和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

なだめすかし。はげましつつ。

2022-12-31 | 本棚並べ
今年の後半に、大村はまを読もうと思った。
そう思っただけで全集も買ったまま年越し。
ということで、今日12月31日のブログです。

大村はまさんは、戦前の女学校から、
戦後、中学の先生として過ごします。

「それから、若い時は集められて研修会がありますけれど、
 年をとってくれば、自分で自分を研修するのが一人前の教師です。

 ・・学生は、教える人がいて、『 やりなさい 』と言われ、
 『 はい、はい 』とやるわけですが、一人前の人というのは、

 自分で自分のテーマを決め、自分で自分を鍛え、
 自分で自分の若さを保つ。

 これを一人前の教師というのではないでしょうか。
 研修に呼び出されなくたって、自分のことは自分でやる、

 そして子どもと同じ世界にいるということを
 いつも考えることが、ずっと大事だと思います。 」

 ( p32~33 大村はま著「新編教えるということ」ちくま学芸文庫 )

上記の文は、1970年8月富山県新規採用教員研修会での
大村はまの講演からの引用です。


はい。ボンヤリと思い浮かんだのは、
梅棹忠夫著「知的生産の技術」(岩波新書)の日記の箇所でした。

「・・・・
  技法や形式の研究なしに、意味のある日記がかきつづけられるほどには、
 『自分』というものは、えらくないのがふつうである。

  いろんなくふうをかさねて、『自分』をなだめすかしつつ、
  あるいははげましつつ、日記といういうものは、かきつづけられるのである。
  
 ・・・・『自分』というものは、
  時間とともに、たちまち『他人』になってしまううものである。
 
 ・・・・日記というものは、時間を異にした
 『自分』という『他人』との文通である、とかんがえておいたほうがいい。

     ( p162 )


さてっと、『自分』という『他人』との文通である。
と梅棹さんは指摘しております。
大村はまさんは、子どもを語って、先の文庫でこう語ります。

「 子どもというものは、恐ろしくあきやすい人間なので、
 『二度』ということは大きらいなのです。・・・・   」( p141 )


ただたんに、馬齢をくわえているだけなのですが、自分の中に、
『 子どもという、恐ろしくあきやすい人間 』が居座ってる。
そんな、自分の中の子どもの『他人』とどう折り合いをつける?

『 なだめすかしつつ、あるいははげましつつ 』

来年も、ブログを更新してゆきます。
どうぞ、よろしくお願いいたします。

来年こそ『大村はま国語教室』を読めますように。

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とても豊かな感じがする。

2022-12-30 | 先達たち
雑誌で、印象深い対談があったりします。
うん。雑誌は、すぐに忘れてしまいがち。

季刊『本とコンピュータ』1999年冬号。
ここに、鶴見俊輔と多田道太郎の対談
『 カードシステム事始 廃墟の共同研究 』が載ってる。

対談のはじまりには、二人して夜道を歩いている写真。
鶴見さんが笑っています。多田さんが少し後ろから、
まあまあというように鶴見さんの二の腕を押さえています。

対談は、1949年(昭和24年)の桑原武夫さんが中心となった、
共同研究が語られてゆきます。

ちゃんと、カードシステムについてふれながらの対談なのでした。
うん。二箇所引用。

「 皆の論文が集まってきたときに、桑原さんが
 
  『 いまとても豊かな感じがする 』

  と言ったのを覚えてるね。そういうものが
  共同研究の気分なんですよ。カードを共有する
  という発想もそこから生まれたんです。   」( p202 )


それから、対談の最後も引用しなくちゃ。

「 それとね、私たちの共同研究には、
  コーヒー一杯で何時間も雑談できるような
  自由な感覚がありました。

  桑原さんも若い人たちと一緒にいて、
  一日中でも話している。

  アイデアが飛び交っていって、
  その場でアイデアが伸びてくるんだよ。

  ああいう気分をつくれる人がおもしろいんだな。

  梅棹さんもね、『思想の科学』に書いてくれた
  原稿をもらうときに、京大前の進々堂という
  コーヒー屋で雑談するんです。

  原稿料なんてわずかなものです。私は

  『 おもしろい、おもしろい 』

  って聞いてるから、それだけが彼の報酬なんだよ。
  何時間も機嫌よく話してるんだ。(笑)

  雑談の中でアイデアが飛び交い、
  互いにやり取りすることで、その
  アイデアが伸びていったんです。・・   」 ( p207 )


はい。2023年になって、

  『 おもしろい、おもしろい 』

  『 いまとても豊かな感じがする 』

なんてセリフが飛び出し、伸びてゆきますように。
  

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新鮮な反復(リフレイン)。

2022-12-29 | 道しるべ
風塵抄から引用。

「民を新たにしつつ、みずからも新たにならねばならない。

 伊尹(いいん)の王の湯(とう)は、毎朝顔をあらった。
 かれはそのための青銅製盤に、9つの文字を彫りつけた。

 その銘にいう。 苟日新 日日新 又日新 。

  苟(まこと)ニ日ニ新(あらた)ナリ
  日日(ひび)新ナリ
  又(また)日ニ新ナリ

 新ということばが反復(リフレイン)されていて、こころよい。 」

    ( 司馬遼太郎著「風塵抄」の 56『新について』から引用 )



