和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

あついなあ、いうて。

2022-06-30 | 本棚並べ
杉本秀太郎の「夏涼の法」を探すと、
あんがいに、簡単に見つかりました。

杉本秀太郎著「洛中生息」(みすず書房・1976年)。
目次では、第4章「心象風景」にはいっておりました。

はい。「夏涼の法」は、はじめて読みます。
といっても、4ページほどです。ありがたい。

大阪生まれで京都びいきの友人との話が出てきます。
その友人は「冷暖房自在の家を、京都の南郊に建て」たのでした。
そのルームクーラーの友人が、杉本さんに語りかける場面でした。

「――やっぱり夏はああ暑う、あついなあ、いうて、
 なんにもせんと、ひっくり返ってるのがええわ。
 夏は暑がっているのが文化いうもんや。君がうらやましいわ。

 クーラーを使ってはいない私の苦笑もかまわず、彼はつづけて、
 
 東京の文化人のように別荘避暑地というものをもつ習慣のない
 ことを京都人の長所として指摘し、別荘避暑地代りに工夫された

 町なかの夏の年中行事を称賛するのであった。

 七月の、ほとんど一箇月つづく祇園祭、
 土用丑の日の上賀茂みたらし参り、
 六道さん、五山の送り火、地蔵参り、等々。  」(p199 単行本)

これに同感する杉本さんは、考えます。

「 もともと京都人の夏涼の法は、
  霊(たま)の信仰行事に托した遊楽によって暑さを忘れる法か、
  さもなければ、一種の見立ての方式にもとづいているのだ。
  ・・・・    」

うん。短い文のなかに、あれこれ詰まっているのでカット。
それでも、なけなしの京都の夏の長所も、あげております。

「 昼のあいだが耐えがたく暑くても、
  日が落ちて、夕闇が深まるにつれ、
  京都の市中には、北の山地から
  涼しい空気が流れこんでくる。
  これが救いである。  」


うん。私には分かったようで分からない。
分からないようで、分かったようなチンプンカンプン。
そう思いながら、ページを閉じ、単行本の表紙を見る。

表紙のカバーには、祭りの装束姿なのでしょうか
『棒振り』(明治初期 四條派の画師 村瀬玉田 画)。

そのカバーをとってみると、表紙には
『大原女』(「浅井忠図案集」より)がニッコリ。

見返は、「京町絵図細見大成(天保2年7月)より」
建仁寺と川をはさんで京町のゴチャゴチャ絵図。

扉には、「祇園囃子の譜帖より」とあり、
譜帖にカタカナが読める。
「ヨヲイ トントコトントコトン トコトントコトン
  ソコジャ ソレ テテ ・・・・」

うん。なにやら七月の祇園祭に町屋に招かれて、
祇園囃子の練習の音でも、もれ聞いている気分。
これって、装幀による一種の見立てなのかなあ。


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故事や由来

2022-06-29 | 古典
徒然草を、とりあえず先へ先へとパラパラめくると、
故事由来などの箇所がアレコレと出てくるのでした。

私は面倒で、つい読まずに飛ばしてしまいたくなるのでした。
考証章段についてガイド・島内裕子さんに聞いてみることに。

島内裕子著「徒然草をどう読むか」(放送大学叢書)に
考証章段をとりあげて
「簡潔な表現の背後に潜む兼好の思いを探ってみよう。」
と、第176段をとりあげております。うん。興味深い。

「宮中の清涼殿にある『黒戸(くろど)』・・ごく短い段である。

  黒戸は、小松帝、位に即かせ給ひて、昔、直人(ただびと)にて
  おはしましし時、まさな事せさせ給ひしを忘れ給はで、
  常に営ませ給ひける間なり。御薪に煤けたれば、黒戸と言ふとぞ。 」

はい。こうして第176段の原文を引用してからの
島内裕子さんの案内に聞き惚れることにします。

「『黒戸』というのは、清涼殿の北廊にある戸のことだが、
 ここではその戸がある部屋のことと説明されている。
 なぜ、『黒戸』という名前がついているのだろうか。

 『小松帝』と呼ばれた光孝天皇(在皇884~887)が、
 まだ臣下の時に自分で炊事をしたことを忘れずに、
 天皇になられてからも、以前と同じように自ら料理をなさり、
 その煤で戸が黒くなったから『黒戸』という名が付いたのだ
 と、兼好は言う。

 光孝天皇は、55歳になて初めて即位した天皇である。
 当時、陽成天皇に嫡子がいなかったので、後継者を広く求められた。

 他の皇族たちが、自分こそ次期天皇になろうと浮足立っていたのに
 対して、ただ一人動じることなく、破れた御簾の中で、
 縁が破れた畳に端然と座っておられたので、この方こそ
 天皇にふさわしい方だということで、迎えられたのだった。
 これは『古事談』という説話集に出てくるエピソードだが、
 光孝天皇の人となりがよく伝わってくる。
    ・・・・・・・・・・

 『黒戸』という名前の由来には、兼好の生きた時代から
 四百年以上も昔の、光孝天皇の故事が込められていたのだった。
 ・・・・『黒戸』という言葉に好ましい響きを感じたからこそ、
 兼好はここに書き留めたのではないだろうか。   」(~p114)


さて、このあとの島内裕子さん言葉は印象深いのでした。
うん。ここを引用しておかなくちゃ。

「 若い頃に蔵人とした宮中で仕えた体験を持つ兼好にとっては、
  黒戸は見慣れた場所であり、いわば日常空間である。
  兼好の心の目には光孝天皇の料理の煙が見えるのであろう。

  それは幻視ではなく、遠くに思いを馳せることのできる
  人間に与えられたリアリティであり、かくて現在という
  時間の領域が限りなく広がってゆくのである。

  物事の起源や由来を尋ねることは、過去と現在を繋ぐことであり、
  そのような由来に誰かが関心を持つ限り、
  過去は過ぎ去り消えてしまったものではなく、現在とともにある、
  ということなのだ。このような意識こそが、
  徒然草の考証章段を貫く兼好の視点であろう。  」( p114 )


はい。そろそろ徒然草の連続読みにアクビが出てきた私のような輩に、
道案内人・島内裕子さんは、さりげなく注意を促しガイドをしてゆく。
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浅くて流れたる、遥かに涼し。

2022-06-28 | 古典
徒然草の第55段をとりあげます。
ここはまず、回り道することに。

季刊「本とコンピュータ」(1999冬)に
鶴見俊輔・多田道太郎対談「廃墟の共同研究 カードシステム事始」
というのがあるのでした。共同研究でのことが語られていきます。
まずは、『ルソー研究』(1951・昭和26年)を一年で本にまとめた話。

多田】 研究会は、週一回やっていましたね。

鶴見】 毎週金曜日ごとに、各自が発表しました。
    討論が白熱して、夜までかかることもしばしばありました。
   
    恐ろしいのはね、夏も研究会をやったんだ。
    京都に熱波がくるとね、あまりにも暑くて、
    皆がしばらくジーッと黙ってしまうんだ(笑)。

    だからこそ、一年でできちゃったんだ。
    合理主義者の桑原さんが、よくああいう
    非合理な進め方をしたね。       ( p200 )


