和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

魅力の浮力。

2023-02-28 | 詩歌
本は数ページ読んでは、放り投げちゃうタイプです。
はい。児童のころから、そうでした。
いまでも、ちっともかわらないなあ。

こうして、私と本との、スタートラインはここでした。
ところが、詩集なら、本の数ページ分の字数でもって
詩集一冊を読みとおせちゃう。チンプンカンプンでも
最後まで読めちゃうので、途中で断念の罪悪感はなし。
一篇の詩を読みボンヤリしててもそれなりに様になる。

これは、私には発見でした。思潮社の現代詩文庫など、
手頃な価格の詩集の分かりやすい箇所をひらいてみる。

不思議なもので、その時は分からなくっても、
魅力は浮力となって、後になって浮んでくる。
浮んでくれば、その箇所をまたひろげてみる。
何回か繰り返してると本は捨てられなくなる。

気になった箇所が思い浮かぶと本を辞書のようにめくります。
探し出せないと、けっきょく最初から読んでいたり、そこに
なければ、あきらめたり。

あれ。こんな感じは、誰かの詩にあったなあ。


        辞書     杉山平一

     辞書の中に迷いこんで
     行きつけないで
     よその家へ上りこんで
     紅茶をのんで帰ってきた


  ( p95 「杉山平一詩集」現代詩文庫・思潮社  ) 


はい。『 よその家へ上りこんで 』しまうように、
この杉山平一詩集を、もうすこしパラパラとめくる。
あれれ、こんな詩もあった。と最後に引用するのは


       問い    杉山平一

   手段がそのまま
   目的であるのはうつくしい

   アイスクリームの容れものの三角が
   そのままたべるウエファースであり
   運ぶ木材の幾十百本が
   そのまま舟の筏であるように
  『 なんのために生きるのです 』
   そんな少女の問いかけに
  『 問いはそのまま答えであり 』と
   だれかの詩句を心に呟きつつ
   だまって僕はほほえんでみせる

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文章を書く上に。

2023-02-27 | 道しるべ
詩も言葉で、散文も言葉。
だからって、分けるのも何なのですが、
とかく分けた方がゴッチャにならない。

そこで、詩と散文と散文詩を並べておきます。
はい。ここには、『エンピツ』を例にとって。

はじまりに、神戸市菊水小学校四年の詩。

        雪    平井健允

    詩を書いていると
    雪が降ってきた
    エンピツの字がこくなった


つぎには、井上靖の「『きりん』のこと」という文から
この四年生の詩を引用してから、指摘されている箇所を。

「『雪』という詩になると、大人はもう敵(かな)わない。
  雪が降ってくると、実際に鉛筆の字はこくなって感じられる
  であろうと思う。大人では感じられないことを、少年は
  少年だけが持つ鋭い感性によって感じとっているのである。

  私はこれらの少年、少女の詩から、
  文章を書く上に、いろいろ教えられている。

  それぞれが、大人の詩人たちでさえ及ばない
  ようなものを持っているからである。

  しかし、こうした詩を読むことによって得た
  一番大きい貰いものは、小学校時代の子供たちが、
  例外なく鋭い感性を持ち、それを虫が触覚でも振り回すように
  振り回して生きているということを知ったことであった。・・  」

 ( p70  井上靖著「わが一期一会」毎日新聞社1982年  )


はい。井上靖には『雪』と題する散文詩がありました。
昭和40年5月号に掲載されたもの。つぎは、こちらを引用。


        雪     井上靖

   ――雪が降って来た。
   ――鉛筆の字が濃くなった。

   こういう二行の少年の詩を読んだことがある。
   十何年も昔のこと、『キリン』という童詩雑誌でみつけた詩だ。

   雪が降って来ると、私はいつもこの詩のことを思い出す。

   ああ、いま、小学校の教室という教室で、
   子供たちの書く鉛筆の字が濃くなりつつあるのだ、と。

   この思いはちょっと類のないほど豊穣で冷厳だ。
   勤勉、真摯、調和、
   そんなものともどこかで関係を持っている。

     ( p97~98  「井上靖全詩集」新潮文庫  )
     ( p104~105 「自選 井上靖詩集」旺文社文庫 )


    注:散文のように、つながって書かれているので、
      かってに、私なりの改行をしてしまいました。



ちなみに、『キリン』といえば、竹中郁さん。
竹中郁の詩に、鉛筆が出てくる詩があります。
こちらは、雪でなく夏でした。その詩を引用。


         夏の旅     竹中郁


      えんぴつをけずる
      えんぴつは山の匂いがする
      えんぴつは苔の匂いがする
      芯には鴉のつやがある
      安全かみそりの刄のつやがある

      えんぴつをはしらせる
      谷川を下る筏のさけび
      風にはねかえるつばめの反り
      おお えんぴつを使うと  
      夏の旅はすこぶる手軽だ
      二千円の旅も十円だ


はい。この詩が載った詩集『そのほか』を、
足立巻一氏の解題から引用しておくことに。


     第八詩集『そのほか』

 昭和43年12月25日、神戸市東灘区御影本町二丁目、
 中外書房より刊行。・・定価千円。署名本千五百円。
 ・・・・

 この時期、詩人は井上靖のすすめにより子どもの詩誌
 『きりん』の監修・選評及び子どもの詩の指導に没頭した。

 『きりん』は昭和23年2月、大阪尾崎書房から創刊され、
 曲折をへて東京理論社に発行を移譲し、46年3月に通巻
 220号で終刊した。

 その間、竹中は子どもの詩の選評をつづけた。
 『そのほか』という書名も、子ども詩が仕事の中心であり、
 詩作も余業という考えからつけられた。・・・・・

 杉山平一は44年7月刊の『四季』第五号で『そのほか』を評し、

『 かつての清冽な、星とかがやく純粋な光への志向は、
  詩人にとっては、そのまま人間性の純粋そのものへ
  の志向にふくらんでいる。

  氏が、戦後果たした『きりん』という子供の詩の
  育成への情熱は、子供のなかに清冽な純粋をみたからであり、

  その育成は、そのまま竹中氏の詩作そのものであったにちがいない。 』

 と評した。理解の行き届いた評言である。  」

(  p736~737 「竹中郁全詩集」角川書店・昭和58年  )


       








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『 私はその日 』

2023-02-26 | 先達たち
竹中郁の詩集「動物磁気」(昭和23年7月尾崎書房刊行)の
詩「開聞岳」のなかに、「焼野原の町の」という言葉がありました。

それでは、東京での焼野原は、どうだったのか?
大村はま先生に語っていただきます。

「 昭和22年中学が創設されました・・・

  私はいちばん最初に、来るようにと声をかけてくださった
  校長先生の学校へ行きました。それは江東地区の中学校でした。

  ご存じのとおり大戦災地でしたから、一面の焼野原で、
  朝、学校に行くにも、私は秋葉原という駅で教頭先生をお待ちしていて、
  いっしょに行きました。朝早くからでも女性一人で歩くのはむずかしか
  たのです。

