和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

京都らしい知性。

2021-03-30 | 京都
杉本秀太郎氏が、気になるので、
入江敦彦著「読む京都」(本の雑誌社)を
あらためてひらく。この本には、巻末に索引があり
重宝します。関連の場所を読み直す。

「本書には幾人もの嵯峨を京とも思わぬ(笑)
ケシからん京都人が登場するが、
やはり特別に印象的なのはフランス文学者の杉本秀太郎と
国立民俗博物館顧問だった梅棹忠夫だろう。
このふたりに今西錦司を加えた三人をわたしは
《京都らしい知性》・・を備えた智力御三家と呼びたい。
・・・・
杉本秀太郎の名著『新編 洛中生息』(ちくま文庫)・・・」
(p194~195)

「京都の言葉は大きく四種類ある。
 公家が起源の【御所言葉】。
 芸妓さん舞妓さんでお馴染み【花街(かがい)言葉】。
 職工たちが交わした【西陣言葉】。
 商人たちの【室町言葉】。

杉本ら室町言葉を話す京都人が、
西陣言葉の梅棹の言葉遣いが京都語をリプレゼント
するものとして記録されたと知ったら、
そりゃあ反駁もしたくなろう。

室町のほうが上品で、それこそフランス語的な
なめらかな美しさのある京言葉だけれど、
ストーリーを読むのであればリズミカルで表現力に富んだ
英語的な西陣のほうが向いているだろうとわたしは考えるが。
ちょっとラップに近いのだ。

そのせいか文章も杉本より梅棹のほうが、ずっと読みやすい。
平易だからではない。言葉を綴るときに音を意識しているからだろう。
彼は86年に失明しており、学術系でない本はそれ以降に書かれている
ものが多数だから、そのせいもあろう。

杉本の『洛中生息』に相当する梅棹の著作が
『京都の精神』と『梅棹忠夫の京都案内』(ともに角川ソフィア文庫)
だろうか。前者は66年と70年に催された講演をまとめたものなので
書籍としては後者のほうがまとまりがある。しかし案内といいなが
内容は彼の第一言語である民族学的な京都人へのアプローチだったりする。

・・・・・・・後者の白眉は、それこそ京言葉についての省察。
たとえば京都人が誰に向かっても、それが年下や身内、ときには
敵や犬猫にさえ敬語表現を使うのは無階層的、市民対等意識という
基本原則があるからではないかとする推測には感動した。

ああ、この都市の言葉はそんなふうに考えていけばいいのか
という指針にもなった。

・・・三人目の今西錦司。
・・・やはりここは今西でなければならぬ。
なぜならば京都語が森羅万象に敬語で接するように、
彼にはいわば学問対等意識めいた感覚があったからだ。
命題を探る手段として今西錦司という知性は
自然科学にも社会科学にも人文科学にも均等に接することができた。
学問の世界でかくも京都人的であれたのは、すんごいことである。」
(~p199)

読み返して、あらためて知ったのは
京都の智力御三家のはじまりが、杉本秀太郎氏だったこと。

そうそう『京都夢幻記』も紹介されていたのでした。

「『京都ぎらい』のなかで井上(章一)は京大建築科ゼミ生だったころ
調査に訪れた彼の住まい、重要文化財杉本家住宅での会話を紹介している。

『君、どこの子や』と訊かれ、嵯峨だと答えたところ、
それは懐かしいと感想が返ってきたという。
『昔、あのあたりにいるお百姓さんが、
 うちへよう肥(こえ)をくみにきてくれたんや』と。

これがイケズかどうかは断言できないけれど、
充分にイケズになり得る言い回しではある。
しかし同時にすべての京言葉はイケズになり得るのだ。
晩年の『京都夢幻記』などを繙くと、
イケズの達人だったのは明白だ。・・・」(p195)

はい。入江敦彦によるイケズ入門テキストに、
杉本秀太郎氏の本が、登場していたのでした。
うん。京都らしい知性の3人を視野にいれて、
京都への思いを馳せてゆくことにいたします。

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売立目録からの京都。

2021-03-29 | 京都
杉本秀太郎さんのことを、塚本珪一氏はこう指摘したのでした。

「本業はフランス文学であるが、立派な博物学者である。
彼のエッセイには『博物学者』の称号を与えたい。
 『洛中通信』(岩波書店、1993年)、
 『青い兎』 (岩波書店、2004年)、
 『京都夢幻記』(新潮社、2007年)などがある。」
    ( 「フンコロガシ先生の京都昆虫記」p196~197 )

この指摘は、ありがたかった。
杉本秀太郎氏は、フランス文学者というイメージが、
私に固定観念として、もう出来上がっておりました。

『家』というイメージならフランス文学は玄関。
杉本家の表玄関は、わたしには敷居が高すぎる。
けれども、路地のウラ木戸からならばはいれる。
そんな、気楽な3冊を塚本氏が紹介されていた。

『京都夢幻記』に「一冊の売立目録」のことが出て来ます。
そこをお気楽に引用してゆきます。

「昭和12年2月に大阪北浜の道具商、植村平兵衛と磯上青次郎が
札元となり、大阪美術倶楽部を会場として売立て目録がある。
所蔵品を処分に附した家は名を伏せて記されないこともまれではない。
これも京都某家とある。」(p183)

ここから、杉本氏は語り始めます。

「打明けると、『京都某家』は私の家である。
手許のこの『目録』は父の書き入れを伴っている。
総品数は1340点、そのうち最も主要な124点は写真版で掲載
されているが、そのすべてに落札価格が父の手でしるしてある。
売立は2月1日、2日を下見に当て、3日を入札日として行なわれた。
・・・・

父は別に『売立日記』をしるし、また、土蔵四棟のうち
一棟をすっかり空(から)にした大売立がいかなる事情に
迫られてのことだったか、『杉本同族整理顛末』と題して、
これを詳しく分析記述したのち、売立を決断した日のことにおよんでいる。

