和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

ドナルド・キーンと司馬さん。

2006-11-29 | Weblog
本を読んでいて、時々、この本は、あとで読み直そうとか、あとで丁寧に読んでみようとか、そう思うことがあります。けれど、結局はそう思うだけで、たいてい、私は再読しないわけです。そして、そういう本にかぎって、すっかり忘れてしまっているのに、何か大事だという印象だけが残っているのでした。

たとえば、司馬遼太郎&ドナルド・キーン著「日本人と日本文化」(中公新書)は、私にとってそういうたぐいの本なのです。こんどあらためて読んでみたいと思ったのですが、ここでひとつ、読む前に、興味を持ったその筋道を書いておきたいと思ったのです。困ったことに、天邪鬼(あまのじゃく)な私は、読もうと思っただけで、そのままに読まないことが、たびたびなのでした。そして、しばらくすると、なぜ再読したかったのか、ということを忘れていたりするのでした。
これじゃ下手な笑い話の材料にもなりません。

とにかくも、再読を思いたった経緯(いきさつ)を記録しておこうと思ったのです。

谷沢永一・渡部昇一著「人生後半に読むべき本」(PHP研究所)
そのp216に谷沢さんが語っておりました。
「蔵書の楽しみということについても考えてみましょうか。
ただ、これはなんといっても、その方の性格によります。私は本を蓄えるほうでした。
しかし開高健は、読んだらすぐに捨てていく性質(たち)でした。彼にとって本は食い物だったからです。食べてしまったら、もういらない。それは、その人の性格や置かれている境遇など、いろいろ条件に左右される。
司馬遼太郎は、とびっきり思い切りのいい人でした。自分の後を追跡されたくないので、全部処分してしまって、足跡をくらましてしまう(笑)。戦国物が済んだら、その資料はポイというわけです。そして司馬さんは、自分に関係ないものは一切もう交渉しない。」

ここからつづく箇所が、今回重要なのです。こうあります。

「極端なことをいえば、能、狂言、歌舞伎、文楽などは見たことないのではと想像したくなるくらい、関係ないものは関係ないというスタンスを取る。・・・」

ここで谷沢さんの指摘は、「能、狂言、歌舞伎、文楽などは見たことないのではと想像したくなる・・」と司馬遼太郎の人となりを語っているのでした。
ほかならない、その司馬さんがドナルド・キーン氏と対談しているのです。
お二人は「日本人と日本文化」という対談の後にも
「世界のなかの日本」という対談本を出しておりまして、
その対談の最後に「懐しさ」と題して司馬さんが書いているなかに
キーンさんの言葉として引用しているのが
「私は日本の詩歌で最高のものは、和歌でもなく、連歌、俳句、新体詩でもなく、謡曲だと思っている。謡曲は、日本語の機能を存分に発揮した詩である。・・・」という箇所でした。
司馬さんによると、これはドナルド・キーン著「日本文学のなかへ」(文藝春秋)にある言葉だとあります。さっそく古本屋に注文して取り寄せてみました。するとこれがとても素晴らし本なのです。何よりも文章がよい。内容はといえば、キーンさんの、かけがえのない体験なので、取替えの効かない貴重なもの。それを徳岡孝夫氏が文章にしております。そのいきさつは「あとがき」に詳しい。残念、ここでは寄り道していると脇道へそれるのでここまで。
もとにもどって、
キーンさんに謡曲を講義した角田先生に触れた箇所(p51)
「教えられる側から言っても、角田先生のような広い教養の持主に習ったのは、非常によかった。たとえば『松風』を、謡曲専門の学者に学ぶよりは、はるかに面白かった。いまの若い学者は、きっとそのような方法を、時代おくれときめつけるだろうが、勉強のしかたがいまの人とは全然違ったのである。
ただテキストの文章が印刷してあるだけの友朋堂文庫を開いて、私たちは苦労したが、角田先生にとってはそれが他愛もなく読めた。先生は、注釈のついた古典文学の本に、むしろ全然関心がなかった。・・・何時間かけて調べても、どうしてもわからない表現がある。やむをえず先生に教えを乞うと、『きみ、こうだよ』と、笑いながら説明してくれた。・・・・」
「コトバの部分はともかく、地の文はおよそ人間が考えうる最高の複雑な文章になっている。縁語、懸詞(かけことば)は言うまでもなく、引用句でありながら本歌とはかなり意味が違っていたり、穿鑿(せんさく)していけばきりのない文学が『松風』である。だが、角田先生にかかると、それがすらすらだった。」(p53)

「そのときに習った『松風』には、思い出がある。第一次世界大戦が終ってから、角田先生はヨーロッパ旅行をしたことがあった。各地の大学を回ったが、折りからハンブルグ大学では有名な日本学者フローレンツが『松風』を講じていた。そのことが、おそらく先生の念頭にあったのだろう。それまでは一度も教えたことがなかったと思うが、私たちに謡曲の講義を求められた先生は『松風をやりましょう』と快諾し、ことのついでに『卒塔婆小町』まで読んでしまった。先生に習ってから十五年たって、私も同じコロンビア大学の教壇で『松風』を教えるようになった。・・・」(p55)

こと学問としては、「謡曲」は日本よりも西洋の方が学問としての評価が進んでいるような気がしますネ。あるべき詩としての位置づけが定まっているように思われます。それがキーンさんの「日本の詩歌で最高のものは」という発言につながってくるのでしょう。ちなみに日本の現代詩人に、現代詩などより『松風』を評価するといったら、今現在どなたが耳をかすでしょう。それよりも、何よりも身近に賛同者を探すのに無駄足をどれほど踏むのでしょうか。ここはひとつ、狐さんがつけた「けもの道」の目印を辿りたくなるのでした。
ちなみに細かい指摘ですが、山村修著『花のほかには松ばかり 謡曲を読む愉しみ』(檜書店)の山村さんが「いつも手近においているのは・・・有朋堂文庫の『謡曲集』。上下二冊で二百曲あまりを収録しています。新書ほどの判型がハンディーで、濃紺の装丁もすっきりと風合がよろしく、なにより活字が美しい。」(p28)
とあります。どうやら、キーンさんと同じ本のテキストで山村修さんも謡曲を読んでいたようです。

夏目漱石は、謡曲を唸っておりました。
司馬遼太郎は、どうやらそれは未経験だったような気がしますね。
ドナルド・キーンさんは、実際にそれを稽古しておりますね。
さて、その未経験者と経験者と、お二人の対談をあらてめて読みたいと思ったわけです。
それにしても、ドナルド・キーン著「日本文学のなかへ」を読めてよかった。
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山野博史の視線。

2006-11-27 | Weblog
山野博史著「人恋しくて本好きに」(五月書房)は、
私の個人的興味が強いので、普通にはお薦めはしません
(何のことはない、私にしてから理解が及ばない箇所が多いのでした)。
それとは別に面白い目次なので、せめて目次だけでも引用。

○ どんなにしんどくても読みたい本はある
○ 司馬さん、もう書誌を作ってもいいですか
○ こんな休日が最高
○ いざ見参、谷沢書誌学の宝庫
○ 古本屋を知るまで
○ いしいひさいちさん

さて、谷沢永一と山野博史の関係で興味深いのは、

「紙つぶて」誕生秘話   p201~205

なのです。これは
谷沢永一著「私はこうして本を書いてきた 執筆論」(東洋経済新報社)に
「我が友山野博史は・・・」p108 という箇所とも呼応しております。

それでは、山野博史さんの人となりは、どうなのか?
ということで谷沢永一対談集「人たらし」(バンガード社)の
山野博史さんとの対談「司馬遼太郎の大いなる遺産」(p76~ )
から他ならぬ山野氏のプロフィール。

谷沢さんがこう紹介します。
「山野さんは京都大学法学部で、猪木正道、大学院で高坂正堯両教授のお弟子でした。
 京大の前は天王寺高校ですから、浪速っ子ですね。専攻は日本政治史、
特に近代日本政治思想史ですが、修士論文は柳田国男がテーマ・・・・」
「山野さんは柳田国男とか三宅雪嶺とかを政治思想史の研究対象にしておられたのですが、
そのうち政治思想とは関係なさそうな司馬さんの熱狂的なファンにおなりになる。・・・」

うん。柳田国男から司馬遼太郎へと、何げなく補助線をひくようにつながっていました。

ところで、この対談は魅力なんですよ。ほかにも引用したい箇所があります。
山野さんの言葉
「仕事の中で書評はほとんどしていませんが、仮に書評家だったら、司馬さんは厳しかったでしょうね。本を読みこなすことにかけては、ある種の名人でした。・・・へたくそな熟読家でもない。だけどパッと真価を見抜く。『こんなのも読んではったのか』とうなることが度々ありました。『あれはつまらんかったなあ』と言われるので、『なぜ読む値打ちがあったのですか』と尋ねると、すくい取ってくるところは的中している。見事なものでした。」