『新』ということで、思い浮かぶのは、
大村はま/ 苅谷剛彦・夏子「教えることの復権」(ちくま新書)。


夏子】 ・・・大村国語教室の一つの特徴として、30数年間で
    同じ単元を繰り返さなかったということが言われますね。・・

大村】他の人に向って、繰り返すべきでないと言うつもりはないです。
   第一、小学校などでは同じ教科書を何年か使わざるを得ないでしょう。
    
   繰り返してはいけないというわけではない。私にとって
   繰り返さないということは、教材としての理由というよりは、

   教室へ出る自分の姿をよい状態で保つ、主にそのための工夫でした。
   なにせ新しいものを持って教室に出るというときは、
   新鮮で、誰よりも自分がうれしいですよ。

夏子】それはそうでしょうね。その先生のうれしさが伝わって子どももうれしいし。

大村】そうね。なんとなくね。教師のもっともいい姿は、
   新鮮だということと謙虚だということですよ。

   中学生なんていうのは生意気でね、
   まだ小さいのになんとも言えない誇りを持っているのよ。

   だからちょっとでも未熟というふうに見られるのは、
   大人が想像できないほど嫌いですよ。

   新しい単元を持って出るときに、
   私はちっとも得意ではないのですよ。心配。
   大丈夫かな、うまくいくかしらって心配している。謙虚になっている。

   その少し心配している気持ちがとても子どもに合うのよ。
   新鮮で謙虚ということを間違いなくやろうと思ったら、

   新しい教材に限るんです。
   苦労することなく、自然に、よい状態を保つことができる。
   手慣れてくるとあぶない。・・・・       ( p66~67 )


うん。もうすこし引用をつづけたいけれど、ここまでにします。
新年にむかい『新』の反復ということで司馬遼太郎に大村はま。
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苟(まこと)に日に新(あらた)なり。

2022-12-28 | 短文紹介
司馬遼太郎著「風塵抄」の56は『 新について 』。

紀元前1600年。中国の古代王朝殷(いん)を語っておりました。

「 殷を興した湯(とう)という王は、
  『孟子』の『尽心章句』によると、
  うまれついての聖人・・と違い、
  努力してそうなったという。
  湯王は名臣伊尹(いいん)の補佐をうけた。伊尹は、
 
 『 時(こ)レ乃(すなわ)チ日ニ新(あらた)ナリ 』

  ということばが好きだった。
  徳を古びさせるな、ということである。徳とは、
  人に生きるよろこびをあたえるための人格的原理といっていい。」


うん。新聞のエッセイですので、短いので全文を引用したくなるのですが、
カットして最後の方にいきます。

「 とくに日新ということばが、江戸期の日本人は好きだった。
  たとえば、会津藩の有名な藩校が日新館であり、
  また、近江仁正寺(にしょうじ)藩(滋賀県日野町)や
  美濃苗木藩の藩校も同名である。
  美濃高須藩の場合、日新堂だった。  」

はい。このあとでした。司馬遼太郎は、こう続けます。

「  電池にかぎりがあるように、生体にも組織にも衰死がある。
   
   日本国は戦後に電池を入れかえたのだが、
   私は組織電池の寿命は三、四十年だと思っている。

   政治・行政の組織もつねづね点検して
   細胞を《 日に新 》たにせねば、
   部分的な死があり、やがて全体も死ぬ。 ・・・・ 」
 
               ( 1991(平成3)年1月7日 )


《 日々新 》と程遠い私でも年末年始は、
《 あらた 》な気持ちが蘇る気がします。
というので、司馬遼太郎『風塵抄』でした。
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文章に理系も文系もあるか。

2022-12-27 | 本棚並べ
親しくさせていただいている家の娘さんの旦那さんが
今南極へいっているそうなのでした。

それではと、西堀栄三郎著「南極越冬記」(岩波新書・1958年7月)
をとりだす。

ここは『あとがき』のはじまりを引用。

「南極へ旅立つにあたって、わたしは親友の桑原武夫君から宣告をうけた。
 『帰国後に一書を公刊することはお前の義務である』と。・・・
 しかし・・わたしは生来、字を書くことがとてもきらいである。・・・

 かれの意見に従おうと思ったけれど、時間の余裕があった南極越冬中でさえ、
 何一つ書きまとめることもできなかったわたしである。
 
 帰国後のものすごい忙しさの中で、とうてい桑原君のいうようなことが
 できようはずがない。・・・・
 桑原君は、いろいろと手配をして、指図をしてくれた。・・・

 ちょうど、みんなが忙しいときだった。
 桑原君は間もなく、京大のチョゴリザ遠征隊の隊長として、
 カラコルムへ向け出発してしまった。しかし、運のいいことに、
 ちょうどそのまえに、東南アジアから梅棹忠夫君が帰ってきた。
 ・・・・         」( p267~268 )


このあとは、梅棹忠夫著作集第16巻へと、バトンタッチ。
そのp496


にありました。

「西堀さんは元気にかえってこられたが、それからがたいへんだった。
 講演や座談会などにひっぱりだこだった。越冬中の記録を一冊の本に
 して出版するという約束が、岩波書店とのあいだにできていた。

 ・・・・桑原さんがいわれるには、

 『 西堀は自分で本をつくったりは、とてもようしよらんから、
   君がかわりにつくってやれ 』という命令である。・・・

 ・・・材料は山のようにあった。大判ハードカバーの横罫の
 ぶあついノートに、西堀さんはぎっしりと日記をつけておられた。

 そのうえ、南極大陸での観察にもとづく、さまざまなエッセイの
 原稿があった。このままのかたちではどうしようもないので、

 全部を縦がきの原稿用紙にかきなおしてもらった。
 200字づめの原稿用紙で数千枚あった。これを編集して、
 岩波新書の一冊分にまでちぢめるのが、わたしの仕事だった。