父は34歳、家督相続して2年目であった。
売立の出来高は27万4千円に達した。これが
同族の分家を高利貸の魔手から脱出させ、
本家の危難を払うことに用いられた。

いまもときどきこの売立目録をながめる
( 渡仏のときも荷の中に収めていた )。
かような品々を家蔵していた時代があったことの不思議が心を動かす。
そして青年時代のある日、売立目録を持ち出してきた私に、
胸の内を洩らして語った父の俤(おもかげ)を目録の
写真版のページにかさねる。

―――大売立のときの見納めた逸品は、全部よくおぼえているよ。
上物(じょうもの)はあらかた手放したが、手放してから、
かえって血となり肉となったものが、ほんまもんだ。
あれから以後、何ひとつ、欲しいとおもう絵も無し、道具も無し。
良いものはもう見てしまっている。それだけのことだよ。

旧蔵品に対して私が未練がましい気持を抱くことなしにきたのは、
父のことばがよくわかったからであり、それは私もまた
あのときに手放したことを意味する。・・・・・」(~p185)


うん。路地からはいった、京都を見ていると、
何気にフランスへとつながっていたりします。
杉本秀太郎のフランスの随筆を読んでみても、
いっこうに、とりとめもなかったわけですが、
ここからなら、理解の糸口がつかめたような、
そんな気がしてくるのでした。
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旅じょうずも、技芸の内。

2021-03-28 | 短文紹介
杉本秀太郎著「洛中通信」(岩波書店・1993年)を、
寝る時にパラパラとめくっているのですが、楽しい。
たとえば、こんな箇所がありました。
と、とりあえずは一箇所を引用。
こうはじまります。

「旅の印象というものは、
旅さなかの日記、覚書の備えがなければ、
三日すぎると早くも薄れてしまう。

私の経験では、いくら写真をとっていても、
印象保持にはめったに役立たず、片々たる紙きれにかいた
スケッチが百枚の写真にまさっていることがある。

風景、風俗、器物、生物など、
目に触れて興味を呼びさましたものの絵姿は、
どんなに粗略であっても日記、覚書以上に
旅の印象をよく蘇生させる。

だから迅速の素描家を兼ねている旅日記の書き手は、
旅じょうずな人である。旅はたしかに技芸のうちに
かぞえることができる。

それは今更らしく言うほどのことではない。
真澄、江漢、鉄斎、ただこの三人の名を挙げる
のみで証明は十分すぎるし、絵入り旅日記の
すぐれた書き手は枚挙にいとまがない。

・・・こんなことを言い出したのは、去年から
今年にかけて、初めての土地を訪れる旅をふたつしたのに、
そのひとつにいたっては、つい十日ばかり前のことなのに、
甚だしくおぼつかない印象を残すのみなのはどういうわけかと
振返ってみれば、日記も覚書も何もしるしていなかった、
そのためだと気付いて、今更らしく茫然となり、
むなしい気分におそわれたのである。・・・」(p103)


はい。ウォーキングしかり、私は旅をしていないのですが、
gooブログで、旅の写真やスケッチを見せてもらっていると、
楽しみやら、羨ましいやら、いろいろと思うのでした。
そんな旅の風景、一場面を見させてもらっているので、
とりわけ、この文章のはじまりが興味を惹くのでした。

はい。この本から、もう一箇所引用してみます。
斉藤緑雨をとりあげた箇所でした。

「にがい気持をそのまま長くたもっているのは、
だれの得にもならない――殊に当人に最もためにならない。

窮状をすり抜けるには、にがい気持に
みずから適切な表現をあたえ、形をつけるを第一の策とし、
これを首尾よく仕とげている文章に目をさらすを次善の策とする。
ここに辛辣な警言の人緑雨の出番がある。
・・・・・」(p44)

うん。ついつい読書の枝葉へと伸びてゆく
移り気なわたしとしては、何を読んでよいかもわからないながら、
斎藤緑雨の本を読みたくなってくるのでした。
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3月の『編集手帳』。

2021-03-27 | 地震
3月の読売新聞。一面コラム「編集手帳」のはじまりで、
印象に残る箇所を並べてみることに。

「『銀河鉄道の夜』に難しい植物の名をしるす一節がある。
〈 青い橄欖(かんらん)の森が・・だんだんうしろの方に
  いってしまい 〉」(3月4日)

「・・・宮沢賢治が銀河を走る汽車からの風景に織り込んだのは
 『青いオリーブの森』と解してよいらしい。・・・・
宮城県石巻市の復興事業でオリーブの栽培が成功間近だという。
その名も『北限のオリーブ』・・・」


このくらいにして、次は、はじまりのみを

「馬糞(ばふん)で作った堆肥にはえるキノコが美味である
ことを発見したのは、古代ローマ人といわれる。いわゆる
食用マッシュルームの起源である。日本では馬糞茸と呼ばれ、
昔から存在は知られていたという。」(3月19日)

「ヤマイモはむずかしく言えば自然薯(じねんじょ)。
すりおろすと、途端にトロロと名を変える。」(3月23日)

野球からはじまるのは3月12日でした

「元広島監督の達川光男さんは1973年の夏の甲子園で、
広島商を頂点に導いた«優勝捕手»である。それが縁で
一昨年の決勝では始球式の大役を務めた。・・・・・」

うん。3月11日の編集手帳は、ちょっと断片というわけにも
いかないので全文引用してみることに。

「おとといの夕食は?と聞かれ、即答できる人はそうはいまい。
人間は出来事の大半を1日のうちに忘れてしまうという。
平穏な日々の何げないことほど、きれいに忘れるものだろう。

宮城県亘理町の高橋ひろみさん(56)は携帯電話を
長女のひな乃ちゃんに渡し、遊ばせていたことを長く忘れていた。
約10年を経て思いだし捜して見つけだすと、5歳の娘が打った
たどたどしいメッセージがメール画面にいくつも残っていた。

『ままだいすき』に始まり、
『おはなばたけであそぼうね』といったお誘い。
『あさごはんわめだまやきでおねがいします』というお願いもあった。

ひな乃ちゃんは幼稚園の送迎バスが津波にのまれ園児7人とともに
亡くなった。〈 口を出てまだあたたかきことばかな 〉(山口優夢)。
どれほど遠く離れた場所にいようと、電源が入っていようとなかろうと、
母と娘を温かくつなぐ携帯電話が忘却のなかに埋まっていた。