対談は、ここからはじまってゆくのですが、のちのち、
『京都に熱波がくるとね』がしっかり刷り込まれます。

それでは、徒然草の第55段。

段の最後は、『人の定め合ひ侍りし』とあり、
この段が「皆でいろいろ話し合った時の談話」
を書き留めたものであると、わかるのでした。

第55段の原文を、全文引用。

「 家の作り様は、夏を旨とすべし。
  冬は、いかなる所にも住まる。

  暑き頃、悪き住居は、堪へ難き事なり。

  深き水は、涼しげ無し。
  浅くて流れたる、遥かに涼し。

  細かなる物を見るに、遣戸(やりど)は、
  蔀(しとみ)の間よりも、明かし。

  天井の高きは、冬寒く、燈火暗し。

  造作は、用無き所を作りたる、見るも面白く、
  万の用にも立ちて良しとぞ、人の定め合ひ侍りし」


ここは、安良岡康作(やすらおかこうさく)の解釈を引用。

「・・・日本の風土の、ことに、山に囲まれた盆地にあって、
 湿気の多い京都の状況から考えて、よく的を射た立言といえよう。

 そして、夏涼しく作った家は、冬も暖かく住めることは、
 われわれがよく経験する所である。

 後段落では、一転して、遣水・遣戸・天井など、
 住居の細部につき一々述べている。そして、終わりに、

 建築中の『用なき所』をちゃんと造営しておくことが、
 無用の用として、『見るも面白く、万の用にも立ちてよし』という、
 多くの人々の意見を付加している。

 日本住宅の床の間のごとく、建物の一部にそうした
 余裕を残しておくことで、全体が生かされることも、
 われわれのよく経験している事実である。・・   」
   ( p257 安良岡康作著「徒然草全注釈 上巻」角川書店 )


はい。比べる意味でもここは沼波瓊音
の第55段の『評』を、引用ておきます。

「・・・夏の事のみを思って建てよ、と云ったのは、
 斯う云はれて見ると、成程と思はれる。
 が、一寸気づかぬことである。

 老人などは暖い所暖い所と望む。
 それで老人のある家では、つい冬のことばかり考へて、
 住居を定める。そして夏に逢って閉口すると云事が、
 今も随分ある。

 『冬はいかなる所にも住まる』とは全くである。
 火をおこしたり、窓を閉じたり、閉籠れば辛抱が出来るのだ。」

つぎには、水のことになります。京都の庭園を思い浮べながら
私などは読むことにします。

「ここに水のことを云ったのは、
 庭に作るべき池や遣水についての注意である。
 ・・・深い池を作る、作る人は、夏などはいかにも
 涼しいであらうと思っているが、夏になると、
 一向涼しくも何とも無い。

 おまけに蚊が湧いたりなんかする。
 日中には生温い水が烈日を反射する。

 『浅くて流れたる』のが涼しいと云のである。
 一寸考へると・・水の分量が庭に多い程涼しげなわけだが、
 実際も感じに於ても反対である。

 浅いのがよい。そして静止して居ないで流れてるのが宜しい。
 池よりは遣水の方が遥かに涼味に於いて勝る。

  ・・・・・・・

 天井論、簡にして適中の言である。
 我々はこの句で、寒夜天井高き部屋、弱げなる灯、
 斯う云絵をさへ見る心地がする。

 造作は用の無い所を造れ、とは、
 ここは達人で無くては云へぬことである。
 趣味の事であり且つ又実際問題である。・・・」

   ( p154 沼波瓊音著「徒然草講話」東京修文館・大正14年 )
 


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夏来る。

2022-06-28 | 本棚並べ
この頃、夏に思い浮かぶ言葉があります。
そう。暑くなると、わたしに思い浮かぶ。


中村弓子著「わが父 草田男」(みすず書房・1996年)。
そこに、ありました。俳句からはじまっております。

「  毒消し飲むやわが詩多産の夏来る

 夏こそは父の季節であった。
 父は7月24日に生まれ、8月5日に亡くなった。

 暑い季節がやってくると家族は全員げんなりしている中で、
 『瀬戸内海の凪の暑さなんてこんなもんじゃありませんよ』

 などと言いながら、まるで夏の暑さと光をエネルギーにして
 いるかのように、大汗をかきながらも毎日嬉々として
 句作に出かけていた。・・・・・・  」( p57 )

はい。せっかく本棚からとりだしてきたので、
もう一か所引用しておくことに。

「この『草田男』の名には由来がある。・・・

 父親の死後、一家を支えるべき長男であるのに
 神経衰弱で休学などして愚図々々している父のことを
 日ごろから徹底的に蔑視していたある親戚が、
 ある機会に父に向って
 『お前は腐った男だ』と思いきり面罵した。
 父はそのとき
 『俺はたしかに腐った男かもしれん。だが、そう出ん男なのだぞ』
 と内心思い、受けた侮辱とそれに対抗する自負心の双方を、
 訓読みと音読みで表わす『草田男』の名を俳号としたのである。
 ・・・・      」( p74 )


ということで、『夏』が本の題名にはいっていると、
つい気になって、手が出ます。
はい。題名に惹かれ、安い古本なら迷わず購入(笑)。

大矢鞆音著「画家たちの夏」(講談社・2001年)
も安かったので手にしました。
装幀は、安野光雅。雲がわくようなカバー絵です。
はい。10ページほどの序章を読んで私は満腹です。
うん。序章のはじまりとおわりとを引用。

「日本画家の家に生まれた私は、小学校のころから
 父の手伝いをするのが楽しみだった。
 秋の展覧会に向けて、夏休みはつねに父とともにあった。」

こうはじまります。この本には五人の画家が
各章にわかれ第5章まで登場します。
第1章の清原斎『最後の夏』
第2章の大矢黄鶴『父との夏』
第3章の中村正義『人生の夏に叛いて』
第4章の田中一村『夏、奄美に死す』
第5章の若木山 『夏を描く』

はい。わたしは序章だけ読んでもう満腹。
ここには、序章最後の言葉を引用します。

「『絵の道に完成はない』とは多くの画家がいうところだが、
 そのひそみにならっていえば、田中一村も私の父も
 道なかばの人生であったということになろう。
 清原斎も中村正義も若木山もそうであった。

 美術の秋ということばをよく耳にするが、
 画家たちにとっての戦いは、夏である。
 彼等は季節の夏を、人生の夏を、どのように生き、
 どのように描き、どのようにして死を受け入れたか。
 
 それは惜しくも道なかばの人生であったことを
 ここに、描きとめたい。  」( ~p16 )


うん。どのように描かれたのか。
序章だけで満腹の私は、ただただ想像するばかり。
それよりも、序章は『描きとめたい』と終わっておりました。
描きとめたい夏。描きとめれた夏。
万事飽きやすい私ですが、この夏、ページをめくれるかどうか。