こうして山野さんはつづけるのでした。

「『司馬遼太郎の読んだ本は何か』というリストを想像するのです。作品の中に引用されているのはリストアップ出来ます。会ってお話した時に聞いた本はみなメモしておいてあります。『司馬さんが関心を持った本』という意味で、私には興味があるのです。読書でも、世俗的権威をいっさい介在させない人でしたね。どんな出版社から出ていようが、だれが書いていようが問題でない。その本が面白いかどうかでした。」

誰か名編集者がですね。山野博史編「司馬遼太郎が何げなく薦める読書リスト」なんて企画を新書でしていただけないでしょうか? と思わず無いものねだりをしたくなります。
また、こんな箇所も感銘深いのでした。

「私の学生時代は大学紛争の頃でしてね。・・・・『なんでいまごろ司馬遼太郎なんて言うとるんや』という感じで、まだ三島由紀夫と言っているほうが恰好がよかった。三島の自衛隊での割腹事件の翌日、毎日新聞に、司馬さんは『薄よごれた模倣をおそれる』という意味のことを書きましたが、司馬さんの位置が分かりにくいという声がまわりには多かったですね。声を上げて、『私はここにいるぞ』と一遍も言ったことがない人ですから。・・谷沢先生にお近づきを得た時、司馬遼太郎を愛読されていることを知って、自分の筋目は間違っていないんだと自信を得、それが今に繋がっています。・・・」

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詩「猟銃」と「細い線」。

2006-11-26 | 詩歌
「すがすがしい朝、ジョギングで汗を流し、果物を食べてコンピュータのスイッチを入れる。メールボックスを開けると、きょうもエロ勧誘らしきメールが大量に届いている。・・・」(「夜露死苦現代詩」p198)という言葉を見たら。おいおい、どこでもこうなのか。とついつい思います。
けれども、こうして活字であらためて迷惑メールを語られると
思い浮かぶ詩がありました。

それは田村隆一の「毎朝 数千の天使を殺してから」という題の詩なのです。

  「毎朝 数千の天使を殺してから」
  という少年の詩を読んだ
  詩の言葉は忘れてしまったが
  その題名だけはおぼえている さわやかな
  題じゃないか
  おれはコーヒーを飲み
  人間の悲惨も
  世界の破滅的要素も
  月並みな見出しとうたい文句でしか伝えられない
  数百万部発行の新聞を読む
   ・・・・・・・

  少年の朝と
  おれの朝とは
  どこがちがうのか?

   ・・・・・

  殺してから  
  きみはどうするんだ?

  歩いて行くんです

  どこへ?
 
  とても大きな橋がかかっている河のそばへ

  毎朝?

  ええ 毎朝
  手が血で汚れているうちに

   ・・・・・・・
   ・・・・・・・
   
  そうか 
  数千の天使を殺さないと
  大きな橋が目に見えてこないのか
  真昼の世界と
  影の世界を
  つなぐ  
  大きな橋

   ・・・・・・・
   ・・・・・・・




田村隆一といえば「数千」という言葉からの、連想で初期詩篇の詩「四千の日と夜」がまず思い浮かびます。その詩の最後の四行はこうでした。

  ・・・・・・・・・

  一篇の詩を生むためには、
  われわれはいとしいものを殺さなければならない
  これは死者を甦らせるただひとつの道であり、
  われわれはその道を行かなければならない



ここで、私には井上靖の詩「猟銃」が思い浮かびます。


  なぜかその中年男は村人の顰蹙を買い、彼に集
  る不評判は子供の私の耳にさえも入っていた。
  ある冬の朝、私は、その人がかたく銃弾の腰帯
  をしめ、コールテンの上衣の上に猟銃を重くく
  いこませ、長靴で霜柱を踏みしだきながら、天
  城への間道の叢をゆっくりと分け登ってゆく
  のを見たことがあった。
  それから二十余年、その人はとうに故人になっ
  たが、その時のその人の背後姿は今でも私の瞼
  から消えない。生きものの命絶つ白い鋼鉄の器
  具で、あのように冷たく武装しなければならな
  かったものは何であったのか。私はいまでも都
  会の雑踏の中にある時、ふと、あの猟人のよう
  に歩きたいと思うことがある。ゆっくりと、静
  かに、冷たく――。そして、人生の白い河床を
  のぞき見た中年の孤独なる精神と肉体の双方
  に、同時にしみ入るような重量感を捺印するも
  のは、やはりあの磨き光れる一箇の猟銃をおい
  てはないかと思うのだ。


こうして、井上靖の詩を引用すると、またしても田村隆一の詩を引用したくなります。
たとえば、詩「細い線」。


   きみはいつもひとりだ
   涙をみせたことのないきみの瞳には
   にがい光りのようなものがあって
   ぼくはすきだ

     きみの盲目のイメジには
     この世は荒涼とした猟場であり
     きみはひとつの心をたえず追いつめる
     冬のハンターだ

   ・・・・・・
   ・・・・・・

     きみが歩く細い線には
     雪の上にも血の匂いがついていて
     どんなに遠くへはなれてしまっても
     ぼくにはわかる

   きみは撃鉄を引く!
   ぼくは言葉のなかで死ぬ




こうして、井上靖の詩と田村隆一の詩とを結びつけて紹介してみたかったのです。
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本の山。山の人生。

2006-11-24 | Weblog
谷川健一著「柳田国男の民俗学」(岩波新書)をめくっていたら、
「はじめに」で、こんな言葉がありました。

「私たちが柳田にひきつけられるのは、そのコンコンと溢れ出す豊かなイメージが私たちに日本人としての幸福を約束するからである。柳田の著作に触れるときいつも訪れる充実感と解放感。柳田をよむ前とそのあとでは、日本人の幸福に対する自信といったものがちがう、と私は思っている。柳田の民俗学、それは『日本人の誇りの学』と云うことができる。もし柳田との出会いがなかったら、私は欲求不満を解消できず精神的な飢餓を遂げたにちがいない・・・」

ところで、小林秀雄に「信ずることと知ること」という文があります。
そこに柳田國男が印象深く登場します。そこに柳田の「山の人生」から引用されているエピソードがありました。
その引用箇所はというと
「今では記憶して居る者が、私の外には一人もあるまい。三十年あまり前、世間のひどく不景気であつた年に、西美濃の山の中で炭を焼く五十ばかり男が、子供を二人まで、鉞(まさかり)できり殺したことがあつた。・・・
眼がさめて見ると、小屋の口一ぱいに夕日がさして居た。秋の末の事であつたといふ。二人の子供がその日当たりの処にしゃがんで、頻りに何かして居るので、傍へ行って見たら一生懸命に仕事に使う大きな斧を磨いて居た。阿爺(おとう)、此でわしたちを殺して呉れといったそうである。・・・・」

小林秀雄は、この柳田國男の短文を全文引用して次に語りつないでいたのですが、一読印象深い箇所でした。
さて谷川健一著「柳田国男の民俗学」の第一章に、この箇所の実際の経緯を知ることになった一部始終を書いております。
「私はこの事故のてんまつが金子貞二著『奥美濃よもやま話 三』の中に『新四郎さ』と題して二篇収録されている事実を、1979年に知らされておどろきを禁じ得なかった」
そして
「柳田の『山の人生』の文章とちがって『新四郎さ』は無学な男の生まの告白談であるが、それなりに迫真力がある。『朝から松蝉の鳴く、なまだるい日じゃった』という『新四郎さ』の話し出しは、やがて到来する不吉な事件を予感させて、春先のけだるく、重苦しい空気をふるわせて鳴く松蝉の声が、効果的である。・・・」

柳田國男が書いた「小屋の口いっぱいに夕日がさして居た。秋の末の事・・・」
というのが、どうやら
「春先の」「松蝉の鳴く」時期であったらしいのです。

ここらあたりの谷川健一さんの調べは周到で、柳田国男の文章のなぞに迫る、貴重な足跡をのこしております。
小林秀雄の柳田國男引用で、何やら分かった気になっていた私など、見事な小股すくいで、思い切り、土俵の外に投げ出されたような気分になりました。
柔道でいえば、鮮やかな一本で、拍手喝采。という場面です。
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遅読速読ヒョウタンツギ。