『天国で会ったときに《楽しかったよ》と言えるよう
 精いっぱい生きていく』とひろみさんは話す。
そのことばは返信ボタンを押さずとも、
ひな乃ちゃんに届いているだろう。」


うん。写しとっておきたい言葉ありました。


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「徒然草」と「編集手帳」。

2021-03-26 | 本棚並べ
3月に、切り替えて読売新聞を講読。
マンネリだといけませんが、目先が変われば、
その分、新鮮な見方で紙面をながめられます。
とりあえず、気持だけでも新鮮なうちに紹介。
とりあげるのは読売新聞一面コラム編集手帳。
その3月の分を、今日の26日まで。
短いコラムなので、まとめての通読で味わう。

他社の一面コラムよりも字数が少ないので、
内容を盛り込めない分、苦労も多そうです。
けれども、川柳・俳句・短歌に比べれば
字数は俄然多い。という逆転の発想だと、
簡潔で、切れ味のよい内容にチャレンジできそうで、
まさに、それを実行しているようなコラムの手腕。

はい。わたしが触れた3月の「編集手帳」は
そのような感じをうけるのでした。
まとめて見てゆくと、
植物関連が3月9・6・19日に、自然薯が3月23日。
川柳が3回。とかいろいろ区分けができそうです。

さてっと、3月16日に徒然草が登場しておりました。
定食に定番があるように、コラムの定番の引用に、
徒然草が入っていても、ちっともおかしくない。

短いコラムならではなので、最初が肝心。
たとえば、3月3日のはじまりは、
『絵本の魅力を文章にするのはむずかしい。』
というのです。うん。ここからコラムをはじめるのは
むずかしそうで、つい、次をよみたくなります。

3月16日のはじまりは
「吉田兼好『徒然草』・・まずは原文を。
〈 月花をば、さのみ目にて見る物かは。
  春は家を立ち去らでも、
  月の夜は閨(ねや)のうちながらも思へるこそ、
  いとたのもしう。をかしけれ 〉
 ・・・・」

コラムの料理の腕前は、ここでは問わないことにして、
コラムの素材選び、引用の仕方がなによりたのもしい。

さてっと、ここからが連想。
杉本秀太郎著「洛中通信」(岩波書店・1993年)に
徒然草について書いた文がありました。
そこから印象に残った箇所を引用。

「『徒然草』は、周知のように、それぞれに完結した
二百四十あまりの長短さまざまな覚書の集合体である。
・・・章段の配列にはわざわざ無秩序をねらった節がある。
互いにかよい合うような内容の段が二つ三つも並べば、
さっそくそのあとには似かようところの全くないものを
差し挟む。そういう目くらましが、いたるところに働いている。
・・・・・・
のちに連歌が煮つまったすえに蕉門の俳諧歌仙にいう
付肌(つけはだ)を早くに実現しているようにみえてくる。
おもしろいことである。

『徒然草』の題材が天象、草木、鳥獣虫魚、人事百般に
わたっているのも俳諧歌仙の目ざすところにひとしく、
とにかく普段から何事にも興味を抱く人の
『物狂ほしい』孤独から、『徒然草』はあらわれた。」(p202)

まあ、『物狂ほしい』孤独は、別としても
『編集手帳』を読みながら、『徒然草』の味わいを、
読者の一人である私は期待しているのだと、
そんなことを、あらためて気づかされます。

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川柳と新聞。

2021-03-25 | 詩歌
3月の新聞購読は、
産経新聞から、読売新聞へと1カ月間かえてみました。

新聞がかわると、何か新鮮な感じで、
新鮮な目で、紙面を見渡ような気分。
1カ月たつので、来月はどうするか。
そろそろ判断をしなくちゃいけない。
ひきつづき読売新聞を講読するのか。
はたまた、産経新聞を講読するのか。

じつは、私は産経新聞を講読してるのですが、
ネットでもって、新聞はあと10年でなくなる
のじゃないかという、推測が話題になった際に、
読売新聞だけは、別だという指摘があったのでした。

それもキッカケとしてありました。
知り合いでは、朝日新聞をやめて、
読売新聞を、とっている方が多い。
うん。産経から読売にかえると、
まず気づくのは、さすが全国紙。
全面広告が、産経よりはなやか。
ということは、どうでもいいか。

新聞一面コラムのなかでは、
読売新聞のコラムだけは、他とちがい
コラム文字数が少なくなっております。

それでなのか、どうなのかしれませんが、
今月の一面コラム「編集手帳」には
川柳が3回登場しておりました(3月9日・20日・25日)。

それで、思い浮かんだ本がありました。
野村胡堂著『胡堂百話』(中公文庫)。
はい。銭形平次の野村胡堂です。
ルパンに登場するのは銭形警部で、こちらは、
江戸時代の銭形平次の子孫という設定でした。

もどって、『胡堂百話』に川柳を取りあげた箇所があり、
印象に残っておりました。

「 時事川柳(一)

大正6年だったと思う。私は、新聞社の社会部長だった。
ちょうど、新聞社の販売競争が、火に油をそそぎはじめたころで、
どこの社でも新しい企画に知恵をしぼり合っていた。
 
『何か変わった企画はないものだろうか』
そこで、私は、言下に答えた。

『川柳欄をつくったらどうだ』

『川柳?』
編集の幹部たちは、妙な顔をした。
あんな、古くさいもので、読者がついてくるだろうか、
というのである。しかし、私は、自信があったから、

『決して、川柳は古くない。新しい人が、
新しいセンスで作りはじめたら、これは、大きな流行になる』

『しかし、差し当り、どうなのだ。欄を作った。
一句も集まらない。というのでは、恥さらしになる』

『そんな心配は、絶対にない』

『誰が、選をする?』

『むろん、私が引受ける』」(p149~150)

こうして、賞金をつけて、はじまるのでした。
せっかくなので、つづけます。

「  するが町たたみの上の人通り

見方によれば、三越の宣伝みたいでもあるが、
近代的デパートの黎明期で、広い、畳敷きの店内を、
客に、ずかずかと通らせた。上がり口には下足番がいて、
洋服の客には、靴カバーというズックで出来た馬のワラジ
みたいなものをはかせた。大正初期の和洋折衷の不思議な文化が、
あますところなく描かれている。

