのように没頭したか、
 どこで脱帽したか、
 どんなふうにその読後感を人に伝えられるか、
 そこをのみ書きたい。」

とてものこと、そうはできない私ですが、そのように書いている方がおられる。
そう思うだけでも、何か学校へかよっているような気分になるじゃありませんか。


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

タモの木。

2007-11-23 | Weblog
絵本画家・イラストレータ―として知られる黒井健。
新美南吉のごんぎつねの絵を描いていて有名だそうです。
黒井健のカレンダーも、今頃の時期売れているようです。
私は絵本もカレンダーも持っていないので、以下あてずっぽうな話をします。
ネット検索で「モノラル 黒い記憶 黒井健画集」というのが目にとまりました。
表紙の絵にある木が、タモの木にみえます。それで出身を見てみると、1947年新潟生まれ。新潟大学教育学部中等美術科卒業とあります。すると黒井健の雪の風景は、新潟だと思ってもよさそうですね。
ところで、タモの木です。画家・佐藤哲三に、タモの木のならぶ蒲原平野を描いたものがあります。佐藤哲三が新潟出身で地元の風景を描いておりましたから、黒井健さんが大学の美術科を出ているとすると佐藤哲三の絵を見ている可能性を思い描ける(以上推測です)。それにしても、絵本のあの雪景色が新潟だと思うとまた違った味わいがありますね。そして黒井健の絵の先達として佐藤哲三がいる。そんなことを思い描くのでした。

洲之内徹に「北越に埋もれた鬼才・佐藤哲三」(1969年)という文があります。
そこにこんな箇所。

「数年前、私の画廊へ、三枚の小さな油絵を、ひと抱えにして持ちこんできた人があった。『蕪(かぶ)』と、『桃』と、もう一枚はなんだったか思い出せないが、いずれそういった類いの果物か野菜を描いたものだったろう。作者は新潟のほうの出身で佐藤哲三といい、もう亡くなった画家だということであった。その三枚の絵を、そのとき私は買わなかった。・・・・・せめてあのうちの一枚だけでも買っておけばよかったと、間もなく私は後悔するようになった。そのとき見逃した格別どうということもない『蕪』や『桃』の絵が、後になって、かえっていつまでも目についてならないのである。いったい、あのときのあの絵の何がこうなるのか・・・・」(洲之内徹著「しゃれのめす」世界文化社・p58)

それから、洲之内さんはどうしたか?
ここは、「洲之内徹 絵のある一生」(新潮社 とんぼの本・p28)から引用

「洲之内徹が初めて新潟を訪れたのは1969年(昭和44)9月、56歳。佐藤哲三(1910~54)の遺作展の、作品集めの旅である。」ここから「とんぼの本」では佐藤氏の年齢のことに関連して書いており興味深いのでした。
それはそれとして、その遺作展について
芥川喜好氏の語りを紹介したいのでした。

「35年前の話です。なぜか私はロシア文学を志す学生でした。ある晩秋の夜、新聞の隅の美術記事に吸い寄せられたのです。・・『これはすごい』と、なぜそのとき思ったのか、よく覚えていません。翌日、会場の現代画廊に急ぎました。だれもいません。佐藤哲三さんの絵がひっそりと20点ほど並んでいます。原野。雪景。田園の柿。大きな空間を描いた小さな油絵です。私は脳天をうたれたような気分になりました。こんなことは初めてです。結局、会期終了まで毎日通いました。それは、新潟の大地に生きた佐藤哲三の没後15年を記念して、銀座の画廊主・洲之内徹さんが世に問うた最初の遺作展でした。」(2004年10月6日読売新聞夕刊「芥川記者の展覧会へ行こう」より)

「そんな画廊に私はけっこうマメに通いました。・・・学生のとき佐藤哲三展を毎日見に来たことを言うと、『芥川さんも変わってるなあ』と自分のことを棚にあげてカラカラ笑いました。数えてみたらコレクション90人のうち40人を、以前担当した日曜版連載でとりあげています。現代画廊は私にとっての学校でした。」(同10月13日)


