和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

川喜田二郎君のこと。

2021-08-03 | 本棚並べ
梅棹忠夫著「知的生産の技術」(岩波新書)の再読に際して、
今回は、藤本ますみ著「知的生産者たちの現場」を並行して
読んでおりました。その楽しみは、寝ている文字が起き上る。
横に寝ていた文字が、ムクッと起きあがる読書となりました。

うん。こうすればいいんだ。
「知的生産の技術」を読む、コツがつかめてきました。
こうなれば、またしても違う人の本を読みはじめれば、
もっと裾野の広い「知的生産の技術」を味わえるかも。

そういえば、「知的生産の技術」のまえがきは、
こうはじまっておりました。

「・・この本は、著者ひとりでできあがったものではない。
たくさんの友人たちの、共同作業の結果のようなものである。

わたしは、わかいときから友だち運にめぐまれていたと、
自分ではおもっている。・・・・・

先生よりもむしろ、それらの友人たちから、
さまざまな知恵を、どっさりまなびとった。

・・・研究のすすめかたの、ちょっとしたコツみたいなものが、
かえってほんとうの役にたったのである。
そういうことは、本にはかいてないものだった。

・・・ひとりが、なにかあたらしい技術を案出すると、
それがほかの仲間にもすぐつたわるようなしくみが、
いつのまにかできあがって、いまにつづいている。

・・・これらの友人たちのあいだでの共有財産は、
質的にも量的にも、かなりのものになっている。」

はい。こういう視点でこの新書をパラパラめくっていると、
あらためて鮮やかな印象で浮かびあがる箇所がありました。

「わたしは、中学生のころから、山へいっていた。
登山家のあいだでは、『記録をとる』という習慣が、
むかしからあるようだ。

行程と所要時間、できごとなど、行動の記録を、
こくめいに手帳にかきこんでゆくのである。

ルックサックをおろして、ひとやすみ、というようなときに、
わずかな時間を利用してかくのだが、つかれているときには、
これはなかなかつらいことである。

わたしは、山岳部の生活で、そういう『しつけ』を身につけた。
後年、探検や調査の仕事をするようになってから、
その訓練が役にたった。・・・」(p171)

ここに、『中学生のころから、山へいっていた』とあります。
そうだ、『川喜田二郎君のこと』というのが
梅棹忠夫著作集第16巻(p567~569)にちょっと出てきます。

川喜田二郎氏の本の裏表紙に梅棹氏が書いた短文なのですが、
著作集のご自身の、その解説では、こうはじめておりました。

『川喜田二郎とは、わたしは中学校入学以来の同級生であり、
生涯をとおしての親友である。』(p568)

もどって、『知的生産の技術』の第2章「ノートからカードへ」に
も川喜田氏が登場します。

「当時大阪市立大学の地理学教室にいた川喜田二郎君などは、
国内各地の地理学的共同調査において、カードをつかうことを
こころみて、たいへん成果をあげた。かれはその後、ヒマラヤ
の調査にでかけて、野外調査については豊富な経験をつんだ。

・・・川喜田君の経験にもとづいた
『野外調査法への序説――ネパールの経験から――』という
論文を出版した。・・・そのなかに、すでに野外調査における
カードの使用について、基本的な問題点がしめされている。」(p42)


梅棹忠夫著作集第11巻(p491~498)には
その「『野外調査法への序説』について」がありました。
梅棹氏ご自身の解説から引用。

「・・当時、川喜田氏は大阪市立大学文学部地理学教室の助教授であり、
わたしは理工学部生物学教室の助教授であった。
1953年11月4日に・・・
川喜田氏がネパールの経験にもとづいて発表をおこなった。
この発表はガリ版ずりにして会員に配付された。ひきつづいて、
フィールド・ワークの技術に関する研究をつぎつぎに刊行する
という意気ごみであったので、この川喜田氏の発表は・・
印刷された。わたしはそれに『刊行のことば』を執筆した。

・・・・この『野外調査法への序説』は、興味ある内容のもので、
現在でもその復刻版をつくりたくなるくらいである。・・・・」
(~p493)


『知的生産の技術』の最終の第11章は「文章」でした。
そこからも、すこし引用。

「じつは、この方法は、かなりまえから、わたしたちの仲間
のあいだで、すこしずつ開発がすすんでいたものであった。

ところがそれを、理論においても実技においても大発展させて、
たいへん洗練された技法にまでもっていったのが、
KJ法の創始者として有名な、東京工大教授の川喜多二郎君であった。

・・・KJ法については、かれの著書『発想法』を
読まれることをおすすめする。」(p206)

はい。2冊。ここまでで読んでみたい、
川喜田二郎氏の著作がしぼられました。
これで、『知的生産の技術』の文面が、
立上り、つぎに歩きはじめますように。
2021年8月真夏の夢となりますように。

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8月の読書。

2021-08-02 | 本棚並べ
8月は、川喜田二郎著作集。


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それはね、たとえば。

2021-07-29 | 本棚並べ
2011年に出版されていた
「梅棹忠夫 知的先覚者の軌跡」(国立民俗博物館)に
元岩波編集者・小川壽夫(ひさお)氏が
「知的生産の技術」誕生の頃を書かれております(p102)。

最初に小川さんが岩波の編集会議で企画提案したさいに
「知的生産とはいったい何だ、ハウツーものじゃないか、
ときびしい批判を浴び、『保留』となってしまった。」
とあります。

これからまたゼロからのスタートで
編集者小川さんと、梅棹氏で話し合いがもたれたようです。

「話は、個人の書斎における技術にとどまらなかった。
情報検索、インタビュー、座談会、共同研究、図書館システム、
情報管理など、行動や組織の知的生産に及んだ。・・・・・

くりかえし話題になったのは、秘書の重要性、
日本語タイプライター、個人研究の共有化、だったと思う。

対話しながら自問自答し、迷ったり横道に入ったり、
だんだんと考えを煮つめていく。

原稿はあらたに書き下ろす形になったが、
なかなかスタートしない。・・・・・」


「・・・・・2010年に店頭に並んでいるのは86刷、
超ロングセラーである。奥付の発行者(社長名)は
五たび替わっている。内容はいっさい変わっていない。
コンピュータ全盛の時代に読みつがれているのだ。・・・」