さて、大正12年の大震災で、古い東京は灰になった。
見渡す限り、焼野が原である。

   するが町広重の見た富士が見え

私は文句なしに天位にした。建ち並ぶ高楼が煙と消えて、
その昔、広重が描いた通りの富士山が、日本橋から丸見えになった。
・・・・それから20幾年たって、再び焼野が原になろうとは、
むろん、その時は思わなかったが・・・・」(p149)


はい。来月も読売新聞を講読することに。






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能を読む。

2021-03-24 | 詩歌
ドナルド・キーン著「日本文学のなかへ」(文藝春秋・昭和54年)。
この本のなかに、謡曲への言及があり、一読忘れがたい。

「こんなことを書けば奇異に感じる人もいるだろうが、
私は日本の詩歌で最高のものは、和歌でもなく、
連歌、俳句、新体詩でもなく、謡曲だと思っている。

謡曲は、日本語の機能を存分に発揮した詩である。
そして謡曲二百何十番の中で、『松風』はもっとも優れている。
私は読むたびに感激する。・・・・・・・

 月はひとつ、影はふたつ、満つ潮の、
  夜の車に月を載せて、憂しとも思はぬ、潮路かなや。

・・・音のひびきが、なんとも言えないのである。」(p57)


それから、能を読みはじめればよいのですが、
はい。わたしは、ちっとも読まずにおりました。
読まずにおりますが、気にはなっておりました。
ですので、よさそうな入門本があれば買います。

「林望が能を読む」(青土社・1994年)が古本で300円。
買うことにしました。森田拾史郎の写真も載っています。
最初の8ページが、森田氏のカラー写真。
翁の面の姿も、鬼の面が柱のそばに立っている姿も、
すり足の足袋のアップの写真もが、スッキリとして、
残像として残るようにして、見る者に入ってきます。

公演のパンフレットに、15年間、林さんが書いたものを
あらためて一冊とした旨が「あとがきに代えて」にありました。

「私がまだ二十歳代の頃のことである。
津村禮次郎師が、なにげにそう勧めて下さった。」(p310)

こうして、あとがきには、はじめてパンフレットに書いた
エッセイが、そのまま引用されておりました。
題して『俳諧のなかの謡曲』。

興味ぶかいので、断片を引用してみることに。

「近世は非常に謡曲の流行した時代で、
身分の高きも卑しきも、此道に泥(なづ)まぬはなかった。
だから、俳諧を弄ぶ者達の間で、その共通の知識として、
謡曲の詞章が喜ばれたのである。」(p311)

その謡曲の詞章を俳句に入れるのを
「謡曲の『裁(たち)入れ』と呼ぶ。」とあります。

こうして、芭蕉などの初期の浅薄な『裁入れ』から紹介しながら、
パンフレットの最後は、こうなるのでした。

「・・『あらたうと青葉 若葉の日の光』
こう並べてみると、有名なこの句なども、
自ずから判然する処があろう。

例えば、『実盛』に『あら尊や、今日も又紫雲の立ちて候ぞ』
などあるのを想起すべきである。
『あらたうと』と発した声は、蕉翁の地声ではなく、
殷々たる謡声であったと観ずべきである。句を読む者は、
忽ちに起る耳底の諷声を聴くべきである。

即ち『あら尊』は謡曲の人工美を経た感動であって、
自然に湧噴せる賛歎ではない。
が、それでよい。それを知ることが、
古人と歎感を共にする所以であると信じるからである。」

「このパンフレットは、昭和53年11月11日の公演当日に
会場で配られたが、ほとんど誰の注意も引かなかったばかりか、
むしろ一般にはすこぶる評判が悪かった。
難しすぎる、というのである。

しかし、津村師は、いっこうに平気で、それから公演のたびに、
例会であれ、別会であれ、または地方公演であれ、後援会であれ、
いつでも私に演目の解説を書かせて下さった。」

めでたく、それをまとめて『十五年間に及ぶ仕事』を、
『すべての文章を思い切って大幅に書き改め』て一冊にした
とあるのでした。

はい。絶好の水先案内本と出会ったのかもしれない。
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よまずに たべた。

2021-03-23 | 詩歌
本を読みながら、ああ、このページはまたいつか思い出す
かもしれないなあ。そんな箇所に出くわすことがあります。

こういう箇所は、気になって思い浮んでも、もう探しだせなくて、
時間がたてばたったで、どこにあったかもわからなくなってしまう。
うん。そこを先回りして、当ブログに備忘録がてら引用することに。

阪田寛夫著「まどさん」の「にじみ出す液」という章にありました。

「私は、まどさんの『やぎさんゆうびん』の歌を思い出した。
相手から来た手紙を読まずに食べてしまっては、
『さっきの手紙のご用事なあに』と互いに返事を出し続けている
白山羊と黒山羊の歌である。」(p81)

はい。阪田さんは、詩を引用しております。

「 しろやぎさんから おてがみ ついた
  くろやぎさんたら よまずに たべた

  しかたがないので おてがみ かいた
  さっきのてがみの ごようじ なあに

(引用者注・現行のものは、更に行割りと丁寧語に若干異同がある)

二節は『しろ』と『くろ』をただ入れ換えさえすれば
いいようになっている。この歌詞は團伊玖磨氏の作曲によって、
昭和27年NHK ラジオ幼児の時間の八月の歌として放送された。

こんど立入って経過を詳しく調べたのは、経過自体、
このユーモアがまどさんの内部から絶えず滲み出る
ものの自然な帰結であることをしめしているからだ。

昭和27年6月10日が、NHK から言われた原稿の締切日で、
二週間前の日誌にこんなことを書いている。

  1952年5月28日
 児童文学のツラサは作品にモラルを盛るほどの
 悪人にならねばならないことだ。
  ・・・・・・・・・・・
 自分でやりもしなかった、また現在ならなおさら
 やりもやれもしない、おそろしくいいことを、
 さあやれさあやれというだけのことだから、
 だれも文句をつけてくれもしないし