こうして、佐藤哲三の絵の磁場に針がゆれたお二人がいて。私はといえば、芥川さんのその記事を読んで、没後50年佐藤哲三展を見に、一度だけ行ったというわけです。そんなことを今年の柿をみながら思っておりました。
さあ、頑張ってもらって来た残りの柿を食べるぞ。この分じゃ食べ終わるのに20日くらいはかかります(笑)。



コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

佐藤哲三の柿。

2007-11-22 | Weblog
3年前(2004年)。東京ステーションギャラリーに佐藤哲三展を見に行ったことがあります。立ち去りがたくって、何回も展示会場をうろうろしておりました。そのたびに印象に残る作品はあるのです。最初はどの絵に興味をもったのだったか。柿の絵が気になりました。ふつう作品としての評価は度外視されるような絵です。私が楽しかったというのは、「コドモと柿の夢」という作品でした。縦46.0×横75.5の油絵。ちょうど右上角から左下角へと河がゆっくりと流れているように、もいだ柿が並べられています。いくつかは枝の葉もそのままに描かれ、まだ青い柿も混じっており、色のコントラストが鮮やか。きちんと描かれたそれら柿の後方にまだ習作のような描きかけの丸い柿が輪郭もボヤケて描きこまれ。そういう柿の丸さと同じ大きさでもって子どもたちの顔が、背景のここかしこに描き込まれているのです。それがまるで、ぼやけた柿に目鼻をつけたような何ともワイワイガヤガヤとした絵です。机に両手をだして柿をほうばっているような姿。その脇でものほしそうに見ている子ども。お絵かきやら積み木やらしている様子の子もおります。うつ伏せで顔をこちらにむけて眠っている子ども。大人の腹の上に頬と手をのせている子ども。裸のあかちゃん。そう。子どもといってしまったのですが、ほとんどが赤ちゃんからすこし大きくなったかなといった丸顔をしております。そうした背景の前にもぎたての葉も新鮮な柿が青い柿にまじってきちんと描かれているのでした。
その楽しさは、たとえばマチスを思い浮かべてみて下さい。模様の壁紙を背景にして描かれた人物画。それが佐藤哲三の絵では、子ども模様を背景にして中心に柿を描いているのです。人物と背景とが見事に逆転したような描き方。いま思うとそういう面白さなのですが、ギャラリーを訪れた時には、ただ何となく微笑んでしまう面白さとして印象に残っていたのでした。

ところで、芥川喜好編・文「画家たちの四季」(読売新聞社・1994年)という画集があります(古本で買ったのでした)。そこには佐藤哲三の「田園の柿」が絵とともに紹介されておりました。その絵は1943(昭和18)年とあります。

「『田園の柿』は、そのころの作としてはめずらしく明るい、野性のにぶい輝きに満ちた絵だ。物資欠乏の折、柿だけは豊かだった。この大地への愛、大地が贈ってくれた素朴な果実への愛が、率直に伝わってくる。幼いころ脊椎をわずらい、病弱だった佐藤は、しかし明朗で健康な精神の人だった。晩年の代表作には悲痛な情感をたたえたものもあるが、この柿に見られるように、基本的に彼のめざしたのは『あたたかさ』だったといってよい。【ようやく蒲原平野のみのりの秋も終わり、暖かな火のほしい季節、私の絵画も温かく人々の心をあたためるものであってほしい】。死の二年前に書いたノートのなかに、佐藤はそう書き残している。」


え~と、ちなみに「コドモと柿の夢」も、「田園の柿」と同じ1943年に描かれておりました。佐藤哲三は昭和29年に亡くなっております(1910年~1954年)。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

柿の話。

2007-11-21 | Weblog
親戚・近所から柿をもらいました。それぞれ家になった柿です。
台所の流しの出窓に、その柿が積んである。
ということで、柿の話がしたくなりました。
カレンダーは、ここ数年「富山和子がつくる日本の米カレンダー」を掛けております。その11月は「柿と伊吹山」と題した小文が添えてあります。写真はというと白く雪をかぶりはじめた伊吹山を背景にして前に柿の木が写っております。柿の葉はすっかり落ちて、枝の隅ずみまで柿がなっているのでした。そして、カレンダーに添えられた小文を引用してみます。

