和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

無教育世代。

2008-05-30 | Weblog
渡部昇一著「父の哲学」(幻冬舎)の終りの方に、こうあります。

「後年、私も同年代の著名な人たちと対談する機会を得るようになった。たとえば佐々淳行さん。彼のお父さんは初代九州帝国大学の法学部教授、母方のお祖父さんは東大の国文学の教授だった。そんな最高の知識人の家庭に育った佐々さんと、幼年時代、少年時代の話をしてみると、そこにまったく教養の差がないことがわかった。陸奥宗光の一族で政界の大物の孫である外交官岡崎久彦さんと話したときも同じことだった。東北の田舎の貧乏屋に育ちながら、東京の最高の知識階級の家に育った人と、少年時代に受けていた読書教育環境が同じだったという、このことがわかったとき、あらためて父親と、それにも増してその父を育てた『父の父』に感謝の気持ちを覚えずにはいられなかったのである。」(p219)

渡部昇一氏は昭和5年(1930)生まれでした。
ところで、川本三郎著「向田邦子と昭和の東京」(新潮新書)を読んでいたら、向田邦子は「昭和4年(1929)、東京府荏原郡世田谷町若林(現在の世田谷区若林。松陰神社の近く)の生まれ。その後、保険会社の社員だった父親の転勤によって宇都宮市、鹿児島市、高松市に住んだこともあるが、人生の時間でいえば地方都市より東京で暮したほうが長い。・・・」(p162)とあります。

その向田邦子さんについて書いた久世光彦著「夢あたたかき 向田邦子との二十年」(講談社文庫)を開いてみたら、そのあとがきで久世さんはこう書いておりました。


「あの戦争が終わって、今年でちょうど五十年である。いまごろ寝ぼけたことを行っているようだが、ようやく戦後が終わったような気がする。私たちの世代にとって、それくらいあの戦争は、√2や√3のような、つまり、いつまで計算しても割り切れない平方根みたいなものだった。私たちのやわらかな希望は、戦争が終わったあの日からはじまったが、私たちの妙なアンニュイや無力感も、あの日にはじまった。戦争と聞くと、胸がちぢむような怖れが蘇るのもほんとうだが、ときめいて懐かしく思うのもほんとうだった。私たちは、まだ幼いといっていい年ごろだったが、あの日、たしかに何かを見失った。そしておなじ日、見失ったものの向うに、何かが束の間見えたような気もした。いったい見失ったものというのは何だったのか、見えたと思ったのは何だったのか、それについて考えているうちに、駆け足のように時は過ぎて、私たちはいつも胸の底に、あの日に忘れ物をしたような不安と落ち着きのなさを抱えて暮らすようになった。まだ取りに戻れる、まだ間に合うと言い訳しつづけて、ふと気がついたら五十年が過ぎていた。・・・」

ちなみに久世光彦氏は1935年生まれ。
その久世氏のあとがきを読んでいたら、渡部昇一氏と岡崎久彦氏との対談が思い出されてくるのでした。そこで岡崎氏は語っています。
「われわれの世代は兵隊教育も受けていないし、戦後も日教組が盛んになる前に大学に通いました。だから、悪く言えば『無教育世代』ということになるんでしょうが、要するに誰も指導してくれなかったから、自分で本を読んで、自分で考えるしかなかった。それがかえってよかったのでしょう。今の言論界に昭和五年世代が多いというのも、そこが大きく関係していると思います。まあ、これ以上は我田引水になるから、昭和ヒトケタ世代の話はこの程度で止めておきましょう」

この対談は「賢者は歴史に学ぶ」(クレスト社)という本。
そのまえがきと、あとがきとで、その昭和五年をとりあげております。

まえがきは渡部昇一氏です。
「岡崎氏を私は同じ昭和五年生まれではあるが、稟質も経歴もまったく違う。しかし、同じ歳の日本人の男として、ツーと言えばカーと通ずるところがある。同じ教科書を使い、同じ唱歌を歌い、同じ少年雑誌を読み、同じニュースを聞いて育ったのだ。戦前の偉大な日本の記憶もあるし、戦争に引き込まれていったプロセスも、敗戦の屈辱も悲惨も、また戦後の解放感も、焼け跡からの復興も知っている。わずかのことで戦場には出なかったので、かえって『敗れて腰が抜けた』ような日本人にもなっていない。占領軍や日教組の反日的教育も受けていない。『こういう世代は貴重なんだ』と岡崎氏は言う。・・・・」