2006-11-23 | Weblog
佐藤優氏が米原万里著「打ちのめされるようなすごい本」(文藝春秋社)の書評を文藝春秋12月号に載せているというのは、先に紹介したことがありました。
そこをまた繰り返してみます。
「・・・ロシアの学生たちはが身に付けた速読術を目の当たりにした。一日に学術書ならば五百頁、小説ならば千五百頁くらい読む。米原万里さんは『受験の丸暗記地獄から解放された頃から速度は面白いほど伸び、ここ二○年ほど一日平均七冊を維持してきた』(333頁)と書くが、これはハッタリではなく、プラハのソビエト学校で覚えたのであろう速読法と思う。」
ちょいと見つからないのですが、斎藤美奈子さんが、やはりこの米原さんの本を語っているなかに、この一日平均七冊という箇所を、だからといって毎日つづけていたとは書いてないというようなニュアンスで(確か「本の話」に書いていたと思ったのですが)、取り上げておりました。

こういう速読というのは、冊数を正確に示しながらだと、凡人には毒ですね。
このままに言われっぱなしでいると、一日一冊も読めない自分は何なのだろうと、
ついつい自分にひきつけて思ってしまいます。
その際の解毒剤をもっていると、大変ありがたいものです。
今年読んだ「遅毒のすすめ」じゃなかった、山村修著「遅読のすすめ」(新潮社・2002年10月発行)に面白い箇所がありました。
ちょいと長いけれど引用します。

「速く読んでいては気づかない一節も、ゆっくり読むことで目をとめることができる。はっとおどろくこともできる。たとえば岩波文庫の柳田國男『木綿以前の事』は、国文学者・益田勝実が『解説』を書いているが、これは解説文のなかの傑作である。読んでいると、益田勝実という人の読みかたが想像されておもしろい。明らかにゆっくり読む人であると思う。」
ここから具体的に『木綿』にふれながら書かれているのですが、そこは省略して
「頭でなく、皮膚がおぼえているということがある。ゆっくり読んでも、その皮膚感覚までよみがえらせてみないと、柳田國男のダイナミックな歴史のとりおさえかたは判然としない。まして、次から次へと速くたくさん片付けていくような読みかたでは、この『木綿以前の事』は読む意味がないのではないか。話はそれるが、かつて益田勝実と梅原猛とが論争をしたことがあり、それは小谷野敦『バカのための読書術』に紹介されているのだが、その論争ぶりがおもしろい。」

ここから、ヒョウタンツギへとむすびつける手際が面白いのです。
ヒョウタンツギって、手塚治虫の漫画に出てくる、あれなんです。

「論争は、梅原がとなえた柿本人麻呂の岩見流罪説にかかわることなのだが、どちらも相当の気合を入れながら、しばしばユーモアを発する。・・・・
こういう論争もあるのだ。しんどい鍔迫(つばぜ)り合いのなかで、どちらも、ふっと笑いを放つ。手塚治虫のマンガに、ときどき、ヒョウタンツギという奇妙な生き物が現れる。姿はヒョウタンで、白目をむいて蛸みたいな口をしており、頭と胴にツギがあててある。このふしぎな生物は、マンガの展開が、たとえば恋愛がいよいよ美しく成就するときとか、あるいは戦闘シーンがはげしさの絶頂に達するときなどに、いきなりコマの片隅に出現する。それが笑いをさそう。自己反省としての笑い。『なあんちゃって』の異化作用。子どものころ、なぜ可笑しいのか分からないまま、私はヒョウタンツギが好きだった。手塚マンガには、このキャラクターがいつ出てくるかと期待させてくれるたのしさもあった。
いまでも、小説家にせよ学者にせよ評論家にせよ、どこかにヒョウタンツギを隠している人が好きである。小谷野敦は右の論争について、梅原の凄まじい闘争心に感服し、『私は、梅原がいろいろと怪しいことを言ったり権力闘争をしているのは知っていながらどうしてもこの人が嫌いになれないのは、この闘争心ゆえである』と書いている。私もそう思う。しかし私はまた、ご先祖さまに向かって『いま、京都の梅原さんという論客にぶったたかれて、弱っとります』と窮状を訴えた益田勝実も気に入った。この人も内部にひそかにヒョウタンツギを養っている。梅原猛という人は、その存在そのものが文化におけるヒョウタンツギであろう。
そういえば一月一万ページというとんでもない多読をとなえた杉浦明平を、私が『どうしても嫌いになれない』のは、この作家にもまたヒョウタンツギがときどき見え隠れするのを感じるからかも知れない。」(単行本・p120~125)

う~ん。速読と遅読との間に現われるヒョウタンツギ。
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本の森。本の山。

2006-11-22 | Weblog
もう一ヶ月も前の読売新聞10月26日に、茂木健一郎氏が文を載せておりました。
なんでも10月27日は「文字・活字文化の日」なのだそうで、その特集のようでした。
そこに「現代人は、都会の中で本に触れた時の質感に太古の森を思っているのかもしれない。本を持ち、目をつぶれば小鳥のさえずりさえ聞こえてくる」とありました。茂木さんは1962年東京生まれ。
そういえば、本の山が思い浮かびます。
坪内祐三氏は1958年東京生まれ。その坪内さんの本「考える人」(新潮社)にこんな箇所がありました。

「ここ数日、私は、一冊の文庫本をずっと探しているのですが、見つかりません。
それは、森有正の『思索と経験をめぐって』(講談社学術文庫)です。
1976年に出たこの文庫本を、私は、その翌々年、大学に入学した年の春に入手し、熱心に読みました。本当に熱心に読みました。
半年ぐらい前、文庫本の山の一つ(私の家には幾つもの文庫本の山があるのですが)からこの本がひょうっこりと見つかりました。
そうだ、森有正もまた、『考える人』にふさわしい人物だと思い、いつか彼が登場する時のために、取り置きしていたはずなのですが、半年の間に、またどこかに消えてしまいました(時間というものはそうやって経過して行くものです)。いくら探しても見つかりません。近くの世田谷中央図書館に借りに出かけたら、貸出中でした。・・・・」(p109)

最近、検索をしていたら偶然に山野博史氏の新刊が出ているのに気づきました。
山野博史著「人恋しくて本好きに」(五月書房)。
表紙画が楽しい。いしいひさいち氏が描いております。
図書館でしょうか。高い本棚のハシゴが倒れている。高い本棚の棚板に手と足をひっかけて山野氏らしいメガネのおじさんが下をむいて口をあけているのです。静かな図書館にいる人といえば、椅子を並べて寝ているのや、机にひじをついて寝ている、机に突っ伏して寝ている。高い本棚にひとりつかまっている山野さんとおぼしき人が下を見て額から冷汗が・・。というような絵柄です。そういえば、山野博史著「本は異なもの味なもの」(潮出版)に、雑誌『新女苑』に載った柳田国男の「私の勉強部屋」と題するグラビア・ページを説明している文がありました。なんでも、それは「『定本柳田國男集』に未収録であるばかりか、その別巻第五の『書誌』にも記載もれの逸文なのである」と山野さんは指摘しております。
それは昭和16年の雑誌で、書斎の柳田をとった写真に小文が添えられているのだそうです。その文のはじまりはというと

「本をそちこちの戸棚押入に分散させて置いて、夜中に懐中電燈を持って捜しあるく苦しみを私は二十数年の間味はつた。その一大反動として人が笑ふやうな広い書斎を作り、本を壁紙の代りにして窓以外には何の飾りもせず・・・・」

苦しみというからには、本が探し出せなかったこともあったのでしょうね。
探しているだけで夜が明けるということもあったのでしょうか。
読むよりも、本を探している時間の長さ。何度もあきらめたかもしれませんね。
本の森に踏み迷って途方にくれている姿を想像してみるのでした。
これは、たぶん傍から見たら可笑しくみえるのでしょうね。
そうそう、まるで高い本棚の棚板につかまって、
ひとり降りられなくなっているような。そんな滑稽さ。
下を見れば、視界には本を枕に居眠りしてる人
(また、この居眠りしてる人の顔が、私によく似てるんだなこれが)。
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硫黄島。

