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和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

目標の峯と年代

2025-04-07 | 前書・後書。
はい。曽野綾子著「心に迫るパウロの言葉」をひらく。
これは、月刊「聖母の騎士」に1983年1月号~1985年12月号連載。
まえがきは、1986年1月30日と日付があるので、連載終了後に
単行本化されるさいに書かれたものとわかります。
うん。≪まえがき≫は、エッセンスが詰まっているように読めます。
その最初の2行は、こうはじまっておりました。

「 信仰からパウロという人物に惹かれたのではない。
  私がパウロの著作に打たれたのは、ひたすら
  その文学的、哲学的な説得力にあったのだと思う。 」

こうして、「四十の手習い」として堀田雄康神父の許で
聖書の勉強をはじめたというのでした。それが
「・・約十年の歳月が流れてしまった。」と記しております。
そして、この本のことをこう自身が紹介するのでした。

「堀田神父の極めて正確な神学的講義も、
 私の耳を通過する瞬間に歪んでしまうことが多かったのだが、
 それも作家の一つの習性と思って看過(かんか)して頂きたい。
 しかしこの『 誤読 』に満ちたエッセイが、ともかく集められたのも、
 ひたすら堀田神父にお教えを頂いたからである。」

こうして、40代から50歳代にかけてのことを記すのでした。

「・・・私は生きていたら、いつか
  パウロを書きたいとも思っていたのである。

  私はちょうど、人生を深い暗さと静かな透明さで
  見られる悪くない年代にさしかかっていた。・・・

  心惹かれ続け、その生涯が、自分の生き方の遥かな彼方に、
  一つの目標の峯のように聳えている存在というものは
  よくあるものである。
  パウロはまさにそのような峯であった。・・・    」


はい。≪ まえがき ≫だけの紹介になりました。
次に、本文へとすすめますように。
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「シベリヤの月」前書き後書き

2025-03-30 | 前書・後書。
蓮井秀義著「シベリヤの月 わが捕虜記」(かもがわ出版・2014年)を読む。
捕虜記とあるので、重いテーマなのだろうなあ。そう思いながらひらく。

「はじめに」には、何度も記録を残そうとしていた思いが
綴られております。昭和54(1979)年のことと記して、

「・・・妻が両腕骨折で・・入院して43日になる。
 私は付き添って病院に寝泊まりしている。
 今日は、私が満4年間のシベリヤ抑留から舞鶴に引き揚げて、長尾に
 帰り着いた30周年記念の日である。・・・・
 私のシベリヤの生活・・・今までにも、何度か記録しておこうと考え、
 少しは書いたこともあるが、完成せずに今日になった。・・・・・

 シベリヤからは何一つ書いたものは持ち帰ることが許されなかったから
 何もないが、強く印象づけられたことは、短歌として帰還後詠んだものが
 あるので、それを中心に書くことにする
 (その前に短文風に書き出したものがあるが、途中で息が切れてしまった。)」

本文は、全体に短歌が並び、それを核として、解説してゆくように時系列で
抑留体験が綴られております。私には短歌が見出し・小見出しのように見え、
行き届いた目次を、めくるように読めて、抑留の全体像がつかめるのでした。


最後には略歴がありますので引用。

蓮井秀義(はすいひでよし)
大正2年(1913) 香川県長尾町生まれ。
昭和6年(1931) 師範学校卒業 小豆島の小学校教諭
昭和15年(1940) ユリエと結婚。満州に渡る。満州遼陽小学校勤務
昭和20年(1945) 8月召集、会寧第375連隊入隊。終戦後ソ連の捕虜となる。
昭和24年(1949)4年間の抑留生活を経て帰国。香川県津田町鶴羽に住む。
  ・・・・・・・・・・・
平成18年(2006)93歳 歌集「シベリヤの月」を娘が出版
平成24年(2012)98歳 妻ユリエ死去 享年95歳
            秀義死去 享年99歳

「おわりに」は、西岡秀子さんの文。そこから引用。

「・・父も『子ども達、孫達に書き残してやろうと考えて書いた』と
 記している。姉の中村一江と妹の藤井美穂子と3人で相談し、
 これらのシベリヤ記録のノートを本としてまとめることにし、
 どうにか三回忌の記念に発行できるようになってほっとしている。

 ・・・56歳の退職時に挨拶代わりに配ったガリ版刷りの
 『瀬戸内海』という歌集の中に、シベリヤを詠んだ歌を65首おさめている。

 その後何度か『お父さん、シベリヤの歌集作ろうか』と勧めたが、
 『もう思い出したくない』と言って乗り気でなかった。
 2006年に、私が退職して時間もできたことから姉と二人で、
 短歌帳の中から121首を選んで『シベリアの月』という40ページの
 小冊子を作り、知人に配って読んでいただいた。・・・