ちなみに、名前ですが大矢鞆音(おおや・ともね)と読みます。



 
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兼好の『再誕生』記念日。

2022-06-27 | 古典
徒然草の第41段は

「五月五日(さつきいつか)、賀茂の競べ馬を見侍りしに・・」

とはじまります。上賀茂神社の競べ馬を見物に行ったところ、
柵の近くは、とりわけ人々が混雑していて、分け入る隙間がない。

「 殊に人多く立ち混みて、分け入りぬべき様も無し。」

うん。ここは原文でつづけてみます。

「 かかる折に、向かひなる楝(あふち)の木に、
  法師の登りて、木の股に突き居て、物見る、有り。」

はい。この第41段からあとは、
いろいろな法師が登場します。
今回はというと、

「 取り付きながら、いたう眠(ねぶ)りて、
  落ちぬべき時に目を醒ます事、度々なり。

  これを見る人、嘲(あざけ)り浅みて、
  
  『 世の痴れ者かな。かく危き枝の上にて、
    安き心ありて、眠るらんよ 』と言ふに・・・」

このあと、兼好自身が『ふと思ひしままに』言葉を発すると
その言葉から、思わぬ展開をするのでした。

うん。その展開部はカットして、第41段の最後を引用。

「人、木石にあらねば、時にとりて、物に感ずる事、無きにあらず。」

ここをガイド・島内裕子さんの『評』では、どう捉えていたか。

「・・因幡の娘が、栗ばかり食べていたように、
 兼好は、本ばかり読んで生きてきた。

 書物の世界に沈潜して、見ぬ世の人を友とする 
 ことも大切ではあるが、そればかりでは、
 現実から隔てられてしまう。外界から隔てられた
 静謐(せいひつ)な思索だけでは、不十分なのだ。
  ・・・・・・
 爽やかな青葉若葉の賀茂祭りの出来事は、
 外界に一歩踏み出した、『兼好再誕』の記念日だった。
 だからこそ、この日付が重要なのだ。・・・・」
                   (p94 文庫)


つづく各段を、すこしコマ送りしてみると。

第42段では、行雅僧都(ぎょうがそうず)。

第45段では、良覚僧正(りょうがくそうじょう)。

第46段。この段はきわめて短いので引用したほうがはやそう。

「 柳原の辺に、『強盗の法印』と号する僧、有りけり。
  度々、強盗に遭いひたる故に、この名を付けにける、とぞ。」

第46段の島内さんの『評』はというと、

「 『堀池の僧正』(第45段)の話を書いているうちに、
  もう一つ、あだ名の話が心に浮かんできたのだろう。
  強盗と法印という言葉の結びつきが意外で、兼好も、
  法印自身が強盗なのかと、早とちりしそうになった
  のかもしれない。しかし、よく聞いてみるとそうではなく、
  何度も強盗に入られたので、こんなあだ名を付けられたのだった。
  このあたりの記述の流れは、まさに序段で述べていたように、
  『 心にうつりゆく由無し事を、そこはかとなく 』
  書き留めていて、しかも不思議と、一読忘れがたい話になっている。」


第47段では、「ある人が東山の清水寺にお詣りしたところ、
       年老いた尼と道連れになった。」とはじまる。

第49段では、こうはじまっていました。
「老い、来りて、初めて道を行ぜんと、待つ事勿(なか)れ。」

そうそう、仁和寺が第52~54と続いておりました。

第52段では、
 「仁和寺に有る法師、年寄るまで石清水を拝まざりければ、
  心憂く覚えて、或る時、思ひ立ちて、ただ一人、徒歩より詣でけり。」
 とはじまります。

第53段の「これも、仁和寺の法師・・・」とはじまるのは、
宴会で「足鼎(あしかなえ)を頭にかぶって」とれなくなる話でした。

第54段は、「御室にいみじき稚児の有りけるを・・」と始まります。
訳というと「仁和寺に、とても可愛い稚児がいるので」とあります。


このくらいで、今日の始まりへと、もどることに。

徒然草第41段の『評』を島内裕子さんは
『外界に一歩踏み出した、『兼好再誕』の記念日だった。』
と書いていたのでした。島内さんの連続読みからすると、
この第41段の5月5日というのは重要な記念日だった。

その段の『評』は、どうしめくくられていたかというと、

『第38段から第41段にいたる一連の記述は、
 徒然草全体の中でも、非常に大切な屈折点である。』

ここは、思いっきり飛ばして、
ちくま学芸文庫「徒然草」の、最後の解説をひらくことに。
はい。解説も島内裕子さんが書いております。

「世の中のことや人生に対して、思索の行き着くところまで
 急激に突き詰めて、壁に行き当たっても、

 精神の緊張を解き放つかのように、
 ふとユーモラスで柔軟な思考と表現が生まれ出ることがある。

 徒然草の滑稽な話は、多くの場合、このような精神の
 緩急運動から生まれることは、全体を通読してこそわかることである。

 兼好自身、徒然草を書くことによって、
 精神の平衡を保ち、成熟もしていった。

 そして次第に、名も無き他者の言動に注意深く耳を傾け、
 書物からだけでは得られないような、この世の真理にも
 気づかされるようになったのである。・・・」(p492 文庫)



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新鮮な食材としての小林秀雄。

2022-06-26 | 本棚並べ
ガイドの島内裕子さんの話は面白く。
まずは、食材をていねいに吟味して、
新鮮さを見極め料理するワクワク感。

せっかくなので、昨日につづいて『小林秀雄』。
この、フルコースは、舌鼓をうって味わなきゃ。
島内さんの素材を生かす料理を堪能することに。

その前に、急がば回れで、比較する意味で引用するのは杉本秀太郎。
杉本秀太郎著「徒然草」(岩波書店・古典を読むシリーズの一冊)。
この本のあとがきから、

「小林秀雄の『無常といふ事』は、創元社から昭和24年に
 改装初版の出た直後に買い求めて以来、忘れ得ない書物となった。
 私は18歳になったばかりだった。同書に収めてある『徒然草』を
 論じた5頁にも満たない短文は、長いあいだ私を眩惑しつづけた。
 『つれづれなるままに』という語の解釈にあたって、
 私にはあの短文に最も多くを負うたという自覚がある。・・・」                                                  
(p189)

はい。普通はこんなふうにして素材の『小林秀雄』を取り上げる。
島内裕子さんは、徒然草という土俵で、みごとに『小林秀雄』と
いう素材の魅力を生かし調理する。ここはきちんと報告しなきゃ。

ところで、古本で買ったところの
島内裕子著「徒然草の内景」(1994年)と
「徒然草の遠景」(1998年)とはいずれも、
放送大学教材とあるのでした。
なあんだ、これは放送大学のテキストでした。
これで受講された方は多数おられただろうな。

古本のテキスト『徒然草の遠景』には、
毎ページにマーカーで線がひかれてて、
丁寧に受講されたのか書き込みが多い。
それはそうと『遠景』の目次の最後の方に、
「小林秀雄の徒然草観」とあり目にはいる。

はい。そこから引用しておくことに。
小林秀雄の『徒然草』は

「400字詰原稿用紙に換算して、5枚にも満たない短い
 評論的エッセイであるが、その喚起するものは大きい。
 彼がここで提示した徒然草の作品世界と人間兼好の輪郭は、
 他の注釈書・研究書に拮抗するほど鮮烈である。」

こう島内さんは指摘し、『隠し味』を舌でみきわめております。

「注目すべきことは、このエッセイが小林秀雄の
 文学的直感だけで書かれているのではなく、
 それ以前の徒然草研究史を踏まえていると考えられる点である。
 彼はそれまでの徒然草研究の成果を咀嚼した上で、
 数々の断定的な発言をしているのである。

 小林秀雄の『徒然草』でとりわけ印象的なのは、
 徒然草第40段に強い光を当てたことである。
 彼以前には、誰も彼ほどこの話に重要性を認めていない。

 ・・・・おそらく、
 沼波瓊音の『徒然草講話』を念頭に置いての発言なのである。
 ・・・さらに小林秀雄は、内海弘蔵の『徒然草評釈』の
 『徒然草趣味論』をも視野に収めて・・いる。このように
 小林秀雄は内海弘蔵と沼波瓊音の徒然草研究を射程距離に
 取り込みながら、それらに反論する形で自論を展開している。」