2006-11-21 | 硫黄島
今年読んでいた本で気になっているのが、硫黄島でした。
「栗林忠道 硫黄島からの手紙」(文芸春秋)
「散るぞ悲しき」梯久美子著(新潮社)
「常に諸子の先頭に在り」留守晴夫著(慧文社)
の3冊読みました。
秋からはクリント・イーストウッド監督の硫黄島2部作が上映されています。
「父親たちの星条旗」が公開されており、レビュージャパンでも4~5名の方が
映画の感想を書き込んでおりました。そして
「硫黄島からの手紙」が12月9日からロードショーだそうです。
試写会を見たのでしょう。産経新聞の11月16日一面コラム「産経抄」は
こんな風にはじまっておりました。
「やはり日本軍は『物量』に負けたのだ。クリント・イーストウッド監督の映画『硫黄島からの手紙』を見てそう思う。5日もあれば終わるとされた硫黄島の攻防戦は、昭和20年2月19日から36日間の激戦となった。米軍との圧倒的な戦力の差を、迎え撃つのは渡辺謙さん扮する栗林忠道中将だ。とはいえ、砲撃が上陸作戦の3日前から始まっていたことが小欄には気になる。米軍の大艦隊が島を取り囲み、島が吹っ飛ぶかと思われるほどの艦砲射撃を繰り返す。日本軍の戦闘力を破壊したうえで、海兵隊が上陸すれば絶望的抵抗になる。硫黄島戦のように膨大な戦力を集めて圧倒する勝ち方は、米軍の伝統的な戦争方法だ。・・・・」

ところで、「司馬遼太郎が考えたこと 15」(新潮社)をめくっていたら、
そこの「山片蟠桃賞の十年」という文が載っておりました。
そこをパラパラとめくっていると
「サイデンスティッカーさんは硫黄島作戦に従軍されました。私も、当時の志望としてはそこにいたはずでした。硫黄島作戦がああいうものになるとは知りませんで、同じ時期に寒い寒い満州におりました私は、この寒い満洲から逃れるには硫黄島しかない、と思いこみました。つまり硫黄島にひとつ戦車連隊が新しくできるということで、連隊長は、むかし私どもがこどものころに、ロサンゼルス・オリンピックだったと思いますが、西竹一という馬術で金メダルをとった人であります。そこへゆきたいと思いまして、連隊副官で山根というおそろしい顔をした少佐がいましたが、この人に『どうしても、硫黄島へやってくれ』と頼みました。私が自分の半生で自分のために運動をした唯一の猛運動です。『新しい戦車連隊ができるとしたら、私はそこへゆきたいのだ』と言いに三度ほど少佐をたずねました。山根少佐はとうとうどなりまして、『硫黄島へゆくのは、おまえよりもっと成績のいいやつなんだ』『おまえの成績は非常にわるいのだ』と。成績のわるいのはたしかですけれども、じつはもう編成が終わっていたんだろうと思います。・・・」

最近では、岡野弘彦歌集『バグダッド燃ゆ』(砂子屋書房)を眺めておりましたら、
その最後にある長歌のなかには、

「・・・やがて大き戦おこりて、折口大人の教へ子の幾人かは、屍を海やまにさらして帰らずなりし中にも、みまし命が最もいつくしみましし養ひ子の春洋(はるみ)大人が、南の硫黄島のむごき戦に命果てしを知りて、歎き歌多く詠みいで給ひき。・・・」

この春洋さんのことについては岡野弘彦著「折口信夫の晩年」(中央公論社)に、ポツリポツリと書かれております。その硫黄島についても出てきます。
その十四章には
「二十七年の一月二十九日、国学院の研究室へ、朝日新聞社会部の牧田茂氏から電話があって、硫黄島の戦死者を供養するために、元海軍大佐和智氏の一行が明日飛行機で出発することになった。」
(ちなみに和智氏については上坂冬子著「硫黄島いまだ玉砕せず」(文藝春秋)に詳しいのでした)。
「先生を待っていると、牧田さんから電話がかかってきた。いま出た読売新聞の夕刊に、硫黄島の洞穴で発見した書類の写真が出ていて、それに春洋さんの名が、はっきりと読みとれるということである。早速、文部省の玄関へ出て新聞を買ってみると、ぼろぼろになった考科表副本の氏名欄に、藤井春洋という筆の字が、あざやかににじみ出ていた。・・・」
「その夜、家に帰ってから、いつものように春洋さんの写真の前の湯呑にたっぷりとお茶を注いでのち、先生はしずかに話された。
『いままで、春洋の戦死について、一片の通知書や、形ばかりの遺骨を受け取っても、どうしても心に納得がいかなかった。今日はじめて、春洋は硫黄島で戦死したのだということを、心の底から信じることのできる気持ちになった。そしていままでにない、心のしずまりを得ることができた。もしできるなら、いつか硫黄島に渡って、春洋の死んだ洞窟に入っていって、自分の眼でその跡を確かめてみることができたら、さらに心が落着くことだろうね』。先生の声は、ちょっと意外に思われるほど、しずかに明るく、なごんでいた。先生の小説『死者の書』は、岩窟の中の大津皇子のよみがえりを描くところから始まっている。そして、未完のまま終った『死者の書続篇』には、死後もなお鬚や髪の伸びるという空海上人を安置した、高野山の開山堂を開こうとすることが描かれている。先生がもし戦後における『死者の書』を書かれることがあったら、それはまず、春洋さんの亡くなった洞窟にみずからが尋ね入って行かれるところから、書きはじめられるにちがいないと、その夜の先生の話を聞きながら、私は思った。」

そういえば、歌集『バグダッド燃ゆ』に、『髭・鬚・髯』と風変わりな題にして13首が並んでいる箇所がありました。その歌が、場違いな感じで坐りが悪いような、可笑しいような、そんな妙な振幅で印象に残るのでした。
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婚礼の祝賀。

2006-11-20 | 婚礼
読売新聞の読売歌壇で、最近気になった短歌があります。
2006年11月14日の清水房雄選。その最初でした。

  高砂もさんさ時雨も聞かぬまま甥の披露宴坦々と進む   一関市 渡辺みき子

清水房雄さんの【選評】はというと、
「婚礼の祝賀によく詠ずる能『高砂』の一節や東北地方の民謡『さんさ時雨』も歌う事なく、披露宴はあっさりと進行すると。若い御両人の考えで、結婚式の催しも極めて簡略化している当節だ。」
と、あります。


前に司馬遼太郎の「六三郎の婚礼」(「司馬遼太郎が考えたこと 11」新潮社。現在は新潮文庫にもあり)を引用しました。
今日は「司馬遼太郎が考えたこと 15」にある箇所を引用します。
そこに「懐かしさ(「世界のなかの日本」)」と題した文があります。
こうはじまります。
「懐かしいという日本語は、古代からある。・・・
『日本とあればなつかしし』というのは、キーンさんが青春のころ英訳に熱中した近松の浄瑠璃『国性爺合戦』のセリフのひとつで、すでにこんにちの意味になっている。
キーンさんという人は、対座している最中において、こんにちの意味において懐かしい。このようなふしぎな思いを持たせる人は、ほかに思いあたらない。それほど、この人の魂の質量は重い。」
こう書いたあとしばらくして、ドナルド・キーンさんの言葉を引用するのでした。
そのすこし前から

キーンさんは、若いころ、世阿弥の謡曲『松風』を読んだ。・・・
「『松風』を文学として最高のものと信じている」と言い、さらに「こんなことを書けば奇異に感じる人もいるだろうが」として

キーンさんの文を引用しております。
以下そのままに

「私は日本の詩歌で最高のものは、和歌でもなく、連歌、俳句、新体詩でもなく、謡曲だと思っている。謡曲は、日本語の機能を存分に発揮した詩である。そして謡曲二百何十番の中で、『松風』はもっとも優れている。私はよむたびに感激する。私ひとりがそう思うのではない。コロンビア大学で教え始めてから少なくとも七回か八回、学生とともに『松風』を読んだが、感激しない学生は、いままでに一人もいない。異口同音に『日本語を習っておいて、よかった』と言う。実際、どんなに上手に翻訳しても、『松風』のよさを十分に伝えることは、おそらく不可能であろう。

  月はひとつ、影はふたつ、満つ潮の、夜の車に月を載せて、
                     憂しとも思はぬ、潮路かなや。

・・・音のひびきが、なんとも言えないのである。在原行平を慕う海女の恋は、あわれと言うもおろかなり。完璧な文学作品があるとすれば『松風』こそそれだ、と私は思っている。」

こうキーンさんの文を引用してから司馬さんは
「文学を読むというのは、精神のもっとも深い場所での体験である。日本語世界で、『松風』をこのようにして体験した人が幾人いるだろうか。・・・」と文章をつづけてゆくのでした。

さて、谷沢永一著「いつ、何を読むか」(KKロングセラーズ)には、謡曲に触れた箇所が見あたりません。今年亡くなった山村修著「花のほかには松ばかり 謡曲を読む愉しみ」(檜書店)だけが、キーンさんが言う所の「私は日本の詩歌で最高のものは、和歌でもなく、連歌、俳句、新体詩でもなく、謡曲だと思っている。謡曲は、日本語の機能を存分に発揮した詩である。」という、その主題を汲み取っている数少ない一人だと思うのでした。