  柿は日本原産の果物
  日本を起源として世界中に広まった木
  保存食になり葉もヘタも薬用になり
  柿渋は塗料になり
  日本中に植えられた
  カキの語は「ディオスピロス カキ」という
  学名にもなっている
  日本の並木道の歴史は古いが
  始まりは柿や梨など果物のなる木の並木
  古代、街道に植えさせたもので
  飢えた旅人を救うためだった
  豪雪で知られ
  日本武尊や信長ゆかりの霊峰伊吹山の
  この雪姿を背に色づいた柿を見ると
  深まり行く日本の秋の
  原風景を思う

う~ん。いままで、あまり気にしないでカレンダーの写真を見ておりましたが、何げなくも小文と呼応しているように思える瞬間。あらためて写真を眺めておりました。身近に住んでおられる人が目にしている、そんな何げない視線で伊吹山がとらえられており、何げなく見逃しちゃうところでした。

柿といえば、正岡子規を思うわけです。
その明治28年の句を引用してみましょう。

 川崎や梨を喰ひ居る旅の人

 柿落ちて犬吠ゆる奈良の横町かな

 渋柿やあら壁つづく奈良の町

 渋柿や古寺多き奈良の町


うん。古寺といえば、和辻哲郎著「古寺巡礼」がありますね。
大正8年に出版されております。たしか、明治維新以来捨てて顧みられなかった奈良付近の古寺を訪ねた印象記でしたですよね。
ということで、また正岡子規の句にもどります。


 町あれて柿の木多し一くるわ

 柿ばかり並べし須磨の小店哉

 村一つ渋柿勝(がち)に見ゆるかな

 嫁がものに凡(およ)そ五町の柿畠

   道後
 温泉(ゆ)の町を取り巻く柿の小山哉

  法隆寺の茶店に憩ひて
 柿くへば鐘が鳴るなり法隆寺




ところで、家の台所にある柿の話。まじかに柿の色をみていると飽きないですね。ところが、むくのはめんどくさい。一日一個食べていけば、なくなるはずなのですが、でもどうしてか残っている。食べなきゃと思いながら、そのうち中身が熟した柿を、どうしても食べるはめになる。

最近の産経新聞11月18日産経歌壇の小島ゆかり選のはじめに

 てっぺんは鳥たちのもの背のびして少し私に欲しい熟れ柿  成田市 伊藤紀子

選評はというと、
「『てっぺんは鳥たちのもの』という伸びやかな表現が、読者をぐんと引きつける。鳥を主役にしたことで、この『熟れ柿』に特別な魅力が生まれた。」

短歌だけじゃいけないでしょう。俳句も引用しましょう。
日経新聞11月18日の連載「詩歌のこだま」。
坪内稔典さんが書いております。そのはじまりの箇所にも柿が。

「『生きるために、一句』(講談社)。ちょっと変った題名の本だが、これがとてもおもしろい。俳句の言葉の生き生きとした表情をよくとらえている。たとえば、野見山朱鳥(あすか)の『いちまいの皮の包める熟柿かな』について著者は断言する。『とびっきりの名句です』。どこが名句なのか。『いちまいの皮に包まれているからこそ熟柿なのだということを読者に気づかせてくれます』。つまり、薄い一枚の皮が熟柿の命を包んでいるのだ。この熟柿、てのひらにのせるとずっしりと重いのだろう。・・・」




 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

受け身。

2007-11-21 | Weblog
産経新聞2007年11月19日に「受け身の大学生」という記事。
短い記事ですし、興味深いので、丁寧に引用してみます。
以下引用。

 大学生の4人に3人は「自分で勉強するより、必要なことはすべて授業で扱ってほしい」と考え・・・・授業と直接関係ないことを、独自に学ぶのは少数派であることも判明。高度な専門知識を自ら習得するという学生のイメージからは程遠く、受け身の傾向が強い現在の学生像が浮かび上がった。調査は今年、全国の国公立127大学の協力を得て実施。約4万5000人の学生が回答した。・・・・
大学での学び方では
「授業はきっかけで後は自分で学びたい」と考えているのが25%
「授業の中で必要なことはすべて扱ってほしい」との考えを持つ人は74%
「難しくてもチャレンジングな授業」を望むのは34%
「自分のレベルにあった授業」を求めるのが65%
「授業の意義や必要性は自分で見いだしたい」は38%
「意義や必要性を教えてほしい」が61%
・・・
授業の出席率は平均87%
予習復習など授業関連の学習は「ゼロ」が13%で
「1日1時間以下」も51%に達した。