 最後に付記として、父のいない満州の地で生きのび、私を産み、
 姉と私を連れて帰ってくれた母の手記も載せた。・・・    」


はい。「はじめに」と「おわりに」を引用しました。
次回では本文から、短歌を引用させていだだきます。




 
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もう一つ、なくてならないのは

2025-02-04 | 前書・後書。
徳岡孝夫著「舌づくし」(文藝春秋・2001年)のあとがきを紹介。

「これは平成12年暮までの8年間、季刊誌『四季の味』に寄せてきた
 拙文を一冊にまとめたものである。一部は割愛した。

 私は食通ではない。食生活の大半を妻に依存し、
 妻の出す料理で満足してきた者である。
 私のような者が、こんな話でもいいのかと、
 内心ビクビクしながら書き続けた。・・・・
 掲載誌を見ると、我ながら目も当てられぬ仕上がりだった。

 ところが、その後まもなく編集者吉村由美さんから、
 もう少し長いのを毎号書かないかとの誘いが、手紙で来た。

 ・・・寄稿者は吊ってある梵鐘で、放っておけば物音ひとつ立てないが、
 編集者に撞かれることにより鐘それなりの音を出す。
 食べ物に無趣味無風流だし、もともと鋳造が悪いから
 ロクな音色は出せないが、吉村さんに撞かれて
 私は年に四度、聞き苦しい音を出すことになった。・・・  」

あとがきの最後も気になるので引用しておきます。

「 この本がもしどこかの図書館に買われたら、
  どの棚に分類されるのだろうと、いま考えている。
  明らかに料理の本ではない。文章を練りに練った随筆でもない。
  一つのテーマに狙いを定め、読者に取材の結果を報告する  
  ノンフィクションでもない。校正刷を見ながら思案して、
  ふと適当なのに思い至った。
  それは、たぶん『 昔噺 』か『 雑 』の棚であろうと。 」


この『 昔噺 』と『 雑 』から、本文をすくいあげるのは困難。
はい。困難を承知で一ヶ所引用。

「・・ビールの味を決めるのは、味よりも気温と湿度と
   飲む者の渇き具合だと信じている。
   もう一つ、なくてならないのは、
   テーブルの向こうに座る好き友だろうか。  」(p82)

はい。酔いながら、良き友と話ができる。
当ブログの理想はそれかもと望みは高く。
まったくもって、引用ばかりですけれど。


話がかわるのですが、今年あらためて読もうと思っているのですが、
山本七平(イザヤ・ベンダサン)がいる(何度も読もうとしては挫折)。
徳岡孝夫は、月刊誌に連載コラム「紳士と淑女」掲載しておりました。
どちらも主要檜舞台は雑誌『諸君!』だった。そんなことを思います。
そこでは山本夏彦が巻末コラム、渡部昇一もエッセイを書いてました。

もう廃刊になって、ひさしい『 諸君! 』が、
今年になり、私にあらためて輝いてみえてくる。
もう一度舞台袖から、読み始められますように。
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『本の世界』を面白がる夢。

2025-01-25 | 前書・後書。
本を読まない癖して、古本は買います。
そうすると、『 まえがき 』だけですます本もある。
上手な文は、『 まえがき 』だけで十分魅了される。

朝日選書683・酒井紀美著「夢語り・夢解きの中世」(2001年)が
古本で、本文が新品同様で200円。題名に惹かれて買いました。

この本の『 はじめに――夢と未来と 』から引用。

「 ・・中世の史料を見ていて、まず驚いたのが、夢の記事の多さである。
  夢の出てこない中世の物語をあげる方がむずかしい。また、
  いろいろな人が書き残した日記にも、夢に関する記述が数多く見られる。
  それも、自分が見た夢だけでなく、他の人が見た夢についても、
  じつにくわしくその内容が書かれている。・・・

  ・・・そこで・・・歩きはじめることにした。・・・   」(p3)

ちなみに、この文の、はじまりは、
「もう、ずいぶん前のことだが、西郷信綱氏の著された
 『 古代人の夢 』を手にして、引きこまれるように読んだ。」
とあります。
いけません。読む前に気になって古本を注文してしまいました。
『 古代人の夢 』には、「はじめに」がありませんでしたので、
第一章のはじまりのページから引用。

「・・古事記から今昔物語まで、あるいはもっと降って
 中世の諸作品に至るまで、夢の記事は、それをふくまないのが
 むしろ例外と思えるくらい豊富である。それもたんに
 数が多いだけでなしに、夢を見たということが
 話全体の動機づけを決定している場合さえ少なしとしない。
 夢は、昔の文学にはなくてかなわぬ
 大事な構成要素の一つであったらしいのである。・・   」(p9)


ところで、酒井紀美さんとはどのような本を出されているのだろう、
と次に思ったので、検索すると、
『 中世のうわさ 情報伝達のしくみ 』(吉川弘文館・新装版2020年)
というのがある。この題名も興味を惹くので古本で注文しました。

かくして、肝心の本を読みはじめる前に、
噂がひろまるように、本が本を呼びます。

これだけじゃ、夢のようで、締まりがないでしょうか。
もう一冊引用。丸谷才一著「思考のレッスン」(文藝春秋・1999年)に

「 石川淳さんが・・『一冊の本』という題のコラムに
  原稿を依頼されたことがある。その書き出しがたしか、

  『 本来なら一冊の本といふことはあり得ない 』
  という文章でした。たくさんの本の中にあって初めて、
  一冊の本は意味があるのだ、というようなことを書いていらした。

