和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

講座参考本⑲

2024-08-12 | 地域
農文協「日本農書全集66」(1994年4月25日発行)は
「災害と復興1」とあり、その資料のなかに
「高崎浦地震津波記録(安房)長井杢兵衛」(p359~385)
が入っております。解題は古山豊。その解題のはじまりを引用。

「『高崎浦地震津波記録』は、千葉県安房郡富山町高崎の永井家に
 伝わる元禄地震・津波(元禄16〈1703〉年)の体験記録である。
 
 文書には長井とあるが、現在は永井という文字をあてている。
 長井氏・・成立年月日も定かではないが、体験者自らが
 被害の詳細を伝えているところから、地震発生直後に
 書きとめたものと推定される。

 筆者の長年にわたる元禄地震に関する調査で接した文書中、
 被害のようすをこれほど具体的に、かつこと細かな観察をもって
 記しているものはほかにない。その意味では一級の資料に属する。
 ・・・・・
 『高崎浦地震津波記録』は、現在の岩井海岸南部の高崎浦を
 中心とした地震の発生から終息までの、ほぼ三か月間の記録である。」

はい。記録の現代語訳も載っているのですが、
ここには、古山氏の文から引用をつづけます。

「地震による被害がとくに岩井海岸に集中している原因を分析すると、
 久枝川の存在が大きく関係していることが理解される。
 
 町村内に川があるか否かによ被害に大きな差があった例として、
 外房の鴨川市、九十九里浜南部の長生村や白子町などがあげられる。」

「元禄地震は、元禄16(1703)年11月23日の子の刻に発生した地震である。
 そして、丑の刻に津波が押し寄せたとこの地震の関係文書は記している。

 子の刻とは午後11~午前1時、
 丑の刻とは午前1~3時を指し、
 それぞれ2時間の幅がある。

 今日のように正確な時刻を確定できないのが残念であるが、
 永井家の文書には、他の文書にはない九ツ時分(午前0時~1時)と、
 かなり具体的に示されている。

 11月23日は、太陽暦で12月31日に当たる。
 つまり、真冬の夜中に地震があり津波が発生したことになる。
 ・・・・・
 地震がおさまったのは、永井家文書などによると
 翌年の2月中旬ころである。

 ・・・・地震発生わずか4年後・・
 富士山八合目付近の南東の山腹から大噴火が起こった。
 これが宝永の富士山噴火といわれる・・・・ 」

まだ、引用したいのはやまやまですが、
あと、ここだけでも引用しておきます。

「・・元禄時代が豊漁期であり、かつ漁業の発展期でもあった
 点があげられる。紀州からの漁民が房総半島に漁法を伝え、
 しだいに定着してきたのがちょうどこの時期であった。

 しかも元禄時代は江戸時代第二期目の豊漁期に当たる。
 そのため、どの浦辺でもすぐに出漁できるよう
 海岸近くには納屋が設けられていた。
 
 本来納屋は、漁具の置き場として建てられた小屋であったが、
 豊漁期であったこの時期には、いつでも出漁できるように、
 しだいに漁師の生活の場へと変化した。
 そのため、磯辺には多くの人々が寝起きしていたため、
 津波の襲撃をまともに受ける結果となった。 」(~p380)


注:古山豊氏と紛らわしい名前に、古川力氏がおりました。こちらは、
「郷土研叢書Ⅳ 安房災害史 元禄の大地震と津波を中心に」(昭和59年)に
古川力の論文「古記録に見える元禄地震と九十九里浦」(p39~67)があり、
また、古川力著作集「九十九里の研究」(崙書房・昭和62年)もあります。

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