私が思い浮かべるのは石原千秋著「学生と読む『三四郎』」(新潮選書)でした。
その「はじめに」はこうはじまります。
「最近の大学生は勉強しなくなったと言われはじめてから、もうどのくらいの年月が経つのだろう。」そして次のページには「多くの学生にとって、大学は高校や予備校の延長であって、勉強は教室でするものらしいのだ。なにしろ、多くの学生は自分を『生徒』と言うのである。自分が『学生』になったという自覚さえないのだ。だから、僕たちの世代には想像もできないことだが、大学の教師に何かを『期待』しているらしいのである。そこで、少なくとも教室だけでは、以前よりもよく勉強するようになったのだ。多くの教師が一時期はずい分悩まされた学生たちの私語も、いまは激減した。何事も教室だけで学ぼうとするから、授業でわからないことがあれば、その日のうちに質問に来て、教師から『答え』を得て安心しようとする。自分で調べ、考えて解決しようとはしない。・・・・そして、もし大学の教師が彼らの『期待』に応えられなければ、彼らは失望し、そしてまったく勉強しなくなる。僕はそういう学生をたくさん見てきた。・・・」


石原千秋氏のこの言葉が、調査でどうやら確認されてきたのかもしれませんね。
さて、これから次の一手はどうすればよいのでしょう。
高校の時、体育で柔道の時間がありました。
まず教わるのは受け身。青畳にしゃがんだ格好で後方に倒れます。
倒れると同時に、両手で畳をパンと叩く。顔はお腹の方を向いて、後頭部打ち付けないように注意する。
それから、組み手までいかないうちに終わってしまったような・・・
あんまり覚えておりませんが、とにかくまず受け身を習いました。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

だんだん勇気。

2007-11-20 | Weblog
昨日のブログを書きながら、自分ながらイヤな後味がありました。ところで、日経新聞の日曜日読書欄に「半歩遅れの読書術」という連載があります(ちなみに、これ単行本化されているのですね)。一ヵ月ごとに執筆者がかわり、今月は松岡正剛氏。その11月18日はこう始まっておりました。

「ウェブ上のサイト『千夜千冊』を書きはじめてこのかた、千二百冊ほどの読書感想記を公表してきた。そのうちほぼ千冊を『千夜千冊』(求龍堂)という全八巻の全集にした。この作業を通して感じたことは、いろいろあるが、なかで自分が決めたルールで『あたり!』だと思えたのは、『本にケチをつけない』ということだった。」
そして頼まれ書評の場合、どうしても文句をつけたくなると書いたあとに
「自分が好きに選んだ本の感想を綴っていくときに、
ケチをつけるのはつまらない。
そういう本はとりあげなくていい。
やはりどのように没頭したか、
どこで脱帽したか、
どんなふうにその読後感を人に伝えられるか、
そこをのみ書きたい。」
こうして千夜千冊の連載時に、十数年前読んで物足りなかった本が、どうしても必要な本だと気づいた経験を語ります。次に、この短文の最後を引用しておきましょう。

「仮説に富んだ本は、いくらでもケチをつけられる。まして時代を先んじて挑んだ著作は、まちがいも多い。・・・しかし、フーテンの寅ではないが、『それを言ったらおしまい』なのである。そういうことは学問のなかでやればよろしいわけで、それを堅気さんの前でひけらかしてはいけないのだ。たまにケチをつけないで読むこと。世の中、だんだん勇気に満ちてくる。」


ああ、これが千夜千冊なんですね。あらためて、ウェブ上のサイト「千夜千冊」に出かけたくなりました。そう、勇気に満ちた歩みを確認すべく。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

葉山梢?

