和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

ジャンク(中国の帆船)

2023-05-30 | 絵・言葉
私と本とのつき合い方は、たとえれば、辞書をひく感じの
パラパラ読みなのだと、この頃合点するようになりました。
はい。一冊の本を最後まで読みとおせないという意味です。

さてっと、松山善三氏が
『 須田先生の絵を眺めていると、生きる元気がわいてくるのです 』
 ( p232 「司馬遼太郎が考えたこと 13」新潮文庫 須田剋太展 )

と、司馬さんとともに、ジャンクの絵を眺めて感想を漏らす場面がありました。

ジャンクっていったいなにか?
という疑問もありましたので、この際未読の
司馬遼太郎著「街道をゆく 19(中国・江南のみち)」を古本で注文。
それが昨日届く。ありました。本の最後のほうに
『戎克(ジャンク)』という箇所がありました。
こうあります。

「こんどの旅の主題のひとつは、ジャンクを見ることであった。」
( p328 ワイド版「街道をゆく」朝日新聞社2005年 以下はこの本の頁 )

ちゃんとジャンクの写真(1981年撮影)p331も載っています。

「『戎克(ジャンク)―中国の帆船』という古い本が、私の手もとにあった。
 昭和16年刊で、しかも著者の個人名がなく(編集人は小林宗一)、
 発行所は『中支戎克協会』となっている・・・・」(p339)

「 著者は、当然、船舶の専門家であろう。
  科学的な態度で書かれているのに、
  船を生きものとして見ているという
  人格的な情感がときに行文にあらわれる。 」(p340)

はい。その本からも引用されているのですが、そこから一か所

「 戎克は其型は古代船式で頗る簡単ではあるが、
  其用途に依り実際の経験から仕事の仕易い様に
  すべてが実用本意で非常に頑丈に造られてゐる。 」(p340)

司馬さんの話はそれてゆくようで、本題へともどります。
その逸れ具合と、もどり具合が味わえる場面を引用してみることに。

「ある夏、日本海事史学会が兵庫県の西宮市の戎(えびす)神社の
 境内でおこなわれたことがあった。戎神社はいまは福を招くという
 信仰でささえられているが、もともとは漁民の神であったのだろう。

 その神社の境内を画している桃山ふうの練塀(ねりべい)の豪壮さは、
 京都の東寺のそれとならぶべきもので、
  
 すでにいまは浜から遠くなっているものの、堀のうちは
 うねるような浜の砂で満たされ、磯馴(そな)れじみた
 古松が浜の気分をよく象徴している。まことに、
 海事史の研究者たちの集まる場所としてふさわしいと思われた。
 ・・・・・・

 甬江(ようこう)をくだりながら、・・
 西宮戎神社での集いを思いだしていた。

 前後左右を帆走しているジャンクを見ているうちに、
 素人の自分がこれを見ていることの贅沢さを思ったりした。

 日本の海事史学者の多くは、なまのジャンクを見る機会を、
 さほどには持っていないのである。           」(p350)

『見る機会』をえた司馬さんの言葉もありました。

「 『港監五号』は、わざと低速で走っている。
  すれちがったり追いこしたりしてゆくジャンクたちに
  大波をあびせまいとする配慮であろうかと想像した。

  それでも、追いぬかれたジャンクは、災難だった。
  そのつど、大きなあと波のために踊るように上下している。

  ( ジャンク踊りだ )と、
   その壮観におどろいてしまった。
  そのくせジャンクは、船ごと笑いさざめいているように平気なのである。

  私どもは、ジャンクとすれちがうたびにふりかえった。
  ジャンクをその船尾(とも)から見るせいか、
  みるみるこの河海両棲の生物は船尾を持ちあげ、
  波間に落ち沈んで突っこみそうになるのだが、
  その独特の船体のせいか、たちまち波の山に馳せ登り、
  こんどは船首をたかだかと揚げる。

  ともかくもシーソー・ゲームのように
  派手にピッチングを繰りかえしながら
  遠ざかってゆくのである。

  舷側(げんそく)が高いために、
  船中の漁夫や水主(かこ)は頭ぐらいしか見えない。
  ときに平然とめしを食っていたり、空を眺めたりしている。
   
  ( さすがジャンクだ )と、
  滑稽とも頼もしさともつかぬ気持のさざめきをおぼえた。  」(p327)


はい。ここを読んだあとに、わずか2ページの司馬遼太郎の
「 もう一つの地球 (『須田剋太展』) 」の後半を読みかえすことに


「 『 須田先生の絵を眺めていると、生きる元気がわいてくるのです 』
  といったのは、松山善三氏だった。
  いわれたとき、目の前に、光が満ちてくる思いがした。

  中国の長江を、朝の陽を浴びながら、
  ジャンクが躍るようにすすんでいる。

  画伯のそういう絵が、松山氏と私の前に展示されていたのである。

『 たしかに、このジャンク、地球の生物以外の、もう一つの生物ですね 』

 そう言っているうちに、私のからだの中に、
 もういっぴきの私が誕生しているのを感じた。
 それがはしゃぎまわるのを、絵の前にいる間じゅう感じつづけた。

 この私(ひそ)かな体験は、画伯が、もう一つのちきゅうを、
 生物ぐるみ、創りつづけていることの、たしかなあかしだと思っている。

 それを感じるだけの力を、平素養いつづけねばならないことは、
 いうまでもない。    ( 昭和61年4月 )        」

     ( p233 「司馬遼太郎が考えたこと 13」新潮文庫 )


 
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須田剋太を読む愉しさ。

2023-05-29 | 絵・言葉
須田剋太の挿絵『街道をゆく』を見ながら、
さて、これをどう読んだらよいものかと思う。

さいわいなことに、『司馬遼太郎が考えたこと』(新潮文庫)が身近にある。
まるで、須田画伯の言葉を、分かりやすく翻訳するようにして、
須田絵画を、司馬さんが嚙み砕いて言葉にかえてくれています。

『街道をゆく』の司馬さんは、取材で共に須田画伯と歩いてる。
身近で知る司馬さんが言葉を選び浮き彫りにする画伯絵画の姿。

『 十六、七年、私がこの人(須田画伯)を見つめつづけてきて
  驚かされるのは、影ほどの老いも見られないことである。 』

  ( p142 「司馬遼太郎が考えたこと 14」 )