  見渡す限りの焼野原、ところどころに、防空壕のあとがあります。
  まだ、そこに人の住んでいる壕もありましたから、足もとがパッと
  あいて人が出てくる。どこから人が出てくるかわからないのです。

  そこを通ってゆくと、焼け残った鉄筋コンクリートの工業学校が
  あります。その一部を借りて、私のつとめる深川第一中学校と
  いうのは出発しました。

  あのころ、雨が降って傘をさして授業をしているところや、
  大きな算盤(そろばん)がどうしたわけか焼け残っていて、
  その大きな算盤に腰掛けて、子どもが勉強している・・・・

  みんな私の教室でした。
  床があるわけでなく、ガラス戸があるわけでなし。
  本があるわけでなし、ノートがあるわけでない、
  紙はなし、鉛筆はなし・・そこへ赴任したわけです。

  一年生は四クラスで、一クラス50人でしたが、
 『 教室がないから二クラス100人いっしょにやってください 』
  と、こういうわけです。その100人の子どもは
  中学校の開校まで3月から一か月以上野放しになっていた子どもたちです。

  ウワンウワンと騒いでいて・・・・
  私は・・しばらく教室の隅に立ちつくしていました。・・

  ワァワァ騒いでいる中を、少しずつ動いて何か少し教えたりして、
  なんとか授業のかっこうをつけていました、
  とても一斉授業なんてできませんから。    」

こうして、大村はまは、西尾実先生のお宅へ伺います。

「 西尾先生は高笑いなさって、
  『 なかなかいいかっこうじゃないか、
    経験20年というベテランが、教室で立ち往生なんて・・ 』
  とおっしゃり、
  『 そういう時にこそ人間というもはほんものになるのだから、
    病気になったり、死んじゃったら困るけれども・・・    』
  と取り合ってくださいません。 ・・・・   」


うん。ここまでも長く引用しちゃいましたが、このあとでした。
大村はま先生はこのあとに『 私はその日 』と続けるのです。


「 私はその日、疎開の荷物の中から新聞とか雑誌とか、
  とにかくいろいろのものを引き出し、教材になるものをたくさんつくりました。
  約100ほどつくって、それに一つ一つ違った問題をつけて、
  ですから100とおりの教材ができたわけです。
  翌日それを持って教室へ出ました。

  そして、子どもを一人ずつつかまえては、
  『 これはこうやるのよ、こっちはこんなふうにしてごらん 』と、
  一つずつわたしていったのです。

  すると、これはまたどうでしょう、
  教材をもらった子どもから、食いつくように勉強し始めたのです。
  私はほんとうに驚いてしまいました。・・・・

  そして、子どもというものは、
  『 与えられた教材が自分に合っていて、
    それをやることがわかれば、こんな姿になるんだな 』
  ということがわかりました。それがない時には
  子どもは『犬ころ』みたいになることがわかりました。

  私は、みんながしいーんとなって床の上でじっとうずくまったり、
  窓わくの所へよりかかったり、壁の所へへばりついて書いたり、

  いろんなかっこうで勉強をしているのを見ながら、
  隣のへやへ行って思いっきり泣いてしまいました。・・・・

  私はそれ以後いかなる場合にも、子どもたちに騒がれることがあっても、
  子どもを責める気持ちにはどうしてもなれなくなりました。
  ・・・・・

  今でもときどきどうかした拍子に、子どもがよくやらないことがあります。
  もちろん、中学生なんてキカン坊盛りですから、私は今も
  『 静かにしなさい 』と言うことがあります。
  ありますけれども・・・慙愧(ざんき)にたえぬ思いなのです。

  能力がなくてこの子たちを静かにする案も持てなかったし、
  対策ができなかったから、万策つきて、敗北の形で
  『 静かにしなさい 』という文句を言うのだということを、
  私はかたく胸に体しています。・・・・・・          」


(  p72~77 大村はま「新編教えるということ」ちくま学芸文庫  )


  
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夢にもくっきりと現はれる。

2023-02-25 | 詩歌
終戦後の昭和22年。その頃の二人。
ひとりは、大村はま。もうひとりは、竹中郁。

はい。今回も竹中郁から。次回が大村はま。ということにします。


「竹中郁全詩集」(角川書店・昭和58年)。
この本の監修は井上靖。編集は、足立巻一・杉山平一。
ということで、最後には

  井上靖  竹中さんのこと
  杉山平一 竹中郁の世界
  足立巻一 解題
  足立巻一 年譜

がありました。そこの井上靖氏の文から

「私は終戦の20年8月から23年いっぱいぐらいまでを、
 つまり終戦後の3年半ばかりの間・・・
 私はこの奇妙な、ものの怪に憑かれたような
 3年半の時期を大阪で過した。・・・・

 童詩雑誌を出そうということになった。・・
 初め私が『たんぽぽ』という名をつけたが、竹中氏が現れると、
 あっという間に『きりん』という名に変ってしまった。・・

 今考えると、あの狐に化かされたような戦後の一季節が、
 なんとすばらしい時期に見えることか。・・・
 私たちがやっていたことは、
 このあとにも先にもない正確で純粋であったような気がする。
『 きりん 』はそういう時期の所産である。

 もう今はできない。あの季節だけにできたことなのである。
『 きりん 』は私の上京後も引続き発行され、37年に東京の
 理論社の手に移り、ずっと児童詩の世界で大きい仕事をしたが、
 46年に通巻220号で廃刊となっている。

 ・・まん中に坐っていたのは竹中さんである。・・
 私たちの仲間で一番暗くあって然るべきなのは
 竹中さんであったかも知れない。
 氏は戦火によって生家も、養家も、御自分の住居も、
 たくさんの蔵書もすっかり焼いてしまっているのである。

 氏はそうしたことから受けられた筈の心の打撃の、
 その片鱗をも見せなかった。構えているわけではなく、
 それがごく自然であった。・・・

 こうしたことは氏の第七詩集『動物磁気』をひもどくとよく判る。
 この詩集は23年7月、尾崎書房から出版されたもので、
 私が氏と漸く繁くお付合するようになったその時期の、
 戦後の作品が一冊に収められている。・・・・

 どの一篇をとっても、そこには戦後が顔を出しているが、
 しかし暗さはみじんもない。焼跡から詩を拾っているが、
 まるで宝石でも拾うような拾い方である。・・・・     」


はい。つい引用が長くなりました。最後に、
詩集『動物磁気』から一篇を引用したいのですが、
どれにしようか。そういえば、杉山平一氏の詩に
「開聞岳」と題する詩があったなあ。と思い出す。
その詩は、『竹中郁の詩が仲々見つからない』とあり、
その詩が、『やっと、大戦後の《動物磁気》に、見つける。』
とありました。はい。この竹中郁の詩『開聞岳』を引用。

   
       開聞岳     竹中郁

   このごろ
   しきりに開聞岳が見たい
   開聞岳 あの九州の南端の
   海から生えたやうな傑作だ
   夢にもくっきりと現はれる美しさ
   しきりに死火山開聞岳が見たい