ここに、「内容はいっさい変わっていない」とあります。
新書が、発売になったのは1969年7月。

「知的生産の技術」の「はじめに」には

「コンピューターが家庭にまでいりこんで、
それを操作することが人間としての最低の素養である、
という時代がくるのは、もうすこしさきのことかもしれない。
しかし、今日でもすでに、大量の情報機械が、専門家の手をはなれて、
一般市民の手にうつりつつある。その操作に習熟することは、
現代の人間として当然の素養となる。・・・」(p16)

「はじまり」から引用したら、新書の「おわりに」からも引用

「この本にのべたことは、どれひとつとっても、
理屈は、しごくかんたんである。ただし、この種のことは、
頭でいくら理解しても、やってみなければまったく無意味である。
自分でいろいろ、こころみていただきたい。

・・・・くりかえしいうが、実行がかんじんである。
・・・・どの技法も、やってみると、それぞれにかなりの
努力が必要なことがわかるだろう。こういう話に、
安直な秘けつはない。自分で努力しなければ、うまくゆくものではない。」
(p216)

もどって、編集者小川さんが『くりかえし話題になったのは』
と指摘する、『秘書の重要性』『日本語タイプライター』・・・


秘書といえば、藤本ますみ著「知的生産者たちの現場」(講談社)
は、1966年1月にもらった梅棹氏からの手紙、
ひらがなタイプライターで打たれた手紙からはじまるのでした。

藤本さんが尋ねます。

『先生、梅棹研究所のおかみさんの仕事って、
具体的にいって、どんなことをすればいいんですか』

それに梅棹氏は答えて

『それはね、たとえばここにある
ひらかなタイプで手紙をうってもらうとか、
ファイリング・システムで書類を整理してもらうとか、
こまごましたことがいくらでもある。

しかし、そういう技術的なことは、
あまり気にしなくてよろしい。技術はけいこすれば、
じきにできるようになります。それよりも大事なことは
・・・・・・・まあ、そんなところかな。』(p55)

「二週間ほどたったころのこと・・・・
タイプライターにむかって・・相変わらずポツポツで、
あまり上達のあとはみられなかった。

自分の机にむかって事務をはじめた先生が、
十分もしないうちに出てこられた。
『いっぺん、斎藤強三さんに会っておいたほうがいいな』
わたしのポツンポツンタイプをきいて、
これでは・・・と思われたにちがいない。
電話でご都合をうかがうと、
『これからすぐお越しくださるなら、
家におりますからどうぞ』とのご返事。
さっそく先生の車でかけつけた。・・・・」(p79)

「それにしても、わたしは最初に斎藤さんから
『スピードのことは気にしなくてもいいですよ。
続けてうっていれば、じきに慣れますよ』
といわれたことが、よかったと思う。その言葉で、
わたしの心はどれだけリラックスしたことか。」(p88)

ここで、藤本さんは
梅棹忠夫さんから、『あまり気にしなくてよろしい』
斎藤強三さんから、『気にしなくてもいいですよ』
と言われるのでした。

何で、このことが気になったかといいますと、
昨夜は、川喜田二郎著「発想法」を数ページめくって、
そういえば、だいぶ昔に買ってあった
川喜田二郎著「パーティー学」(現代教養文庫・昭和39年)
が、整理していたら出てきたのを思い出しておりました。
はい。私のことですから、買って読まずに、
しかも捨てずにありました。

はい。今日になって、その文庫をはじめてひらく、
最後の方に「チームワーク」という章があるので
読んでみる。そこには、こんな言葉がありました。

「私は、仕事をするに当たってつねに彼らが
自分のペースを守れるように配慮しましたし、
またペースを守ることを彼らに再々注意しました。
たとえば、期限を要求して彼らをせきたてることなどは
一度もしなかったくらいです。・・・・」(p204)

ここに、
『期限を要求して彼らをせきたてることなどは一度もしなかった』
とあるのでした。
秘書の重要性を、編集者小川さんに語っていた梅棹氏は、
その頃、同時に重要な秘書を育てておられる最中でした。

この「チームワーク」に「重要なこと」がありました。

「重要なことは、両君がやってくれた仕事の結果を、
よく見、よく聞いてあげることでした。
そして、それについて講評をすることでした。
講評の結果がよくても悪くても、それは両君に
仕事のハリアイを作りだすことになったからです。

こうしてこの方法はまた、自分たちはなにか有意義な
ことをしているという感情を培い、われわれの間に
連帯感を創りだしていきました。」
(p202「パーティー学」)

いままで、食わず嫌いのように、読まず嫌いだった
川喜田二郎氏の著作に、がぜん興味がわいてきます。
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凡人のための本棚。

2021-07-27 | 本棚並べ
梅棹忠夫著「知的生産の技術」が最近の寝床のお供。

ひらいた数ページをパラパラ読み。
この頃は、目ざめたら、寝起きにパラリ。
寝床で腰痛体操をして、それから起きる。

なかでも「こざね法」の箇所は、お気に入り。
ということで引用。

「こざね法というのは、いわば、頭のなかのうごきを、
紙きれのかたちで、そとにとりだしたものだということができる。

それはちょうど、ソロバンのようなものである。
ソロバンによる計算法は、けっきょくは暗算なのだが、
頭のなかのうごきを、頭のそとでシュミレートしてみせるのが、
ソロバンの玉である。こざね法は思想のソロバン術で、
一枚一枚のこざねは、ソロバン玉にあたる。

この方法のいいところは、
創造的思考をうながすことであろう。
ばらばらな素材をながめて、
いろいろとくみあわせているうちに、
おもいもよらぬあたらしい関係が発見されるものである。

もうひとつ、文章という点からいってたいせつなことは、
この方法でやれば、だれでも、いちおう論理的で、
まとまった文章がかける、という点である。

天成の文章家には、こんな技術はまったく不必要であろう。
これは、凡人のための文章術である。」(p205)