このあとで、島内裕子さんは小林秀雄の『徒然草』を味読します。

「小林秀雄が『徒然草』を発表してから現在まで、
 50年以上の歳月が経過しているが、彼が提出した
 徒然草観と兼好像は、今でも新鮮である。それは、
 徒然草を生み出した兼好その人への関心に貫かれているからである。

 小林秀雄の『徒然草』の主旨は、結局だた二点に集約される。
 第一点は、徒然草は名文で書かれているということ。
 第二点は、兼好の真意は表現の背後に隠されているということ。

 徒然草の文章は、簡潔であることによって
 読者にさまざまなことを考えさせ、感じさせる
 象徴性や暗示力や喚起力を持つ。
 
 読者は、書かれざる表現の余白を
 読み取らなければならない。   」(~p241)

はい。このあとは、この新鮮な素材を生かしながら、
島内裕子さんが調理をすすめてゆく手際となります。

うん。こんな箇所は、しばらくすればスッカリ忘れて
島内裕子さんは、どこで小林秀雄を語っていたのかと
探し出すのも億劫になるのに決まっております。でも、
ここは、小林秀雄をきちんと整理整頓した箇所なので、
昨日と重複しますが、貴重だと思え、取り上げました。


追記:
島内裕子著「徒然草文化圏の生成と展開」(笠間書院)に、
「徒然草と恋愛」という10ページほどの文があるのですが、
それは小林秀雄著「Xへの手紙」の引用で始まり興味深い。

 



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物が見え過ぎる眼を如何にしたら

2022-06-25 | 古典
清水幾太郎著「私の文章作法」(中公文庫)の中に、
「簡潔の美徳」(第19話)という箇所がありました。

「 日本文では、簡潔な書き方というのが、
  或る特別な重要性を持っているように考えられます。

  簡潔という美徳を大切にしないと、私たち日本人は、
  情報の伝達という点で外国人に大きく負けてしまう
  ような気がするのです。    」(p125)

うん。読んでいて、何か違和感があったためか、
逆に印象に残っていました。もう少し引用しておくと、

「私は何が言いたいのか、とおっしゃるのですか。そうですね。
 文章作法から随分離れたところへ来てしまったような感じがしますが、
 ・・・・・敢えて一つの教訓を引き出すとしますと、

 日本人たるもの、文章の簡潔という美徳を
 忘れてはならないということになるでしょう。  」(p124)


小林秀雄に『徒然草』という、全集で3ページほどの短い文があります。
あんまり短いので何を言っているのやら、わからずにおりました。
気になるけれど、わからないからか、すっかり忘れておりました。

ガイドの島内裕子さんの『徒然草』案内には、その小林秀雄の文も
しっかりと登場する場面があるのでした。

うん。それならと、小林秀雄の『徒然草』を読んでみる。
はい。なんせ短いですからね(笑)、そこにはこんな箇所。

「 物が見え過ぎる眼を如何にしたらいいか、
  これが徒然草の文体の精髄である。   」

この短文は、最後に徒然草第40段の全文を引用して、
しめくくられております。うん。この際そこを引用。

「鈍刀を使って彫られた名作のほんの一例を引いて置こう。
 これは全文である。

 『因幡の國に、何の入道とかやいふ者の娘容美(かたちよ)しと聞きて、
  人数多言ひわたりけれども、この娘、唯栗のみ食ひて、更に米(よね)
  の類を食はざりければ、斯(かか)る異様(ことやう)の者、
  人に見ゆべきにあらずとて、親、許さざりけり』

 これは珍談ではない。徒然なる心が
 どんなに沢山な事を感じ、
 どんなに沢山な事を言はずに我慢したか。   」

うん。ガイドの島内裕子さんは、ここを取り上げてゆきます。

「 室町時代に歌人正徹によって徒然草が見出されて以来、
  どれほどの人々がこの作品を読んできたか数え切れない。

  だがその中で誰一人、
  小林秀雄ほど第40段に注目した読者はいなかった。
  ・・・・
  この小林の貴重な発言は、その後の徒然草研究の中で
  正当に取り上げられることはなかった。
  『何を言わんとしているか、わからない』とか、
  『評論家の思いつきの発言だろう』くらいにしか、
  捉えられてこなかったからである。」

         ( p201 島内裕子著「兼好」ミネルヴァ書房 )

このあとに、島内裕子さんは、ちょっとした物語を語っています。
うん。自由な連想という感じですのでお気楽に引用しておきます。

「兼好がいつどこでこの話を聞いたかは、わからない。
 その場では皆と一緒に、一時の座談の面白い話だと
 思っただけかもしれない。けれども彼の心の中には、
 この風変わりな娘がひっそりと棲みついていた・・。

 机の上には、硯と筆、そして
『万事は皆非なり。言ふに足らず。願ふに足らず』と書いて、
 しばらく中断していた冊子が広げられている。

 最近、ふと思い付いてそのあとに法然の話を書いてはみたが、
 またしばらくそのままになっていたものだ。・・・・

 その時どうしたはずみか、兼好の心の中を、
 ずっと忘れていた因幡国の娘がよぎる。
 都を遠く離れた因幡国で、未婚のままでいる美しい娘。
 娘は父親の庇護のもと、さしあたって何の心配もなく、
 好きな栗だけを食べて暮らしている・・・

 一体あの娘は、その後どうなったのであろうか。 
 波風立たぬ平穏な、しかし退屈な毎日を過ごしているのだろうか。
 そして、何の汚れもない童女のままの姿で、年老いていったのだろうか。

 ・・・・
 兼好もまた、一人の『異様の者』だった。
 子孫など不要であると断言していた兼好(第6段)。

 『住み果てぬ世に醜き姿を待ち得て、何かはせん。
  命長ければ辱(はぢ)多し。長くとも、四十(よそぢ)
  に足らぬほどにて死なんこそ、めやすなるべけれ』(第7段)
  
 と書いて、老醜に対して生理的とも言うべき反発を感じていた兼好。
 現実のどこにも心の友がいなくて、孤独だった兼好(第12段)。

 世間の人々の私利私欲、立身出世志向、
 そしてすぐれた智恵や才能さえも否定して(第38段)、
 次なる一歩を踏み出せないでいる兼好。

 因幡の娘は、栗だけを生きる糧としていた。
 それなら兼好は、何を糧として生きていたのか。

 兼好の生きる糧、それが『理想』だった。しかし栗しか
 食べない娘が『異様の者』として周囲から孤絶していたように、 
『理想』だけを糧としている兼好の生き方もまた孤独なものだった。」

         (~p207 島内裕子著「兼好」ミネルヴァ書房 )