 ・・・全体としては、越冬中のできごとの経過をたどりながら、
 要所要所にエピソードをはさみこみ、いくつもの山場をもりあげてゆくのである。
 大広間の床いっぱいに、ひとまとまりごとにクリップでとめた
 原稿用紙をならべて、それをつなぎながら冗長な部分をけずり、
 文章をなおしてゆくのである。・・・・    」


せっかくなので、昨日引用した司馬遼太郎の講演「週刊誌と日本語」
から、西堀栄三郎氏が登場している箇所を引用しておきます。


「 西堀栄三郎さんという方がいます。・・・
  大変な学者です。探検家でもあり、南極越冬隊の隊長でもありました。

  桑原さんと西堀さんは高等学校が一緒です。
  南極探検から帰ってきて名声とみに高しという時期の話です。

  西堀さんはすぐれた学者ですが、しかし文章をお書きにならない。
  桑原さんはこう言った。

 『 だから、お前さんはだめなんだ。自分の体験してきたことを
   文章に書かないというのは、非常によくない 』

 西堀さんはよく日本人が言いそうなせりふで答えたそうですね。

 『 おれは理系の人間だから、文章が苦手なんだ 』

 『 文章に理系も文系もあるか』

 『 じゃ、どうすれば文章が書けるようになるんだ 』

 私は、この次に出た言葉が桑原武夫が言うからすごいと思うのです。

 『 お前さんは電車の中で週刊誌を読め 』

 西堀さんはおたおたしたそうです。
 
 『 週刊誌を読んだことがない 』       」


ちなみに、この司馬さんの講演の最後に正岡子規がでてきておりました。
さいごに、そこを引用しておくことに。

「子規よりも漱石のほうが後世に与えた影響は大きいですね。
 
 しかし、読み比べてみますと、子規の文章のほうが
 はるかに柔軟で、非常に透明感が高く、明晰でもある。

 国語解釈上の諸問題を出す余地がないくらいに明晰なのです。

 そういう文章をわれわれは喜ばなくてはならない。
 わかりにくい文章を喜んではいけません。

 国語の教育者は、非常に難解な、偏波(へんぱ)な
 過去の文章の解釈を喜ぶよりも、共通の文章語を
 教えなくてはなりませんね。
 先生方ご自身が考えていくことですね。

 平易さと明晰さ、論理の明快さ。
 そして情感がこもらなくてはなりません。

 絵画でも音楽でもそうですが、
 文章もひとつの快感の体系です。

 不快感をもたらすような文章はよくありません。・・・・ 」

ちなみに、司馬さんの『週刊誌と日本語』は
1975年11月松山市民会館大ホールでおこなわれた
「第49回全国大学国語教育学会」での講演でした。

それで『先生方』という言葉がでてくるのだなあ。
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非常に広い心をもって。

2022-12-26 | 本棚並べ
大村はまさんは、講演でこう語っておりました。

「 私たちの毎日毎日やっています
  一つ一つの小さなことを、
  技術と言っていいと思います。 」

「 ふつうの時は、私たちとしては毎日毎日の、
  聞いたり、話したり、読んだり、書いたりする
  子どもの生活を一歩でも向上させるために
  
  自分の技術をみがくこと、それが教育愛だと思います。

  技術ということばは聞き慣れないせいか、何かこう
  浅い表面的なことのように聞こえていやだという
  気持ちの方もあるようです。・・・        」

    ( p6 「大村はま国語教室」第11巻 )

『技術』で、思い浮かぶのは梅棹忠夫著「知的生産の技術」(岩波新書)。
ということで、この新書をとりだしてくる。
「まえがき」の1ページ目には、こうあります。

「 研究のすすめかたの、ちょっとしたコツみたいなものが、
  かえってほんとうの役にたったのである。
  そういうことは、本にはかいてないものだ。  」

それからあとには、こうもありました。

「 最初の連載をはじめるときに、題名に苦労した。
  かきたいことが頭のなかに、もやもやとあるのだが、
  それを適切に表現することばが、なかなかみつからなかった。
  ・・・・・

  そのころ、湯川秀樹先生が、わたしのプランのことをつたえきかれて、
  これはやはり一種の『技術』の問題ではないか、というヒントをくださった。
  たしかにいわれてみると、これは『技術』だ。
  しかし、なんの技術だろうか。
  『勉強の技術』というのでは、すこしものたりない。
  もっと創造的な知的活動の技術だというつもりで、
  『知的生産の技術』ということにしたのである。  」


ちなみに、最初に引用した
大村はまさんの講演は、昭和31年12月広島での講演。そして、
『知的生産の技術』は、昭和44年7月第1刷発行。

技術を語る。この年度差をどう埋めてゆくかの楽しみ。

たとえば、谷内六郎の表紙絵ではじまる週刊新潮創刊号は、
いつ頃だったかといえば、昭和31年2月19日が創刊号です。

これについて、私に思い浮かぶ二冊があります。

桑原武夫対談集「日本語考」(潮出版社)のなかの
司馬遼太郎との対談。そして、

「司馬遼太郎が語る日本」未公開講演録愛蔵版Ⅱ(朝日新聞社)の
「週刊誌と日本語」。


はい。ここは、『週刊誌と日本語』から抜粋。

「・・戦争を経て、昭和30年代になりますと、
 出版社の新潮社が、よせばいいのに週刊誌を出した。

 これは大変にカネのかかる、危急存亡にかかわる道楽だったと思うのですが、
 それが成功しました。するとほかの文芸春秋なども週刊誌を出し始め、
 大変な乱戦状態になった。老舗の新聞社も太平をきめこむわけにいかなくなり、
 いろいろ頑張った。一時期のはげしい週刊誌時代がつくられることになりました。

