和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

新聞と古典教養。

2024-02-29 | 産経新聞
新聞を開き、そこに古典が紹介されていたりすると、
何だか、得した気分になるのは、私だけでしょうか?

産経新聞2024年2月29日(木)のオピニオン欄『正論』は、
平川祐弘氏で、題が「与謝野晶子を作った『源氏物語』」。

はい。一読楽しくなったので引用を試みることに。

「『みだれ髪』を出版、世間を驚かせた。・・・
 晶子の歌には原色のフォーヴの油絵のどぎつさがあった。・・
 三ヶ島葭子(明治19-昭和2年)の歌は水彩画のすなおさだ。・・

 女流歌人は次々とデビューした。だが誰も
 晶子のようには論壇で長く活躍できなかった。

 なぜか。違いは晶子には古典の教養が血肉化していたことで、
 そのために次々と新しい生活信条を述べ得たのである。」

はい。産経新聞も新聞論壇で長く活躍できますように。
そんな願いもこの『正論』欄には込められているかも。
つい。そんなたわいもないことまでも連想してしまう。
『古典の教養が血肉化』した文を読んでいたいと思う。

さてっと、平川祐弘氏は、この文の最後の方に、
谷崎潤一郎訳『源氏物語』のことに触れてます。
谷崎訳の過程をとりあげております。その引用。

「その際、谷崎は、誤訳批判を気にして、
 一度ゲラとして印刷された自分の訳の校閲を
 国文学者の山田孝雄に頼み、それをもとにまた朱を入れた。

 だがそれで文章が間延びした。
 力の抜けた文章だから谷崎訳源氏は日本の名文選に入らない。

 大出版社の古典大系の古文にはおおむね国文学者たちの新訳が添えられるが、
 正確な解釈を期すために文章がトランスレーショニーズと呼ばれる文体となっている。

 原文従属で味気ない。
 これは誤訳の減点をおそれる受験生が、
 日本語らしからぬ日本語で英文和訳の答案を書くのと同じ心理で、
 原文本位の翻訳者や学者先生もとかくそうなりがちだ。 」

はい。そのあとに、与謝野晶子へもどり終っておりました。
しめくくりも、引用しなくちゃね。

「だが晶子は違った。数ある解釈から自分が良しとする解釈を
 自己責任ではっきり選び、力強く語る。だから晶子の源氏訳には
 熱い血が流れ、心のときめきが感じられる。・・・・・

 一冊の古典は昨今の平板な一流の大学に優(まさ)る。」


はい。今進行中のNHK 大河ドラマの源氏物語と、受験シーズンの大学と、
さらには新聞の文章までも含めた見識に満ちたご意見番のオピニオンとして読みました。


ちなみに、月刊Hanada4月号の平川祐弘氏の連載「詩を読んで史を語る」は、
「鴎外訳『ファウスト』など」という題。その最初の方にこんな箇所。

「ゲーテは、若い頃に書き始めた『ファウスト』を
 80を過ぎた最晩年にいたるまで推敲を重ねる。・・・」(p316)
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2冊の震災本。前書・後書。

2024-02-28 | 前書・後書。
安房郡の関東大震災を語るときに、
『安房震災誌』と『大正大震災の回顧と其の復興』の2冊が
材料の宝庫でした。

『安房震災誌』の編者・白鳥健氏の言葉を紹介しておくことに。

「 終に私(白鳥)が安房郡役所の嘱託によって、
  本書の編纂に干与したのは、震災の翌年のことであったが、
  当時は各町村とも、震災の跡始末に忙殺されてゐた・・・・

  若し此の小さき一編の記録が、我が地震史料の何かの
  役に立つことがあれば・・・    」と凡例の最後に記しております。

また、安房郡長・大橋高四郎氏は、『安房震災誌』が完成した際には
前安房郡長という肩書で「安房震災誌の初めに」を書いております。
その最後にはこうありました。

「・・本書の編纂は、専ら震災直後の有りの儘の状況を記するが主眼で、
  資料も亦た其處に一段落を劃したのである。

  そして編纂の事は吏員劇忙の最中であったので、
  挙げて之れを白鳥健氏に嘱して、その完成をはかることにしたのであった。

  今編纂成りて当時を追憶するば、身は尚ほ大地震動の中にあるの感なきを得ない。
  聊か本書編纂の大要を記して、之れを序辞に代える。  
           大正15年3月     前安房郡長 大橋高四郎    」


ここには、もう一冊の『大正大震災の回顧と其の復興』からも引用。

 『 編纂を終へて  編者 安田亀一 』(上巻・p978~989 )から
 そのはじまりを引用しておきます。

「千葉県の大震災に何の関係もない私が、その震災記録を編纂することになった。
 而してそれが災後8年も経ってゐる(引受けた時)ので、
 その材料の取纏めや当時の事情の一通りを知る上に、
 多少の苦心なきを得なかった。それにも拘わらず私は、
 このことを甚だ奇縁とし、且つ光栄とするものである。

 あの当時私は大震災惨禍の中心たる帝都に在って、
 社会事業関係の仕事に従事してゐた。
 しかも救護の最前線に立って、一ヶ月程といふものは、
 夜も殆ど脚絆も脱がずにごろりと寝た。
 玄米飯のむすびを食ひ水を飲みつつ、
 朝疾くから夜遅くまで駆け廻った。

 頭髪の蓬々とした眼尻のつり上った垢まみれの破れ衣の人々が、
 右往左往する有様や、路傍や溝渠の中に転がってゐる焼屍体の臭気が、
 今でも鼻先にチラついてゐる。

 電車で本所の被服廠前を通るにも、
 私は心中に黙祷することを忘れないのである。

 そんな関係で、ここに大震災の記録を綴ることは、
 何か知ら私に課せられてゐる或る義務の一部を履行するやうな気がしてならない。」  
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震災と握飯。

2024-02-27 | 安房
『安房震災誌』をはじめて読んだ時に、印象に残ったエピソードがあります。
それは焚き出しの握り飯に関係する場面でした。まず、その経緯から紹介。
ここでは、瀧田村の震災被害の様子から引用をはじめます。

