和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

大震災と安房の海の時代。

2024-03-31 | 安房
関東大震災の安房では、
『 鉄道も、陸運も全く杜絶した 』
そして、
『 ひとり海運にのみよったのであるから、
  此の間は全く海の時代である。
  安房でなければ出来ないことであった。 』
            ( p276 「安房震災誌」 )

関東大震災の安房を、あらためて、
海という視点から、見てゆきます。

大橋高四郎安房郡長は、関東大震災当日にどうしたかというと、
県庁へと急使を出し、安房の山間部の村へも急使を出しました。
陸上からの急使を派遣した後に、海運へ頼みを託しております。

「 ・・・真先に県へ急使を馳せて、県の応援を要求してはおいたが、
  医薬、食料品の必要は寸時も時をうつすことが出来ない。

  そこで、館山にある県の水産試験場に、ふさ丸と鏡丸の発航を依頼した。

  笹子場長は郡長の依頼に懸命盡力したが、
  ふさ丸は機関部に故障があり、鏡丸には軽油の蓄へなく、
  その上地震の為め機関長の生死が不明であったので、
  二隻ともどちらも即刻の間に合はなかった。

  しかし、一方機関の修繕を急がせ、他方軽油を所在に求めて、
  2日の夜半漸く出帆準備が出来た。汽船の準備は出来たが、

  震災の為めに海底に大変動があり、
  且つ燈臺は大小何れも全滅して了った。
  此の際航海の危険は、いふを俟たない。・・・

  ところが場長の激励と船員の侠気とで、
  遂に3日の未明、汽船鏡丸は館山を発して千葉へ航行した。

  鏡丸には門郡書記が乗船して、救護品に就ての一切の処理に任じた。

  海底の隆起と陥没と、・・危険の中に鏡丸は天祐によって、
  無事に千葉に着いた。そして翌4日の午後8時15分には、
  又無事に館山に帰航したのであった。

  鏡丸には玄米百俵と、若干の食料品と、
  そして県の派遣員16名と、看護婦4名とが乗船してゐた。

  是れが千葉からの最初の応援であった。
  郡当局は斯うして最初の救護品を蒐集した。  」( p257~258 )


時系列的に、もう一度おさらいするのに、
千葉県庁へと急使に立った重田嘉一の手記を見ると、
重田氏が県庁へと辿り着いたのは、2日午後1時半。
その時の、県庁の指示は
『 帰ってふさ丸を千葉に回航せしめよ 』との命だった。そして、
重田氏が『 北條に帰着したのは・・3日午前10時であった。 』

        ( p251 『大正震災の回顧と其の復興』上巻 )

この県庁の指示を待つことなく、先回りしての理解で、郡長の指揮のもと、
『 3日の未明、汽船鏡丸は館山を発して千葉へ航行 』していたのでした。

さらに次には、郡長が鏡丸に乗船して千葉へゆくことになります。

「 ・・・米は焦眉の必要に応じて、それからそれへと配給して行ったが、
  日を経るに従って欠乏甚だしく、7日の夜に至っては、
  全く絶望状態に陥った。殊に総説に掲げたる

『 食料は何程でも郡役所で供給するから安心せよ 』といった、

  各所に掲げた掲示で、人心の安定に導いてゐる刹那のことである。
  ・・・・是れまで郡長に信頼して飢と戦って来た罹災民は、
  いかに失望するであろう。失望の結果、又如何なる事態を惹起するであろう。

  ・・・・郡長は決意を深く秘めて、翌8日の払暁、
  鏡丸に乗じて上縣し、つぶさに郡民の窮乏を訴へ、
  而かも米の欠乏甚だしきを以て、直ちに米9000俵の
  急送を懇請したのである。

  すると県も之を容認して、米5000俵を給興するに決した。
  且つ輸送の為めに、館山湾に碇泊中の汽船を徴発すべく、
  徴発命令2通を交付された。そこで、郡長は9日に直ちに
  帰任して、汽船2隻を徴発し、廻米の事に従はしめた。

  そして、その翌10日であった。突如県よりは更らに
  米1000俵、増加配給する旨を通達された。・・・・・

  震後人心に強い脅威を与へた食料問題も、
  是に至って漸くその眼前の急より救はるることを得たのである。」
  
                 ( p262~263 「安房震災誌」 )
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震災の日赤千葉支部と安房郡

2024-03-30 | 安房
関東大震災では、日本赤十字社千葉支部の活動記録がありました。
その記述が順番にならべてありました。

① 千葉支部構内臨時救護所

  支部(本千葉駅前)構内に天幕4張バラック2ヶ所を設けて
  臨時救護所を開き罹災避難者の救護に当った。
  建造物内に収容をなさなかったのは強震に不安を抱く避難者を屋内に
  収容するに適さざるのみならず萬一の場合を思ふからであった。
  救護医員4名、看護婦19名、事務には主事以下6名之に当った。

  重症患者にして身体の自由ならざる為収容したる者61名、
  その他外来の軽症患者多数あり・・・・・

  本救護所は重症患者を収容するを目的として9月1日夜以来
  警察署、市役所、千葉駅、本千葉駅其の他より
  重症患者を担架等にて運搬し来り、

  その重き者は或は腕を或は足を切断したる等大手術を行った。
  而して本所に於て救護したる患者の大部分は
  本所、深川、若は浅草辺の罹災者であった。
  9月1日開設し10月8日閉鎖した。

② 戸田臨時救護所
  
  9月3日県下被害の甚しい市原郡戸田村に臨時救護班を派遣した。
  救護医員1、看護婦2、書記1名で組織し、
  携行の衛生材料は外傷治療品8点、内科治療薬品15点、
  火傷治療薬品2点、繃帯材料5点であり、
  治療人員30余名に達した。9月3日開設し即日閉鎖した。

③ 湊町臨時救護所

  9月3日県下の被害多き君津郡湊町に臨時救護班を派遣した。
  携行救護材料は戸田村救護所同断、
  救護医員1、看護婦2。治療人員22名、9月5日閉鎖。

④ 北條町臨時救護所

  9月4日県下安房郡中被害最も甚しい北條町に
  第一回臨時救護班を派遣した。
  班は救護医員1、看護婦2、書記1で組織し、
  携帯材料は前記救護所と略同様で、
  治療人員118名、9月10日閉鎖。

⑤ 佐倉臨時救護所

  ・・・・・・・・・・

⑥ 北條町臨時救護所 (第2次)

