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和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

魚返善雄(おがえりよしお)とは何者

2025-08-09 | 前書・後書。
とりあえず、はじめてなのですが、
守屋洋著「 中国古典百言百話6『老子・荘子』 」を読む。
守屋洋には「決定版・菜根譚」(PHP 研究所)というのがある。
こちらもつづけて読んでみたい。けれども、そのまえに、
魚返善雄著「大地の心 新訳菜根譚」(国民教育社・昭和25)を読むと、
これがめっぽう面白い。魚返善雄(おがえりよしお)とは、何者?
という興味がわいてくる。この本の目次のまえには
絵がありました。ずいぶん前の本のなので、かすんでいますが、
キュウリやナスに足をつけて、その上に人が乗っている図です。
絵の上には、著者の言葉がありました。

「 おさなき日のわれに
  雅と俗とを教えたまいし
  祖母のみたまにささげまつる
   この命日、8月26日
    庭のナス一つみのる 」

そういえば、20年より以前に買ってあった文庫本に
魚返善雄著「漢文入門」(教養文庫・昭和41年)がありました。
読まずに、あとがきだけ読んで本棚に置かれてそのままでした。
その文庫あとがきは、娘さんが書いておりました。
そこに一読忘れがたい箇所があったのを思い出しました。
今回は、そこを引用しておわります。

「とにかく彼は、いつも、どの本も姿勢を正して書いた。
 身も心もである。読む人にはどれほど面白おかしく
 書き飛ばしたように見えても、実は苦吟に満ちている。

 だから、本ができ上がった時の喜び方は、
 無邪気と言おうか、素朴と言おうか。
 
 その日、食卓は白いテーブルクロスでおおわれる。
 ビニールは厳禁。そしてささやかな花。可能ならば野の花。
 私にもなめられる、ワインか、ベルモットで乾杯。・・・
 乾杯がすめば新しい本の贈呈式である。

 第一冊めは彼を育てた、彼の『おばあさん』の写真に贈られる。
 第二冊めは、この前の著書に、一番心をこめた返事を下さった方に。
 第三冊めは自分の校訂用に。

 たとえ、それが50冊めの著者であろうと、
 60冊めであろうと、この行事には、
 いささかの変更もなかった。       」(p218~219)
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潺潺(せんせん:さらさら流れる浅い谷川の音)

2025-08-08 | 詩歌
中村草田男著「蕪村集」(大修館書店・1980年)から夏の一句。

一句を紹介する前に、まずはここから

「この句には、
( 白道上人のかりのやどり玉ひける草屋を訪ひ侍りて
  日くるるまでものがたりして・・・云々 )の言葉があって、
 
 その続きに、
( 前に細川のありて潺湲【せんかん:水が流れる音】と流れければ )
 という前書を付けて誌されているものである。

 つまり、白道上人の草庵へ訪い寄った時の実経験が
 そのまま句作の動機となっているわけである。・・・   」(p163)

それでは、その句を引用します。

     夏河を 越すうれしさよ 手に草履


はい。つぎには、中村草田男の訳を紹介

「 身は汗に、足は乾ききった白いほこりにまみれて、
  長い途を辿ってくると、一つの流れに遭遇した。
  
  見渡したところ橋らしいものもない。川幅はさして広くなく、
  水は底石の姿も透いて清冽である。
  ためらいなしに裾をかかげて渉り始めてみると、
  頭上へまで響くほど冷たく活きかえったような快さである。
  鼻緒に指をかけて手に草履をさげていることも、
  我ながら少年時代に返ったような幼い姿で、
  何ともいえぬ程嬉しい気持ちであった。    」(p162)


 読み進むと、『 少年時代 』への言及があります。

「・・もしこの句に前書がなかったならば、
 我々は主人公として一人の少年の姿のみを想像するに相違ない。・・・

 我々が終生『思い出』の中に老いざる姿として保持し続ける
 『少年時代』という意味に近い性質のものである。・・・  」(~p164)