あとがきは岡崎久彦氏。
「・・われわれが育った時代は戦前、戦中、戦後の激動期であり、それぞれの個人の生活体験は360度異なる広がりを持つので一般論は言えない。しかし、一つだけ共通と言えるのは、青春時代の始まりである15歳の時に、敗戦を迎え、自分たちが生まれ育った社会環境が足許から地響きを立てて崩れ、それまでの価値観がすべて失われた絶対的な空白期を体験していることである。そしてその空白の中に、マルクス史観、占領軍史観が入りこみ、日教組教育が、小・中・高校教育に浸透し定着する1950年代の前に、20歳までの思想形成期を過ごしている点も共通である。一つ上の世代の兵隊教育も受けていないし、下の世代の日教組教育も受けていない。自分の読む物は自分で選ばなければならなかった時代である。」


ここから、
私は鹿島茂編「あの頃、あの詩を」(文春新書)の鹿島茂の、まえがきへと繋げたい誘惑にかられるのでした。まあ、それはそれとして。
渡部昇一著「父の哲学」に
「戦前までの日本には、たしかに、怖い父親が存在した。たとえば、放送作家であり直木賞作家でもある向田邦子さんのエッセイや小説には、家族に有無を言わせない、厳格な父親が登場する。これは向田さん自身のお父上の話にほかならない。・・・」(p31)

無教育世代でもある昭和ヒトケタ世代。
その昭和5年生れの渡部昇一氏が書いた哲学には、
冠のように「父」が置かれております。


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石井桃子選。

2008-05-12 | Weblog
毎日新聞2008年5月11日の今週の本棚。
そこに松岡亨子が選ぶ石井桃子「この人・この3冊」が掲載されておりました。
その松岡さんの文の最後に、こうあります。
「ご参考までに、石井さんご自身が、これらの作品によって記憶されることをよしとして選び、お墓の脇の石に刻ませたのは、次の六作品である。すなわち
『ノンちゃん雲に乗る』
『幼ものがたり』
『幻の朱い実』
『クマのプーさん』
『ピーターラビットのおはなし』
『ムギと王さま』                」

「お墓の脇の石に刻ませた」というのがいいですね。
うん。機会があったら読んでみたいなあ。

石井桃子さんについて語られているのを見ると、何だかどなたのも中途半端で物足りなく、私には「群盲象を撫でる」という言葉が思い浮かびます。それでも晩年の石井桃子さんなら、焦点が定まりそうな気がします。
ちょっとそれについて触れてみたいとおもいます。
今年「朝日賞」を受賞なさっておりました。
その受賞スピーチが(1月30日朝日新聞)に、ほかの方々と共に掲載されておりました。それを読んでもピンとこなかったのですが、この前、新聞の整理をしていて出て来たその箇所を、気分新たに読み直してみました。

スピーチだけで、あれこれと判断しちゃうと、誤ることがありますね。
たとえば中川季枝子さんは石井桃子さんの言葉を紹介しております。
「95歳になったら頭で考えたことが筆先に来るまでに変ったりするわよ、とさらりとおっしゃる。」「『私は一日三枚でいいから書きたいんですけど、頭と手がつながらないの』ともおっしゃっていました、書きたい気持ちがあるけれど、表現できない。自分の老いてゆく様子を客観的に見ていて、折に触れて私に教えてくださる。」

独身生活を続けていたため、3年ほど前、周囲の勧めで老人福祉施設(石神井の老人ホーム)に入ったのだそうです。松岡享子さんの言葉によると「おおげさなことや肩書きがお嫌いで、ご自身の影響力の大きさを自覚しておられませんでした」。