     〇  

   昭和15年2月10日早暁
   海上から打ち眺めた
   開聞岳の眉目

     〇

   もの悲しい焼野原の町のゆくて
   ときどき 突然
   開聞岳が見える
   そして ぱったり消える
   アイスクリームをたべたより
   十倍も爽快だ



やはり、杉山平一の詩『開聞岳』も最後に引用しておきます。


       開聞岳    杉山平一


      昭和15年2月10日早暁
      海上から打ち眺めた
      開聞岳の眉目

     という竹中郁の詩が仲々見つからない。
     南方詩を集めた詩集『龍骨』に無く、
     やっと、大戦後の『動物磁気』に、見つける。

     晴れた夜、『海から生えたやうな傑作』と、
     竹中郁が歌ったこの本州最南端の山の頂上に立つと、
     ときに、南十字星の先端が地平に覗くのが見えるという。

     いまは、空が濁って、いよいよ見え難いかも知れない。
     きらりと澄む竹中郁という星を失って、
     濁っているのは空ばかりではない、と気がつく。


この杉山平一の詩は、詩集『木の間がくれ』に載ったようです。
この詩集についての説明もありました。

「 昭和62年10月30日、長野県埴科郡戸倉町小船山82
  終日閑房西澤賢一発行・・・

  本文手漉和紙飛騨河合山中和紙を使う、
  段ボールサック入り、限定87部・・・

  広く世に問うという自負もなかったし、
  短い詩ばかりなので、樹の向うにかくれて、
  チラッチラッとしか姿の見えない木の間がくれを題名にした。・・ 」

 ( p686 「 杉山平一全詩集〈 上 〉」編集工房ノア・1997年 )


はい。次回ブログは、昭和22年頃の、大村はまを取り上げます。
        

  

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花は走る 花は走りぬける。

2023-02-24 | 詩歌
昨夜、録画してあった『ポワロ』を見る。
録画が終って、放映中のテレビ番組に切りかわると、
その番組は日本テレビの「ケンミンショー」でした。
うん。その場面が忘れられません。

「滋賀県ダイナミック書道」と新聞番組表にあります。
小・中学生のようです。学校でも塾でも、書道は、
用紙をはみ出すようにして太い筆で書いております。
はい。書いているというよりは、描いている。
太く描けば描くほど、評価が高いのだという生徒たち。
どうして、そんな描き方になったのか、指導者のルーツも
辿られておりました。
明らかに、マス目に収めてゆく鉛筆・ペン書きの指導と並行して、
書道では、大胆で用紙からはみ出すのもお構いなしの書きっぷり。
見ている方も、思わず拍手をしたくなりました。

参加されている県民別のゲストのやりとりも印象に残ります。
書道の時は、あまり墨をつけすぎずに、服を汚したら落ちないのだから
と子供に念を押すお母さんの立場。すかさず、滋賀県出身のゲストさん、
そういえば、登校する皆が皆いつも墨がついた服を着ていたといいます。

生徒の書を展示された場面を見ると、書道の手本があって、
その同じ文字を書くのではなく、自分の好きな文字の書道のようです。
それも、これも、これを指導しはじめた方のことまでが思えてきます。

そうそう、清水の舞台で年一回。老師が今年の一文字を描くでしょう。
あんな感じでした。

ところで、詩人・竹中郁。この詩人がどんな詩人なのか
初期詩編は、私などに歯がたたず、理解不能な感じです。
けれども、竹中郁氏ご自身が、書かれた文がおもしろい。

「 わたくしは奇妙な初対面の記憶を二つ持っている。 」

と短文ははじまり、三島由紀夫と吉田健一の二人が登場します。

「 ひとつは三島由紀夫氏が作家の花道をすっくと立った頃、
  銀座四丁目の歩道で猪熊弦一郎氏に紹介された。

  三島氏は『 あなたの作詩を愛読しました 』といって、
  つづいてその詩をすらすらと間ちがいもなしに暗誦して、
  どうですといったような顔つきをした。・・・・・

  まっ昼間の人通りの多い歩道の上でのことだから、
  どう考えてもやはり異才の行動とでも云って納得するほかない。 」


「 もう一つは、吉田健一氏であった。
  これは場所は大阪か神戸かの小ていな料理屋の、
  潮どき前のしずかな時間、客といえば吉田氏と
  わたしのほかに一人か二人、かねて打ち合わせてあった初対面。

  そのときも、吉田さんは一通りの挨拶がすむと、
  わたくしの詩の暗誦を抑え目の声ではじめられた。・・・   」

  (  p127~128 「竹中郁詩集」現代詩文庫・思潮社   )


はい。こういう詩人が、戦後、子どもの詩の選評をはじめます。
私は、滋賀県の書道の指導者のことを重ねて思ってしまいます。
子ども詩の指導と、滋賀県の書道の指導とをついダブらせます。


はい。最後は、竹中郁の詩を引用したいと思います。
竹中郁少年詩集『子ども闘牛士』( 理論社・1999年 )。

その前に、竹中郁『子どもの言いぶん』(PHP・1973年)から
竹中郁が選んだ詩の3番目でした。その3行目までを引用してから
竹中郁の詩「花は走る」を引用してみることに。



     おかあさんの鏡    四年 宗次恭子

   おかあさんの鏡
   畠のはっぱがうつっている
   おかあさんが縫物をしている
    ・・・・・・


ここに、鏡に「 畠のはっぱがうつっている 」とあったのでした。
はい。つぎは、竹中郁の詩『 花は走る 』の全文。

       花は走る     竹中郁

   すみれが済んで 木瓜(ぼけ)が済んで
   山吹 チューリップ
   やがて胡蝶花(こちょうか) 夾竹桃(きょうちくとう)
   わが家の小庭のつつましい祭りつづき
   幼稚園友だちが誘いにきて
   孫が答えながら走りでてゆく
   そのにぎやかな声と足音

   去年今年(こぞことし)と年々
   わが右の高頬(たかほお)に太るしみ
   鏡に見入るその背後(うしろ)を
   花は 花は走る
   花は走りぬける



はい。たとえば、歌会始には、あらかじめお題が出されていますね。
ほぼ一文字のお題があって、それで歌を詠む。
たまたま、ここには『鏡』がある詩がふたつ。
四年 宗次恭子さんの詩と、竹中郁の詩。



うん。あとは余分かもしれませんが、蛇足のたのしみ。
以下に、四年生の詩「おかあさんの鏡」の全文と
竹中郁の選評とを引用。


      おかあさんの鏡   四年 宗次恭子

    おかあさんの鏡
    畠のはっぱがうつっている
    おかあさんが縫物をしている
    赤い縫物をしている
    針がせっせと動いている
    針がせっせと動いているえん先
    おかあさんの鏡にうつっている


 この詩では、さきの二つの作よりも一そうていねいに
 見つめよう、見のがすまい、という意思を感じる。

 同じ教室で同じ先生に指導されていても、こういう
 個人差はでてくるのがあたりまえである。

  (   p12~13 竹中郁「子どもの言いぶん」   )