  
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心身の回復を期して

2025-08-07 | 古典
島田潤一郎著「古くてあたらしい仕事」(新潮社)のなかに、
単行本「ガケ書房の頃」からの引用があって、さてそれでは、
その単行本のどこにあるかと、さがしてみてもなかなか
その箇所が見当たらない。パラパラと辞書をひくように、
言葉をさがすのですが、ないなあ。と思っていたら、本の最後にありました。
せっかくなので、そこをすこし引用。

「僕が子どものころ通っていたこま書房は、外商、つまり
 本の配達をかなり頑張っていた本屋だ。よく町中を
 自転車で走っているおじさんを見かけたものだった。

町のニーズになりふり構わず全身で応え、店主の機動力で生き延びてきた店。
僕の長い立ち読みを目の前にしながら、安息の場所として本屋に集まる人たち
を、おじさんは邪険にできなかったのかもしれない。

だからかわからないが、僕は本屋は勝者のための空間ではなく、
敗者のための空間なんじゃないかと思っている。
誰でも敗者になったときは、町の本屋へ駈け込んだらいい。 」(p284)


さてっと、ここからです。
本屋へと駈け込んでから、70を過ぎた私が選ぶ本はどれか?
「敗者の精神史」というのがありますが、私には荷が重い。
そのほかにはあるかなあ。と思っていたのでした。
こんなのはどうでしょう。

「・・『菜根譚』はままならぬ世に失意を託(かこ)つ人のために
 書かれた書である。志を得ぬ不運の人の情を慰め心の医(いや)す
 優しい心配りの主導調において、人を励まし勇気づけ気力を醸し出させる
 主題の一貫性は、けだし世界に屈指の傑作ではあるまいか。
 
 得意の人に書は要らない。
 気力衰え心弱り思いぞ屈した時にこそ、
 人は心身の回復を期して書を求めるのではあるまいか。 」


はい。これは谷沢永一・渡部昇一「『菜根譚』の裏を読む」ビジネス社の
はじまり「 『菜根譚』御案内 まえがきにかえて 」の谷沢氏の言葉です。

ということで、今年の私の夏の読書は『菜根譚(さいこんたん)』となります。
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草田男の洗礼

2025-08-05 | 先達たち
夏になると、中村草田男が思い浮かび、
それでもって、本をひろげることになります。

それでもって、今回注目したのは、
「わが父草田男」(みすず書房・1996年)の
「草田男とメルヘン」山本健吉・聞き手中村弓子(p40~56)

ここでの山本健吉さんの言葉から引用。

「・・キリスト教と草田男さんの文学の発想は
 切り離しがたいと思うんですよ。草田男さんは、
 私が言った『絶対の探求者』という詩人という考えを
 とても喜んで採り上げてくれたんですが、
 草田男さんの中のそういう宗教的な面は非常に
 本質的なものだと思うんですよ。

 かたちの中でも、あるいは読者でも誰でもいいんですけれど、
 草田男におけるカトリシズムというものを論じているか、
 あるいはそれに共感しているか、そういう評論をね、
 私はあまり見たことないんです。・・・・・・・

 草田男さんからカトリシズムを除いたら、
 やはり草田男さんの神髄はわからないという感じがするんです。

 ・・・・臨終洗礼っていうのは、半ば無意識か半無意識の状態のときに
 十字を切ったら、それでキリスト教を受け入れたしるしになるというような、
 ・・・ああいう無意識の状態は、やっぱりね、私は宗教にとって
 非常に大事なものだと思うんです。で、そういう状態で亡くなる
 直前に草田男さんが洗礼を受けたっていっても、充分納得できます。 」

このあとに娘さんの中村弓子さんの言葉がありました。

「キリスト教をめぐっての、父と母との関わりということについて、
 一つお話ししてもよろしいでしょうか。
 『 一雲雀 』という童話を母が非常に好きでして、
 童話集の『 風船の使者 』が出たのはちょうど母の亡くなった年でしたが
 そのときにまたあらためて読んで、父にも、それから子供たちにも
 『 一雲雀 』は非常に好きだと言っていたわけですね。
 私は子供として読んだとき、『一雲雀』の最後ですね、
 無私の愛による成就という、あれを読みまして、