ここで途切れている。突然始まって尻切れとんぼだから、
どんな状況でこれを書きなぐったのか、よく分からない。
かなり、自分にも腹を立てているようだ。まどさん自身が
当時保育雑誌の編集者として、『大人』の配慮の偽善性に、
反吐をはく思いを持っていた感じだけはわかる。

ともあれ『やぎさんゆうびん』は、このようにして在来の、
またその後の、童謡のわくにちょっと納まらない完璧な作品になった。」
(p83~84・単行本)

ちなみに阪田さんの、この本では決定稿になる前の詩、
昭和14年6月初出の原形の詩も引用されております。
最後に、その初出の詩を引用してみることに。

 オヤヤギ カラ キタ オテガミ ヲ
 コヤギ ハ メエメエ タベタ カラ
 
 『 ゴハン ヂヤナクテ オテガミ モ
   クダサリヤ イイノニ カアサン ハ 』

 コヤギ カラ キタ オテガミ ヲ
 オヤヤギ メエメエ タベテ カラ

 『 ゴハン ヂヤナクテ オテガミ モ
   クレレバ イイノニ ウチノコ ハ 』


ちょっとしたキッカケで、思い浮かんできそうな童謡。
ちょくちょくは思い出さないけれど。なにかは知らず、
ああそうかと、思い出しそうな秘めた箇所なのでした。

わたしはといえば、内容を反芻せず、とりあえず読んだ。
『よまずに たべた』わけじゃなく、咀嚼せずに読んだ。
『やぎさんゆうびん』聞くたび、この文が思い浮ぶかな。
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詩仙堂。

2021-03-22 | 京都
古本をめくりながら、京都にいる気分を味わう。
ということで、京都関連の安い古本があればと、
そのつど、買うようにしてます。

竹村俊則著「昭和京都名所図会・洛北」
古本で300円でしたので、買いました。

まったく、お寺というか、京都の神社仏閣などは、
今でいう美術館ですね。襖に絵や書が描かれてはいる、
なかには、天井にまで龍がのたくっているのですから。

はい。パラリと、ひらいた箇所は「詩仙堂」。
その解説をたのしみます。

「・・・左京区一乗寺門口町にある。
正しくは詩仙堂丈山寺(じょうざんじ)といい、
曹洞宗に属する寺であるが、石川丈山隠栖の山荘址として世に名高い。」

ご本人の紹介ははぶくことにして、その家の様子は

「詩仙堂と号したのは、その一室(詩仙ノ間)に
漢・晋・唐・宗の詩人36人の肖像をかかげるによる。

それより寛文12年(1672)5月23日、90歳で没するまでの
30余年間、ここで煙霞(えんか)にうそぶき、風月に吟じ、
琴を撫してゆうゆう自適の生活をすごした。
かつて後水尾天皇の御招をうけたことがあったが、

渡らじな瀬見(せみ)の小川の浅くとも老の波そふ影もはづかし

との一首の歌を奉って拝辞したという。
丈山の没後、詩仙堂の管理は在住者のしばしばの変遷によって
堂宇は廃頽し、庭園も荒廃するに至った。・・・・
すでに邸内は草ぼうぼうと生え、ようやく荒れようとしていた・・
その後・・尼僧潜山(せんざん)禅尼が寛永元年(1748)閑院宮家の
庇護によって再興し、さらに昭和42年(1967)に至って現在の如く
改修された。

竹藪におおわれた境内は隠者の家にふさわしく草庵風とし、
入口の表門には『小右洞(ゆうどう)』、中門には『梅関(ばいかん)』、
路地には『凹凸窠(おうとつか)』としるした丈山筆の額を掲げる。

建物は仏間と居間(詩仙ノ間)と
屋上の嘯月楼(ちょうげつろう)からなっている。
仏間は玄関を入った右手にあり、
居間はその左手にあって、丈山自筆の『詩遷堂』の額を掲げ、
四方の長押(なげし)上には丈山が詩を、
狩野探幽・尚信が肖像を描いた三十六枚の詩仙の額を掲げる。
・・・・・・

建物の南にひらける枯山水の庭園は、東に滝をつくり、
水の流れに沿ってツツジやサツキの刈込みがあるが、
その他は一面に白砂を敷いて、
青山(せいざん)と海洋の景趣(けいしゅ)をあらわしている。

僧都(そうず)は庭の奥にある。添水とも記す。
一本の竹筒が、筧(かけひ)の水の重さであふれ落ちると、
筒が下の石につきあたって音を発し、これによって
しのびよる鹿猪(ろくい)を逐(お)いはらったといわれ、
丈山の考案によるとつたえる。」(p41~42)

43ページには、俊則画による白黒の詩仙堂の風景がある。

はい。「肖像を描いた三十六枚の詩仙の額を掲げる」
とあるのは、まるで学校の音楽教室にならんでいた作曲家の
顔絵なんかを思い描いてしまいます。詩人の肖像が並ぶ部屋
ならば、今なら「詩仙教室」とでも呼びましょうか。

はて、丈山筆の額というのは、どんななのだろう、
どんなふうに詩仙堂になじんでいるのでしょうね。

これだけで、まるで300円の拝観料で、
見てきたような気分にひたるのでした。
ということで他のページはそのままに、
またあらためてと、本棚にもどします。

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「見納め」と「新発見」。

2021-03-21 | 詩歌
板坂元著「続 考える技術・書く技術」(講談社現代新書・1977年)に、
「拡散と集中」という箇所があったのでした。

「・・・何十何百と問題を持つことは、そこから何かを生みだす
ためのもので、やたらに情報をためこむだけに終ってはならない。

そういう意味で、拡散と集中ということを、たえず考えておくべきである。
新聞や雑誌を切り抜いたりカードをとったりするのは、拡散の段階のことで、
そのうちいくつかずつ自然に集中の段階に移るものができはじめるものだ。」
(p45)

このあとに、こうあったのでした。

「この拡散と集中をやっていると、本なり雑誌論文なりを読んでいて、
やっつけ仕事であるか年季の入った仕事であるかの見分けがつくようになる。

何か書くために短時間に金をつぎこんで取材をして作った本と、
拡散の中から自然に集中してでき上った本とは、
ちょっとページを繰っただけで分かるものだ。」(p46)

