和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

水の流れ。知的生産。

2021-08-27 | 本棚並べ
幸田文に『水』と題する文があります。
はい。好きな文です。そこからの引用。

「父(幸田露伴)は水にはいろいろと関心を寄せていた。
好きなのである。私は父の好きだったものと問われれば、
躊躇(ちゅうちょ)なくその一つを水と答えるつもりだ。

大河の表面を走る水、中層を行く水、底を流れる水、
の計数的な話などはおよそ理解から遠いものであったから、
ただ妙な勉強をしているなと思うに過ぎなかった。

が、時あって感情的な、詩的な
水に寄せることばの奔出に出会うならば、
いかな鈍根も揺り動かされ押し流される。
水にからむ小さい話のいくつかは実によかった。
・・・・」

はい。ここから思い浮かぶ、梅棹忠夫の言葉がありました。

「水がながれてゆくとき、
水路にいろいろなでっぱりがたくさんでている。
水はそれにぶつかり、そこにウズマキがおこる。

水全体がごうごうと音をたててながれ、
泡だち、波うち、渦をまいてながれてゆく。
こういう状態が、いわゆる乱流の状態である。

ところが、障害物がなにもない場合には、
大量の水が高速度でうごいても、音ひとつしない。みていても、
水はうごいているかどうかさえ、はっきりわからない。
この状態が、いわゆる層流の状態である。

知的生産の技術のひとつの要点は、できるだけ
障害物をとりのぞいてなめらかな水路をつくることによって、
日常の知的活動にともなう情緒的乱流をとりのぞくことだと
いっていいだろう。

精神の層流状態を確保する技術だといってもいい。
努力によってえられるものは、精神の安静なのである。」
(p95~96「知的生産の技術」岩波新書)


ここに、『水はうごいているかどうかさえ、はっきりわからない。
この状態が、いわゆる層流の状態である。』とあるのでした。

ここから、梅棹忠夫の文章論が出来そうな気がします。

藤本ますみ著「知的生産者たちの現場」(講談社)で、
『遅筆の梅棹さん』をとりあげた箇所に、

「原稿がなかなかすすまなくて困っているとき、
先生は苦笑しながら、こんなことをもらされた。

『ぼくの文章は、やさしい言葉でかいてあるから、
すらすら読めるし、わかりやすい。だから、
かくときもさらさらっとかけると思っている人がいるらしい』
・・・」(p240)

はい、ここまできたら最後は、
小松左京氏の梅棹忠夫文章論を紹介。

「梅棹さんの文章は、一見きわめてとっつきやすく、
肩の力のはいらない平明達意のスタイルでいながら、
短いセンテンスの中に重要な新しい論点、コンセプトが
ぎっしりつまっていて、おのずとそれを丹念にときほぐし
展開していけば、一篇の論文で優に一冊の本ができるほど
問題が豊富にもりこまれている場合が多い。」

ここで、小松さんは、層流の状態を『文章密度』として
指摘されておりました。

「梅棹さんの、特に初期の論文は、きわめて『文章密度』が高い。
一つの単語、用語が、両義的というわけではないが、
二つのちがう方向性を持つ意味をふくんだ、
裏表貼り合わせのような構造を荷っていて、
そこを出発点として、微妙にちがう二様の
文脈(コンテキスト)がのびていく。

一方だけを性急に追っていくと、いつのまにか行きどまりになったり、
とんでもない所にほうり出されたような感じになる。

だが、もう一方の文脈を同時に追うことになれると、
二つの意味の流れのたどりつく次の結節点は、相互に補完的
ないしは意味強勢的な新しい立体的パターンを描き出す。
・・・・・・

私のような締切に追われて書きとばしながら構成を考えるといった、
忙しいジャーナリズム流の文章の書き方になじんできたものにとっては、

結節点になる一つ一つの単語や概念がきわめて厳密にえらばれ、
文章の進行は非常に簡潔で反復の印象をあたえないのに、
『ぬりかさね』のような効果によって対象領域の立体性や、
問題の多面的な厚みが浮かび上がってくる。
こういった梅棹さんの論文は・・・」
(p716 ~ 717 「梅棹忠夫著作集 第14巻」)