  僕は、その通りだと思うんですね。
  孤立した一冊の本ではなく、 『 本の世界 』というものと向い合う、
  その中に入る。本との付き合いは、これが大切なんです。   」
                ( p115~116・単行本・レッスン3 )

せっかく、『思考のレッスン』をひらいたので、最後にこちらも引用。

「 僕は、おもしろがって読むことだと思うんですね。
  おもしろがるというエネルギーがなければ、本は読めないし、
  読んでも身につかない。無理やり読んだって何の益にもならない。 」
           ( p103 単行本・レッスン3の最初のページ )

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『戦国武将の手紙』その授業風景。

2024-10-19 | 前書・後書。
桑田忠親著作集第三巻「戦国武将(二)」の解題は米原正義氏。
米原氏は、桑原忠親の授業の回想を文に書いておりました。
それを読んでいると、この第三巻自体の奥行きを感じます。

『戦国武将の手紙』の授業風景を回想から引用。

「まず読みである。読めない箇所があってもそう簡単には教えてもらえない。
 ・・ややあって先生から教えられ、ほっとする。おかげであまり進まない。」

「重要語句・歴史的用語などの説明はことにくわしく、・・板書される。
『笑止』を文字通り、笑を止めるので『気の毒』と解釈する
 ことを知ったのも、この元就の教訓状を教わったときであったし、
 歓楽が病気の意味だと知った」

「それにしても先生の話で最も参考になったのは先輩の活躍の様子であった。
 ・・在学中に特に多く、すぐれた先輩の研究について、研究態度、
 その他の話を聞いた。・・・・

 つたない論文を発表したときでも、
『 あんな論文では駄目だ 』と言われたことは一度も聞いたことがない。
『 論文には良いところが必ずある 』といわれ、
 勇気と自信を持ったことであった。・・・・・

 何だか解題にならない解題を書いているようだが、
 そうではなく、要するに『戦国武将の手紙』は、
 一朝一夕にできたものではなく、こうした授業の中から、
 長い年月を経て生まれたものである、と言いたかったのである。」(~p355)

こうして、解題を読んでから、『戦国武将の手紙』の「はしがき」を見ると、
何だかこの授業を受けている学生へと語りかけているような箇所がある。

「・・・近頃は、若い人は、もちろん、おとなでも、
 墨でしたためた走り書きや、候文体に接触する機会に恵まれないから、
 自然と、そうした体験に欠けてくる。

 歴史評論家や社会科の教師で、古文書が読めなかったり、
 ほんものと偽ものとの区別が判定できない人も、ざらにいるし、
 専門の歴史家でも、自分の専攻する時代以外のものは、
 そんなにわかるものではない。

 わかったような振りをする学者ほど、
 なんにもわかっていない場合が多い。
 学問とは、元来、そんなものである。

 だから、素人の歴史趣味家でも、
 格別、悲観するに当たらない。
 要は、古文書に親しむ度数が物を言うのである。  」(p187~188)

ここでは、授業を受け専門の学問を究める人もあるだろうし、
卒業して、社会科の教師になる人もあるだろうけれども、
また、畑違いの職業につくかもしれないが、そんなのことは、
『 格別、悲観するに当たらない 』と語りかけているようでもあります。

米原正義氏の解題には、こんな箇所もありました。

 「 授業の途中、先生の武勇談が出る。今でもその殆どを覚えていて、
   なかなか面白い話があったが、内容を紹介する紙数がない。 」(p355)


第三巻をパラパラひらいていると、
『 初陣にみる戦国武将の生き方 』(p338~344)などは
そんな『 なかなか面白い話 』を聞けた気分になります。
勿論、全文を読んでいただきたいのですが、
ここには最後の箇所を引用しておくことに。

「 武将にとって、初陣というものは、
  元服式や婚礼よりも大切なものであるから、
  千軍万馬の間を往来した戦国の名将は、
  大抵、14か15、6で、これを体験した。
  信玄、謙信、信長など、みな、この線を行っている。

  ところで、・・・織田信長も、二代目になると、次男の信雄(のぶかつ)
  三男の信孝など、みな、秀吉に滅ぼされたり、追放されたりし、
  三代目の織田秀信(信長の嫡孫)は、
  豊臣家臣となって生きながらえたが、
  ・・関ケ原の戦いに、石田三成に味方したのはいいにしても、
  岐阜の居城を徳川勢に攻められたとき、19歳で初陣を強いられた。

  そのとき鎧かぶとを、どれにしようかと、
  カッコいいのを選びあぐねているうちに、
  戦機を逸し、城を攻め落され、降参している。

  また、稀世の英雄豊臣太閤秀吉も、二代目になると、
  ひどいものである。大坂夏の陣で、・・・
  譜代の家臣に励まされ、いでたちも美々しく、
  大坂城の桜門を出て、天王寺に向かって出陣しようとした。

  これが総大将秀頼にとって、まさに晴れの初陣であった。
  しかし、秀頼は、すでに23歳にもなっていたが、
  実戦の経験は皆無である。そのくせに、女色のほうにかけては、
  正妻の千姫のほかに、愛妾も貯え、子も2人ほど産ませて、一人前だが、

  母公淀殿の教育よろしからず暖衣飽食、遊堕に流れ、
  徒(いたず)らに肥満していた。10万の将兵を
  統率するどころのさわぎではない。
  教育ママと一緒に、親ゆずりの大坂城内で
  自害できただけでも、上々であった。   」(p344)
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大名と御伽衆。

2024-10-15 | 前書・後書。
桑田忠親著作集の第三巻「戦国武将(二)」の目次には、

〇 大名と御伽衆
〇 戦国武将の手紙
〇 史論史話

とあります。「大名と御伽衆」の序にはこうあります。

「 初めは・・官位部の御伽衆の項を補うくらいな軽い気持で
  集めていたが、次第に面白くて罷められなくなってきた。
  恩師や学友の御声援もあって、極く身内の専門雑誌に
  その成果を発表したのも、随分前のことである。
  それから、この御伽衆又は御伽の問題が意外に
  広い社会史的背景をもっていることにも段々と気がつき・・・ 」

とあるのでした。さすがに著作集だけあって、そのあとに
『 増補新版の序 』を加えてあります。そのはじまりは、

「 日本歴史と国文学との両方面にまたがる特殊な研究の
  成果といささか自負する『大名と御伽衆』を公刊して・・・ 」

うん。興味深いので第1章のはじまりを引用。

「戦国時代の大名の間に設けられた官職にはさまざまなものがあるが、
 それらは、総じて、きわめて単純な制度から出来あがったすこぶる
 実用本位な職業であって、実に江戸時代に於ける諸職業の淵源を
 なすものであった。ここに述べようとする
  
 御伽衆(おとぎしゅう)なども、それらに類する御伽という職業に
 あった人々の総称であって、しかも、その語ることろは、
 よく主君たる大名並びに将軍の見聞を拡めしめ、かたわら、
 区々たる史実をも伝播するに与って力があった。
 そこに特に留意すべき価値が認められるのである。・・・」(p11)


はい。私などは、ついつい子供に話して聞かせるところの、おとぎ話
しか思いつかなかったのですが、それについても、語られておりました。

「御伽噺を古典的な童話ときめてしまうのは間違いだ。
 すなわち、御伽噺とは、御伽の際になされた咄であり、
 それには、種々様々なものがあった。

 大人向きのものもあれば、子供向きのものもあった。
 大人の御伽の席で語られたのは大人向きの咄であり、
 子供の御伽の席で行なわれた咄は子供向きの咄であった。
 
 ただ、若殿相手の御伽ということが盛んになってくるに従って、
 子供向きの咄、すなわち、童話というものが創作されてきた。
 昔咄の中から子供向きのものを取ってきて、
 童話風に創作するようになってくる。

 しかし、御伽噺すなわち童話ということになったのは
 もちろん、明治時代になってからのことで・・・・   」(p175~176)

ちなみに、この「大名と御伽衆」の最後には
『 物読み法師と源氏物語 』と題する8ページほどの文がありました。
はい。最後にここから、すこし引用。

「 ・・禁裏御用の餅屋として知られる川端道喜や
  堺の納屋衆出身の茶匠千利休の身辺にも、
  物読み法師がいたことが知られるが、ともかく、
 『 源氏読みの法師 』というのは、珍しい。 」


うん。そのあとに、源氏物語の朝顔の巻からの引用もありました。
その引用にでてくる歌を終わりに引用しておきます。

    秋はてて露のまがきにむすぼゝれ
           あるかきかにうつるあさがほ



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誰が書いても、みな。

2024-10-08 | 前書・後書。
読みたいと本を買っても、時がたつと、興味が他へうつるので、
その本を忘れてしまうことがたびたびあります。

うん。何だかそれが慣れっこになって、ある程度の時間内に、
パラパラでも読み込んでおくことが肝心。興味にも賞味期限がある。
最近は、つとにそんなことを思います(笑)。

さてっと、桑田忠親著作集全10巻を古本で買ったのですが、
まずは、パラパラと各巻の最後をひらくことにしたいと思います。
幸いに、各巻の巻末に、さまざまな方が文を寄せておられます。

第7巻「戦国の女性」の巻末は二木謙一氏の文がありました。
その最後の方にこうあるのでした。

「 いつも思うことだが、桑田氏の文体には、
  歴史家にはまれなセンスの良さが感じられ、
  また史料の伝存しない部分、文字に見えぬ
  歴史の裏面の洞察とその復元に独特の才能
  が発揮されている。            」(p349)

うん。このセンスが、史料をひからせているのだなあ。
なんて思うのでした。
巻末をひらいたあとは、巻頭をひらいてみる
「桃山時代の女性」という文の「まえがき」にはこうあります。

「・・日本の女性史に関する諸氏の著作を一通り読んでみた。
 しかし、それらの多くは、ある一定の理論を尺度にして、
 甚だ概念的に社会制度の変遷などを叙述したものが多く、
 専門的、具体的な学術書としては飽きたりない感を深くした。
 確かな文献史料の裏づけよりも観念のほうが先ばしっているから、
 たれが書いても、みな、同様なものができあがる結果となる。
 この不満を解消するために、私はまず・・・   」(p11)