 母がキリスト者として非常にそこに共感を覚えたのはよくわかりましたし、
 それからまた、父があの作品を書いたとき、おそらく
 自分の中にあるものと、母のそういうキリスト教的愛といいますか、
 そういうものが無意識のうちに重なって、精神的な合作というか、
 そういうようなものになったのという感じさえしました。」(~p45)


中村草田男の亡くなった奥さん。そして、中村草田男とキリスト教。
はい。今年の夏は、そこに注意がゆきました。
ということで、中村草田男の童話集『風船の使者』のその箇所を
今度読んでみます。今まで無意識に読んで感嘆していた
草田男の俳句が、その神髄はわからないままでも、
グッと、にじり寄ってくるような夏になるのかも。
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はじまりで、おわりで。

2025-08-04 | 道しるべ
朝方、寝床で板坂元著「考える技術・書く技術」(講談社現代新書)を
パラパラとめくっておりました。
そこから引用。

「学者というものは、自分の知らないことをはっきりと知らないと
 言えるようになったとき、はじめて一人前になったと言われるものだ。

 ・・・・その点からでも、註をたくさん入れて自他・公私を区別することは、
 まず、あらゆる方面での、はじまりでありおわりである。」(p202)


はい。註について。
平川祐弘著「一比較文学者の自伝」下巻(飛鳥新社・2025年7月)に
マリウス・ジャンセン氏との会話がでてきております。
そこに、『 日本の学問は後からチェックできない 』と語られている
箇所があって、何だか印象に残っております。

「・・・・しかし島田謹二の『アメリカにおける秋山真之』や
 江藤淳の『海は甦える』について、註がついていなことを指摘し、
 江藤についてはpopularizerになったと不満を洩らした。

 そして『 君(平川氏)のようにきちんと出典を記す学者が
      彼らを褒めるのはおかしい 』 とまで言った。

 ・・・次はパリ第七大学へ招かれたが、そこでも
 『 柳田国男のような学者も註がついておらず出典が示されていない。
  だから日本の学問は後からチェックできない。あなたのようにきちんと
  典拠を示す学者が柳田を褒めるのはおかしい 』と同じ事を言われた。

  それだけにそのことは強く印象された。・・・   」(p390~391)


最近読んだ本で、気になったのが、
島田潤一郎著「古くてあたらしい仕事」(新潮社・2019年)に
こんな箇所がありました。

「・・山下賢二さんは、ぼくが執筆を依頼した単行本
 『 ガケ書房の頃 』のなかで、
 『 本屋は勝者のための空間ではなく、敗者のための空間なんじゃないか
  と思っている。誰でも敗者になったときは、町の本屋へ駈け込んだらいい』
 と書いた。
 ぼくはこのくだりを読んだときに、自分の仕事の意味が、
 ようやくわかったような気持ちになった。  

 ぼくが本屋さんが好きで、本が好きなのは、
 それらが憂鬱であったぼくの心を支えてくれたからだ。
 それらが強い者の味方ではなく、弱者の側に立って、
 ぼくの心を励まし、こんな生き方や考え方もあるよ、
 と粘り強く教えてくれたからだ。     」(p191)

はい。敗者の矜持。それを探すには、たとえ
学者でなくっても本の註という細部をたどり、
自分から見つけ出してゆくしかなさそうです。
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萬緑の夏へ

2025-08-01 | 他生の縁
夏でまず、私が思い浮かべるのは、中村草田男。
「 萬緑の中や吾子の歯生え初むる 」

娘さんの中村弓子さんの言葉に
「 夏こそは父の季節であった。 」とあります。
( p57 「わが父草田男」みすず書房・1996年 )