うん。小松左京さんが指摘される
「『ぬりかさね』のような・・多面的な厚みが浮かび上がって」
という言葉に出会うと、つい私は幸田文さんの言葉が浮かびます。

『大河の表面を走る水、中層を行く水、底を流れる水』


あっ、そうそう。こんなエピソードも忘れずに引用しておきます。
『知的生産の技術』を担当した編集者小川壽夫さんが、
督促にでかけた際でした。

「原稿はあらたに書き下ろす形になったが、
なかなかスタートしない。

お宅にうかがうと、先生は
トイレの水の流しかたをどう書いたら
お客さんにわかってもらえるか、苦悶されている。

できるだけ短く、ひらがなで二行。
何度も書き直す。
その日は、督促のしようもなかった。」
(p102「知的先覚者の軌跡梅棹忠夫」国立民族学博物館・2011年)






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残暑お見舞い。

2021-08-21 | 詩歌
またしても、暑い日がつづきます。
夏は汗だくで新陳代謝がよくなるようで
好きな季節なのですが、なんせバテます。

気分をかえようと、大野麦風の日本魚類の
錦絵を、図鑑からさがして、コンビニで
カラーコピー。A3サイズに拡大して
大き目の画用紙にセロテープで四隅を貼って、
それでもって、おもむろに壁に貼ります。

この錦絵は、泳いでいる魚の姿を写しているので、
見てると部屋に魚がおよぐような気分を味わえる。

そんな気分にひたっていると、
思い浮かぶ、詩がありました。

      鯛     高橋新吉

 大きい鯛が
 花屋の店先に泳いでいた

 鯛は海でも陸でも同じであるのであろう

 硝子の飾窓の中で
 ダリアと菊の間を
 鯛は悠々と泳いでいた

 お前は誰も相手にすな
 お前ひとりしかいないのだから
 いつもお前自身に話すがよい

 大きい鯛の胴体が
 あじさいの葉のかげを揺れて行つた

 歴史はタタミ鰯の中に
 幾枚も折りたたまれている
 鯛の鱗がアネモネの葉に一枚ついた
 尾鰭がチュウリップの茎に生えている

 サボテンの棘はクリスマスの夜の仮面の帽子にさすべし

 お前は死んだ後のことを知りもしないのになぜ脅えるのか

 白い鉄砲百合や薔薇の花の匂う店先で
 鯛は大きい眼玉を開いて
 口をパクパクして泳いでいる  
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炎暑之候、御病体如何。

2021-08-19 | 手紙
漱石といえば、手紙。そう教えてくれたのは、
出久根達郎著「漱石先生の手紙」(NHK出版・2001年)。

うん。それから夏目漱石の手紙を読もうと思ったのは
我ながらよかったのですが、けっきょく読まず仕舞い。

岩波文庫の「漱石・子規往復書簡集」も
買ったのですが、読まずに本棚に置かれたままでした。
はい。この機会にちょっとひらいてみます。

明治22年8月3日
   牛込区喜久井町一番地 夏目金之助より
   松山市湊町四丁目十六番戸 正岡子規へ

そのはじまりは

「炎暑之候、御病体如何・・・・
 
 近頃の熱さでは無病息災のやからですら胃病か脳病、
 脚気、腹下シなど様々・・・・

 必ず療養専一摂生大事と勉強して女の子の泣かぬやう
 余計な御世話ながら願上候。
 さて悪口は休題としていよいよ本文に取り掛かりますれば
 ・・・・・・・・」

はい。これは時候の挨拶だけ引用して、
次に、9月15日の正岡子規への手紙は

「・・・・貴兄漸々御快方の由何よりの事と存候。
小生も房州より上下二総を経歴し、去月30日始めて帰京仕候。

その後早速一書を呈するつもりに御座候処、
既に御出京に間もあるまじと存じ、日々延頸(くびをながく)
して御待申上候処、御手紙の趣きにては今一ヶ月も御滞在の由
随分御のんきの事と存候。