はい。どうして、こんな引用をしているかというと、
阪田寛夫著「まどさん」(新潮社・昭和60年)を読み終って、
ぼんやりしてたら、この板坂元氏の言葉を思い浮かべました。

いつも、パラパラ読みばかりしているので、
この「まどさん」みたいな年季の入った仕事の本を
読めることのしあわせ(笑)。
各章ごとに読み進み、今日最後にいたりました。
氷山の一角のような、まど・みちをさんの詩の
その見えない裾野を探っては、詩へともどって引用したり、
どなたにも、書けなかった、まどさんの沈黙へと踏み込んでゆく
ゆったりとした歩みが、まるで一部屋ごとに、ドアをあけ、
窓をあけはなってゆくような展開でした。

うん。それはそうとして、
ここには、最後の方に出てくる断片を引用。

「五年前のラジオ番組では、70歳のまどさんが、
自分がこのような見納め的な老人の目で、
老いた自分だけにとらわれた詩を書きながら、
それを子どもの詩でございますというのは、
インチキではないかと自戒して、次にように語っていた。

『私が最近書いているものは、
見納め的にすべての物を見ていると思います。
子どもにとって、それは逆に、
こんなこともあるのかと驚く、新発見であろうと思います。
見納めと新発見とでは、正反対です。

しかし、ぼんやり見すごさずに一所けんめいに見る点では、
まあ似ているのではないかと思います。
そう思うことに、しております。
そう思わなければ、とても書いて行けるものではないですから』」
(p198~p199)

うん。このあとに、まど・みちをの詩があるのですが、
ここでは、拡散してしまうので、残念、カットします。


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さよなら、またおいでなさい。

2021-03-20 | 本棚並べ
温かくなってきたせいか、お昼を食べると、ねむくなる。
ちょっと動くと、あくびが出たりします。

さてっと、
いままで、杉本秀太郎氏の本が読めなかった。
内容が、つまっているようなのですが、
杉本秀太郎著「平家物語」や「徒然草」など、
最初から読む気にならないでおりました。

塚本珪一著「フンコロガシ先生の京都昆虫記」(青土社)に、
その杉本秀太郎氏に関して4ページほどの紹介文がある。そこに
「本業はフランス文学であるが、立派な博物学者である。
彼(杉本秀太郎)のエッセイは『博物学者』の称号を与えたい。」
(p196)とあるのでした。

なあんだ。文学者の文章として読もうとしていたから、
噛み合わず、肩すかしをくらっていたのかもしれない。
塚本氏のその文では、数冊の杉本氏の本が紹介されている。
これはと、興味がわいて、古本を注文することにしました。

はい。今日届いたのが
杉本秀太郎著「だれか来ている」(青草書房・2011年)。
カバー裏のバーコードの箇所に「BB 自由価格本」という
シールが貼ってありました。あんまり売れなかったのかなあ。
定価は2400円+税。それが古本で860円+送料300円でした。

とりあえず。パラリとひらく。
「講演・目立つもの目立たないもの」のはじまりのページに
こんな箇所がある。

「お聞きのように私の声は非常に通りが悪く、
しかも眠気を誘う声なのは困ったことであります。

ちょうど午後一時、二時というのは大変眠くなる時間帯です。
京都女子大学というところで、フランス語の教師を長年しておりました。

蒸し暑い六月の午後最初の第三講時のことでした。・・・
気が付いたら、50名の学生たちは全部居眠りをしておりました。
目覚めているのは・・・一介の教師の私だけ。
要するに、それも私の声が悪いからでしょう。
仕方がないです。・・」(p68~69)

こんなふうにして講演は、はじまりっておりました。
そうそう、それはそうと博物学者らしい箇所を引用。

「生き物と暮らす」という2ページの文。
その後半。

「私が自室に持ちこんで飼うことのある小さな生き物
というのは、アゲハチョウの幼虫。径一尺ばかりの壺
の真中に柑橘類の小枝を立てておく。葉が食べ尽くされぬ
うちに新しい小枝を差し添えるだけの手間で、幼虫は
やがて蛹になり、蛹はやがて羽化して、ナミアゲハあるいは
クロアゲハ、ときにはモンキアゲハがあらわれる。
ゆび先にとまらせ、窓をあけて屋外に放つ一瞬は気分がいい。
さよなら、またおいでなさい。・・・」(p104)

はい。これだけで、私の知らない新しい世界が拓かれてくるようで、
楽しみになります。そういえば、今日の午後の、あくびはなかった。


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台湾の廖さん。

2021-03-19 | 道しるべ
「荘子」を現代の詩を読むように、楽しめると、
つぎに思うのは、日本の詩で荘子みたいな詩を書く人は
だれだろうということでした。それはそうと、

たまたま、古本でこの「荘子」といっしょに買った本に
阪田寛夫著「まどさん」(新潮社・昭和60年)がありました。
ちなみに、こちらは古本で300円。帯つきで、初版でした。
うん。当時は、そんなに売れなかったのかなあ。
などと、思いながらパラパラとひらいていると、
戦時中に台湾にいた、まど・みちをの事が語られる箇所がありました。

「かみさま」という章に、それはありました。

「この時代のまどさんを知っている現地の人たちを訪ねて、
去年の夏、まどさんが書き抜いてくれた住所や電話番号を頼りに、
台湾へ渡った。・・・・昔を直接知る者としては、
ホリネス教会の副牧師だった廖春棋?(木辺に、右は基)さん
ただひとりが健在と分かった。

ものぐさな私が二年間ぐずぐずしていたむくいだが、
それでも電話口に出た廖さんが、元気な日本語で、
石田さん(まどさんの本名)には大恩があるから
明朝ぜひ逢って話したいと言ってくれたのが救いであった。」
(p99)