朝日賞の受賞スピーチ。新聞に掲載されている全文を引用したいのですが、そのまえに犬養康彦さんの文から引用しておきます。「今年の一月の朝日賞の授賞式では、控え室にベッドを用意して休まれておられるというので、そのそばで少し話しました。会場には車椅子で入られました。予定にはなかったのですが、最後にみなさんにお礼を言いたい、と希望なさって、壇上から車椅子で、大きな声でご挨拶をなさいました。」

さて、こういう石井桃子さんの晩年の雰囲気を写し取ってから、
受賞スピーチを引用してみることにいたします。

「初め、この賞をいただきましたときは、なぜ私がこれをいただかなくちゃならないのか、という疑問にさえ包まれたのでした。その賞と、ひと月以上の間、一緒に寝てみました。私の上に賞をくだされるという大きなショック、それこそばくだんとも言うべきショックとなって現れたのです。それがみるみる大きな輝きとなって、私のところまで飛んできて、そしてみるみる私の体内に入り込むと、それが体の中心、自分のおへその中心あたりまで沈み込み、そして『ことっ』と落ちたと思うと、そこで動かなくなったのです。そのとき、やはり私の声で、お礼を申し上げてこなければいけない、と思いました。『朝日賞をいただいた人間です』といってこの世を去るよりも、六つ七つの星に美しく頭の上を飾られて次の世の中に行きたいと思っています。栄えある賞の受け手として私をお定めになったとき、地面の上にひれ伏すような気持ちを味わわせてくれました。ありがとうございました。」


私には分かりにくい石井桃子さんの言葉なのですが、
「六つ七つの星に美しく頭の上を飾られて」という言葉のヒントが
きっと「お墓の脇の石に刻ませた」六作品のなかに隠されているのじゃないかと思ってみるのでした。
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石井桃子追悼。

2008-05-10 | Weblog
文藝春秋2008年6月号。
 「蓋棺録(ガイカンロク)」に石井桃子。
 また、犬養康彦氏が「石井桃子さんと五・一五事件」と題して8㌻ほどの文を書いておりました。
週刊新潮4月17日号の「墓碑銘」に石井桃子。
「子どもの『心の糧』を考え続けた石井桃子さんの源流」と題されております。
朝日新聞4月5日文化欄に、中川季枝子さんが「石井桃子さんを悼む」。
朝日新聞といえば、1月30日に朝日賞受賞者スピーチが載っており、
石井桃子さんの言葉が掲載されておりました。
ちなみに、その新聞に大佛次郎賞を受賞した吉田修一氏の言葉も載っておりまして、
そこで吉田氏は「先ほど石井桃子先生の素晴らしいスピーチを目の前でお聴きして、まだまだ自分はこれから本当に頑張って小説と向き合って書かないといけないなと、あらためて思いました。」と終っておりました。
朝日新聞1月1日には、石井桃子さんへの受賞のインタビュー記事。
産経新聞5月8日「正論」阿川尚之氏が、石井桃子さんの死亡記事に関して書かれておりました。

といったところで、何となく晩年の石井桃子さんの様子が浮かび上がってくるようでした。
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水野葉舟。

2008-05-10 | 詩歌
4月24日兄弟して車で、出かける用事がありました。私は助手席。地図をひろげておりました。行き帰りとも雨が降ったり止んだりで、田んぼには水がひかれておりました。5月7日にも出かける用事がありました。よい天気。連休明けのせいか、帰ってくる途中での田んぼは、もう田植えがおおかた済んでおりました。