  9月23日安房郡北條町に第2回臨時救護班を派遣した。
  初め当支部は全力を挙げて此の方面の救護に努力せんとしたが、

  千葉医科大学に於て9月4日以来同地方に大組織の救護班を派遣したから、
  当支部の第1回救護班は一時之を引揚げたのであった。

  然るに同大学の救護班は9月26日限り引揚ることとなったので、
  同大学の救護班と協議の上、支部に於て之を引受け行ふこととなったのである。

  救護医員3、看護婦10、書記1、傭人2で班を組織し、
  収容患者30名、外来患者は日々50余名に達し、
  取扱患者総人員1452名に達した。

  携行衛生材料としては外傷治療薬品19点、眼科治療薬品2点、
  内科治療薬品44点、繃帯材料5点、火傷治療薬品2点であった。
  本班は9月26日開設、10月19日閉鎖した。


ちなみに、この第2回の日付を見ていると、派遣したのが23日で開設が26日とあります。
第1回の時も同様で、派遣したのが9月4日で、開設はそれより3~4日後かもしれません。
そのあとに、亀戸及緑町が載っておりますので、最後にそこからも引用しておわります。

⑦ 東京亀戸及緑町派遣救護所

  9月2日千葉医科大学に於ては東京方面の救護の為出動することとなり、
  本支部は医科大学と協力して救護班を亀戸小学校内に開設した。・・・

  救護に従事したのは医科大学松本教授以下であって
  毎日約20名外使用人20名計40名にて、2日夜は同校に宿泊し、
  3日以降は千葉市より通勤した。取扱患者数8984名・・・

  更に9月3日本縣県医師会と協力して救護に当ることとし
  県医師会は東京本所区緑町に救護班を派遣した。
  関川医師外医員20名、看護婦1名、助手(在郷軍人青年団)116名。
  取扱患者数1764名であった。       」

   ( p346~353 「大正大震災の回顧と其の復興」上巻 )


うん。やはり最後は「安房震災誌」からも引用してしめくくります。

「地震の残した大惨事、大損害。
 それは迚ても工兵の力をからねば、収拾することは出来得まいと思ったので、
 県へ斯くと要請しておいたが、それも急速の間に合はない。

 そこで、望みを郡内の青年団に託したのであるが・・・・
 2日の正午過ぎに、又しても一大激震があった。

 1日の大地震に比較的損害の少なかった長狭方面は、今度は激震であった。
 そこで長狭方面から北條方面へ向け来援の途上に在った青年団は、
 途中から呼び戻されたものもあった。・・・
 且つ警戒の為めに応援意の如くならずして、苦心焦慮の折柄、

 3日の朝になると、東京の大地震、殊に火災の詳細な情報が到着した。

 斯くては迚ても郡の外部に望を託することは迚ても不可能である、
 絶望であると郡長はかたく自分の肚を極めた。

 そこで、『 安房郡のことは、安房郡自身で処理せねばらぬ 』
 といふ大覚悟をせねばならぬ事情になった。
 4日の緊急町村会議は実に此の必要に基いた。・・・・・    」

                ( p277 「安房震災誌」 )
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関東大震災の東京と安房

2024-03-29 | 地震
関東大震災の、千葉県内で各医師会による救援の状況はどうだったのか。
ここは、印旛郡医師会と長生郡医師会の例を引用してみたいと思います。

大震災で、東京と安房と救護派遣をどう判断したか。
それを、この2つの医師会の救援の様子でたどります。

県北に近い、印旛郡医師会長報によると

「・・協議の結果青年団員の代りに消防員を派することとし、
 2日午後4時頃の列車にて佐倉町医師2名、成田町医師3名、
 佐倉町成田町在住の消防員18名

 以上出県せしむ、と同時に県より電話あり、

『 房州地方の被害深甚、殆ど全滅に付上京を見合せ
  県内なる房州へ救護の赴くべし 』との事なりしも

 午後6時過に至り、出葉中の医師大畑寶治より電話にて

『 房州へは汽車不通又汽船は何時出発するや不明なること
  及び内務大臣より特派の巡査来県是非共東京へ
  医師竝救護材料差遣方懇請せるを以て一同相談の結果
  予定の通り出京の事に決せり 』と、

 2日夜は県庁構内に野宿し、3日早朝列車にて上京、 
 亀戸より徒歩途上幾多の障碍を突破し、
 内務大臣官舎に宿泊し、本所方面の罹災者救護に盡力し
 薬品材料を使用し盡したるを以て9月5日引上げ帰県す  」
   
     ( p1099 「大正大震災の回顧と其の復興」下巻 )



次に千葉県中央部の茂原に近い長生郡から、長生郡医師会報の引用。


「・・・7名にて救護班を組織し9月3日午前11時茂原警察署前より
 自動車に乗り大多喜より勝浦に向ひ、勝浦警察署にて
 房州方面道路の模様を聞かんとしたりも能はず、
 自動車を乗り換へ鴨川警察署に著し状況を聴取す。
 家屋の破壊相当大なるも傷者の救護を要するものなし。

 鴨川より先方は道路狭し自動車其の他乗物一切通らず
 警察署長と相談し自転車一両を借り入れ鈴木(才次)班長独り
 先方の状況視察し今後の行動を定めんとし・・・・

 和田付近県道亀裂多く自転車の通行も困難なり、
 此の状況を鴨川町に残したる班員に告げんと
 鴨川警察署に引き返せば既に天津に引き上げたと・・・・

 警察電話利用し9月4日朝に至り小湊町ホテルに在宿せるを知り
 午前8時集合し、勝浦駅より初発汽車に乗し午後4時茂原に帰り
 報告す、房州救護班を解散す。
 4日夜は茂原警察署前の救護所で東京よりの避難民を救療する。」


この班長だった鈴木才次氏は、そのあとに東京へと向かっております。

「9月5日午前11時茂原発、汽車大網駅で乗り換へ(土気隧道不通の為)
 成東で亦1時間待ち乗り換へ、佐倉で乗り換へ千葉で乗り換へ、
 午後7時薄暮亀戸駅著、戒厳司令部列車内に在り・・・ 」
                   ( p1187~1189 同上 )

このあとは、東京の被災の様子があるので引用しておきます。


「 亀戸小学校内亀戸町本部に到るを得
  福田会に一泊す、寝具も蚊帳も無く一睡もするを得ず。

  救護材料は千葉県庁より支給され消防部長川島先行し、
  千葉県知事より内務大臣宛の文書と共に千葉駅より
  持込んだので充分有るから6日午前3時50分亀戸を出発
  
  九段坂は何んの邪魔もなく眺められ、
  一望焼野原石炭は未だ盛んに燃てゐる焼死体は諸所に散乱し、
  江東川中には水死体ブクブク浮き居り悪臭鼻を突く。

  人形町、小伝馬町、本石町を過ぎ丸の内に入り
  馬場先門より二重橋前に到り一同整列皇居三拝国家の安泰を祈り、
  内務大臣官舎に行き衛生局横山助成の指揮を受け、
  警視庁衛生課長小栗一雄に面会更に命を受け
  