ところが、その晩に廖さんは心臓発作で入院される。

「数日後日本語の上手な長男からホテルに電話が入り、
ぜひ病院へ来てほしいと言われた。・・・・」

廖さん自身が戦争末期、国家試験を受けて医師の資格を
取った方なのだそうです。

「病院では、やはり点滴注射を受けていた廖さんが、
こんどはいきなりそれを引き抜いて、寝台にあぐらをかいた
から驚いた。・・・寝台を降りて歩きだした。
その部屋で聞いた話を、そのままの言葉で記す。
 ・・・・・・

・・・これから言うのは、私的なことだと断わって、
自分たちの結婚に母親が不同意であったことから、
『本島人の社会』で働かねばならない自分たちが、
台湾の家族制度と個人の自由をめぐって大へん苦しんだあげく、
遂に二人で家出をせざるを得なかった事情を説明した。

『その苦しい時に石田さんをお訪ねしたわけですよ。
台中と沙鹿の間の道路を建設されていたのですが、その時、
私たち夫婦が、落ちぶれたよるべのない姿でお訪ねしたんです。
そしたら、家内を女中のようにして、出張事務所に入れて下さったのです。

それはあとの話しですが、その時いちばん先に、
自分の持っていた新しい蚊帳を私たちに貸してくれて
―――住んでいたのは豚小屋だったのですが、
そんな所へ新しい蚊帳を貸して助けて下さって、
一層深い印象を与えられたわけですよ。あの時、私たちは、
もし石田さんがなかったらもうこの世に存在できなかった。
それほど苦しんでたわけですよ』

その後立直って国家試験に合格して医師となり、
『石田さん』が自分たちによくしてくれたように、
日本人が帰国する時によくしてあげようと、そのように
神さまが命じられたと思って、日本の敗戦後、やれる範囲内で
ただで薬を作って、困っている日本人に持たせて上げた。

『その時思ったのは、私たちがこうした事をできるわけは、
ただ石田さんが蔭におられたから、ということでした。
豚小屋にいる私たちに、買ったばかりの蚊帳を貸して下さった
のですから。あの時は涙が出ました・・・・』

椅子を腕を握りしめ、
顔を紅潮させて大声を出すので、
私はこの前の電話で発作を起こさせてしまったことを思い合わせ、
『力を入れずに話して下さい』と頼んだ。
『入れざるを得ないです!』
と廖さんはもっと大声を出した。・・・・」(~p102)


うん。このような方々の子孫の方々がベースとなって、
東日本大震災の際に、台湾からの一般の方々のご寄付の
多さにつながっていたのだろうと、つい思いを馳せてしまいました。



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が、しかし待てよ、

2021-03-18 | 詩歌
加島祥造訳「荘子 ヒア・ナウ」(パルコ・2006年)。
はい。古本で200円でしたので購入。

最後の短い著者略歴に、
加島祥造(かじましょうぞう)氏は
「1947年より詩グループ『荒地』に参加」とある。
なあ~んだ。加島氏は詩を書いていたんだ。
そう思いながら、この本をめくりました。

最後には24ページほどの、この本をめぐるご自身の
解説があり、読み甲斐がありました。
うん。全文引用したくなるのですが、
まあ、こんな箇所だけ引用。

「兼好、芭蕉、良寛は『荘子』を深く読んだそうです。
この人たちは体制社会からはっきり踏み出して生きようとした
アウトサイダーであり、『荘子』を真剣な本ととっていたに違いない。
この方向で見るとき、『荘子』は深い人生処方箋となるのですが、
いまは『面白さ』の筋だけをたどりたい。」(p206)

はい。この本について、ご自身の考えは明解でした。

「今年、2006年になって、この仕事に取りかかったのは、
ひとつの方向が見えたからで―――そうだ、『荘子』の
面白さと楽しさ、この1点にしぼってみよう」
(p198)

その方向で、『荘子』の各篇が選ばれて訳されており、
活字もゆったり。おきらくに、寝ながら読んでおりました。
ふたつほど、引用してみます。

「俺の考えていることを言ってやろうか。
 そもそも目というものは、美しい色を見たがるもんだ。
 耳ってものはいい音を聞きたがるし、
 口はうまいものを食べたがる。
 
 体も心も、好きなことをめいっぱいやりたがるようにできているんだ。
 人間、いちばんの長生きで百年、中くらいは八十、
 少し長生きのやつは六十だ。

 一生の間、病を治すとか、死人をまつるとか、
 心配ごとや気がかりなこと、そんなことがやたらにあって、
 口を開けて大笑いするときは
 月のうちで、まず四日か五日しかないんだぜ。

 いろいろなめんどうごとをやめて
 そのほんのわずかな時間を自由に生きたくないかい?

 そういう時間こそ大切なんだが、それはな、
 馬が走るのを戸口からちらっと見るくらいの短い時間なんだ。

 この短い時間を喜んで嬉しがって過ごす――それが本当の生き方だ!
 そういうことを教えられないやつなんか、師匠と呼べるかい?」
  (p96)

ここは、どうやら孔子と論争しているみたいです。
最後に、もう一篇引用。

「   胡蝶の夢

 荘子は自分が蝶々になった夢を見た。
 あちらこちらと嬉しげに飛び回り、花の蜜を吸ったりして、
 自分が荘子だということを忘れて動いていた。
 
 と、突然目がさめて、ああ、私は荘子だったと気がついた。
 そうして、こう思ったんだ。

 そうだ―――
 荘子である私が夢で蝶々になっていたんだ。
 が、しかし待てよ、
 あの蝶々のほうが夢を見ていて、いまここにいる荘子は
 蝶が夢に見ている人間なのかもしれんぞ!    」(p37)


まるで、分かりやすい現代詩を、読んでいる気分。
ああ、こうして「荘子」を読んでゆければ楽しい。
そう思うと、荘子がぐっと身近に感じられてくる。


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とぼとぼとのろのろとふらふらと。

2021-03-17 | 地震
あと2年で、2023年。
そうすれば、関東大震災から100年目をむかえます。
もうすこし、関東大震災関連を続けます。

窪田空穂歌集「鏡葉」に
「火のなき方へと、人列なしてゆく」とあり、
そのあとに二首。ここには、はじまりの一首を引用。

とぼとぼとのろのろとふらふらと
    来る人らひとみ据わりてただにけはしき

この「のろのろ」という言葉は、
被災した清水幾太郎氏の文にもありました。
まずは、清水幾太郎著「私の読書と人生」から引用。

「大震災で本は全部焼けてしまった。・・・・
しかし私は大震災の時に、
人生という大きな書物の重い頁を繰ったのである。
父は40歳を越えたばかりであったが、
あの衝撃で一度に老人になってしまった。
私は17歳、一挙に大人になった。
私が引きずって来た子供の生活は、9月1日の正午に終り、
その瞬間から、私は今日と変わらぬ大人になった。・・・」
( p382「清水幾太郎著作集6」)