水野葉舟に歌集「滴瀝」という古本があります。
そこから引用してみたくなりました。

陰新し、四月の春の太陽がくろぐろと土にものを映しゐる

  五月の風景と題された歌には

煙、煙、けむりの如き若葉わき上る森にほととぎすなく

やみの夜が紫だちて息づまる深さとなりぬ若葉の五月

  身辺風景ーー夏となる

雨降りぬ、息づまる如き重き空やがて軽やかになりて風ふく


   利根川の岸で

河の水が流るる流るる立ちて見る我が目の前を流るる流るる


   七月の雨、心を洗ふやうに降る。

降りそそぐシャワ、音の爽やかさ、ぬれし林がさわぎきらめく


   ある日の日記に

四月五月、花つぎつぎに咲き盛り夢の如く散りて土に消え去る




田植えもしたことがない私ですが、
思い浮かぶのは、宮崎駿監督映画「となりのトトロ」でした。
たしか田植えの風景から梅雨時期を過ぎて夏へのうつりかわりが
背景として描かれてゆくのでした。
猫バスというのがあって、村の人たちには見えない、
風にのって走るバスが登場したりしておりました。
猫バスが通り過ぎると、田んぼの稲が、突風でいっせいになびくように
なるのでした。
そんなことを思い浮かべたくなる水野葉舟氏の歌もあります。


畑の上を通りすぎゆく光る風、いきものの如し、目をこらし見る


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青木繁。

2008-05-10 | Weblog
松永伍一著「青木繁 その愛と放浪」(NHKブックス)。
 房総布良への旅行から書き始められております。
青木繁著「假象の創造」(中央公論美術出版)
 河北倫明氏の解説には「この本は、明治時代の画家青木繁の文章、短歌、書簡を集めたもので、今日伝えられているもののほとんどすべてを網羅している」とあります。
雑誌「太陽」1974年10月。no.137「画家青木繁 愛と放浪の生涯」
川本三郎著「火の見櫓の上の海 東京から房総へ」(NTT出版)。
毎日新聞2007年5月6日日曜版「あの人に会う 日本近代史を訪ねて」
そこでの連載「青木繁」(5月6・13・20・27日)4回。
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卒業と結末。

2008-05-05 | Weblog
堺利彦著「文章速達法」(講談社学術文庫・古本)を読みました。
読みやすい。これ大正4年(1915)に刊行された本だそうです。
現在の、関連本より、簡潔端的で分かりやすい。
分かりやすすぎて、ありがたみがないほどに、スラスラと読めます。
かえって、現代の本のほうが読みにくいかもしれないという疑問さえ思い浮かぶほどです。さて、ここでは一箇所引用してみます。

結末についてでした。

「・・次に結末は幕切れであり、別れの挨拶であり、総勘定であり、尻の結びであるから、何とかそこに一趣向ありたいものである。これまでだんだんと書きつづけ書きひろげてきたことを、最後にギュッと一締め締め上げて、それで全文の揺ぎを防ぐというも一つ。またせっかく引きつけた読者の心を、それきりすぐに逃さぬよう釘を打つとか、鎹(かすがい)を打つとか、ないしは一瞥の秋波(しゅうは)を送るとかするのも一つ。余情、余韻というのも、つまりこの秋波のごとき結末の趣を指すので、言い尽くさず、語り尽さず、思いを人の胸に残さしめる手段である。」(p55~56)


この箇所を読んだ時に、私が思い浮べたのは、1971年の清水幾太郎著「私の文章作法」でした。そこには時代背景も違うからでしょうが、こうあります。
「最近の諸雑誌に載っている論文・・・を見ておりますと、最初の部分に『はじめに』という見出しがあり、また最後の部分に『おわりに』という見出しがついていることが多いようです。いつか、一つの型が出来てしまったのでしょう。私は、あれが大嫌いなのです。特に調べたことはありませんが、例の当用漢字が決定され、それが強制されて行く過程、つまり、幼稚園的民主主義が伸びて行く過程で生れたパターンのように思われます。・・・文章が終る時は、もう書くのが厭になったから、または、もう書くことがなくなったから終るのです。・・大切なのは本論です。というより、本論だけが大切なのです。立派な短篇小説に、『はじめに』や『おわりに』はありません。第一行から本論で、本論でないものは一行も含まれていません。それは小説だから・・・とおっしゃるのですか。いいえ、そもそも、短編小説と短編論文とをやたらに区別するのがいけないのです。」(p116~119・中公文庫)

どちらの本も、両方比較して読むと面白そうです。
ところで、話題がかわるのですが、
毎日新聞2008年3月30日の歌壇俳壇に、短歌「桜競詠」という特集がありました。
その最初に佐佐木幸綱の「送る」という2首がありました。そのはじめの一首。

 卒業の君らを送る 青空に花かかげ立つ木の心にて

「木」といえば、佐佐木信綱に

 山の上にたてりて久し吾もまた一本の木の心地するかも

という歌がありました(これ窪田空穂の短歌紹介にも取り上げられておりました)。

「卒業」と「立つ木の心にて」と二つは感慨深いのですが、
さて、この二つをどう結びつけたらよいのか、そんなことを思ったのでした。
堺利彦著「文章速達法」の第十章は「最後の一言(いちげん)」とあります。
文庫で3ページほどです。そこを引用してみます。

「最後に一言す。文章は誰にでも書けるものだから誰でも書くがいい。しかし本当に上手に書こうと思うなら一生涯稽古する覚悟が必要である。著者は46歳の今日、なお毎日作文の稽古をしている。著者はもちろん、多少文章をよく書き得(う)るという自信を持っている。しかしそれでいて、俺はとても駄目だと思って、筆を投じて嘆息する場合がしばしばある。」

こうはじまり。最後は、こう終っておりました。

「今一度繰り返す。文章は誰にでも書ける。心の真実を率直に大胆に表すことを勉めさえすれば、文章は必ず速やかに上達する。文章速達の秘訣はその外にない。しかし文章は一生の事業である。いつまで経っても卒業する時は決してない。」


ここであらためて、短歌を読み直してみるのでした。


 卒業の君らを送る 青空に花かかげ立つ木の心にて
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草森紳一。

2008-05-05 | Weblog
評論家・草森紳一氏の本は読んだことがありませんでした。
週刊新潮2008年4月17日号のp143に「本の山で発見が遅れた『草森紳一氏』」という見出しの記事が掲載されておりました。推定死亡日は3月20日。心不全。享年70歳。
では、記事から引用。

 雑誌『エンタクシー』編集長の壹岐真也氏によれば、『19日に原稿を受け取る約束だったのですが、連絡がつかず20日朝、マンションに伺いました。玄関は開いていましたが返事はなく、本が崩れるため中には入って欲しくないと聞いていたので、そのまま帰りました』28日夜、各社の担当編集者4人が訪ねたが、本が邪魔になって所在を確認できなかったという。翌朝、芸術新聞社の編集者2人が、2LDKの手前の部屋で倒れていた草森さんを発見した。『一人暮らしでしたから、連絡がなければこういうこともあるかもしれないとは思っていました』・・・

そういえば、2005年に文春新書で草森紳一著「随筆 本が崩れる」が出ておりました。たしか買って50㌻ほど読んで放り投げてしまったのですが、どこかにあったなあと思っておりました。しばらくしてから何げなくも見つかりました。死亡記事でもって、現場の2LDKの様子を、新書で読み返したくなる。なんて不思議ですが。しかも、この新書が何やら死亡予告というか、虫の知らせめいております。あらためて半分ほど読み直し内容が、私にもようやくわかってきました。
2LDKの本の山の説明は、やめときます。
新書には、写真入で、文章にも部屋の本の様子がわかるように書かれております。
興味深かったのは、「資料もの」について草森さんが書かれている箇所でした。
すこしながくなりますが、ぜひ引用しておきます。

「いわゆる『資料もの』といわれる仕事をするようになってからは、ねずみ算式に増殖していく。『資料もの』というのは、私の場合、過去の歴史にかかわるもので、たとえば『中国の食客』とか『フランク・ロイド・ライト』とかいう『テーマ』が自分の中で発生すると、ぽつりぽつりと関連の本をあてもなく買いつづける。十年二十年たっても、集中して資料集めしているわけでないので、二百冊にもならないが、これくらい読むとそれなりに考えがまとまってきて、まず仕事としての機が熟してくる。見切り発車してもよい汐時である。ところが、いざ仕事を開始するの段になると、一面、まったくそれらの資料は役に立たない。役立てては、その仕事がお粗末な結果になると、経験から知っている。自分の世界にテーマを引き込むためには、それらは切り棄て資料となる。それまでに手にはいらなかった基礎資料の問題もいらだたせるが、もっと重要になってくるのは、むしろ関連資料である。こうなると無限大の増殖世界である。基礎資料、重要資料を生かすのは、むしろこれらの関連資料、こそなのである。この世の中は、有機構造であるから、すべてが資料となってくる。・・・」(p30~31)


「資料調べは、それ自体が、書くこと以上に楽しい。が、しばしば役に立つかどうかもわからぬ資料の入手のため、たえず破産寸前に追いこまれる。」(p34)

あっ、それから、
この新書で印象深かったのは草森紳一氏が写っている写真。
年代の推移が写真とともにたどれます。今見ると追悼写真版とも思える資料価値。
草森氏は昭和13(1938)年生まれ。
1971年の写真は雪駄に裸足。レインコートで坪内祐三ばりのカッコイイ若者という感じ(p264)
1981年の写真はだいぶ髪がもじゃもじゃとなり長髪。
2005年の写真は帽子をかぶりその脇から白髪がのぞいている立ち姿(p278)。
そして死亡記事が載った週刊誌の写真は講演会でのすわって語る姿。こちらは、帽子をかぶってはおりませんでした。


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よいこ。

2008-05-04 | Weblog
武田雅哉著「よいこの文化大革命」(廣済堂出版)は、
「中国で『文化大革命』と呼ばれていた時代(1966-1976)に刊行されていた、こどもむけの雑誌『紅小兵』」の表紙を挟み込みながら時代を浮かび上がらせております。
私はパラパラとめくっているだけなのですが、たとえば第二章「『紅小兵』表紙絵展覧会」にあるp25には、あの赤い大きな中国国旗を子供たちが掲げながら突進する絵なのでした。おいおい。これって長野の聖火リレーでみたあの赤い大きな国旗の旗振りと同じじゃないか。などと思い浮かべておりました。
p9には、こうあります。
「いずれに転ぼうとも、つねに『善玉』『悪玉』を明瞭に設けずにはいられないところが、通俗的な文革の理解の特徴でありましょう。権力者とその下にあるメディアにより、絶対的な存在である毛沢東のもとで、明確な悪玉と善玉のキャスティングが、つねになされていたのです。」
チャイナのオリンピックが妨害されている。
多数のよいこが大きなチャイナ国旗を振っている。
それと、日本大使館に、投石して恥じないよいこたち。
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と申されます。

2008-05-04 | Weblog
窪田空穂全集が届きました。
全29巻。うん。その五分の一を読むぞ(笑)。
その前にとにかくも、月報を読むぞ。
月報がおもしろそうです。
それで、全集の味わいも知れそうです。

第25巻の月報に、村崎凡人氏の文がありました。
そこにですね。
「うなぎにする?てんぷら?というぐあいで、こってりしたものがおすきです。
玄関で帰ろうとすると、『あがらないという法はない』と申されます。」

ああそうか。
この全集を手にして
『あがらないという法はない』と何か知り合いのお宅に立ち寄ったような
気分になる。そんな不思議な感触があります。何てまだ読んでいないのにね(笑)。
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親日・友好。