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柳田國男と敗戦・震災。

2006-11-19 | 地震
柳田國男は1875年(明治8年)7月31日生まれ。
大正12年(1923年)の関東大震災は数え年で49歳。
敗戦の昭和20年(1945年)は、71歳でした。
ちなみに、昭和37年(1962年)8月8日。心臓衰弱のため死去。88歳。

「柳田國男回想」(筑摩書房)に、臼井吉見の「炭焼翁の意気」という文が載っております。臼井吉見はその文の最後を「敗戦直後、僕が会った多くの人たちのなかで、七十歳を越えた柳田國男にくらべられるほど、いきいきとした感覚と気力にはずんだ人を、ついぞ見かけなかった。」としめくくっておりました。
また文中には
「翁の言うには、これからさき、自分が世の中のお役に立ちそうな仕事は三つほどある。」として雑誌を出そうとしている臼井氏に向って話されたそうです。
「一つは国民固有の信仰。これが、どんなふうにゆがめられているか、それを証拠をあげて明らかにしたい。もう一つは、人の心を和らげる文学。どんな貧しさと悲しみのなかにあっても、ときおりは微笑を配給してくれるような、優雅な芸術が日本にはなかったか、芭蕉の俳諧などはそれだったと思うが、そんな問題についても考えてみたい。
信仰と和気は、最小限度の心の栄養素と思うが、戦争に負けたいま、のんきすぎるというなら、それもいたしかたない。ただ第三のものだけは、そういってやり過すわけにはいかない。それは国語の普通教育、国語を今後の青少年にどう教えるのがいいかといういことだ。
よく口のきける少しの人と、うまく物がいえない多くの人が、入りまじるようなことになれば、どうなるか。みんなが黙りこくっていた時代よりも、不公平がひどくなるかもわからない。自由には均等が伴なわなくてはならない。・・・・」(p150)

これは敗戦の後に、復員して雑誌を出そうとしていた臼井氏に語った柳田國男でした。
それでは、関東大震災を聞いたときの柳田氏は、どのようであったか。
それについては、岩波文庫「木綿以前の事」の解説(益田勝実)に語られております。
そこには、「故郷七十年」からの引用がありました。さっそくその箇所にあたってみることにします。興味深いので、少し長くなりますが、ここでは朝日選書の「故郷七十年」の頁数を示し引用していきます。その「官界に入って」の章にあります。

「内閣の記録課長を四年ぐらいつとめていたため、私はまた別の方面の文献に、親しむ機会に恵まれた。内閣記録課長は別に内閣文庫に手を触れなくてもいい地位であるが、前任者の江木翼氏が、私に頼むのが名案だと建白して、内閣文庫の仕事が私にまわってきた。・・日本の本でも、明治になってから、伊勢の旧家の神官の家のものや、京都の社家の蔵書など、ここに収められたものがあった。一生かかって調べてみたら、さぞかし面白いだろうと思うものがたくさんあった。」(p239)
「私は本のことではずいぶん苦労をしたが、いちばん最後が内閣文庫であった。もう少し長くいたら、いろいろ私なりの考えの仕事があったが、何分兼任だったので、早くここと別れてしまった。この厖大な記録類の中に入ってつくづく思ったのは、書物というものは一生かかっても見終わることはないということであった。
農政などでも・・・書物だけで学ぼうとしたら、一生かかても足りない。そこでわれわれの今している学問が必要になるわけである。要点をつかみ、それを実地に即して調べて行く方が、文献だけを漁りまわしているよりは効果がありはしないだろうかということを、書物に埋れた結果、私は考え出したのである。」(p241)
「台湾から大陸にかけて大旅行をしたのは、たしか大正六年である。・・・
貴族院書記官長でありながら、十分な諒解もとらないで、長い大陸旅行をしたことが非常に私の人望を害してしまった。そしてだんだん役人生活を続けられない空気が濃くなって来た。その上、その翌年にも、私は同じようなことをしてしまったのである。・・大正八年までいるのに非常に骨が折れた。その年の下半期になると、親類の者までがもう辞めなければ見っともないなどといってきた。・・」(p241~246)
そうこうしているうちに、大正十年に国際連盟の仕事でジュネーブに行くことになります。そして、ヨーロッパで地震の知らせを聞くことになるのでした。

「大正12年9月1日の関東大震災のことはロンドンで聞いた。すぐに帰ろうとしたが、なかなか船が得られない。やっと10月末か11月初めに、小さな船をつかまえて、押しせまった暮に横浜に帰ってきた。ひどく破壊せられている状態をみて、こんなことをしておられないという気持ちになり、早速こちらから運動をおこし、本筋の学問のために起つという決心をした。」(p251)

その「本筋の学問」はどのようなものだったのか。
残念ながら、私はほとんど読んでいないのでした。
読まないまでも、せめて、読む態度で、参考になるかもしれないという箇所がありました。
柳田國男の著作の読み方として
筑摩書房「柳田國男回想」の最後の座談会で、おもしろい指摘がありました。
その箇所を引用して終ります。

【和歌森太郎】われわれの間でも、よく、あの先生の本は、とにかく電車の中なんかでは理解のできない本だ、ということを言いますね。
【中野重治】あれは、柳田さんの文章が、日本語のしゃべり方に即して書いてあるためなんじゃないかと思いますがね。このごろ日本では、外国の影響を受けて、点や丸の打ち方が、意味をきちっと限定していくやり方で書いている。柳田さんのはそこがちょっと違っている。日本人が日本語でしゃべっていく、その区切り区切りで点を打ったり丸を打ったりしていく。それでずっと理解していく人はわかるんだけれども、化学方程式のような文章のあれでいくと、かかり結びがわからなくなる点があるんですよ。
【山本健吉】柳田先生は非常に実証的で合理的な考え方をする方だけれども、『二二んが四』式の論理じゃないんですね。論理というものが非常に複雑に出てくるものだから、それを非常に書きほぐしていられるけれども、こっちがほんとうにじっくりかまえて読まないと、つい意味を取りそこねるという場合があります。柳田先生の全体の著作というのは、ほんとうは、大きな大系を持っているんだけれども、一編一編は非常に随筆的な発想になっているんですね。
   ・・・・・・・・・
【中野重治】柳田さんの仕事は、だれか、少し俗っぽくなってもいいから、少し強調して、もう一冊も二冊もうまく書かないと・・・。取り次ぎが必要ですね。


ところで、今年でた入門書のたぐいでは、山村修著「狐が選んだ入門書」(ちくま新書)には、柳田國男の入門書は、残念取り上げられておりませんでした。谷沢永一著「いつ、何を読むか」(KKロングセラーズ)では、本の最初に柳田国男著「木綿以前の事」(岩波文庫)を紹介しておりました。わずか4ページほどで、この文庫を紹介しており。鮮やか。
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心惹かれるテーマ。

2006-11-18 | Weblog
ついついテレビをつけます。テレビを見てると、事件がおきていて、どなたかがそれについて語っているのでした。それが、事件の答えを出そう、答えを出そうとしている、ように見えます。
ということで、私が思い浮べたこと。
岡潔・小林秀雄対談のなかで
小林さんはこう語っておりました。
「ベルグソンは若いころにこういうことを言っています。
 問題を出すということが一番大事なことだ。うまく出す。
 問題をうまく出せば即ちそれが答えだと。
 この考え方はたいへんおもしろいと思いましたね。
 いま文化の問題でも、何の問題でもいいが、
 物を考えている人がうまく問題を出そうとしませんね。
 答えばかり出そうとあせっている。」
それに続けて岡さんは
「問題を出さないで答えだけを出そうというのは不可能ですね。」

それなら、どういう問題を出すのか?