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しかもその上書いて。

2023-02-23 | 詩歌
竹中郁『子どもの言いぶん』(PHP研究所・昭和48年)をひらく。

子どもの詩を、竹中氏が引用し並べております。
ていねいに選び、評を書きこんであるのがミソ。

はじまりの、子どもの詩は、4行。

      がく    五年 篠原美雪

   教室の前
  「仲よく」と書いてあるがくの中に
   みんながうつっている
   エンピツをくわえている人もいる

うん。額の中に、言葉とともにクラス全員の写真が入れてある
というふうに読むこともできるのでしょうが、私は違いました。

はい。教室の黒板の上あたりでしょうか。
『仲よく』と書かれた文字が、額で掲げられてある。
その額のガラスに、光の加減で皆がうつりこんでる。
その中に『 えんぴつをくわえている人もいる 』。

ということでしょうか。この詩をはじめにもってくる。
すると、ひとつの謎解きのような詩にも思えてきます。

その謎を今日これから解いてみたくなります。
額には、言葉があるのだけれど同時に作者は、
その額に写る『みんな』を見ているのでした。

そんなことを、思いながら、私が気になったのは、
竹中郁さんが、この本の4番目に掲げた詩でした。
その詩と、竹中氏の選評とをまずは並べてみます。


       猫    六年 高垣順子

   隣の人は
   皆 ねこがすきだ
   前には白いねこ
   今は黒いねこ   
   前のねこは
   ざぶとんをよけて通った
   今のねこは
   平気でふんで通る


はい。ここに『猫』という六年生の詩があって、
それを竹中郁さんは、額として掲げるように引用しております。
その額ガラスに写し出される時代の姿を竹中氏は語るのでした。


「 この作者は神戸の麻耶校にいた。
  六年生になったばかりのころの作品だが・・・

  ちょうどこのころは、日本が戦争にまけて
  大きな都会ではたべものが手にはいりにくくて、
  どの人もこの人もやせて青い顔をしていた。

  子どもといえども同じで、焼け野原にいそいで建てた
  バラック小屋から学校へ通っていた。
  着るものもまずしく見すぼらしかった。

  この高垣さんもそのなかの一人だったにちがいないが、
  そんな境遇に負けることもなくすくすくと成長をつづけている。

  その精神のすこやかさが読みとれる。高垣さんは、
  世の中の混乱やよごれに染まらないで、こういう
  行儀のよい猫の方に軍配をあげているのだ。
  清潔や秩序というものを尊んでいるのだ。   」  ( p14 )


もうすこし、この額にうつるその頃の時代と、
それを語る大人の語り口とを紹介することに。

はい。井上靖の「『きりん』のこと」から引用。

「 ・・・昭和22年の秋・・・

  編集部は梅田の焼け跡に建てられていた尾崎書房に置いた。・・
  私たちは夕方そこに集まり、詩を選んだり・・・
  付近はまだ焼け野原で、何もかもが乏しい時代であった。

  ・・選が終わると、私は竹中、足立両氏と連れだって、
  尾崎書房を出て、闇市の一画を突っ切って、大阪駅の前まで行き、
  そこで両氏と別れた。

  私は省線電車に乗り、茨木駅で下車して、田圃の中の自分のねぐらに帰った。
  当時家族の者は郷里伊豆の家に疎開したままになっていて、
  私は一人住まいであった。家と言っても、小さな別棟の離れを
  借りているだけのことで、住居の恰好はしていなかったが、
  私はそこで自炊生活をしていた。

  まだ終戦後の混乱期が続いており、世の中にも、
  私自身の生活にも、安定した戦後は始まっていなかった。

  少し大袈裟な言い方をすれば、私はその夜、
  たまたま小学校から送られて来た二人の少女の詩に、

  感心したというより、何もかも初めからやり直さなければ
  ならないといったような思いにさせられていた。・・・・

  その二編の少女の詩の持つ水にでも洗われたような
  埃というものの全くない美しさに参ってしまったのである。

  それぞれ十行ほどの短い詩であったが、
  子供だけの持つ汚れのない抒情が、幼い字で書き記されてあって、
  大人ではこんな風には書けないと思った。
  余分なことは一語も書かれていず・・・・・

 『 いちょう 』を読むと、いちょうの葉の落ちている校庭で、
  滑り台を滑っている小学一年生の少女の姿が眼に浮かんでくる。

  そしてその時の少女の気持が、手にとるようにはっきりと、
  こちらに伝わってくる。

  少女は淋しいと思っているのでも、悲しいと思っているのでもなく、
  うつくしいな、ただそれだけである。そして、いちょうの落ちている
  庭で、いちょうの落ちるのを眺めながら、滑り台を滑っているのである。」

 ( p64~67 井上靖著「わが一期一会」毎日新聞社・1982年 )



つぎに、その詩『 いちょう 』を引用。


        いちょう
  
     きれいな いちょう
     おおきなきに
     ついている
     かぜにふかれて
     おちていく
     うつくしいな
     わたしは それをみて
     すべりっこを
     すべりました

   (  京都府大枝小学校一年  山田いく子  )



この詩『いちょう』を、私は読めるのかどうか?

『 水にでも洗われたような埃というものの全くない 』
透き通ったガラスにうつりこんでしまう、自分の姿と背景。

『 大人ではこんな風には書けないと思った 』
子どもの詩を選ぶ、というのは、こういう視線なのですね。


さいごに、竹中郁『子どもの言いぶん』
の『まえがき』からも引用しておきます。

「  書くという作業は、もちろん他人につたえる
   のが半分以上の目的ではある。

   しかし、子どもの場合は必ずしも、そうとばかりは限らない。
   ひとりのつぶやきのようなものを書くことが、刺激になって、
   心が応じて成長するのだ。

   躰はたべることで成長する。たべて躰を動かすことで成長する。
   精神の方は感じて考えて、しかもその上書いて、成長する。   」



 


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澄んでしみ入るような。

2023-02-21 | 詩歌
戦後の、大村はま先生はどうしていたか。

「 昭和22年中学が創設されました時に、
  最初の生みの苦しみを味わった中の一人です 」

    ( p72 大村はま「新編教えるということ」ちくま学芸文庫 )

ちょうど、その頃。大阪では、月刊詩文誌『きりん』の創刊がありました。
「昭和22年の秋、大阪の尾崎書房」が雑誌を出したいと申し出るのでした。
ここはまず、井上靖氏の文を引用。

「・・私(井上靖)は詩人の竹中郁に相談し、
 小学生向きの月刊詩文誌がいいだろうということになって・・・
 創刊号は翌23年2月に出た。・・・   」

この井上氏の文「『きりん』のこと」には、
井上氏が小学生の詩に触れた場面が書かれております。

「 少し大袈裟な言い方をすれば、私はその夜、
  たまたま小学校から送られて来た二人の少女の詩に、
  感心したというより、何もかも初めからやり直さなければ
  ならないといったような思いにさせられていた。・・・・

  その二編の少女の詩の持つ水にでも洗われたような
  埃というものの全くない美しさに参ってしまったのである。
  
  ・・・幼い字で書き記されてあって、大人ではこんな風には
  書けないと思った。余分なことは一語も書かれていず、
  水の中を流れている藻でも見るように、子供の心が澄んで見えている。 」

   ( p64~67 井上靖著「わが一期一会」毎日新聞社・1982年 )


これについては、次に足立巻一氏の文を引用。
『きりん』はいつごろまでつづいていたのか?