2007-11-19 | Weblog
雑誌「WILL」の編集長・花田紀凱(かずよし)氏が、産経新聞に毎週土曜日「週刊誌ウォッチング」と題して連載をしております。その11月17日にこんな言葉が拾えました。「新聞、テレビがからきしダラシない今、週刊誌にはもっと頑張ってもらうしかない」。たしかに月刊誌では文芸春秋に続いて二位の部数販売にいるWILLですから、花田氏の言葉が頑張っている月刊誌からの激励として聞こえます。
ちなみに、いまの時代は、月刊誌の方が面白いと私は思っております。

さて、今回は「からきしダラシない」新聞のお話。
朝日新聞の古新聞をもらってきました。11月10日に大江健三郎氏の口頭弁論に関する記事が掲載されておりました。記述は丁寧な記事だと思われます。さらっと一読すると、かたよらない中立の立場をこころがけ記事にしており、大江氏が、こういっておりました。という内容に読めてしまいます。その脇にあるのが「集団自決と訴訟をめぐる動き」として年代表のような書き方をしております。これ重要ポイントなので引用します。

1945年3月  沖縄・座間味島で約130人、渡嘉敷島で300人以上の住民が集団自決
 70年9月  「沖縄ノート」(岩波書店)出版
2005年8月  座間味島の元戦隊長らが大江さんと岩波書店に
       出版差し止めや賠償もとめ提訴
 07年3月  文科省の教科書検定で「軍による強制」に修正求める意見
   9月  検定意見に抗議する沖縄県民大会に11万人(主催者発表)が集結
  11月  「強制」の記述を削除した教科書出版5社から復活の訂正申請相次ぐ
  ・・・ ・・・・・・・・・・
  ・・・ ・・・・・・・・・・

おいおい、朝日新聞は、
ここでも、もう11万人が訂正される見込みがなさそうです。
「からきしダラシない」朝日の購読者に、11万人の刷り込みをする魂胆でしょう。この魂胆には念がいっておりました。
11月1日の朝日新聞一面で「米軍再編交付金33市町内定」「反対の名護や座間除外」。
11月2日の朝日新聞一面で「教科書2社訂正申請」「日本軍の強制」復活。
という見出しです(内容はいったいどこの国の人が書いているのか定かでないので引用しません)。
11月3日朝日新聞全面広告。広辞苑「ことばには、意味がある。」。
11月4日朝日新聞。教育欄「がっこう探検隊」。「沖縄で学ぶ日本の今」と題して世田谷区の和光小学校が沖縄へ体験旅行。「6年2組の東田晃先生(34)は、9月30日の琉球新報を広げて見せた。『11万6千人結集 検定撤回要求』という大きな見出し。『新聞を見て気づいたことはある?』『なんでこんなに集まってるの』『どういう人たちなの』『戦争に関係あるの』。子どもたちから次々と疑問が上がった。続いて東田先生は3月31日の新聞を示し、・・・『今ここでは答えは出しません。沖縄旅行で証言者の人たちに話を聞き、自分で考えてみて下さい』と話し、授業を終えた。・・・」

こうした伏線のあとに、11月10日の大江健三郎氏の口頭弁論の記事が登場します。大江氏の口頭弁論を丁寧に紹介しております。

そして、「11万人(主催者発表)」は朝日新聞では、変更がないようであります。
文句でも上がれば、実際は知らないが、主催者発表で11万人というのは、間違いありませんと、きっと堂々としていることでしょう。
もう朝日新聞では、この11万人は崇高な数字になっておます。
そして、小学生への「集団自決」学習も全国紙で宣伝完了したわけです。
おいおい。和光小学校の生徒が哀れに思えてしかたありません。東田晃先生は、11万人という主催者発表の人数を、間違いだったと生徒に訂正するのでしょうか?
その後、生徒はテストでどのように回答するのでしょうか?堂々と新聞に載せて見世物にしている朝日新聞の和光小学校の記事は署名記事でした(葉山梢)とあります。へんな名前ですね。東田先生は、この朝日新聞を児童に見せて、新聞にも載ったのだよと誇りに思うでしょうか。教科書検定の訂正申請をした高校の先生のように。

ああ、こういうことは、書くのがイヤになります
(朝日新聞をひらくと、ムカムカしてしまいます)。
きっと、読むのも嫌だと思うので、このへんで。

けれども、これも情報戦争であります。朝日にこれ以上の
好き勝手をされてはならない。どこかで、このたれ流しを
くいとめておかないと、始末が悪いでしょう。
その始末をする一人にでもなれればと、ボランティアの
心意気で書いております。
11万人が否定されれば、お決まりの「数の問題ではない」
という言葉が、ぬけぬけと語られるのでしょうけれど。
ここは味気なくても、もぐら叩きをする心意気で。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