「 瀧田村における悲嘆の叫びは村を全半して南部に多かった。・・・

  北部は全潰だけは免れたが瓦の落ちたのと壁の崩壊、亀裂、
  家屋の傾斜など相当に被害があった。ただ全く一つの不思議は

  中央小学校校舎の倒潰したのを一つの境として、
  南部平野に阿鼻叫喚の修羅場を現じ、
  北部山谷に静寂の光景を見せたことである。      」(p121)


震災の当日9月1日。安房郡役場の重田郡書記は、県庁へ急使に立ちます。

「・・途中瀧田村役場に立寄り、炊出の用意を託して行ったので、
 翌2日の未明には、山成す炊出が青年団によって、北條の群衙へと運ばれた。

 瀧田村が逸早く震災応援の大活動に当られたのは
 重田郡書記の通報に原因したのであった。・・     」(p236)

ここには、重田嘉一郡書記の手記がありますので、関連個所を引用。

「 飛び出したのは午後3時半である。・・・
  道は被害程度少なき國府村瀧田村を経て
  岩井町に出づる予定で走ったが、途中
 
  比較的被害少なき瀧田村役場に寄り
  鏡ケ浦沿岸の被害惨状を伝へ即時之が救済方を依頼して先を急いだ。

  岩井、勝山と順次被害程度少なきを悟り、
  この程度ならば北に進むに従ひて被害少なきものと確信し得た。

  その時までは千葉市も亦既に全滅かも知れぬと言ふ
  深き不安にかられて居たのである。・・・     」
            ( p248 「大正大震災の回顧と其の復興」上巻 )


さて、はじめて『安房震災誌』をひらき、忘れがたい場面がありました。
今回の最後に、そこを引用しておきます。

「9月2日3日と、瀧田村と丸村から焚出の握飯が沢山郡役所の庭に運ばれた。

 すると救護に熱狂せる光田鹿太郎氏は、握飯をうんと背負ひ込んで、
 北條、館山の罹災者の集合地へ持ち廻って、之を飢へた人々に分与したのであった。
 また別に貼札をして、握飯を供給することを報じた。

 兎角するうちに肝心な握飯が暑気の為めに腐敗しだした。
 郡役所の庭にあったのも矢張り同然で、臭気鼻をつくといったありさまである。

 そこで郡長始め郡当局は、腐敗物を食した為めに疾病でも醸されては一大事だと
 気付いたので、甚だ遺憾千万ではあったが、その日の握飯の残り部分は、
 配給を停止したのであった。

 ところが、われ鍋や、破れざるなどをさげた力ない姿の罹災民が押しかけて来て、
 腐ったむすびがあるそうですが、それを戴かして貰ひたい。と、いふのであった。

 それは、多くは子供や、子供を連れた女房連であった。
 その力なきせがみ方が如何にも気の毒で堪らなかった。

 ・・・・・そこで、郡当局は、こうした面々に向って
『 よく洗って更らに煮直してたべて下さい 』と条件付きで、
 寄贈品の握飯を分配・・・・

 こうした米の欠乏は、大震動と殆ど同時に来た悲劇である。・・・ 」(p260~261)
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安房郡震災の流言蜚語の始り。

2024-02-26 | 安房
安房郡の関東大震災でも、流言蜚語はありました。
その流言飛語を、まとめて括ることはせず個々に、
見てゆくことが現代への参考となるかと思えます。

ということで、まずは漁師町から食糧掠奪に来る。
という流言蜚語を、取り上げて見ることにします。

まずは、警察署のあった北條町の、震災被害を引用。

「 ・・斯くまで死傷者の多かったのは、一面には
  北條町が地震の強烈であったことを物語り、多面には
  当時避暑旅客の入り込んでゐた為であったことに原因する。 」
                ( p91 「安房震災誌」 )

 北條町の死亡者は222人。負傷者は268人。( p92 同上 )


つぎに、漁師町であった船形町の、震災状況を引用。

「 ・・家屋の倒潰に加ふるに枢要なる区域の大部分は
  火災の為めに烏有に帰した。町民の大部分は漁業に
  従事し、農家は同町戸数の1割に足らざる状態なるが故に・・」
                      ( p96 同上 )

  船形町の死亡者は132人。負傷者は290人。 ( p96 同上 )


この状況に放り込まれて、そこに流言飛語がわきおこるのでした。

「 ・・当時食糧不足、暴徒襲来、海嘯起るの流言蜚語至る處に喧伝され、
  人々の不安は今から考へれば悲壮の極みであった。・・・
    ・・・・
 『 今、那古方面より、暴民大挙八幡、湊付近まで来襲しつつあり、
  船形の漁民が食糧品奪取の目的なるらし、其の襲来の合図があった。  
  即ち先刻乱打された警鐘がそれである。
  私は町内各自の警戒を促し来れり 』と、 訴へ出たのである。 」
          ( 『大正大震災の回顧と其の復興』上巻のp894~896 )

この箇所は、昨日詳細に引用し流言飛語だったと分かります。
この場合の、『流言 蜚語』を、とりあげてみたいと思います。

『 人々の不安は今から考へれば悲壮の極みであった 』とあります。
その『悲壮の極み』へ、薪をくべるような要素があったのではないか。

そういう思いで、この時代の歴史を振り返ってみますと、
大正7年に『米騒動』というのがありました。7月22日
富山県下新川郡魚津町の漁民の主婦たちの集会がそのはじまりでした。

「 9月17日・・・暴動でおさまるまで、すべての大都市、
  ほとんどすべての中都市、全国いたるところの
  農村、漁村、炭坑地帯など、1道3府38県、およそ
  500カ所以上に飢えた民衆の大小の暴動、あるいは
  暴動直前の不穏な状態として出現した・・  」
          ( 「米騒動の研究」第1巻(有斐閣)のはしがきより )

この井上清・渡部徹編「米騒動の研究」(有斐閣・昭和39年)全5巻の
第3巻をひらくと、千葉県での米騒動も記録されておりました。

安房郡の関東大震災直後に、空腹をかかえながらの避難民に、
以前の『米騒動』が鮮やかに頭の中で結びついたのではないか?

「 ・・当時食糧不足、暴徒襲来、海嘯起るの流言蜚語至る處に喧伝され、
  人々の不安は今から考へれば悲壮の極みであった。・・・ 」

このような状況のなかで、新聞で大々的に報道された5~6年前の記事が
避難民の中に共有されていたから、流言飛語へと容易に結びついたのでは
なかったのでしょうか。

まあこうして、活字でもってあれこれと類推をたくましくしてる、
私にしてみれば、いざ、関東大震災のその状況の中におかれたら、
まっさきに、流言蜚語を振りまく一人となっていたかもしれない。

そうならないためには、日頃から、どうすればよいのか?
その心構えが、平素から必要なことなのかもしれませんね。






  


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関東大震災の鏡ケ浦。

2024-02-25 | 地震
「安房震災誌」から、この箇所を引用。

「死者負傷者の多いのは、村落よりも市街地である。
 中にも鏡ケ浦沿ひの北條・館山・那古・船形の市街地は最も悲惨であった。

 今此の4町内に就て見るも、死者は604人の多きに上り、
 負傷者は1784人といふ大なる数字を示してゐる。

 家屋の倒潰数も、之を百分比例で見ると、
 北條は96、館山は99、那古は98、船形は92といふ多大な倒潰数である。」
                        ( p242 )

前回に、漁師町である船形の火災の状況を紹介しました。
これから、流言飛語の記録を紹介してゆきたいと思います。

これについては、『安房震災誌』のp220~221。
そして、『大正大震災の回顧と其の復興』上巻のp894~896。
2箇所に記載があり、前著には紹介程度。後著には具体例がありました。
ここには、長くなりますが、両方を引用しておくことに。
まずは前著から

「 9月3日の晩であった。北條の彼方此方で警鐘が乱打された。
  聞けば船形から食料掠奪に来るといふ話である。

  田内北條署長及び警官10数名は、之を鎮静すべく
  那古方面へ向て出発したが、掠奪隊の来るべき様子もなかった。

  思ふに是れは人心が不安に襲はれて、
  神経過敏に陥った為めに、
  何かの聞き誤りが基となったのであらう。・・・ 」

後著には、小見出しで『暴徒襲来の蜚報』とあります。
そこから引用。

「・・当時食糧不足、暴徒襲来、海嘯起るの流言蜚語至る處に喧伝され、
 人々の不安は今から考へれば悲壮の極みであった。・・・

 9月3日か4日の事かと記憶する・・・・
 昼の暑さと劇務にぐっすり疲れた身体、
 焚出しの握飯を立った儘頬張りながら夕食をすまし、
 ホット一息つく折しも、

 50歳前後と覚しき土地の者一人、
 左手に自転車の先きにつける瓦斯燈を持ち、
 右手に三尺あまりの棍棒様のものを提げ、
 息せき切って事務所に駆け込んだ。曰く、

『 今、那古方面より、暴民大挙八幡、湊付近まで来襲しつつあり、
  船形の漁民が食糧品奪取の目的なるらし、
  其の襲来の合図があった。  
  即ち先刻乱打された警鐘がそれである。
  私は町内各自の警戒を促し来れり 』と、

 訴へ出たのである。

 ・・・・・・変事来の通告を受けたる住民は、
 悉く燈火を消し戸締を厳重にし、婦女子子供老人を避難せしめた。

 避難所と目ざされたるは事務所の裏手の旧郡役所跡であった。
 各自は風呂敷包を背負ひ、子供の手を引き、毛布をかつぎ、
 千態万様、ぞろぞろぞろと我等の事務所に来りて保護を哀願する、

 暴動などあるべき筈なきを諭せども、蜚語におびえたる町民、
 どうしても聞き入れない。詮方なく裏手に休憩せしめた。
 見る間に身動きも取れぬ満員振を示した。

 一同も不安の思をなし今に喊声でも挙るかと心配そのものであった。
 ・・・・

 暫くにして刑事の一人来り報じて曰く、
『 先刻の警鐘は館山町下町の火災の跡に残りたる余燼、
  風に煽られ燃え上りたる為なるも、すでに大事に至らず鎮火せり 』

 と、館山方面よりの報告があった。
 派遣されたる警官隊も程なく帰り来て、
『 暴民大挙襲来事実無根 』を報告す・・・

 それにしても訴へ出でた男の軽挙を非難せざるを得ない。
 然し流言蜚語盛にして人心恟々たる折柄、
 自警的に或種の合図をなすべき、約束をつくって置いた事に
 起因することであって、あながち咎むべきではなかろう。

 只彼に今少し沈着と度胸が慾しかった。・・・   」


はい。流言蜚語の渦中にあって、
『 今少し沈着と度胸が慾しかった 』とのこと。
現在でも、拳拳服膺して、肝に命じたくなる箇所ではあります。


ちなみに、この地域的ないし歴史的関係などは、
もう少し、記録を掘り下げたどってみたいので、
つぎにも、つづけてみたいと思います。

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安房関東大震災の火災。

2024-02-24 | 地震
大正12年9月19日調べの震災状況調査表(安房郡)で、
焼失戸数を見てみると、
北條が18件。館山が55件。そして
船形が340件と多い(安房郡全体での焼失戸数424件)。

手許に「安房郡船形町震災誌」(田村シルト芳子・2012年)があります。
その、あとがきを紹介。

「・・・あまりに激しい揺れに人々は仰天し、慌てふためき、
 津波の襲来を恐れつつ、身一つで山や高所を目指して、
 道路側に倒れた家々を踏み越えてひたすら走った。

 不幸にして、折りしも秋鯖の節の火入れをしていた、
  (注:秋鯖の節とは、鰹節を作る要領と同じ? )

 西の外浜近くのいさばから出火。瞬く間に、炎火は西、
 仲宿、東地区の家々を次々と焼き尽くした。

 また、地は割れ、線路は曲がり、土地が隆起して
 海岸線は遠のき、新たな砂浜が出現し、ために
 港や堤防は機能しなくなった。
 この天変地異が起きたのは、町の鉄道開通から5年後のことである。」(p58)

この船形町震災誌の説明もあります。原本は手書きのガリ版刷りで、
印刷された和紙は二つ折りにして、こよりで綴じられている。

「 当時の船形高等尋常小学校の忍足清校長の下、
  教師たちが町の被災状況を自ら詳細に調査してまとめたもの 」

「 わが父・田村正は、昭和10年代半ばに訓導として同校に勤務した折に
  それを一部入手したようで・・・ただ、印刷が不明瞭の箇所が多く、
  通読は困難な故、改訂版を出すことを思いたった。・・・
         2012年新春   編者         」(p58)


さいごに、この冊子のはじめの方から引用しておくことに。

「町民の多くは昼餐に向かわんとする午前11時58分、
 異様な音響と共に天地振動し、怒濤に弄(もてあそ)ばるる
 木の葉の如く見えし家屋は、一瞬にして倒壊し終わりぬ。
 
 『地震、地震』と戸外に飛び出し、あわてふためく折柄、
 一回目で家屋全壊す。二回、三回と数分ならず激震至り、
 傷つきし者、死する者、親を求むる子、子を呼ぶ親・・・・・

 その混乱裡に町の西方より火災起こり、
 吹き荒む西南風に煽られ、炎々たる紅蓮は
 家より家へ燃え移り、火炎砂塵を巻き、
 風向火勢を伴い、本町の大半を焦土と化す。

 時しも≪ 海嘯襲来 ≫の流言頻りに至り、
 為に脅かされ家財道具の一物をも持たず、
 子を負い、老いの手を取り、負傷者を助けつつ
 北方の丘を目指して避難する騒擾混乱、真に名状しがたし。 」(p4)
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摂政宮(のちの昭和天皇)

2024-02-23 | 地震
今日の産経新聞(2024年2月23日)一面の左上に
「 64歳の誕生日を前に記者会見に臨まれる天皇陛下 」の写真があり。
縦見出しは『天皇陛下64歳』『能登地震復興を心から願う』とあります。

思い浮かぶのは、大正12年の関東大震災と復興でした。
武村雅之著「関東大震災がつくった東京」(中公選書)に
山本権兵衛内閣の、震災直後の親任式の場面があります。

「 地震(関東大震災)の翌日・・・
  午後7時半、東宮御所であった赤坂離宮の広芝御茶屋にて、
  金屏風を立て燭台の灯りの下で、
  摂政宮(のちの昭和天皇)による
  第二次山本内閣の親任式が行われた。」( p83 )

ここに、摂政宮(のちの昭和天皇)による親任式のことが記してあります。

昭和天皇のご生涯の年譜をふりかえると、

 明治34年4月29日に誕生。
 明治45年7月30日明治天皇崩御、皇太子に践祚。
 大正3年4月学習院初等科ご卒業。東宮御学問所ご入学。
 大正10年欧州諸国ご巡遊。・・・
           ( 山本七平著「昭和天皇の研究」から )

ということは、大正12年9月1日の関東大震災は、22歳でした。

武村氏の記述を追います。

「・・震災発生直後に摂政宮が発した詔書である。・・

 復興事業を終えて昭和天皇が発した『勅語』、
 震災発生直後に摂政宮が発した9月12日の『詔書』、
 ならびに9月3日の『摂政宮御沙汰』の3つの文面が・・

 詔書はそのなかの一つで、
 摂政宮の御名御璽のもとに発せられたものである。 」(p123)


武村氏は、『詔書』から特に注目する箇所を引用しておりました。

「 ・・緩急その宜を失して前後を誤り或は個人若(もし)くは
  一会社の利益保証の為に多衆災民安固(あんこ)を脅かす
  が如きあらば人心動揺して抵止する処を知らず。

  朕深く之を憂惕(ゆうてき・うれいおそれる)し
  既に在朝有司に命じ臨機救済の道を講ぜしめ
  先ず焦眉の急を拯(すく)うを以て恵撫滋養(けいぶじよう)の
  実を挙げんと欲す。・・・ 」

これを武村氏は訳しております。

「 この非常時に一儲けしようとする個人や会社の利益保証に走れば、
  人心は収まるところがない。摂政宮はそれを憂慮して、
  
  政府に対し臨機応変に一番急ぐことから手がけるように求め、
  人々の心を潤すよう指示した。

 摂政宮はすでに9月3日に『摂政宮沙汰』を発して、
 被災者への1000万円(約5000億円)の下賜に言及している。・・」(p124)


はい。私も詔書を読んでみたいと思いました。
「大正大震災の回顧と其の復興」上巻のはじまりは
『詔書』と『御沙汰書』からはじまっておりました。
ひらくと、『詔書』は大正12年9月12日と、大正12年11月10日の2書あり。
『摂政宮御沙汰』は大正12年9月3日。こちらは4行ほどでした。

9月12日の『詔書』で、私が気になったのは武村氏の引用された
その直前の箇所でした。はい。原文を引用しておきます。

「  朕深ク自ラ戒愼シテ已マサルモ惟フニ天災地変ハ
   人力ヲ以テ予防シ難ク只速ニ人事ヲ盡シテ
   民心ヲ安定スルノ一途アルノミ凡ソ非常ノ秋ニ際シテハ
   非常ノ果断ナカルヘカラス
   若シ夫レ平時ノ条規ニ膠柱シテ活用スルコトヲ悟ラス
   緩急其ノ宜ヲ失シテ前後ヲ誤リ或ハ個人・・・・  」

はい。このあとは武村氏が引用した箇所へとつながっております。
摂政宮の『惟フニ』というお気持ちが、滲み出ている気がします。

最後に年譜にもどりますが、
山本七平著「昭和天皇の研究」(祥伝社・平成元年)には
13歳で『4月、学習院初等科ご卒業。東宮御学問所ご入学』とありました。
それに関する箇所を本文から最後に引用しておきます。

「 天皇は小学校は学習院で学ばれた。校長は乃木(希典)大将・・・

  天皇は中等科へは進まれず、宮中の御学問所で学友とともに
  学ばれることになった。総計6人、期間7年である。
  7年はやや変則な期間に見えるが、当時にあった7年制高校と
  同じと考えてよいであろう。・・・  」(~p36)

このあとに山本七平は、その御学問所の先生方を語っていたのでした。


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静岡と関東大震災。

2024-02-22 | 地震
武村雅之著「関東大震災がつくった東京」(中公選書)の
はじめの方に、静岡県富士郡大宮町の河合清方氏による
関東大震災後の日記が適宜紹介されておりました。
その武村氏によって日記が紹介されている箇所。

「・・余震による揺れについても気象庁の震源決定の
  信頼性をチェックできるほどの正確さである。
  その河合清方もはじめの3日間はあまりの余震の多さに
  余震ごとの記載ができなかったようで、
 9月1日は『5分、10分毎に動揺し、震動数10回』・・・
 ・・4日以降は揺れごとに記述があり、

 初めて揺れを感じなかったのは9月21日のことであった。」(p24)

そんな余震のなかに、流言飛語への指摘も日記から拾っておられます。

「一方、流言に関する記述も多くみられ、
 大きな余震の揺れがあるたびに大地震の到来を予言する
 流言が飛び交う様子がよくわかる。

 1日には『 針小棒大の流言を放つもの少なからず 』、
 2日には『 公私の団体物々しく、夜中を戒め、
       各戸また不眠不休に恟々として非常を警戒す 』、
 3日には『 不逞鮮人共産主義者来襲して、暴挙をなす旨の風説あり。
       ・・・・流説蜚語大いに衆人を惑わす 』。
 ・・
 8日のかなり強い余震のあとに再野宿の用意をしていると、
     『 不逞鮮人数十名来襲等の蜚語流説湧出し来り 』
     『 富士山噴火せりと予報する説あり 』という有様であった。」
                        ( ~p25)


はい。気になり武村雅之著「手記で読む関東大震災」(古今書院)をひらく。
その日記の9月8日をくわしく引用しておわります。

「 9月8日 晴天
  午後6時15分頃、1日以後の最強なる地震あり。・・・
  大鳴動と共に揺ぎ出し屋外に飛び出したり。・・・

  市川誠一君の如きは
 『学説に大地震の後にはそれ以上のは続発せず、と言うのは信ずべからず』
  など言うに至りぬ。これより吾も人も再野宿の用意をなす。
  午後8時頃前者より軽いけれどもやや強きものあり。
  20分時頃過ぎて又微動ありしが、その後は驚くほどのことはなかりき。
  ・・・・

  この夜は非常警戒の提灯往来し、すこぶる物々し 
  中に、不逞鮮人数十名来襲して、
  今万野付近にて青年団と闘争中なりと言うものあり。
  尖頭は堅宿に現れたりとか、巡査数十名出発せりとか、

  半鐘を乱打して鮮人の来犯を報ずべしとか、
  蜚語流説湧出し来り、人々不安の念に駆られつつあり。

  富士山噴火せりと予報するの説あり。聴く者驚愕・・・・・・
  ・・死火山なればと平然自若たるあり。数人数様の意見に混雑を極め、
  要は流言者に脅かされつつありと知りつつも、皆恐怖しつつあるなり。
    ・・・・・・
  甲州に大地震あり。甲府全滅せり。鰍沢陥没せり
  など伝わるものありて、人騒がせを為せども流言に過ぎざるべし。 」
                           (p106~107)


さて、静岡の流言蜚語の様子を紹介できたので次回は
その関連で安房郡の流言蜚語を取上げることにします。
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首都直下地震と安房郡

2024-02-21 | 地震
『首都直下地震』の定義を、まるで知らないでおりました。
武村雅之著「関東大震災がつくった東京」(中公選書)の
はじめの方で、おそまきながら、地域の範囲を知りました。

「 首都直下地震とは関東地方の南部の
  神奈川県、東京都、千葉県、埼玉県、茨城県南部
  で起こるM7級の大地震を指す総称である。 」(p24)

はい。武村氏の本は題名にもあるように東京がテーマとなります。
でも、私のテーマは『安房郡の関東大震災』。あくまで地元安房に注目します。

能登半島地震でも交通路遮断による援助途絶が心配としてあがっておりました。
それに、港などの隆起によって、援助船も近づけないという状況です。
改めて、『安房郡の関東大震災』の状況をふりかえってみたいと思います。

安房郡役場と北條警察署とは、9月1日震災当日午後2時過ぎに
県庁へと急使を送ります。津波の心配もありますので、海岸線を避けながら、
県庁へとむかうことになります。

翌日、県庁へ、急使が到着します。
ところで、震災当日の県庁の様子はどうか。
「大正大震災の回顧と其の復興」上巻にこうありました。


「かかる混乱時に於て、人々は東京に大災禍あるを知って、
 県内に之あるを知りえなかった。


 ・・警察部の記録の如く主なる警察電話さへ通ぜず
 為に県下の情況は暗中模索の情況であった。
 況んや誰か県下の安房郡その他が空前の大被害を蒙り、
 かの如き大惨状に呻吟しつつあらうとは・・・     」(p220)

そして、安房郡役場と北條警察署からの急使をうけて、

「県は一方において食糧、医療の手配を考慮すると同時に、
 他方取敢へず警備及救護に盡さしむる為に、
 2日夜県下各署から巡査を千葉市に集合し、
 翌3日朝52名の一隊を遠藤警部をして之を引率せしめ、
 自動車にて北條警察署に応援せしめた。・・・・・
 何れも軍用自動車を以て木更津町に輸送し、
 夫れより通行不能なる道路を自転車を以て急行せしめた。」
    ( p245~246 『大正大震災の回顧と其の復興』上巻 )

ここには、警察署の行動の機敏さが読み取れます。
一方の、安房郡役所の急使に対する行政としての県庁の対応はどうだったか。

「2日午後2時過ぐる頃安房郡役所より急使が到着した。」 (p247・上巻)

このあとに、急使の郡書記により手記が載っており、
手記の最後の方には、こんな箇所がありました。

「疵は腫れ上り更に疲労を加へて聊か悪寒を覚えたるも、
 ・・篤き介抱により此の施療と卵子2・3個を忝ふして
 再び帰路に急ぐこととなった。

 『 帰ってふさ丸を千葉に廻航せしめよ 』
 との命を受けたからである。 ・・・・

 北條に帰着したのは・・3日午前10時であった。  」(p251・上巻)


震災当日に、次々に急使を県庁へ送り出した
安房郡長・大橋高四郎は、つぎにどうしたか?

「無論、県の応援は時を移さず来るには違いないが、
 北條と千葉のことである。
 今が今の用に立たない。
 手近で急速応援を求めねば、
 此の眼前焦眉の急を救うことが出来ない。
  ・・・・・・ 
 まず大鳴動の方向と、地質上の関係から考察して、
 被害の状態を判断するより外はなかった。

 そこで、郡長は平群、大山、吉尾等の山の手の諸村が
 比較的被害の少ない地方であろうと断定したから、
 先ず此の地方・・・・応援を求めることに決定した。 」
          ( p236~237 「安房震災誌」 )

安房震災誌には、館山にある汽船ふさ丸と鏡丸への言及があります(p257)。
この様子は、また別の機会に紹介できればと思います。


それはそうと、もう一度、武村雅之氏の本へともどります。

「 一般にM8級の海溝型地震が発生した際に
  M7級の余震が発生することは珍しくないが、
  関東地震ほどM7級の余震数が多い地震は珍しい。 」
              (p24 「関東大震災がつくった東京」)

この本には、それに関する図と表が載っておりました。

 大正12年9月1日 相模湾M8・1 さらに、地震当日はM7が二回。
 大正12年9月2日 千葉県勝浦沖M7・6 さらに、2日はM7が千葉県東方沖。

最後に、安房震災誌からの記述を引用してみたいと思います。

「2日の正午過ぎに、又しても一大激震があった。
 1日の大地震に比較的損害の少なかった長狭方面は、今度は激震であった。
 そこで長狭方面から北條方面へ向け来援の途上に在った青年団は、
 途中から呼び戻されたものもあった。・・・・

 且つ警戒の為めに応援意の如くならずして、苦心焦慮の折柄、
 3日の朝になると、東京の大地震殊に火災の詳細な情報が到着した。

 斯くてはとても郡の外部の応援は望むべくもない、
 1日の震災後直ちに計画してゐたことも、
 郡の外部の応援はとても不可能である・・・・

 郡長は・・そこで、
『 安房郡のことは、安房郡自身で処理せねばならぬ 』
 といふ大覚悟をせねばならぬ事情になった。
 4日の緊急町村長会議は実にこの必要に基づいた。・・

 したがって会議の目的は、各町村の震災の実況、
 医薬、食料品の調査、青年団、軍人分会、其の他の
 応援が主たる問題であった・・・

 郡長は席上において、大震災においての実況と
 四圍の情勢を詳細・・述べた。そして各町村青年団は

 ① 全潰戸数が総戸数の3分の1以下なる町村は必ず他の応援救護すべきこと

 ② 被害3分の1なる町村は其青年団、軍人分会、消防組員を3分して、
    ―――1分は被害者―――
   1分は自町村の救護に、1分は他町村のそれに、而して激震地の
   救護に従事すべき員数は郡長の割当に従うべきこと
   特に北條、館山、那古、船形に出援するものは郡長の指揮に待つこと

 の割合で応援すべきことを命じた。・・・・・

 来会した町村長は何れも草鞋(わらじ)脚絆・・・
 就中、富崎村長の如きは、
『 自分の村の被害は海嘯で被害者約70は何一つ取片付けべきものも
  残されてゐないから全村こぞって応援に当ろう 』と申出た。・・」
            ( p277~278 「安房震災誌」 )



 
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たとえば、地震の隆起。

2024-02-19 | 地震
たとえば。宮崎駿監督の映画「千と千尋の神隠し」に、
電車が、水をかきわけて走ってゆく場面がありました。
その時は何となく見ておりましたが、水害などの被災を
目の当たりにするような、身近な、実感として思い浮ぶ。

たとえば、幸田文著「崩れる」を読んだ時に活字で思われたことも、
こうして、災害が多発するようになると、それが実感として読める。

何も説明を要しない、そのままに飲みこめるような気がしてきます。

さてっと、能登半島地震の隆起に関する記事を昨日読みました。
こうあります。

「石川県能登地方を中心に1月1日に起きたマグニチュード7.6の
 能登半島地震では、半島北岸から西岸にかけての広い範囲で
 地盤の隆起が確認された。実は、能登半島では長い年月の間に
 何度も発生した地震で、海岸の隆起が繰り返されてきたという。・・」
           ( 産経新聞2月18日の特集記事 )

 掲載されている図には
「 約4メートル隆起した皆月湾付近
  地震後、海岸線が約200メートル移動 」とあり、
  地震前と地震後の海岸線が隆起した写真が載っておりました。

ところで、私は「安房郡の関東大震災」をふりかえっているのですが、
こと隆起に関しては、津波よりも説明がしにくい感じをもっておりました。
今ならば、ごく自然に理解され、隆起の話ができそうな気がしております。

たとえば、関東大震災当時、安房で学生だった和田金治氏の文があります。
それを引用。

「私が安房中学(当時の)に入学したのは、大正11年であった。
 翌12年の9月1日が関東大震災であった。
 木造の校舎は、講堂などまで全倒壊。・・・・・

 ・・その前後に北条海岸に出て見て驚いた。
 昔の安房中学では、たしか5月だったと思うが、
 創立記念日の行事として、海での学年毎のクラス対抗の
 7人乗りのボートレースが行われたが、そのボートを
 保管しておく艇庫があった。それが何と、はるか
 丘の上の方に飛び上がっているように見えるではないか。
 もちろん艇庫自体が飛び上がる筈はない。・・・・隆起したわけである。

 館山湾の遥かかなたの沖合にあり、我々は水泳の3級(白帽)をもらうべく、
 頑張って沖の島往復をやったが、その時代の鷹島は四囲深い海であったのが、
 ほとんど歩いて渡れる陸続きと化してしまったのも半島隆起のためである。」
          ( p592 千葉県立安房高等学校『創立百年史』 )


あとひとつ、関東大震災での隆起のエピソードを引用させてください。

関東大震災当時の安房郡和田町。その真浦地区の威徳院には
元禄16(1703)年の元禄大地震大津波の石碑があります。
それは墓塔として建てられ、1752年に供養塔として立て直され、
さらに、摩滅につき1831年に供養塔が再建されてありました。

その和田町で関東大震災が起きた際に、
港の中は、隆起した岩がゴツゴツと出ておりました。

これについては、「安房震災誌」に記録があります。

「 和田町には火災も海嘯もなかったが、
  海水は見る見る減少し、漁港その他沿岸一帯の
  岩石は露出せしかば、定めし海嘯襲来せんと、
  老若男女は安全地帯へと馳せ集まった・・・・ 」(p215)

この本には、もう一ヵ所記述がありました。

「 和田町は大震当時干潮甚だしく沿岸一帯の
  岩石露出せるを見て町民は海嘯襲来の前兆と思ひ、
  
  一家を挙げて山野に避難する者も夥しかったが、
  9月15日、農商務省より門倉技師、及川技手の両氏視察せられ
  なほ陸地測量部より技師出張せらるるに至り、全然、
  ここは土地隆起の結果なるを知るに至った。・・・・  」(p84~85)




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どこか憎めない。

2024-02-18 | 詩歌
「震災復興 後藤新平の120日」(藤原書店・2011年)に
添田知道が作詞した『復興節』が引用されておりました(p55)。

今日届いた、
武村雅之著「関東大震災がつくった東京」(中公選書・2023年)をひらくと、
その「まえがき」は『復興節』の一番を引用してはじまっているじゃありませんか。

その『復興節』の引用からはじめた武村氏は、こう指摘されています。

「冒頭に示したのは、東京で震災直後から流行ったとされる
 『復興節』の一番の歌詞である。

 復興節は演歌師の添田啞蝉(あぜんぼう)の長男さつきが
 最初につくったもので、歌詞はこの他にもいろいろある。

 『江戸っ子の意気』、『今川焼さへ、復興焼と改名して(商売する)』
 といったたくましさ。
 それに『騒ぎの最中に生まれた子どもにつけた名前が震太郎』などなど、

 本当は泣きたいような気持ちを笑いで吹き飛ばす
 前向きな歌詞に、庶民は勇気づけられた。   」(p12)

はい。せっかくなので、もう少し引用しておわります。

「 一方、父親の啞蝉坊は、
 『コノサイソング』という『復興節』の替え歌をつくった。

 震災直後には、後藤新平をはじめ、当時の為政者がなにかにつけて、
 『この際』と前置きして、帝都復興のさまざまな刷新を口にしたことから、
 それを風刺した歌である。どこか憎めない、
 また帝都復興に期待する明るさを感じる歌でもある。  」


う~ん。『添田啞蝉坊・知道著作集』(刀水書房)というのがあるんだって。
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林野に安處(あんじょ)せり。

2024-02-17 | 道しるべ
2月14日(水)に法事がありました。いつからか、
できるだけ、お坊さんについて声を出し読むようにしております。
意味はわからなくても、いいや。とりあえず、声を出し読みます。

読経とでは延ばし方が違っているため、お坊さんの読経に
あわすことができないのですが、それでもいいや。と思うことにしてます。
そのうち、それなりに印象に残る所があるものです。
こんかい、気になった箇所を、引用しておくことに。


    三界(さんがい)は安き事無し。
    猶(なほ)火宅(くわたく)の如し。

    衆苦充満して甚(はなは)だ怖畏(ふゐ)すべし。
    常に生老病死の憂患(うげん)あり。
    
    是(かく)の如き等(ら)の火、
    熾然(しねん)として息(やま)ず。

    如来は已に三界(さんがい)の火宅を離れて、
    寂然(じゃくねん)として閑居(げんこ)し、
    林野に安處(あんじょ)せり。

    今此三界は、皆是れ我有(わがう)なり。
    其中の衆生は、悉(ことごと)く是れ吾子なり。

    而(しか)も今此處は、諸(もろもろ)の患難(げんなん)多し。
    唯(ただ)我一人(いちにん)のみ能く救護(くご)をなす。


はい。今回は、読経のこの箇所が気になりました。
久しぶりに集まって昼食を共に語りあっていたら、
この箇所も、すっかり忘れてしまっておりました。
今日になり、お経本をひらいておもいだしました。


コメント (2)
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「冥途のみやげ」に心がけ

2024-02-16 | 本棚並べ
板坂元著「続考える技術・書く技術」(講談社現代新書)の
第6章「心がけ」から、この前は「尾崎紅葉」の引用を孫引きしました。
そこには、ちゃんと、内田魯庵著「思い出す人々」から引用したとある。
そして、板坂氏は、その引用をしたあとにこう書いて締めくくっている。

「 書いた文章を読んでくれる人に対するエチケットとしても、
  情報収集に執念を燃やすことは、基本的な態度なのである。」(p166)

はい。エチケットですね。ということで、
内田魯庵著「新編 思い出す人々」(岩波文庫・1994年)をひらくことに。

ありました。「紅葉と最後の会見 世間に伝わざる逸事」という小見出し。
ちょいと、板坂元氏の引用から漏れているけど印象的な箇所を
ピックアップしてみます。魯庵との対話のなかに、こんな箇所がありました。

「・・・『 顔だけ見ているとそうでもないが、裸体になると骸骨だ。
   股(もも)なんか天秤棒ぐらいしかない。能く立ってられると思う。』

と大学で癌と鑑定された顛末を他人の咄のように静かに沈着いて話して、


『人間も地獄のお迎えが門口に待っているようになっちゃ最うおあいだだ。
 所詮(どうせ)死ぬなら羊羹でも、天麩羅でも、思うさま食ってやれと
 棄鉢(すてばち)になっても、流動物ほか通らんのだから、
 喰意地(くいいじ)が張るばかりでカラキシ意気地はない。
 まア餓鬼だナア!』

と、淋しい微笑を浮かべた。・・・・・・・  」(p237)

うん。もうすこし引用させてください。

「余り余裕のない懐(ふとこ)ろから百何十円を支払って
 大事典を買うというのは知識に渇する心持の尋常でなかった
 事が想像される。あるいは最後の床の上で『ノートル・ダーム』
 の翻訳を推敲していたからであったかも知れない・・ 」(p241)

はい。魯庵のこの文の最後を引用しておくことに。

「・・・実は紅葉のために常に苦言を反覆したのは
 畢竟(ひっきょう)紅葉の才の凡ならざるを惜しんで
 玉成したかったためであるが、これがために紅葉から
 含まれて心にもなく仲違(なかたが)いするようになった。