 私もそのころ、週刊誌というのは不思議なものだなと思っていました。

 いまの週刊誌とは違い、昭和30年代の週刊誌はまだ、
 天下国家を憂えるといった顔をしておりました。

 電車の中で大学の先生も読んでいれば、学生も読んでいる。
 国語の先生も読んでいれば、左官の仕事を修業中の青年も読んでいる。

 週刊誌を読むという、ひとつの共通の場が
 できあがったんだなあと思ったことがあります。

 だれが読んでも読み方が違うということはなく、
 そこには週刊誌読者としての好奇心がある。
 平均化され、いわば馴らされたものがある。

 ちょっとレベルの高い週刊誌と低いレベルの週刊誌がありますが、
 当時はまずほぼ同じレベルの週刊誌がひしめいていたから、
 そう思ったのでしょう。

 そのことを桑原さんもおっしゃった。

 『 週刊誌が共通の文章日本語を作ったことに
   いささかの貢献をしたのではないか    』

 その次に桑原さんは少し語弊のあることをおっしゃった。

 『 週刊誌に載っている作家の文章と、
   週刊誌のトップ記事の文章とは、似てきましたね。 』

 そこには相互影響があるということなのでしょう。さらに、

 『 他の雑誌に載っている作家の文章も、
   週刊誌の文章に似てきましたね   』

 こういうことを言いますとですね、文芸批評家から、

 『 だからけしからん 』

 と言われることになります。

 非常に広い心をもってこの問題を考えてみてください。
 こういう話を聞いてもらって、みなさんのなかで
 また違う答えを出してほしいと思います。

 共通の日本語というものを、
 国語の先生も、作家も、ジャーナリストも、
 みんなで作りつつあるというのが、
 いまの私の認識であります。        」( p69~70 )



はい。ながなが引用しちゃいました。
ここに出てくる『国語の先生も』という箇所。
今の私は大村はま先生に焦点を絞ってみたい。
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『技術』というインパクト。

2022-12-24 | 短文紹介
当ブログは、引用からなっております。

引用すれば、カットし削る箇所は多い。
あれこれ、欲張ると焦点はボヤけるし。

不思議なもので、自分が引用していると、
他人の引用に興味を示すようになります。

惜しげもなく、削られた引用文をみていると、
削りカスと思われた箇所にも大切なものがあるような。

それでもって、引用された箇所の全体を読みたくなる。
ああ、こうして引用しながら、ここを削っているなあ、
とか、引用箇所がどうしても呑みこめないと、前後の
文章を通して読んでみたくなる。

うん。新聞でいえば、見出しだけで満足していたのが、
それだけで満足できず本文を読んでみたくなり始める。
馬齢を重ねやっとそういう気持ちになりつつあります。

人の引用する振り見て、我が引用する振り直せ。


はい。な~に、言ってるのやらですね。


大村はま著「新編教えるということ」(ちくま学芸文庫・1996年)は、
大村はまの講演を選んでまとめたものです。
そして「大村はま国語教室」の第11巻(筑摩書房・1983年)も講演集。
巻末の解説(倉沢栄吉)のはじまりにこうあります。

「本巻(第11集)は昭和31年から20年以上にわたる講演記録の中から
 精選された講演集である。・・・・

 著者は、もともと講演依頼に直ちに快く応じるという方ではない。
 むしろ、消極的に対応する。それでも断りきれなくて・・・・ 」(p375)


はい。文庫「新編教えるということ」に掲載されなかった講演が、
全集第11巻に、載せられてありました。

ここには、全集第11巻の講演のはじまりを引用します。
はい。できるだけ削らないようにしてみます。

大村はまは、昭和22年制定された新制中学校へ赴任しました。
講演は、昭和31年12月広島県での講演です。
その「はじめに」は見出しが「教育技術について」とある。
技術といえば、「知的生産の技術」を私は思い浮かべます。
それでは、「はじめに」から適宜引用してゆきます。

「・・・母親が子どもを愛するといいますが、
 どういうふうにその愛は表現されているでしょうか。

 まったくあたりまえのことの中に表わされていると思うのです。
 ごく平凡に、学校に遅れないように朝起こしてごはんを食べさせたり、
 帰ってくれば身のまわりのことをしたりして世話をします。

 そういう一つ一つのことの中に母の愛というものがさりげなく表されています。 
 ふだんは母の愛はどこにあるか目につかないように、
 あるものではないかと思います。

 私たち教師の愛というのも、そのようなものではないかと思うのです。
 ・・・毎日毎日の教室の中に起こってくる小さなことをいちばんいい
 方法で処理し、そしてそれができるようにと思って苦心する。・・・

 ・・ふつうの時は、私たちとしては毎日毎日の、聞いたり、話したり、
 読んだり、書いたりする子どもの生活を一歩でも向上させるために
 
 自分の技術をみがくこと、それが教育愛だと思います。
 技術ということばは聞き慣れないせいか、何かこう浅い表面的な
 ことのように聞こえていやだという気持ちの方もあるようです。

 技術というと技術屋ということばが出てきて、何か手先のことのような、
 実際にはないものをうまくやるような印象を与えるように思われます。

 そういう印象を与えることは残念なことですけれども、それを思いますと、
 よけいに技術というものが、どういうものかを考えてみたいと思うのです。


 私たちの毎日毎日やっています一つ一つの小さいことを、
 技術と言っていいと思います。・・・・・

 私たちは教育者として子どもへの愛を何で表現するかといいますと、
 結局すばらしい指導技術でもって表わすほかには、
 ちょっと表わし方がないのではないかと思うのです。