  亀戸警察署宛の添書を持ち亀戸小学校庭で
  一般被害者を救護する事となる。亀戸警察署の報告にて
  同署に収容せる500人の鮮人中負傷者60余名あり、

  我が班にて之を救護す可く申出で外科的治療を応急処置す、
  午後1時より亀戸小学校に救護所を設け治療す。

  大部分は火傷で食傷下痢患者少数有り
  午後6時半持参の材料を使用し盡くし一時閉所す、
  同治療所に活動せる人々は鈴木班長外6名

  他の救護手は各所に知人を尋ね一般救助をする事と決す。
  9月7日林八郎副班長主任とし更に活動し8日午後林班長帰茂し解散す。
  9月20日茂原消防組救護手に夫々感謝状を送る。
  9月27日震災義捐金を募集す。     」

                    ( ~p1190  同上  )

 





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防災士教本の教え。

2024-03-28 | 地震
日本防災士機構に『防災士教本』というのがあります。

前回に引用した

「 人間は非常事態に陥った時に、本性が現れるものだ。
  地震や津波で家を失うという危機に見舞われても、
  人間としての品位を保つことができることに、私は目を疑ったものだ。
 
  筆者が育ったオーストラリアの大学で学んだ精神病理学では、
  健全な人格の条件として『 統合性 』がその一つに挙げられていた。
  落ち着いて安定している時に周囲に見せる人格と、
  非常事態に陥った時に現れる人格が同じであることを言う。
                        ・・・・  」
(p1~2 デニス・ウェストフィールド著「日本人という呪縛」徳間書店・2023年12月)

ここを引用したあとに、思い出したのですが、
特定非営利活動法人の日本防災士機構に『防災士教本』があります。
そこに、こんな箇所があったのでした。

「ただ、組織を『 防災 』に特化したものと考えるのは適当ではない。
 一生に一度あるかどうかの大災害のためだけの組織を、そのために
 機能させるのはむずかしい。

 日常的にたとえば、地域のお祭りや盆踊り、餅つきなどの
 地域レクリエーション、清掃、子ども会活動などに生きるような
 組織として位置づけられていなければ、いざというときに動けない。

 組織も資機材も、ふだんの地域のコミュニティ活動と一体になって
 いなければいけない。ふだんやっていないことを、大災害のときだけ
 機能させようと思っても無理だということを知っておかなければならない。」
         (  p32 「防災士教本」平成23年11月第3版  ) 


はい。私の場合はというと、「安房震災誌」に出てくるエピソード、
『御真影』を倒潰家屋からとりだし、檜の木の上に置いた場面から、
神輿渡御の際に、神社から御霊を神輿へと遷す行為を連想しました。


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檜の木の下で。

2024-03-26 | 地震
『御真影』について、今の私に思い浮かぶ光景というと
たとえば神社の御霊(みたま)を神輿へ遷す行事でした。
これなら、神輿があるたびに私は見慣れている光景です。

安房郡長大橋高四郎が、震災当日の安房郡役所の倒潰を前にして

「 恐れ多くも御真影を倒潰した庁舎から庭前の檜の老樹の上に御遷した。
  郡長は此の檜の木の下で、即ち御真影を護りながら、
  出来るだけ広く被害の状況を聞くことにした。
  そして、能ふだけ親切な救護の途を立てることに腐心した。
  県への報告も、青年団に対する救援の事も、
  皆な此の樹下で計画したのであった。    」
              ( p232~233 「安房震災誌」 )

まずもって、心の安定を郡長の最優先事項として行動している姿などは、
つい最近ひらいた本の、はじまりにあった言葉が思い浮かんできました。

「 人間は非常事態に陥った時に、本性が現れるものだ。
  地震や津波で家を失うという危機に見舞われても、
  人間としての品位を保つことができることに、私は目を疑ったものだ。
 
  筆者が育ったオーストラリアの大学で学んだ精神病理学では、
  健全な人格の条件として『 統合性 』がその一つに挙げられていた。
  落ち着いて安定している時に周囲に見せる人格と、
  非常事態に陥った時に現れる人格が同じであることを言う。

  東北地域を襲った未曾有の大地震で、海外メディアは、
 『 自然災害や混乱が起きた後に必ずある略奪 』が
  日本では起きていないことについて、
  驚きと称賛の声を上げていたものだ。

  大地震や津波で多数の命が奪われ、寒さの中で
  水道やガス、一部電気が止まるという惨状の中でさえ・・・・  」

(p1~2 デニス・ウェストフィールド著「日本人という呪縛」徳間書店・2023年12月) 


ここに、東北の大震災と出てきておりました。
テーマの『安房郡の関東大震災』からは、離れてしまいますが、
東日本大震災の年に、たまたま発売日が同時となった文庫が2冊。

 寺田寅彦著「天災と日本人」(角川ソフィア文庫・山折哲雄編)
 寺田寅彦著「地震雑感・津浪と人間」(中公文庫・細川光洋編)

どちらも初版発行が2011年7月25日となっておりました。

ここでは、角川ソフィア文庫の山折哲雄解説から引用してみます。
解説の最後の方に、和辻哲郎の「風土」を紹介しておりました。

「和辻哲郎は日本の風土的特徴を考察するにさいして、
 その台風的、モンスーン的風土については特筆大書して
 論じてはいても、地震的性格については何一つふれてはいないのである。

 これはいったいどういうことであろうか。和辻はそのとき、
 数年前に発生した関東大震災の記憶をどのように考えていたのだろうか。」(p155)

こうして、解説は和辻と寺田寅彦との比較に着目しておりました。
それはそうと、山折哲雄氏はその解説のなかで、寺田寅彦の文を
直接に引用している箇所があります。それを孫引きして終ります。

「単調で荒涼な沙漠の国には一神教が生まれると云った人があった。
 日本のような多彩にして変幻きわまりなき自然をもつ国で
 八百万(やおよろず)の神々が生まれ崇拝され続けて来たのは
 当然のことであろう。

  山も川も樹も一つ一つが神であり人でもあるのである。

 それを崇めそれに従うことによってのみ生活生命が保証されるからである。
 また一方地形の影響で住民の定住性土着性が決定された結果は到るところの
  集落に鎮守の社(もり)を建てさせた。これも日本の特色である。

 ・・・・・・・鴨長明の方丈記を引用するまでもなく
 地震や風水の災禍の頻繁でしかもまったく予測し難い
 国土に住むものにとっては天然の無常は遠い遠い祖先
 からの遺伝的記憶となって五臓六腑に浸み渡っているからである。 」
                         ( p152~153 )


はい。コロナ禍で中止だった神輿渡御が昨年再開しました。
もう人数が少なくなり、子供会も解散したようですが、
子供会有志ということで子供神輿も昨年担いでいます。

7月の連休をつかっての神輿渡御なので、他所に出ている
若い夫婦も子供たちを連れて帰って来るようで思いのほか
昨年は子供たちがあつまり、それが印象に残っております。 