 が、瀕死の瀬戸際に臨んでも少しも挫けなかった知識の
 向上慾の盛んなるには推服せざるを得なかった。
 紅葉の真に文豪の器であって決してただの才人ではなかった。 」(p242)


はい。ここでいうエチケットに反するかもしれませんが、
私は尾崎紅葉・内田魯庵のどちらも読まないだろうなあ。
ということで、私の情報収集能力はここまでとなります。
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気持の揺れがおさまっていく。

2024-02-15 | 地震
昨年は、関東大震災から100年でした。
昨年7月、市で災害関連の講演会がありました。講師は鍵屋一氏。
その中で、私に忘れがたい言葉があったのでした。

『 想定外のことがおこると小学生以下の判断力になる 』

と講師が語り、それがあとあとまで印象に残りました。


それはそうとして、『避難の支援者がいない』という箇所には、

  支援者には負担感が強いとして、とっさの場合に
  自分から助けを求めることがしにくいことを考慮して、

  とっさの場合、声をかけることの重要性を指摘しておりました。
  それも別々に、3人くらいが声をかけてくれるとなおよいそうです。



田尻久子著「橙(だいだい)書店にて」(ちくま文庫・2023年11月)
をひらいていたら、その講演を思い出しました。

田尻さんは、1969年熊本市生まれ。熊本市内に雑貨と書店を開店。
とあります。はい。私はパラパラ読みなのですが、
この本は、短文の随筆をまとめた一冊なので、お気楽にひらけます。
そのなかに、『ヤッホー』と題する8ページほどの文がありました。
はい。そこを引用したくなったんです。

「 ご近所さんの顔が見えるということが、いちばんうれしく
  頼もしく感じたのは、地震のときだった。

  知っている顔が見えて、こんにちは、と挨拶を交わす。
  余震が来ると、大丈夫? と声をかけあう。

  そんなささいなことで、気持ちの揺れがおさまっていく。
  こわいね、こわかったね、一人でそう思っているより、
  誰かと言い合うと、こわいが少し淡くなる。 」(p233)

「 地震のときは、ものすごく落ち込んで内側に閉じこもる人と、
  動き回っていないと落ち着かなくて、休む間もなく動いている
  うちにテンションが上がってしまう人がいた。

  私は間違いなく後者で、動きを止めてしまうことが不安だった。
  どちらであろうと、平常心でないことに変わりはない。

  だから、彼女(ミチコさん)のこの軽口に、とても助けられた。
  こわばっていた体がするするとほどけていくようだった。 」(p234)

登場するミチコさんが、どんな人かは読んでのお楽しみ。
うん。それ以外の文にも私に思わぬ拾い物がありました。
  
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尾崎紅葉の『冥途の土産』

2024-02-14 | 本棚並べ
津野海太郎著「最後の読書」(新潮社・2018年)のはじまりは、
『読みながら消えてゆく』と題して鶴見俊輔氏が登場しておりました。
鶴見さんの最後が引用されておりました。

「 2011年10月27日、脳梗塞。言語の機能を失う。

  受信は可能、発信は不可能、という状態。
  発語はできない。読めるが、書けない。

  以後、長期の入院、リハビリ病院への転院を経て、
  翌年4月に退院、帰宅を果たす。読書は、かわらず続ける。

  2015年5月14日、転んで骨折。入院、転院を経て、
  7月20日、肺炎のため死去。享年93歳。 」 (p12)

津野海太郎さんは、この引用のあとに、記しております。

「 名うての『話す人』兼『書く人』だった鶴見俊輔が、
  その力のすべてを一瞬にして失ったということもだが、
  それ以上に、それから3年半ものあいだ、おなじ状態の
  まま本を読みつづけた、そのことのほうに、よりつよいショックを受けた。」(p12)


昨日本棚から板坂元著「続考える技術・書く技術」(講談社現代新書)を出してくる。
私が持っているのは(1993年5月6日第28刷発行)のもの。
そこに、尾崎紅葉が登場する引用があったのでした。

「尾崎紅葉がガンで重態だと新聞に報道されてしばらくして、
 紅葉はその痩せほそった姿を丸善の店頭に現わした。
 そのころ丸善で働いていた内田魯庵は驚いて、紅葉を迎えた。・・」(p164)

その時の会話から引用

魯庵】 何を買いに来た

紅葉】 ブリタニカを予約に来たんだが、品物が無いっていうから
    センチュリーにした

魯庵】 センチュリーを買ってどうする?
    それどころじゃあるまい

紅葉】 そう言えばそうだが、評判はかねて聞いているから、
    どんなものだか冥途の土産に見ておきたいと思ってね。
    まだ一と月や二た月は大丈夫生きているから、ユックリ見て行かれる。

魯庵】 そんならブリタニカにしたらどうだ。
    もう二た月もたてば荷が着くから・・・

紅葉】 そうさなあ
    二た月ぐらいは大丈夫と思うが、いつなんどきどうなるかわからん。
    二た月先に本が着いた時、幸い息がかよっていたにしても、
    ヒクヒクしてもう目が見えないでは何にもならない。(中略)

    生きのびようとは思わんが、欲しいと思うものは
    頭のハッキリしている中に自分の物として、一日でも長く見ておかないと
    執念が残る。字引に執念が残ってお化けに出るなんぞ男が廃らあな

魯庵】 むゝ、センチュリーなら直ぐ届ける

紅葉】 これで冥途へ好い土産が出来た ・・・・・・・・・


さて、ここを引用した板坂元氏は

「以前、ノーマン・マルコムの『ヴィトゲンシュタイン』を翻訳しながら、
 私はしばしば紅葉の逸話を思い出した。・・・・」

さてっと、板坂さんは、この最後をこうしめくくっております。

「 なにごとも受身になりがちで、無気力化が問題になっている今の
  多情報社会では、とくにこのような挑戦型の生き方が、
  人間らしく生きるためにも大切になってきている。

  また、書いた文章を読んでくれる人に対するエチケットとしても、
  情報収集に執念を燃やすことは、基本的な態度なのである。  」(p165)

はい。もちろん板坂さんは、途中にこういう言葉をはさみこんでおりました。
最後にそこも引用しておくことに。

「 われわれ凡人には、なかなかできることではないが、
  仕入のためには多かれ少なかれ執念といったものが必要だと思う。 」
  


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