 私がいろんなことをこうしたらいいんではないか、ああしたらいいんでは
 ないかと考えてやってみますことも、結局はそういうところに根ざしております。」

 
  これは、広島県大下学園国語教室研究会での講演とあります。
  講演の題は「国語学習指導の記録から」となっておりました。
  ここまでも、引用をところどころ削りました、ご勘弁下さい。
  「はじめに」は、まだつづきます。

「私は、昭和22年新制中学校ができましたときに中学へ出ました。
 それまで女学校におりました・・・・。

 私は国語が好きで、指導法についてその前からいろいろなことを試みておりました。

 中学校へ出ますときに友だちが反対をしまして、
 つまらないことをするなと言ってくれました。

 ですけれども、終戦直後の気持ちに押されたと申せばそれまでですけれども、
 新しく生まれてくる中学校のために――当時経験年数が20年――
 20年の経験をもって何かしたいという気持ちで胸がいっぱいになっていたのです。
 ・・・・・

 それから中学校の生活が始まったのですけれども、
 予想した以上の困難にたくさん出会いました。

 しかし今考えてみますと、そのころの何もなかった時代に苦労したことの中から、
 いろんな技術といわれることが発見できたのは、
 どれほどよいことであったかわからないのです。

 技術ということをいやがる方は人に見せるためといった、
 また、小手先のことといった印象をお受けになるようですが、

 私はそういう印象を拭っていただきたいという気持ちで
 今このお話をしております。             」( ~p7 )


はい。これが講演の本題にはいるための導入箇所なのです。
うん。今回はちょっと長く引用しすぎでしたでしょうか?


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「ふるさと」の「中学生」。

2022-12-23 | 三題噺
3冊の本

① 大村はま著「新編教えるということ」(ちくま学芸文庫)
② 岡康道・小田嶋隆「いつだって僕たちは途上にいる」(講談社)
③ 猪瀬直樹著「唱歌誕生」(中公文庫)
      この文庫の副題は「ふるさとを創った男」とあります。


はい。この順に、中学生の箇所を引用してゆきます。

① 戦後の昭和22年に、新制中学校が発足します。
  その際に、大村はまは、どうしたか?

「 戦前、私は・・都立八潮高校(当時、府立第八高女)におりました。
  十年も勤続しておりました・・・・・・

  そして昭和22年、新制中学校が発足しました。・・・・
  新しい時代の建設のために作られた六・三制の、
  海のものとも山のものともわからない中学校・・へ出ました。
  何か新しい時代を作る人を育てる仕事に身を投げいれて、
  どんな苦労もいとわないと思ったのです。・・最初から捨て身でした。」
                    ( p44~45 )

② 二人の対談なのですが、進行役が、こう語ります。

 ――・・岡さんも小田嶋さんも中二病だということが分かりましたね。

岡・小田嶋  え・・・そうですか?

 ―― 自分が中二病だという自覚はありました?

岡】 まあ、言われてみればそうですよね。
   いや、何となくありますよ。

小田嶋】 だから、だいたいあるところで成長が止まった部分って、
     それは本当に直らないよ。

岡】  直らないよね。

小田嶋】 ちゃんと組織で揉まれた人間は、そこのところは
     角が取れていくのかもしれないけど、

     そこを嫌だ、と言って俺も岡も組織から出ちゃった
     人なわけだから、その中二的な変な角がちょこちょこ、
     ちょこちょこ出るわけでしょう。

岡】   取れないですよ。

          ・・・・・        ( p98~99 )



③ この文庫の最後に、
  長野の中学校五十周年記念講演( 1996年10月12日 )が
  載っておりました。その最後を引用。

「たまたま僕の知り合いで、新潟県出身の新井満という作家がいますが、
 彼の娘さんがロンドンに留学したら、
 自分で一人で夜中に『故郷(ふるさと)』を歌ったというのです。

 これから皆さんも東京に行ったり、あるいは外国に行くかもしれませんが、
 この歌が大きな支えとなると思います。それはなぜかというと、

 『いつの日にか 帰らん』ということもそうですが、
 『夢は今もめぐりて』も大切です。その『夢』というのは何か。
 『ふるさと』というのは何か。

 それは場所ではないんです。
 長野はふるさとなんだけれども、
 結局ふるさとというのは、自分のふるさとというのは、
 
 中学生くらいのころのことなんです。
 小学校から中学、高校くらい。特に中学くらい。

 つまりそのころ考えた夢のありか。
 それがふるさとなんです。

 だから空間だけではないんです。空間もそうなんだけれど、
 時間の中にふるさとはあるんです。

 これからあと、十年、二十年、三十年と歳をとっていきます。
 その時どんなことを考えたか、どんな夢を抱いたかということです。

 その場所に必ず戻っていきますから、
 そういう意味でこの歌をもう一度思い出してみてください。
 たぶん高校に入ったらあまり歌わなくなると思いますが、
 いずれ外国に行ったり、遠くに行ったりしたときに、
 中学生の時にいったい何を考えていたんだろうなあ
 という時に歌うといいと思います。        」( p310 )