しかし此に少々不都合の事有之(これあり)。
両三日前小生学校へ参り点数など取調べ候処、
大兄三学期の和漢文の点及ビ同学期ならびに同学年の体操の点
無之(これなき)がため試験未済の部に編入致をり候が、
右は如何なる儀にて欠点と相成をり候哉。

もし欠点が至当なら始業後二週間中に受験願差出すはずニ御座候間、
右の間に合ふやう御帰京可然(しかるべく)と存候。・・・・・・・

小生も今度は・・ぶらぶらと暮し過し申候。
帰京後は余り徒然のあまり一篇の紀行ような妙な書を製造仕候。
貴兄の斧正(ふせい)を乞はんと楽みをり候。

先は用事のみ。・・なるべくはやく御帰りなさいよ。さよなら。」


うん。子規の落第の心配をする漱石の手紙。
落第といえば、寺田寅彦と漱石が結びつく。

ということで、寺田寅彦の「夏目漱石先生の追憶」
のはじまりを最後に引用。

「熊本第五高等学校在中、第二学年の学年試験の終ったころ
のことである。同県学生のうちで試験を『しくじったらしい』
二、三人のために、それぞれの受け持ちの先生方の私宅を歴訪して、

いわゆる『点をもらう』ための運動委員が選ばれたときに、
自分も幸か不幸かその一員にされてしまった。

その時に夏目先生の英語をしくじったというのが自分の親類
つづきの男で、それが家が貧しくて人から学資の支給を受けていたので、
もしや落第すると、それきりその支給を断たれる恐れがあったのである。

初めてたずねた先生の家は白川の河畔で、藤崎神社の近くの閑静な町で
あった。『点をもらいに』来る生徒には断然玄関払いを食わせる先生も
あったが、夏目先生は平気で快く会ってくれた。

そうして委細の泣き言の陳述を黙って聴いてくれたが、
もちろん点をくれるともくれないとも言われるはずはなかった。

とにかくこの重大な委員の使命を果たしたあとでの雑談の末に、
自分は『俳句とは一体どんなものですか』という、
余にも愚劣なる質問を持ち出した。

それは、かねてから先生が俳人として有名なことを承知
していたのと、そのころ自分で俳句に対する興味がだいぶ
発酵しかけていたからである。」
(P142岩波少年文庫「科学と科学者のはなし・寺田寅彦エッセイ集」)

寅彦のエッセイは、ここからが本題にはいるのですが、
とりあえず、落第の話題はここまででした。




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漱石。来年の夏休み。

2021-08-18 | 本棚並べ
本棚から夏目漱石を出してくる。

夏目漱石『坊っちゃん』
高島俊男『漱石の夏やすみ』(ちくま文庫)
中村吉広『チベット語になった「坊っちゃん」』(山と渓谷社)
ちなみに、集英社新書ヴィジュアル版に
『直筆で読む「坊っちゃん」』(2007年)があった。
はい。漱石といえば、わたしは初期作品でもう満腹。

「坊っちゃん」には、清さんが出てくる。

「清は時々台所で人の居ない時に
『あなたは真っ直でよい御気性だ』と賞める事が時々あった。
然しおれには清の云う意味が分からなかった。・・・」

「田舎へ行くんだと云ったら、非常に失望した容子で、
胡麻塩の鬢の乱れを頻りに撫でた。余り気の毒だから
『行く事は行くがじき帰る。来年の夏休にはきっと帰る』
と慰めてやった。」

その田舎はというと
「地図で見ると海浜で針の先程小さく見える。」

「ぶうと云って汽船がとまると、艀(はしけ)が岸を離れて、
漕ぎ寄せて来た。船頭は真っ裸に赤ふんどしをしめている。
野蛮な所だ。尤もこの熱さでは着物はきれまい。
日が強いので水がやに光る。見詰めていても眼がくらむ。
・・・見るところでは大森位な漁村だ。・・・」