「 1971年3月、通巻220号まで出ました。
  途中休んだときもありましたけれど、
  創刊以来23年間もつづいたことになります。

  そのあいだ、竹中先生は毎月たくさんの子どもの詩を読み、
  選び、評を書きつづけました。一度も休んだことがありません。 」

『きりん』の発行とはべつに、1950年から大阪市立児童文化会館で
 毎月一回、子どもたちが詩を持ちよる『子ども詩の会』が開かれ、
 竹中先生はその詩の一編一編を批評し、詩の指導につとめられました。」

この文のなかで、足立さんは、竹中氏の言葉を引用されておりました。

『 30数年にわたって情熱をそそいできた児童文化育成の仕事も、
  ことしの3月をもって終止符を打った。体力の弱ったことが
  その大原因であった。

  2時間以上も立ったままで、子どもたちの注意をそらさぬよう
  に話を進めることは、76歳にもなると辛(つら)いことだった  』

そして1982年3月7日、77歳で竹中郁は亡くなります。
足立さんは、竹中氏のこの言葉も引用しておりました。


『 自分みずからの詩作品を書いてゆけることも
  しあわせの一つにはちがいないが、

  日本のあちこちから集まってくる子どもの声、
  清らかに澄んでしみ入るような詩の数々を毎日読み、  
  かつ選び出していく仕事は、他の何にもまして充実した時間だった 』

「 先生は第八詩集を『そのほか』と題されました。
  子どもの詩を読むことが第一で、自作の詩は
  余分のことだという考えから名づけられたのです。 」

(  以上引用は、竹中郁少年詩集「子ども闘牛士」理論社の
   最後にある、足立巻一の「竹中先生について」からでした   )


うん。これだけでは、まだ曖昧な憶測を許すところがある。
ここは、竹中郁さんの立ち位置を示す言葉を、最後に引用。

それは、竹中郁・採集 「子供は見ている」(東都書房・昭和34年)の
竹中郁の『まえがき』にありました。


「 詩を書くためには、見つめなければならない。
  見つめれば感じることができる。次に考えることができる。  
  見て書く、或は目以外の耳、鼻、皮膚、など五官をつかって書く。

  こういう訓練は、あらゆる文化の分野に通じるものである。
  小さい時の訓練は、或はその子供が造船技師になった場合、
  或は政治家になった場合、必要に応じて発明や創案を生み
  だしてくるだろう。
  そのための『詩』の訓練なのだ。・・と、わたくしはいいたい。

  子供は、或る時期のあいだ、何をみても何をきいても、
  何をさわっても、詩にしてしまう時期がある。
  長い短いは人によってちがうが、とにかく必ずある。
  そして、その時期がすむと、けろりと忘れ去る。・・・・・

  ここに集まった詩の作者で、
  現に上級の学校へいっている者も多いが、
  詩を書く習慣をもちつづけている者は殆どない。

  しかし、他のものを書くとか、創造するとかいう能力においては、
  小さい時に詩を書かなかった人より、はるかに大きい力を示して
  いるふしがある。

  つまり、小さいときに『詩の素』をたべて育ったらば、
  その一生に狂いはないというのが、詩の教育の眼目なのである。
  そこに尊い使命がある。・・・・               」


  
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のびろ のびろ

2023-02-20 | 詩歌
今日起きて、本棚から取り出してきたのは
竹中郁少年詩集『 子ども闘牛士 』(理論社・1999年)。

目次の最初の章は『 子どもへ 』とあり、5篇の詩があります。
はじまりの詩を引用。

      もしも    竹中郁

  もしも この地球の上に
  こどもがいなかったら
  おとなばかりで
  としよりばかりで
  おとなはみんなむっつりとなり
  としよりはみんな泣き顔となり
  地球はすっかり色をうしない
  つまらぬ土くれとなるでしょう

  こどもは はとです
  こどもはアコーデオンです
  こどもは金のゆびわです

  ・・・・・・


はい。途中まで引用しました。
この本の目次のさいごには、こうありました。

 「 カバー・表紙・とびら・挿画は著者の作品
   挿入のはがきは著者より家族へのもの
   若き日の著者像(p157)は小磯良平画伯の作品  」

はい。詩もそうなんでしょうが、
この詩集をひらくと、ところどころに、挿絵として使われてる、
絵と言葉のはがきに、私は魅せられます。まるで、その葉書が、
詩集の余白に染みて、そこでひろがってくるかのような存在感。

さてっと、詩集の3番目の詩は『のびろ のびろ』で始まります。

     竹のように    竹中郁

   のびろ のびろ
   まっすぐ のびろ
   こどもたちよ
   竹のように のびろ

   風をうけて さらさらと鳴れよ
   日をうけて きらきらと光れよ
   雨をうけたら じっとしてろ
   雪がつもれば 一そうこらえろ
   石をなげつけられたら
   かちんとひびけ

   ・・・・・・・・


はい。この詩も、途中まで引用しました。
『 のびろ のびろ 』で、私は大村はまを思い浮かべておりました。

大村はま著「新編 教えるということ」(ちくま学芸文庫)の
はじまりの講演「教えるということ」のなかの小見出し「教師の資格」
という箇所にそれはありました。


「  ・・・・子どもというのは、
  『 身の程知らずに伸びたい人 』のことだと思うからです。

  いくつであっても、伸びたくて伸びたくて・・・・、
  学力もなくて、頭も悪くてという人も、
  伸びたいという精神においては、みな同じだと思います。
  一歩でも前進したくてたまらないのです。

  そして、力をつけたくて、希望に燃えている。
  その塊(かたまり)が子どもなのです。・・・・・

  子どもと同じ世界にいたければ、
  精神修養なんかではとてもだめで・・・・

  もっともっと大事なことは、研究をしていて、
  勉強の苦しみと喜びとをひしひしと、日に日に感じていること、
  そして、伸びたい希望が胸にあふれていることです。
  私は、それこそ教師の資格だと思います。       」(p27~28)


ちなみに、これは
「1970年8月、富山県小学校新規採用教員研修会での講演」とありました。
うん。ここを、切り貼りし、つなげてみたくなります。


   『  子どもと同じ世界にいたければ・・・
      伸びたい希望が胸にあふれていることです。  』
  



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生徒の作文を抱えて歩いて。

2023-02-19 | 短文紹介
作文といえば、坂本遼さんのエピソードが思い浮かびます。

竹中郁の短文「坂本遼 たんぽぽの詩人」。
そのなかに、こんな箇所。

「 『きりん』に集まってくる小学生の詩と作文は、
  詩は私が、作文は坂本君がと手分けして選ぶのだが、
  各々が三日くらいかかって選んだ。

  坂本君はそのために高価な大きな皮カバンを買って、
  5キロくらいの重さの原稿をもち歩いていた。・・・ 」

  ( p123 現代詩文庫「竹中郁」思潮社 )
  ( p180 竹中郁「消えゆく幻燈」編集工房ノア )