震災から30年ほど過ぎた、1954年。
清水幾太郎氏は「婦人公論7月号」に
「大震災は私を変えた」という文を載せます。
ここに、「ノロノロと流れて行きます」という箇所があるのでした。
30年の歳月を経過し、言葉が刻まれて、その文を残してくれました。
この機会ですので、長めに引用しておきます。


「妹と弟とは小学校へ預けたのですが、
生きていてくれるのか、死んでしまったのか、
それが判らないのです。私たちは泥沼を渡って、
東京府下の亀戸へ入り、天神川に面した空地に立っていました。
川一つ距てて、本所の町々が燃えています。小学校の方も燃えています。
同じ空地にいる人たちの中には、小学校では子供がみんな焼け死んだ、
と言う人もあり、先生に引率されて無事に逃げた、と言う人もあって、
どれが本当か判りません。

何を聞いても、私という人間がハッキリした悲しみを感じるというより、
自分自身が摑みどころのない大きな悲しみに化けているような工合で、
何か言おうとすると、だらしなく涙が出てしまいます。
 ・・・・・・・・・

私たちは、間もなく、動き出しました。
亀戸の町は、いつか、暗くなっています。広くもない往来を埋めて、
手に手に荷物を持った群集がノロノロと流れて行きます。・・・

ただ流れて行くのです。私は群集の中に完全に溶け込んでしまいました。
誰も何も言いません。黙っていても、お互いに一切を知り尽くしている
のです。黙ったまま、身体を寄せ合っているのです。無気力な、暗い、
しかし、どこか甘いところのある気分が私たちを浸しています。

我を張った個人というものの輪郭は失われて、
すべての人間が巨大な一匹の獣になってしまったようです。

群集の中に融け込んでからも、私は、時々、妹と弟との名を呼びました。
いくら、呼んでも、反応はありません。けれども、私が呼ぶと、
群集の流れの中から、同じ肉親を呼ぶ声がひとしきり起って来ます。
それも無駄だと判ると、再び以前の沈黙が戻って来ます。

沈黙が暫く続くと、どこからともなく、
ウォーという呻くような声が群集の流れから出て来ます。
この声を聞くと、私も、思わず、ウォーと言ってしまうのです。
言うまいとしても、身体の奥から出てしまうのです。

言語を知らぬ野獣が、こうして、その苦しみを現わしているのです。
私たちは、ウォーという呻きを発しながら、
ノロノロと、暗い町を進んで行きました。

その晩は、東武線の線路で寝ました。寝たというより、
真赤な東京の空を眺めて夜を明かしたというべきでしょう。

その間にも、頻繁に揺り返しが来ます。揺り返しの度に、
線路に寝ている人たちの間から、悲しみと恐れとに満ちた叫びが出て来ます。
原っぱの真中にいるのですから、いくら揺れても、危険はないのですし、
失う品物も何一つないのですが、それでも、大変な悲鳴が起るのです。」
   (p298~299「清水幾太郎著作集10」私の心の遍歴)









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わななきて。わななくに。

2021-03-16 | 本棚並べ
長谷川櫂著「震災歌集」(中央公論新社・2011年4月)
に窪田空穂(うつぼ)氏が歌われておりました(p103)。

大震災廃墟の東京をさまよひて歌を残しぬ窪田の空穂  

この歌の前に小さく窪田空穂の歌を引用されておりました。
はい。窪田空穂(1877年~1967年)です。
恥かしのですが、読もうと思って古本で窪田空穂全集を買い、
その月報と、全集の一冊を読んだかどうかで、興味はほかに
移ってしまっておりました。本棚に、読まれなかった全集が
並べてあります。と白状したあとで、その際に読んだきりの
箇所をお気楽にたどってみます。

窪田空穂は明治10年に生まれ、昭和42年に亡くなっています。
大正12年関東大震災は、46歳くらいの時に経験しております。
大正15年(1926)に、歌集『鏡葉(かがみば)』があります。
その歌集に、関東大震災の歌はありました。

「9月1日の大震災に、我が家は幸にも被害をまぬかれぬ。
あやぶまるる人は数多あれども、訪ひぬべきよすがもなし。
2日、震動のおとろへしをたのみて、先づ神田猿楽町なる
甥の家あとを見んものとゆく。」

歌集の途中に、震災の歌がはいっておりました。
ここには、二首を引用。


「 飯田橋のあたりに接待の水あり、被災者むらがりて飲む」
とあり、そのあとの二首。

   水を見てよろめき寄れる老いし人
        手のわななきて茶碗の持てぬ

   負へる子に水飲ませむとする女
        手のわななくにみなこぼしたり

     (窪田空穂全集第二巻・p52)


もう一箇所引用させていただきます。
日本経済新聞・昭和41年1月1日に掲載された
『九十歳賀スベシ』という題の文から、この箇所。

「・・
六十台になると、五十台は良かったなあと思った。
七十台になると、六十台は良かったなあという
嘆息が出たが、同時に諦めもついて来た。

人間の定命(じょうみょう)には限度がある。
七十台は植物でいうと、花が咲いて散り、実となる時だ。
どんな農夫でも、また植木屋でも、
その時になって肥料をほどこす者は無い。
無能は無能なりに、
相応した収穫をすべき時だと諦めがついて来たのである。

八十台はその延長であった。
人間七十台までだな、としみじみ思わせられた。
・・・・・」(p27「窪田空穂全集別冊」)

はい。窪田空穂の四十代の歌と、九十代の随筆を引用しました。

(文章の中の『台』には違和感がありますが、そのまま引用しました)


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