そして徒然草は、第40段から第41段へ、つながるのでした。

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150年ほど前の人。

2022-06-24 | 古典
一冊の本では、とても盛り込めないままに、カットされた情報が、
数冊の本だと、とりこぼされてた展開が、拾われ繋がり興味深い。

徒然草を語る、島内裕子さんの数冊の本にはそんな楽しみがある。
まるで、海岸に打ち上げられる漂流物が日々に違ってくるように。

ここでは、徒然草第39段に登場する法然上人をあらためて取り上げます。
島内裕子著「徒然草の内景」では、兼好との時代の差異に着目している。

「 法然は、長承2年(1133)に生まれ、
  建暦2年(1212)に80歳で没した浄土宗の開祖である。

  時代的には鴨長明とほぼ同時代人で、
  ちょうど法然の没した年に、『方丈記』が著されている。

  したがって兼好から見ると150年ほど前の人である。
  兼好がこれらの法然のことばをどこで知ったかは不明であるが、
  同様のことは『和語燈録』『法然上人絵伝』『一言芳談』などにも
  書かれている。ただし、徒然草第39段と全く同じものはないようなので、
  ここには兼好ごのみの法然像が混入しているかもしれない。 」(p151)


はい。『兼好ごのみの法然像』ということで、
ここは、第39段の原文をもう一度引用します。

「 ある人、法然上人に、

 『念仏の時、睡(ねぶり)に侵されて、行を怠り侍ること、
  いかがしてこの障(さは)りを止(や)め侍(はべ)らん』

  と申しければ、
    『目の覚めたらんほど、念仏し給へ』
  と答へられたりける、いと尊(たふと)かりけり。

 また、『往生は一定(いちぢゃう)と思へば一定、
     不定(ふぢやう)と思へば不定なり』
 と言われけり。これも尊し。

 また、『疑ひながらも念仏すれば、往生す』
 とも言はれけり。これもまた尊し。      」


島内裕子著「兼好」(ミネルヴァ書房)では、
この段を、島内さんが、どう道案内しながら語っていたか。
ガイド・島内さんは一貫して最初から連続読みの立場です。

「第38段は兼好ともう一人の兼好との対話劇のようだと述べたが、
 この段(第39)もまさに『ある人』と法然の対話劇である。

 おそらく兼好もまた『ある人』のように
 生真面目な悩みを心に抱いてこれまで生きてきたのだ。

 ところが『ある人』への法然の答えは、
 思いがけないほど柔軟性に富むものだった。

 眠ければ眠くない時に念仏しなさい、という法然の言葉は、
 文字通り目の覚めるように鮮やかな回答だ。

 生真面目であればあるほど視野が限られ、心が硬直しがちになる。
 そうではないもっと新たな世界が存在することを、
 法然の簡潔な言葉が教えてくれる。

 ただし法然の伝記や彼に関する説話などにも、
 この段とぴったり一致するエピソードは出てこないようである。
 いったい兼好がどこから、この話を仕入れたのかはわからない。

 けれどもどこかしら、ほのかなユーモアが漂うこの話を
 兼好が書き留めたことが、何よりも重要なのだろう。

 この段以後の徒然草には、ユーモアな話が目に見えて増えてくる。
 兼好の中で、何かが少しずつ変わってきている・・・。」(p200)


うん。せっかくですから、この本の数ページ先の言葉も
この際、引用しておきます。

「人の心を動かす生きた言葉は、・・・
 この現実世界を開く言葉なのである。
 
 徒然草が現代にいたるまで、なぜ読み継がれてきてのか。
 徒然草はなぜ読者の心を開く言葉の宝庫なのか。

 それは兼好が自分自身の孤独と誠実に向き合い、
 世の中のあり方に深く悩み、精神の危機を体験したことを
 尊い代償として、徒然草に新たな世界を切り開き、
 生きた言葉を書き記し続けたからである。 」(p213)

え~と。当ブログで
昨日、徒然草の第38・39段に触れた際に
お二人の方から、コメントを頂きました。

それやこれやで、もうすこし反芻したくなり、
第39段の原文をまた引用させてもらいました。

「第39段はほのかなユーモアさえ漂う段で、
 これ以後、徒然草の章段には、
 ユーモラスなおかしみのある段が目に見えて増えてくる。
 今までとトーンが少しずつ変化してくるのである。
 そのような徒然草の微妙な変化が、
 このあたりを境にして徐々に明確になってくる。・・」

         ( p152 島内裕子著「徒然草の内景」 )
  
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これもまた、尊(たふと)し。

2022-06-23 | 古典
徒然草の、第38段から第39段まで。
最終的に、第39段の原文を引用してみたいのですが、
関連する、第38段に言及しそこからの繋がりに着目。

はじめに、第38段。
ちくま学芸文庫の「徒然草」の評も短いので、
わかったようで、わからない。それならばと、
島内裕子著「徒然草の内景」から丁寧に引用。

「第38段は、『人生いかに生きるべきか』という
 永遠のテーマに正面から取り組んだ段である。
 ・・まるで兼好ともうひとりの兼好による
 『対話劇』のような強い緊張を孕んだ展開になっている。」(p141)

「今まで読んできた中でも第19段や第1段に次ぐ長い章段であり、
 兼好も非常に力を込めて書いている。中国の古典による表現が
 多用され、持てる知識を総動員している感がある。・・・

 今まで書いてきたことの総決算的な意味がこの段にある
 ことも忘れてはならない。 」(p142~143)

この第38段についてでは、島内裕子さんは
方丈記との関連を持ち出していて印象深いのでした。

「『万事は皆非なり。言ふに足らず。願ふに足らず。』
 という最後(第38段)の部分には・・・
 兼好の孤独な姿があらわれている。・・

 ここを読むと、『方丈記』の最末尾、

 『その時、心さらに答ふる事なし。
  ただ、かたはらの舌根をやとひて、
  不請阿弥陀仏、両三遍申してやみぬ。』

 という終わり方を連想させずにはいられない。
 ・・・長明は自らに問いかける。しかし、明確な
 答えを得ることができず、『方丈記』という作品は
 稿を閉じられたのであった。

 それに対して兼好の場合、
 徒然草をここで終わりにすることなく、
 さらに書き続けてゆく。・・・・・
 兼好の新たな精神の地平が、いかにして
 切り拓かれていったか・・・」(p146~147)


はい。徒然草の第38段は、原文を引用しても
私には「猫に小判」宝の持ち腐れなので、
島内裕子さんの説明を引用しました。
それでは、『兼好の新たな精神の地平』に
浮かび上がってきた第39段の原文と、
文庫での評とを引用して終わります。

第39段

「或る人、法然上人に、
 『念仏の時、眠りに侵されて、行を怠り侍る事、
  いかがして、この障りを止め侍(はべ)らん』
 と申しければ、

 『目の醒めたらん程、念仏し給へ』
 と答へられたりける、いと尊かりけり。
 また、
 『往生は、一定(いちぢやう)と思へば一定、
  不定と思へば不定(ふぢやう)なり』
 と言はれけり。これも、尊し。
 また、
 『疑ひながらも念仏すれば、往生す』
 とも言はれけり。これもまた、尊し。  」(p89 文庫)

さて、この第39段の評を島内裕子さんは
文庫ではどう指摘していたのか

評】 理詰めな書き方の第38段に対して、
   融通無碍(ゆうずうむげ)な法然上人の言葉を書き、
   好対照である。
   兼好はこのような自在な境地があることに深く感動して、
   三度も尊いことだ、と共感している。
   このような共感が、新たな扉を開くことになる。 (p90)
 



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げにげにしく、良き人かな。

2022-06-22 | 古典
徒然草の第35・36・37段をまとめて、島内裕子さんは

「 日常生活の中で目にする他人の有様や生き方を通して、
  人の振る舞いの良し悪しを書いている。

  これらの章段を読むと、とても一人静かに山里の
  草庵暮らしを営む人物として、兼好を想像することが出来ない。

  人間関係の中での身近な見聞や、それに触発された
  人間のあり方への思索だからである。
  徒然草の記述スタイルが、次第に広がりを見せ始める。」
                  ( p82 文庫 )