今年は、さらにまた違った夏をみつけました。

「 庄野潤三の本 山の上の家 」夏葉社・2018年に
庄野潤三の長女夏子さんの文に(p71)ありました。

「父は、10月に生まれた私に『 夏子 』と名付ける程夏が好きでした。」

ちなみに、島田潤一郎著「古くてあたらしい仕事」(新潮社・2020年)の
「はじめに」の最初の一行は
「 33歳で、『夏葉社(なつはしゃ)』という出版社を立ちあげた。 」

この本をパラパラとめくっていたら最後の方に庄野潤三が出てきておりました

「 この作家の文章を、学生のころからずっと好きだった。 」(p197)

島田さんは、亡くなった庄野潤三の家族のところへ出かけております。

「家族はみな、亡き作家のことを『 おとうくん 』と呼んだ。」(p198)

「夏子さんは、『 おかあくん、ありがとうね 』とお母さまに話しかけた」
                           ( p204 )

萬緑の夏の日差しのなかに、聞こえてくる『おとうくん』『おかあくん』。


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いじけたり、ずるく構えて。

2025-07-30 | 前書・後書。
川喜田二郎著「素朴と文明」(講談社・1987年)。
この単行本古本が200円だったので買いました。
その自序から引用。

「・・この本で訴えているのは、
 仮説の証明ばかりでなく、仮説の発想も
 また学問のうちなのだということである。

 この点、日本の学者はいじけすぎているように思う。
 私には、欧米の学者の方がのびのびと、
 仮説発想の効用を認めているように見える。
 今後は、この点をめぐり、もっと
 活気のある百花斉放を試みるべきではないか。 」(p1)

はい。これが書かれたのは、今からほぼ40年前でした。
次のページには、こう書かれておりました。

「・・・自国中心の姿勢でいるうちは日本を世界の中心に据えた
 タテの感覚だけですむかも判らない。しかし今や日本は、
 国際世界の中で主役のひとつを演ずることが期待されているのである。

 芝居は役者がいれかわり立ちかわって登壇するからおもしろいのである。
 日本もまた、役割がすめば舞台から下りればよい。
 出番が終わってもなお意地汚く舞台に居座るべきではない。
 また、出番というのにいじけたりずるく構えて登壇しないのも無責任である

 そのためには、世界中の人びとと共に、全体としての芝居を、
 もっと主体的に考えようではないか。
 そんな願いもこの本にはこめられている。・・・  」

本のおわりを、ひっくりかえして見てみると、
そこには「創造への三つの段階」とある。
そのはじまりに『 混沌 』を置いている。

「 私はその代案を、勇敢に提出してみよう。
  われわれの根源的出発点は、主客の分離以前の
 『 混沌 』からでなければならない。これが第一段階である。
  そうしてその混沌の外からではなく、混沌それ自体の中から、
  創造への主体ともいうべきものが誕生してくるのである。・・」(p311)


うん。『 混沌 』といえば、荘子。
この夏は、荘子を一から読めますように。

ちなみに、この本の最後の2行を引用することに。

「・・・・だから私は、孔子の言葉を引いて幕を閉じよう。
 『 徳は弧ならず。必ず隣あり。 』  」(p318)
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新刊を買う。

2025-07-28 | 本棚並べ
平川祐弘著「一比較文学者の自伝」上下巻(飛鳥新社)を買うことに。
うん。連載中に雑誌を楽しんで読んだ者としては、ここは高い買い物でも、
買わなきゃ。と思ったしだいです。あとがきには、
「雑誌『Hanada』に2018年5月号から2022年3月号まで連載した」
とあり、それに第6章が追加されておりました。
はい。もう一度、単行本として読める幸せを味わうことに。
1931年生まれの平川祐弘氏を同時代で読めることの有難味。
この機会に、忘れずに平川祐弘著作集を古本で揃えて身近に置きます。
あとはどれだけチャレンジできるかですが、それはそれ。
身の丈に合わせて読み進めます(笑)。