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詔書と、人心の安定。

2024-03-25 | 安房
戦後生まれの私に、分らないのは『御真影』に関する記述でした。
まずは関東大震災で倒潰した安房郡役所の記述に出てきています。

「然し火災も何時起るか知れない、海嘯も何時来らぬとも限らない。
 不安といへば、実に不安極まる。そこで
 恐れ多くも御真影を倒潰した庁舎から庭前の檜の老樹の上に御遷した。

 郡長は此の檜の木の下で、即ち御真影を護りながら、
 出来るだけ広く被害の状況を聞くことにした。
 そして、能ふだけ親切な救護の途を立てることに腐心した。
 県への報告も、青年団に対する救援の事も、
 皆な此の樹下で計画したのであった。

 そして昼の間は、何事が起っても、
 それぞれ処理の途があると確信して、
 郡長は檜の樹下に救護の事務に忙殺されてゐたものの、

 夜に入ってからは、時々海嘯来の騒ぎが其處此處に高まって来た。
 昼間の修羅の巷も、夜の幕が降ると、いはゆる『萬物皆死』とも
 いふべき寂寞さで、何処にも点灯が一つ見へない。

 物音とては、犬の遠吠も一つきこへない。・・・・

 そして『 海嘯だ! 海嘯だ! 』といふ男女の悲調な叫びが、
 闇を破って聞える。樹下の郡長と郡吏員は御真影に対して、
 萬一を気遣はずにはゐられなくなった。・・・・  」
             ( p232~233 「安房震災誌」 )


この『御真影』への態度が、もう私には分からなくなってしまっている。
けれども、『詔書』ならば、読めばわかります。
大正12年9月12日摂政名で発された詔書から、
その一部を、ここに引用しておきます。

「 ・・・・・朕深く自ら戒慎して已まさるも
  凡そ非常の秋に際しては非常の果断なかるへからす
  若し夫れ平時の条規に膠柱して活用することを悟らす
  緩急其の宜を失して前後を誤り或は個人若は一会社の
  利益保障の為に多衆災民の安固を脅すか如きあらんは
  人心動揺して抵止する所を知らす朕深く之を憂惕し・・・・  」

      ( p698~700 「大正震災の回顧と其の復興」上巻 )

安房郡長大橋高四郎は、まさにこの詔書にある
「 人心動揺して抵止する所を知らす朕深く之を憂惕し・ 」と同様
震災当日、安房郡の被災現場での大きな問題として対処しております。

昭和8年に出た「大正震災の回顧と其の復興」に
大橋高四郎の回顧談が載っておりますので、くりかえし、
それにまつわる箇所をあらためて引用しておきたいと思います。

「 吾々日本人がかかる際に最も気になるのは、御真影の安否だ。
  一同は逸早く奉安室に赴き、無事なるを知って喜びつつ、
  之を最安全と思はるる庭前の檜の老樹の上に奉遷してゐた。

  そして俺はその檜の樹の下で頑張って
  御真影を護りながら指揮し且つ計画を立てた。

  夜に入って海嘯の噂さへ伝はったので、
  御真影は庭の樹上から少し隔った隣村の阿夫利といふ
  丘の上に奉遷することにした。
  而して俺外数人が之を守護し奉った。  」

このあとに、こうあったのでした。

「 激震の当時に自宅で考へた俺の胸算用は、
  現場へ来て見ると、より必要な或るもののあることを
  忘れてゐるのに気付いた。
  それは何かと云ふと、人心の安定といふことであった。 」

                 ( p820~821 同上 )
 
 
 
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今少し沈着と度胸が慾しかった。

2024-03-24 | 安房
『安房震災誌』では、どのように安房郡長・大橋高四郎が、
震災指揮をしていったかを、これからたどりたいのでした。

その前に、もう少し郡長のエピソードを引用しておきます。

大橋郡長の談話にあったとあります。

「 郡長は、僅かな時間の余裕を得て、
  見舞かたがた町村を巡視したことがあった。

  ・・・・ある村にゆくと無論小さなものではあったが、
  半永久的なバラックを造ってゐた。バラックの職人はと見ると、
  ・・年の頃四十ばかりの細君が、屋根の上に登って、
  藁屋根の下地に細竹を力まかせにかき付けてゐた。

  その下には、六十余りの老媼が・・
  踏段の上に力強く両足を下ろして、こまいをかいてゐた。

  傍らを見ると十三四位と覚ほしき小娘が、
  下の方から、そのこまい竹を一手一手に老媼に
  取次いて、老媼の作事の助けをしてゐた。・・・・

  そこで、郡長は、小娘に向って、
  主人はどうしたかと聞くと、
 『 父は隣家の手伝に行きました 』といった。

 そこで、郡長は、一寸隣の屋敷に行って見た。
 すると、四五人の男達が地震で潰れた家の柱や、
 梁などを取り片付けて、其處に矢張り半永久的な
 小屋を建てるのであった。・・・・

 今度の大震災後の農村のバラックは、大抵斯んな風にして、
 職人入らずに出来上がったものが多い。  」( p316~317 )


この情景と比較したいので、「大正大震災の回顧と其の復興」上巻にあって
流言蜚語がどのような不安と混乱とを醸成するのかの一例を引用してみます。

「暴徒襲来の蜚報」と小見出しがあります。
『9月3日か4日の事か』とあります。

 50歳前後と覚しき土地の者が、
食料品奪取の目的で、暴民が大挙して襲来しつつあり、
『 私は町内各自の警戒を促し来れり 』と訴え出た。

「 変事来の通告を受けたる住民は、
  悉く燈火を消し戸締を厳重にし、
  婦女子子供老人を避難せしめた。

  避難所と目ざされたるは事務所の裏手の旧郡役所跡であった。

  各自は風呂敷包を背負ひ、
  子供の手を引き、毛布をかつぎ、千態萬様、
  ぞろぞろぞろと我等の事務所に来りて保護を哀願する、

  暴動などあるべき筈なきを諭せども、
  蜚語におびえたる町民、どうしても聞き入れない。
  詮方なく裏手に休憩せしめた。
  見る間に身動きも取れぬ満員振を示した。
  一同も不安の思をなし今に喊声でも挙るかと心配そのものであった。」
                   ( p894~895 )

これは、もし暴徒が食料品奪取に来る際に、すぐわかるよう
合図をつくって置いた事に起因した勘違いで

「 その襲来の合図・・即ち先刻乱打された警鐘がそれである 」

と、それを決めつけてしまった間違いによるものでした。
では、その警鐘の実際は、どうだったのか。

「先刻の警鐘は、館山町下町の火災の跡に残りたる余燼、
 風に煽られ燃え上りたる為なるも、すでに大事に至らず鎮火せり」

との館山方面よりの報告があった。

この回顧の文は、さいごに、地元の50歳前後の男のことを

「 然し流言蜚語盛にして人心恟々たる折柄、
  自警的に或種の合図をなすべき、約束をつくって置いた
  事に起因することであって、あながち咎むべきではなかろう。 
  ただ彼に今少し沈着と度胸が慾しかった。 」   (p896)


