和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

山本夏彦と茨木のり子。

2011-12-26 | 地域
「茨木のり子の家」(平凡社)を見れてよかった。
磁石が砂鉄を引き寄せるように、さまざまなことをひきよせてくれる一冊です。まるで、詩集の余白が吸引力をはっきするような味わい。
まずは、枝をのばす前に、幹を確認しておきましょう。
KAWADE夢ムック「花森安治」に、茨木のり子の文「『暮しの手帖』の発想と方法」が掲載されていて、それを読み。思い浮かんで古本の「茨木のり子の家」を注文した、というわけです。

さてっと、「『暮しの手帖』初期の『自分で工夫して建てた家』『坪一万七千円の家』『専門家の建てた十六坪の家』それから別冊として1950年に出された『すまいの手帖』『美しい部屋の手帖』など溜息とともに何度読んだかわからない。・・・」(p138)と茨木のり子さんは書いておりました。

思い浮かぶのは、山本夏彦でした。
どうして、夏彦は工作社を設立したのか、なんだか、それが氷解したような気がします。

1950年(昭和25年)、建築関係書籍出版の工作社を設立。
1955年(昭和30年)インテリア専門誌『木工界』を創刊する。『木工界』はその後1961年(昭和36年)に『室内』と誌名を変更。2006年(平成18年)3月号で一旦休刊するまで、50年にわたって発行された。
1959年(昭和34年)『木工界』に『日常茶飯事』と題してコラムを連載開始。

KAWADE夢ムック「花森安治」には
その山本夏彦の文も掲載されておりました。
すこし引用するとしたら、ここかなあ

「花森は『暮しの手帖』の毎号の文章を依頼原稿を除きすべて自分で書いた。編集部員の書いた文には朱をいれた。表紙も目次もレイアウトも自分ひとりでした。昔の職人の最後の人といわれたゆえんである。」(p128)

ところで、茨木のり子さんは、無事に家を建てました。
「茨木のり子の家」のあとがきは、宮崎治さんが書いております。
はじまりは
「茨木のり子は32歳のとき、従姉妹の建築家と一緒にこの家を設計した。施工は1958年・・・第二詩集『見えない配達夫』が刊行された年であり、それ以降の詩はすべてこの家で書かれたことになる。・・この住居も茨木のり子の作品の一つと言えなくもない。今年で築52年になるが、もしも伯母夫婦(茨木のり子夫婦のこと)に子供がいたらこの家は間違いなく立て替えられていただろう。・・・」

「茨木のり子の家」には手書きの家の配置図や平面図があります。
そこには洗濯機のとなりにアイロン台と書かれておりました。
もう一度「『暮しの手帖』の発想と方法」へもどると、こうあります。

「暮しの手帖研究室とメーカーとの合作になるアイロン台もきわめて使いよく、このアイロン台を一定の場所に置くために、一昨年、一畳半ほどのスペースを部屋をぶち抜いて継ぎ足した。男性にはあるいはわからないことかもしれないが、
  アイロンをかける場所が一定しないこと、
  戸車が軋むこと、
  プラグがぐらつくこと、
  水道栓のパッキングがゆるみ、
  たえずぽたぽた水が垂れること、
これらの不備の、精神に及ぼす悪影響は測りしれない。そんなことは一切気にかからないという女傑も居ることは居て、羨ましくもなるのだが、こちらはそうはなれなくて精神衛生上のためにも、正常に戻さねばという欲求が強い。ヒューズが飛んだとき、あるいはちょっとした電気器具の修理など女でも気軽にできなければならないと思う。それらは学校教育や家庭教育のなかで、知識としてではなく手仕事として教えておいてしかるべきものだが、そうなっていず・・・」(p139)

ここまでが、読みなおすと、当然のように、
「茨木のり子の家」をひらく前の予備知識となっております。
そう。「暮しの手帖」の、読者がここにおり、
それが、たまたま詩人だったわけです。
この写真集「茨木のり子の家」には、ちゃんと書斎の本棚も写されております。詩集の本にまじって、ありました。雑誌「暮しの手帖」。

明日も、「茨木のり子の家」をひらいていきます。

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