うん。『凡人のための文書術』というのがうれしい。

本棚をつくって、そこに本を並べていると、
欲がでて、本の並べかえをしたくなります。

せっかく、余分の棚をつくったのだから、
ところどころ、余白の棚をもうければと、
思うのですが、これは、まあ、おあずけ。

本には参考文献というのがある。
本棚の本を、並べかえていると、
まるで、参考文献を組立て直し、
まだ見ぬ本を空想している気分。

そういえば、「知的生産の技術」本文に、
さりげなく、人や本の紹介がありました。

新書でいえば
加藤秀俊著「整理学」中公新書
川喜田二郎著「発想法」中公新書
小泉信三著「読書論」岩波新書
「私の読書法」岩波新書

私が読んだのは、「整理学」だけなので、
他の3冊もこの機会に、ひらいてみたい。

それにしても読書への興味は、
寄せては返す波のようですね。
読もうという興味が寄せてくるかと思えば、
いつのまにか、スーッと引いてしまってる。

それなのに、『知的生産の技術』のところには、
どうしてか、波が寄せてくる頻度がおおくって、
この新書は、本の整理のたびに思い浮かぶ一冊。




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整理のきめ手。

2021-07-26 | 本棚並べ
八木秀次監修「尋常小學修身書」(小学館文庫・2002年)に
本居宣長がでてくる箇所があります。まずは、引用。

「本居宣長は、わが国の昔の本を読んで、日本が大そう
りっぱな国であることを人々に知らせた、名高いがくしゃであります。

宣長は、たくさんの本を持っていましたが、
一々本箱に入れて、よくせいとんしておきました。
それで、夜、あかりをつけなくても、思うように、
どの本でも取出すことが出来ました。

宣長は、いつもうちの人に向かって、
『どんな物でも、それをさがす時のことを思ったなら、
しまう時に気をつけなければなりません。
入れる時に、少しのめんどうはあっても、
いる時に、早く出せる方がよろしい。』
といって聞かせました。

宣長が名高いがくしゃになり、りっぱなしごとを
のこしたのには、へいぜい物をよくせいとんしておいたことが、
どれだけやくにたったか知れません。」(p86~87)


はい。梅棹忠夫著「知的生産の技術」の第5章「整理と事務」は、
こうはじまっておりました。

「わたしが小学生のころの教科書にあった話だとおもうが、
本居宣長は、自分の家の書棚から、あかりをつけずに必要な
本をとりだすことができたという。また、どこそこの棚の
右から何番目、といわれていってみると、ちゃんとその本が
あった、というような話もきいた。」(p79)

このことを指摘したあとに、梅棹氏は
「・・しかし、これはじつは記憶力の話ではないので、
宣長の『整理のよさ』をものがったっているだけのことであろう。
整理の方法さえよければ、これくらいのことは、だれだってできる。」
(p79)

さて引用した教科書で宣長が語っていた
『いつもうちの人に向かって』聞かせた言葉。

これを梅棹氏は「知的生産の技術」でこう指摘しておりました。

「おき場所がきまったら、そのおき場所をまもらなければならない。
つまり、とりだしたら、あとはかならず、もとの場所に『もどす』。
これがつぎの原則である。
わかりきったことだが、これを厳格に実行できるかどうかが、
整理がうまくゆくかどうかのきめ手である。・・」(P 82~83)

さて、このあとに梅棹氏はご自分を語ります。

「わたし自身の書類の整理法の歴史をふりかえってみると、
まったくばかげたことをくりかえしてきたものだとおもう。
もちろん、右の諸原則からはずれている。・・・」(p83)






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おおきな ふくろを。

2021-07-24 | 本棚並べ
 唱歌の「だいこくさま」(石原和三郎)のはじまりは

   おおきな ふくろを、かた に かけ、
     だいこくさま が、きかかる と、

とあります。
現代詩文庫1044「竹中郁詩集」(思潮社)の
うしろには、竹中郁のエッセイも載っていて、
そのなかに、「坂本遼 たんぽぽ詩人」(p123~124)があり、
坂本遼氏の、大きな革カバンが語られているのでした。

「『きりん』に集まってくる小学生の詩と作文は、
詩は私が、作文は坂本君がと手分けして選ぶのだが、
各々が三日くらいかかって選んだ。

坂本君はそのために高価な大きな皮カバンを買って、
五キロくらいの重さの原稿をもち歩いていた。・・・・」

ご自身で書くなら、なかなかご自身の持ち物へと
言及されることはないのでしょうが、身近にいた
竹中さんから見ると、また別の視界がひらけます。

別の視界がひらけるといえば、
藤本ますみ著「知的生産者たちの現場」(講談社)にでてくる
『大きな唐草模様の風呂敷づつみ』を、以下に引用してみます。
こんなのは、岩波新書の「知的生産の技術」には登場しません。
梅棹忠夫氏の本に登場しない、大きな唐草模様の風呂敷づつみ。
舞台は、梅棹研究室。またの名を、零細企業梅棹商店(p251)。

「先生は右手に黒のアタッシュ・ケース、
左手に大きな唐草模様の風呂敷づつみをさげてはいってこられた。
そして、よっこらしょ、と、荷物を自分の机の横に置くと・・・」
(p33)

「・・梅棹先生も車で、紺色のオースチンだった。
先生は毎日、かばんのほかに大きな風呂敷づつみを乗せてこられる。
この荷物の運搬のためにも、先生には車が必需品だった。

・・・風呂敷づつみが重たそうなときは、
わたしは玄関にむかって走る。右手にスマートな007のかばん、
左手に東京凡太風の風呂敷づつみをもって、こちらにあるいて
こられる先生を玄関にむかえるときは、いつも笑いをこらえる
のに苦労した。
軽いほうのアタッシュ・ケースをわたしが持つ。
部屋まで運びこむと『はい、これがきょうの郵便物』といって、
先生は風呂敷づつみをテーブルの上に置かれる。・・・

郵便物がくると、わたしはやりかけていた仕事をいったんやめて、
郵便物の整理にとりかかる。まんなかのテーブルで風呂敷づつみをほどき、
仕分けする。荷物が大きくなるのは新刊の雑誌や本がどっと届いたときだ。

はじめに本と雑誌、封書とはがきの二つの山にわけてしまう。
さきに本と雑誌のつつみをあける。本は奥付の下に、
雑誌は裏表紙の下のすみに、日付印をおす。

雑誌のはいっていた袋はそのまますてるが、
本の包装紙(袋)は差出人の住所氏名の部分を切りとってからすてる。
残した部分は中身の本にはさんでおく、これはあとでお礼状を送る
ときのために必要だ。
封書とはがきの山はそれぞれにわける。
はがきは日付印をあて名の上におす。
最後は封書。これは少々手がかかる・・・・。」(p123~125)