「 ここでちょっと余談をはさむと、
  絵画は自然を説明するものなのか、それとも
  タブローから生み出される宇宙最初の――自然を超えた――
  形象なのかと問われれば、
  画伯は圧倒的に後者だと私は答える。

  ――富士山はこうなのです。
  というのが、多くの画家によって描かれてきた富士山の絵だが、

  須田画伯のはそうではなく、たとえ富士を描いても、
  それはたったいま生まれてきた何かであって、

  人が富士と呼べばそうであり、人が心といえばそうである。
  あるいは人が抽象的形象とみればそれでもよく、

  ともかくも、画伯によってはじめて出現するなにかである。
  おそらくこの絵画思想は、妙義山(注:)に籠もりたいというときには、
  すでにその萌芽があったにちがいない。  」

    ( p286~287 「司馬遼太郎が考えたこと 14」 )

 注:≪ おそらく二十そこそこに、故郷の妙義山に山籠もりしていた ≫

はい。須田画伯の挿絵『街道をゆく』を見ながら、
司馬さんの画伯への言及を読める醍醐味と楽しさ。
こんな箇所もありました。


「 ・・わが友では、須田剋太を好む。
  いずれも、地の霊が人に化したかと思われるような
  おそるべき魂をもちながら、

  その生き方はかぼそく、人には優しく、
  腫れあがった皮膚のように風にさえ傷みやすい。

  そのくせ画を創りあげるときには、
  造形を創るという匠気をいっさいわすれ、
  地と天の中に両手を突き入れて霊そのものの
  躍動をつかみあげることに夢中になる。

  しかしながら、鬼面人を驚かすような構成はまれにしかとらず、
  たいていは花や野の樹々といったおだやかな生命をみつめ、

  そのなかに天地を動かすような何事かを見究めつくそうとする。 」

  ( p194 「司馬遼太郎が考えたこと 9」  )


まだまだ、こぼれ落ちそうな司馬さんの須田画伯への言及を
鏡のようにして須田画伯の挿絵『街道をゆく』を見る楽しみ。


コメント (3)
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須田剋太『街道をゆく』挿絵作品集。

2023-05-28 | 短文紹介
「 須田剋太 『街道をゆく』挿絵原画全作品集
   司馬遼太郎と歩き描いた日本・世界の風景  」第1集~第4集。

 企画・編集 社団法人近畿建設協会 ・・
 発行    社団法人近畿建築協会

という古本を手にしました。第一巻の「ごあいさつ」から

「・・・もう一つ、『街道をゆく』の魅力を形成している
 欠かせないものが、言うまでもなく須田剋太画伯の挿絵です。

 グワッシュ画を得意とした画伯の挿絵は、
 対象に迫る厳しさと、才気溢れる大胆かつ鋭い筆づかいで、
 独創的な絵画世界を形成しています。

 社寺、城跡、漁港、市街地、石仏、人物、自然など、
 画伯が遺した膨大な挿絵をたどっていくと、私たち自身もまた、
 共に諸国の街道行脚をしているような心楽しく胸躍る気持ちになり、

 すでに見知った場所や事物でも、
 また新たな感動をもってとらえ直すことができます。・・・   」(p2)

         社団法人 近畿建設協会 理事長 宮井宏

ここに『 すでに見知った場所や事物でも・・ 』とあります。
はい。この言葉と並るように、司馬さんの文を引用しておきたくなりました。

 「 子どものころから第一級の美を 」と題して

昭和48年『少年少女世界の美術館』の宣伝カタログに
掲載された司馬さんの文の、ほとんど全部を引用してみます。

「 野や町を歩いていて、日本人の美的感覚が
  一般に戦前よりも落ちたように思う。

  私は日常、むかしはよかったという趣味は
  まったくないつもりでいるのだが、この分野ばかりはそうである。

  戦前までの日本には、室町期に確立した美学が濃厚に残っていて、
  家を建てるにも座敷をつくるにも調度を選ぶにも、  
  一般人もそれを継承していたし、大工さんたちもそれをもっていた。

  いやらしいもの、あくの強いもの、汚物のような自我で   
  あることに気づかずに自我だけを主張しているものに対し、

  室町期の美学を自然に身につけたわれわれははげしく拒絶した。
  その美学がいま衰滅し、しかも新しい天才的時代が来ぬままに
  やたら混乱している。

  少年や少女たちが、その年齢のときから美しいものにあこがれ、
  何が美しく、何が嫌悪すべきものであるかを身につけなければ、
  きっと醜悪なものの中で平然としている人生を送るにちがいない。

  美の訓練は、知恵のできた大人になってからでは遅いらしい。
  子どものころから第一級の美しさを見馴れてしまうように
  しなければだめなものらしい。・・・           」

    ( p143~144 「司馬遼太郎が考えたこと 7」新潮文庫 )


ちなみに、1971年(昭和46)の1月1日号より、
『街道をゆく』が、はじまっていたのでした。


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埼玉県吹上と京都。

2023-05-26 | 京都
須田剋太と京都。
「司馬遼太郎が考えたこと 11」(新潮文庫)の目次をひらくと、はじめに
「 出離といえるような ( 須田剋太『原画集街道をゆく』) 」があり、
その目次の、最後の方に「 旅の効用 」がありました。

どちらも、『京都』が出てくるので興味深い。

「 『 京都の坊さんは変っている。あの連中、
    平気で法衣(ころも)姿で街を歩いているんだ 』

  と、私にいった東京の町寺の僧侶がいる。
  東京じゃたとえば地下鉄のなかで坊主姿の人なんか居ないよ、
  と、やや首都の風(ふう)を誇るかのようにいった。

  東京のお寺さんは逮夜(たいや)まいりにゆくときは背広でゆき、
  檀家で法衣に着かえる。帰りは背広姿にもどって、あらたに
  形成された大衆社会の中にまぎれこむということであった。

  ・・・この傾向は、首都においてもっともつよい。・・ 」
              ( 文庫p455~456 「旅の効用」 )


はい。ここで詳しく引用していると捗らないので次にゆきます。
須田剋太は、明治39年(1906)、埼玉県吹上町に生まれ。
終戦のとき、昭和20年(1945)は39歳で、京都・奈良にいます。
司馬遼太郎の『出離といえるような(須田剋太「原画集 街道をゆく」)』
に出てくる須田画伯と京都の結びつきがきになりました。