手がブルブル。

2007-11-18 | Weblog
前回の続きです。
鶴見俊輔氏の対談では、相手によって、同じ場面でも、語りかけが違っておりますね。ここでは、戦争中に新聞を作ったという話を、違う本から紹介します。

「同時代を生きて 忘れえぬ人びと」(岩波書店)そのp50~51。

【鶴見】・・・・負けるときには、負ける側にいたいと思って帰ってきたんです。
でも、そのときには、これだけ身体が悪いんだから兵隊にはとられない、と思ってた。そしたら合格。・・さすがに甲種じゃないんですよね。召集待ちなんです。そのときに、どうも陸軍より海軍のほうが文明的だと・・・(笑)。
【瀬戸内寂聴】どうしてもそう思ってね。日本人って、皆、そう思ってた。おかしいですね(笑)。
【鶴見】それで志願したんです。ドイツ語の通訳。ドイツと日本はつながってますからね。潜水艦と封鎖突破船、それから最後は飛行機でつながろうと思っていた。だから、どうしてもドイツ語が必要なんですよ。それで私は、封鎖突破船に乗ったんです。
潜水艦基地がジャカルタにあって、そこへ海軍武官府といって、海軍の小さいステーションがあったんです。陸軍基地の中の海軍のステーションですね。そこに軍属として・・・。私は日本では小学校しか出ていないから階級が低くて判任軍属なんだけれども、そこで勤務したんです。そしたら、海軍は作戦の必要があって、ステーションの長が、「敵の読むのと同じ新聞を作ってくれ」といったんです。そうでないと困るんですね。「大本営発表」でやったら、撃沈したっていわれる船が向こうから出てくるんだから。それで私は、毎日、新聞を作ったんです。夜中を過ぎると短波(ラジオ)で、ロンドンとアメリカ、インド、中国、オーストラリアの放送を聞いて、メモを取るんです。重複するところを除いて、朝、一日の新聞を書くんです。私は四年間アメリカへ行っていたわけですからたいへんな悪筆で、書けることは書けるんだけど、海軍というのは合理性があって、私の両側にタイピストがつくんです。それで、すぐにタイプにして、昼までにその日の新聞ができるんです。毎日新聞を作った。
【瀬戸内】それは、面白かったですね。
【鶴見】面白くないよぉ(笑)。一生で、あんなに働いたことはない。私の作った新聞だけで、こんなにあるでしょう。昼飯に降りてくると、手がブルブル震えたね。そのうちに、もともとあったカリエスから膿が出てきて病院に入ったんです。海軍は、麻酔を倹約するからものすごく痛いんです。・・・・


この本は鼎談(ドナルド・キーン。瀬戸内寂聴。鶴見俊輔)でした。
鶴見さんは、打ち手によっていろいろな音色を出す鐘みたいなもので、
貴重な打ち手が、さまざまな音色を出すように打ってもらいたいと願うのでした。
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

私の任務。

2007-11-17 | Weblog
月刊誌「Voice」2007年12月号。
そこに連載されていた井尻千男(いじりかずお)氏の「ベストセラー最前線」が、今回で最終回。特別に2ページをつかって「四半世紀の連載を終えて」という文が載っております。その短い全文を読んでもらえばよいのですが(笑)。ここでは、短く引用。
「25年と6ヵ月続いたことになる。回数にして306回である。」
「私はこの書評コラムを通じて・・・私はつねに十年後に読まれても恥ずかしくないものを書こうと心掛けてきた。一度として妥協したり、時流におもねったということはないと自負している。したがって私にとってこのコラムはたんなる書評ではなく、しばしば本と対決する場所でもあった。」
その最終回にとりあげている本は、立松和平著「道元禅師(上・下)」東京書籍。
その最後の言葉は「立松和平の名前はこの作品によって文学史に残るだろう。」でした

高山正之の連載「メディア閻魔帳」は、今回の題が「基地と市民と『朝日新聞』」。そして最後は「日本はこんな新聞に振り回されたままでいいのか。このコーナーを終わるにあたって、あらためて問いたい。」と締めくくっておりました。こちらも今回で終わるようで、最終回にふさわしい要点の指摘とはっきりした歯切れのよさです。