うん。坊っちゃんは海水浴じゃなくて温泉でした。

「おれはここへ来てから、毎日住田の温泉へ行く事に極めている。
ほかの所は何を見ても東京の足元にも及ばないが温泉だけは立派なものだ。
・・・・

湯壺は花崗岩(みかげいし)を畳み上げて、十五畳敷位の広さに仕切ってある。
大抵は十三四人漬ってるがたまには誰も居ない事がある。

深さは立って乳の辺まであるから、運動の為めに、
湯の中を泳ぐのは中々愉快だ。おれは人の居ないのを見済しては
十五畳の湯壺を泳ぎ巡って喜んでいた。

ところがある日三階から威勢よく下りて今日も泳げるかなと
ざくろ口を覗いて見ると、大きな札へ黒々と
湯の中で泳ぐべからずとかいて貼りつけてある。・・・」

はい。このくらいにして、つぎは
高島俊男著「漱石の夏やすみ」。

はじまりには、こうあります。
「『木屑録(ぼくせつろく)』は、夏目漱石が
明治22年、23歳のときにつくった漢文紀行である。
漱石は第一高等中学校の生徒であった。
この年の夏やすみを、漱石は旅行にすごした。

・・・・この房総旅行の見聞をしるしたのが木屑録である。
・・・・木屑録は同級生の正岡子規に見せるためにつくったものであるが、
その子規はこの年五月に喀血し、七月はじめに学年試験がおわるとすぐ
郷里松山へかえって静養していた。
子規が東京にもどったのは九月すえであるから、漱石が
子規に木屑録をしめしたのは月末か十月はじめであろう。
子規はこれをつぶさによみ、批評をつけて漱石にかえした。・・・」

この漢文紀行を高島さんは現代語に訳しておりました。
うん。ここを引用。

「房州旅行中、おれは毎日海水浴をした。
日にすくなくも二三べん、
多くは五たびも六たびも。

海のなかにてピョンピョンと、
子どもみたいにとびはねる。
これ食欲増進のためなり。
あきれば熱砂に腹ばひになる。
温気腹にしみて気持よし。

かかること数日、毛髪だんだん茶色になり、
顔はおひおひ黄色くなった。
さらに十日をすぎて、茶色は赤に、
黄色は黒にと変色せり。

鏡をのぞいてこれがおれかと、
アッケにとられたり。」(p20)

はい。もう一冊は
中村吉広著「チベット語になった『坊っちゃん』」
なんですが、もうすっかり内容を忘れてしまってる。
こちらは、夏休みの宿題。


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来年は海へゆかう。

2021-08-17 | 詩歌
今年は、7月29日(木曜日)に一度だけ海へ。
午後4時過ぎに、はけそうな海パンをとりだし。
海へとひたりにゆく。
アセモなどに、海水はテキメン。
汗かきの私に、好都合の夏の海。

今ごろに気になって、金子光晴の詩。
詩集「若葉のうた」にはいっている詩
「若葉よ来年は海へゆかう」をひらく。

詩の最後の行に、こうあります。
『若葉よ。来年になったら海へゆかう。
  そして、ぢいちゃんもいっしょに・・・』

はい。『ぢいちゃん』というのだから、
この詩の金子光晴の年齢は何歳だろう。
そう思い、年譜をひらいてみることに。

昭和38(1963)年 金子光晴69歳。
 6月、乾(息子)、秋田の井上登子と結婚。

昭和39(1964)年 70歳。
 6月、孫娘若葉出生。

昭和40(1965)年 71歳。
 3月20日、三千代と三度めの婚姻届、森家に入籍。
 7月、『若葉よ来年は海へゆかう』を「文芸朝日」に発表。

昭和42(1967)年 73歳。
 11月20日、『若葉のうた』『定本金子光晴全詩集』の出版記念会
(四谷〈主婦会館〉)開催
安東次男、松本亮、坪井繁治、秋山清、井沢淳、吉岡実、他・・出席。