つぎから、その流言蜚語に立ち向かわなければならなくなった、
安房郡長大橋高四郎の行動を順番に追ってゆきたいと思います。


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『喜怒哀楽』のバランス

2024-03-23 | 安房
『安房震災誌』を開いているとエピソードが、
あらためて、気になる安房郡長の大橋高四郎。

そのエピソードを、ひろい読みしていると、
「喜怒哀楽」のバランスを思い浮かべます。

まずは、そのエピソードの一例を引用。

「 ・・・昼のうちは勿論、夜半になっても郡役所の
  仮事務所の中央の薄暗いところに、棒立になって
  顔の見さかへも付かぬまでに、汗とほこりにまみれて、
  白服の黒ろずんだのを着て、

  丁度叱るやうな、罵るやうな大声を挙げて、
  一瞬の休息もなく人を指揮してゐる小柄な男がある。

  『 あれは誰れだらう。 』と
  一般の通行人は可なりの問題となってゐたのであったが、
  聞いて見ると、あれは大橋郡長であったのだ。

  といふ噂が、其處にも此處にも拡がったさうである。
  郡長の着てゐた白服も確か鼠色以上になってゐたものと見える。

  総じて此の頃は、洗濯の自由もなければ、
  着換えのあられやうもなかった・・・・    」(p317~318)


ここに『 丁度叱るやうな、罵るやうな大声を挙げて、
     一瞬の休息もなく人を指揮してゐる小柄な男がある。』

とあるのでした。大声で叱るように何を語っていたのか?

昭和8年に発行された「大正大震災の回顧と其の復興」に
その大橋高四郎氏の回想が載せられており、
そこには、このような言葉がありました。

「・・俺のかうした覚悟と方針は、相当他の人の心にも影響したらしい。
 俺はいつも損害をかこつ人に

『 家や蔵が何だ、目の玉の黒いのが此の上のない仕合せじゃないか、
  泣言を云っては罰が当る。
  死んだ人や重傷を負ふた人に済まないじゃないか 』

 と怒鳴るのが常であった。

 郡役所の諸員は勿論、その他の官公衙、各団体の人々、
 郡有力者諸君も、全く自己を忘れて盡して下さった。
 郡民諸君もよく此の微力なる郡長を信じて協力して下さったことは、
 永く感銘して忘れられない所である。

 3日の夜、俺は部下に対して訓示した。

『 諸君は等しく罹災して居られる。
  然るにかうして不眠不休で、一身一家を顧みずして働かれることは、
  何とも同情に堪へないと共に、
  郡民の為に感謝して措かない所だ。

  社会公共の為に粉骨砕身することは
  人間の最も尊い所であり且つ男子の本懐である。
  
  どうか諸君、お互に時間も少い中だが、
  健康に注意し、協同一致で力一杯働いて呉れ、頼む 』

 との意であった。部下の人々の中には、
 おろおろと泣く人もあった。・・・・    」(p822~823 上巻)


もどって、『安房震災誌』のエピソードをもう一ヵ所引用。

「 感謝に就て一挿話がある。震後或る日の未明であった。

  郡長は何時ものやうに、中学校の裏門通りを郡役所に急いだ。
  途に一人の老翁が、郡長を見かけて

『 誰れの仕事か知れませんが、毎晩来てうちの芋畑を 
  すっかり荒して了ひました。どうかなりませんでせうか・ 』

  と訴へるのであった。すると、郡長は

『 折角の作物を盗まれるのは、洵に気の毒だが
  とらなければ今日此の頃、生きて行けぬ方の
  身にもなって御覧なさい、どんなに苦しいか分からない。

  殊にお前は、世間の多数が死んだり負傷したりした
  大震災の中に、無事なやうだ。並み大抵の時とは違ふから、
  辛棒して大目に見てやって呉れ! 』

 と頼むやうに諭してやったさうである。
 郡長の話を傾聴してゐた老翁は、郡長の言下に

『 ああ分りました、分りました。
  どうも済みませんでした。よろしうございます 』

 と幾たびか低頭して其處を去った。 ・・・・・    」
             ( p314~315 『安房震災誌』 )

はい。安房郡長による、青年団への感謝状に示された言葉もそうですが、
未曽有の震災を体験した時に、2日未明駆けつけた山間部からの援助隊を
受け入れた喜びも含めた安房郡長の『喜怒哀楽』の、そのバランスの振幅
を思うにつけ、私に思い浮かんでくる詩がありました。


      自分の感受性くらい   茨木のり子

   ぱさぱさに乾いてゆく心を
   ひとのせいにはするな
   みずから水やりを怠っておいて

   気難かしくなってきたのを
   友人のせいにはするな
   しなやかさを失ったのはどちらなのか

   苛立つのを
   近親のせいにはするな
   なにもかも下手だったのはわたくし

   初心消えかかるのを
   暮しのせいにはするな
   そもそもが ひよわな志にすぎなかった

   駄目なことの一切を
   時代のせいにはするな
   わずかに光る尊厳の放棄

   自分の感受性くらい
   自分で守れ
   ばかものよ


はい。この詩の最後の3行だけ引用すればよかったのでしょうが、
そう。このブログでは、詩の全文を引用しちゃいました。

この未曽有の被災の中で、郡長が叱り泣き喜ぶという喜怒哀楽の
そのバランスのエピソードを、引用しているのが『安房震災誌』。

はい。私は最初にこのエピソードを読んだときに、
どう咀嚼したらよいのかと、とまどったのですが、
今でしたら、きちんと整理できる気がしています。


   

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関東大震災と青年団。

2024-03-22 | 安房
『安房震災誌』の第4章は「青年団の活動其の他」。
そこのはじまりは、こうでした。

「 正しく云へば、『青年団』『在郷軍人分会』『消防組』は、
  各別個の団体であることは勿論であるが、

  実際に於ては、同一人にして、此等3団体、若くは2団体に
  属してゐるものが多数であるから、茲には単に
 『 青年団 』とい名称の下に、各町村に於ける此等の諸団体が
  悉く含んでゐるものとして、章を一つにし・・・   」(p283)

このように定義してから、この章がはじまっておりました。
今回気になったのはこの箇所でした。

「 要するに、地震のあの大仕事を、誰の手で斯くも取り片付けたか。
  といったならば、何人も青年団の力であった。
  と答ふる外に言葉があるまい。実に青年団の力であった。