ちょうど、ドナルド・キーンさんが読売新聞に毎週土曜日連載をしております。
その11月11日は、こうはじまっておりました。
「私は『日本のこころ』の研究を始めるまで、
 東山文化の中心的な役割に気づいたことがなかった。」
この日の言葉が気になったので、古本屋からドナルド・キーン著「足利義政」を取り寄せました。するとそのあとがきに
「当時中央公論新社の会長だった嶋中雅子さんと話していたら、次の本を是非社のために書いてくれ、と頼まれた。・・一応『どんな本がいいでしょうか』と訊ねてみたら、『日本の心はどうでしょう』という御返事が返ってきた。・・・難しいけれども心惹かれるテーマだと思われた。・・・」

その本文を、パラパラとめくっていると
茶道の村田珠光の手紙が引用されておりました。そこに
「心の師とハなれ、心を師とせざれ、と古人もいわれし也。」とあり、その訳として
「『心の師とはなるがよい、しかし、心を師にはするな』(心を導こうと努めるのはよい。しかし、心に従ってのみ進むのは良くない)と、昔の先徳もいわれたものである。」というのがありました。

ちょうど、産経新聞の11月17日に特集「座談会 日本の美を愛でる」というのが載っていて、そこで阿久悠さんが「周りの人間すべてが偏ったものの見方をしているとすべてが偏ります。だから、傾いていると注意する前に、自分が傾いていると思うことも大事なのではないでしょうか」と語っておりました。

足利義政といえば銀閣寺を思い浮かべますが、応仁の乱の乱世へと連想がつづきます。
戦乱が十年ほど続き、主戦場の京都はというと、ほとんど壊滅状態となりました。

戦乱の世といえば、私の連想が宮崎駿・養老孟司対談へと及びます。
そこで宮崎さんはこう語っておりました。

「職場で話していたんですが、俺たちは平安末期の貴族の館の片すみでアニメーションを作っているんだって。治安がいいだの、失業率が低いだのといって安心して自分探しなんて言ってるが、築地塀の外は、飢餓や天災、疫病やら野盗の横行する大乱の世界なんだって。築地塀に守られて、真面目につとめあげれば板敷きの部屋にお前だけ上がっていいとか、そのくらいの未来を約束されただけだって。生活に現実感がないとか、生きてる手応えが欲しいとか言っていたのが、築地塀がいよいよ壊れて、野盗は入って来るわ、舎人は持ち逃げするわ、荘園から物は届かなくなるわで、やっと世界と同じレベルになったのに、不安もないものだ。面と向って世界をよく見ることができるときじゃないか、ってまあ言ってるわけですね。・・・」(フィルムメーカーズ⑥「宮崎駿 責任編集養老孟司」キネマ旬報社」

そういえば、ドナルド・キーン氏の読売新聞連載は、山口晃氏が挿画を担当しておりました。山口氏といえば、平安絵巻・戦国絵巻みたいな日本画を現代風に描く才能がある方として、つとに知られます。
そのドナルド・キーン氏の連載10月28日には、司馬遼太郎氏が登場しております。

「1982年、朝日新聞の後援で『緑樹』をテーマに会議が開かれた。都会生活における緑の重要性が、発言者すべてによって力説された。さすがに、樹木の大量伐採を提唱する人は誰もいなかった。参加者たちは終了後、お礼に料亭に招待され、そこには鰻と、ふんだんな酒が彼らを待っていた。宴の途中で、座敷の上座にあたる席に座っていた司馬遼太郎が立ち上がり、下座にいる朝日の編集局長の方にやって来た。見るからに司馬は、かなりの酒を飲んでいた。彼は大きな声で、『朝日は駄目だ』と言った。・・司馬は続けた。『明治時代、朝日は駄目だった。しかし夏目漱石を雇うことで良い新聞になった。今、朝日を良い新聞にする唯一の方法は、ドナルド・キーンを雇うことだ』と。・・・私は自分が第二の夏目漱石のような大層な役割を果たすことなど、まったく不可能だということを知っていた。しかし一週間ほど経って、永井道雄(当時、朝日の論説委員だった)が私に告げたのは、朝日が司馬の助言に従うことに決めたということだった。・・・」

お酒といえば、そこで思い浮かんだのは、
司馬遼太郎。ドナルド・キーン対談の「日本人と日本文化」(中公新書)でした。
その対談は3箇所でおこなわれたそうで。司馬さんのはしがきには
「・・寒い日に、われわれは大和の平城宮址で出会った。それが最初の出会いで、夕刻から奈良の宿で酒を飲んだ。二度目は京都の銀閣寺で会った。参観者が居なくなってしまった夜で、銀沙灘のむこうの紺色の空に片鎌の月があがっていた。まるで芝居の書割のようで、中央公論社がわざわざ月を打ちあげたのではないかとおもわれるほどにおあつらえむきの風景であった。三度目は、江戸末期の蘭学の流行を象徴する大阪の適塾の赤茶けた畳の上で会った。・・・・」

こうして引用しながら、読む前に、読み返す前に思い浮かんだ印象を並べてみました。
たいていは、読んじゃうと、また別のことを思い浮べていたりするので。
最初の印象を大切にしたいと思い、書いておくわけです。
そうじゃなかった。たいていは、ここから先に本を読み進めることなく、
目移りして違う本へと脱線してしまうのが、いつものパターン。


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新聞を読む人。

2006-11-16 | 詩歌
長田弘詩集「一日の終わりの詩集」(みすず書房)に
詩「新聞を読む人」があります。その詩の最後はというと、

「・・・・・・
 新聞を読んでいる人が、すっと、目を上げた。
 ことばを探しているのだ。目が語っていた。
 ことばを探しているのだ。手が語っていた。
 ことばを、誰もが探しているのだ。
 ことばが、読みたいのだ。
 ことばというのは、本当は、勇気のことだ。
 人生といえるものをじぶんから愛せるだけの。」

この頃、新聞にいじめの記事が載りますね。
丁寧に読まない私ですが、安倍譲二氏の言葉が気になりました。

最初は、産経新聞2006年10月31日に「タフにおなりなさい」という談話。
つぎは、11月11日コラム「断」に「イジメは無くならない」という文章。
ここは、文章から引用してみます。
「テレビに出て来た偉い人は皆、『イジメは止めよう』とか『イジメを無くそう』なんて言っています。イジメの無い社会なんか、この世の中にあるのでしょうか?僕は、無くなる可能性はゼロだと思います。・・・・
69歳の僕は、国民学校なんて言っていた小学生の頃、疎開した先の学校で、生徒だけではなく、教師にまでいじめ抜かれました。東京で育ったということだけで、僕は同級生と上級生にいじめられ、軍隊から帰ったばかりだった教師にも、若い読者には信じられないでしょうが、拳骨で情け容赦なくぶん殴られたのです。東京に戻って、中学では仲間や上級生に恵まれて、とても平和で幸せな三年間を過ごしました。しかし、高校に上がると、なぜか自分がイジメっ子になりました。・・・・イジメは決して無くなりません。どこの世界でも年齢にかかわらず、イジメはあるのです。無くならないものを、無くそうというのは机上の空論で、イジメに耐える心を鍛えようと言うのが、正論だと僕は信じます。」


思い出すのは、コラムニスト山本夏彦氏が亡くなった時です。
追悼文が新聞に掲載されておりました。
やはり産経新聞なのですが、2002年11月2日に安倍譲二氏が「師匠・山本夏彦を悼む」と題して書いておりました。
そこからの引用。

「忘れもしない、師匠の山本夏彦が電話を掛けて下さったのは、今から18年半前の昭和59年の4月だった。65歳になった僕も、その時のことは、はっきり昨日のことのように覚えている。・・・・・『工作社の山本ですが、「室内」で連載して下さい』それまで長いこと、惨めで悪者ばかりに取り囲まれていた僕は、咄嗟に誰かの質の悪いいたずらだと思った。僕は自慢になんかならないことだが、昭和30年代から『室内』は読んでいる。家具とインテリアの一番歴史のある専門誌だということで、刑務所の木工場は『教育図書』として、定期購読していたからだ。若い頃から堀の中の木工場で、縦挽き電動鋸をぶん回していた僕は、毎月、編集兼発行人の山本夏彦が書く随筆を読んで、・・・舌を巻いていた。・・・・」
後半にはこんな箇所も、あります。
「『才能を発見して世に出すのが、私の役どころなんだ』野暮や芝居がかったことがお嫌いな師匠は、そんなことでも声を張りもなさらずに、ポツリとおっしゃったのだ。・・・・」
そして追悼の最後はというと、
「87歳だから天寿を全うしたのだとか、50歳だから残念だったということは、愛のある仲ではないのだ。最後まで現役として文章をお書きになった師匠を、僕は尊敬する。偉大だと心から思う。しかし、湧いて来る悲しさが止まりはしない。よくしてくださった方がお亡くなりになったのだ。」


ところで、長田弘さんの詩「新聞を読む人」のはじまりはどうだったか?
最後に、詩のはじまりを引用しておきます。

「世界は、長い長い物語に似ていた。
 物語には、主人公がいた。困難があり、
 悲しみがあった。胸つぶれる思いもした。
 途方もない空想を、笑うこともできた。
 それから、大団円があり、結末があった。
 大事なのは、上手に物語ることだった。
 何も変わらないだろうし、すべては
 過ぎてゆく。物語はそうだったのだ。
 ・・・・・・・・              」