はい。それでは、
『ぢいちゃん』金子光晴71歳の詩を引用


  若葉よ来年は海へゆかう

絵本をひらくと、海がひらける。若葉にはまだ、海がわからない。

若葉よ、来年になったら海へゆかう。海はおもちゃでいっぱいだ。

うつくしくてこはれやすい、ガラスでできたその海は
きらきらとして、揺られながら、風琴(ふうきん)のやうにうたってゐる。

海からあがってきたきれいな貝たちが、若葉をとりまくと、
若葉も、貝になってあそぶ。

若葉よ。来年になったら海へゆかう。そして、ぢいちゃんもいっしょに貝になろう。



うん。今度はじめて、『詩集のあとがき』をめくってみる。
あとがきというより、特別なエッセイとして読む6頁ほど。
最後にはとりあえず、そこからすこし引用しておわります。

「・・・三千代おばあちゃんも、おなじおもひらしく、
これもむかしとった杵柄(きねづか)で、一、二篇の詩をつくって
唱和したいなどと言ひつつまにあはなかったが、本来、
こんな仕事は、彼女の方にむいてゐるのだ。

第一、生涯に一度も日記をつけたことのない僕とちがって、
彼女は、『若葉』の生れた日からのことを毎日ノートに書き、
大小のことを女らしいこまかさで、みな失はずにおぼえてゐて、
僕をおどろかせる。・・・・・・」



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星めぐりのうた。

2021-08-09 | テレビ
昨日は、東京オリンピック閉会式を見ておりました。
聖火台の火が消える前に、児童と女優によるお互いに語りかけるような
歌が印象に残ります。それは、宮沢賢治の『星めぐりのうた』でした。

以前に自分も口ずさんだことがあったので、ぐっと、
身近に思えました。そして聖火台の火が消えてゆき、
花びらが球体へと閉じるように、聖火台が包まれる。

はい。見れてよかった。
そういう視点でみるならば、お盆の踊りの
東京音頭(?)もよかったなあ。
外国の選手も、手振りをまねして動かしていてよかった。
何よりも、日本の選手たちは、地域のお祭りなどにも
眼中になく、オリンピックを目標に励んできたのだから、
その閉会式での盆踊りが何よりもの憩いになったのじゃないか?
たぶん、卓球の日本女子も手振りをまねて動かしておりました。
オリンピックがおわった地点で、さいわいにもお祭りが見れた。

今年は海水浴場遊泳禁止の立て看板があり、
お盆のお祭もどこでも中止なのだろうなあ。
それを閉会式の会場で選手たちは見ている。
テレビで見ている方にも、ホッとした気分。

ということで、東京オリンピック閉会式を見れてよかった。
そう思っております。


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『コピー』の技術。

2021-08-06 | 本棚並べ
梅棹忠夫著「知的生産の技術」なのですが、
再読で、まずはわたしに出来そうなことは、
『コピー』についてでした。

『知的生産の技術』の中の『コピーの技術』。
まず具体的な指摘を新書から、ピックアップ。

①論文公表のまえに、複写して数人の方に読んでもらう。
②手紙のコピー
③原稿のコピー

この順で引用してゆきます。
まずは①。

「・・・アメリカなどでは、論文や著者は、印刷して
公表するまえに、原稿の複写というかたちで、それぞれ
数人の専門家たちに目をとおしてもらう、というのが
ふつうのやりかたである。そういう原稿が、海をこえて
わたしどものところまでまわってくる。
ところが、こちらはそんなことは、したことがない。

印刷され、発表されたものをみているかぎり、
形はおなじだが、内容の吟味という点では、
あきらかに一段階ちがうのである。これを、
技術の不足にもとづく研究能力のひくさと
いわずして、なんであろうか。」(p5)

このあとに、『はじめに』の7ページには

「なぜこういうことが議論の対象にならないのかというと、
おそらくは、それがあまり日常的で、あたりまえのことだからだろう。

たとえば、複写の話しとか、資料の整理法とかも、
とりたてて『技術』というのもおかしいようなことなのだ。」(p7)