「先生の事務の手順はほぼ、つぎのようにきまっていた。
一番はじめに手をつけられるのは、寄贈された本や論文集に
お礼状をかくこと。ぱらぱらっとめくって、内容にさっと目を通され、
表紙と裏表紙、奥付などをたしかめてから、礼状用のはがきをかかれる。

すむと、本は自宅持ち帰りの荷物のほうへ、
はがきは既決の箱へ。論文の抜刷やパンフレット類は
研究室のオープン・ファイルに入れてあるので、これらは既決箱にはいる。

雑誌は、目次をながめてから、興味をひかれた記事を走り読み。
読書紙は書評と図書の広告を見る。買いたい本があれば、すぐ
その場で図書注文カードに写される。
・・・新聞は自宅へ。・・・・雑誌類は本棚の一段をつかって
並べてある。新しいのが届くと交換して、古いのは家へ持って帰ってもらう。
・・・・」(p135)

「1970年の前後から、先生は出張が一段とふえ・・
週の後半はほとんど東京行きとなり・・・そして、
月曜日のお昼ごろ、大風呂敷二つの郵便物といっしょに
研究室にはいられるのが、習慣になってしまった。・・・・

出張のあとの月曜日には、アタッシュ・ケースから
先週の出張ファイルをとり出し、わたしに返す。
見出しに『東京いき』とかかれたフォルダーのなかには、
出張カードと関係書類がはさみこまれている。」(p262~263)


「そういい終えると、先生は入口のドアをあけ、
よいしょと、風呂敷づつみを持ち上げた。・・・・」(p267)

はい。まだまだ引用したりない風呂敷つづみです(笑)。

最後は、梅棹忠夫著「知的生産の技術」にもどって
この箇所を引用。

「研究に資料はつきもので、研究者はさまざまな資料
――たいていは紙きれに類するものだが――を
あつかわなければならない。ところが・・・
おおくの研究者は、どうしていいかわからない。
研究室はわけのわからぬ紙きれの山で大混乱ということになる。

そこで、混乱をふせぐために、しばしばとられている方法は、
いわば『きりすて法』とでもいうようなやりかたである。
・・・・・・

こういうやりかたをすれば、資料を整理する必要はすくなくなって、
研究室も混乱しないですむ。そのかわり・・・
視野のせまい、学問的生産力のとぼしい研究者になりやすい。
これは、われわれ・・・しらぬまにおちいりやすいおとしあなで、
・・・これも、整理の技術がしっかりしておれば、
よほどすくえるはずのものである。」(p5~6)


はい。どうも、学問的生産力はよくわからないままですが、
『よっこらしょ』『よいしょ』とくれば、はじまりへもどり、
唱歌『大こくさま』を口ずさみたくなってきます。
といっても、覚えていない。ひらいたのは岩波文庫「日本唱歌集」。
そういえば、この唱歌は四番までありました。

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初日の仕事。

2021-07-22 | 本棚並べ
福井での栄養士の仕事をやめ、京都の梅棹研究所に
通うことになった藤本ますみさん。
その初日仕事が、気になりました。

「ごあいさつ、掃除、お茶くみ、電話のとりつぎ、郵便物の開封。
初日の仕事はそんなところだった。

このなかで、いちばんしんどかったのは、やっぱり
電話の受け応えだった。・・・たった三人の静かな
オフィスでは、話している人の声がひどく目立つ。

・・受話器をもったら反射的に『梅棹研究所です』と
いえるようになるには、何日ぐらいかかるだろう。

とかく鈍くて慣れるのにヒマのかかるわたしは、
新しいことを身につけるのにたいてい人の二倍の時間がかかる。

なんとかならないものかと考えてみるのだが、
考えてみたって、こればかりはどうしようもない。
あせったら早とちりや勘違いをして、
ますます事態は悪くなる。」
 (p36~37「知的生産者たちの現場」)

さて、こうして初日の様子を書きとめておられます。
そういえば、鷲尾賢也氏の初仕事の箇所も印象深い。

「・・私は『ふつう』の会社から出版社に途中入社したので、
その環境変化へのとまどいは激しかった。
配属部署が男性週刊誌だったからなおさらである。

人事課の人にそこへ連れていかれた日は、
たまたま校了日だった。指導してくれることになっている
先輩社員のとなりに座らせられた。しばらく座って見ていろ
といわれた。・・・夜の8時になっても、10時になっても、
先輩社員は電話をかけたりライターに指示したり、
忙しく働いていて、なにもいってくれない。・・・

午前1時過ぎに、やることがないので帰っていいかと
恐る恐る尋ねた。『ばかやろ! そこに座っていろ』
といわれた。結局、配属初日から徹夜になってしまった。

ひどいところへきてしまったと思ったが、
あとで考えると、ともかく現場の空気をはやく身につけさせ
ようという教育的配慮だったのであろう。
何の説明もない乱暴なスタイルだが、ある意味では
筋が通ている。つまり全体が見渡せたからである。

・・・・荒っぽい世界であったが、
一方で大変な教養人ぞろいであった。
青臭く他人に語らないのが、その世界のお洒落なスタイルだった。」
 (p19~21「編集とはどのような仕事なのか」)

ちなみに、藤本さんの本には、
新聞社の社会部の記者との、電話でのやりとりの場面があります。

「京都大学山岳部の学生たちが、北山で遭難事故を起こしたことがあった。
各新聞社の社会部から電話がはいり、先生のコメントがほしいから、
梅棹さんの行方を教えてくれといわれた。そのとき、先生は
『知的生産の技術』の原稿執筆のため、ホテルでカンヅメ中であった。
あと数日したら、海外調査のためヨーロッパに発つことになっている
・・・・

『とにかく、きょうは研究所には見えませんので』
そういって、電話を切ろうとしたら、

『そんなことはきいてないんだ。いまどこにいるか。
それをいえばいいんだ』相手は腹を立て、電話のむこうで怒鳴った。

『知りません!』知っていたっていいたくない。
しかし、わたしの返事は、火に油をそそいたようだ。

『なに、知らないって。そんなことで、あんた、
 よく秘書がつとまってるね。おれなら即刻クビにするよ』

『よろこんでそうしていただきます。失礼しました!』
部屋中にひびきわたるような音を立てて、わたしは受話器を置いた。
・・・」(~p221)

