goo blog サービス終了のお知らせ 

和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

向きが変わる。

2025-04-22 | 道しるべ
曽野綾子著「心に迫るパウロの言葉」(海竜社)で
曽野さんは、信仰について

「 原則として言えば、人間が信仰を持つということは、
  向きが変わることだと私は思っている。       」(p46)

どのように向きを変えるのだろうと思いながら、
気になった箇所がありました。

「 パウロが自分さえも裁かない、  
  というのはすばらしい言葉で、
 『 自分の悪いことに平気でいよう 』ということではなく、
 『 自分はよくやった、と思うな 』ということであろうと思われる。」
                          (p40)

この箇所は、私にとって思ってもいなかったことでした。
低いことばかり気にかけていたけれども、
高いところに蓋をしていたような気になります。
ということで、
こんな箇所もありました。

「パウロは、人間が高ぶることを何度もいましめている。
 人間はほんとうは何一つ分かってはいないのである。
 たとえ、いささかの発見をしたからとて、
 それは途方もなく複雑で広大なこの世の仕組みの、
 針でつついたほどの一部を明らかにしたに過ぎない。
 私たちは賢いように見える人でも何も見えていないのだし、
 たとえ多少ともましなことができても・・      」(p64)

この少し前には、こうもありました。

「・・嫉妬は苦しいが、人を尊敬することは喜びだという実感を、
 はっきりと確認し得たのは、私の場合かなりあとになってからである。

 『 競って尊敬し合う 』というのは、
 『 尊敬することにおいて人に勝りなさい 』
 『 人を自分より勝っているものと思いなさい 』ということであろう。

 実に生きる喜びの一つは、尊敬すべき人に出会うことである。 」(p64)


はい。向きが変わって、ちっぽけな自分を味わう気分になります。
うーん。『 人を尊敬することは喜びだという実感 』
う~ん。そんなことを思ってもいなかったなあ、今まで。

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『感謝』のスタートライン。

2025-04-19 | 道しるべ
曽野綾子著「心に迫るパウロの言葉」(海竜社)に、
ところどころ『感謝』がでてくるのですが、曽野綾子さんの
青年と老年との、『感謝』の境界線の引き方が興味深かった。

まずは、こんな箇所はどうでしょう。

「・・感謝は現実問題として、若い世代では
   あまり身につかないものなのである。

   若い時には、自分に与えられた好意や幸運を、
   なかなか正当に評価することができない。・・・ 」(p209)

ここに、若い時とある。
つぎに、老人という箇所がある。

「・・残っている仕事は重要なことが一つだけだ。
   それは、内的な自己の完成だけである。
   この大きな任務が残っているということについて、
   全く自覚していない老人が世間には多すぎる。・・・

   老年は、若い時には忙しさに取り紛れてできなかった
   自分の完成のために、まさに神から贈られた時間を
   手にしているのである。・・            」(p214)


若い時に、ちっとも見えなかった『感謝』のスタートライン。
この年になってもまだ自覚できず、若いつもりでいる私にも、
何だか、境界線のスタートラインが前に見えはじめたような。

ということで、最後にこの箇所を引用。

「  パウロは三番目の幸福の鍵として感謝を挙げる。
   これはまさに最後の決定的な幸福の鍵である。

 ・・感謝はことに老年のもっとも大きな事業である。
   もし人間が何か一つ老年に選ぶとしたら、それは
   『 感謝する能力 』であろう。

   もっとも、この点についても、
   私たちは他人に厳しくあたってはいけない。
   たとえば、私はいま比類なく健康だから、
   私はいつも感謝する喜びを感じていられる。
   言葉を換えて言えば、健康を計るバロメーターの一つは、
   感謝ができることであり、人の行為を善意に解釈できることである。
   しかし少しでも不健康になると、
   とたんに私は自分中心になって、
   もう人に感謝する余裕などなくなってしまう。
    ・・・・・                」 (p244)

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gooblogが終了の年に。

2025-04-18 | 道しるべ
gooblogへ参加させていただく以前には
bk1というところで楽しんでおりました。
今年11月にgooblogが終了するとのこと。
行きつけ食堂が店仕舞してしまうようで・・・。

思い浮ぶ本がありました。
福田和也著「保守とは横丁の蕎麦屋を守ることである」(河出書房新社)。
gooブログでの楽しみは、レストランとか食堂の紹介訪問で、
それこそ、横丁の食べ物やへ立ち寄った気分を味わえるのでした。
ありがたいことには、まだ11月までは、その気分を味わえる。


そして、思潮社の現代詩文庫「続・石原吉郎詩集」
詩の一行をかえて引用してみることに。

    gooblogが終了する年に
    かぜをひくな
    ビールスに気をつけろ
    ベランダに
    ふとんを干しておけ
    ガスの元栓を忘れるな
    電気釜は
    八時に仕掛けておけ