私が個人的に、鮮やかな印象を持ったのは、鶴見俊輔・上坂冬子の対談。上坂さんが「面と向かってお目にかかるのは半世紀ぶりですね」と語りかけることではじめられているのです。こちらは対談のはじまりの箇所を引用したくなりました。
上坂さんが思想の科学研究会の第一回新人賞を受賞する頃のことが語られております。

【鶴見】そのときに、永井道雄と編集者の粕谷一希と私が発表を勧めた。上坂さんは、長いあいだ黙ってる。
【上坂】三人で私を説得されたときのこと、よく覚えてますよ。私は深刻に迷ってた。そしたら永井さんがコッソリ私のところに来て、「月給がもらえるとこは大事にしなさい」って。その次に粕谷さんが来て、マスコミは怖いところだから、この一冊を出したらすぐ逃げなさいって、それぞれいいアドバイスでした。そのあと鶴見さんがトヨタの職場に電話をくださった。何とおっしゃったと思う?「自分の思想に忠実に生きなさい」って(笑)。
【鶴見】ひどいこというね(笑)。
【上坂】この人は何だろう、日常会話の通じない人だな、と思いましたね。最終的にはペンネームを付ければいい、となって、鶴見さんと多田道太郎さんが「上坂冬子」としてくださった。でもおかげさまで、今日まで字を書いて食べてこられましたから、いまとなっては感謝してます。

 
ちなみに、この対談の題は「激論! 改憲派vs護憲派」となっておりまして。
これからが、読みどころであります。
うん。すこし引用を重ねちゃいましょう。

【鶴見】・・・私は19歳でハーバード大学を卒業したあと、日本に戻って海軍に入り、ジャワのジャカルタに行きました。朝、新聞がばさっと来るんです。でも私は前田さんという部隊長のために、別の新聞をつくってる。敵が読んでいるのと同じ内容の新聞をつくるのが、私の任務。
【上坂】当時の日本海軍武官府の前田精少尉ですね。戦後にスカルノを助けてインドネシア独立宣言を作成した人で、海兵の四十九期生です。敗戦日本の立場で独立を助けたことはなるべく伏せたかったのでしょうが、私はこれを、この人の業績として評価しています。
   世界史の大きな転換点はゆくりなく
   わがかりそめの 官邸にて成る
という一首を残していますよ。ああいう人の下で仕事をされたんですか。
【鶴見】そう、自分の部屋で三時まで起きていて、短波放送をメモに取る。朝になると日本語に訳す。朝、日本の新聞が来る。二個所を除いて読むところないんですよ。読むのは相撲の記事と俳句の記事だけ。
【上坂】軍国少女の私がそんな仕事を頼まれたら、日本が勝つようにバイアスをかけて翻訳しちゃう(笑)。
【鶴見】上坂さんにいうだけじゃなくて、私も自分の思想に忠実に生きてるんです。あの戦争中、日本必敗という考えは変えなかった。もう一つは絶対に殺さない。その二つだけを守った。
【上坂】でも思想に忠実すぎて、ハーバード時代にアメリカの留置場に入れられちゃったじゃないの。・・・先生の体質がよく表れていて、これじゃパクられてもしようがないと思ったわ。あの時代のアメリカで、「私はアナーキストで日本もアメリカも支持しない」なんていえば、留置場入りに決まってます(笑)。・・・・でも結局、先生は日本に帰っていらっしゃる。それはなぜですか?
【鶴見】日本は必ず負けるから、同じ危険の下にいなきゃいけないっていう、不思議な考えが出たんですね。
【上坂】日本人としての愛国心ですか。
【鶴見】いや、断じて愛国心じゃないよ!・・・・・
【上坂】そんなぁ。愛国心と聞いて耳まで真っ赤にして怒ることないじゃないですか、85歳にもなってるのに。愛国心って恥なの?相変わらず変な人ねぇ(笑)。



ちょいと引用が多すぎたでしょうか?
でも、この対談。雑誌を買って読んでよいと私は思いました。
ということで、今回は雑誌「Voice」12月号の紹介、お薦め文でした。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする