和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

『 泣く 』

2023-03-26 | 柳田国男を読む
柳田国男に『 涕泣史談 』という文があり、
ちょっと、気になることがあったので、あらためてひらく。


この『涕泣史談』は、昭和16年8月に雑誌に掲載されておりました。
柳田国男年譜をひらくと、この昭和16年(1941)は柳田国男67歳。
雑誌掲載のそのあとになるかと思うのですが、
8月15日 兄井上通泰死去、同18日葬儀。
9月17日 井上龍子(通泰妻)、川村桃枝(井上長女)死去。
というのが年譜をひらくとありました。

それはそうと、『 涕泣史談 』をあらためてひらく。
そのはじまりの方には、こんな箇所があります。

「・・旅行をしているとよく気がつく。旅は一人になって心淋しく、
 始終他人の言動に注意することが多いからであろう。
 私は青年の頃から旅行を始めたので、この頃どうやら
 五十年来の変遷を、人に説いてもよい資格ができた。

 大よそ何が気になるといっても、あたりで人が泣いている
 のを聴くほど、いやなものは他にはない。一つには何で
 泣いているのかという見当が、付かぬ場合が多いからだろうと思うが、
 旅では夜半などはとても睡ることができないものであった。

 それが近年はめっきりと聴えなくなったのである。
 大人の泣かなくなったのはもちろん、
 子供も泣く回数がだんだんと少なくなって行くようである。

 以前は泣虫といって、ちょとした事でもすぐ泣く児が、
 事実いくらもあったのであるが・・・
 長泣きといって、泣き出したらなかなか止めない子供もあった。・・」


 「・・泣き声の身にこたえるのは、若い盛りよりも年を取ってからが
  ひどいのである。私の親などはなぜ泣かすと周囲の者を叱り、
  またはごめんごめんなどと孫にあやまっていた。
  気が弱くなって聴いていられないらしいのである。

  一般にまた感情の細かく敏活な文明人ほど、
  泣くのを聴き過すことができなくなるものかと思う。 」

こうして、現代と元禄時代との常識のちがいを例を出して引用しております。

「 つい最近にも、雑誌の『婦人之友』だったかで、
  子供を泣かさぬようにするのが、育児法の理想である
  というようなことを、論じていた婦人があって、
  私も至極もっともなことだと思ったことがあったが・・・」

このあとに、津村淙庵の『譚海』からの引用をしております。

「    小児の泣くといふこと、制せずに泣かすがよし。
     その児成長して後、物いひ伸びらかになるものなり・・  」


ここから、柳田国男の史談が展開されてゆくのですが、
私はここまでで、とりあえずは満足。
ちなみに、史談の展開のスタートラインは、ここらでしょうか。

「表現は必ず言語によるということ、これは明らかに事実とは反している。」


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質的な『思いつき』をとても大切に

2022-05-14 | 柳田国男を読む
安野光雅対談「ロジックの詩人たち」(平凡社・1982年)
を古本で手にする。うん。手にしてよかった。
15人の対談相手に、一人一人の人物を語りあっております。
といっても、私が読んだのは、2つの対談。
伏見康治氏との対談の題は『寺田寅彦』
吉田直哉氏との対談の題は『柳田国男』
はい。これだけで私は満腹。
腹ごなしにこの対談を紹介。

うん。まずは吉田直哉氏との対談からいきましょう。
その最後の箇所でした。

安野】 私はね、柳田国男の世界は、ジグソーパズルだと思う
    ことがあるんです。柳田国男はジグソーパズルの破片を見て、
    これは森の部分、これは空の部分と
    非常に直感的に看破する天分をもっている。
    ・・・・・・

   その破片が森なのかどうか、実際にはめてみないと
   わからないところがありますね。
   自分ではある程度の集合を作っておいて、あとは
   宿題だよって柳田国男から問題をだされた感じがする。

吉田】 柳田国男という人は『偉大なる問いかけ』をばらまいた人
    だったと思います。そして、こっちが答を出すと、さらに
    上回った問いかけがまた置かれている。

   『あれ、いけねえ』、と思うような問いかけがまた置いてある。
    こんな偉大でいやな人はいないと思いますね。まさに
   『良い問いは答よりも重要だ』という言葉どおりです。

安野】 柳田国男を評して『偉大なる未完成』といった人がいるけれども、
    やる気がある人間から見れば、『偉大なる問いかけ』なんですね。

                     ( p76~77 )


う~ん。「やる気がある人間」じゃないと見えてこないことがある。
と、私なりに自己診断するばかり。

うん。つぎに伏見康治氏との対談なのですが、
引用したいことがありすぎるときは、削って、
まあ、意味不明瞭でもすこしだけ引用します。


伏見】私が大学で寺田(寅彦)教授の講義を聞いたころ、
   東京大学新聞に、菅井準一という科学評論家が
   寺田物理学を批判した文章がのったんです。それは、
   
   『寺田物理学は小屋掛け学問である』というしんらつな批判だった。
   つまり、ちゃんとした建築ではない、要するに小屋掛けにすぎないと。

   着想はおもしろいけれど、着想だけに終わっていて、
   少しも深く掘り下げていないということなんです。

安野】 私は寅彦ほどの着想なら着想だけでもいいと思いますね。
    ・・・・・・・・

伏見】 そうでしょ。寺田物理学というのは日本の生んだ
    一つの大きな『動き』だと思うんです。

    科学についての彼の考え方は、精密な数値的な決定より先に、
    自然界の現象が現象として『在る』ということを確立する
    ことであるということなんです。だから

    『在る』ということを確立するために必要な、
     質的な『思いつき』をとても大切にしたわけです。

                    ( p43 )


はい。これは対談の破片なのですが、
横着にもこれだけでよしと終ります。
対談『ロジックの詩人たち』はよい、
なんてまだ2人の対談しか読んでない。

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随筆と俳諧。

2022-05-10 | 柳田国男を読む
本の読み齧りで、1ページ読んではポンとつぎの本へ。
そんな読み方は、私の日常茶飯事。

さて本題。随筆といえば、思い浮かぶのは徒然草。
寺田寅彦と随筆といえば、岩波文庫「寺田寅彦随筆集 第一巻」の
後記に小宮豊隆氏が記しておりました。

「 寅彦の書くものが『枕草子』や『徒然草』の伝統を承け、
  俳諧の精神を続いで、日本の随筆文学の中でユニイクな
  位置を占めるものである事は、周知の事実である。・・ 」
                  ( p303~304 )

はい。谷沢永一の対談集の山野博史氏との対談に
「随筆ほれぼれする・・この人この一作」と題する箇所があり、
その中に、柳田国男著「木綿以前の事」が紹介されております。
そうです、「木綿以前の事」は日本の伝統の随筆として読むのが
ごく自然な読み方なのだと、あらためて教えられた気になります。
ということで、対談のこの箇所を引用しておきます。

谷沢】 ちょっと時代をさかのぼりますが、大正の終わりごろから
   随筆体で、しかもちゃんと学問的値打ちのあるものを書く
   という二大巨匠があらわれる。これが柳田国男と折口信夫です。

山野】 ・・・・柳田国男は同時代人からさんざん言われて、
   いままた批判する人からも好き勝手なことを言われているんだけど、
   そんなことに動じない、肚(はら)が太くて利かん気なところが
   ないと、悠然たる随筆なぞ、書き続けられるもんじゃない。
   自分の書いているものは、読む人が読めば、
   絶対よろこんでくれるという確信です。

谷沢】 そうですね。私が笑い出したのは、
    新潮社が戦前に出した『日本文学大辞典』。
    全三巻の、分厚いものでしたが、東大を中心とする
    国文学界が全力をあげて書いた。みんな、それはもう
    謹直に書いている。ところが、柳田さんは随筆体で書くわけです。

    その項目だけは漢字が少ない。世間はどうか知らんけど、
    私はこの流儀でいきますというのが出ている。

    ・・・一つの頂点は、昭和13年に創元選書に入った
   『木綿以前の事』です。これは近世期に日本人の庶民の
   生活がどのように変わってきたかを全部類推で書いたもので、
   ほんの小さな、わずかな材料を上手に転がして、
   自分の想像力をふくらましていく。

   とくに茶碗の話は印象的でした。瀬戸物の茶碗が初めて
   普通の家庭に浸透し始めた。それまではみんな、
   汚れの落ちない木の茶碗で飯を食っておった。そこへ、
   前歯に当たるとかすかにかちりと響く、光るお茶碗が入ってきた。
   それで御飯を食べ始めたときの、その家庭の幸福と、こうくるわけです

   ほんまにそうやったかどうかいうことは知らんけども、
   そういうふうに人びとの生活の尊さに思いをはせる気持ちが、
   生涯みなぎっている。そういうことが大事なんだと、
   この人は信じて疑わなかった。

   われわれの日常生活のささいなことをじーっと見て、
   しかも決して陰気なことは書かない。
   
   木の茶碗から瀬戸物の茶碗へ移るという上向きの、
   陰気から陽気へいく一つの右上がりの線を描く。

   この人のそういう気持ちがわかると、読んでいて

   『 本当にありがとうございます。
     よくそういうことをお考えいただきました 』

   と言うて、お礼にいきたいような気持ちになります。


山野】 ほんとに人間が好きでたまらなかった。
    この人は自分のなかに持っているものを出し惜しみしませんね。


 ( P255~257 「人生を励ます100冊・谷沢永一対談集」潮出版社 )
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国の文芸を楽しくした。

2022-04-26 | 柳田国男を読む
うん。『菊池寛の救命ボート』の話をしたかった。けれど、
ここはまず、柳田国男の『女性と俳諧』のはじまりを引用。

「こなひだから気を付けて見て居ますが、もとは女の俳人といふ
 ものは、絶無に近かったやうですね。

 芭蕉翁の最も大きな功績といってもよいのは、
 知らぬうちに俳諧の定義を一変して、幅をひろげ、
 方向と目標を新たにし、従ってその意義を深いもの
 にしたことに在ると思ひますが、そうなって始めて

 多くのやさしい美しい人たちが、俳諧の花園に
 遊ぶことが出来たのです。国の文芸を楽しくした、
 この親切な案内人に対して、まづ御礼をいふべきは
 無骨なる我々どもだったのです。・・・・     」

芭蕉では、いまひとつわからない。
それでは、菊池寛ならどうなのか?

『菊池寛の救命ボート』ということで3冊。

①長谷川町子著『サザエさんのうちあけ話』(姉妹社)
②長谷川洋子著『サザエさんの東京物語』(朝日出版社)
③石井桃子談話集『子どもに歯ごたえのある本を』(河出書房新社)

①には、東京へ出て来て転覆寸前の「長谷川丸」へと
    救命ボートを漕ぐ菊池寛の姿が小さく描かれておりました。

「・・思いがけない方角から、突如、救命ボートが現れたのです。
 知人の紹介で絵を見て下さった菊池寛先生が、
 『ボクのさし絵を描かしてあげよう』つるの一声です。
 『女性の戦い』という連載小説です。・・・
 キモをつぶした姉は40度からの熱を出し、
 ウンウンうなりながら仕事に取りくみました。・・・」

はい。①と②と、菊池寛の箇所を拾い出すと面白いのですが、
どんどん長くなるので、ここまでにして、③へといくことに。

③は、インタビューに答える石井桃子さんでした。

川本】 ご卒業が昭和3年で、文春に入られたのはどういうきっかけで?

石井】 ・・菊池先生に『仕事ください』って言うと
   『こういう仕事したらどうだ?』なんてくだすった時代ですから、
   いつから社員になったということをはっきりと覚えていないんです。
   アルバイトでお手伝いしてたんです。
   学校の先生をするのが嫌なもんだから。そしたら、
   『丸善にいろんな本があるだろ?
    通俗小説でいいから読んであらすじを書いてくるように』
   なんて、そういう仕事をいただいていたんです。・・・・

   菊池先生が、仕事をくださる機会が減るようになると、
   『社へ来て校正を手伝ったらどうだ?』と言ってくださいまして、
   なんとはなしにお手伝いみたいなことをするようになりました。 
   男の人も女の人も。
   そのころ、文芸春秋社には、
   本当に妙な人が『勤めているかのごとく』来ていまして、
   月給なしで働いているなかには蘆原英了さんなどもいました。
   あの人は慶応の学生で、毎日文芸春秋へ来て
   校正でも何でもやってるんです。( p231~232 )

もどって、①の「うちあけ話」に洋子さんが勤める箇所が、
ひらがなと漢字のかわりに絵が描かれた文にありました。

『いまどこにいってるの?』と、菊池寛
『ハ、東京女子大でござい』と、まり子姉の顔絵
『やめさせなさい ボクが育ててあげる』
妹はすぐ退学して、ご近所の先生宅にかよいだしました。
名もない女学生のために、西鶴諸国ばなしの講義をして下さるのです。
 ・・・・・・

このあとに、姉達が、洋子に質問する箇所が印象的でした。

『ネエ どんな先生?』
『どんなお話?』と、
根ほり葉ほりききますと、
かまわない方で、オビを引きずりながら出てこられる。
時には、二つもトケイをはめていられる。

汗かきでアセモをポリポリかかれる。
胸もとがはだけると、厚い札束が、かおを出していた。
ポツリポツリ話をしてくれたのはこれだけ。・・


この「札束」の場面は、石井桃子さんも語っておりました。

石井】 お給料はね・・・とてもキテレツな理屈なんですけど、
   「石井さんは困らない家だから」って、私は安いんですよ(笑)

  「困る」人にはたくさん「払って」いたんじゃないでしょうか。
  月給というのが決まっているようでいながら、
  少しお金が足りないと言われると、
  菊池先生が袂(たもと)から出して永井さんたちに
  あげてた時代ですからね(笑)
  経理とは言えなかったんじゃないですか。
  菊池先生のアイディアのおかげで雑誌が売れて、
  お金がどんどん入ってきたんですね。

川本】 最初はどんぶり勘定だったんですね。

石井】 ええ、ほんとに。で、私たちは記事を書いていただいた人に
    お金を払わなくちゃならないでしょう?それだのに、
    経理の人がちっとも出してくれないんですね。・・・・・
                 (p236)

うん。長くなりますが、さいごに、
『クマのプーさん』と石井桃子さんを引用。

川本】 犬養家のクリスマスパーティのときに出会ったと・・・

石井】 私は、犬養健さんのところにもよく文藝春秋で
    原稿をいただきに通ったんですね。それで、
    健さんよりも家族と仲よくなってしまって。
    道子さんなんかは、まだ子どもでした。そのプーの本は、
    クリスマスに西園寺公一さんが、道子さんの弟・・犬養康彦さん
    にクリスマスプレゼントに贈ったものだったんです。

    ちょうど、私がよばれていったクリスマスに、その本が
    クリスマスツリーのところに立てかけてあったんです。
    そのときに『読んで!』と言われて、そのとき初めて
    プーにめぐり会ったんですね。そのときは・・・・

    『クマのプーさん』のことも何も知らなかったんですけど、
    二人に読んで聞かせたら二人が喜んで転げ回ったんです。
    あまり面白いから『貸してちょうだい』といって、
    その晩私は借りてきて家で読んできて、一つひとつの
    お話を道子さんに話したわけなんです。
    それを原稿にまとめたら、友人で肺病で寝ている人が
    その原稿を読んで、ぜひ本にしなさいと言って・・・・(p238)


はい。菊池寛の救命ボートに乗ったのはひとりじゃなかった。
さいごにまた『女性と俳諧』の箇所を繰り返して置くことに。

『 多くのやさしい美しい人たちが、 
  俳諧の花園に遊ぶことが出来たのです。
  国の文芸を楽しくした、この親切な案内人に対して、
  まづ御礼をいふべきは無骨なる我々どもだったのです。』


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自分にとっての喜びなんだ。

2022-04-23 | 柳田国男を読む
柳田国男『故郷七十年』に、ご自身の13~14歳の頃が語られておりました。

うん。気になったので、さっそく古本で注文した新書が届く。
藤原和博『僕たちは14歳までに何を学んだか』(SB新書・2019年)。

その『はじめに』から引用。

「・・・・よく現場を知らない教育評論家が、
 学校をもっと自由にクリエイティブにとか、
 創造性教育をやらない学校はいらないなどと 
 高邁な理想論を鼓舞することがある。

 しかし・・・・
 アインシュタインは言葉の発達が遅く家政婦から
 おバカさん扱いされることもあったというし、

 エジソンは今でいう不登校だった。
 ビル・ゲイツもよく知られているように
 アスペルガー症候群(自閉スペクトラム症)で
 人付き合いが下手だったと聞く。

 オリンピックで活躍するフィギュアスケートの
 羽生結弦くんも体操の内村航平くんも、 
 将棋の藤井聡太くんも卓球の張本智和くんも、
 学校がその特色を育てたわけではないだろう。

 才能を突出させるキッカケはいつも家庭環境だったり、
 ストリートだったりで、のちに少年たちが夢中になって
 自覚的に突っ込んでいったときに邪魔しないのが一番なのだ。
 ・・・・・          」( p9~10 )

この『邪魔しないのが』が気になり『あとがきにかえて』
の方をパラりとめくると。この新書の4人へのインタビューを
ふりかえって、藤原さんはこう書いておりました。

「もう一つの特筆すべき共通点は、
 『根拠のない自信』を持っていることだ。・・・・

 それが母親でなくともいいのだが、 誰かに無条件に愛された経験は、
 わからない世界に向かっていく『根拠のない自信』の基盤になってい
 るような気がしてならない。・・・・

 子どもが何かに没入し、集中して向かっていくときに邪魔しないこと。
 できたら、その突進を応援してあげること。・・・・

 キミの存在そのものが自分にとっての喜びなんだ。
 生きて、世の中の常識と戦ってあがいてくれているだけでいい。
 そんなふうにドーンと構えていること。・・・  」( p195~196 )

この『根拠のない自信』というキーワードが気になる。
それを普段の生活のどこで養うのか?
思い浮かんだのは俳諧のことでした。

「 たとえば俳諧の主題としては、
  俗事俗情に重きを置くことが、
  初期以来の暗黙の約束であるが、
  これがかなり忠実に守られていたお蔭に、
  単なる民衆生活の描写としても、
  彼(芭蕉)の文芸はなお我々を感謝せしめるのである。」
      ( p203 「新編柳田国男集第九巻」 )

不安の増殖をはぐくむ記事には事欠かないご時世に、
『我々を感謝せしめる』ほどの自信の創造の現場が、
どうやら、芭蕉俳諧のなかに探せそうな気がします。

はい。ちなみにこの新書の、本文は読んでいません。

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芭蕉俳諧に、司馬さんの書庫。

2022-04-21 | 柳田国男を読む
柳田国男の「生活の俳諧」。そこに
芭蕉一門の俳諧へと言及する箇所が印象深い。

「 豊富な資料は我々のために取残されている。
  この翁一門の俳諧に感謝しなければならぬことは、

  第一には古文学の模倣を事としなかったこと、
  ロマンチックの古臭い型を棄て、同時に
  談林風なる空想の奔放を抑制したことである。

  そうしてなお凡人大衆の生活を俳諧とする、
  古くからの言い伝えに忠実であったことである。

  それから最後には描写の技術の大いなる琢磨、
  ことに巧妙という以上の写実の親切である。

  彼の節度に服した連衆の敏感を利用したとは言いながらも、
  とにかくに時代の姿をこれほどにも精確に、
  後世に伝え得た者も少ない。

  西鶴や其磧(きせき)や近松の世話物などは、
  共に世相を写し絵として、くりかえし引用せられているが、
  言葉の多い割には題材の範囲が狭い。

  これと比べると俳諧が見て伝えたものは、
  あらゆる階級の小事件の、
  劇にも小説にもならぬものを包容している。
  そうしてこういう生活もあるということを、
  同情者の前に展開しようとする、作者気質には
  双方やや似通うた点があるのである。・・・・」
        ( p213~214 「新編柳田國男集」第九巻 )

そういう芭蕉俳諧の説明を理解しようとせずに、
なあに、かまうことはない、現代へと飛躍して、
ここに、司馬遼太郎の書庫を思いうかべてみる。

谷沢永一氏に「司馬さんの書庫・蔵書を探検する」という文。
そこに指摘されている書庫への谷沢さんの眼差しが気になる。
まずはここいらあたりから引用。

「 戦後の百科事典はすべて偏向している上に、
  事実を明細に押さえた記述に乏しいから頼れないと、
  つねづね洩らしておられて由・・・」

こうして、谷沢さんは地方誌へと言及してゆくのでした。

「 書庫を通覧したあとようやく悟ったのだが、この廊下の
  両面を占める壮観が、司馬蔵書の眼目であり臍であった。
  すなわち日本全国すべてにわたる地方誌の一大蒐集である。

  長澤規矩也の『図書学辞典』は地方誌を
  『全国的な通誌に対して一地方の地誌』、そして、
  地誌を『人文地理の書』と簡潔に説明している。
  ・・・・・

  地方誌の模範は幸田成友を編纂主任とする
  『大阪市史』(大正2~4年)であるとされているが、
  これ以後というもの堰を切ったように、各府県市町村が
  競争で地方誌の刊行に血道をあげるようになった。
  ・・・・・・

  このように地方誌と地方叢書が一体となって、
  歴史と文化の事績が明細に伝えられるようになったのは、
  近代期の熱意が結晶した修史の一大成果と言えよう。

  これが日本民族の足跡を如実に伝える宝庫であると眼をつけ、
  縦横に活用した恐らく最高の実例が司馬さんの諸作品なのである。」
      ( p23~24 谷沢永一著「読書人の点燈」潮出版社 )

はい。
芭蕉の時代の俳諧のつぎに、
司馬遼太郎の時代の書庫の、
地方誌の宝庫を置いてみる。

べつに、かまうことはなく
俳諧のように、楽しみます。

ひとりは、芭蕉で
『 そうしてなお凡人大衆の生活を俳諧とする、
  古くからの言い伝えに忠実であったことである 』

つぎには、司馬遼太郎の書庫。
『 これが日本民族の足跡を如実に伝える
  宝庫であると眼をつけ、縦横に活用した・・ 』

うん。こうして芭蕉門人たちが俳諧をしている場面が、
いつのまにか、司馬さんの書庫に並ぶ地方誌の場面に。
はい。おそるおそる、連想の場面転換をひとり楽しむ。



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『中二病』と、柳田国男。

2022-04-20 | 柳田国男を読む
あれ。たしか、中学二年生について、
小田嶋隆さんの本にあった気がするのですが、
探せなくって、かわりにこんな箇所がありました。

「 記憶は、輪郭が薄れて、ほかの記憶とまぜこぜになった頃
  になってはじめて、利用可能なネタになる場合が多い。

  ということはつまり、若い頃の読書が収穫期を迎えるのは、
  40歳を過ぎて以降なわけで・・・・・

  読書の記憶は、20年の熟成期間を経て、まったく別の文脈の
  中によみがえる、よみがえるのは、必ずしも正確な記憶ではない。
  が、かまうことはない。記憶の混濁は、別の見方をすれば、
  オリジナリティーだからだ。  」
      (p132 「小田嶋隆のコラム道」(ミシマ社・2012年)


もう40年くらい前になるかなあ、小林秀雄の「信ずることと知ること」
という講演に基づく文を読んだことがあります。
その中で、柳田国男の「故郷七十年」が紹介されておりました。
はい。せっかくなのでその箇所を長めに引用してみます。

「この間、こちらへ来る前に柳田国男さんの『故郷七十年』といふ
 本を読みました。前から聞いてゐたのですが、まだ読んでゐなかった。
 この『故郷七十年』といふ本は、この碩学が八十三の時の口述を筆記
 したもので、『神戸新聞』に連載された。昭和33年の事です。

 その中にかういふ話があった。柳田さんの十四の時の思ひ出が書いて
 あるのです。その頃、柳田さんは茨城県の布川といふ町の、長兄の
 松岡鼎さんの家にたった一人で預けられてゐた。その家の隣に小川と
 いふ旧家があって、非常に沢山の蔵書があったが、身体を悪くして学校
 にも行けずにゐた柳田さんは、毎日そこへ行って本ばかり読んでゐた。」

このあとに、旧家の庭の小さな祠の話となります。
その祠と柳田さんの体験をとりあげた小林秀雄さんは、

『私はそれを読んだ時、感動しました。
 柳田さんといふ人が分ったといふ風に感じました』

と、どうやら講演で語ったもののようです。
そのあと続く箇所では、こうあります。

「もっとも、自分には痛切な経験であったが、
 こんな出来事を語るのは、照れ臭かったに違ひない。
 だから、布川時代の思ひ出は、
 『馬鹿々々しいといふことさへかまはなければいくらでもある』
 と断って、この出来事を語ってゐる。
 かういふ言ひ方には、馬鹿々々しいからと言って、
 嘘だと言って片付けられない、といふ含みがあります。

 自分は、子供の時に、ひときわ違った境遇に置かれてゐたのが
 いけなかったのであろう、幸ひにして、其後、実際生活の上で
 苦労をしなければならなくなったので、すっかり布川で経験した
 異常な心理から救はれる事が出来た、布川の二年間は危かった、
 と語っている。」

小林秀雄さんは、この「故郷七十年」をきっかけにして、
柳田国男の「山の人生」やら「遠野物語」、「妖怪談義」と、
結局のところ、この講演は、柳田国男の話が続いて終わります。

さてっと、布川時代の2年間は、柳田国男が13歳と14歳のときでした。
うん。今でいえば中学生の頃のことになります。
小林秀雄は、柳田国男を語るのに、その年齢の柳田国男を起点として
語り始めていたのでした。
だれでも経験する中学二年生なのですが、
柳田国男にとって、布川時代がどうやらそれにあたるようです。

う~ん。中学二年生のころの私はというと、
寝過ごしたように、ちっとも思い出せなく、
情けないやら、哀しいやら、味気ないやら。

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人生の笑いを清くする。

2022-04-19 | 柳田国男を読む
『清く』ということで、
柳田国男の「女性と俳諧」が思い浮かぶ。
この文の中に出てくるのでした。

「小さな素朴な何でもないやうな言葉でも、心の底から
 ほほゑましく、又をかしくもなることは幾らもあるのです。

 女がその群に加はるといふことは・・・・・
 人生の笑ひを清くする為にもしばしば必要でありました。
 ・・・・・・
 私の見やうが偏して居るかも知れませんが、
 俳諧に女性の参加することを可能にした、
 芭蕉翁の志は貴く、又仰ぐべきものかと思って居ります。」

うん。先を急ぎすぎました。
『女性と俳諧』のはじまりから引用してみます。

「こなひだから気を付けて見て居りますが、
 もとは女の俳人といふものは、絶無に近かったやうですね。

 芭蕉翁の最も大きな功績といってよいのは、
 知らぬうちに俳諧の定義を一変して、幅をひろげ、
 方向と目標を新たにし、従ってその意義を深いものに
 したことに在ると思ひます・・・・・

 いはゆる蕉風(せいふう)の初期に於ては、
 女性の俳諧の座に参加した者は、伊賀に一人、
 伊勢に一人、それから又大阪にも一人といふほどの、
 至って寥々たるものではありましたが、それすらも
 談林(だんりん)以前の文化社会では、殆と全く
 望まれないことでありました。

 理由は至って単純で、つまり俳諧は即ち滑稽であり、
 その滑稽は粗野な戦国時代を経過して、堕落し得る
 限り下品になり、あくどい聞きぐるしい悪ふざけが
 喝采せられ、それを程よいところに引留めることに、
 全力を傾けるやうな世の中だったからです。
 
 女がその仲間に加はろうとしなかったのは
 当り前ぢゃありませんか。            」

はい。はじまりのところが肝心かと思いますので
もうすこし引用におつきあいください。

「それが芭蕉の実作指導によって、天地はまだこの様にも
 広かったといふことを、教へられたのであります。

 連歌(れんが)の一座はいふにも及ばず、
 前の句の作者までが予測もしなかったやうな、
 新しい次の場面が突如として展開して来るのを見て、

 思はず破顔するといふ古風な境地に、やや軽い静かな
 笑ひを捜し求めることが勧誘せられました。

 是だったら女にも俳諧は可能である、といふよりも
 寧(むし)ろ慧敏なる家刀自(いえとじ)たちの、
 それは昔からの長処でありました。

 歴代の女歌人などは、簾や几帳を隔てた応酬を以て、
 よく顎鬚の痕の青い連中を閉口させて居たのです。

 清少和泉の既に名を成した領域に、未来の閨秀(けいしゅう)
 たちが追随し得ない道理は無かったのであります。」


うん。だいぶ引用をしちゃいました。
最後の、『清少和泉(せいせういづみ)の・・領域』といえば、
思いうかべるのは、古今和歌集の仮名序でした。
うん。最後も古今和歌集の仮名序から引用。

「 和歌(やまとうた)は、
  人の心を種として、万(よろづ)の言の葉とぞなれりける。
  ・・・・
  花に鳴く鶯、水に住むかはづの声を聞けば、
  生きとし生けるもの、いづれか歌をよまざりける。

  力をも入れずして天地(あめつち)を動かし、
  目に見えぬ鬼神をもあはれと思はせ、
  男(をとこ)女のなかをもやはらげ、
  猛き武士(もののふ)の心をもなぐさめるは、
  歌なり。                   」

そこでですが、柳田国男は、
芭蕉がどこまで成就したか、
それを正確に推し量ります。

「 翁の願ひはそれが成就するならば、
  俳諧がもっと楽しいものになるやうな願ひでありました。
  そうしてそれは十分に成就しなかったのであります。   」

「 芭蕉が企てて五十一歳までに、為し遂げずに終ったことを、
  ちっとも考へて見ようとせぬのは不当であります。
  俳諧を復興しようとするならば、先づ作者を楽しましめ、
  次には是を傍観する我々に、楽しい同情を抱かしめる
  やうにしなければなりません。・・・         」
 
          ( 柳田国男「病める俳人への手紙」から )


うん。どうやら、芭蕉の成就目標はというと、

「  力をも入れずして天地を動かし
   目に見える鬼神をもあはれと思はせ
   男女のなかをもやはらげ
   猛き武士の心をもなぐさむる    」

そんな芭蕉の俳諧だったのだとするならば、
一代では、とうてい成就は無理だったのだ
そう柳田国男は推し量っていたのでしょう。
この感触で、また柳田国男を読んでみます。



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柳田国男の曖昧模糊。

2022-04-18 | 柳田国男を読む
桑原武夫は、亡くなる5年ほどまえに、
『柳田さんと私』という講演をしておりました。
そのなかに

「柳田さんは83歳になって『故郷七十年』という
 一種の自叙伝を口述筆記でお書きになっております。
 
 ・・・柳田さんはそこで、自分の一生はいわば
 一つの大きな川の流れであるといっています。

 ・・・あの文章(故郷七十年)は曖昧模糊として
 ちっともわかりません。井上ひさしさんも柳田さんの
 文章は読みにくい、何が書いてあるのやらさっぱりわからない
 と書いている。井上さんはそれは、先生が俳諧を体得されて、
 それを自分の民俗学にたくさん使っていらっしゃるのが癖に
 なったからではないかという解釈をしておられます。・・・・・

 (柳田国男の文章を)読んでいると、
 私などはもう相当年のいった人間ですから、そこから
 自分の幼いときのことがいろいろ思い浮かびます。

 友だちのことをツレと言うとか、お茶の子さいさいとか、
 女の人が好きな男の人にお酒を差すことを思い差しというとか、
 ・・・・・
 そういう私どもが幼いときに使っていた言葉がつづってあって、
 そこから一つの世界が出てくるのですけれども、しかし、
 それではどういうことを相手に訴えようとなさっているのか、
 それが必ずしも全般的にはわからないところがあるのです。

 柳田国男における文体の研究を、ぜひどなたかに
 やっていただきたいと思うのです。・・・・」
   ( p14~16「日本文化の活性化」岩波書店・1988年 )

ちょっくら、引用が長くなりましたが、ここに
『 自分(柳田国男)の一生はいわば一つの大きな川の流れで・・ 』
とある。
そういえば、柳田国男の『故郷七十年』(朝日選書)のはじめの方に、
『布川時代』と題して利根川のことが出て来ておりました。

「私は13歳で茨城県布川(ふかわ)の長兄の許に身を寄せた。
 兄は忙しい人であり、親たちはまだ播州の田舎にいるという
 寂しい生活であったため、私はしきりに近所の人々とつき合って、
 土地の観察をしたのであった。布川は古い町で・・・」(p37)

その利根川について、一読忘れられない箇所があるので、
うん。この際、何度でも引用しておくことに。

「さて益子から南流する小貝川は泥沼から来るので、
 利根川に合流すると穢(きたな)くもあるし、臭くもなってしまう。

 ただ一つ鬼怒川だけは、実にきれいな水の流れであった。
 奥日光から来るその水は、利根川に合流しても濁らなかった。

 舟から見ても、ここは鬼怒川の落ち水だという部分が、
 実にくっきりと分かれていてよく判る。・・・・・・

 布佐の方ではあまり喧しくいわないのに、布川では、
 親の日とか先祖の日には、このきれいな鬼怒川の水をくみに行った。

 布川は古い町なので、一軒一軒小さな舟を持っていて・・・
 こういうものの日には小舟で行ってくんできて、
 その水でお茶をのむことにしていた。

 普段は我慢して、布川の方へ寄って流れている
 上州の水をのんでいるのである。
 上州の水が豊かに流れているその南側を
 小貝川の水が流れ、それを通り越して千葉県によった所に、
 鬼怒川の流れが、二間幅か三軒幅に流れているのであった。
 ・・・・・   」( p55~56 )

うん。『大きな川の流れ』から
『実にきれいな水の流れ』が思い浮かびました。

那珂太郎の「尾形仂と『歌仙の世界』」に
昭和20年のことが書かれております。

「 3月9日には東京に大空襲があり、死者七万をこえる
  惨状の詳細は伝えられていなかったが、予備学生出身で
  江田島にいた仲間の一人のところに、
  ≪ 家族ミナ爆死ス ≫という電報がとどいた。・・・

  その電報の受取人が他ならぬ尾形氏だったのだ。
  当時彼の御両親の家は東京の下谷区谷中三崎町にあったのだが、
  家もろとも文字通り家族全員が爆死されたのである。
  (  彼の第一著書『座の文学』扉裏には 
     『本書を空爆の犠牲になった両親の霊にささぐ』
     との献辞がしるされてゐた。  )

  その後彼の(私も同じ)赴任先の海軍兵学校は
  長崎県針尾から防府へ移るが、そこで彼の属していた
  生徒館は米軍の焼夷弾攻撃のために焼亡してしまふ。・・・
  焼跡から軍刀を下げて一人歩いてくる尾形氏の姿が、
  今なお私の脳裡には焼きついてゐる。
  ・・・・・・・・・・

  ・・・尾形氏の経歴をしるしたのはこの温厚篤実な学者が、
  弱年期の戦中から少からぬ悲運や労苦をかさね、決して
  坦々たる平穏無事な学究の道を歩いたのではないことに、
  大方の注意を促したかったからに他ならない。

  尾形氏の学識の広さと、緻密で隙のない研究態度は
  よく知られてゐるが、俳諧といふ専門領域ばかりではない、
  よりひろやかな文学の世界に関心を保持し、つねにその
  人生的意味を問ひつづける彼の志向の根柢には、右に見たやうな
  尾形氏自身の経験的素地があったのだといはなければならない。」

     ( p277~278 尾形仂著「歌仙の世界」講談社学術文庫 )


うん。『大きな川の流れ』と『実にきれいな水の流れ』。
那珂太郎さんのこの解説を読んだあとでした。
その流れのことを、思い浮かべておりました。




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芭蕉の命名。柳田国男の題名。

2022-04-09 | 柳田国男を読む
岩波文庫の柳田国男。
「遠野物語・山の人生」の最後には、
桑原武夫氏の文が2つ。
「『遠野物語』から」(「文学界」1937年7月号)からの再録と、
それからそのあとに、桑原武夫による文庫解説(1976年3月)。

はい。何だか、本文が絵画だとすると、
桑原武夫の2つが、りっぱな額縁に見えてきます。

さてっと、それなら岩波文庫の『木綿以前の事』は
どなたが、解説を書いているかというと益田勝実氏。
うん。この益田氏の解説を、改めて読めてよかった。
まるで、この本のねらいを柳田国男の晩年までをも視野に置き、
人生の全体を、掬い取ってゆくそんな胸のすくような解説です。

ここでは、題名の『木綿以前の事』にかかわる箇所だけを引用。
うん。これだけでいたれりつくせりの内容。私はもう満腹です。

「・・・考えてみると、いまはもう化繊・混紡の時代で、
 木綿の時代でもなくなっている。一時代かわったのだ。

 木綿の時代からは前代であった麻の時代が、
 いまからは前々代ということになる。


 そのこととかかわってくるが、≪ 木綿以前 ≫といえば
 麻のことのはずなのに、『木綿以前の事』は、
 麻の着物のことを書いたものではない。書いてあるのは、

  はんなりと細工(さいく)に染まる紅(べに)うこん 桃隣

 という、上方特有のことば『はんなりと』をうまく生かした句に
 託された、木綿への心情を堀り起こすところからはじまる、
 麻から木綿への過渡期における木綿を求めるこころのことである。

 ≪ 木綿以前 ≫という、麻でもなく木綿でもない言い方を登用し、
 ≪ 木綿以前の時代 ≫などとせず、『木綿以前の事』というのは、

 歴史を動かすものがなにか、木綿へおもむく人びとの心のなかで
 作り出されていく新しい営みが、しだいに波及することを、
 つかみとりたかったからだろう。

 柳田国男の民俗学では、≪ 木綿以前の事 ≫という用語・命名があり、
 麻の時代でなく、木綿の時代でもなく、その過渡期を相手どる
 ということが、ごくあたりまえに感じられるが、

 今日の民俗学一般の研究のあり方からすれば、
 それは異例、特異の現象である。

 日本民俗学は柳田国男がきりひらいた。
 しかし、今日の日本民俗学の一般状況を基準にしていえば、
  『木綿以前の事』は、
 さまざまな点で民俗学になじまない(法曹界の言い方を借りていうと)、
 そういうことになりそうである。   」( p298~299 )


はい。これを引用すると思い浮かぶのは、
柴田宵曲さんの芭蕉に関する文でした。

「芭蕉は自ら俳諧撰集を企てたことは無かったが、
 俳書といふものに就ては或意見を持ってゐた。

 例へば俳書の名の如きも。
 『和歌、詩文、史録、物語等とちがひ俳言有べし』
 といふので、『虚栗』以下、芭蕉の名づけたものは
 皆さういふ特色を具へてゐる。・・・・」
            ( p57「柴田宵曲文集」第一巻 )


う~ん。益田氏の解説をさらに引用したくなりました。
この単行本(文庫)のことを語ります。

「『木綿以前の事』に関していうと、
 「木綿以前の事」から「生活の俳諧」までの諸章のいたるところで、
 『芭蕉七部集』が縦横に使われて、俳諧だけが教えてくれる近世の
 常民のたたずまい、心づかいの動き方を追っているのも、
〈 あまりに詩人的な 〉ことと受けとった民俗学徒があったかもしれない。
  ・・・・・・・・

 他の伝承資料ではつきとめえない、前代の人びとの心のふるまいが
 わかる、かけがえのない前代への通路という民俗学的な接近が中心で、
 単なる好みからの俳諧との交わりではない。・・・・・・

 そのへんも、民族の暮らしのなかの心づかいを、
 歴史を動かしていくいちばん大きな力、と見ている柳田と、

 眼に見えず、探りようのない心づかいは、
 なんとも相手どりにくいと考えている側との、
 〈 民俗 〉というものに対する了解のちがいが、
 眼につくことがある。・・・   」( p394 )


うん。ということで、柳田国男著『木綿以前の事』をよみながら、
芭蕉の『俳諧』をも、同時に読みすすめないといけなさそうです。
そうでないと、いきなり題名でつまづいてしまうかもしれません。



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自分の思いつきのもとになる。

2022-04-06 | 柳田国男を読む
谷沢永一著「いつ、何を読むか」のなかに

『 俳諧表現の陰影(ニュアンス)を解き明かすのに・・ 』

ということで、指摘された言葉が印象に残ります。

『 句から句への移りに込められた連想の感得力 』(p222)

そこから、私に思い浮かぶのは、
鶴見俊輔著「文章心得帖」(潮出版社。ちくま学芸文庫)でした。
ここに、

『 一つの文と文との間をどういうふうにして飛ぶか・・・
  この文間文法の技巧は、ぜひおぼえてほしい。     』

『 一つの文と文との間は、気にすればいくらでも文章を
  押し込めるものなのです。だから、Aという文章とB
  という文章の間に、いくつも文章を押し込めていくと、
  書けなくなってしまう。とまってしまって、完結できなくなる。
  そこで一挙に飛ばなくてはならない。・・・』(単行本p46)


うん。この鶴見さんの文は以前に読み気になっていました。
でも、『この文間文法の技法は、ぜひ覚えてほしい』と
いわれましても、さてどうすればと思っておりました。

それが、俳諧のなかにヒントがありそうな気がしてきました。
はい。『 句から句への移りに込められた連想の感得力 』。
こちらからなら、俳諧から『文間文法の技法』が学べるかも。

鶴見俊輔氏は『文章心得帖』のはじめのほうに
『 自分にはずみをつけてよく考えさせる文章を・・・ 』
という指摘をされております。
うん。こちらも肝心なことなので、丁寧に引用しておきます。

『 文章が自分の考え方をつくる。自分の考えを可能にする。
  だから、自分にはずみをつけてよく考えさせる文章を書く
  とすれば、それがいい文章です。

  自分の文章は、自分の思いつきを可能にする。
  それは自分の文章でなくても、人の書いた文章でも、
  それを読んでいると思いつき、はずみがついてくる
  というのはいい文章でしょう。

  自分の思いつきのもとになる、
  それが文章の役割だと思います。     』(p26)


はい。このテーマは興味深くって、
井上ひさし著「自家製文章読本」(新潮文庫)には、
わざわざ、『文間の問題』という章を、こしらえて、
鶴見俊輔氏の『文章心得帖』からの引用をしながら、
柳田国男の『遠野物語』からの引用をまじえながら、
文章にはずみがついてくる『自分の思いつきのもと』
が味わえるようになっております。


はい。このような視点から柳田国男の俳諧評釈を
読んでゆけば、私にも楽しめる気がしてきました。



 
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今年は、俳諧記念日。

2022-04-05 | 柳田国男を読む
及び腰で、象の鼻をさすっていた。いままで
そんな感じで、俳句を読んでいた気がします。

ところで、柳田国男の『生活の俳諧』に、
『七部集は私がことに愛読しているので・・』とある。

ちなみに、『生活と俳諧』は昭和12年12月第一高等学校講演とある。
そうして、『生活と俳諧』が入っている単行本『木綿以前の事』の
自序には、『七部集は三十何年来の私の愛読書であります。』とある。
この自序、昭和14年4月と日付があります。
年譜では、昭和14 (1939 )年は、柳田国男65歳。

『三十何年』というのが、かりに35年とするなら、
柳田国男が、30歳頃からの、愛読書に芭蕉七部集があった。
ということになる。

うん。こういうことに私は興味を持ちます。
『生活の俳諧』のなかに

「もう一つ考えてみるべき点は、
 この俳諧というものの入用な時勢、境涯年齢のあることである。
 諸君も多分年を取るにつれて、この説に同感せられることが
 多くなって来るだろう。」(新編第9巻・p209)

はい。このブログを読む方は詰らないかもしれないけれど、
わたしには、この箇所がおもしろい。
いったい『時勢、境涯年齢』ってなんだい?

辞書をひけば『境涯』は、
「人がこの世に生きていくうえで置かれている・・境遇。身の上。」

う~ん。何だか承認しかねるのだけれども、この一高生への講演で、
『諸君も多分年を取るにつれ・・同感せられることが・・』が
気になるじゃありませんか。

谷沢永一著「いつ、何を読むか」(KKロングセラーズ)は、
各年齢で読む本が並んでいるのですが、その70歳の箇所に、
安東次男著「定本狂風始末芭蕉連句評釈」がありました。
この本のあとがきで、谷沢さんは痛快に指摘しています。

「私は他人(ひと)から勧められて、言われるままにほいほいと
 本を読みにかかった経験がない。他人に指図されるのを好まない
 我侭(わがまま)者である。

 或る書物と自分との出会いは、
 私の身の上にだけ起こる事件である。
 一冊の本を誰もが同じ気持ちで読むことはできない。・・」(p239)

それますが、その前のページで、谷沢さんは書いてます。

「私は生まれてから77歳の今まで、勉強という姿勢をとったことがない。
 しようと思ってもできないのである。・・・・
 
 もし私にも私なりの読書法があるとすれば、
 それは、劣等生の読書法である。劣等生には
 自分の生き方を世間の人様に向かって説く資格がない。
 ・・・・・

 また、年齢別に整えた各章のはじめに、15歳なら15歳前後の
 若い人たちに、なぜ以下の書物を勧めるのか、その理由を
 簡単に記してはどうか、という(編集者の)御提案もあった。

 けれどもこれまた私は辞退した。
 説明する手立てが見出せないゆえである。」(p238)

この谷沢永一氏が、この本で指摘している箇所に

「俳諧の評釈として読むに足るのは、
 柳田国男『俳諧評釈』(昭和22年、のち全集17)・・」

をはじめに、以下に数冊の題名を列挙しております(p223)。

柳田国男の『俳諧評釈』。その内容細目をみると、
戦後すぐの昭和21年より、芭蕉俳諧鑑賞と題して、
本格的に俳諧評釈とむきあっているようです。

ちなみに、昭和21年は、柳田国男72歳。
さいごに、柳田国男の『俳諧評釈』。そのはしがきから引用。

「俳諧が第二芸術であるかどうかといふことは、
 すこぶる面白い問題のやうに考へられるが、
 是を作者自身に問ひただして見ても、
 芸術といふ語さへ無かった時代の人なのだから、
 答へが得られないことは先づ確かである。

 ただあの人たちはちゃんと心得て居て、
 今の人に忘れられさうになって居ることは、
 
 俳諧は作者に最も楽しいもの、
 読者はせいぜいそれと同じ楽しさを味はふのが先途で、
 それも人が変り世の中が推し移れば、次第にわからぬ
 ことの多くなるものだといふことである。・・・」

 このはしがきには、昭和22年春と日付がありました。

さあ、今年は私の俳諧記念日。
俳句だけだった世界から、あたらしく拓けますように。
俳句が象の鼻の先ならその次へたどる俳諧のたのしみ。

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震災後。終戦後。著作と年代。

2022-04-04 | 柳田国男を読む
はい。『定本柳田国男集』をひらくと、各巻の巻末には、
内容細目として、雑誌などに掲載された年月が記してあります。

定本柳田国男集の第14巻は、『木綿以前の事』からはじまります。
あとがきに、単行本『木綿以前の事』が昭和14年5月創元社刊行とある。
内容細目には、単行本に収まる各文章の題名と掲載年月が記されている。

それを見れば『木綿以前の事』は、大正13年10月に雑誌掲載されている。
同じ本の中の、『生活の俳諧』は、昭和12年12月の、第一高等学校講演。

そうか。『木綿以前の事』は、関東大震災の一年後に雑誌「女性」掲載。
それで、ひとつ気になるのは、終戦直後に出版された単行本は何だった?

『笑の本願』が、昭和21年1月養徳社から発行。
『先祖の話』が、昭和21年4月筑摩書房から。

『不幸なる芸術』は、昭和28年6月筑摩書房から。
昨日とりあげた、『涕泣史談』は、単行本『不幸なる芸術』に
おさめられていたのですが、内容細目を見ると『涕泣史談』は
昭和16年6月の国民学術協会公開講座で発表されておりました。

はい。ついつい、私などは現代の事として読んでしまがちですが、
それが発表された際の、時代背景までは気にかけずにおりました。
こうして気になるのは、ひとえに年を取ったお蔭かもしれません。
いたずらに年齢を重ねる癖して、けれども見えてくるものがある。

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ともかくも五十年を単位として

2022-04-03 | 柳田国男を読む
柳田国男の『涕泣史談』は、泣くことがテーマのお話です。
そのはじまりは

「いささか気まぐれな演題を掲げたが・・・・
 今まで諸君の考えられなかった問題の中から択び出し、
 印象を深めたいのが底意である。
 歴史の学問は、常に『時のある長さ』を出発点とする。
 ・・・」(新編第8巻 p104)

私が気になったのは年齢のことでした。
それに近い箇所を並べてみます。

「古人はこの『時の長さ』の単位を普通には
    百年とし、モモトセの後と語っていた。」(p106)

「・・・ともかくも五十年を単位として、その前と後とを
  比べるということになると、話がずっとしやすくなる。

 何より都合のよいことは、前の事を知っている者、
 直接自身で見聞しているいわゆる故老の数が相当多く、
 いい加減な自説に有利なことを言おうとしても、
 周囲にそんなことはないと批評する者がいくらもいる
 ということである。また怪しい節があれば
 別の人に聴いて確かめることもできる。
 すなわち我々は安心して、故老の知識を
 利用することができるのである。
 
 ところが現在はむしろそういう便宜が多いために、
 かえってこれを粗末にするという状態である。・・・」(~p107)

日本の田舎のオールドマンへの言及や、

「日本の田舎には、そういう人が元は必ず若干はいた。
 概していうとやや無口な、相手の人柄を見究めないと、
 うかとはしゃべるまいとするような人にこれが多かった。

 それが人生の終りに近づくと、
 どうか早く適当な人をつかまえて、
 語り伝えておきたいとアセリ出すのである。
 ・・・・
 どちらかといえば老女の中に、多く見出される
 ようにも言われている。・・・」(p108)

切り返すように、柳田さんは若い人への願望もかたります。

「翻(ひるがえ)ってこれからさきの五十年ないし百年のために、
 もう少し多く良い『故老』を作ること、すなわちそういう心持をもって、
 この眼前の人生を観察しておいてくれるような若い人を、
 今から養成して行くということの必要が認められる点も大切である。

 書物は今日ほど容易に作られる時代はないのであるが、
 さりとて仮に現代人の全力を集めても、果して今日
 我々の楽しみ悦び、または苦しみ悩んでいる生活の実状を、
 さながらに後世に伝えて行く見込みがあるかというと、
 それはまだ然りとは答え得られない。

 未来から今日を回顧して、子孫後裔に誤らざる判断を下させ、
 同情を起させるためには、今からこの現実の生活をよく
 感銘しかつ記憶して、老いて後銘々の愛する人々のために、
 詳しく語り得る者を作っておかなければならぬ。・・・」(p109)


うん。長いのですが、これがはじまりの箇所でした。
ここから、泣くというテーマにはいってゆくのですが、
そこにも、『五十年』という箇所がでてきます。

「・・・旅は一人になって心淋しく、
 始終他人の言動に注意することが多いからであろう。
 
 私は青年の頃から旅行を始めたので、この頃どうやら
 五十年来の変遷を、人に説いてもよい資格ができた。

 大よそ何が気になるといっても、あたりで人が泣いているのを
 聴くほど、いやなものは他にはない。

 一つには何で泣いているのかという見当が、付かぬ場合が
 多いからだろうと思うが、旅では夜半などはとても睡ることが
 できないものであった。

 それが近年はめっきりと聴えなくなったのである。
 大人の泣かなくなったのはもちろん、
 子供も泣く回数がだんだんと少なくなって行くようである。」


こうして、泣くことの流行をさぐって、あちらへいったり、
こちらへいったりするのですが、やはり具体的な箇所は印象に残ります。
最後に2つを引用しておくことに。

『私の旧友国木田独歩などは、
 あまりに下劣な人間の偽善を罵る場合などに、 
 よく口癖のように『泣きたくなっちまう』と言った。

 今でも私たちは折々その真似をするが、その癖お互いに
 一度だって、声を放って泣いてみたことはないのである。

 すなわち泣かずにすませようとする趣味に、
 現在はよほど世の中が傾いていると思われるが、
 以前はあるいはこれと正反対の流行もあったらしいのである。』

こうして、柳田さんは、五十年を振り返っております。
そこにでてくるのが

「・・・二十歳の夏、友人と二人で、
 渥美半島の和地(わじ)の大山へ登ろうとして、
 麓の村の民家でワラジをはきかえていたら、
 二三十人の村の者が前に立った。その中から婆さんが一人、
 近くよって来ていろいろの事を尋ねる。どこの者だ、
 飯は食ったかだの、親はあるかだのといっているうちに、

 わしの孫もおまえさんのような息子があった、
 東京へ行って死んでしまったというかと思うと、

 びっくりするような声を揚げて、真正面で泣き出した。
 あの皺だらけの顔だけは、永遠に記憶から消え去らない。

 それからまた中風に罹って急に口が不自由になった親爺が、
 訪ねて来てたちまち大声に泣いたことも忘れられない。

 日頃は鬼みたような気の強い男だったから、
 かなしいというよりは口惜しいという感じであったが、
 それがまたこの上もなくあわれに思われ、
 愚痴を聴くよりもずっと身にこたえたものであった。
 ・・・・・」(~p119)

こうして、まだまだ『泣く』歴史が語られてゆきます。 






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染めた木綿の初袷(はつあわせ)。

2022-04-02 | 柳田国男を読む
柳田国男の『木綿以前の事』には、木綿以後の事を語るのに、
それ以前の事が、語られる必要がありました。

そういう語りのなかで、木綿の登場を語るのに、瀬戸物が出てきます。

「ただし日本では今一つ、同じ変化を助け促した
 瀬戸物というものの力があった。

 白木の碗(わん)はひずみゆがみ、使い初めた日から
 もう汚れていて、水ですすぐのも気安めに過ぎなかった。
  ・・・・・

 その中へ・・・白くして静かなる光ある物が入って来た。
 前には宗教の領分に属していた真実の円相を、
 茶碗というものによって朝夕手の裡(うち)に
 取って見ることができたのである。

 これが平民の文化に貢献せずして止む道理はない。
 昔の貴人公人が佩玉(はいぎょく)の音を楽しんだように、
 かちりと前歯に当る陶器の幽(かす)かな響には、
  鶴や若松を画いた美しい塗盃の歓びも、忘れしむるものがあった。

 それが貧しい煤けた家の奥までも、ほとんど何の代償もなしに、
 容易に配給せられる新たな幸福となったのも時勢であって、

 この点においては木綿のために麻布を見棄てたよりも、
 もっと無条件な利益を我々は得ている。

 しかもこれが何人(なんびと)の恩恵でもなかったがゆえに、
 我々はもうその嬉しさを記憶していない。」( p12 新編の9巻 )

はい。このあと柳田さんは薩摩芋を語ります。
うん。はじまりだけ。

「 木綿の威力の抵抗しがたかったことは、
  ある意味においては薩摩芋の恩沢とよく似ている。・・ 」(p13)


「新編 柳田国男集」第九巻(1979年・筑摩書房)で
 8ページの文です。この短文のはじまりは七部集から
 引用されているのですが、最初の引用は眩しすぎるので
 私は2番目の引用をとりあげてみます。

「  薄曇る日はどんみりと霜をれて   乙州
   鉢いひ習ふ声の出かぬる      珍碩
   そめてうき木綿袷のねずみ色    里東
    ・・・・

 この一聯(いちれん)の前の二句は、
 初心の新発意(しんぼち)が冬の日に町に出て托鉢をするのに、
 まだ馴れないので『はちはち』の声が思い切って出ない。
 何か仔細のありそうな、もとは良家の青年らしく、
 せっかく染めた木綿の初袷(はつあわせ)を、
 色もあろうに鼠色に染めたと、若い身空で仏門に入った
 あじきなさを歎じている・・・・           」(p9~10)

はい。最初の引用は、どのようなものだったのか?
うん。井上ひさしさんの言葉が思い浮かびます。

「柳田国男の遺産を受け継ぐ方法はただひとつしかない。
 彼の文章を読むことである。」
   ( p272・岩波文庫「不幸なる芸術・笑の本願」 )

はい。この遺産を受け継ぐ人のために、
最初の七部集の引用はとっておきます。

コメント (2)
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