はい。このあと、藤本さんは、反省の弁とその後の様子も
書いておられますが、引用はここまでにします。

秘書といえば、樋口謹一先生が、藤本さんに語った場面も
なるほどと思いました。

「『梅棹さんとこは、常勤の秘書が二人もいて、大変ですなあ』・・・
先生は軽いほほえみをうかべながら、説明不足をおぎなってくださった。

『秘書がいたら、その人にやってもらう仕事を
あらかじめつくっておかんならんでしょう?
それがたいへんやなと思うんですよ。
きょうはなにしてはたらいてもらおうかななんて、
毎日考えんならんとしたら、ぼくなんか困ってしまうなあ。

梅棹さんは二人もつかって、ようやってはると思うわ。
ぼくやったら、もしここに二人の秘書がいたら、そちらに気をつかって、
かえって自分の仕事がはかどらんようになってしまうやろうなあ、きっと』

おしまいのほうはいくぶん照れくさそうに言葉を笑いにつつんで、
早口におっしゃった。」(p271)

これに答えて藤本さんは
「『そのことだったら、ちがうんです。・・・
必要なことは秘書のほうで考えてやります・・』」(p272)


はい。この樋口先生へ答える藤本さんの言葉はぜひ
全文を引用したいところですが、長くなりますのでカット。





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いやむしろ。

2021-07-20 | 本棚並べ
『生活』という言葉が、気になっております。
たとえば、板坂元著「続考える技術・書く技術」(講談社現代新書)に、
こんな箇所があり、何だろうと、気になっておりました。

「・・・・われわれは生きるために働かなければならにけれど、
働くために生きているのではない。

自分の仕事を専門と呼ぶなら、同時に自分の生活も専門と呼ぶべきだ。
家庭生活も社交生活も、趣味も嗜好も、すべてわれわれの専門であるべきだ。

いやむしろ長い人生から見れば、人生の重要な部分は
生活の方にあると考える方がよい。」(p39~40)


はい。まったくノロいのですが、65歳を過ぎるころから、
この『人生の重要な部分は生活の方にあると考える方がよい』
という指摘を後生大事にして、考えてみたくなりました。

まあ、そういう視点から
梅棹忠夫著『知的生産の技術』の『はじめに』を読むと、
こうあります。

「情報の時代における個人のありかたを十分にかんがえておかないと、
組織の敷設した合理主義の路線を、個人はただひたすらはしらされる、
ということにもなりかねないのである。

組織のなかにいないと、個人の知的生産力が発揮できない、
などというのは、まったくばかげている。
あたらしい時代における、個人の知的武装が必要なのである。」
(p18)

『はじめに』には、もう一箇所「合理主義」という言葉がでてきます。

「合理主義に徹すればいい、などと、かんたんに
かんがえてもらいたくないものである。

技術という以上は、ある種の合理性はもちろん
かんがえなければなるまいが、知的活動のような、
人間存在の根底にかかわっているものの場合には、

いったいなにが合理的であるのか、
きめることがむつかしいだろう。

機械や事務組織なら、きわめて目的合理性の
たかいものをつくることもできるだろうが、
人間はそうはゆかない。・・・・」(p20)


さてっと、1988年には、岩波新書から
『私の知的生産の技術』という読者からの募集原稿から
選ばれた入選作12編でなる一冊がでます。
そこに梅棹忠夫氏は序論ふうの文章を載せました。
その梅棹氏の文の最後を引用しておきます。

「はっきりいって、知的生産のエネルギーが
はげしくほとばしりだして、技術開発も情熱的におこなわれるのは、

どうも実用や仕事よりも、たのしみごとないしは
あそびの分野においてであろうといえば、いいすぎであろうか。

企業や組織の内部では、仕事はおおむねルティーン・ワーク化し、
マニュアルも確立していて、創造的な知的生産はできにくいのかもしれない。

それはそれでよいのであろう。
知的エネルギーが大量に個人のたのしみごとにそそがれ、
創造性もその場面において展開するというのも、
ある意味ではもっともなことである。

それによって個人の人生の充実がえられるのならば、
それでよろしいではないか。
『知的生産の技術』という本のはたした役わりも、
そのへんのところにあるのかもしれない。」
(p261「梅棹忠夫著作集 第11巻」)





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新聞の切り抜き。

2021-07-18 | 本棚並べ
今では、死語なのかもしれないけれど、
そして、わたしも最近してないけれど、
『新聞の切り抜き』。

うん。思い浮かべるのは、
大橋鎭子著「『暮しの手帖』とわたし」(暮しの手帖社・平成22年)。
まずは引用。

「昭和12年4月1日。日本興業銀行に入行しました。
同期の人は、男性15、6人、女の人は10人ほど。
・・調査課に配属されました。そのときの調査課長が
工藤昭四郎(しょうしろう)さん・・・

調査課の仕事は、日本や世界の産業や経済の動きを知る
ためのいろんな調査や、そのための資料や図書の購入と
整理。そして調査月報の編集でした。

私の仕事は走り使いのようなことが主でしたが、
長く続けていた仕事の一つに新聞の切り抜きがあります。

朝8時ごろから、工藤さんは東京朝日新聞(現朝日新聞)、
東京日日新聞(現毎日新聞)、読売新聞、中外商業新報
(現日本経済新聞)、日刊工業新聞などを読み、

そのなかの主なというか、興銀に勤めている人なら
読んでおかなければならない記事に印をつけます。

私は印のついた記事を切り抜き、紙に貼り、日付、
新聞紙名を記入し、それを毎日6人分(重役数)作りました。
これは10時までに仕上げなければならない急ぐ仕事です。」
(p64)

そして、次のページにこうあります。

「この新聞の切り抜きを作ったことは、
すばらしい経験になりました。・・・・・
『どんなことが、なぜ大事なのかしら』と、
新聞記事を比べて読んだりしたのもよかったと思います。
以来私はずっと活字に関係した仕事をしています。」(p65)


さてっと、藤本ますみ著「知的生産者たちの現場」(講談社)に
「新聞切抜事業団」(p205~212)という小見出しがあります。
藤本さんが勤めた翌年の1967年。
その切抜き事業団の活動がはじまるのですが、
その前段階に注目しました。以下に箇条書きに引用。