島田潤一郎著「古くてあたらしい仕事」(新潮社)を古本で安かったので購入。
そこに、こんな箇所がありました。

「本の力を借りれば、どんな事柄だって、
 自分に引き寄せて考えることができる。

 机の上でひとりでじっと考えているだけでは
 五分ももたいない集中力が、活字を読み、
 ページをめくることで、10分も、30分も、
 1時間も持続する。よい本を読んだあとは、
 物事が以前よりクリアに見える。
 その著者の言葉がまだしっかりと頭に残っているから、
 それらでもって、自分の身の回りのことや、
 これまで思い悩んできたことを相対化するのだ。
 もちろん、しばらくすれば、そのほとんどは
 頭からすっぽり抜け落ちて、いつもの平凡な自分に戻る。  」(p152~153)


うん。ここも引用しなくっちゃ。

「 あるとき、地方の本屋さんの店主がぼくに、
  『 若い女性を信頼しなさい 』といった。

  彼女がいうには、男性たちは買い物にかんしては保守的であり、
  すでに評価の定まったものを買う傾向にある。

  けれど、若い女性たちは買い物のプロであり、
  男性たちよりも町に出て、たくさんのものを見ている。
  彼女たちはその磨かれた目で、商品を見て、
  よさそうだなと思ったら、その場で本を買ってくれる。

  その作家の名前も、出版社の名前も知らなくても、
  『 いいもの 』であれば、必ず彼女たちは手にとってくれる。 」(p186)


はい。若い女性じゃない私はオジサンだけども、
オジサンはオジサンなり、出会った著者を大切に、
平川祐弘へとチャレンジしてみます。





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講座終了。

2025-07-24 | 安房
7月23日一年一回の公民館講座が終わる。
恥のかき捨て。というところ。
募集は30人のところ、南房総市で30人応募がありました。
募集には、2時間の座学です。とうたっておきました。
題名は『 地元安房の関東大震災 』。
関心があるのか、皆さん静かに聞かれていたので、よかったのかどうか(笑)。
公民館で一か月後に、アンケート結果をプリントして
もってきてくださるまで、講座の感想は聞けないだろうなあ。
とにかくも、用意したテキストを端折りながら、時間内に収めました。
聞いてもらいたいことがあって、聞きたい方がいらしてくださって、
私は満足でした。公民館の推進委員の方々ありがとうございました。
また、A0サイズのコピーをしてもらい、用意万端でした。
といっても、百年前の地元の体験記録や生徒の作文を読んでゆくので、
あとは、興味を持ってくださるかどうか。というところでした。最初は、
当ブログの昨年までの記録をまとめればいいや、と思っていたのですが、
さいごは、参加される方の地域を事前に公民館よりお聞きして
その地域にできるだけ寄り添えるような話題になるように
あらためて、押っ取り刀で作成したような塩梅でした。
とにかくも、昨年から二年分の思いをテキスト化したようなわけでした。
うん。やれてよかった。と思っております。
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地元地震参考本⑥

2025-06-09 | 安房
安房南高校
① 安房南高等学校「創立百年史」(平成20年2月)
  高木淳氏による「関東大震災と安房高等女学校」(p21~22)がある。
  ちなみに、高木淳氏は地学科教諭。
  第2章「回想の百年」に島崎靖(旧姓西尾)の「ああ震災」(p79~80)
  が載っており、一読印象深い。そこから抜粋引用。

  「・・家屋の下敷となった一家五人の者は、九死に一生を得て
   我先にと小さな穴を破り、危ふい足取りで漸く安全地帯へと
   逃れ出たのは、それから間もない時であった。・・・

   それからそれへと絶え間なく響く物すごい地鳴、
   それにつづく大震動・・・

   午後の熱し切った太陽は一層の熱を加へて、
   哀れな避難民をいやが上にも照り付ける。
   三時と思はれる頃、余震もやや弱くその数も
   少し減じて来たのを見定めて、もろくも破壊された
   家の中にもぐり込んで重要な書類、家具など拾ひ集め
   漸く少しづつ運び出した・・・