2008-05-03 | Weblog
産経新聞2008年5月3日。つまり今日なのですが、その6ページ目に古森義久氏と黒田勝弘氏の文が載っております。黒田勝弘氏のは「ソウルから」という短いコラム。そこに「韓国で『親日』というと、単に『日本と親しい』という意味ではなく、今なお日本統治時代の昔、日本支配に協力し民族を裏切ったという『売国』『民族反逆』の意味になっている・・今でも『親日派』というのは人をおとしめる最大の非難言葉だ・・」とあります。
ワシントンにいる古森義久氏のコラムは「緯度経度」。
まずこう語っておりました。
「・・いま国際舞台で展開されている現象は実は『中国問題』なのだ、と。私たちが現在、直面しているのは
『聖火リレー問題』でも『オリンピック問題』でもない。
『チベット問題』とか『人権弾圧問題』と呼ぶのも核心を外してしまう。
中国という異質の大国の台頭にどう対応するかという
新たな課題の劇的な提示こそが真実なのである。」
そしてワシントンからテレビ中継で見た長野の映像を語るのでした。
それは中国・日本の国旗について明瞭に指摘して語って印象的です。
「いかなる事情にせよ、自国の国旗をこれほど多数、これほど傍若無人に、他の主権国家の内部で振り回す国や国民がほかにあるだろうか。中国の異質性や特殊性はこの光景に凝縮されていると思った。同時に他国の国旗を自国領内でこれほど誇示されても黙したまま、という国もほかにあるだろうか、といぶかった。」
「だからワシントンからみる長野の映像は中国の国際的な異質性だけでなく、日中関係の特殊性をも印象づけた。米国産の有害牛肉はすぐに輸入を禁じても、中国産の毒ギョーザにはなんの措置もとらない。度重なる反日デモの破壊行為で中国領内の自国関連施設が実害を受け、自国の国旗が何度も焼かれても、断固たる対応はとらない。日本のこんな対中態度は『友好』という虚ろな標語に長年隠され、抑えられてきたゆがみの集積でもあろう。」

さて古森義久氏は、ここで終わらずに、対処療法へと言及するのを忘れておりません。

「米国では中国との関与を強調しながらも、その異質性や不透明性を警戒し、政府が『中国の軍事力』や『中国のWTO(世界貿易機関)規則順守状況』の報告書を毎年、公表する。中国の人権やテロ支援についても調査結果を発表する。議会の中国の調査・研究はさらに徹底している。・・・議会の常設機関では『米中経済安保調査委員会』が両国間の経済や安保のあらゆる課題を『米国の国家安全保障にとって』という観点から点検する。・・・・・」

そして最後に「日本もそろそろ・・・」と、聖火リレーの騒動から、これからの取り組み課題を指摘しておられるのでした。

貴重な「親日・友好」論になっております。
漠然とした「親日・友好」の広辞苑的意味を払拭してくれて
あまりあるコラムでした。

長野の聖火リレーの映像は私も見ておりました。
私が印象に残った言葉は、
アナウンサーらしき人が、中国人留学生に
質問する。するとすかさずその質問に対してチャイナの人は
「もっと勉強しなさい」(言葉はこうではなかったようでした)と報道陣を叱っておりました。
うん。もっとチャイナを勉強しよう。
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文雅新泉堂。

2008-05-02 | Weblog
武田雅哉氏の古本を注文した文雅新泉堂さんから、今日発送するとのメールが入っておりました。メールに記載のホームページをひらいて見ると。
そこに【今日の立読み】欄というのがありました。
興味深いので引用。

わたしはうちがびんぼうであったのでがっこうへいっておりません。/だからじをぜんぜんしりませんでした。いましきじがっきゅうでべんきょうしてかなはだいたいおぼえました。/いままでおいしゃへいってもうけつけでなまえをかいてもらっていましたがためしにじぶんでかいてためしてみました。/かんごふさんが北代さんとよんでくれたので大へんうれしかった。/夕やけを見てもあまりうつくしいとおもわなかったけれどじをおぼえてほんとうにうつくしいとおもうようになりました。
――「手紙-夕やけがうつくしい」北代色(『にんげん』解放出版社より)
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全集購入。

2008-05-01 | Weblog
窪田空穂全集を買うことにしました。
全29巻。古本価格で7万円。あとは振込み料。
注文先は天牛堺書店。本が届くのは連休後でしょうか。
これも、大岡信氏の論・紹介文を読んだことで、
最後の一押し、背中を押されたというわけです。
ここに、
古典の先生を見つけた。
という気持ちでおります。
もちろん。あとは駄目生徒の奮起あるのみ。
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