「そのころ、先生は家で日刊紙を3つとっておられた。」

「わたしがつとめはじめたときすでに、梅棹夫人は
物置きが新聞だらけで困っておられたのだから。・・
新聞は待ったなしにやってくる。どんどんたまっていく新聞を、
日付順に並べて一ヵ月文をヒモでくくる仕事は、奥さまの役割
のようだった。・・・梅棹家の物置きは、たまりにたまった
先生の古新聞に占拠され、パンク寸前のところまできてしまった。」

「それにしても、10年分の日刊紙3紙・・・
10年もの長きにわたって、家族との闘いのなかを
守りとおしてきた財産・・・・」

はい。この小見出しの文の最後も引用しておかなければ、

「用事でときどき裏の作業場へ行くと、
手をまっ黒にして新聞をめくり、赤マジックでかこみをつけて
いる若者たちを見た。梅棹家では家族の見終わったあとの新聞を、
奥さまがきちんとたたまれ、積みあげていられるのを見たことがある。

・・先生の場合は、たまたま加納先生の記念出版と出あわしたから
よかったものの、こういうことがなかったら、
いまごろあの新聞の山はどうなっていただろう。

たいていの場合、新聞の切り抜きが長続きしないのは、
持続しようと思えばたいへんな労力がいり、保管場所をとること、
そして、そのわりには利用のチャンスがすくないことなどでは
なかろうか。

それにしても、先生が10年分の新聞を持ちこたえてきた
執念には、おそれいる。駄切手収集といい、新聞切り抜きといい、
これらを途中であきらめないで持続できるエネルギーは、
どこからわいてくるのであろうか。」


はい。1960年代当時、情報洪水と向き合うというのは、
見える形でいえば、こういうことだったのでしょうか。
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まあ、そんなとこかな。

2021-07-17 | 本棚並べ
藤本ますみ著「知的生産者たちの現場」(講談社・1984年)。
はい。この本を再読。

はじめて読んだときは、楽しかった。
それが再読をはじめたらまた楽しい。

とりあえずは、藤本ますみさんと梅棹忠夫氏の接点。
1966年1月に梅棹研究室へ。1974年6月に研究室が閉鎖し、
それとともに、退職。

ちなみに、就職していた頃には、
1969年7月に「知的生産の技術」(岩波新書)が出る。
1970年9月に、日本万国博が幕を閉じる。
1974年6月、国立民族学博物館が創設にともない、梅棹研究室閉鎖。
その間の9年間のことが綴られております。
藤本さんは語ります。

「1966年1月、スタートしたばかりの梅棹研究室は、
お店にたとえれば、主人に番頭、そして女中の3人
できりまわす零細企業梅棹商店といったところであった。」
(p251)

はい。今回は、そこへ就職する場面から

「新卒の就職1年生ではない。学校を出てから7年間はたらいて
きた栄養士の仕事を3日前にやめて、秘書になることにきまった
・・つとめる先は京都大学人文科学研究所分館、社会人類学研究室。
主任教授は梅棹忠夫先生である。」(p11)

「18歳で、栄養士になってはたらこうときめてこの道にはいったわたしは、
自分が栄養士以外の仕事で転職することなど、夢にも考えたことがない。
・・・仕事のためにやむをえず京都と福井に別居していたわたしたち夫婦は、
2週間に1度ぐらいの割で、夫が福井に帰ってくる生活をかれこれ2年あまり
続けていた。」(p42)

秘書になることに、とまどう藤本さんは、決断しかねて、
「どんなことをすればいいんですか」と質問します。
はい。梅棹忠夫氏は、それに答えて。

『それはね、たとえばここにあるひらかなタイプで手紙をうってもらうとか、
ファイリング・システムで書類を整理してもらうとか、
こまごましたことがいくらでもある。

しかし、そういう技術的なことは、
あまり気にしなくてよろしい。
技術はけいこすれば、じきにできるようになります。

それより大事なことは、秘書には自分で仕事を
見つけてやってもらいたいということやな。

ぼくは秘書にいちいち、これこれのこと、
いつまでにやっておいてくれと、命令したりはしないから。

秘書になってくれる人にのぞみたいことは、
知的好奇心があって、腰かけでなく、責任をもって
はたらいてもらいたいということ。

まあ、そんなとこかな』(p55)

雄大な注文です。ここで使われている、
『技術』という言葉に、注目しました。

『技術はけいこすれば、じきにできるようになります』。
はい。その3年後『知的生産の技術』が出版されました。

わたしには、『知的生産の技術』をどう読めばよいのかの、
勘どころをそっと教えてもらったような気がするのでした。
いわく

『技術的なことは、あまり気にしなくてよろしい』

『のぞみたいことは、知的好奇心があって、
腰かけでなく、責任をもってはたらいてもらいたい』

ということで、『知的生産の技術』をまたひらくことに。



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わからない。

2021-07-16 | 本棚並べ
藤本ますみ著「知的生産者たちの現場」(講談社)に
『遅筆の梅棹さん』とある。短いので引用。

「『遅筆の梅棹さん』の評判は、わたしなどがくる前から、
知る人ぞ知る、有名な事実だったのである。」(p238)

はい。こういうのなんて新書の「知的生産の技術」を
読んでも気づきにくい。けれど、藤本さんは、
じつは、新書のなかにも書かれていると指摘します。
それは、新書の第11章「文章」にありました。

「失文症や文章アレルギーの人を、どうしたら
すくうことができるのか、それはわたしにもわからない。

まるで、ひとごとのようないいかたをしているが、
じつは、わたし自身がそういうタイプにちかいのである。

どちらかというと、行動的なほうであるせいか、
文章をかくのは、正直のところ不得意である。

仕事の性質上、しばしば文章をかかねばならないことになるのだが、
そのつど、たいへんくるしいおもいをする。原稿用紙をまえにして、

おおげさにいえば、七転八倒する。結果的には、ひじょうな
遅筆ということになって、編集者にめいわくをかけがちである。」
(p199)

この箇所について、藤本さんは語ります。

「先生が原稿を執筆されるのは、自宅の書斎である。
だから、わたしは、執筆中の先生の姿を見たことはない。

ただ、たいへん苦しい思いをなさるらしいことは
しめきりのぎりぎりのところにくると、よく脈が
結滞して医者にかかられることからも、察せられた。

本人も『知的生産の技術』のなかで・・・
七転八倒すると、告白しておられる。ところが、
本人はそういっているのに、読者はそうは思わない。」
(p238~239)