ここから詩がはじまり、曲がった道を最後までたどるのでした。
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獄中読書。

2006-11-13 | Weblog
「文藝春秋」(2006年12月号)に佐藤優氏が米原万里著「打ちのめされるようなすごい本」の書評をしておりました。そのはじまりが、印象鮮やかです。
「評者は外交官稼業のかたわらモスクワ大学哲学部で神学・宗教哲学を教えていたことがある。そのときロシアの学生たちが身に付けた速読術を目の当たりにした。一日に学術書ならば五百頁、小説ならば千五百頁くらい読む。米原万里さんは『受験の丸暗記地獄から解放された頃から速度は面白いほど伸び、ここ20年ほど一日平均七冊を維持してきた』(333頁)と書くが、これはハッタリではなく、プラハのソビエト学校で覚えたのであろう速読法と思う。」
もったいないのでもう少し、つづけて引用します。
「読書には他人の頭で考えるという面がある。読書家と話していても独創的な知性と出会うことは少ないのであるが、米原さんは常に自分の頭で考え、自分の言葉で表現する人だった。また、他者の内在的論理を正確にとらえる公正な精神をもっていた。」

それでは、米原さんは佐藤優氏をどう読んでいたのか。
米原万里著「打ちのめされるようなすごい本」(文藝春秋)の中の「私の読書日記」。
そこにこんな箇所。
「ムネオ事件に連座して検挙された元外務省主任分析官、佐藤優(現在起訴休職中)の傑作獄中記『国家の罠 外務省のラスプーチンと呼ばれて』を読んだ」(p260)
「何よりも東京拘置所生活の克明な描写。『512日間の独房生活は、読書と思索にとって最良の環境だった。学術書を中心に220冊を読み、思索ノートは62冊になった』。類い希なる作家の誕生は、生来の才能が獄中で研ぎ澄まされたおかげかも。私も拘置所に行きたくなった。」(p262)

米原さんの引用箇所は「国家の罠」のあとがきにありました。
その次には、佐藤優氏がこう書いております。
「その中で繰り返し読んだのが、『聖書』(新共同訳、日本聖書協会)、『太平記』(長谷川端訳、新編日本古典文学全集54~57巻、小学館)、ヘーゲル『精神現象学』(樫山欽四郎訳、平凡社ライブラリー)だった。『精神現象学』からは、当事者にとって深刻に見える問題が、学術的訓練を積んだ者にとっては滑稽に見えることもあるという、ユーモアの精神を学んだ。
『聖書』について、私は神学部時代から新約聖書にはかなり親しんできたが、旧約聖書と旧約聖書続編は、今回、獄中ではじめて本格的に読んだ。独房で所持できる書籍は三冊以内であるが、『聖書』は別枠(拘置所用語では『冊数外』と言い、宗教経典、辞書、学習書は特別の許可を得て七冊まで所持できる)なので、いつも手許に置き、毎日、預言書に目を通した。ヨブ、エゼキエルなどイスラエルの予言者が時空を超え、独房に現れ、私の目の前で話しているような印象をもった。」

ちょうど、獄中の読書というのに興味を持ちました。
そういえば11月7日朝日新聞の丸谷才一連載「袖のボタン」に
「戦前の講談社は、知識人の目から見れば俗悪低級な出版社にすぎなかった。たとえば豊多摩刑務所は、月刊誌の閲読はすべて禁止していたが、『キング』『講談倶楽部』『雄弁』などの講談社刊行物は安全無害なので例外だったという。(佐藤卓己『「キング」の時代』)」とあります。

近頃読みかじった臼井吉見編「柳田國男回想」(筑摩書房)にも
獄中の読書が登場しておりました。
「1930年に、それから32年から34年へかけての間に、私は豊多摩の『官本』で『雪国の春』を読んだ。やはり初版本で、さんざんに読まれてきたらしく、ひどく乱暴に製本しなおしてあったが、その製本も、だれか既決囚の一人の手になるものだったにちがいない。・・私は『狐のわな』などに今さらに驚いた。その前後からときどき柳田國男を読むようになったと思う。とはいっても、学問として読んだのではない。・・・」(p99)
これは中野重治の文「穏やかなきびしさ」から引用しました。
中野重治といえば「本とつきあう法」というのがあり(これは向井敏さんの引用箇所が思い浮かびます)。
それは、芳賀矢一・杉谷代水著『作文講話及文範』『書簡文講話及文範』を中野重治が紹介した箇所でした。

「ああ、学問と経験とのある人が、材料を豊富にあつめ、手間をかけて、実用ということで心から親切に書いてくれた通俗の本というものは何といいものだろう。僕はこれを刑務所の官本で楽しんで読み、出てから古本屋で見つけてきて今に愛蔵している。僕の持っているのは縮刷版だ。発行は冨山房だ。」

せっかく中野重治が登場しましたので、もうすこし
「座談会 詩人の軌跡――堀口大學の世界」の中で林房雄氏は、こう語っておりました。
それは長谷川巳之吉の第一書房から出した「月下の一群」の話でした。
「不思議な話ですけれど、その豪華版の初版を刑務所の中にいる私に差入れてくれたのが中野重治ですよ。中野も自分で読んだものを入れてくれたのでしょうがね。おかげで獄中が非常に楽しかった。・・・」

もう一度、「柳田國男回想」にもどりますが、そこに志賀義雄の『獄中で読んだ柳田先生の本』という文があります。
「3・15事件以後、18年間監獄につながれ、読書はひどく制限された範囲しか許されなかった。半年前のものでも、古新聞の一きれがもし手にはいったら、どんなにむさぼり読むだろうかとみずから想像したような境遇だった。そこでも『海南小記』その他の柳田先生の本だけは何冊か読むことができた。それはくりかえし読んだ。戦争末期の予防拘禁所の四年間は、新約旧約聖書までも敵国の宗教書といって禁止していたのだから、ほかに読む本がろくにないありさまで、柳田先生の本を『くりかえし』読むといっても、その程度は世の常の何十倍もであった。いまでもそのときつくった数十冊のノートを保存している。」(p96)

あまり、獄中の話ばかりになりました。
ここから、中村吉広著「チベット語になった『坊っちゃん』」(山と渓谷社)へと、つづけたい誘惑にかられました。それはまた別の機会があったら。

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柳田國男回想。

2006-11-09 | Weblog
古本なのですが、臼井吉見編「柳田國男回想」(筑摩書房・1972年)というのがあり、その最後に【座談会・日本人の精神のふるさと】として中野重治・山本健吉・和歌森太郎・臼井吉見の四人の話が掲載されており刺激的です。

たとえば柳田國男の『俳諧評釈』について、和歌森さんはこう語っております。
「戦争中、成城の屋敷の中に炭焼がまをつくったりして、炭を自給する、非常にやるせない思いで毎日くらしておられた時期ですが、そのころ、われわれのメンバーは、旅も十分にできないし、そうおもしろい話題も出てこないから、ひとつ連句でも評釈しあおうじゃないかということで、例の木曜会といっていた研究会を、その会に代えたんですよ。その講義が『俳諧評釈』です、(全集)十七巻の。」(p328)

旅も満足にできないので、ひとつ『俳諧評釈』とは恐れ入ります。
そのおかげで、われわれは谷沢永一氏が「俳諧の評釈として読むに足るのは」とまず最初にあげている柳田國男著『俳諧評釈』を読むことができるのでした。

この座談会は、いろいろと刺激的なのです。山本氏はこう語っております。
「それから柳田先生は日本の文学――文学に限らないけれども――というのはむかしから都会の文学中心で、農村の生活、あるいは農民の生活を描いたものが非常に少ない、ということを言われたことがある。先生は、四冊の座右の書として、『今昔物語』『沙石集』『狂言記』『醒睡笑』をあげられたことがあるんです。これはわたしに口頭であげられたのですが、そういうふうな系譜の文学が非常に貧しいということね。・・・」

ここに出てくる「四冊の座右の書」が、気になるなあ。
そのあとに臼井氏がこうつなげております。
「いまの四つの本というのは、なるほどね。それは、『笑いの本願』とか『不幸なる芸術』、とくに『不幸なる芸術』にそのままつながるわけだ。『不幸なる芸術』は、要するに日本の現代文学が、笑いとウソを忘れて、貧相なものになったことを指摘していますね。あれは文学論だけでなく、教育論でもある。むしろ教育者に読ませたくて書いたもののようだ。」