はい。とりあえず全集の第7巻は、ここまでにして次に巻へ。
「読みたい」という私の賞味期限内に、まずは全巻の巻末を
読みすすめておくこととします。

はい。これでも会って立ち話でもしたような気分になれます。
そこから、本との交わりがはじまればよし。おわってもよし。


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筺底(きょうてい)に秘めて

2024-10-03 | 前書・後書。
芳賀徹の父・芳賀幸四郎に「千利休」と題する本がありました。
以前に買ってあって、読まずにというか、読む気にならずにありました。
そういえばと、その「はしがき」をひらいてみる。
そこに桑田忠親の名前が登場していたのでした。

「・・いざ実際に執筆にかかってみると、
 その困難さは当初の危惧をはるかに超えるものであった。

 桑田忠親氏や唐木順三氏らに、
 それぞれ『 千利休 』と題する名著があり、
 それに利休関係の史料はほとんど発掘しつくされていて、
 従前の研究水準以上に出ることが、不可能とさえ思われた・・

 かえりみてまことに慚愧にたえない。
 このまま筐底(きょうてい)に秘めて、
 さらに数年研究を続け彫琢を加え、
 いささかなりと自信をもって世に送りたいのが、
 いつわらぬ私の真情である。

 しかし書肆の督促と、この小稿を閲読してくれた友人が、
『 現在の段階では、出す意味は十分にある 』といってくれたのを
 跳躍台として、あえてこれの上梓に踏みきることにした。・・・・
                 ( 昭和38年3月1日 )    」

うん。千利休を書いたり語ったりするというのは、
こうして、率直に経過を語りかけられるのがポイントなのかもしれませんね。
うん。私には芳賀幸四郎著「千利休」は読み進められなかったのですが、
今回、ひょんなことで桑田忠親著「千利休」を読んでおります。
といっても、パラパラ読みでまことに情けない。
情けないけれど、まあいいや。このままに読み進めます。

そのうち、唐木順三著「千利休」と芳賀幸四郎著「千利休」も
はずみで、読めるかもしれませんしね。

はい。今回の最後はというと
桑田忠親著「定本 千利休」(角川文庫)の
第六章「秀吉の御茶頭となる」からの引用。

「・・彼は、東山時代このかた重んぜられていた唐物道具に
 対するぎょうさんな礼讃ぶりに背なかを向け、
 唐物(からもの)よりはむしろ井戸茶碗のごとき
 高麗物(こうらいもの)の侘びたのを愛する
 侘び数寄の傾向からさらに一歩を進め、
 国粋的茶器の創造に心をとめていたのである。
 長次郎に焼かせた利休七種茶碗など、
 その代表的なものであった。
 このころすでに唐物中心の数寄大名のお祭騒ぎに対して、
 彼が苦々しく感じたのも道理であろう。  」(p67~68)
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『 流言蜚語 』への招待。

2024-09-15 | 前書・後書。
東日本大震災のあと、
吉村昭著「三陸大津波」の文庫を読みました。
その頃に、寺田寅彦の震災関連の文庫は、3社から出版されました。
方丈記も、新しい訳で文庫登場したのでした。
そして、清水幾太郎著「流言蜚語」(ちくま学芸文庫・2011年6月10日)も
その流れの中で文庫化されておりました( 忘れておりました )。

はい。その「流言蜚語」の文庫を買ってはあったのですが、
とりだしてみたら、きれいで、文庫として読んだ形跡がない(笑)。
まずは、ここには清水幾太郎著「流言蜚語」(ちくま学芸文庫)の目次紹介。

  1 流言蜚語                 ・・・p12
  2 大震災は私を変えた
     日本人の自然観 ー 関東大震災     ・・・p176
     明日に迫ったこの国難 ― 読者に訴える ・・・p248
     大震災は私を変えた           ・・・p274
     地震のあとさき             ・・・p285

   解説 言葉の力  松原隆一郎        ・・・p309


さてっと、「流言蜚語」。その清水幾太郎氏の本文の最後にはこうあります。

「 だがこれだけは言っておかねばならぬ。
  言語への軽蔑の支配するところは、
  かえって流言蜚語の発生と成長とに
  有利な風土を持つということである。  」(p170~171)

この次に「結論」という2ページの文がありました。
その結論の最後には、こうあります。

「 流言蜚語は除かねばならぬ。だがこれを軽蔑する前に、
  一般に評価する前に、対策を立てる前に、

  我々が知らねばならぬのはその本質である。
  そしてこれへ読者を招待することが私の任務であった。 」(p173)

清水氏からの『流言蜚語』への招待。
一読者宛の、招待状を受取りました。


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キノコ取リニ行キマシタカ。

2024-09-07 | 前書・後書。
安野光雅・藤原正彦著「世にも美しい日本語入門」(ちくまプリマ―新書)。
はい。今回この新書をひらいて、そこから購入したのが
安野光雅著「絵本歌の旅」(講談社)だったのでした。
それから、もう一冊注文した本がありました。