司馬さんはこう指摘しております。

「 もし、あるひとが、
  『 京都にゆかないか 』といってくれて、
  切符を買い、汽車に乗せてくれなかったとしたら、
  生涯、樹木のように浦和の一角に生えたまま動かなかったにちがいない。

  それまで、京都についての想念は、画家にはあまりなかった。・・・
  そのあと、画家にとって、京都の町は、一歩ごとに驚きを生んだ。

  日本にこういう文化があったのかと思ったという。・・・
  京都に流れついたとき、画家にはすでに母君がなく、
  どこへゆこうと運命の動かすままになっていた。・・・・

  画家には、尋常人のもたない幸運があった。
  40歳前に京都や奈良に現われたとき、この人にとって、
  そこにある古い建築や彫刻、障壁画などが、
  とほうもなく新鮮だったことである。

  かれはほとんど異邦人のような目で見ることができたし、
  さらにいえば、古代の闇のなかから出てきた一個の
  ういういしい感受性として、誕生したばかりの新文明としての
  平城京に驚き、あるいは平安京にあきれはてているという
  奇蹟もその精神のなかでおこすことができた。  」(文庫  ~p19)

食レポというのが映像でも花盛りの現代ですが、
司馬さんは、美術レポをしておられたようです。

「私(司馬さん)は、昭和29年から3年ばかり、
 展覧会に出かけては美術評を書くしごとをした。 
 ときに抽象絵画の全盛で・・・
 須田剋太氏など数人の画家のしごとは、見るたびに、
 圧倒する力をもっていた。しかし他者を圧倒することが
 芸術なのかという疑問が、つねに私の中に残った。・・・  」(~P25)


うん。もどって「旅の効用」から最後にこの箇所を引用しておきます。

「 自分が属する社会の本質など、常日頃は気づかない。
  何かで気づかされたとき、突とばされたような驚きをおぼえる
 
 ( そういうことが、私が小説に書く動機の一つかもしれない )。 」
                       ( 文庫 p457 )


うん。さりげないのですが、司馬遼太郎の『 小説を書く動機 』が
かっこ入りで語られている場面でした。


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自在とは本来、禅語だった。

2023-05-25 | 正法眼蔵
講談社学術文庫に、増谷文雄全訳注の「正法眼蔵」全8巻がある。
すぐ飽きる私は、これが読み続けられない。
読めないながら、本棚に鎮座しております。
はい。いつかは、読もうと思うばかり(笑)。

ですから、道元と聞くと、ちょい気になるのでした。
すぐ飽きるのですが、それなりに興味がわいてくる。

司馬遼太郎に「道元と須田さん」という文がありました
(「司馬遼太郎が考えたこと 12」新潮文庫)から引用。

司馬さんは、道元についてこう簡単に記しております。


「 24歳で入宋し、26歳でかの地の天童山で如浄(によじょう)に会い、
  28歳で帰国し、30歳をすぎたころ『正法眼蔵』の著述にとりかかっています。

  しかしながら、その文章はまことに独自なもので、しばしば、
  道元が手作りで創りあげた勝手な言語表現ではないか、
  と溜息が出るほどのものです。
  道元は、漢文で書かず、日本文で書いたのです。

  当時の日本語の文章は、叙情や叙事においては
  すでに何不自由ないものとして発達していましたが、
  
  抽象的な観念を表現するには、言語として未熟でした。
  というより道元以前に、日本語によって大規模に
  思想を表現した例はないにひとしかったのです。

  本来、中世日本語が思想表現にむかなかったのに、
  道元がそれを思いたったのが『正法眼蔵』の
  企(たくら)まざる雄図でありました。

  その上、道元は、その文章でもわかるように、
  うまれついての思想家であり、
  それを思索しつづけるほど、
  強烈な英気を持っていました。
  かれは思索しぬいた人です・・・・

  かれは、未熟な段階の日本語に、
  豊富で綿密な思想をのせてしまったのです。

  道元の言語は掠奪者のように、古い漢文や仏典から
   ――古い建築から古いレンガを外すように――
  その場その場の思索の表現にもっともふさわしい言語を
  ひつ剥がしてきて、しばしば意味まで自分流に変えて、
 
  いきいきとした新品のことばとして再生させました。
  それでも追っつかず、中国留学中に耳目に入った当時の
  現代中国語まで日本語に仕立てなおしてつかったのです。
  ・・・・・・

  道元の表現者として勇敢さは、
  技巧上の大胆さということではありません。

  おそらくいのちを言語に叩きこんで、
  叩きこむことで自分の思索をたしかめたい、
  という切迫した動機から出たものだと思います。

  十に三つぐらいは他者にわかるように、
  という願いも感じられます。
 
  あと七つはわからなくてもいい、
  という思いつめも感じられます。・・・・   」(p413~415)


この文を、引用してパソコンに打ち込んでいると、
ああ、司馬さんは須田剋太さんのことを語っているのだなと
つい、須田剋太画伯の装画を思い浮べながら引用しています。

「司馬遼太郎が考えたこと 14」新潮文庫に
『真の自在(「須田剋太展」)』(平成元年)と題する文が載っております。
その文の最後も引用したくなりました。

「この人(須田さん)は曹洞禅の道元に参じ入って半世紀ちかいが、
 すでにひたるようにして道元の世界にいる。

 刻々矛盾の中にいながら、刹那に矛盾を解きあかし、
 つねにあかるく自己を解放している。
 自在とは本来、禅語だった。・・・・     」(p289・文庫)



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須田剋太画伯と司馬さん。

2023-05-23 | 本棚並べ
「司馬遼太郎が考えたこと 13」(新潮文庫)に

司馬さんが須田剋太を紹介した2頁の文がありました。
うん。私に印象深いので引用します。

「 人間には、精神の喝(かつ)えがある。
  それがために、もう一つの地球 
   ―― 芸術のことだが ―― をほしがる。

  私にとってのもう一つの地球として、須田芸術がある。
  これは、至福なことだと思っている。

  一緒に旅をし、砂漠を横切り、また湖水のほとりを歩き、
  さらには村々を経めぐって帰宅したあと、

  こんどは須田芸術という、もう一つの地球に入ることができるのである。

  その地球は、私が自分の肉眼で見、手足でさわったはずの
  この地球よりもいっそう鋭く、たくましく、ときに弾けるような
  美しさが噴きこぼれつづけていて、私の日常を鼓舞してくれる。