  ところが青年団には、何の報酬も拂ってゐない。・・・・

  然るに報酬どころか、何人も当時にあって、
  渋茶一つすすめる余裕さへもなかったのである。それどころか、
  飯米持参で、而かも団員は自炊して、時を凌いだのであった。

  更らに茲に大書して感謝すべきは、
  当時は雨露を凌ぐべき場所とては、北條町では
  僅かに北條税務署とゴム工場、納涼博覧会跡の一部に過ぎなかった。

  そして税務署以外は、何れも土間である。
  折柄残暑で寒くこそはなかったが湿気と蚊軍の襲来には、
  安き眠も得られやうがなかった。

  加之ならず、何れも狭隘の上に、多人数である。
  分けて雨の晩などは雨漏で寝所がぬれて立ち明かしたこともあった。
   ・・・・・・・・・・        」 ( p285~286 )


こうして『 何の報酬も拂ってゐない 』という青年団に対して
大橋郡長の名を以て、感謝状が贈られ、奉仕的行為を拝謝した。
とあります。最後にその感謝状を引用しておきたいのですが、
これを載せたあとに、編纂者はこう指摘されておりました。

『 青年団軍人分会の活動振りは、文中によく表現されてゐる。
  敢て付加修飾を要しない。当時諸団体の活動は
  実に郡民の総てが感謝するところである。  』 (p291)

はい。さいごに、安房郡長大橋高四郎の名の入った感謝状の全文を引用。

     
    感謝状

 前古未曾有の震災に当り本郡の被害は実に其極に達し
 土地の隆起陥没相次ぎ家屋の倒潰せるもの算なく
 
 死傷者累々たるも之を處置するに途なく
 災民餓を訴ふるも給するに食なく
 傷者苦痛に泣くも医薬給する能はずして
 惨状見るに忍びざるものありき加ふるに
 流言蜚語盛に伝はり人心の動揺底止する所を知らざるの時

 団員克く協力一致自己の被害を顧みずして
 或は死傷者の運搬に
 或は倒潰家屋の取片付に
 或は慰問品食料品衛生材料等の荷上げ配給に
 其他交通障害物排除又は伝令に従事せる等
 
 其の熱烈にして敏速なる奉仕的活動は洵に克く
 青年団(軍人分会)の精神を顕著に発揮せるものにして、

 本郡に於ける災後整理並に救護事業遂行上
 貢献せる所尠からず茲に謹んで感謝の意を表す。

    大正13年1月26日
        千葉県安房郡長正六位勲六等  大橋高四郎   


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『日露戦史』を編纂した人

2024-03-21 | 安房
日露戦争といえば、「日露戦史」の本のエピソードが思い浮かびます。
司馬遼太郎氏が、その古本を買いに行く場面がありました。

「私は昭和29年に大阪の道頓堀の天牛という古本屋さんから買いました。
 上のほうに『日露戦史』がありまして、あれを買おうと思って行ったら、
 もう、紙屑のような値段でした。考えられない値段でした。

 しかもお店の人が、『 こんな本が欲しいんですか 』と言うのです。

 ・・・・何年もかかって読みましたが、読んでも何のイメージもわかない、
 不思議な戦史でした。立派な本ですよ、造本としては。 」

( p175~176 司馬遼太郎著「『昭和』という国家」NHK出版・1998年 )

このあとのエピソードが、一読忘れがたいのでした。
それは、湯川秀樹さんのお父さん小川琢治(たくじ・1870~1941)が
青島(チンタオ)を訪れたときのことでした。

「・・・青島の守備隊長といえば、まあ、閑職ですね。
 小川博士が青島に行ってその守備隊長に会うと、
 陸軍でもずいぶん優秀な人だと聞いていた人でした。

『 失礼ですが、あなたはどうしてこんな閑職にいるのか 』

 と聞くと、その守備隊長は、

『 私はあの悪名高き『日露戦史』を編纂したからだ 』

 と答えた。編纂しているとですね、将軍たちがやってきて、
 おれのいうことをよく書けとか、
 おれのあのミスを書くなとか、さんざん言ってくる。

 勲章とか、昇給、昇進に関係してくることですから、
 下級の一大佐としては、言うことを聞かないとまずい。
 それで、できるだけ言うことを聞きつつ、正しいことも書こうとした。

 ところがその正しい部分は
 将軍たちがやはり気に入らないこともありまして、
 それで袋叩きにあった。

『 とうとうこんな配所の月をながめておるのです 』

 というようなお話だったそうです。
 いかにも、日本が悪くなろうと、
 坂道を落ちていこうとしている話ですね。
 ころがっていく最初のエピソードとして、
 象徴的だと思います。          」( p176~177 同上 )


私が『安房震災誌』をひらいていると、
文は悲惨なことに事欠かない訳ですが、
どうも何か透き通る明快さを感じます。

それを何と言っていいかわからなかったのですが、
安房郡長・大橋高四郎氏が、震災の翌年に編纂を
白鳥健氏に依頼し後は一切口出しせず、仕事に没頭したことが、
安房震災誌をひらくと、朧げながらも行間から感じられてくる。

そこに点描されている安房郡長のエピソードなどは、
今でこそ、やっと安房郡長の喜怒哀楽が伝わります。
だんだん、こんな引用を書き並べながらの理解です。

 

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日露戦争と関東大震災の安房。

2024-03-20 | 安房
え~と。私のテーマは『安房郡の関東大震災』なのですが、
今回は、安房郡での日露戦争と関東大震災という視点から。

安房農学校は、大正11年に南三原村に創立されます。
関東大震災の1年後、大正13年(1923)9月1日には
その南三原村に『震災記念碑』が建立されています。

現在はその記念碑が、龍神社の境内に設置されており、
見ると『震災記念碑』の隣に『日露戦争記念碑』がある。

大山巌の書による『日露戦争記念碑』は、明治40年(1907)3月建立。
記念碑の裏側には、明治37∼38年の戦死者の氏名がありました。

日露戦争終結の18年後に、関東大震災が起っていたと気づかされます。

安房郡長大橋高四郎氏が関東大震災当日に、安房郡内の山間部の村に
急使を派遣すると、その日のうちに、すばやい対応があるのでした。
今回は、最後にその場面を、あらためて引用しておくことに。

9月1日の午後8時頃に大山村へ到着した急使が、
震災被害状況を伝えた後に、至急必要な物を確認し依頼します。
そのあとを引用。

「・・在郷軍人大山分会長塚越均一、青年団長宮崎徳造の両人は
  東奔西走団員会員中自転車所有者を以て先発隊となし、
  之れに衛生材料、脱脂綿、ガーゼ、アルコール、エーテル石灰酸、
  葡萄酒等を取纏め各人に分与携帯せしめ
  大山救護隊なる紙旗を箙となし、漸く11時頃急行を命じたるに、
  夜中の悪路を厭はず2日午前1時18分に着し、救護隊第一着一番乗なりき。

  順次徒歩のものもあり午前11時には154名参着せられたるに、
  北條、館山、船形の3ヶ所に配置せられ・・・・

  分会長塚越均一氏は北條町に於て総指揮官となり、
  青年団長宮崎徳造氏は共に連絡をとり、
  出動者食料弁当の焚出に従事し、
  自宅前に4ヵ所の炊事場を設け
  付近の人々の援助を乞い握飯を作り、
  残暑なれども腐敗を恐れ朝昼夕の3食を
  伝令の通知による人員数により不足を生ぜざる様に伝送したり。 」

    ( p935∼936 「大正大震災の回顧と其の復興」上巻 )
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喉からは声が出なかった。

2024-03-19 | 安房
実際問題として震災に遭遇した場合、
私ならどのような行動をするのだろうか?