    ( 元の詩の題は、「世界がほろびる日に」p59 )


ちょうどいまは、曽野綾子著「心に迫るパウロの言葉」を
読んでいるので、最後に、この本から引用してみます。


「・・・私にとって、
 『 あの方は好きなことをなさったんですよ 』というのは
 深い尊敬の言葉である。
 『 好き勝手をした 』ということではない。なぜなら、
 世間では、ほんとうに好きなこと
 ( こうありたい、と自分に願っていること )
 をできる人というのは、そんなに数が多くはないからである。

 そういう仕事は一人でやらなければならないことも多いし、
 もし、組織の中でそれをやろう、としたら、
 フリーの立場よりももっと手ごわい反対を受けることも多い。
 ・・・・                」( p178 単行本 )
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ひょっとすると

2025-04-05 | 道しるべ
せっかく、谷川俊太郎をテーマにとりあげているので、
気になっている本を紹介。

世界文化社から出ていた、大岡信著「しのび草」(1996年)は
副題に「わが師わが友」とあります。ここに、谷川俊太郎について
書かれた文が載っています。

まずは、気になった箇所を引用。

「・・・彼(谷川俊太郎)の詩を読んでみれば明らかなように、
 谷川には日常生活そのものへの執着など、ほんとうはありえないのである。
 
 彼はいわば、日常生活に足をすくわれずに自らの精神の清澄を保つ
 ことを絶対的に必要とするがゆえに、日常生活をさしあたり
 可能な限り規則正しく、建設的に営んでいこうとしているのである。
 
 彼は逆説的建設型詩人であって、その内面には一個のウチュウジン
 が住んでいる、といってもいい。   」(p60)

このあとに、大岡氏との対談での谷川さんの言葉が引用されています。

『 実生活の上でも自分にかまけずにいられる状態、
  つまり自分が消滅したにひとしい状態がいいんだよ。

  自分というものがニュートラルであって、
  不幸でもなく幸せでもなく、自分について
  思い悩むことも誇るべきこともなくて、
  自分が消えてしまったような状態が、
  おれにとって至福につながっているところがある。・・  』

谷川はこのような自己認識を私(大岡)との再度の対話で
何度も繰り返し語った。・・・・             」(~p61)


このあとに、フェルメールを見る谷川俊太郎が語られております。
うん。長くなるのでカット。
そういえば、
ユリイカ「谷川俊太郎による谷川俊太郎の世界」11月臨時増刊(1973年)。
その雑誌の最後に『ギャラリイ』とあり、写真が並びます。その紹介。

   エトルスクの彫刻
   シェーカー教徒の室内
   コルトの拳銃
   スティーグリッツの写真「空の歌」
   ミューザーの紙飛行機
   良寛の書(道元)
   フェルメールの絵(デルフト風景)
   シトロエンの自動車・2CV(二玄社「世界の自動車8」より)
   サーバーの漫画


この雑誌は、昭和47年に発売されていて、その頃に私は
購入していたはずです。最後のこのギャラリーの写真が気になって、
この雑誌をとっておきました。それから30年ほどたってから、
道元やら良寛やらを好きになってゆきました。

大岡さんの『紙一重』の言葉も、この文の中に
対談の中の箇所として引用されております。
最後にそこを引用しておくことに。

谷川】  僕は夢を見たり幻想したりする必要がないくらい、
    日常のものを見ているだけで十分に不思議で満足なんだな。
    コップが不可知なものに見え、だからそれが美しく見え、
    正確にとらえたいと思う。・・・・
    日常の世界の、たとえば朝起きて顔を洗うということに興味があり、
    それでびっくりしちゃってるようなところがあるわけだよ。

大岡】 ひょとすると、現実との関係が
    ほんとうは紙一重で切断されているから、
    そういうことに興味が持てる。
    医者だったらそう言うかもしれないよ。(笑)

谷川】 おそろしいことを言うなあ。(笑)         (p61)  

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今もおりにふれて。

2025-04-04 | 道しるべ
谷川俊太郎の父・谷川徹三に
「仏教のつながり」という短文がありました。
それを引用してみます。
こんな箇所があります。

「・・今の私の東京の家のように、仏壇も神棚もない家の空気・・
 私の家にはいまいくつかの仏像がある。いまこの文章を書いている
 書斎の床の間にも六朝の小金銅仏が飾ってある。
 しかしこれは信仰の対象としてではない。
 鑑賞の対象としてである。・・ 」

こういう合いの手のような文をまじえながら、
徹三少年の『仏教のつながり』が書かれております。
ここは詳しく引用。

「私の生まれた家には仏間という一室があり、
 そこには仏壇というものが置いてあった。
 上におの字をつけて、お仏壇という方が、
 私の子どものころの家庭の雰囲気を示すためには、
 いっそう適切であるかもしれない。・・・・
 そのお仏壇に向かって子ども達は
 朝夕二回礼拝をさせられた。
  