 『 須田先生の絵を眺めていると、生きる元気がわいてくるのです 』
 
  といったのは、松山善三氏だった。
  いわれたとき、目の前に、光が満ちてくる思いがした。

  中国の長江を、朝の陽を浴びながら、
  ジャンクが躍るようにすすんでいる。
  
  画伯のそういう絵が、松山氏と私の前に展示されていたのである。

  ・・・・・・・

  この私(ひそ)かなる体験は、画伯が、
  もう一つの地球を、生物ぐるみ、創(つく)りつづけていることの、
  たしかなあかしだと思っている。

  それを感じるだけの力を、平素養いつづけねば
  ならないことは、いうまでもない。       」(p232~233・文庫)


うん。3行ほどカットして、残り全文を引用しちゃいました。

古本で値が張るのを覚悟して須田剋太の装画全『街道をゆく』
を手元に置いて見ていたくなってくるのでした。
まあ『 それを感じるだけの力 』があればなのでしょうが・・・。

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『 道元だって、きみ、抽象だよ 』

2023-05-22 | 本棚並べ
「須田剋太『街道をゆく』とその周辺」(1990年)に載っている
司馬遼太郎の「20年を共にして――須田剋太画伯のことども」に、
どういうわけか道元が登場しているのが気になりました。
その箇所を引用。


「ともかくも、ほとんど事件ともいっていい
 長谷川三郎との邂逅のあと、長谷川の滋賀県の家に行ったりして、

 ほとんど一つの瓶子(へいし)から他の瓶子に水がそそがれるようにして、
 長谷川の理想と論理が、須田さんに移されたのです。

 長谷川は、『 道元だって、きみ、抽象だよ 』といったことから

 須田さんは、『 正法眼蔵 』を読むことになります。
 須田さんの後半生をささえた道元への傾倒は、このときからはじまるのです。

 道元は、たしかに抽象です。
 欲望を捨て、心を透明にし、
 いわば精神を抽象化することによって、
 さとりの境地がひらけるというものでありましょう。

 ・・・ここであらためて言っておかねばなりませんが、
 須田さんは、悟りをひらくために道元に傾倒したのではなく、
 
 そこから造形理論をひきだすためにそのようにしたのです。
 まことに道元研究においても
 須田さんは類のない道を歩んだというべきでした。    」


うん。須田剋太と道元なのですか。どうやら、
須田剋太の装画を見て、道元を思い浮べてもよさそうです。

いつかは読めるかと思って、
正法眼蔵の文庫を揃えて、本棚で埃をかぶっているのですが、
この機会に、ちょっとでも、読み進められるかもしれません。
うん。須田剋太装画でたどる正法眼蔵。
なによりも、装画入りの正法眼蔵というイメージ。

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いわばむだです。

2023-05-21 | 本棚並べ
「須田剋太『街道をゆく』とその周辺」(1990年)。
主催は、大阪府・大阪府文化振興財団・朝日新聞社。
はい。これも展覧会のカタログです。
大阪展・名古屋展・高松展・東京展と各地で展覧会をした際のカタログ。
ここに、司馬遼太郎さんが寄稿されております。
題して「 20年を共にして――須田剋太画伯のことども―― 」。
「私は、須田さんの永眠を、モンゴル高原の首都のホテルの一室でききました。」
というのが最初の一行です。
「街道をゆく」の原画にふれた箇所が印象深い。

「 装画はどうしましょう、という話のとき、・・
  担当だった橋本申一さんに、どなたか候補のお名前をあげてください、
  というと、須田剋太さんはどうでしょう、といわれたのです。
  ああいいですね、と即座にきめました。  」


「 『原画は、こんなに大きいんです』
  と最初の絵ができあがって早々、橋本申一さんがやってきて、
  閉口した表情で言いました。

  だいいち凸版として使う絵は、印刷されたときの面積とほぼ
  同じ大きさで描くとうまくゆきます。伸縮の度合いがすくないからです。

  また黒の濃淡で描くと、凸版効果がうまくゆきます。
  というより、黒の濃淡ときまったものなのです。

  ところが、須田さんの原画は、色で描かれているのです。
  色は印刷には出ないのですから、色彩をつかうのは、いわばむだです。

  しかしながら愚直なほどに自己に忠実なこの人は、
  自分を納得させるために色面で構成したのです。

  くりかえしますが、印刷ではモノクロームでしか出ないのです。
  写真でいえば、カラーフィルムで撮って白黒で焼くようなものでした。

  このやり方が、17年間、千数百点、すこしも変わりませんでした。
  おどろくべきことでした。

  『街道をゆく』の須田さんの絵は、そのようにして、
  須田絵画のなかでもとくべつなものでした。

  えのぐは、フランスでいうグワッシュ(gouache)
  というものがつかわれています。
  水とアラビアゴムと蜜などを加えた濃厚で不透明な水彩絵具です。

  最初から最後までそうでした。
  用紙は固く、ご自分でつくられたのかどうか、
  ふつうのケント紙を三枚ほどあわせたくらいの厚紙です。

  凸版でのできばえはまことにいい感じでした。・・・
  一点ごと惚れぼれしましたし毎号雑誌をみるのが楽しみでした。

  須田さんは旅をしているうちに、
  『 しばさん、これ、やめないでおきましょう 』
  と言いはじめたのです。
  これとは、『街道をゆく』のことです。・・・・      」


はい。須田画伯の装画をみながら、この文を読めるのは、
また、格別なものがありました。


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須田剋太の『街道をゆく』

2023-05-20 | 本棚並べ
古本で展覧会カタログがあり買う。
「司馬遼太郎と歩いた25年『街道をゆく』展」(朝日新聞社・1997年)。

「ごあいさつ」の中に、こうありました。

「 この展覧会は、司馬さんと旅をした故・須田剋太さん、
  桑原博利さん、安野光雅さんが描いた装画(挿絵)の
  代表作310点と・・・関連する写真などで、司馬さんを追悼し、
  壮大な歴史紀行『街道をゆく』シリーズを振り返るものです。 」