   とやかくする中、太陽は無情にも没し去って四辺は
   たそがれの気に装はれた。急に人々は避難所をもとめて
   帰って行く。往来は急に人通りが多くなった。
   そこにはかめの中に入れた死人を運ぶ車も通った。
   哀れにも苦悶しつつある怪我人も通った。
   母親に死に別れた悲しさに人前もはばからず
   狂はんばかりに泣き叫ぶ青年も通った。・・・
   方々見舞や手伝ひに奔走された父も帰られて、
   やがて一つのお結びに空腹を凌ぎ取敢へず小屋を立てる事になった。
   庭の一隅に筵を敷き四壁と天井とは有合せの筵を張ったのみの
   簡単な小屋であった。

   ・・・はるか那古の空は盛んに燃え上る焔の為に
   淡紅色の層をなして暗黒の夜の空を色どって居た時は、
   言い知れぬ物すごさを感ぜずに居られなかった。
   
   今日の午前中まで存在して居た歓楽の住家が、
   今は自分の眼の前に敗残の大きな黒い影となって
   横たへられて居るのを見た時、又も言ひ知れぬ
   涙ぐましさにしばらく茫然・・・・

   『 つなみつなみ 』人々はかう叫びながら高台へ急ぐ。
   気付いて見ると波の音は異様なひびきをつたへて居る。
   しばらくたつと下の通りまで切迫したかの様にひびいて来た。
   隣の人は食料を持って逃げ支度をして居る。
   自分達はぢつとして居られず危機一髪の用意を整へて待ち構へた。
   幸ひそれは流言に過ぎなかった。人々は漸く安心したらしく、
   それから後は騒々しい人声も絶え細いともしびも消されて
   全く静寂となった。

   群をなして迫って来る蚊に攻められ、
   常ならばあけやすき夏の夜・・
   その夜は一刻千秋の思ひにただ夜の明けるのを待って居た・・・・
             ( 大正14年4月「校友会雑誌」第6号より ) 」


② 同じく高木淳氏によるプリント冊子
  「 安房南高校校誌に見る関東大震災 」
(2002年12月23日千葉県地学教育研究会総会・地学談話会 於 研究発表会)
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地元地震参考本⑤

2025-06-08 | 安房
千葉県立安房高等学校
① 創立八十年史(昭和58年3月)
   p196より関東大震災の記述。学校で
   柳悦多氏が亡くなった詳しい経緯が書かれております。
   そして、当時の在校生の作文が載っておりました。
    一年 北條の清水巌
    二年 岩井の忍足善司
    二年 千倉の鈴木義一
    四年 千倉の石井義次
   はい。これだけでも私には十分な読み応えがありました。
  ちなみに「大正編・昭和前期編・年表」の執筆担当は柳悦清氏。
   
② 創立百年史 (平成14年11月)
   こちらにも、関東大震災の記述がありますが、
   八十年史の記述の準じておりました。
   なお、和田金治氏の「八十年前のこと」(p592~)には、
   大正11年に入学した和田氏による震災後の北条海岸の様子などが
   印象に残りました。
   
③ 水田三喜男著「蕗のとう 私の履歴書」(昭和46年・日本経済新聞社)
   ここに関東大震災の安房中の記載があります。
   「 ・・寄宿舎も校舎も一瞬のうちに倒れた・・・
    北条の海岸にあった堀田伯爵の別荘から救援の依頼があり、
    渡辺勇君と私と四人の寄宿生が駆けつけて、
    天井や壁の下敷きになっている人たちを助け出し、
    代わる代わる人工呼吸を行なった・・・

    夜中になって津波が押し寄せるという情報が伝わってきたので、
    寄宿生はその晩みんなで山の方へ逃げ出した。
    嶺岡山の生家は幸いにも倒れていなかった。・・・・

    ・・・・・震災のあと、五年生は連日先頭に立って、
    跡片付けや復旧工事の手伝いをしたので、満足な授業もなく
    受験勉強もできないままに卒業するはめとなった。・・・ 」
                       ( p26~35 )
   