はい。この三冊から、中学生を取りだしてみました。 


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「素晴らしき哉、人生」

2022-12-22 | 古典
新聞は、テレビ欄を覗く楽しみ(笑)。

さてっと、今日の午後1時からNHKBSプレミアムで
映画『素晴らしき哉、人生』(字幕)を放映。
うん。この機会に再見。

ハローウィンは、私にはどうもピンとこない。それなら、
年末年始のこの時期なら、クリスマスが思い浮かびます。

うん。『素晴らしき哉、人生』を録画しておくことに。
ということで、この映画のお話。

瀬戸川猛資著「夢想の研究」(早川書房・1993年)からの引用。

「・・唐突に思い出すのは、フランク・キャプラ監督の
 アメリカ映画『素晴らしき哉、人生!』(’46)である。

 人生に絶望して自殺しかけたジェームズ・スチュアートを、
 天国の見習い天使ヘンリー・トラヴァースが
 クリスマスの晩に救いにやって来て、
 
 《 彼が存在しなかったもうひとつの世界 ≫を見せてやる。
 というストーリーのこの作品は、
 『オズの魔法使』と並び称されるアメリカ・ファンタジー映画の古典である。
 同時にまたこれは、西欧の生んだクリスマス映画の最高傑作でもある。
 ・・・・・

 わたしはかねがねこの映画に感嘆していた。
 なんというか、普通の映画の規格をはずれた『すごさ』を感じるのである。

 とくにラストの30分。このめちゃくちゃなフィナーレは、まったくすごい。
 演出とか演技とか映像とかいったものを超えた何かがある。

 あれはいったい何なのだろう?・・・・
 あれは、クリスマスの祖先たる太古の祭りの熱狂のすごさなのだ。

 時間と次元の混乱。
 クリスマス・プレゼントというとてつもない無償の贈り物。
 古い秩序の崩壊と新しい人生の誕生。

 『素晴らしき哉、人生!』は、
 ≪ 死と再生 ≫の祝祭に捧げられた寓話なのである。」( p186~187 )


はい。この言葉を噛みしめながら、録画して映画を再見することに。
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きれいさっぱりわすれて。

2022-12-20 | 道しるべ
年末年始で思い浮かべるのは、年賀はがき。
書き初め。百人一首。年賀の挨拶ときて、
そうそう。日記もありました。

今年こそは日記を書こう。
この年になってまだ、そんなことを思ってる。
毎年三日坊主の癖して、性懲りもなく。

続かない初心を、忘るべからず。
ということで、今回は日記をとりあげます。

梅棹忠夫著「知的生産の技術」(岩波新書)は、1969年出版。
この年(昭和44年)、前田夏子(今の苅谷夏子)が大村はまの
中学校に入っております。


はい。国語教室で読まれていた『知的生産の技術』を思いながら、
あらためて、この岩波新書をひらいてみます。

『知的生産の技術』の第9章は「日記と記録」。
この第9章のはじまりの小見出しは「自分という他人との文通」。

「年末になると、書店の店さきに日記帳がならびだす。・・」
とはじまっています。はい。すこし長く引用しますよ。

「 日記とはいったい何であるか、などという本質論はあとまわしにして、
  とりあえず、日記のかき方について、しるそう。こういうことも、

  前章の手紙の話とおなじで、学校でもおしえないし、
  一般にも議論されることがない。そのため、形式や技法が
  いっこう進歩しないのである。

  新年に日記をつけはじめても、まもなくやめてしまう人がおおい
  というのは、ひとつにはその技術の開発がおくれているためであって、
  かく人の意志薄弱とばかりはいえない点もあろう。 」( p161~162 )


うんうん。すぐ意志薄弱へと結びつける私が間違っていそうに思えてくる。
ということで、梅棹氏の文をつづけてゆきます。

「 日記は、人にみせるものでなく、自分のためにかくものだ。
  自分のためのものに技法も形式もあるものか。

  こういうかんがえ方もあろうが、そのかんがえは、
  二つの点でまちがっているとおもう。第一に、
  技法や形式の研究なしに、意味のある日記がかきつづけられるほどには、

  『自分』というものは、えらくないのがふつうである。
  いろんなくふうをかさねて、『自分』をなだめすかしつつ、
  あるいははげましつつ、日記というものは、かきつづけられるのである。

  第二に、『自分』というものは、時間とともに、
  たちまち『他人』になってしまうものである。

  形式や技法を無視していたのでは、すぐに、
  自分でも何のことがかいてあるのか、わからなくなってしまう。

  日記というものは、時間を異にした
  『自分』という『他人』との文通である、とかんがえておいたほうがいい。
  手紙に形式があるように、日記にも形式が必要である。・・」(p162)

このあとの梅棹氏の語りを引用していくと切りがないのでここまでにして、
第3章「カードとそのつかいかた」からも、最後に引用しておくことに。

「カードは、わすれるためにつけるものである。・・・
 つまり、つぎにこのカードをみるときには、
 その内容については、きれいさっぱりわすれているもの、
 というつもりでかくのである。

 したがって・・・
 自分だけにわかるつもりのメモふうのかきかたは、しないほうがいい。
 一年もたてば、自分でもなんのことやらわからなくなるものだ。

 自分というものは、時間がたてば他人とおなじだ、
 ということをわすれてはならない。    」( p54~55 )


さて、ここからです。
大村はま先生は、この新書を生徒たちに読ませて、
ご自身も読んで、どう授業に反映させていたのか?










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ひとかかえもある。

2022-12-19 | 前書・後書。
『大村はま国語教室』(筑摩書房)の全21冊。
古本で購入したのが10月下旬。そのままで今年も終わりそう。

かくなるうえは、数冊に絞って読み、来年につなげよう。
ということで、指し示してくれる箇所に注目することに。

「大村はま国語教室」第11巻をひらく。この巻の内容は、
 解説(倉沢栄吉)のはじまりに示されておりました。

「 本巻は昭和31年から20年以上にわたる
  講演記録の中から精選された講演集である。・・ 」(p375)

解説の最後には、こうあったのです。

「 ・・本巻は前にも述べたように、
  第一巻、第十三巻などと響き合って、著者の実践的精髄を、
  具体的に凝縮したものとすることができよう。      」 (p382)

それでは、『具体的な凝縮』とはなんなのか?