うん。各段のはじまりの原文は

第35段は「手の悪き人の、憚らず文書き散らすは、良し。」
第36段は「『久しく訪れぬ頃、いかばかり恨むらんと・・』」

ここでは、第37段をとりあげてみます。
まずは、原文から

「 朝夕、隔て無く馴れたる人の、とも有る時、
  我に心置き、引き繕へる様に見ゆるこそ、

 『今更、かくやは』など、言ふ人も有りぬべけれど、
  猶、げにげにしく、良き人かなとぞ覚ゆる。  」

う~ん。これが第37段の前半ですが、
原文だけじゃ、何だかチンプンカンプン。
さっそく、島内裕子訳へ。

訳】 朝夕、隔てなく慣れ親しんだ人が、ふとした時に、
   自分に対して遠慮し、改まった態度に見えるのは、
  『今さらそんな』と言う人もいるようだけれど、
   やはり何と言っても、誠実で信用の置ける
   立派な人だと思える。 


後半は、原文で一行ほど

 「 疎き人の、打ち解けたる事など言ひたる、
       また、良しと思ひ付きぬべし。」

訳】 逆に、普段はそれほど親しくない人が、ふとした時に、
   打ち解けたことなどを言ったならば、これもまた、よいことだと、
   その人に心引かれる思いがするだろう。

島内裕子さんの『評』には、簡潔さへの言及がありました。

「 いずれにせよ、・・短く簡潔であり、
  自由に想像を羽ばたかせて読むことができる。
  徒然草にはそのような段が多いことが、大きな魅力である。 」
             ( p83 ちくま学芸文庫「徒然草」 )


以前は、第35段が気になったことがあります。
今回は、第37段が気になりました。
      
うん。またしても、水先案内人・島内裕子さんの
折に触れての、ふとした語りが思い浮かびました。

「 教科書に出てくる徒然草は、簡潔で多彩な
  いくつもの短い章段からなり、
  『パンセ』や『侏儒の言葉』のような
  断章形式が何とも魅力的だった。

 『この作品を、一生研究してゆきたい』と、
  十代の半ばで思い定めたのは、今振り返れば
  不思議な気もする。・・・・        」
       ( p299 島内裕子著「兼好」ミネルヴァ書房 )


いつも断章形式は、私にはチンプンカンプンで、
ガイド島内裕子さんの案内がなきゃ進めません。







 
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ふーん、なるほど。信濃の月。

2022-06-21 | 古典
対談の言葉は印象深いのですが、話題が流れてゆくためか、
残念なことに、あとでどこにあったのか忘れてしまいます。
忘れたことが気になって、忘れ物探しに時間をつぶします。
うん。そんなことがないように、とりあえずは書いてみる。
はい。ちょっとしたことなので、どうつながるか。

ちくま学芸文庫『徒然草』のp59。
島内裕子さんの『評』に、古今和歌集の古歌が引用されてた。

「『わが心慰めかねつ更級や姥捨山に照る月を見て』
  という『古今和歌集』の古歌もあるように・・・  」

そういえば、丸谷才一と大岡信の対談「唱和と即興」に
山頭火に触れた箇所があったなあ。
最近読んだので、すぐにページがめくれました。
そこを引用しておくことに。

丸谷】・・・この一年ばかり、山頭火の句をずっと読み続けましてね。
   山頭火の句の中でぼくが一番好きだった句は、
   いままで誰も褒めてない句なんです。

      なるほど信濃の月が出ている

大岡】 ふーん、なるほど。

丸谷】・・・昭和13年かな、信州へ行ったときの句。

   最初は、『なるほど』という間投詞でしょう。
   それから 『信濃』という固有名詞でしょう。
   間投詞と固有名詞を除くと、『月が出ている』
   というただそれだけになっちゃう。

   でも、この間投詞+固有名詞+『月が出ている』、
   この3つ・・・

   ・・・・・問題は、『信濃の』って言葉だよね。
   これがほかの何かで、
  『京都の月が出ている』じゃもちろんだめなわけですよ。
   信濃でなきゃいけない。
   姥捨山の月でなくちゃいけない。
   山頭火がたった一人でポツンと歩いていると、
  『古今集』の姥捨の月という伝統との対話が成立する。
  『古今』読人知らずの歌人と、
   お互いに唱和することができるわけでしょう。
   だから『なるほど』だ。

   そこでさびしさが解消されて、心が満たされるわけですね。
   そういう楽しさを感じることができる。
   そして大前提としての孤独も、身にしみる。・・・・

   ・・・明治維新以前の日本文学との対話ということを、
   現代俳人はどうも怠っているんじゃないかしらってことなんです。」

           ( p113~115 「古典それから現代」構想社 )

うん。ここでの丸谷さんの言葉って、何を言いたいのかなと思うと、
徒然草の第13段のはじまりが思い浮かぶわけです。

「 一人、燈火(ともしび)の下(もと)に、文を広げて、
  見ぬ世の人を友とするぞ、こよなう慰む業(わざ)なる。  」

と言われても、なかなかに『なるほど』とは言えないわけです。

     なるほど信濃の月が出ている     山頭火

 



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癒しがたさ。慰めがたさ。

2022-06-20 | 古典
徒然草の第20段。2行ほどの短い文を島内裕子さんは評して、

「『空の名残』という名句が刻印された段。空の名残とは、
  夕暮に次第に暮れゆく空の変化を指すと考えられる。 」
                  ( p57 文庫 )

つぎの第21段では、『空の名残』がどのようにつながるのか?
まず、島内裕子さんの評を引用。次に訳・原文へとたどります。

『評』 
「 心は、いかにして慰めることができるのか。
 『わが心慰めかねつ更級や姥捨山に照る月を見て』
  という『古今和歌集』の古歌もあるように、

  いつの時代にも、誰にとっても、 
  心身の癒しがたさ、慰めがたさがある。

  それでも、月・露・花・風・水などと触れ合う
  ことによって心が慰められる、と述べている。
   ・・・・                 」

つぎに、島内裕子さんの訳は

「 どんな時も、月を見れば心が慰む。
 ある人が『月ほど心惹かれるものは、他にはないだろう』と言ったところ、
 もう一人は、『自分は月よりも露の方こそ、心に沁みる』と
 論争になったのは面白いことだった。

 その時々の琴線に触れれば、何であれ、あわれでないものはない。

 月や花は言うまでもない。むしろ、
   風こそ、人の心に感動を生じさせるし、
   岩に砕けて清らかに流れる水の様子こそ、
   時節を特定せず、いつも素晴らしいのだ。

 『・・・』という漢詩を読んだ時、私は感慨深いものがあった。
 嵆康(けいこう)も『・・・・・』という詩を書いている。

 人里から遠く離れて、水草が清らかな沢辺を
 さまよい歩くことくらい、心が慰められることはないだろう。」

うん。最後に徒然草第21段の原文全文引用。

「 万(よろづ)の事は、月見るにこそ慰む物なれ。
  或る人の、『月ばかり、面白き物はあらじ』と言ひしに、
  また一人、『露こそ、哀れなれ』と争ひしこそ、をかしかれ。
  折に触れば、何かは哀れならざらん。

  月・花は、更なり、風のみこそ、人に心は付くめれ。
  岩に砕けて清く流るる水の気色こそ、時をも分かず、めでたけれ。

 『沅・湘、日夜、東に流れ去る。愁人の為に、留まる事、小時もせず』
  と言へる詩を見侍りしこそ、あはれなりしか。
  嵆康も、『山沢に遊びて、魚鳥を観れば、心楽しぶ』と言へり。
  人遠く、水草清き所に、逍遥ひ歩きたるばかり、心慰む事はあらじ。」
                       ( p58 文庫 )

この段の、歌仙でいうところの他の句(段)との
付け・繋がり具合はどうなっているのか?