②は、新書の第8章「手紙」にありました。

「コピーの問題は重要である。
手紙のコピーをとって保管しておくというのは、
手紙というものにとっての、最小の必要条件だとおもうのだが、

日本では、会社や官庁の公文書は別として、いままで、
個人の手紙のコピーをとることは、ほとんど真剣にかんがえられていない。

これは、まったくおかしいことである。まえにだした手紙で、
自分が何をいったかわからなくなる、というのでは、
あまりにもひどいではないか。

その点、タイプライターなら、まったく問題はない。
・・・・わたしはそのおかげで、どれだけ便利をしたかわからない。

これは、カードとおなじで、われわれを記憶の重圧から
解放してくれるものなのである。すべてを、わすれてしまっていいのだ。
用件を処理するたびに、ファイルをとりだせば、そこには
必要な記録が全部ある。わたしたちは、安心してわすれていられる。

ということは、わたしたちがとりあつかいうる仕事の容量が、
うんと拡大されるということを意味しているのである。」
(p157~158)

はい。タイプライターが、現在はパソコンとしてある幸せ。
パソコンが壊れ、記録が消えてしまったことがある不幸せ。


③は原稿のコピー。
いまでは、手書きの原稿など負の記憶になりつつありますが、
この頃は、まだ手書きの原稿が普通だったころの話しです。

「あるアメリカのジャーナリストと話をしていたとき、
かれは、日本の原稿がすべて手がきであることをしって、
たいへんおどろいた。そして『コピーはどうしているのか』
とたずねた。わたしが、『コピーはとらないのがふつうだ』
とこたえると・・・・・」(p194)

はい。このくらいにして、
『知的生産の技術』の「おわりに」から引用。

「この本にのべたことは、どれひとつとっても、
理屈は、しごくかんたんである。・・・・・

どの技法も、やってみると、それぞれかなりの努力が
必要なことがわかるだろう。こういう話に、安直な秘けつはない。
自分で努力しなければ、うまくゆくものではない。」(p216)

ここに、『かなりの努力が』とあります。
そういえば、鷲尾賢也著「編集とはどのような仕事なのか」に
清水幾太郎著作集を講談社で刊行する経緯が語られる箇所に、
複写機が故障する場面があり、そこが思い浮かびます。
さいごに、そこからの引用。

「岩波書店にも、中央公論にも、文藝春秋にも断られた
という大型企画・・『清水幾太郎著作集』である。・・・

晩年の保守化で清水さんは評判がよくなかったが・・・
それまで刊行されなかった方がおかしい。
会社をなんとか説き伏せて、企画を通してもらった。

さてそれからが大変である。戦前戦後あわせて、
清水さんの単行本は400冊をこえるという。
それを含め、雑誌まですべてコピーした

(複写機が故障し、アルバイトの女性から泣かれ、
結局自分で各3部コピーをつくった)。

それから何を収録するかの選択である。
卒論から遺著まで、ひととおり眼を通した。
厳密なことでは類を見ないお嬢さんの清水禮子さんとのやりとり。
ともかく全18巻・別巻1の全体構成を終え、
一部入稿したところで異動になった。・・・・・」(p28~29)

はい。途方もないコピーで、要した時間が
つい、気になってしまいます。
『結局自分で各3部コピーをつくった』という
鷲尾さんの編集者の仕事を思います。


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知的生産のキツネ。

2021-08-05 | 本棚並べ
梅棹忠夫著「知的生産の技術」の最終章「文章」に、
キツネが登場します。

「じっさい、くるしまぎれに、キツネつきみたいな状態になって、
無我夢中でかきあげてしまうことがおおい。・・・・・

さらさらといくらでも文章がかけるひとをみていると、
ほんとうにうらやましいとおもう。

こういうのは、うまれつきの才能ということもあろうが、
わたしはやはり、教育と訓練におうところがおおきいとおもう。
わたしなども、わかいときに、そのような教育と訓練をうけて
いたら、キツネのたすけをかりなくても、ゆうゆうと文章がかける
ようになっていたであろうが、いまからでは、手おくれである。

それでも、くるしみながらも、すこしずつでも文章をかきつづけ
ることができているのは、やはり、友人たちからおそわった、
文章のかきかたの技術についての知識と経験のおかげだとおもう。