安房郡の関東大震災を読んでいると、
ああ、私の場合はこうかもしれない。
そんな例と出会うことがありました。
この回、そんな例を引用してみます。

安房農学校は、大正11年創立し、大正12年に新校舎完成。
そして、大正12年9月1日に新校舎が倒潰して全焼します。
創立したばかりですから、先生も生徒もどちらも成立て。

ここには、大正11年4月に学校に就職された
博物が受け持ち学科だった塚越赳夫教諭の『地震の思ひ出』から引用。

「 理科室の内部はみるみる内に真赤な火焔が一杯では無いか。
『 火事だ火事だ 』と呼ぼうとしたが自分の喉からは声がでなかった。 」

「 『 伊藤君が出ないぞ! 』『 鈴木君が出ないぞ! 』
  『 二人でないぞ! 』慌しく舎生(宿舎の学生)が口々にわめくのである。

 ・・・自分は血の気を失って仕舞った。・・
 こういてはゐられない。早く救ひ出さなければならぬ。

 しかし自分の体は思ふ様に働けなかった。
 焦りに焦って唯うろうろしてゐるのみであった。・・・  」

  ( p22~24 安房拓心高校「創立百周年記念誌」令和5年3月 )


校舎が火災に見舞われたことが出てきております。
たえざる余震にみまわれながら、みるみるうちに校舎全体に火がまわる。
その様子が心理の綾とともに、刻々の時系列で語られております。
そのなかで、生徒を思い動揺する姿を、誰隠すことなく語っておられました。

ああ、咄嗟の場合に、私もこのような行動をとるのじゃないかと
そんなことを引用しながら思い浮かべておりました。
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地涌(じゆ)菩薩

2024-03-18 | 地震
「安房震災誌」に
県庁への急使とともに、
「手近で急速応援を求めねば」と思案して、もうひとつの
急使を探しあぐねている安房郡長の姿が書かれております。
そして久我氏が見つかると

「 その時の郡長は、ありがた涙で物が言へなかった。
  と後日郡長の地震談には、何時もそう人に聞かされた。 」(p233)

そして、この手近の諸村からの応援が来る

「 すると、此の方面諸村の青年団、軍人分会、消防組等は、
  即夜に総動員を行って、2日の未明から、此等の団員は
  隊伍整々郡衙に到着した。・・・  」(p233)


私は、このくだりを読んでいると、つい思い浮かべる本があります。
それは門田隆将著「死の淵を見た男 吉田昌郎と福島第一原発の500日」。
そこに出てくる文でした。それは宗教にかかわる話題の箇所でした。
はい。今回はそこを引用して終ります。

吉田昌郎氏の洋子夫人の言葉に、免震重要棟に本を持って行ったとあります。

「・・若い頃から宗教書を読み漁り、
  禅宗の道元の手になる『正法眼蔵』を座右の書にしていた。
  あの免震重要棟にすら、その書を持ち込んでいたほどだ。 」
                   (p345  単行本の第22章 )

そして、そのあとに小見出しで「その時、菩薩を見た」という文が続きます。

「吉田が震災の1年5カ月後、2012年8月に福島市で開かれたシンポジウムに
 ビデオ出演した際、現場に入っていく部下たちのことを、

『 私が昔から読んでいる法華経の中に登場する
 ≪ 地面から湧いて出る地涌(じゆ)菩薩 ≫のイメージを、
  すさまじい地獄みたいな状態の中で感じた 』

 と語ったことだ。これをネットで知った杉浦(高校時代の同級生)は
 この時、ああ、吉田らしいなあ、と思ったという。

『 ああ、吉田なら、命をかけて事態の収拾に向かっていく部下たちを見て、
  そう思うだろうなあ、と思ったんですよ。
  吉田の≪ 菩薩 ≫の表現がよくわかるんです。

  部下たちが、疲労困憊のもとで帰って来て、
  再びまた、事態を収拾するために、
  疲れを忘れて出て行く状態ですもんね。

  吉田の言う≪ 菩薩 ≫とは、法華経の真理を説くために、
  お釈迦さまから託されて、大地の底から湧き出た無数の菩薩
  の姿を指していると思うんですが、その必死の状況というのが、
  まさしく、菩薩が沸き上がって不撓不屈の精神力をもって
  惨事に立ち向かっていく姿に見えたのだと思います。

  そりゃもう凄いなあ、と思いましたねえ。
  部下の姿を吉田ならそう捉えたと思います。
  ああ、これは、まさしく吉田の言葉だなあ、と思ったし、
  信頼する部下への吉田の心からの思いやりと優しさを感じました 』 」
                 ( p347~348 単行本の第22章 )
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闇夜只一個の提灯を携へ

2024-03-17 | 安房
「安房震災誌」に
県庁への急使を派遣して、その後の安房郡長のとった行動が、
おそらく、編者白鳥健氏によって書かれたと思われる箇所としてあります。

「 無論、県の応援は時を移さず来るには違ひないが、
  北條と千葉のことである。今が今の用に立たない。

  手近で急速応援を求めねば、此の眼前焦眉の急を救ふことが出来ない。
  しかし、どの地方に応援を要求したら好いか。
  郡長は沸きたつやうな気分を抑えて、沈思黙考して見たが、

  先づ大鳴動の方向と、地質上の関係から考察して、
  被害の状態を判断するより外はなかった。

  そこで、郡長は平群、大山、吉尾等の山の手の諸村が
  比較的災害の少ない地方であろうと断定したから、
  ・・・・応援を求めることに決定した。 」(p237 「安房震災誌」)

 そこに、税務署員の久我武雄氏が急使を受けてくれることになります。

「 然し、北條から、平群、大山、吉尾などの諸村へ行くには、
  平日でも可なり道路のよくないのに、夜道ではあり、
  大地震最中のことで、果して使命を全うし得られるか、
  否か多大の疑問であった。
  血気の久我氏は『 死ぬまでやります 』といって、
  快諾一番、郡長の意をうけて、
  夜中此等の諸村に大震災応援の急報を伝へた。・・」( p238 同上 )