 私の家の宗旨は浄土宗で、父は晩年には、
 毎晩そのお仏壇に灯明(とうみょう)をあげて、
 法然上人の一枚起請文をあげてよんでいた。・・・

 そのころ私の町に別宅をもっていて、暑い季節などに
 しばらく滞在していた母の伯母、『安田の伯母様』というのが、
 これまたたいへんな真宗の信者で、ほとんど口に念仏をたやさない
 という人であった。・・・長い長いお経のあとで、
 また『オフミサマ』というものがよまれる。その時には
 頭を下げたままでいっそううやうやしくそれを聴かねばならない。
 後にはそれが、蓮如上人が真宗の要素をやさしく説いて門徒に
 与えた八十通の手紙を集めたものであることを知ったが、
 わんぱくには最後の『 あなかしこあなかしこ 』というのが
 いつもおかしかった。・・・・

 ・・・それが東京の高等学校へはいってから・・・
 私は自分というものについて・・・考え、悩むようになった。
 ・・・何年かの模索や漂泊のあとで、私は『歎異抄』によって、
 やっと暗やみからはい出ることができた。

 ・・・『歎異抄』を知らず、近角(ちかずみ)先生を知ることが
 なかったなら、当時の私はどうなっていたのであろうかと
 今もおりにふれて考えることがある。

 しかしさらに考えると、私がそのようにして『歎異抄』を知り、
 近角先生を知るようになったのは、私の子どものころの家庭の
 雰囲気が知らず識らずの間に私に与えていた影響に促されての
 ことではないか。信仰のことには全く無関心でいても、
 自然に耳にはいり、自然に記憶にとどまる言葉もある。
 香の匂いが私はいまでも好きだが、
 その香の匂いに縁のある薫習(くんじゅう)ということの
 意味をここでも私は認めねばならないように思う。・・・    」

 ( p194~196 「父・谷川徹三が遺した美のかたち 愛ある眼」淡交社 )

はい。短文から引用させてもらいました。
谷川俊太郎の詩を取り押さえようとすれば、
スルリとかわされる気がするのですが、
この谷川徹三氏の言葉には、ツボがありました。
法然上人の『 一枚起請文 』
蓮如上人の『 オフミサマ 』
そして『 歎異抄 』と
読むだけならば、私にでも出来、手がとどきそうです。

谷川徹三氏はこう書いておりました。
『 香の匂いが私はいまでも好きだが、
  この香の匂いに縁のある薫習(くんじゅう)という
  言葉の意味をここでも私は認めねばならない・・・  』


芸術新潮3月号の追悼谷川俊太郎。
そのp32に載っている写真の説明文は
『 小学校の入学後間もない1938年5月、
  阿佐ヶ谷の家の庭で。父と母に挟まれ・・ 』
とありました。足下の庭には芝生がありました。
この写真を、谷川俊太郎は身近に見つづけていたのだろうなあ。
ある日、それが言葉になる。芝生が匂いたつように思えてきます。


     芝生     谷川俊太郎

   そして私はいつか
   どこかから来て
   不意にこの芝生の上に立っていた
   なすべきことはすべて
   私の細胞が記憶していた
   だから私は人間の形をし
   幸せについて語りさえしたのだ
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クスノキと、オリーブの枝。

2025-03-23 | 道しるべ
日本歴史に登場する『 本地垂迹説 』を思い浮かべるのでした。
あらためて、辻善之助著「日本仏教史」の第一巻をひらくことに。

「本地垂迹説は、仏教が日本の国民思想に同化したことを示すものであって、
 我国民があらゆる外来の文化を吸収し、之を咀嚼し、之を同化する力に
 富めることを示す多くの例の中の一つである。 」

「・・この説は、その初に於ては、神と雖も衆生の一つで、
 仏法を悦び、仏法を崇び、仏法によりて救済せられ、
 仏法によって業苦煩悩を脱するといふ思想から出たのであって、
 神と仏とは固より別物として並び行はれて居たのであるが、
 その思想が漸次発展して、神仏同体の説となり、
 仏教の教理を以て之が解釈を試み、つひに極めて煩雑なる組織を立て、
 その間にいろいろと附会して、所謂山王一実神道及び両部集合神道など
 といふものができて、某の神は某の佛の権化であると、一々その解説を
 つけるやうになったのである。・・・・」(p436~437岩波書店昭和35年)

それでは、仏教の次に来るものは?