はい。司馬遼太郎の『街道をゆく』を数冊しか読んでいない私でも、
連載中の須田剋太氏の装画の印象は鮮やかでした。
いつか、それだけでも見ていたいと思っておりました。
古本でそのチャンス到来。といったところです。

安野光雅さんの文からはじまっていましたが、
ここには、須田剋太氏の昭和59年の文が再掲載されていたので、
そこから引用してみます。

   司馬さんと旅して  須田剋太

「 ・・・旅をして体が丈夫になりました。
  それになにより絵が変わりましたね。

  いろんなヒントを得たし、絵にリアル感が出てきたと思います。
  私にとって大変な収穫でした。それもこれも司馬さんのお陰で、
  あの人が無名の私を世間に出してくれたんです。 」

「  司馬さんに出会えたということは、
   私は本当にめぐまれていると思う。

   道元に同事ヲ知ルトキ自他一如ナリ、

   という言葉がありますけれど、いっしょに仕事をしておりますと、
   心が深い所で響きあって、自他の区別がなくなる、そういう瞬間を、
   おこがましいけど司馬さんにある時ふっと感じるんです。

   司馬さんも、私がとにかく一所懸命に絵を描いていることだけは
   認めてくれているんだと思います。そうでなくては
   こんなに長く続かなかった、と考えているのですけれども。(談)」


はい。須田剋太のこのカタログの絵を見ていると、
そうだ、司馬さんは須田さんのことをどう語っていたのかと気になりました。

「 司馬遼太郎が考えたこと 14 」(新潮社・2002年)には
「 二十年を共にして 須田剋太画伯のことども 」がありました。
なかに『街道をゆく』をはじめた際の年齢にふれた箇所があります。

「 はじめたころ須田さんは65歳でした。
  私は17歳も下で、まだ四十代でしたから、
  須田さんがずいぶん年長に感じられました・・・  」

司馬さんによる須田画伯の装画を語った箇所もありました。

「 『街道をゆく』の原画の構成は、どれもが求心的な
  緊張感を感じさせるものでありました。・・・・

  ただ声をひそめていうのですが、『街道をゆく』以後、
  ふたたび精力的に再開された油彩の具象画には、
  さほどには構成的緊張が
    ――あくまで私の勝手な印象ですが――
  なかったように思います。 ・・・・      」


ああ、そうか、と思い当ることがあります。
画集で須田剋太のものをひろげたことがあります。
なんだか、あきらかに『街道をゆく』の装画とは異なったイメージでした。

気になったのは、司馬さんの指摘する『求心的な緊張感』という言葉でした。
『街道をゆく』の須田画伯の装画をみていると、時に同じ箇所の写真が載って
いたりすると、その写真を見ただけで、なんだか気が緩んでしまうような。

週刊誌連載『街道をゆく』を、装画で毎週緊張感の磁場を発生させていた。
そんな画伯のことを思うのは、はたして私一人だけでしょうか?
司馬さん自身も、こう指摘しておられました。

「 以後、このひと(須田画伯のこと)と旅をし、
  やがてそれが作品になってあらわれてくるという
  二重の愉しみにひきずられるようにして、
  旅をかさねるようになった。・・・

  そのつど須田剋太という人格と作品に出会えるということのために、
  山襞(やまひだ)に入りこんだり、谷間を押しわけたり、
  寒村の軒のひさしの下に佇(たたず)んだりする旅をつづけてきた。

  いま、朽木街道をこのひとと共に行ったとき、
  自分がまだ47歳であったことにあらためておどろいている。 」


注:「画伯とはじめてお会いしたのは『街道をゆく』の最初の旅
  (といっても日帰りであったが)で近江の朽木(くつき)街道に
  同行したときであった。


「 司馬遼太郎が考えたこと 」のなかには、
須田剋太画伯への文が4~5回登場しておりました。
うん。最後にはこれを引用しとかなければ。

「 私にとっていつもそうだが、須田画伯と出会ったときの
  瞬間のうれしさは、たとえようがない。

  むこうから画伯がやってくると、
  そこだけが空気が透きとおってくるのである。

  この人はいつも画板を前に抱き、
  いわば恭謙(きょうけん)な姿でいる・・・    」

   ( 「 真の自在≪須田剋太展≫ 」司馬遼太郎が考えたこと14 )








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狐は人にくいつくものなり。

2023-05-18 | 古典
「絵巻で見る・読む徒然草」(朝日新聞出版・2016年)は、
絵・海北友雪筆「徒然草絵巻」(サントリー美術館所蔵)
監修・島内裕子。訳・絵巻解説上野友愛。

うん。古本で買ってみました。残念。
絵巻がひとつひとつ全部見れるかと思ったのですが、違いました。
でも、現在手にできる海北友雪筆「徒然草絵巻」に違いありません。

最後の方に上野友愛氏による解説がありました。そのはじまりを引用。

「 『 小説はほとんど読まないが、マンガはよく読む 』
  という人は少なくない。それは、ストーリーによって
  ≪ 読む・読まない ≫を判断しているのではなく、

   文字がページを埋めつくす本よりも、
   絵を見て目で楽しめるマンガに親しみを感じている
   ことが大きな要因だろう。

   昔の人も、そのような絵の魅力に心惹かれていた。
   仏典のエピソードや子どもへの教訓話、
   摩訶不思議な伝説や町の噂話、そして
   美女と貴公子のロマンチックなラブストーリーなど、

   私たちの祖先は古くから物語を愛好し、そして、もっともっと
   物語の内容を楽しみたいという熱い愛によって、
   物語は早くから絵画化された。

   目から具体的なイメージを得ることによって、
   物語の世界はより身近になり、理解しやすいものになったのだ。

   なかでも、『源氏物語』ほど、絵画と深く結びつきながら
   享受され続けた古典はない。・・・・・・・

   文学愛好の享受史のなかで、物語だけでなく、
   随筆である『徒然草』の絵画化も例外ではない。・・・  」(p162)


はい。このようにはじまっているのですが、
かえすがえすも、この本では海北友雪筆『徒然草絵巻』の
絵巻全部の紹介でないのが、残念。

それはそうとして、マンガ徒然草へ焦点をあてると、
長谷川法世著「マンガ古典文学徒然草」(小学館文庫・2019年)
バロン吉元著「マンガ日本の古典 徒然草」(中公文庫・2000年)
が古本で簡単に手に入る。