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地元地震参考本➃

2025-06-07 | 安房
千葉県立安房農学校の関連本

① 創立五十周年記念誌(昭和50年)
   塚越赳夫「地震の思ひ出」(p28~31)
   座談会「創立当時の思い出」(p42~46)
   貴島憲「五週年の回顧」(p76~78)

② 創立六十周年記念誌 五十周年以降の歩み(昭和58年)
   同窓会長・水島令郎「創立六十周年に当たって」

③ 創立八十周年記念誌 (平成15年)
   水島令郎氏インタビュー(水島氏の自宅にて 出版部生徒取材)
   p232~236

➃ 創立百周年記念誌 安房拓心高等学校
   はじまりの見開き右に、校歌とその楽譜
   左ページには大正12年9月関東大震災の直後に作詞された
   貴島憲先生の「復興の歌」歌詞が8番まで掲載され、
   その楽譜も載っており、印象鮮やか。

⑤ 大正大震災の回顧と其の復興 上巻(昭和8年)
   安房農学校・伊藤公平「震災遭難記」(p865~868)
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地元地震参考本③

2025-06-01 | 安房
学校の記念誌。
 
① 安房南高等学校 校友会誌6号(震災紀念号)
  ( この紀念号は、高木淳教諭からコピーを拝見 )
② 安房農業高等学校 創立五十周年記念誌(1975年発行)
③ 安房高等学校 創立八十年史(1983年発行)
➃ 安房高等学校 創立百年史(2002年発行)
⑤ 安房農業高等学校 創立八十周年記念誌(2003年発行)
⑥ 安房南高等学校 創立百年史(2008年発行)
⑦ 南三原小学校・幼稚園 閉園・閉校記念誌「みはみはら」(2019年発行)


たとえば⑦には
震災前に新築なった校舎の上棟式らしき写真が掲載されております。
この大正12年1月には、安房農学校の校舎も新築なったばかり。
( ②安房農業高等学校創立五十周年記念誌に詳細 )
それに九重小学校は「大正12年5月起工し8月末に新築。地震により倒潰」
( p42・館山市博物館図録「関東大震災と館山」令和5年度企画 )
「北条小学校が校舎2棟を増築し落成した日に地震によって倒潰」
( p13・同上 )

貴重なのは、各学校の記念誌で震災直後の先生と生徒回想文が読めること。
ということで、私が読めた範囲を記しておくわけです。
 
 
 
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後日の参考に ③

2025-05-31 | 地域
昨年の読売新聞2024年2月1日の文化欄に
災害情報論、社会心理学の関谷直也教授への聞書きが載っておりました。

そのはじまりは
「 能登半島地震が起きて改めて、各地で起きている災害を
  自分事として考えているか、と思わされた。
  まず、各地域で災害の特性が違うことを理解しなければならない。 」

そして、文の最後の方にはこうありました。
「 誰もが病気やトラブルに巻き込まれて身近な人を亡くすことはあるし、
  災害では、周囲のたくさんの人が前触れなく突然亡くなる。
  『 どうしてあの時対処できなかったか 』と、残された人は落ち込む。
  普通の人なら耐えられないし健常な状態ではいられない。

  だから忘却は心を守るために必要なのだ。
  東日本大震災の調査や被災地の様々な人とかかわってきた経験から、
  グリーフケア( 悲しみのケア )の観点で言えば、
  転がる石の角が徐々に取れるように、被災の記憶が少しずつ薄れ、
  風化するのは自然なことだ。

  ただ、社会には何かが残らないといけない。

  災害は忘れられることを前提に、
  地域で起きた過去の災害を知り、
  よその災害を学び、語り継ぐことが、
  真の防災だと思う。・・・・・・          」


また、聞き書きの真中ごろには、こうありました。

「 過去の災害の歴史を正確に学ぶことは大切だ。
  理学的に災害のメカニズムを解析すること、
  工学的に耐震設計やハード面の安全性を強化することは重要だが、
  命を守る行動につながるかは別だ。・・・・・・・・・