白洲正子著「十一面観音巡礼」(講談社文芸文庫)の最後の方に、

「 本地垂迹説という思想は美しい。
  完成するまでには、少くとも二、三百年の年月がかかっている。
  はたして私達は、昔の人々が神仏を習合したように、
  外国の文化とみごとに調和することが出来るであろうか。 」
                    ( p264 文庫 )

はい。この文庫を紹介していると、あれこれ、ながくなるので、
ここには、文庫の最後にある小川光三氏の「人と作品」から引用

「 例えば、日本の古い木造仏、特に飛鳥や奈良時代の彫像の材質は、
  主として樟木(くすのき)である。だがこの樹は、暖地性のため
  朝鮮や中国の北・中部には自生せず、これを用材にした彫像もない。

  それに対して、日本で使用されるクスノキとは、奇(くす)しき木、
  奇瑞をもたらす霊木のことで、神の依る神聖な樹と考えられていた。
  したがって、これを用材とした仏像は、日本古来の信仰が、
  新来の仏教文化と結合したことを物語っている。 

  『日本書紀』欽明天皇14年の条には、
  大阪湾の和泉灘(いずみなだ)に、厳かな音を響かせ、
  日の光の如く輝く樟木の大木が流れ寄り、これで
  二体の菩薩像を造ったとある。この記事が、
  日本で造像された仏像の初見で、仏教伝来の当初から、
  仏像は霊木で造るものとされていたのであった。    」(p303)


さてっと、ここでパウロ。
曽野綾子著「心に迫るパウロの言葉」(海竜社)の目次に
「 渋柿甘柿 接ぎ木された木は新しい生を生きる 」というのがある。
そこには、パウロの「ローマ人への手紙11・16~24」の引用がありました。

「 麦の初穂が聖なるものであれば、練り粉全体もそうです。
  根が聖なるものであれば、枝もそうです。
  
  しかし、枝のあるものが折り取られ、
  野生のオリーブであるあなたがその代わりに接ぎ木され、
  元の木の根から来る豊かな養分にあずかっているからといって、
  元の木の枝に対して誇ってはなりません。たとえ誇るとしても、
  あなたが根を支えているのではなく、根があなたを支えているのです。
  ・・・・・   」(p47~48)

曽野さんの文は、雑誌に連載されたもので、この文も8ページほどです。
その短文の最後を引用させてください。

「信仰を持つと、人間は確かに180度変わる。しかしその変わり方を、これほど個性的にしかも正確に表現する、ということは並大抵のことではない。

幹は渋柿のものでありながら、枝に甘柿の実をならす私たちは、
しかし決して誇ることはできないのである。私たちの出身は、
あくまで渋いものであることを忘れてはならない。・・・・    」(p50)


白洲正子さんの宿題を、あらためて反芻します。

「 はたして私達は、昔の人々が神仏を習合したように、
  外国の文化とみごとに調和することが出来るであろうか。 」


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素朴な人間の常識

2025-03-20 | 道しるべ
東日本大震災で、私に印象残った言葉に、
『地涌菩薩』と『パウロ』とがありました。
ここでは、地涌菩薩をとりあげます。

門田隆将著「死の淵を見た男」(PHP・2012年)
瀬戸内寂聴・梅原猛対談「生ききる。」(角川ONEテーマ21新書・2011年7月)

この2冊に、地涌菩薩という言葉が出て来ておりました。
ここには、梅原氏の対談の言葉を引用しておきます。

「 『地涌(じゆ)』という語は『法華経』の
  『従地涌出品』第15に出てきます。

  『従地涌出品』という通り、いわゆる『本化(ほんげ)の菩薩』は
  天から舞い降りてくるのではなく、
  大地から湧き出してくるという考えです。
  ・・・この四菩薩は大衆の中にいて、大衆を導く仏です。
  というより、大衆自身。今、被災者のことを考えると、
  彼らこそ『地涌』の菩薩そのものなんです。
  だから必ず、地から湧き上がる力を持っている。
  私はそう考えます。 」(p52)


この『地涌菩薩』をどう捉えればよいのかと思っておりました。
そしたら、内村鑑三著・鈴木範久訳「代表的日本人」(岩波文庫)に
ヒントになる言葉があったのでした。この文庫には
最後の方に内村氏による「ドイツ語訳版後記」という文が載っております。
今回は、そこを最後に引用しておきます。

「・・私は宗教とはなにかをキリスト教の宣教師より学んだのでは
 ありませんでした。その前に日蓮、法然、蓮如など、
 敬虔にして尊敬すべき人々が、私の祖先と私とに、
 宗教の真髄を教えてくれたのであります。・・  」(p181)

「 すなわち、天がいかに純粋であっても、天だけでは実を結べません。
  キリストの言葉さえも、石地(いしじ)に落ちたならば、
  たちまち枯れてしまいます。
  あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍の実を
  結ぶためには、良き地に落ちなくてはなりません。
  神の恵みは、天からと同じく地からも来なければなりません。
  さもなければ良き実を結ぶことはできません。
  人間の地上に属する要素を軽んじ、万人に対して
  ひとしく天からの福音だけで足ると考えるような信仰は、
  素朴な人間の常識に反します。
  それは実情にあわない話です。・・・  」(p183)