はい。『きりん』って何だろう?
それには、井上靖氏の「『きりん』のこと」という文が答えてくれています。

「昭和22年の秋、大阪の尾崎書房という出版社の若い社長・・・が、
 何か文学関係の雑誌を出したいが手伝ってくれないかという・・・

 私は詩人の竹中郁氏に相談し、小学生向きの月刊詩文誌がいいだろう
 ということになって、二人でそれを応援することにした。

 日本は戦争で何もかもなくなてしまったが、
 言葉だけが残っている、その言葉を使って、子供に詩を書かせたら・・

 そしてやはり詩人の坂本遼、足立巻一両氏にも、
 編集スタッフとして協力して貰うことを頼んだ・・・

 創刊号は翌23年2月に出た。粗末な紙で造った20ページ・・・ 」

 ( p64 井上靖著「わが一期一会」毎日新聞社・1982年 )


ちょっともどって、藤原正彦氏の短文を、もう一度引用。

「 現に、(大村はま先生が)生徒の作文を抱えて歩いていたら、
  校長に『 そんなものはストーブにくべてしまえ 』と
  言われたとうかがった。真意は
 『 たとえ忙しくて作文をすべて読んでやれなくても、
   ぜひ今のままどしどし書かせてくれ 』なのである。

  手のかかる作文指導を続ける若い教師への
  ねぎらいであり励ましである。・・・     」

 ( p323 「 かけがえなき この教室に集う 」小学館 )

はい。ここに出てきている
『 手のかかる作文指導を続ける若い教師 』の大村はま先生は
いったい、どのような作文指導をしていたのか、興味あるところです。

ちょうど、パラリとひらいた箇所に『諏訪高女のころ』がありました。
最後には、ここを引用しておくことに。

「そのころ、子どもたちの作品を読んで、
『 ここのところはもう少しよく思い出して、くわしく書きなさい 』とか、
『 ここの情景の書き方がもの足りない 』とか、
『 もう少し気持ちを表すように 』

 とかいう助言・指導ではいけないのではないか。
 子どもたちは・・実際にどのようにしたらよいか、
 助言を受け入れて処理する意欲も実力も育てられないのではないか。

 ・・・・直接に端的に、批評し注意し、指示するのはやさしいのですが、
 そうではなく、と考えますと、容易に思いつかず、
 一編の作文に小一時間もかけてしまったりしました。・・・
『なになにをもう少し細かく。』式の評を書いてしまったこともありました。

 それで、それが思ったように書けますと、うれしくて大事で、
 残しておきたくて自分で書き写したのです。
 コピーなどあるはずもない、昭和も一けた時代のことです。
 文章を書き写して、自分の書いた赤い文字は赤で書いてあります。
 自分で自分の思いつきがよほどうれしかったのだと思います。  」

( p123~124 「大村はま国語教室」別巻。自伝 実践・研究目録 )


こんなことをしている、若い女教師を、見守る校長先生の
怒鳴る言葉が実感としてつたわってくるような気がしてきます。
まあ、そんなことを、藤原正彦氏の文に読み取ってしまいます。





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『 はじめに 』の効用。

2023-02-18 | 前書・後書。
大村はま・安野光雅対談に

大村】 ・・・いろいろの読書論をみんなで読みました。
    ・・・梅棹忠夫さんの『知的生産の技術』も
      『図書』に出て、とにかく、いろいろな
      読書論を読んで話し合っていたんです。

   (  p207 大村はま著「心のパン屋さん」筑摩書房・1999年 )

ここに、岩波書店の月刊雑誌『図書』に
梅棹忠夫氏が載せた文の言及があります。
岩波新書の『知的生産の技術』と言ってない。

まあ、それやこれやで、講談社文庫の
藤本ますみ著「知的生産者たちの現場」を古本で購入。
さっそく、その文庫をひらいてみると、あらたに一章
『もうひとつのエピローグ』が付けくわえられてます。

はい。こちらも、引用しておかなくては。
その一章は「文庫版への補章」と副題で、
まずは、はじまりを引用。

「『知的生産者たちの現場』の初版が出たのは
 1984年2月のことである。あれから、すでに
 3年あまりの歳月が経過した。・・・」

はい。ここだけは引用しておきたいという箇所。

「この本(知的生産の技術)の真髄は、『はじめに』の章にある、
 とわたしはおもっている。出だしから、本質にふれることが、のべられている。」
                ( p285 )

「 ワープロ操作のことでいきづまると、その都度、
  取扱説明書の指示にしたがって、解決をはかる。

  おなじように、書いている内容や書き方のほうで
  迷いが生じたら、そのときはまず
 『知的生産の技術』(岩波新書)を、ひもとく。

 この本は、原稿作成のためのマニュアルの役割を
 はたしてくれるからだ。しかし、それだけではない。・・・ 」(p285)


「 梅棹先生との出会いは、
  わたしの生きかたまで、
  かえてしまったのである。 」(p286)


うん。この文庫を読んでいただけばよいのでしょうが、
そうそう、古本を買わないでしょうから、あと一箇所。
それはB6カードに触れている箇所。

「 この作業は、頭のなかにある思いや考えを、
  ことばになおす第一段階である。

  手ごたえがあって、これはいける、とおもったら、
  それらのことばが逃げないうちに、すばやくつかまえ、

  B6カードでもなんでもいいから、かきつけてしまう。
  
  ・・・・わたしの場合は・・ばらばらのまま、順不同で出てくるので、
  あとでそれをならべかえる必要がある。B6カードにかいてあると、

  この作業が、きわめてやりやすくなる。
  思いついたことは、宙でやりくりするより、
  目のまえで、手をつかって入れかえるほうが、
  それこそ、手ごたえがあって、
  われながら仕事をしている、という実感がわいてくる。 」(p296)


はい。同じ本であっても、単行本と文庫本では、
多少の違いがあることがあります。そこが魅力。

  
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『諏訪のジャジャ馬』の息子。

2023-02-17 | 地域
大村はまの年譜には

昭和3(1928)年 3月 東京女子大学卒業
         8月 長野県諏訪高等女学校に赴任
昭和13(1938)年  府立第八高等女学校に転任

とあります。大学を卒業して赴任した諏訪という場所が
どういうところだったのかを藤原正彦氏が書いています。

「 大村はま先生は十年間、諏訪高女で教えられた。

  信州というのは特殊な地域である。
  田毎(たごと)の月にちなんで田毎の学者と言われる。
  
  人々は理屈っぽい。風呂たきおばさんが文芸春秋を読んでいた、
  などとよく言われる。教育にも熱心で、
  我が国最初の開智学校以来、信濃教育として名を馳せてきた。