はい。ガイドさんは『評』の後半で指摘されておりました。

「自然の中で、清新な空気や風景に溶け込んでこそ、
 たとえ一時的にもせよ、俗塵を洗い流せるのだ。

 第19段あたりから一連のものとして捉えるならば、
 このあたりの兼好の書きぶりは、自然との融合に
 よる心身の回復が模索されており、それらはさらに
 大きく第15段あたりからも繋がっていよう。

 ただし、次の段からは、視点が少し変化して、
 季節や自然といったものから、
 止めようもなく変化する時間への感慨、
 つまり現在と過去の対比に関心が移動してくる。」
              ( p59 ちくま学芸文庫 )

うん。こうして次の段、次の段へと進んでゆく段々の間の飛躍の、
見えない余白の魅力を、思うに芭蕉の歌仙も秘めてるんだろうな。

そう思えば、日本における言葉のバトンはつながっておりました。
段と段との余白の豊穣を味わう貴重で贅沢な時間。

ということで、徒然草の第243段までの連続読みも、
先達の島内裕子さんと一緒に歩けば苦にはならない。
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名残(なご)り。

2022-06-19 | 古典
徒然草の第19段と第20段。

第19段に、「年の名残」とあり、つづいて、
第20段に、「空の名残」がある。

名残といえば、イルカさんの『なごり雪』が思い浮かぶなあ。
それはそうと、ガイドの島内裕子さんは第19段をとりあげて、

「 私事にわたるが、私は毎年、元旦の午前中に
  この段(第19段)を読み上げて、過ぎし一年の
  くさぐさと、これから始まる新しい一年に思い
  を馳せ、清澄な気分に包まれる。」
                   (p56 文庫)

うん。ガイドさんが元旦に家で読み上げる。
それだけでも、興味をそそりますが、この段は短くない。
最後の方だけ引用してみます。

「年の暮れ果てて、人ごとに急ぎ合へる頃ぞ、又無く、哀れなる。
 すさまじき物にして、見る人もなき月の、寒けく澄める
 二十日余りの空こそ、心細き物なれ。・・・・

 公事(くじ)ども繁く、春の準備(いそぎ)に取り重ねて、
 催し行はるる様ぞ、いみじきや。追儺(ついな)より、
 四方拝(しほうはい)に続くこそ、面白けれ。

 晦日(つごもり)の夜、いたう暗きに、松ども燈(とも)して、
 夜半過ぐるまで、人の、門叩き、走り歩きて、何事にか有らん、
 事々しく罵りて、足を空に惑ふが、
 暁方(あかつきがた)より、さすがに音無く成りぬるこそ、
 年の名残(なごり)も心細けれ。

 亡き人の来る夜とて、魂祭る業(わざ)は、この頃、都には無きを、
 東(あづま)の方には、なお、する事にて有りしこそ、哀れなりしか。

 かくて、明けゆく空の気色、昨日(きのふ)に変はりたりとは
 見えねど、引き替へ、珍しき心地ぞする。

 大路(おほち)の様、松立て渡して、
 華やかに嬉しげなるこそ、また、哀れなれ。   」


うん。第19段は、最後の方だけ引用したのに、長くなりました。
比べ、第20段は、短いので、こちらは原文・訳・評と全文引用。

「 某(なにがし)とかや言ひし世捨て人の、
  『 この世の絆(ほだし)、持たらぬ身に、  
    ただ、空の名残のみぞ惜しき     』
  と言ひしこそ、真(まこと)に、然(さ)も覚えぬべけれ。」

次にこの訳は

「 誰それとか言う世捨て人が、

 『 この世に、絆は何もないわが身ではあるが、
   季節と時間の推移につれて、刻々と移り変わる
   空の名残の様子だけが心懸かりで、捨て去れない 』

  と言ったのは、本当にその通りだと思われる。    」


はい、最後には島内裕子さんの『評』です。

「 『空の名残』という名句が刻印された段。
 空の名残とは、夕暮に次第に暮れてゆく空の変化を指すと考えられる。

 見上げる人間の心模様を映し出し、受け容れるものとして在り続け、
 日も月も星も輝き、ある時は片雲(へんうん)漂い、時雨降り、
 雪が舞う変幻多彩な空である。

 だから、空の名残が惜しいという心性には、
 今生きて在る生への断ち切れぬ思いがあるだろう。
 空の名残に託した人生の名残。そこにこそ、
 兼好は深く共鳴したのではないだろうか。  」( p57 文庫)


はい。ついついガイドさんの名解説につられて、ついてゆきます。




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和歌こそ、なお、おかしき物なれ。

2022-06-18 | 古典
沼波瓊音著「徒然草講話」で、連鎖を指摘する箇所は忘れがたい。

「枕草紙と徒然草とには、断つべからざる一條の連鎖がある。
 そうしてこの同じ連鎖が、徒然草と俳諧とをも繋いでゐる。

 ・・芭蕉は如何に兼好を慕うたか。その各の作品と、
 徒然草とを読比べると、誰でも其程度が直ぐ解る。

 ・・・支考は、芭蕉庵で師翁と徒然草を論じたことを
 書いてる。このような事はしばしばあったのであろう。 」


はい。ここに『誰でも其程度が直ぐ解る』とあるのでした。
うん。素人の私には分からないとしてもですが、
ここはひとつ、簡単に言葉尻をとらえてみます。

ということで、まず気づくのは『細道』でした。
徒然草第11段には

「神無月の頃、栗栖野といふ所を過ぎて、
 或る山里に尋ね入る事はべりしに、
 遥かなる苔の細道を踏み分けて、
 心細く住み成したる庵あり。   」

うん。言葉の連想から、単純に楽しめば、
細道つながりで、『苔の細道』と『奥の細道』。

第12段の最後は

「まめやかの心の友には、遥かに
 隔たる所の有りぬべきぞ、侘しきや。」

この段を、島内裕子さんは『評』して

「第11段の草庵も第12段の人々も、所詮は兼好の心と
『遥かな隔たり』があることを描き出している点で、
 一続きのものと言えよう。

 第11段の『遥かなる苔の細道』は、求めて止まぬ理想が、
 簡単には手が届かない存在であることの象徴としての
 様相を帯び、真の心の友もまた、『遥かに隔たる所』がある。

 ・・『徒然なるまま』に『由無し事』を書き綴ることが、
 まずは兼好にとって、みずからの満たされない思いを
 紛らわす心遣(こころや)りなのだ。・・・・

 誰に見せようとして、『心にうつりゆく由無し事』を
 書き継げようか。相手を意識しないからこそ、
 
 連想の広がりも、また、突然の転調も、自在にできるのであって、

 この書き方のスタイルは、徒然草の最後まで、一貫している。・・」
                 ( p41 文庫 )