この内村鑑三の文は、このあとにパウロへの言及がありました。
なんだか、地涌菩薩とパウロとが結びつくような気がしました。

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父の芝生。

2025-03-17 | 道しるべ
芸術新潮3月号の特集は、追悼谷川俊太郎とありました。
うん。気になって購入。雑誌の写真を覗くことに。
そういえば、谷川俊太郎を最初に読んだのは、
写真のはじに言葉が並んでいる感じの詩集でした。
何だか、いっぱい詩集を出していたので、ついてゆけず、
手がとどかずに「 すっぱい葡萄 」よろしく、
読まずに、あれこれ思っておりました。
その人の追悼号だというので、手に取ったしだいです。
活字は読まず雑誌に採りあげられている写真をめくる。

なかに、『 父・俊太郎さんのこと 』と題して
長男・谷川賢作氏と、長女・谷川志野さんが文を寄せております。
お二人の写真入りの文を読みました。

ああ、俊太郎さんは、長男に賢作とつけたんだ。
すぐに、思い浮かぶのは、宮澤賢治でした。
谷川俊太郎の父・谷川徹三氏の本に、
「 宮沢賢治の世界 」という本があったなあ
( 読んでいないけれど )などと思います。

谷川俊太郎の詩集
「 夜中に台所でぼくはきみに話しかけたかった 」(青土社・1975年)。
のはじまりの詩は、『 芝生 』でした。

     芝生

  そして私はいつか
  どこかから来て
  不意にこの芝生の上に立っていた・・・・・

と、はじまる7行ほどの詩でした。
長男さんの名前を見た時に、
この芝生というのは、父谷川徹三のことじゃないのか?

はい。写真を見ながら、長男・長女の文を読みながら、
そんな父の芝生を思い描いております。
今度、谷川徹三著「 宮沢賢治の世界 」をひらくことに。

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人生の助っ人。

2025-03-13 | 道しるべ
産経抄(2025年3月6日)の曽野綾子追悼コラムのなかで、
曽野綾子著「夫の後始末」へと触れておられた。
それが気になり古本で注文(講談社・2017年)。届く。

三浦朱門は、1926年(大正15年)生まれ。

「夫・三浦朱門は2015年の春頃から、様々な機能障害を見せるようになった。
 内臓も一応正常。癌もない。高血圧も糖尿病もない。
 私と違ってすたすた長距離を歩く人であった。しかし
 その頃から時々、すとんと倒れるようになった。・・・・

 どこが悪いか検査するための入院をしたのが2015年の秋だが、
 その短い入院の間に、私は日々刻々と夫の精神活動が
 衰えるのを感じた。ほんとうに恐ろしいほどの速さだった。・・  」
                          (p6~7) 

作家・曽野綾子氏による、大局的な視点が語られております。

「 この本を書く理由は私が現在、多くの日本人が直面している
  典型的なケースを生きているからである。・・・

  気がついていても、どうにもできないこともある。・・・
  ほとんどの人が覚悟もできないままに、思ってみなかった
  新たな問題に直面しつつ生きることになる。

  そうした失敗談の報告者として、作家は適任だろう、と思った・・
  作家は、美も醜も、道徳もふしだらも、成功も失敗も、
  同じような姿勢で書ける訓練を積んでいる。
  だからうまくいけば報告書になるのである。  」

この報告書のなかには、友人たちの言葉がところどころに
はさまれておりました。その友人たちのなかには

「 私はカトリックの修道院の経営する学校に育ったので、
  友人の中には修道女が多い。常にその中の何人かは、
  アフリカの僻地に入って、子供たちに字を教えたり、
  小さな診療所で働いたりしている。  」

こういう方々や他の方々の言葉も混じります。
『 「話さない」は危険の兆候 』という箇所を紹介。

「 ・・老人が言葉少なになったら、一つの危険の徴候である。・・・

  会話も同じである。幼いとき、若いうちから、年相応の
  爪先立ちしない自然な会話力に馴れるためには、
  国語力も、自分を保つ勇気も、いささかの知識も、
  他者に教えてもらうという謙虚な姿勢も、
  すべて学んでおかないと、老年の生活に滑り込めない。 

  ・・・・だから私たちは会話のできる人として
  老後を迎えなければならない。
  自宅で家族に面倒を見てもらうにしても、
  老人ホームで暮らすにしても、
  『 ありがとう 』を言える習慣に始まる会話を続けることは、
  むしろ老人の任務と言っていいほどである。  」( p84~86 )