こちらは、両方とも第243段まで、きちんと載せております。
たとえば、島内裕子校訂・訳「徒然草」(ちくま学芸文庫・2010年)
の全段を読み通せなくとも、マンガでなら通し読みが簡単可能です。

とりあえず、ご注意しておきたいのですが、
バロン吉元さんの絵には、大人マンガの要素が混じります。

両方に魅力はあります。バロン吉元さんの絵は、それこそ、
まとわりついてくる徒然草と切り合うような、大人の魅力があります。
長谷川法世さんの絵には、徒然草の世界そのままを、吞み込むような
ふところの深い法師像です(初めての方におススメなら、長谷川法世)。


はい。何はともあれ、徒然草の全243段とむきあい、
鳥瞰するのに、おススメのマンガとなっております。

その意味でも「絵巻で見る・読む徒然草」が全243段あるのに、
それを全部入れていないのが何とも残念だと思えてしまいます。

せっかくの海北友雪筆による「徒然草絵巻」の全体が
本としては全段見れないことはかえすがえすも寂しい。
全段あると、マンガとの比較が俄然面白くなるのになあ。
まあ、無いものネダリは、このくらいにして、

今回は一か所とりだしてみます。
徒然草の第218段「狐は人にくいつくものなり」を

長谷川法世さんは、3コマで表現しております。
1コマ目は、狐が飛びかかる形相で、左前足の爪をたて今にもの場面
「堀川家の御殿で舎人(とねり)が寝ていて狐に足を食われた。」
2コマ目は、夜の本堂が描かれ、その屋根の上に
「仁和寺では夜、本堂の前を通る下法師に狐が三匹飛びかかって食いついた。」
3コマ目、家の前で法師と三匹の狐の争う場面。
「 刀を抜いて防戦し、狐二匹を突いた。
  一匹は突き殺した。二匹は逃げて行った。
  法師は体中を噛まれたが無事だった。 」

バロン吉元氏の第218段も3コマで納めておりまして、
こちらは、法師の大立ち回りで、狐の首が二つ飛んでおりました。

海北友雪筆の徒然草絵巻の第218段の場面は一枚の絵。

黒色の着衣まま、横に倒れたような恰好の法師。
左腕は、狐の頭を手で地に押さえ
右足の裾から腿へと狐が噛みつき、
三匹目の狐が背後から右腕に噛みついている。
右手に小刀をもちながら法師は、その三匹目を
アッと驚きながらも見据えている。

はい。徒然草絵巻はカラーで、法師の装束の黒を中央に
三匹の狐の茶色が、火焔がおそいかかるかのような構図。


最後には、忘れずに徒然草第218段の原文を引用。

「 狐は、人に食い付く物なり。
  堀川殿にて、舎人が寝たる足を、狐に食はる。

  仁和寺にて、夜、本寺の前を通る下法師に、
  狐三つ、飛び掛かりて、食ひ付きければ、
  刀を抜きて、これを防ぐ間、狐二匹を突く。

  一つは、突き殺しぬ。二つは、逃げぬ。
  法師は、数多(あまた)所、食はれながら、
  事故(ことゆゑ)無かりけり。       」

          ( p418 「徒然草」ちくま学芸文庫 )









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絵巻と漫画と徒然草。

2023-05-14 | 古典
ちくま学芸文庫の『徒然草』(島内裕子校訂・訳。2010年)を
読んでいたせいか、島内裕子監修の「絵巻で見る・読む徒然草」
(朝日新聞出版・2016年)が気になっておりました(これ古本で高価)。

それはそれとして、その関連で手頃で楽しかった図録カタログがありました。
「美術として楽しむ古典文学 徒然草」(サントリー美術館図録・2014年)。
この「ごあいさつ」から引用してみます。

「・・『徒然草』は、成立後100年あまりも
 その鑑賞の歴史をたどることができません。

 慶長年間(1596~1615)になってようやく幅広い読者層を獲得し、
 江戸時代になると、鑑賞、研究、そして創作への応用など、
 さまざまな分野で多様な展開を示すようになりました。

 そうして『徒然草』流布の過程で、≪ 徒然絵(つれづれえ)≫
 とも呼ぶべき絵画作品が登場するようになります。

 近年サントリー美術館の収蔵品に加わった
 海北友雪(はいほうゆうせつ)筆『徒然草絵巻』20巻もその一つです。

 ・・・・『徒然草』といえば無常観の文学といわれますが、むしろ兼好は、   
 現世をいかに生きるべきか、いかに楽しむべきかを探求した現実主義の人
 でした。鋭い観察力で人間性の真髄を描いた、いわば兼好のつぶやきを
 美術作品とともにお楽しみいただければ幸いです。 ・・   」

この次のページは、島内裕子氏が書いております。
うん。こちらからも引用しておかなきゃね。

「・・兼好が生きた鎌倉時代末期から南北朝時代初期にかけては、
 政治・社会の混乱期であった。人々の価値観や美意識も、大きく変化した。

 そのような新時代の息吹をいち早く伝えると同時に、
 いつの世も変わらない人間のあり方や伝統的な文化への共感も、
 『徒然草』には書かれている。

 ひとことで言えば、『徒然草』は多彩な内容がぎっしりと詰まった、
 稀に見る豊穣な文学なのである。

 しかもその密度の濃さは、不思議と重苦しくならず、
 簡潔・明晰な文体の余白に、王朝文学の余香も漂わせつつ、
 内容展開はスピード感に溢れている。

 『徒然草』を読んでいると、まるで初夏の青葉風が吹き渡るような、
  爽快な気分に満たされて、心の中が広々としてくる。

 ものの見方や考え方が柔軟になり、新しい目で
 自分の周りの世界を捉え直すことができる。・・・   」(p8)


うん。この図録カタログの徒然草絵の、楽しみを紹介するのには
私の手には負えないのでした、それでも

『 ものの見方や考え方が柔軟になり、新しい目で
  自分の周りの世界を捉え直すことができる   』

この指摘は、ひょっとすると漫画を語ってもよさそうな気分になります。
ということで長谷川法世著「マンガ古典文学徒然草」(小学館文庫・2019年)

