産経新聞(2011年12月9日)の産経抄。
そのコラムは、こうはじまっておりました。
「『あいつは、男の曲がり角を曲がりそこねてしまった』。かつて売れっ子の映画監督が、愛人宅で自殺するというスキャンダルがあった。その報を聞いて、生前親しかった俳優がもらしたコメントが、記憶に残っている。」こう産経抄ははじまっております。
うん。内柴正人(33)氏のことを語る出だしです。
彼は、アテネ、北京両五輪で柔道男子の金メダル保持者。
コラムは、後半に
「『金メダルを獲得した後が、人生大事だぞ』。同じ熊本県出身で、ロサンゼルス五輪金メダリストの山下康裕さん(54)の助言が、生かされることはなかった。指導者への曲がり角の途中で、どこかおごりの気持ちが生まれたのかもしれない」
ところで、読売新聞のコラム「編集手帳」は、どう書いておられるのか、気になるのでした。兄のところが読売を取っているので、いったときに、読んでみたいと思います。
そういえば、竹内正明著「読売新聞朝刊一面コラム『編集手帳』第二十集」(中公新書ラクレ)は今年の前半6月までをまとめた一冊。東日本大震災に遭遇した際のコラムを、あらためて読むことができます。その新書の「『まえがき』の代わりに」に忘れがたい言葉がありました。
「・・津波で両親を亡くした幼女のことを書く。・・・原発作業員の崇高な使命感なりに胸を打たれて筆をとったつもりが、書いているうちに妙な具合になってきます。『うまい形容詞を思いついたな』『テニヲハはこっちのほうがいいぞ』『よしよし、順調、順調』・・・いつしか表現の技術に気を取られ、その人の悲しみや勇気を読者に伝えるというよりは、悲しみや勇気を見世物にするべく筆で厚化粧を施しているかのような、なんとも嫌な気分に襲われたのは一度や二度でなかったことを白状します。
被災地の誰かに、なにがしかの感銘を受けて筆をとる。その感銘を読者に伝えるためには、表現に工夫を凝らさねばならない。淡々と事実のみを書く、という工夫も含めて、工夫を凝らさなければならない。工夫を凝らしているうちに、しかし、『うまく書きたい』欲が先に立ち、胸の内にあった最初の感銘は二の次、三の次になっていく。
震災を取り上げた『編集手帳』を読んで泣きました。という手紙を読者からたくさん頂きました。表現の工夫はそれなりに成功したのかも知れません。読者の涙を誘いながら、書いた当人の目はもうとっくに乾いていて、自分が凝らした工夫が読者におよぼす効果のほどをじっと確かめている。・・・・・・
書くといふこと何かヒキョーに似たりけり 夢諦軒
・ ・・・わが心境にも通じる夢声翁の一句を添えて、『読売新聞朝刊一面コラム「編集手帳」第二十集』をお届けします。」
うん。曲がり角を通り過ぎると、こういう話も自然体で語りかけられるようになるのかなあ。と、思いながら引用させてもらいました。たとえ、竹内氏のこの言葉が大勢からの顰蹙を買おうとも、まずは、率直に「まえがき」に書かずにはおれなかった、コラム子の心が、つたわります。毎日書き続けたコラム子の心に貯まった垢を、洗い落としているようにも読め、その信頼感から、次の第二十一集を、待ち望むこととなります。
そのコラムは、こうはじまっておりました。
「『あいつは、男の曲がり角を曲がりそこねてしまった』。かつて売れっ子の映画監督が、愛人宅で自殺するというスキャンダルがあった。その報を聞いて、生前親しかった俳優がもらしたコメントが、記憶に残っている。」こう産経抄ははじまっております。
うん。内柴正人(33)氏のことを語る出だしです。
彼は、アテネ、北京両五輪で柔道男子の金メダル保持者。
コラムは、後半に
「『金メダルを獲得した後が、人生大事だぞ』。同じ熊本県出身で、ロサンゼルス五輪金メダリストの山下康裕さん(54)の助言が、生かされることはなかった。指導者への曲がり角の途中で、どこかおごりの気持ちが生まれたのかもしれない」
ところで、読売新聞のコラム「編集手帳」は、どう書いておられるのか、気になるのでした。兄のところが読売を取っているので、いったときに、読んでみたいと思います。
そういえば、竹内正明著「読売新聞朝刊一面コラム『編集手帳』第二十集」(中公新書ラクレ)は今年の前半6月までをまとめた一冊。東日本大震災に遭遇した際のコラムを、あらためて読むことができます。その新書の「『まえがき』の代わりに」に忘れがたい言葉がありました。
「・・津波で両親を亡くした幼女のことを書く。・・・原発作業員の崇高な使命感なりに胸を打たれて筆をとったつもりが、書いているうちに妙な具合になってきます。『うまい形容詞を思いついたな』『テニヲハはこっちのほうがいいぞ』『よしよし、順調、順調』・・・いつしか表現の技術に気を取られ、その人の悲しみや勇気を読者に伝えるというよりは、悲しみや勇気を見世物にするべく筆で厚化粧を施しているかのような、なんとも嫌な気分に襲われたのは一度や二度でなかったことを白状します。
被災地の誰かに、なにがしかの感銘を受けて筆をとる。その感銘を読者に伝えるためには、表現に工夫を凝らさねばならない。淡々と事実のみを書く、という工夫も含めて、工夫を凝らさなければならない。工夫を凝らしているうちに、しかし、『うまく書きたい』欲が先に立ち、胸の内にあった最初の感銘は二の次、三の次になっていく。
震災を取り上げた『編集手帳』を読んで泣きました。という手紙を読者からたくさん頂きました。表現の工夫はそれなりに成功したのかも知れません。読者の涙を誘いながら、書いた当人の目はもうとっくに乾いていて、自分が凝らした工夫が読者におよぼす効果のほどをじっと確かめている。・・・・・・
書くといふこと何かヒキョーに似たりけり 夢諦軒
・ ・・・わが心境にも通じる夢声翁の一句を添えて、『読売新聞朝刊一面コラム「編集手帳」第二十集』をお届けします。」
うん。曲がり角を通り過ぎると、こういう話も自然体で語りかけられるようになるのかなあ。と、思いながら引用させてもらいました。たとえ、竹内氏のこの言葉が大勢からの顰蹙を買おうとも、まずは、率直に「まえがき」に書かずにはおれなかった、コラム子の心が、つたわります。毎日書き続けたコラム子の心に貯まった垢を、洗い落としているようにも読め、その信頼感から、次の第二十一集を、待ち望むこととなります。