 聖路加病院の故・日野原重明氏との対談での
 『 やってはいけない三つ 』のことがこの本の中に
 二回紹介されておりました。はい。考えさせられます。

産経抄の追悼文に「おばさん」とありました。
その話が登場するのも、この本にありました。

「・・・息子は独立し、夫は私を『 おい 』と呼ぶ人でもなかったから、
 或る年、息子の友達が遊びに来て、私のことを『 おばさん! 』と呼んだ
 のを、これは便利な呼び方だと思ったらしい。
 以来しばしば『 おばさん 』と呼んだ。・・・・

 おばさんという呼び方には、様々な字が当てはまるが、
 いずれにせよ、人生の助っ人になるには、いい立ち位置だ。
 朱門は私に、人生のおばさんになることを望んだのかもしれない。」
                  ( p226~228 )


はい。もう一度読み直そうと思うのでした。
これは、「週刊現代」2016年9月24・10月1日号~2017年7月1日号の
連載を、単行本にあたり、加筆修正を行いました。と最後にありました。



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山本七平

2025-01-17 | 道しるべ
石破茂首相・岩屋毅外相とお二人のことを思うと、
たとえば、日独伊三国同盟が思い浮かびました。
現在なら、日中韓三国同盟として浮かびあがる。
なぜ、こんなことを想起しかねないのか自問してみる。

そんな時には、山本七平が答えてくれるかもしれない。
まずは、さくら舎から出版された山本七平の本の題名。
ここには、それを検索列挙しておくことに。

山本七平著『 日本はなぜ外交で負けるのか 』
山本七平著『 新聞の運命 』
山本七平著『 なぜ日本は変われないのか 日本型民主主義の構造 』
山本七平著『 戦争責任と靖国問題 誰が何をいつ決断したのか 』
山本七平著『 日本人には何が欠けているのか 』
山本七平著『 日本教は日本を救えるか』(イザヤ・ベンダサン 七平訳 )
山本七平著『 精神と世間と虚偽 混迷の時代に知っておきたい本 』
山本七平著『 「知恵」の発見 』
山本七平著『 戦争責任は何処に誰にあるのか 』

これら題名を見てまずどの本から読み始めましょう。
安倍晋三氏亡き後、時代をどう読んでゆけばよいか。
はい。救いを求めて私は山本七平から読んでみます。
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年の暮れの、中〆めの挨拶。

2024-12-29 | 道しるべ
今年は12月になってから庄野潤三を読んでいます。
といっても、遅々として読みすすめませんけれど。
楽しい。始めて読むせいか躓くようにハッとする。
ハッとすると、立ち止まっちゃうのは何時もの癖。
全集の月報には、さまざま交際のひろがりがあり、
枝葉を広げるように、周りを思いめぐらす楽しみ。

ということで、来年も『 貫く棒の如きもの 』
つながりで、庄野潤三を読んでいると思います。
そこからつながる横拡がりのようにたどる読書。

ということで、歳末までブログ更新予定ですが、
いちおう、飲み会での中締めという〆めの挨拶。
こんなブログですが、来年もよろしく願います。
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お年玉と、ナマハゲと、サンタ。

2024-12-27 | 道しるべ
久米仙人は修行のあとに、まずは空を飛べたのですが、そういえば、
サンタクロースもトナカイと共に空を飛んでおりました。
ちなみに、ネット検索すると、

『 ドイツの古い伝承では、サンタクロースは双子で、
  一人は紅白の衣装を着て良い子にプレゼントを配り、
  もう一人は黒と茶色の衣装を着て悪い子にお仕置きをする・・
  現在、ドイツでは聖ニコラウスは「シャープ」と「クランプス」
  と呼ばれる二人の怪人を連れて街を練り歩き、
  良い子にはプレゼントをくれるが、悪い子にはクランプス共に命じて
  お仕置きをさせる。 』

という箇所がでてくる。比較でナマハゲも出てきておりました。


庄野潤三著「文学交友録」(新潮文庫)の、佐藤春夫の章に、
三歳の男の子をつれて、佐藤春夫氏のお宅へ伺う場面がありました。
印象に残るので、庄野潤三全集第十巻(講談社)をひらくと、
その場面が載っております。それは、
講談社版・佐藤春夫全集の月報に、庄野氏が書いた文でした。
その月報の全文をあらためて読むと、最後にこんな箇所があります。

『 世の中には、とかく自分の子供は可愛いがるが、
  よその子供は見向きもしないという人間が多い。
  佐藤先生は、自分の子供であるとほかの親の子供であるとを問わず、
  わが前に現われて、『 思邪(おもいよこしま)無し 』
  というふるまいがありさえすれば
  ( こまっしゃくれたのは論外として )、
  すべてそれを楽しむという風があたのではないか。
  区別なんか無かったように思われる。