それは、新書の初めの方にあった安野さんの言葉で注文しました。
まずは、その安野さんの言葉を引用。

「 私はむかしから、『戦没農民兵士の手紙』という岩波新書の
  一冊を大切にしています。今は手に入りません。
  図書館などにあるでしょう。文章は拙(つたな)いが、
  それだけに読んでいて涙がでます。その中に残っている。
  飯盛正さんから弟の孝志(たかし)君にあてた手紙の
  一部分をあげてみます。

 『 ブタノ子ガ タクサン生レテ居ルンダッテネ。
  ヤギハイナイデスネ。ウサギハ大キクナッタデショウネ。
  タカシハ キノコ取リニ行キマシタカ。
  今ハ雪ノシタ(キノコの名)ガ盛ンデスネ。 』   」(p21)

注文したら、今は新刊で手に入りました。
昨夜届いたのには「 2023年8月18日 第22刷発行 」とあります。

あとがきをひらくと、そのはじまりには、こうありました。

「私たちがこの手紙を集める運動をおこしたのは昭和34年の秋10月・・
   ・・・・
 仏壇の上の鴨居にかけられた、軍装姿も凛々しい兵隊の写真、
 私たちは農家のあちこちで、何度そうした写真を見かけ、
 やっぱりこの家も・・と、何度思わされ、
 生きて帰れたわが身と思いくらべ、複雑な感情を抱かされて
 来たことだったろうか。写真が私たちに何かを語りかけている。
 私たちはその訴えを聞かねばならぬ、何度そのような
 思いに駆られて来たことだったろうか。・・・・・・・ 」(p221)

 このあとがきの最後には
「   1961年6月    岩手県農村文化懇談会  」とありました。
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絵巻の読解と文学体験

2024-09-01 | 前書・後書。
気になる古本があったので買ってありました(1200円なり)。
揚暁捷著「鬼のいる光景」(角川選書・平成14年)。
副題が「『長谷雄草紙』に見る中世」とあります。

はい。本棚から取りだし序章をひらく。
うん。序章だけならとお気楽にひらく。

なんでも、『和漢朗詠集』にはいっている平安前期の
文章博士紀長谷雄(きのはせお)の詩が引用されはじまっております。

「長谷雄個人の文集や詩集はまとまった形では一巻も伝わらないなか、
 この詩だけは、作詩の模範例として詩学書に収められ、
 後世の人々に愛誦された。・・・」(p6)

そうして数ページあとに、こうあります。

「 一方では、朗詠とは、漢詩の一部分を取り出して吟唱し、
  それをまとまりのある文学の世界から切り離すことを特徴とする。

  人々に繰り返し唄われる佳句は、それが盛んに伝わるほどに、
  句と最初に詠まれた詩との繫がりが忘れ去られ、そこからは
  やがて独立した文学的イメージを作り出すことになる。
  長谷雄の句も例外ではなかった。 」(p8)

 「 この奇怪でどことなく愉快な、平安文人と鬼との話は、
   ストーリー全体のプロットがそのままに一巻の絵巻となった。・・

  絵巻という表現の形式を得て、長谷雄と鬼にまつわるこの説話は、
  新たな精彩を放ち、文字だけによって記されるものでは及ばない
  豊かな表現の世界を形作った。
  朗詠集の注釈と絵巻の詞書と・・・・  」(p12)

 「 ともかく絵巻『長谷雄草紙』は、
   注釈にも取り上げられた一つの説話にスポットを当て、
   これを新たな表現手段によって再現したといえよう。
   注釈と絵巻との間には、直線的な継承関係が認められないにせよ、
   
   この両者にあり方に注目することにより、
   漢詩、朗詠、そして絵巻という、多彩な表現の世界の
   繫がりを感じ取ることができ・・・   」

 「 絵巻「長谷雄草紙」が制作されたころ、
   この第一の鑑賞者だと想定される限られた階層の人々は、
   このような文学・文化活動の成果をすべて共通した
   教養として身に付けていたはずである。

   この絵巻は、けっきょくのところそのような
   鑑賞者を満足させることから出発した。
   漢詩、朗詠、そして注釈といった表現の世界に精通し、
   そのうえ、絵という表現形態でしかもたらしえない
   新たな世界の創出にこそ、絵巻作者の本領があった。

   その意味で、今日の読者としてこのような複数の
   文学的世界を互いに参照させながら絵巻の読解に立ち向かえることは、
   一つの素晴らしい文学体験になるはずである。 」(p14)


はい。今日は序章を読んで満腹。

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いいこともある。

2024-06-25 | 前書・後書。
産経新聞を購読してます。といっても、パラパラとめくるだけ。
この頃、原英史×高橋洋一の新書がこの新聞の3面下広告に載っていて、
気になっていたので昨日注文したら、今日のお昼に届きました。
「利権のトライアングル」(産経セレクト・令和6年6月24日発行)。

はい。高橋洋一氏が7ページほどの『はじめに』を書いています。
うん。その『はじめに』の最後を引用しておきます。

「 ・・・マスコミと国会議員がつるむと違う。
  火のないところにも火をつけて火事にできるのだ。

  まったくおそろしい時代になったが、いいこともある。

  今やSNSを使って、個人でも巨大組織のマスコミや
  巨大権力の国会議員とも闘える。
  原さんの勝訴はその闘いの結果でもある。  」 ( p9 )


はい。私は『はじめに』を読めただけで、もう満足しています。
何をいっているのやら。うん。世の中には『いいこともある』。

ということで、あとがきにあたる、原英史氏の『おわりに』の
出だしの箇所を最後に引用しておくことに。

「毎日新聞のデタラメな記事が出たのは2019年6月11日でした。
 その後も毎日新聞は連日、一面トップで私の『悪事』を報じました。
 
 数日後に森ゆうこ・前議員らにより野党合同のヒアリングが結成され、
 国会での誹謗中傷も始まりました。・・本当にひどい目にありました。

 それからもう5年が経ちました。
 長い時間がかかりましたが、毎日新聞と国会議員を相手取った
 訴訟は、ようやくすべて勝訴で終えることができました。  」(p203)

「 これは私自身のためではなく、日本の未来のための戦いなのです。 」
                             (p209)


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『ノウサギ日記』

2024-05-05 | 前書・後書。
キチンと本を最後まで読まない私なのですが、
これはもう直しようがないと思っております。

この前、古本で買った
高橋喜平著「ノウサギ日記」(福音館日曜日文庫・1983年)は
函入りで、表紙は子ウサギが後ろ足で立っている写真。
うん。いいね。本の最後には50ページほどの河合雅雄氏の解説。
この解説を読めただけで私は満腹。
また、そこだけでも再読してみたいのですが、
とりあえずは、解説からすこし引用しておきたくなりました。
二箇所引用。最初はこの箇所。

「動物好きの人は、世の中にはごまんといる。
 犬や猫をペットにして飼っている人は、何百万人におよぶだろう。
 しかし、高橋さんのような日記をものした人は、
 ほとんどいないにちがいない。

 なぜなら、高橋さんはたんなるペット好きなのでなくて、
 心からの自然愛好者――ナチュラリストだからである。

 この日記を見て感動を覚えるのは、
 ナチュラリストとしての高橋さんの人柄であり、
 動物に対する視点のたしかさ、
 すぐれた科学的な観察眼がもたらすものである。

 そこには、自然に対する温かい心と動物に対するやさしさとともに、
 動物の生態に対する鋭い目と洞察があり、独自の解釈が行なわれる。
 これこそナチュラリストの本領だといわねばならない。 」(p268~269)


さてっと最後に引用する箇所は、
この長い解説の終わりの箇所にあたります。
そこでは、今西錦司の「都井岬(といみさき)のウマ」に触れて
河合さんは読んだときの感想を記しております。

「この著作は、毎日のフィールドノートをそのままに写したようなものである。
 動物社会学の創始者である今西さんの最初の動物記であるから、
 期待に満ちた心躍らせてページをめくるうちに、しだいに
 速度が落ちてくる。そして、なにがなんだかよくわからなくなってくる。」
                          ( p308 )
このあとに、その今西氏の文を数行引用して説明しておりました。
そのあとでした。

「このごろの動物の行動に関する論文を読むにつれて、
 今西さんがこのとほうもない文体によってなにを主張し、
 なにを訴えようとしていたかが、ますます明瞭になてきたと思う。

 動物の行動や社会関係を表わすのに、最近は厳密で正確な数量的表現と、
 それにもとづく分析が要求される。2分ごとの行動をチェックし、
 それをまとめて個体の行動型を表記するといったことが、
 普通のレベルで行われている。

 このことはもちろん、非難されるべきことではない。
 しかし一方、科学的な精密さ、分析のメスの鋭さを競うあまり、
 いのちをもった動物の生きいきとした行動や生活のしかたが、
 どこかへ押しらやれてしまう、という状況が濃厚である。

 科学哲学者として著名なイギリスのホワイトヘッドが、
 最後の講演を行なったさい、『 精密なものはまやかしである 』
 とぼそっといって壇を降りたという話を、
 鶴見俊輔さんが書いておられたのを思い出す。
 彼は、分析のいきすぎが全体像を見失う危険を警告したのであろう。」
                   ( p309~310 )

そして、いよいよ解説の最後です。

「『都井岬のウマ』は、科学の進歩が、生物の実像を失わしめる
 危険があることに対する予言的警鐘として、重要な意味を
 もっていると、今にしてつくづく思うのである。

 『ノウサギ日記』は、『都井岬のウマ』と同列の作品であるといえる。
 その意味で、この旧(ふる)い日記が現在に登場する価値の重さに
 あらためて思いおよぶのである。 」(p310)


はい。私はこの解説をめくってもう満腹。
本文を読まずにスルーしちゃういつもの私がおります。
ひとまず、本棚に置いて、つぎこそは・・・。

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そこで福田恆存が考えた。

2024-03-04 | 前書・後書。
昨日の朝注文した「福田恆存の言葉」(文春新書)が
昨日の午後6時過ぎ届く。ありがたい。
あとがきは、福田逸氏。そのはじまり

「・・本書は東京・本駒込にあった三百人劇場に於いて
 昭和51年(1976年)3月から開講された、『三百人劇場土曜講座』の
 第一回から第八回までを収録した。・・・

 福田恆存らが結成した現代演劇協会傘下の劇団『雲』が
 前年分裂し・・稼ぎ頭だった俳優たちが、ごっそり抜けた・・

 殊に三百人劇場という建物の維持に苦労したわけである。
 そこで福田恆存が考えた企画の一つがこの『土曜講座』で・・

 毎回二人の講演を行い、恆存が後半を受け持った。ちなみに、
 第一回の客員講師は小林秀雄、
 第二回が田中美知太郎、
 以下会田雄次、矢島鈞次、藤井隆、
 高坂正堯、林健太郎、山本健吉と続いている。・・・・

 ・・・いわば、四苦八苦、あの手この手で劇場維持と
 劇団昴の公演継続に邁進したわけである。『土曜講座』は
 いわばそれらの嚆矢(こうし)となったわけだ。 」(p217~218)

次に、この講演がCDになっていたことを紹介したあとに
CDのよさと利点を指摘したあとに、

「 活字を追うという行為には、立ち止まって考えたり、
  読み直したりできる利点もある。読者に沈思黙考
  する機会も与えられるのではあるまいか

 ( ただし、現在は音声配信サービス『LisBo(リスボ)』
   で、この連続講演を聴くことはできる )。 」(p219)


はい。何か、こうしてあとがきやまえがきを引用させてもらっていると
よく、本の帯に書かれた紹介文を、あえて私がつくっているような
そんな気がしてきたりもします(笑)。

ということで、『はじめに 古びない警句』浜崎洋介の
それこそはじまりの箇所を引用しておきます。

「 本書に収められた福田恆存の講演は、
  昭和51年の3月から、翌昭和52年の3月までの
  1年間のあいだになされたものである。

  年齢で言うと、63歳から64歳の福田恆存による講演
  ということになるが、脳梗塞で福田が倒れるのが、
  その4年後の昭和56年であることを踏まえると、
  記録として残されたものとしては、これが
 『 福田恆存(つねあり)、最後の講演録 』
  だと考えてよさそうである。 ・・・・    」(p3)


つぎは、ゆっくりとでも、本文を味わえますように。

 
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2冊の震災本。前書・後書。

2024-02-28 | 前書・後書。
安房郡の関東大震災を語るときに、
『安房震災誌』と『大正大震災の回顧と其の復興』の2冊が
材料の宝庫でした。

『安房震災誌』の編者・白鳥健氏の言葉を紹介しておくことに。

「 終に私(白鳥)が安房郡役所の嘱託によって、
  本書の編纂に干与したのは、震災の翌年のことであったが、
  当時は各町村とも、震災の跡始末に忙殺されてゐた・・・・

  若し此の小さき一編の記録が、我が地震史料の何かの
  役に立つことがあれば・・・    」と凡例の最後に記しております。

また、安房郡長・大橋高四郎氏は、『安房震災誌』が完成した際には
前安房郡長という肩書で「安房震災誌の初めに」を書いております。
その最後にはこうありました。

「・・本書の編纂は、専ら震災直後の有りの儘の状況を記するが主眼で、
  資料も亦た其處に一段落を劃したのである。

  そして編纂の事は吏員劇忙の最中であったので、
  挙げて之れを白鳥健氏に嘱して、その完成をはかることにしたのであった。

  今編纂成りて当時を追憶するば、身は尚ほ大地震動の中にあるの感なきを得ない。
  聊か本書編纂の大要を記して、之れを序辞に代える。  
           大正15年3月     前安房郡長 大橋高四郎    」


ここには、もう一冊の『大正大震災の回顧と其の復興』からも引用。

 『 編纂を終へて  編者 安田亀一 』(上巻・p978~989 )から
 そのはじまりを引用しておきます。

「千葉県の大震災に何の関係もない私が、その震災記録を編纂することになった。
 而してそれが災後8年も経ってゐる(引受けた時)ので、
 その材料の取纏めや当時の事情の一通りを知る上に、
 多少の苦心なきを得なかった。それにも拘わらず私は、
 このことを甚だ奇縁とし、且つ光栄とするものである。

 あの当時私は大震災惨禍の中心たる帝都に在って、
 社会事業関係の仕事に従事してゐた。
 しかも救護の最前線に立って、一ヶ月程といふものは、
 夜も殆ど脚絆も脱がずにごろりと寝た。
 玄米飯のむすびを食ひ水を飲みつつ、
 朝疾くから夜遅くまで駆け廻った。

 頭髪の蓬々とした眼尻のつり上った垢まみれの破れ衣の人々が、
 右往左往する有様や、路傍や溝渠の中に転がってゐる焼屍体の臭気が、
 今でも鼻先にチラついてゐる。

 電車で本所の被服廠前を通るにも、
 私は心中に黙祷することを忘れないのである。

 そんな関係で、ここに大震災の記録を綴ることは、
 何か知ら私に課せられてゐる或る義務の一部を履行するやうな気がしてならない。」  
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