はい。新書読者の私も、やはりそうは思わなかった。

このあとに、藤本さんは加藤秀俊氏を引き合いに出しております。

「きくところによれば、加藤先生は、なんであれ、
原稿のしめきりにおくれたことのないかたで、その点からいえば、
 梅棹先生とは対照的な存在である。」(p239)

はい。加藤秀俊氏といえば、ある一場面を記録されております。

「北白川の梅棹邸には、わたしをふくめて、何人も足をはこび、
深更にいたるまで、きわめて雑多な議論をつづけた。
例外なしに酒を飲んだ。米山俊直、石毛直道、谷泰そして、
ややおくれて松原正毅――いろんな人物が入り乱れた。

そんなある晩、突如として伊谷純一郎さんがとびこんできた。
何の論文だったか忘れたが、梅棹さんの原稿だけがおくれている
ために本が出ない、早く書け、というのが伊谷さんの用件であった。

梅棹さんは、大文章家であるが、執筆にとりかかるまでの
ウォーミング・アップの手つづきや条件がなかなかむずかしいかたである。
一種のキツネつき状態になって、そこではじめて、あの名文ができあがる。

伊谷さんもそのことはご存知だ。ご存知であっても、
梅棹論文がなければ本ができないのであるから、これもしかたがない。

その伊谷さんにむかって、梅棹さんは、
あとひと月のうちにかならず書く、といわれた。

伊谷さんは、その場に居合わせたわたしをジロリと睨み、
加藤君、おまえが証人や、梅棹は書く、と言いよった。
おまえは唯一の証人やで、とおっしゃるのであった。

わたしは梅棹さんが、絶対に書かないという信念を持ちながら、
伊谷さんには、ハイ、と返事をした。
その原稿がどうなったか、わたしは知らない。」
(p84「わが師わが友」にある、社会人類学研究班の章)


新書の『知的生産の技術』が、私には、
脈打ち、立ちあがるような気がします。




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若い人はいずれ。

2021-07-15 | 本棚並べ
3冊が思い浮かぶ。

梅棹忠夫著「知的生産の技術」(岩波新書・1969年)
藤本ますみ著「知的生産者たちの現場」(講談社・1984年)
鷲尾賢也著「編集とはどのような仕事なのか」(トランスビュー・2004年)

はい。藤本ますみさんの本を読み直す。
『知的生産の技術』を真ん中に置いて、
3冊が、ひとかたまりとなって読める。

うん。まずは藤本ますみさんの本から引用。
藤本ますみさんの仕事は梅棹忠夫氏の秘書。
身近に接した、梅棹氏の人となりが鮮やか。
その「第三章 知的生産の奥義」に

「『若い人はいずれ、それぞれの立場で原稿を
かかんならんようになるのやから、いっぺんは
編集の仕事にたずさわっておいたほうがいい』
というのが、先生(梅棹)の持論であった。

小さな研究室のなかに、いくつも事務局をひきうけてくるのは、
その持論を実行するためでもあったのではないかと思う。
というのは、それぞれの事務局はたいていなんらかの
出版物を編集していたからだ。」(p261)

ここに『季刊人類学』が出てきておりました。

「季刊とはいえ、250ページをこえる『季刊人類学』の世話は、
なかなかたいへんである。事務局担当者も忙しかったが、
編集委員も投稿原稿を読み、採用のきまった論文には、
原則としてコメントをつけることになっていたから、
新しい仕事がふえた。そういう用事を片づけておいて、
一方で自分自身の論文もかかなければならないのだから、
編集委員にとって、『季刊人類学』はたいへんな負担である。

いうまでもないことだが、編集委員たちの協力は無料サービスであった。
それどころか、持ち出しになることさえある。にもかかわらず・・・」
(~p262)

この藤本ますみさんの本は、講談社から出ておりました。
講談社に勤めていた鷲尾賢也氏の本には、こうあります。

「『季刊人類学』という雑誌を社会思想社からひきついで、
編集実務を講談社が引き受けていた。当然赤字であるが、
今西錦司、梅棹忠夫以下のいわゆる文化人類学関係の
著者獲得の一方法としてはじめたと聞いている。
その結果、岩田慶治、佐々木高明、米山俊直、谷泰、
松原正毅といった方々と長い間、おつきあいが生まれた。」
(p211・「編集とはどのような仕事なのか」)

ちなみに、岩田慶治著作集は、講談社から出ておりました。

はい。この3冊の結びつき方が面白い。
遅筆・梅棹忠夫のキツネつきをはじめ、
魅力を何回かに分けて、ピックアップ。

何とか目移りする前に当ブログで紹介。
本と本との結びつきは忘れないように。

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棚つくり。

2021-07-13 | 道しるべ
はい。本棚作りに飽き。気分転換が終る。
本棚ができ、本をつめこみ。もういいや。

そのあいだ、本は、読んでませんでした。
本棚ができ、各棚の空間を埋める楽しみ。

加藤秀俊著「整理学」(中公新書・1963年)をひらく。
目次に、「『いれもの』の問題」という箇所がある。
うん。あらためてひらく。

「日曜大工たちがいちばんひんぱんにおこなう作業は」
(p113)とある。そこに
「棚というものは、『もの』の立体的整理の第一歩である。」
なになに、
「戸棚、食器棚、飾り棚など、それから下駄箱やタンスなども
棚の変形である。一般に、空間利用の効率の最もいい『いれもの』は、
『棚』を基本形としているといってよい。」(p114)

うん、私はDIYの基本形をこころみておりました。
『立体的整理の第一歩』へ初心に帰りチャレンジ。

コメリにあった、杉KDカフェ板を見かけて
これを使っての本棚へのアプローチでした。
この板は厚さ3㎝×高さ2m×奥行き20㎝。これ一枚が998円。
うん。厚さが3㎝だと、ネジ釘を打つ素人も安心してできる。

棚の幅は、40㎝にして、5枚とれる。
これで、高さ2mの本棚がとりあえず出来る。
あとは、縦板に横板をつぎ足し、継足しして、
本棚を、ヨコへと拡張してゆく、
本棚の、後ろは板を張らずに、
あとは、棚ができたら、壁にL字で固定して完了。
これなら、素人の日曜大工でもなんとか完成。
高さが2mあるので、棚板は6枚だとベスト。
いちばん下は、コンクリート床なので、床から30㎝ほど
スペースをとって棚をとりつけ、下の空きスペースには
お得意の段ボール箱を置けるようにして雑書を容れこむ。