つまり、笑いの系譜として日本の笑いをたどる道筋を、ここで示しているのじゃないか?
いま話題になっているらしい早坂隆著「世界の日本人ジョーク集」(中公新書ラクレ)とか米原万里著「必笑小咄のテクニック」(集英社新書)。あるいはその米原さんお薦めの「ユダヤ・ジョーク集」(講談社+α文庫)などの本と、この日本の笑いの系譜とをどのように結びつけてゆくかは、すぐれて現代的なわれわれの視点だと思うんです。

山本氏は、あとでこうつけ加えております。
「・・さっきぼくは四冊の座右の本をあげたけれども、『七部集』も座右の書で、しょっちゅう旅行にも持っていかれるし、そして芭蕉が実にものをよく知っているということに驚嘆されている、地方人の生活をね。だから、やっぱり『七部集』は民俗学的な立場から見ても、一種の宝庫なんでしょう。」

これで、我等が座右の書にすべき柳田國男推薦の五冊の本が並んだわけです。

さて、座談で臼井氏は、こう語っておりました。

「柳田先生は、ぼくなんか不思議に思うくらい、日本の詩というものを軽蔑しているわけですね。先生が責任者で中学校の教科書を編纂していますが、これははじめは、絶対に詩を入れることはならんとか言って、・・・」

ここでの詩というのは、たとえば島崎藤村の「椰子の実」というような詩のことです。
これは、おもしろいなあ。

戦後、桑原武夫は「第二芸術」を書いて、その最後に
「そこで、私の希望するところは、成年者が俳句をたしなむのはもとより自由として、国民学校、中等学校の教育からは、江戸音曲と同じように、俳諧的なものをしめ出してもらいたい、ということである。俳句の自然観察を何か自然科学への手引きのごとく考えている人もあるが、それは近代科学の性格を全く知らないからである。自然または人間社会にひそむ法則性のごときものを忘れ、これをただスナップ・ショット的にとらえんとする俳諧精神と今日の科学精神ほど背反するものはないのである。」

私なら、2006年現代には「国語教科書から現代詩を締め出してもらいたい」という刺激的な提案をしたくなります(ああ、それからついでに「早いだけが取り得の現代文学を教科書に並べるのもなし」にしてもらいたい)。柳田國男の『笑いの本願』『不幸なる芸術』が教育論であるという視点が私は刺激的に感じます。そこから、あらためて読み直してみたくなりました。といっても、いつになることやら。

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玉葉集。

2006-11-08 | Weblog
岡野弘彦歌集を読んだら、岡野氏の新聞の文章を思い浮べました。
2005年11月15日読売新聞夕刊。
そこには「紀宮さまを寿ぐ歌」が三首ならび。
文章は「紀宮さま御進講の日々」が綴られておりました。
その文章には「折口信夫から教えられた一つに、『和歌による感染教育』ということがあります。その要点は次のようです。」とあり
「平安時代、天皇や皇后になるはずの若い貴人には、宮中や藤原氏に伝わっている、力ある和歌や物語をお聞かせすることが大切であった。歌や物語そのものに魂が内在していて、歌ったり語ったりすると、その魂の力が働いて貴人の心に感染するのである。だから当時は、博士による漢才(からざえ)の知識教育よりも、女房による和歌や物語(神話)を通した感染教育が重んじられた。この魅力的な説は、日本文学史を深く見通して得た、折口信夫の卓見でした。」

この岡野氏の文章に気になっていた箇所がありました。
それは
「最近の数年は、宮さまの資質に一番ふさわしい、中世の『玉葉集』の歌をお講義してきました。」という箇所です。
「文学面での心の豊饒さでは、北朝系の勅撰集と言うべき『玉葉集』や『風雅集』の、冴えた自然観照や歌のしらべの美しさに心を引かれます。万葉・古今・新古今と、それぞれの時代の特色を示した和歌が、やがて到りついた一つの究極の歌風です。・・・」

そういえば、岡野氏の最新歌集に

 木(こ)がくれの老い木の桜 まかり出て 玉葉集を説きやまぬかも

 世の末の歌のみだれを憤る われの一途(いちづ)を 和(なご)めたまへり

(「バグダッド燃ゆ」p186~187)という歌がありました。
ところで、岡野氏の歌集のあとがきの最後に
「さらにここ数年間、丸谷才一さん、大岡信さんと連句を巻くことが多くなった。
学生のころに(折口信夫)チョウクウから『乙三』という俳名をつけてもらって、ただ緊張しながら付句を出していた私が、このありがたい連衆の引き立てによって、付合の気分と座の文芸の骨法とを心から楽しめるようになった。歌集の上にも、その影響がのびやかに現れているのを感じる。・・」とあります。

そこに名前の出てくる大岡信さん。
その大岡信さんの本に「瑞穂(みずほ)の国うた」(世界文化社)があります。
そこに玉葉集のことが出ておりました。

「(京極)為兼の歌は、その後に生れてくる俳句をあらかじめ先導したようなところがあって、景色、風物というもののとらえ方が、それ以前、平安朝の和歌などとはがらっと変わっているところが一番の特徴です。目の前に見える世界をモノの動きによってとらえるのです。いろいろなものが動くことによって生じる視覚的な新しい感動というようなもの、それを意識的にとらえようとした面があるのです。『玉葉集』『風雅集』の特徴は、自然界の動きの世界をとらえるという試みに、歌人たちがいわば集団的に挑戦したという点にあり、やがて起こる俳諧の分野でもそういう動きが絶えず出てくるわけです。そういう意味では現代俳句にもそうとう近しい世界がそこにあるわけです。」(p101)

ちなみに、大岡さんのこの本には「俳人・漱石の魅力」という文章も入っており、さらりと漏れなく漱石の俳句の視点を示しており、沼波瓊音の漱石感と同じ視点が、もっと丁寧に示されておりました。その最後の箇所。
「漱石は散文作家としてのイメージが非常に強いわけですが、漱石がなぜ散文を書けたかといえば、彼が俳句を作っていたからです。それもレトリック以前にアイディアで勝負するということを、小説を作るずっと前から考えていたから書けたのだと言っていい。」そして終りには
「漱石が後年、小説家としてあれだけの力量を発揮することができた根本のところには、俳句をたくさん作れたということがあったと私は考えているのです。」(p259)

ちょいと、ここから『玉葉集』を読みたくなるのですが、
私の興味はここまで。
コメント (2)
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岡野弘彦歌集「バグダッド燃ゆ」。

2006-11-07 | Weblog
充実した読後感を味わえました。
それでは、どうしたらこの満足感を伝えることができるかどうか?
とにかく、はじめてみましょう。
斎藤孝著「身体感覚を取り戻す」(NHKブックス)に
その74ページ頃に、こうあります。

「『長い年月をかけて磨きあげられてきたもの』を型として暗記し、身にしみこませることによって、それが自分の歌を磨きあげていく作業の物差しとなるのである。ここでは『磨きあげる』という表現が、古典となる歌が砥石(といし)の役割を果たすことによってより具体的にイメージされるようになっている。岡野弘彦の作歌のスタイルとしておもしろい点は、身体の鍛錬によって感覚を研ぎ澄ますということである。岡野は『毎朝走って感覚を研ぐ』という。」

そのあとに、また新聞に掲載された岡野弘彦氏の文を引用しております。

「先生のお宅では月に一度、歌会がありました。私は書生の身ですから、仕事の合間を縫って、時間にすれば二十分ほどの間に作ります。集中力と瞬発力が必要です。歌は即興性が大切ですから、この二つは不可欠です。いい訓練になりました。しんねりむっつり考えるより、体を動かしている方が、いい歌は作れるでしょう。(中略)
三、四十人の学生を引率して、毎年十二月の下旬に万葉の旅をしました。山道を一週間、毎日三十五キロから四十キロ歩いて昼は素うどんだけの強行軍です。そして最後の夜に歌会をします。学生は頭で考えたことではなく、体で感じたことを歌にします。いいものがありました。そういうことを三十年も続けましたからね。・・・」

岡野弘彦氏は1924年(大正13年)7月7日、三重県に生れております。
ということは現在は82歳ですか。
うん。短歌を読む喜びというのは、こういうものなのだと、私は初めて知ったような気がしました。ありがたかった。
「短歌512首、それに旋頭歌と長歌」で一冊になっております。
この歌集でも、そこらじゅうを走り・歩いているという躍動感が、読む者に伝わってきます。そして歩いていけない先へと、思いはひろやかにつながってゆきます。簡単に分類引用してみても始まりますまい。ですがせめて、一首だけでも

 朗々と祝詞よむ わかき父の声。老いたるわれを 奮ひたたしむ
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