天成の文章家でなくても、一定の技術的訓練によって、だれでも、
いちおうの文章はかけるようになるものと、わたしは信じている。」
(p199~200)

はい、スラスラと書けると噂の加藤秀俊氏は、その著
「わが師わが友」の「社会人類学研究班」のなかで、

「梅棹さんは、大文章家であるが、執筆にとりかかるまでの
ウォーミング・アップの手つづきや条件がなかなかむずかしいかたである。
一種のキツネつき状態になって、そこではじめて、あの名文ができあがる。」
(p84)

はい。藤本ますみ著「知的生産者たちの現場」には
「遅筆の梅棹さん」とあり、リアルです。そこも引用。

「だが、新しいシステムを採用することと、
原稿の生産性があがることとは、別の問題である。

原稿依頼のファイルはつぎつぎと書斎に持ちこまれたが、
いったんはいってしまうと、なかなか出てこなかった。

計算したわけではないから、はっきりしたことはいえないが、
しめきりまでに原稿といっしょに返ってくるのは、
二、三割ではなかっただろうか。

しめきりがせまって、編集者から催促の電話が何度もかかり、
しまいに京都までおはこびいただいたが、ついに完成しなかった
ものもある。一年、二年ともちこし、とうとう出版社のほうから
とりさげられたものや、十年、二十年をへて、
いまだにそのまま眠っているものもあるようだ。

『遅筆の梅棹さん』の評判は、わたしなどがくる前から、
知る人ぞ知る、有名な事実だったのである。」(p238)

うん。藤本ますみさんが指摘されるキツネ関連では
富士正晴氏(p96)からはじまり
梅棹氏本人も語ります
「予定どおり原稿ができなくて四苦八苦しているとき、先生はよく
『原稿というもんはキツネがついてくれないとできんもんでな』
といわれる。」(p224)

加藤秀俊さんも研究室に顔をみせます。

「『梅棹さんは?』といって、
加藤秀俊先生がのぞかれた。事情を説明するとすぐ、
わかったというしるしに笑いをうかべられて、
『また、いつものキツネ待ちですか。ごくろうさま』と、
編集者とわたしにねぎらいの言葉をかけて出ていかれた。」
(p227)

小松左京氏が登場する箇所は
「テーブルのほうでは、いつものおしゃべりがはじまった。
ほんの三十分か一時間のおしゃべりが、この部屋に集まる人びとの
情報交換となり、おたがいを知りあう大切なよりどころとなる。
・・・・
いつのまにか、梅棹先生の原稿ができあがらないことが、
みなさんに知れてしまった。小松さんが、

『いっぺん、みんなでシンポジウムをせないかんなあ。
《「知的生産の技術について」の筆者に原稿をかかせる
  キツネについて》というテーマはどうやろ』といいだした。

『そらええなあ。そのときはぼく、一番前にいてきかしてもらいます』
と先生。・・・・」(p231)

はい。『キツネのたすけをかり』というのは、
新書「知的生産の技術」を読んでも、読みすごしてしまいますが、
どうやら、研究室ではつとに有名なことだったのでした。

はい。知的生産の現場に住むキツネ。
この夏、キツネの痕跡を探す楽しみ。


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川喜田二郎君のこと。

2021-08-03 | 本棚並べ
梅棹忠夫著「知的生産の技術」(岩波新書)の再読に際して、
今回は、藤本ますみ著「知的生産者たちの現場」を並行して
読んでおりました。その楽しみは、寝ている文字が起き上る。
横に寝ていた文字が、ムクッと起きあがる読書となりました。

うん。こうすればいいんだ。
「知的生産の技術」を読む、コツがつかめてきました。
こうなれば、またしても違う人の本を読みはじめれば、
もっと裾野の広い「知的生産の技術」を味わえるかも。