はい。素人のかなしさ。時間ばかりかかりました。
それはそうと、
国立民族学博物館の「梅棹忠夫 知的先覚者の軌跡」(2011年)
をとりだす。写真集のような体裁の一冊で所々文字で飽きない。
そこに、鶴見俊輔の2ページの文。そのはじまりは、

「『屋久島から帰ってきたおもしろい学生がいる。話をきいてみないか』。
と桑原武夫が言った。・・・1949年4月のことだ。
話は、屋久島がどこにあり、どのくらいの大きさの島か、からはじまった。」

こうして、梅棹忠夫氏を紹介してゆくのですが、
今西錦司・柳田国男が、さらりと出てきて、そのあとに

「京都で梅棹の家を訪ねると、庭に工作器具が置いてあって、
五ヵ年計画で、家を改造すると言う。こんな学者にはじめて会った。
家の隅には『暮しの設計』が積み上げられていた。
自宅改造に役にたつと言う。

マルクス主義者は梅棹忠夫の仕事を認めなかったが、
梅棹は、マルクス主義に一定の評価を与えていた。

こういうふうに世界を解釈すると、
こういうふうにまちがうという成果が出たから、それが業績だと言う。」
(p16~17)

はい。このページには、二つの写真。
柳田国男と梅棹忠夫のツーショット(1951年)。
雑誌掲載「アマチュア思想家宣言」(1954年5月号)の最初のページ。

この本、雑誌『別冊太陽』の図録みたいなサイズなので、
本棚に置こうとすると、別の棚にしまいこまれてしまい。
そのうち忘れてしまっておりました。今回の本棚整理で
ふたたび手にとれました。見ていて楽しみなのだけれど、
またまた、すぐに紛失してしまいそうな一冊なのでした。

それはそうと、加藤秀俊著「わが師わが友」(中央公論社)に、
その鶴見俊輔氏との会話が出てきます。

「鶴見さんは、ほとんどわたしと入れかわりに・・移られたから、
いっしょにいた期間はきわめて短かったが、そのあいだに、

わたしに、ぜひいちど梅棹忠夫という人に会いなさい、
と熱心にすすめられた。鶴見さんによると、梅棹さんという人は、

じぶんで金槌やカンナを使って簡単な建具など
さっさとつくってしまう人だ・・・というのであった。」(p80)


はい。わたしはといえば、台風15号の際の家の被害以来、
簡単な大工仕事に目ざめました。その延長の本棚つくり。





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本棚つくり。

2021-07-03 | 本棚並べ
地方におりますので、利点があります。
ほぼ使わない、倉庫みたいなスペースがある。

はい。とりあえず、そこに書棚を配置すれば、
本が並びます。本の顔がみれるのは分かりやすい。
20歳の後半からでしょうか、本を処分することを
やめておりました。ですから雑誌やら本やらは
ほぼ年齢に加算するように増えておりました。
なんせ、本を処分しないから、あとはたまり放題。
その癖、もし小学校からの教科書もとっておけば,
などと、不遜にも思い描くなら始末に負えません。

まあ、そういう計画を実現するべく、
コメリから材木を買って、本棚作成を試みております。
なんせ不器用ですから、不揃いの本棚が少しずつ完成。
横板に角度がついていたりしますが、気にしません。
とにかく作っちゃえ。と掛け声だけはいちにんまえ。

段ボール箱に寝ていた本が、顔を出します。
不器用な本棚でも、段ボール箱よりはまし。
そう思い、本は読まずに、本の並べに専念。
これがまあ、あっぱれ見事に未読本が並びます。
20歳代の頃、読んだ本を処分して、読まない本を置いて、
なんてことをしていたのですが、今になると、
読んだ本こそとっておくべきだと反省します。

はい。こんな反省は、毒ですよね。
もう、本を処分できなくなります。

いつかは読もうと、買ってあった本たち。
その、いつかが今、目の前へと並びます。


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おせっかいで心のあたたかな。

2021-06-28 | 詩歌
産経新聞の応援に、ブログで数回書いたら、
思い浮かんだ言葉が『おせっかい』でした。

う~ん。最近読んだ本にもありました。
鷲尾賢也著「編集とはどのような仕事なのか」では
ここらあたりかなあ。

「・・そこにあるのは自分ひとりの世界だ。
読書好きがいないわけではない。しかし、
本のおもしろさを他人に語ろうとしない。

これでは本の力は伝播しないし、拡がらない。
 ・・・・・・

私たち編集者はもっとおせっかいになってもよい
のではないかと思う。おもしろい、読みごたえのある
本を編集することは大前提であるが、その上で、
作った本、かつて手がけた本のよさを世に押し出す
努力が、もっとなされてしかるべきであろう。

おせっかいは押しつけでもあるが、いまの時代には
かえって必要なのではないか。・・・・・・・

読者へのおせっかい、それはいま編集者に求められて
いる態度のような気がする。・・・
そのくらい追い込まれているいのではないか。」(p205~207)

はい。これは編集者にとっての『読者へのおせっかい』
として語られているのですが、
『そのくらい追い込まれているのではないか』というのは、
部数減少に悩む新聞業界全体にも、同様な感じをもちます。

うん。このくらいにして、
『おせっかい』といえば、
私に思い浮かぶのは、お見合い。
はい。最後は、天野忠の詩『しずかな夫婦』の
はじまりの箇所を引用してみます。

    しずかな夫婦    天野忠

 結婚よりも私は『夫婦』が好きだった。
 とくにしずかな夫婦が好きだった。
 結婚をひとまたぎして直ぐ
 しずかな夫婦になれぬものかと思っていた。
 おせっかいで心のあたたかな人がいて
 私に結婚しろといった。
 キモノの裾をパッパッと勇敢に蹴って歩く娘を連れて
 ある日突然やってきた。


はい。4ページほどのちょっと長い詩です。
そのはじまりの箇所を引用してみました。

『おせっかいで心のあたたかな人がいて』とあります。
この頃、ついぞ見かけなくなりました。
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