  私たちは、よくお近くにいる竹田さんの小さいお嬢さんが
  お正月に晴着を着て、打ち連れて先生のところへ挨拶に見えると、
  心からこれを歓迎するというまなざしで頷いて居られたのを思い出す。
  草木や川や雲をめでるように、
  先生は子供をめでて居られたのである。  』
            ( p256~257 庄野潤三全集第十巻・講談社 )

  こういう下地があってこその、お年玉なのでしょうか。
  サンタクロースがプレゼントを配るようにして。
  はい。そんなことを、思い浮かべました。

  そうそう。クリスマスが終わって、
  『 なまはげ 』が活躍するのは、
  昔は小正月の1月15日だったのが、
  現在は12月30~31日におこなわれているようです。



コメント (2)
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ピアノの上のお供え。

2024-12-26 | 道しるべ
庄野潤三著「野菜讃歌」(講談社・1998年) の最後には、
日本経済新聞に掲載された「私の履歴書」がありました。

庄野潤三氏の家のことが、気になります。
たとえば、仏壇はあるのだろうか? とかね。
「 大きなかめ 」はあることがわかりました。

『 私の書斎に大きなかめが置いてある。古備前の水がめ・・ 』
                ( p239 「野菜讃歌」 )

『 ・・ピアノの近くに置いてある。水がめなのに、
  不思議にピアノのそばにあるのがよく似合う。
  家の中にあっても、ちっとも気にならない。
  ときどき、掌でさすってみる。  』( p241 同上 )

さて、『私の履歴書』から抜き出しているのですが、
履歴書の最後から引用しておきます。

『 書斎のピアノの上に父と母の写真を置いてある。
  毎朝、朝食の間に妻はお茶をいれて、
  この写真の前へ持って行く。それが私たちの一日の始り。 』
                       ( p251 )

どうやら、庄野家には、仏壇がないらしい。

『 父母の命日、二人の兄の命日にかきまぜを作って、
  ピアノの上にお供えし、二人で手を合せる。お盆やお彼岸にも作る。

  ・・長男と・・次男に知らせて、取りに来させる。
  会社が休みの日で、次男が車に子供を乗せて来ると、
  先ずピアノの前に並んで手を合せてくれる。
  私も妻もうしろで手を合せる。 』 ( p252 )


この『私の履歴書』の最後は、
大坂へお墓参りに行った際に、
『 ・・帝塚山の兄の家へ行って、お仏壇に手を合せる。・・ 』(p253)

という箇所がありました。
うん。やはり、東京の庄野家には仏壇はないようなのです。

ちなみに、お墓については、長女の夏子さんの文にありました。

『 ・・父と母はよく訪ねてきてくれて、
  サンドイッチや昼寝を楽しんでいました。
  ある時、近くのお寺に案内しました。
  深い山の中に静かに建つ、曹洞宗の立派なお寺です。
  明るい墓地は小鳥のさえずりが聞こえ、
  お正月は大人も子供もお参りに来て
  『 おめでとう 』の声があふれます。

  先祖を大切にする父は、とても気に入り、
  ここにお墓を作りました。
  南足柄市にある、玉峯山長泉院です。
  私にお墓のお守りを託したのだと思います。・・  』
        ( p78 「 庄野潤三の本 山の上の家 」 )




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元気にしております

2024-12-18 | 道しるべ
庄野潤三著「夕べの雲」(講談社文芸文庫)も、
「山芋」の章を読んでから、残り少ない章を読みました。

「山芋」の次は「雷」でした。その「雷」のなかに、
浜木綿を大阪の生家の庭から掘って、東京まで持って帰ったことが
書かれております。

「 大浦が生家の庭で兄に手伝って貰って、
  この浜木綿を株分けしたのは、小学三年生の晴子を連れて、
  母の病気見舞いに大阪へ帰った時であった。その年の二月に
  正太郎が生れたので、細君と安雄と赤ん坊は留守番をした。

  二人が帰ったのは、丁度お彼岸のいい天気の日であった。
  母は思ったよりも元気で、大浦が赤ん坊の写真を見せると、
  うれしそうに手に取って眺めていた。一年前に大浦の母は
  脳血栓で倒れた。それ以来、失語症になって、
  病気がよくなってからも、
  みんなと話をすることが出来なかった。

  それで、こちらの方からいろんなことを話しかけるのだが、
  あとは母の表情を見て、自分の話が通じていると思うよりほかない。
  物足りないといえば、物足りない。しかし、
  生命を取り戻したのに、贅沢はいえなかった。・・・・ 」(p230∼231)

「 彼は母にいつ東京へ帰るということはいっていなかった。
  母が苦しんでいる時でなくて、楽になって眠っている時に
  そばを離れることが出来たことを彼は仕合せに思った。
  それから半月ほどで大浦の母は亡くなった  」(p236)


『 夕べの雲 』をさっとですが、読み終えたので、
次は庄野潤三のどの本を読みましょう。と思っていたら、
昨日注文してあった古本が届く。
庄野潤三著『 ワシントンのうた 』(文芸春秋)でした。
ぱらりとひらくと、『 ザボンの花 』のことが語られております。