第11巻の月報のはじまりは石森伸男さん。
その題は「『大村はま国語教室』を読む人たちに」。
この題は、全集を読まない私に語りかけるようです。
石森氏の、月報の言葉を引用。

「 終戦後まもなく、国語の指導要領を編集したときから、
  大村さんと話をするようになった。

  実際教育の話などを始めると、とかく話が固くなって狭くなる。
  具体的にならずに、抽象的になりやすい。まとまらずに、

  各人各様の考えだけが打ち出されるきらいがある。
  わたしはそれがきらいで、何とかしてもっと拡げたいし、
  おもしろく個性的であるように工夫して語る。

  特に、国語教育の場合には、この願いをいつも心の奥に持っていた。
  大村さんに出合ってから、始めてこの願いが達せられた。

  その時の喜びと望みとは、今も忘れずにいる。・・・・

  大村さんの研究授業には、できるだけ出席することにした。
  すると、その研究の資料、教材はいうまでもなく、
  その指導書、その参考資料などが謄写版に刷られて、
  ひとかかえもあるほど手わたされた。

  これは、大村さんがひとりで書き、ひとりで印刷し、
  ひとりでまとめたものである。それが研究授業の度のこと・・
  持ち帰って読み通すことも大変なことであった。

  わたしの言いたいことは、まだこの他にもある。・・・・   」


さてっと、全集の中の三冊。
パラパラでも、ひらきたい。
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読書発想の若々しさ。

2022-12-18 | 前書・後書。
『大村はま国語教室』第8巻(筑摩書房・1984年)。

この解説(倉沢栄吉)を読んでみました。
アレレ~。苅谷夏子さんが、
中学生の頃の前田夏子として、そこに登場しております。

中学生の読書について、倉沢さんはこう指摘してます。

「そのうえ、中学生という時期は、個性の分化にともなって、
 
 ひどく瞑想的な読書をして思想を固めようとする傾向や、

 いわゆる文学少女的読書に埋没していく流れや、

 娯楽読書をのみ繰り返している生徒の群れなど、

 さまざまに分岐していく時期である。・・・・   」( p499 )


うん。この巻の本文を読んでいないくせして、
解説から、もうすこし引用をさせてください。

「平凡なことだが、この巻にも示されている大村はま国語教室は、
 『学習の充実と活性』の特色を見事に示している。

 とかく、読書嫌い・本離れになりがちな現代青少年を、
 どのようにして読書人としてまともに育てていったらよいかが、

 事細かに、明確にふちどられて示されている。・・・・  」( p500 )


「 発想の非凡さは申すまでもない。まえがきに・・・

 〇 ・・・・
 〇 ・・・・
 〇 問題にあうと、助けを本に求める人というような意味で、
   読書人という言葉を使ってみた。・・生きていくことに、
   生活のなかに、読書を位置づけている人である。

 ・・こういう発想が大村はま国語教室を若々しくさせている。 」(p501)


うん。解説だけ読みそれで満足して、
本文を読まずに語りたがる私ですが、
若い発想を促してくれてる国語教室。

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おおらかで軽やかな。

2022-12-17 | 道しるべ
師走といっても、おきらくに暮らしています。
何もしていないから思い浮かぶ本があります。

今朝思い浮かんだ本は、岡倉覚三著「茶の本」(岩波文庫)。
御存知。岡倉天心の本です。英文で書かれ、岩波文庫は村岡博訳。
この文庫には、天心の弟・岡倉由三郎の「はしがき」があり、
最後の解説は、福原麟太郎。

本文の第一章「人情の碗」の数行目にこうあります。

「 茶道の容義は『不完全なもの』を崇拝するにある。
  いわゆる人生というこの不可解なもののうちに、
  何か可能なものを成就しようとするやさしい企てであるから。 」


はい。年末年始にあたって、
『 いわゆる人生というこの不可解なもの 』に
思いを馳せるわけです。

さてっと、ブログへ書き込みをしていると、
私の場合、写真とかはアップしてないので、
文字だけで完結しちゃうブログなのですが、
文字にもそれなりに一年の起承転結はある、
ということにして、つぎに思い浮かぶのは、

角川選書「俳句用語の基礎知識」でした。
ここに『挙句(あげく)』の記述がある。

歌仙の場合は36句ですが、こうあります。

「 なお三十六句のうち、名称のあるのは
  『発句』『脇(わき)』『第三』『挙句』で、
  そのほかはすべて『平句(ひらく)』という。 」

うん。平句以外だけだと、まるで、起承転結の四文字みたいです。
起が『発句』。承が『脇』。転が『第三』。そして結が『挙句』。

この角川選書で『挙句』を説明しているのは、山下一海氏。
6ページほどで、説明しておられました。
ここには、最後のページを引用しておくことに。

「 ともあれ、大らかで軽やかな挙句の響きは、古い時代の
  俳諧の風韻をよく伝えるものである。

  現代の俳人諸氏も、ときには挙句を口ずさんでみて
  その味わいを楽しまれるとよい。もっとも、

  連句一巻の巻頭にある発句は、独立して俳句として作られるようになるが、
  常に前句に付けられ、一句としては軽いものであった挙句は、
  独立して作られることにはならなかった。  」


 「【一般語への転用】 この挙句という言葉は、
   転じて物事の終わりや、終わってからの結果をあらわすようになり、
   さらに一つの職業や地位から他に移ってきたことや
   その人をあらわすこともある。
  『その挙句に』とか『挙句の果て』というような使い方もされている。」
                         ( p18 )