徒然草という素材にむかって、妙なはぐらかしなどせずに第243段を通して
漫画の柔軟性を発揮して描いており、徒然草読みならば、きっと楽しめる。

などと思っていると、徒然草から、徒然草絵巻、徒然草マンガへと、
学校で習う徒然草が、彩り豊かに染み込むような年齢となりました。

 

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室町時代と豆腐。

2023-05-12 | 本棚並べ
室町時代といえば、そういえば、
山崎正和著「室町記」(朝日選書・1976年)があった。
そのはじまりは

「日本史のなかでも『室町期』の二百年ほど、乱れに乱れて、
 そのくせふしぎに豊穣な文化を産んだ時代はない。」(p13)

「・・・この乱世がまた偉大な趣味の時代であり、少なくとも
  日本文化の伝統の半ば近くを創造したという事実であろう。

  『生け花』も『茶の湯』も『連歌』も『水墨画』も、そして
  あの『能』や『狂言』もこの時代の産物であった。

  今日われわれが暮す日本の『座敷』と『床の間』を生み出したのも、
  さらに西洋人を感動させる日本の『庭』を完成したのも、
  この時代の趣味であった。そればかりか

  毎日の食物の面でも、日本人は醤油や砂糖を始め、饅頭や納豆や
  豆腐のような不可欠のものをこの時代に負っている。・・・ 」(p14)


ここに、『豆腐』とあります。うん。
あとはお気楽に、豆腐の連想。

桑原武夫は、内藤湖南著「日本文化史研究」をとりあげて解説しております。
そこに引用されている湖南の文に一読印象深い豆腐のイメージがありました。

「 『・・・たとえば豆腐をつくるようなもので、
   豆をすった液の中に豆腐になる素質をもってはいたが、

   これを凝集させるべきほかの力が加わらずにいたので、
   中国文化は、それを凝集させたニガリのようなものである
   と考えるのである』。

 しかし、文化形成の起源をそのようにみることは、
 日本人の文化的素質を低くみることではけっしてない。
 湖南はむしろそれを高く評価している。

 その素質は、奈良朝とか徳川時代とかのように外国(中国)文化の
 影響力のつよかった時代よりも、むしろそれの少なかった時代、

 すなわち鎌倉時代・室町時代などに注目して検討すべきであるという。
 これまた一見識をいえよう。そして現代については、

 『 西洋民族はどちらかというと、自分の文化に食傷し、
   自分の文化に自負自尊心をもちすぎて、他の文化を
   吸収するところの能力をよほど減じておりはしないか
   と思うのでありますが、東洋民族はその点において、

   いかなる難解な、いかなる高尚な文化でも、
   どこまでも進んでそれを吸収して、そうして
   
   自分の文化とこれをいっしょうにしてやっていこう
   という大きな希望と決心とを持っているようであります 』

  といっている。著者の希望であると同時に日本の真実であった。 」


 ( p216~217 桑原武夫著「わたしの読書遍歴」潮出版社・1991年 )


うん。だいぶ以前に、この箇所を読んで、内藤湖南を読もうと思った。
あれから、もう30年以上もたつのに、内藤湖南をいまだに読んでない。
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世話好き『街道をゆく』

2023-05-10 | 本棚並べ
俳優池部良は、高峰秀子を評して
「・・悪くとってお節介、良く解釈すれば心温まる世話好きの癖がある。」
( p79 池辺良著「21人の僕 映画の中の自画像」文化出版社・1991年 )

『お節介で、世話好き』というの言葉は、最近とんと聞かなくなりました。


司馬遼太郎は1923年(大正12年)8月7日生まれ。
高峰秀子は、1924年(大正13年)3月27日生まれ。 
安野光雅は、1926年(大正15年)3月20日生まれ。

3人とも関東大震災の頃に生まれておられます。
「お節介で、世話好き」という言葉が生き生きと流通していた頃でしょうか。

この3人が出会う場面がありました。
高峰秀子著「にんげん蚤の市」(清流出版・2009年)から引用

「 昭和46年からはじまった『街道をゆく』・・・

  さし絵を担当したのは、オニの子供のような須田剋太画伯である。
  ・・オニの子供が、とつぜん鬼籍に入ってしまった・・・

 『 司馬先生、やせたと思わない?』

 『 そういえば、そうだね 』

 『 顔が小さくなっちゃて、白髪の中に埋まっちゃった 』

 『 同じようなトシだもの、司馬先生からみれば
   ボクらもいいかげんにしぼんださ(注:高峰御夫婦の会話です) 』

 『 ≪街道をゆく≫のさし絵、安野先生をとっても希望されてるんだって、
   司馬先生。・・・・そんなこと、チラッと聞いた 』

 『 実現すれば素晴らしいけど、
   安野先生も秒きざみに忙しい方だしねえ 』

 『 やってみる! 』 『 なにを? 』

 『 安野先生に、直訴してみる 』

 安野光雅画伯とは、私(高峰)の雑文本、七冊ほどの装釘をしていただいた  
 という御縁で、ときたま食事をしたり、電話でノンキなお喋りをする仲である。
 大好きな司馬先生の文章と、大好きな安野先生の絵が並んだところを
 想像するだけで、私の胸はワクワクと沸きかえった。


 『 とんでもないよ。司馬さんのさし絵なんてサ、
   おそれおおくって、おっかないよ    』

 『 おそれおおいかも知れないけど、おっかなくなんてありません。
   とにかく、いい方なんです。安野先生だって一目会えばコロリ
   と惚れちゃうから 』

 『 そお? そんなにいい方 』

 『 いい方、いい方。ひたすらいい方 』

 『 秀子サンがそんなに言うんなら・・・・でもさァ、
   司馬さんて紳士でしょ? ボク行儀悪いからね、
   ヘソなんか出してるとこ見たら、司馬さんに
   嫌われちゃうんじゃないかしら・・・・   』


 『 安野先生のオヘソを見たくらいでビックリするような
   司馬先生じゃありませんよ。面白がって喜ぶかもしれない 』

 『 ほんとォ? 』   『 ほんと、 ほんと 』

 みかけによらず、少年のようにシャイでナイーブな安野先生のお返事は、

 『 ボクでよかったら 』

 という、なんだかお嫁にでもいくような一言だった。バンザーイ。

 私は飛び立つおもいで、司馬先生に報告の手紙を書いた。

【 『街道をゆく』のさし絵。安野光雅画伯から
  『ボクでよかったら』というお返事を頂戴しました。

  敬愛、私淑する両先生の、共同のお仕事が実現するとおもうと、
  一読者としてこんなに嬉しいことはありません。 ・・・・・  】


  ( p230~233 高峰秀子著「にんげん蚤の市」清流出版 )
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新聞の書評欄。