つぎの第13段の本文は3行ほどの短いものですが、
そのはじまりはというと

「一人、燈火(ともしび)の下(もと)に、文(ふみ)を広げ、
 見ぬ世の人を友とするぞ、こよなう慰む業(わざ)なる。」

はい。島内裕子さんの『評』はというと、

「この段の冒頭の一文だけを切り離して読めば、
 『読書の楽しみ』となるが、前段から連続読みすれば、

 心の友を求める兼好の孤独が色濃く漂う。・・・・

 ここに挙げられているのは、物語や和歌ではなく、
 思索に耽る古人たちの書物なのだ。・・・」 (p42 文庫)

つぎの
第14段のはじまりは、和歌からなのでした。

「 和歌こそ、猶、をかしき物なれ。
  あやしの賤(しず)・山賤(やまがつ)の仕業(しわざ)も、
  言ひ出(い)でつれば面白く、

  恐ろしき猪も、『ふす猪(ゐ)の床』と言へば、優しく成りぬ。」

この箇所の島内裕子訳は

「 和歌ほど、素晴らしいものはない。
  身分の低い人々の仕事ぶりも、
  和歌に詠み出せば生き生きとするし、
  恐ろしい猪も『臥猪(ふすい)の床』
  と言えば、優美になる。      」

うん。この段の『評』を島内さんは、こうはじめます

「前段で愛読書を挙げ終わった途端に、『和歌こそ、猶』という
 言葉が口を衝いて出て来るのが徒然草の面白さである。

 何か物を書くということは、あることを書けば、
 それ以外のものは同時には書けないことを意味している。

 その排除された言葉や思い、あるいは連想を誘うことがらが、
 続いて心に浮上してくるから、徒然草は次々とさまざまな
 話題が連なり出て来る。・・・        」( p45 文庫 )

このあと、第15段のはじまりの一行はというと、

「いづくにもあれ、暫(しば)し旅立ちたるこそ、目覚むる心地すれ。」

こうして第15段ははじまるのですが、あとの原文はカットして、
うん。この第15段の「評」を全文引用。

「ここで兼好は、周りの自然の風景のみならず、
 持参の品々や同行者に対する新鮮な感動まで語っている。

 型に嵌らない、自分自身の感覚を書いていて、
 急に外気が入ってきたような解放感がある。

 この段以前の記述が、現実に対する違和感や、
 それゆえに理想を求める姿勢が前面に出ていたのに対して、
 兼好の物の見方に変化の兆しを感じさせる。

 日常生活を離れて、旅先で感じる新鮮な感覚について述べているのは、
 現代人の感覚にもそのまま通じる。しかし、

 旅に出ると心が生き生きとリフレッシュするということは、
 古典和歌では詠まないことである。和歌に詠まれる旅の心は、
 辛さや心細さや、故郷への恋しさを詠むのが約束事だからである。」
                  ( p47 文庫 )

はい。ガイドさんの名調子に聞きほれておりました。
島内裕子校訂・訳『徒然草』(ちくま学芸文庫)を
第15段まで来ました。うん。次の第16段の始まりは

「神楽(かぐら)こそ、艶(なま)めかしく、面白けれ。」

とあります。うん。私はもうくたびれて、これ以上、
ガイドさんの言葉についてゆけない。ここらで休憩。

徒然草と芭蕉との連鎖ということでは、怠惰な私の身に引き寄せれば、
芭蕉とて、徒然草全文を読破したとは思わないし、思いたくない(笑)。
それでも、この引用した段章などは味読・再読・精読・輪読を
支考らと、繰り返していたんじゃないかと、自分にひきよせて、
ついあらぬことを、思い浮べてしまいます。


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ここが、徒然草序段の眼目。

2022-06-17 | 古典
本棚から「ことだま百選」(講談社・2014年)をとりだす。
うん。たしか新聞書評かなにかで、買った一冊でした。
東京都杉並区天沼中学校編となっております。

カバーの折り返しには紹介文。それを引用。

「東京都杉並区天沼中学校の取り組み。
『言葉こそ人間関係の基礎』という考えのもとに
 藤川章校長が発案し、国語科の川原龍介教諭らが
 名文・名句をまとめたものが、
 2013年4月に『言霊百選』として冊子化されました。
 ・・・・・ 」

「はじめに」の前ページに、古今和歌集の仮名序が載せてあります。
うん。引用。

「 やまとうたは、人の心を種として、
  万(よろず)の言(こと)の葉とぞなれりける。
  世の中にある人、ことわざ繁(しげ)きものなれば、
  心に思ふことを、見るもの聞くものにつけて、
  言ひ出(いだ)せるなり。  」

はじまりの「ことだま1」は、いろは歌でした。

「 色はにほへど 散りぬるを
  我が世たれぞ 常ならむ
  有為の奥山  今日越えて
  浅き夢見じ  酔(ゑ)ひもせず  」

徒然草序段はというと、「ことだま59」にありました。

「 徒然なるままに、日暮らし、硯に向かひて、
  心にうつりゆく由無し事を、そこはかとなく書き付くれば、
  あやしうこそ物狂ほしけれ。 」


うん。島内裕子校訂・訳「徒然草」(ちくま学芸文庫・2010年)から
この序段の現代語訳と評とを引用してみることに。

まずは、『評』にある「序段の眼目」から

「・・ただし当時(江戸時代)は、この序段と、次の第一段を
 一続きにして、『第一段』とする本もあった。けれども、
 冒頭の一文を独立させて序段とすることが

 そのまま、徒然草という作品自体の生成と展開を
 的確に指し示すことに気づくことが、重要である。

 『心にうつりゆく由無(よしな)し事を、そこはかとなく』
 書くことは、例えば、恋愛とか、旅とか、戦争とか、滑稽譚とか、
 テーマを決めなくても、執筆できるという新しい文学宣言だった。
 ここが、序段の眼目である。  」


さてっと、「ことだま百選」は、中学生が声を出して覚える暗唱を
『天沼検定』として実践されていることが最後に書かれております。

「天沼検定は、言霊名人になれば通知表で『5』がもらえる、
 というようなものではありません。
 そのため、教師の間では、生徒がやる気をもって
 取り組んでくれるか、不安もありました。
 ところが、その不安は杞憂(きゆう)に終わりました。 
 ・・・    」(p123)

うん。ここは、もうすこし具体的に紹介したくなるのですが、
ここまでで、カット。
最後には、島内裕子さんの徒然草序段の現代語訳

「 さしあたってしなければならないこともないという
  徒然の状態が、このところずっと続いている。

  こんな時に一番よいのは、心に浮かんでは消え、
  消えては浮かぶ想念を書き留めてみることであって、

  そうしてみて初めて、みずからの心の奥に蟠(わだかま)って
  いた思いが、浮上してくる。

  まるで一つ一つの言葉の尻尾に小さな釣針が付いてるようで、
  次々と言葉が連なって出てくる。

  それは、和歌という三十一文字からなる
  明確な輪郭を持つ形ではなく、
  どこまでも連なり、揺らめくもの・・・。

  そのことが我ながら不思議で、
  思わぬ感興でのおのずと筆も進んでゆく、
  自由に想念を遊泳させながら、

  それらに言葉という衣装を纏(まと)わせてこそ、
  自分の心の実体と向き合うことが可能となるのではなかろうか。」
                     ( p17 )
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