2022年の『 大らかで軽やかな挙句の響き 』を、
この12月に響かせてくださる方のいらっしゃれば。
そばで、聴いていたいのでした。





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読みたい本。

2022-12-16 | 短文紹介
苅谷夏子著「大村はま 優劣のかなたに」(ちくま学芸文庫)。

ときどき、本を読みおわってだいぶたって、
海底からプクプクと泡が浮んでくるように、
本の中から言葉が、浮んでくることがある。

そんな感じで思い浮かんだ箇所があります。

㉘「読みたい本」(p125~128)でした。

はじまりに、大村はまさんの言葉が引用されています。
それは、『国語教室おりおりの話』からの引用でした。

「・・『読んだ本はなかなかふえない。読みたい本はどんどんふえる。』
  これは、皆さんの先輩の、石川台中学校の卒業生の人たち、
  その人たちが残したことばです。  」

このあと、苅谷夏子さんは、大村はまの姿勢を指摘してゆきます。

「・・そんな中で、『読みたい本』を記入していくページは、
 『読んだ本』と同等か、それ以上のものとして大事にされていた。
  ・・・・・ 」

こうして、苅谷さんの言葉がプクプクと浮んでくるのでした。

「公立中学校という、ごくごく普通の生徒の集まる場で、
 読書生活の指導が、こういう種類の豊かさを目指すものであったことは、
 現実的であるし、あたたかなことだ。

 一冊を最後までちゃんと読まない限り、
 読書とは認めないということであったら、
 本はずいぶん遠いものになる。

 かりそめに読みたいと思った、興味をひかれた、
 題名だけでも面白く感じた、『いつかは』と思った、
 そんな本を、自分の読書生活の範囲内のこととして記録する。

 そういうことまで含めた読書生活ならば、
 大人になって、どんな暮らしをするようになっても
 持続できるのではないか。・・・・    」( p127 )


『これでいいのだ』と後ろから大村はまさんが肩を叩いてくれてるような。
ということで、読みたい本を書きつらねるブログがあっていいのだと思う。

さっそく、新刊で読みたい本が思い浮かぶ。
磯田道史著「日本史を暴く」( 中公新書・2022年11月 )。

私は、以前に読売新聞を購読していた期間がありました。
そうそう何紙も購読できないので、読売新聞はとるのをやめたのですが、
読売新聞に、磯田道史の「古今をちこち」という楽しい連載がありました。
月一回の連載だったと思います。ああ、これを読みたいなあと思っていた。
その連載が一冊の新書になっていた。

なんでも、2017年9月~2022年9月までの新聞掲載分が
まとめて、新書の一冊となったようです。
新聞連載では、毎回の挿絵もあり読めると楽しかったなあ。
新書では絵がカットされてはおりますが、こりゃ読みたい。






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「この時期」とか「余談ながら」。

2022-12-15 | 短文紹介
とりあえず、後ろから読んだり、最初から読んだりで、
福間良明著「司馬遼太郎の時代」(中公新書)を読む。

大切なことが散りばめられていそうなのですが、
読みおえてしまうとすっかり忘れるのが私の常。

それでも、司馬遼太郎の『余談ながら』を
取り上げた指摘箇所は、忘れたくないなあ。
忘れないためにここは引用しておくことに。

新書から、そこを引用するまえに、ちょこっと、
内藤湖南を解説した、桑原武夫の文からの引用。

「 『私は日本歴史の専攻者でありませんので、
   素人でありますから、私の話は余興だと
   思っていただきたい』
 
   などというマクラを湖南はよく使うが、
   それは自信のほどを示す逆説的レトリックなのである。

   第二次大戦前に、日本文化について
   この『日本文化史研究』ほどの鋭い
   洞察を示した作品はないといっても
   過言ではないであろう。  」

( p177~178 講談社学術文庫「日本文化研究㊦」の桑原武夫解説 )

はい。内藤湖南の『私の話は余興だと思っていただきたい』
という言葉を引用したあとに、司馬さんの『余談ながら』への
この新書が、指摘して引用している部分をもってくることに。

では、新書のp174~175から、抜き出すことに。

「司馬の余談から掻き立てられる知的関心について、
 作家の田辺聖子は次のように述べている。


  私たちは司馬さんの小説に頻出する
 『この時期』とか『余談ながら』という
  自作自注をどんなにたのしみ、期待して読んだことでしょう。

  自注がそのまま小説の血肉となり、
  主人公の独白や思惑とひびき合い、
  小説の魅力をいっそうたかめました。

  もはや従来の時代小説、歴史小説の枠をこえ、
  小説と評論の垣根もとりはずされていました。
  自注によって小説は奔馬のように躍動しました。


 余談という名の『自作自注』を通して、
 小説のなかに『評論』が読み込まれ、
 そこに作品の魅力が見出されている。

 作家の有吉佐和子も、余談には直接言及しないものの、
 『坂の上の雲』について、
 『ああ、そうだったのかと教えられることが余りにも多かったので、
  小説を読んでいるという気がしなかった』
 『司馬さんの書かれるものは日本外史とでも呼ぶべき種類の
  史書ではあるまいか。膨大な材料を明晰に分類し判断し、
  しばしばユーモアを湛えて平明に綴っていく』と評していた。
 司馬作品のなかに見出されたのは、
 『小説』というより、『史書』という名の教養だった。  」


はい。これが第3章「歴史ブームと大衆教養主義」にありました。
このあとが、面白くなるのですが、私には手に負えないここまで。
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