「・・私にとってははじめて書く新聞小説である。
 どんな風に書けばいいか分からなくて、まるっきり自己流で書き始めた。

 新聞小説は、明日の続きがどうなるかと読者に期待をもたせる
 というのだが、私はそんなこと、全く考えないで、
 自分の好きなように書いた。

 大阪から東京へ引越して来て、
 麦畑のそばの家に住むことになる矢牧一家が、いったい
 どんなふうに新しい土地での生活に馴れてゆくか、
 どんな出来ごとが待ちかまえているかを書くことにしたのである。

 矢牧一家の新しい土地での生活を、
 正三となつめと四郎の三人の子供たちの上に起る
 出来ごとを中心に書いてゆくことにしたのである。
 
 私は、大阪の生家に大きな病気から立ち直った母がいて、
 日本経済新聞をとって、毎晩、私の連載を読んでくれ、
 よみ終ると切抜を作ってくれていることを聞いていた。

 そこで、病気の母に向って、
 『 私たち、元気にしております。こんなことをして暮しております 』
 と知らせるつもりで『 ザボンの花 』を書き続けた。
 母に読んでもらうために書いた小説である。・・ 」(p142∼143)


庄野潤三の年譜をひらくと、
昭和30年(1955)34歳に『ザボンの花』を日本経済新聞夕刊に
連載(152回完結)とあります。
昭和39年(1964)43歳に『夕べの雲』を日本経済新聞夕刊に連載
(127回完結)と出てきます。

講談社文芸文庫の終わりの方に、庄野潤三による
「 著者から読者へ『夕べの雲』の思い出 」が載っております。

『夕べの雲』を書くきっかけが語られておりました。

「或る日、私は渋谷から乗った地下鉄のなかで日経新聞の文化部長を
 している尾崎さんと顔を合せた。すると、庄野さん、新聞小説を
 お書きになるお気持はありませんかと訊かれた。

 ・・・・あるいは、挨拶代りにちょっと話してみただけで
 あったのかも知れない。
 ただ、日本経済新聞とは私は縁があった。
 昭和30年に、『 プールサイド小景 』で芥川賞を受賞したあと、
 日本経済新聞から依頼があって、夕刊に『 ザボンの花 』という
 小説を書いた。新聞小説として成功したかどうかということは別として、
 作者としては気持よく仕事が出来た。いい思い出が残っている。

 ほかの新聞からいわれたのなら・・・
 多分、引込み思案の気分の方が強く働いただろう。・・・ 」

はい。このような思い出が書かれておりました。ということで、
『夕べの雲』の次に私が読むのは『 ザボンの花 』にします。
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「 山の上の家 」

2024-12-11 | 道しるべ
今日は、主なき家の草ぼうぼうの畑の周りの細葉刈り。
細葉(マキ)の天辺を平らにする作業。
半日ですまそうと安易にはじめたのですが、
脚立を持ち出したりして一日仕事。それも道路側のみ。

はい。やっつけ仕事で今年はおしまい。
帰ってきたら、古本が届いている。
「庄野潤三の本 山の上の家」(夏葉社・2018年初版で2019年第三刷)
門外漢なので、当てずっぽうの注文でしたが、
目次をみると、「 庄野潤三全著作案内 」という箇所がある。
以前に古本屋のリストに並んでいた、庄野潤三の本たちの
題名が、どうも、全集以降の本でしたので、これは
どこから手をつけてよいものだか道案内人がほしかったのでした。
その案内本らしいのでした。有難いなあ。夏葉社さん。

その中に上坪裕介の文がありました。こうあります。

「・・それは平成21年に庄野潤三が88歳で亡くなるまで続けられた。
 『愛撫』で文壇にデビューしたのが28歳の頃だから、
 おおまかに活動期間が60年とすると、その全期間の実に八割、
 およそ50年間をこの生田の山の上を描くことに費やしたことになる。

 そういう意味で『 夕べの雲 』は記念碑的な大きな意味を持つ。
 『 貝がらと海の音 』からはじまる晩年の連作シリーズは
 その集大成であり、庄野は自身の文学を最晩年まで深化、
 成熟させた稀有な作家であった。

 庄野潤三というと初期の・・・・評価された作品を思い浮かべる
 読者も多いだろう。しかし、このようにあらためて振り返ってみると、
 それらの作品が書かれた時期はほんの10年ほどの短い期間であり、
 全体を俯瞰してみれば庄野文学の本筋は『 夕べの雲 』以降の
 作品群にこそあるとわかる。・・・・   」( p103∼104 )

ありがたい。格好の道案内人に指示された気がしております。
今年も残り少なくなりました。12月は庄野潤三を読むことに。


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