2023-05-07 | 書評欄拝見
読売の古新聞を、数か月分もらってきた。
とりあえず、日曜日の読書欄をひらくと、
欲しい本が数冊できてしまう。

うん。買おうかどうしようか。
と迷っていると、思い浮かんできたのが
桑原武夫の「書評のない国」という2頁弱の文でした。
はい。こういうときは話題をかえて、
違うことを考えるにかぎります(笑)。

「書評のない国」は1949年12月の雑誌に掲載された文でした。
そのころは、今みたいに、書評が盛んになる前の時代でした。
こうあります。

「書評というもののないことが、日本の出版界の特色である。
 フランスでもアメリカでも、雑誌には毎号必ずガッチリした、
 つまり漫評でなく、内容を分析した上で批評を加えた書評欄があり、
 それが全誌の五分の一、さらにそれ以上を占めている。

 民衆も学者もそれによって本を選ぶのだが、一流の雑誌に
 取上げられたものは、ともかく一応の本だという安心感があるのである。

 日本では広告によるのみだが、広告活字の大きい方がいい本
 というわけにはゆかず、デタラメで買っている。
 用心ぶかい人は著名書店の有名著者の本を、という卑屈な態度になっている。

 かつて『思想』は書評欄に努力したが失敗し、
 唯一の雑誌『書評』も廃刊した。

 これを惜しむよりも、なぜ日本では書評が成立せぬかを
 分析してみる必要があるだろう。

 よい書評は高くつき、貧しい出版資本ではもたぬこと、
 学界、文学界の前近代性が公平な批評を忌避すること、

 インテリに悪しきオリジナリティ意識がつよくて書評に頼らないこと、
 大衆は流行で本を選び書評を不要とすること、まだまだあろうが、
 ともかく書評が成立せぬかぎり日本の出版界は一人前ではない。 」

         ( p568~569 「桑原武夫集 2」  )


はて。74年前のこの言葉を、現代ではどのように読むのだろう?

私が小さいころには町に映画館があった。
近くの市にいけば、そこにも映画館通りがあった。
いまは、町にも近くの市にも、映画館がなくなり、
映画を観に行くにも、旅行気分となります。

ということで、映画館で映画を観るのは、
地方にいると、それは贅沢体験になります。

最新映画の紹介で、『銀河鉄道の父』を紹介しておりました。
そのなかに、原作の紹介があったので、さっそく古本で注文。

ぱらりと後半をひらいてみる。
うん。最後はそこから引用。

「  夕方になった。みぞれがふっている。
   古新聞を燻(くす)べたような青みがかった灰色の空から、
 
   白い雪と、銀色の雨がもみあいつつ降りそそいでいる。
   この気候ないし落下物を、花巻のことばで、

   ――― あめゆじゅ。

   という。
  『 あめゆき 』のなまった言いかたなのだろう。・・・ 」

   ( p287 門出慶喜著「銀河鉄道の父」講談社・2017年 )






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御存知、安野光雅画伯。

2023-05-06 | 他生の縁
安野光雅の楽しさを知ったのは、当ブログをはじめてからでした。
それまでは、何の気なしの空気みたいなものでした。

安野さんの本を、少しづつ、古本で集める楽しみ。
最近は、高峰秀子著「にんげんのおへそ」(文芸春秋・平成10年)が
古本で200円なので買いました。そのあとがきを引用。

「・・装丁は、私が常日頃から敬愛する御存知、安野光雅画伯です。
 原稿の校正が終り、一日千秋のおもいで待ちこがれていた私のもとへ、
 ようやく、表紙絵と題字のコピーが到着しました。・・・・

 表紙の絵は、ごらんのように、こよなく愛らしいピエロの勢ぞろいです。
 その表紙絵に、老眼鏡の目玉をくっつけて、じっと見入っていた
 私の夫・ドッコイが呼びました。

 『 いたぞ、いたぞ、ここにホラ、お前さんがいる! 』

 夫が指さしたのは、最下段の、向かって左端の青い帽子のピエロでした。

 『 なんでこれが私なのよ 』

 『 ちょいと口をヒン曲げてさ、へそ曲がりのお前そっくりじゃないか 』

 ・・・そうおもって眺めまわすと、どのピエロの顔も、
 どこかで見たような気がしてくるからふしぎです。

 読者のみなさんも、このピエロたちの中に、御家族、お友だち、
 あの人、この人をみつけて楽しんでください。・・・  」(p194~195)


そして、つぎにパラリとひろげたのは
安野光雅の『皇后美智子さまのうた』(朝日新聞出版・2014年)
こちらは、新品のような古本で送料とも301円。

こちらに、高峰秀子が出てくる箇所がありました(p70)。

そのページのはじめに、美智子さまのうたがありました。

「  ことば…平成4年

  言の葉となりて我よりいでざりしあまたの思ひ今いとほしむ


    これは、もしや失語症のことではあるまいな、と思う。
    高峰秀子が病気になったとき、夫の松山善三が

   『 失語症になっちゃってさあ 』と電話をくれたことがある。
    電話をくれたくせに
   『 いま代わるから 』といってすぐ秀子女史に代わったが、
   その後の様子から判断して、秀子さんは
   よほど具合がよくなかったのかもしれない。
   でも秀子さんは話ができ、そして先に逝った。
   善三さんはいまもあまりしゃべらない。

   皇后美智子さまが失語症になられた、
   という報道を読んだことがある。
   失語症といってもいろいろあるらしいが、ひらたくいうと
   ストレスがたまるとこれにかかる場合があるらしい。

   ・・・ありすぎるのかもしれない、だから失語症になられたのだ。
   くわしいことはわからないが、わたしたちとしては、
   ご苦労をおかけしたくないと祈るだけだ。     」

はい。これが本をひらいた右側にある文で、
その左側は、安野さんの淡い「アカバナマンサク」の枝・花の絵。


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