  個々人の心構えと具体的な防災行動につながって
  初めて防災として意味があり、科学も生きたことになる。・・ 」


はい。古新聞で今年になって読んで印象に残っております。
ここに『 過去の災害の歴史を正確に学ぶことは大切だ 』
とありました。思い浮かぶのは、
『安房震災誌』の凡例を記した編纂者・白鳥健の言葉でした。

「本書は記述の興味よりは、事実の正確を期したので・・・
 文章も、諸表の様式も、敢えて統一の形式をとらず、
 当時各町村が災害の現状そのものに就いて作成したままを
 なるべく保存するように注意した。  」

この『安房震災誌』を後世に残すことを企画したのは
安房郡長・大橋高四郎氏であったわけです。
この本が世に出た大正15年3月には、もう前安房郡長の肩書で、
序文に『安房震災誌の初めに』という文を寄せておられました。
ここには、文の後半の箇所を引用しておきます。

「 ・・・・震災誌編纂の計画は、
  これら県の内外の同情者の誠悃(まこと・まごころ)を紀念すると
  同時に、震災の跡を後日に伝へて、いささか今後の計に資する
  ところあらんとの微意に外ならない。

  震後復興の事は、当時大綱を建ててこれを国県の施設に俟つと共に、
  又町村の進んで取るべき大方針をも定めたのであった。

  が、本書の編纂は、もっぱら震災直後の有りの儘の状況を記するが
  主眼で、資料もまた其處に一段落を劃したのである。

  そして編纂の事は吏員劇忙の最中であったので、挙げてこれを
  白鳥健氏に嘱して、その完成をはかることにしたのであった。

  今、編纂成りて当時を追憶すれば、身はなほ大地震動の中に
  あるの感なきを得ない。聊か本書編纂の大要を記して、
  これを序辞に代へる。                  」


今年7月の公民館講座は『 地元安房の関東大震災 』と題して
この『 安房震災誌 』を出来るだけ正確にたどってゆきます。
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後日の参考に ②

2025-05-30 | 地震
武村雅之著「関東大震災 大東京圏の揺れを知る」(鹿島出版会・2003年発行)
この本の「まえがき」にこうありました。
ちょっと長くなりますが、すこし前から引用。

「 地震学者の中には、関東地震と言えば、
 フィリッピン海プレートが相模トラフから潜り込むために起こる
 マグニチュード8クラスのプレート境界地震であると説明し、
 それで満足している人もいるかもしれない。

 しかしながら、そんな事実もわからなかった時代に観測された
 地震記録の由来などを調べているうちに、私は
 プレート境界地震という説明だけでは、地震学的にも関東地震を
 理解したことにはならないのではないかと強く感じるようになった。

 史上最大の被害をもたらした地震なのに、
 それでは関東地震の『 個性 』を感じることもなく、
 起こったことに対してすら実感が湧かないのではないか・・・。
 
 そんな時に出会ったのが、多くの人が残した体験談である。

 ・・揺れやその後に引き続く余震の揺れを、その時、そこに
 生きていた人たちはどのように体感し、どのように捉えたか。
 体験談は多くのことを私に教えてくれた。そのお蔭で、
 私自身、関東地震を多少実感できるようになった。

 関東地震は・・・われわれ関東地方に住むものにとっては郷土の地震
 であり、自分たちの住む街の歴史に・・影響を及ぼした地震である。

 ・・・・地震防災のように日常生活に肉迫しなければならないことに
 科学はあまり役立たない。実感がもてない説明で、一般の人に地震防災
 に向けての行動を督促するのは無理難題と言えるかもしれない。・・ 」


はい。引用だけになりました。
ところで、この本の最後に並ぶ参考文献をひらいても、
そこには、『安房震災誌』が見当たらなかった。
それなら、ここはひとつ『安房震災誌』を紹介がてら
地元安房の関東大震災の『 個性 』を7月の講座で
自由にひも解いてゆくことに。
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