さて、当時の急使を受けた側の大山村役場の記録が残っております。
そのはじまりには、こうありました。

「 9月1日午後8時頃千葉県農会技手伊藤正平、
  北條税務署属久我武雄の両氏来着・・・  」
             ( p935 「大正大震災の回顧と其の復興」 )


今回は大山村役場の記載に最初に登場する
「 千葉県農会技手伊藤正平 」を取上げてみます。

まずは「千葉県農会技手」から、
「大正大震災の回顧と其の復興」下巻に「郡農会の活動」とあります。

「 郡農会は当時郡長を会長とし、
  職員は大部分郡吏員兼務なり、
  萬事郡長の指揮により、その対策に万全を期したり・・ 」(p409)

「大正大震災の回顧と其の復興」上巻に
編者・安田亀一氏が、直接元安房郡長だった大橋高四郎氏へのインタビューの
梗概を録した箇所があり、震災当日の午前中の大橋氏の自宅でのことが
語られている中に、伊藤正平氏の名前が登場しております。

「 まだ一つ不思議がある。当日午前中地震の少し前に
  農会の伊藤君(正平)がやって来た。

  農事の指導講習会の臨席のお禮に来たものらしい。
 『 やあ、伊藤君、お禮かい 』・・・・      」(p816)


現実には2日未明より、ぞくぞくと北條の郡役所前に到着する応援です。
それを依頼するために、久我武雄氏、一人を大山村へと行かせることはせず。
郡役所の部下である、伊藤正平氏が急使と一緒になって行ったのだ。
ということが、大山村役場の記録によってわかるのでした。

おそらく、北條に住んで22歳の税務署員久我氏だけでなく、
日頃、農事指導で地域にも明るかっただろう伊藤正平氏が
率先案内して、2人してむかったであろうことがわかります。
何より大山村役場の記録に最初に伊藤氏の名前が出てくる
ことで、その地域と伊藤正平氏との関係がわかるような気がします。

村役場の記録には、こうもありました。

「 両氏は人々色を失ひ戦慄恐怖の際
  克く旨を了し快諾闇夜只一個の古提灯を携へ、
  亀裂凸凹の悪路や陥落の橋梁を乗越え来り
  郡長の意を述べ、直に応援出動せられ度旨
  聞く事々に被害の惨禍は驚愕せざるものなし・・・  」(p935)




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安房高女の関東大震災。

2024-03-16 | 安房
千葉県立安房南高等学校に勤務されてた
高木淳教諭による資料がコピーされてありました。
「 校友会雑誌第6号(震災紀念号) 」のコピー。

そこに、「破壊から復興へ」とあり、
今回は、そこから引用をしてみます。

9月1日(土曜)晴午前大驟雨

  ・・好い塩梅には始業式後、既に余程過ぎた後であった為、
  居残ってゐた生徒は二三名に過ぎず、然もそれは微傷も負はずに
  難を避ける事が出来てゐた。幾度か念を押した後校舎に残った者は
  外には一名もない事も解り、其の方は一先づ安心する事が出来た。

  然し寄宿舎生の方はといふに。
  人数が多いだけ急には安否を知ることが出来なかったが
  その中に外出中の生徒が追々帰って来た・・・
  結局する所総人員68名の内2名だけはとうとう足りなかった。
  4年生 伊豆章枝  2年生 村井敏子
  2名は此の日、禍の犠牲となって了ったのである
  
  舎監の西林先生は舎監室の中に残って居られたが
  幸に怪我もなく屋根の破れた所から出て来られた。・・・・

 職員中には死傷はなかったけれど、自宅にはどんな事変がないとも限らない
 ので気が気ではなかったけれど・・・・
 ・・圧死者の遺骸捜索に夢中となって帰る事も忘れて日暮近くまで働いた。

 けれども2人の遺骸は見当らなかった。で明朝早く
 瀧田村の村井敏子の叔父さんといふ方が人夫を連れて来て
 捜索する事にして、職員は一先づ宅へ引取った。

 舎生66名と舎監の先生2人と其他大野、金子、新井、中田等の諸先生
 並にその家族とが運動場に集って握飯1個宛の夕食をすました。

 所々に火の手が闇を赤く彩ってゐた。
 舎生の父兄が心配して1人2人づつポツポツ尋ねて来られて
 伴れて帰って行かれる。

 そのうちに津浪の噂が耳に入った。
 舎生たちの恐怖は其極に達した。・・・
 残ってゐた職員が一張の提灯を力に一同をつれて
 ゾロゾロと鉄道線路を伝って安布里山の方へと逃げた。御真影を背負って。

 路傍には筵の上に死体を置いて闇の中に通夜してゐる家もあった。
 遠い西北の空が真赤に彩られて見えた。・・・・


9月2日(日曜)晴

   安布里山の下で夜を明かして泰明に学校の運動場へと戻って来た。
   舎生の大半はそれぞれ父兄の迎へを受けて帰って行った。

   未明に村井の叔父さんと平群村の青年団の人達が
   十五六人で倒れてゐる寄宿舎の所々を破って捜索せられた。
   2人の遺骸は間もなく取り出された惨状言ふに忍びない・・・

   夜が明けると職員はみな学校へ集った。
   夏井先生は自宅で重傷を受けられた。
   また先生方の家族の中には令閨の負傷された方もあり、
   令孫の死亡せられた方もあり、
   母堂の負傷せられた方もあった。

   住宅はみな倒れた。
   鶏小屋に寝られた方などは上等の部であった。
   しかし睡ったものは一人もなかった。


     ×  ×  ×  ×  ×

   生徒は居らず、校舎は倒れた廃墟の様な学校へ職員は毎日出た。
   そして潰れた家根をはがしては重要書類、校具器具等を取出し、
   またそれを整理する為に物置等を作ったりした。
   又折々には唯一つ残ったトタン葺の体操教室に会議を開いて
   前後策を講じたりした。

   在郷軍人及び地方青年団員の献身的の援助があった為、
   整理は(勿論応急ではあるが)思ひの外早く進行した。

   そして世人の心も大方平静に復しかけて来たので、
   一応全校生徒を召集し、其の状況を聞かうではないかとの議が起り、
   20日午前10時出校するやう通知状を発する事になった。
   それは9月15日の事であった。


またしても、引用ばかりになりました。
安房郡役所から大山村へと出張していた平川氏が当日北條町に戻ります。
瀧田村の村井敏子の叔父さんは、瀧田村へと当日夜に戻り、翌朝未明に
平群村の青年団の人達と捜索にあたっておりました。
個々別々に、北條町近辺の大震災状況は知るところとなっていたわけです。

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