  諏訪は信州の中でももっとも信州らしい所で、
  長所短所がここでは増幅されている。

  短所の一つであろう、諏訪人は誰彼かまわず、
  ぞんざいな言葉で単刀直入に斬り込む癖がある。

  ・・・信州の教育界では、
  諏訪で四年間勤めれば一人前になる、
  とよく言われたものである。

  ・・・諏訪の旧制中学校や女学校の教師陣は、
  今も語り継がれるほどの多士済々だった。・・

  私の母のような鼻っ柱が強くて生意気な者が多かったはずである。
  野武士とジャジャ馬の群の真っ只中に舞い降りた・・女教師  」

   ( p323 藤原正彦「我が家の文運」・大村はま白寿記念文集 )


藤原正彦氏は、平成15年の秋に、大村はま先生と対談します。
その場面も引用。

「 気性の激しい母を指導した大先生ということで、
  さすがの私も大分緊張した。・・・・

  ソファの先生は、私をどこか懐かしそうに眺め、
 『 ていさんの息子さんねー 』とおっしゃられた。 」( p322 )


注:
大村はま(1906年(明治39年)6月2日 - 2005年(平成17年)4月17日 )
は、98歳没となっております。これは亡くなる2年前の対談のときでした。 

 


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最初の2行が読みたい。

2023-02-16 | 本棚並べ
藤原正彦氏が、大村はまの作文指導を指摘されていました。

「 先生は・・・生徒の作文指導をしていくうちに、
  うまく書けた作文とだめな作文には、それぞれ
  書き出しに一定のパターンがあることに気づかされた。

  たとえば『夏休み』という題で書く時、
 『 明日から夏休みですが宿題が心配です 』
  などという書き出しでは必ずだめになる。

  そこで先生はそれらを型として分類されたそうである。

  実際、途中で書けなくなっている生徒に書き出しを
  二行くらい書いてやると、うまく書き続けることができるという。

  書き出しで作文全体の出来が大体決まってしまう、
  というのは大変な発見と思う。

  数学や物理学では、初期値が与えられると
  結果が完全に決まってしまう、ということがよくある。
  これの国語版と言える。・・・・           」

 ( p324 「かけがえなきこの教室に集う」小学館・2004年 )

生徒の作文を抱えて歩いていた大村はま先生。職員室の先生方の前で、
『作文の研究じゃいけないんですか!』と怒鳴ってしまった大村はま先生。

うん。ここに
「  実際、途中で書けなくなっている生徒に書き出しを
   二行くらい書いてやると、うまく書き続けることができるという。  
   書き出しで作文全体の出来が大体決まってしまう        」

とあったのでした。
ここまでくれば『 最初の2行が読みたい 』といいたくなります。
ここで、思い浮かぶのは週刊新潮を立ち上げた、齋藤十一氏でした。

その回想に、こんな箇所があります。

「 齋藤さんがタイトルを大切になさっていたことは、
  あまり知られていないことかもしれない。

 『 週刊新潮 』の編集長が野平健一になっても、
  そのあとの山田彦彌になっても、毎週の特集の

  タイトル4本か5本は、すべて齋藤さんが
  ご自分で付けられていた。
  特集だけはゲラもお読みになっていたと思う。
  そして、すべての作業が終わったあとの
  30分間ぐらいを使ってタイトルをつくられた。

  うまかった。読んでみたいと思わされるタイトルだった。
  ・・・特集の書かれている内容よりタイトルの方がセンスがあった。 」

       (  p86 「編集者齋藤十一」冬花社・2006年  )

これは、亀井龍夫氏の文のなかにありました。
もうひとり、石井昴氏の文は『 タイトルがすべて 』とあります。
最後にこちらからも、ちょっと引用。

「・・『 編集者ほど素晴らしい商売はないじゃないか、
     いくら金になるからって下等な事はやってくれるなよ 』
  
   『 俺は毎日新しい雑誌の目次を考えているんだ 』

   次から次に熱い思いを我々若輩に語りかけられた。
   齋藤さんの一言一言が編集者としての私には血となり肉となった。 」
                        ( p182~183 )

作文指導の大村はま先生と、
雑誌編集者の齋藤十一とを、並べての『重ね読み』。
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『 作文の研究じゃいけないんですか 』

2023-02-16 | 絵・言葉
昨日は、思いったって出かける場所がありました。
もどってきたらもうブログの更新をせず仕舞い(笑)。

一昨日、古本が届きました。「大村はま白寿記念文集」とあり、
題が「かけがえなき この教室に集う」( 小学館・2004年 )。
この目次をめくっていると、藤原正彦の3ぺージの短文がある。
はい。これを読んで、私はもう満腹。

藤原正彦氏の短文は、内容がこれでもかと、詰まっていて、
これは大胆カットしなければ、ここには引用できないなあ。
ここでは、『 作文 』に関連する箇所とりあげてみます。

作文といえば、大村はま先生は、講演で
信州の教育風土を語った中にこんな場面があったことが
あらためて思い浮かびます。まずはそこから引用はじめ。

「・・とうとう私は、職員室のまん中で20幾人かいる先生がたの
 まん中で――校長先生ももちろんおいでになっていました――
 『 作文の研究じゃいけないんですか! 』と、大声でどなってしまいました。」

   ( p20 大村はま「新編 教えるということ」ちくま学芸文庫 )


もどって、藤原正彦氏の短文に、『作文』が登場しておりました。
場面は、正彦氏と大村はまの対談に関連してはじまっております。

「 母(藤原てい)が県立諏訪高女に12歳で入学したのは昭和6年だから、
  大村はま先生は25歳だったはずである。 」 (p322)

正彦氏の文に、母ていさんの『作文』の話題がありました。

「 先生が本気で指導されていたことは、
  母の作文までよく覚えていることからも分かった。
 
  寄宿舎住まいの母が、週末に両親の元に帰る際には、
  祖父が途中まで迎えに来ることになっていた。

  早く着いた母が身を隠していると、祖父が
  『 ていはどこだ、いねーか 』とあちこちを探し回る。
  
  それが帰省の楽しみの一つだった、
  などというエピソードを聞かせていただいた。

  70年以上覚えているのだから、よほど真剣に
  生徒の作文を読まれていたはずである。・・
  このような・・作文指導と励ましがあったから、

  後に母は『流れる星は生きている』を書く気になったのだろう。
  母に刺激されて父(新田次郎)が書き始め、
  両親の影響で私も書き始めたから、

  我が家の文運はすべて大村はま先生の贈り物だったとも言える。 」
                             ( p324 )

この藤原正彦氏の短文の最後には、小さい挿絵が載っていました。
遠くに山々が前後してあり、その前に林がひろがり一番手前には、
草原のような道を帽子をかぶって髪をなびかせて歩く女性がいる。
腕には白いものを抱え、諏訪の山々へ向き合い歩いているのです。