そういえば、「知的生産の技術」のまえがきは、
こうはじまっておりました。

「・・この本は、著者ひとりでできあがったものではない。
たくさんの友人たちの、共同作業の結果のようなものである。

わたしは、わかいときから友だち運にめぐまれていたと、
自分ではおもっている。・・・・・

先生よりもむしろ、それらの友人たちから、
さまざまな知恵を、どっさりまなびとった。

・・・研究のすすめかたの、ちょっとしたコツみたいなものが、
かえってほんとうの役にたったのである。
そういうことは、本にはかいてないものだった。

・・・ひとりが、なにかあたらしい技術を案出すると、
それがほかの仲間にもすぐつたわるようなしくみが、
いつのまにかできあがって、いまにつづいている。

・・・これらの友人たちのあいだでの共有財産は、
質的にも量的にも、かなりのものになっている。」

はい。こういう視点でこの新書をパラパラめくっていると、
あらためて鮮やかな印象で浮かびあがる箇所がありました。

「わたしは、中学生のころから、山へいっていた。
登山家のあいだでは、『記録をとる』という習慣が、
むかしからあるようだ。

行程と所要時間、できごとなど、行動の記録を、
こくめいに手帳にかきこんでゆくのである。

ルックサックをおろして、ひとやすみ、というようなときに、
わずかな時間を利用してかくのだが、つかれているときには、
これはなかなかつらいことである。

わたしは、山岳部の生活で、そういう『しつけ』を身につけた。
後年、探検や調査の仕事をするようになってから、
その訓練が役にたった。・・・」(p171)

ここに、『中学生のころから、山へいっていた』とあります。
そうだ、『川喜田二郎君のこと』というのが
梅棹忠夫著作集第16巻(p567~569)にちょっと出てきます。

川喜田二郎氏の本の裏表紙に梅棹氏が書いた短文なのですが、
著作集のご自身の、その解説では、こうはじめておりました。

『川喜田二郎とは、わたしは中学校入学以来の同級生であり、
生涯をとおしての親友である。』(p568)

もどって、『知的生産の技術』の第2章「ノートからカードへ」に
も川喜田氏が登場します。

「当時大阪市立大学の地理学教室にいた川喜田二郎君などは、
国内各地の地理学的共同調査において、カードをつかうことを
こころみて、たいへん成果をあげた。かれはその後、ヒマラヤ
の調査にでかけて、野外調査については豊富な経験をつんだ。

・・・川喜田君の経験にもとづいた
『野外調査法への序説――ネパールの経験から――』という
論文を出版した。・・・そのなかに、すでに野外調査における
カードの使用について、基本的な問題点がしめされている。」(p42)


梅棹忠夫著作集第11巻(p491~498)には
その「『野外調査法への序説』について」がありました。
梅棹氏ご自身の解説から引用。

「・・当時、川喜田氏は大阪市立大学文学部地理学教室の助教授であり、
わたしは理工学部生物学教室の助教授であった。
1953年11月4日に・・・
川喜田氏がネパールの経験にもとづいて発表をおこなった。
この発表はガリ版ずりにして会員に配付された。ひきつづいて、
フィールド・ワークの技術に関する研究をつぎつぎに刊行する
という意気ごみであったので、この川喜田氏の発表は・・
印刷された。わたしはそれに『刊行のことば』を執筆した。

・・・・この『野外調査法への序説』は、興味ある内容のもので、
現在でもその復刻版をつくりたくなるくらいである。・・・・」
(~p493)


『知的生産の技術』の最終の第11章は「文章」でした。
そこからも、すこし引用。

「じつは、この方法は、かなりまえから、わたしたちの仲間
のあいだで、すこしずつ開発がすすんでいたものであった。

ところがそれを、理論においても実技においても大発展させて、
たいへん洗練された技法にまでもっていったのが、
KJ法の創始者として有名な、東京工大教授の川喜多二郎君であった。

・・・KJ法については、かれの著書『発想法』を
読まれることをおすすめする。」(p206)

はい。2冊。ここまでで読んでみたい、
川喜田二郎氏の著作がしぼられました。
これで、『知的生産の技術』の文面が、
立上り、つぎに歩きはじめますように。
2021年8月真夏の夢となりますように。

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8月の読書。

2021-08-02 | 本棚並べ
8月は、川喜田二郎著作集。


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