はい。正彦氏の短文に、思い当たる箇所があります。
そこも引用しておくことに。

「 現に、生徒の作文を抱えて歩いていたら、校長に

 『 そんなものはストーブにくべてしまえ 』と

  いわれたとうかがった。真意は

 『 たとえ忙しくて作文をすべて読んでやれなくても、
   ぜひ今のままどしどし書かせてくれ 』なのである。

  手のかかる作文指導を続ける若い教師への
  ねぎらいであり励ましである。
  先生はこのように荒っぽく鍛えられたのだろうが、
  諏訪人のこんな物言いには大分悩まされたと思う。

 『 諏訪で育てられた 』と言われたのでうれしかった。
  先生の度量の大きさであろう。   」( p323 )


うん。挿絵のそば、藤原正彦氏の文の最後も引用しておかなきゃ。

「 ・・・大村先生にお会いして、
  教育界にもこのような独創的な人がいるのだ、
  このような先生に日本は支えられていたのだ、
  と感銘を受けた。

  帰途、大村先生の薫陶の最下流に立っている
  自分が誇らしかった。            」( p324 )


これだけ引用しても、引用したりない箇所が残ります。
藤原正彦氏の短文から、抜け出せない気分でおります。

はい。もうすこしこの短文のまわりをウロウロしてみます。
ということで、次のブログも、このウロウロがつづきます。


 





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『 旅の絵本 』と『 河童の三平 』

2023-02-14 | 絵・言葉
安野光雅著「旅の絵本」を、
はじめてひらいたとき、私はつまらなかった。

はい。大村はま・安野光雅対談を読んで、
なるほど、なるほど。と合点したしだい。
そうすると、そこから、連想がひろがる。

はい。ゆっくりと時間をかけてひろがる。
たとえば、私が思い描いたのは、掛け軸。

床の間に、掛け軸がかかっているイメージ。
季節で掛け軸を替えるのが本来でしょうが、
一年中ほとんど同じ掛け軸の時もあります。

そのひとつ、水墨画の山水を描いた掛け軸。
掛け軸の下には川の水が流れていてだんだん、
掛け軸の上にゆくにしたがい深山へ導かれる。

その川に橋などがかかっていて、そこを人が
渡っていたりすると、奥には人家があったり。

はい。安野光雅著『 旅の絵本 』というのは、
発想が同じなのじゃないのかと思ったわけです。

掛け軸の水墨画のような世界を、カラーの絵本で表現している。
そう思えば、連綿と続く日本の絵の表現の流れとつながりそう。

はい。ぼんやりしていると、もうひとつ思い浮かんだのは、
水木しげる著「河童の三平(全)」(ちくま文庫)でした。
うん。そのはじまりを今日は引用したくなりました。
こちらは、マンガですから、当然言葉もありました。
はじまりは

「 ここは5年か10年にひとりかふたりの
  人しかはいってこないという山奥である。
  そこに一軒の家があった・・・・     』

こうして、山の傾斜に藁ぶきの屋根の家がありました。
お爺さんと主人公が住んでいるようです。お爺さんが、

「 おまえはきょうから小学一年生として村の小学校に入学する 」

主人公は、河原三平。笹原をザワザワザワと手でわけて学校へ。
 「  学校まで10キロもあるのだ  」

そんなある日、三平は川に魚つりに行き、舟でねむってしまいます。

「 三平が、ふつうの子どものように、10時間ねむればしぜんに
  目がさめるというのなら、問題はなかったが三平は生まれつき
  一度ねむると、人がおこすまで目がさめない子どもだった。 」(p15)

 
「 なん時間 いや なん日間ねむりつづけたのであろうか・・・
  船はみょうなところへながされていた            」

はい。このp16の絵が、川を中心に切り立った奥深い山間が描かれています。
その川の真中に舟がすすみ、グーグーと鼾が聞こえます。


佐藤坊やのことを、思い浮かべているうちに、
水墨画から河童の三平へ思いが広がりました。

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『 旅の絵本 』の魅力。

2023-02-13 | 絵・言葉
大村はま・安野光雅対談で
安野光雅著『 旅の絵本 』のことが取り上げられています
( ちなみに、この絵本は1977年福音館書店から発売。以後続刊も )。

この絵本に関しての2人の会話は丁々発止という感じで弾んでいます。
ですが、両方を引用していると、ゴチャゴチャしてしまう。ここでは、
大村はまさんの言葉だけを引用してみることに。
本屋さんで、この絵本を見つけた大村さんです。

大村】 ほんとにうれしくてね。それぐらいこれはうまく使えるんです。
    教材に。それが、ちょっと見てすぐわかったので、
    後はよく見もしないで買って家へ抱いて帰ったんです。

    ことばが書いてないからいくらでも読める。
     ・・・・・


はい。この絵本には、言葉がなくて、絵だけでした。
   だからいくらでも、言葉をつけていく楽しみがある。


大村】  たとえば、第1ページ、風が吹いているでしょう。
     風といったっていろいろ吹き方がありますから、     
     そよそよとか、さやさやとか、いろんな音のことばが・・・

     第2ページ、ここに人が話している。交渉している。
     馬を貸してくれということを言っているですが、
     交渉するとか、相談するとか、お願いするとか、
     ここから語彙がずっと広がるでしょう。・・・・・

     こういうふうに見ていくと、あっちこっちで、
     二人とか三人で話をしているんですね。・・・・ 

     それを実際、授業で使ったんです。まず最初には、
     語彙でやったんですよ。そこから広がることばを
     できるだけ拾ったんです。できる子もできない子も、
     いろんな子がいましたけれど、そんなことは関係なくて、
     いくらでもことばが拾える。

     何も拾えなかった、つまんなかった子はいなかったのです。・・
                            ( p187 )


うん。また引用が長くなりますが、印象深い場面がありました。

大村】 このなか(「旅の絵本」)に少しポーンとしたような
    女の子がいるでしょう。ダイダイ色みたなスカートはいた
    子がいるんですね。それがどこででも、ポーンと立っているんです。

    この学習のとき、佐藤という苗字の生徒なんですが、あまり
    坊やみたいだから佐藤坊やってあだ名がついている子がいたんです。

    その子はなにもわかったことがない子でしたが、
    これを見てうれしかったんでしょうね。その子が
    一生懸命になって、私が気がつかないかと思って、
    みんな静かに絵を見ているのに、

   『 先生、先生、ここにだれかいる。ここにだれかいる 』

    って私に教えてくれるんです。そこ子がポンちゃんを指して、

   『 この子はさっきの笹舟のときもポーンと立ってて、ここに
     来てもやっぱりポーンと立ってる。ぼくみたいなんだろうかな 』

    って言うんですね。たいした鑑賞力ですよ。
    そうやって自分のことをちゃんとわかっていてね。
    これはぼくじゃないかなって。スカートをはいてるけど、
    ぼくみたいな子なんだって言うんです。

    それぐらい身にせまって見たんですね。    ( p191~192 )


はい。わたしの引用はここまでにします。
ひとつ残念なことは、私はこの絵本、楽しめなかった。

どうして楽しめなかったか? そのことを
この絵本をめぐるお二人の対談が教えてくれていました。

コメント (4)
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