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和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

草田男の洗礼

2025-08-05 | 先達たち
夏になると、中村草田男が思い浮かび、
それでもって、本をひろげることになります。

それでもって、今回注目したのは、
「わが父草田男」(みすず書房・1996年)の
「草田男とメルヘン」山本健吉・聞き手中村弓子(p40~56)

ここでの山本健吉さんの言葉から引用。

「・・キリスト教と草田男さんの文学の発想は
 切り離しがたいと思うんですよ。草田男さんは、
 私が言った『絶対の探求者』という詩人という考えを
 とても喜んで採り上げてくれたんですが、
 草田男さんの中のそういう宗教的な面は非常に
 本質的なものだと思うんですよ。

 かたちの中でも、あるいは読者でも誰でもいいんですけれど、
 草田男におけるカトリシズムというものを論じているか、
 あるいはそれに共感しているか、そういう評論をね、
 私はあまり見たことないんです。・・・・・・・

 草田男さんからカトリシズムを除いたら、
 やはり草田男さんの神髄はわからないという感じがするんです。

 ・・・・臨終洗礼っていうのは、半ば無意識か半無意識の状態のときに
 十字を切ったら、それでキリスト教を受け入れたしるしになるというような、
 ・・・ああいう無意識の状態は、やっぱりね、私は宗教にとって
 非常に大事なものだと思うんです。で、そういう状態で亡くなる
 直前に草田男さんが洗礼を受けたっていっても、充分納得できます。 」

このあとに娘さんの中村弓子さんの言葉がありました。

「キリスト教をめぐっての、父と母との関わりということについて、
 一つお話ししてもよろしいでしょうか。
 『 一雲雀 』という童話を母が非常に好きでして、
 童話集の『 風船の使者 』が出たのはちょうど母の亡くなった年でしたが
 そのときにまたあらためて読んで、父にも、それから子供たちにも
 『 一雲雀 』は非常に好きだと言っていたわけですね。
 私は子供として読んだとき、『一雲雀』の最後ですね、
 無私の愛による成就という、あれを読みまして、

 母がキリスト者として非常にそこに共感を覚えたのはよくわかりましたし、
 それからまた、父があの作品を書いたとき、おそらく
 自分の中にあるものと、母のそういうキリスト教的愛といいますか、
 そういうものが無意識のうちに重なって、精神的な合作というか、
 そういうようなものになったのという感じさえしました。」(~p45)


中村草田男の亡くなった奥さん。そして、中村草田男とキリスト教。
はい。今年の夏は、そこに注意がゆきました。
ということで、中村草田男の童話集『風船の使者』のその箇所を
今度読んでみます。今まで無意識に読んで感嘆していた
草田男の俳句が、その神髄はわからないままでも、
グッと、にじり寄ってくるような夏になるのかも。
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掛け合ってくれた

2025-03-28 | 先達たち
曽野綾子著「心に迫るパウロの言葉」の最後に
「本書は、月刊『聖母の騎士』1983年1月号~1985年12月号連載。・・」
とあるのでした。うん。雑誌に連載されたものでした。

『人生の流儀』という題名にひかれて、安い古本を買いました。
萩本欽一さんから橋田寿賀子さんと14名へのインタビュー本。
この本の最後には
「本書は、2013年9月~2016年5月まで『しんぶん赤旗日曜版』
 『この人に聞きたい』に連載された記事の一部を、加筆修正して
 まとめたものです。・・・」とありました。

このはじまりの萩本欽一さんの言葉が忘れがたい。

「・・・劇場に入って3カ月目、演出家の緑川史郎先生に
『コメディアンの才能ないから辞めろ』って言われたんです。
 そのとき池(師匠の池信一)さんが、
『 いまどきあんなにいい返事する子いないから、下手だけど置いてくれ 』
 って掛け合ってくれたの。・・・緑川先生が、
『 この世界で大事なのは、うまいとか下手じゃない。
  あいつを応援したいって、劇場のトップの師匠に思わせたんだから、
  おまえ、きっと一人前になるよ 』 と言ってくれました。

  欽ちゃんが家庭の事情で休業しようとしたときも、
  池さんはみんなのカンパで窮地から救ってくれました。

 この日が人生で一番泣いたかもしれない。師匠は
『 おまえにあれこれ教えてもわかんないから、10年間デカイ声出しとけ 』
 とだけ言って劇場を去りました。次にトップに立つ東八郎さんに
『 欽坊を頼む 』と託してね。

 『 コント55号 』がウケなかったとき、やけくそで
 師匠が言ったように怒鳴りました。
『 なんでそーなるの! 』って。
 ハッと気がついたら跳んでたんですよ。それがウケた。
 ・・・・            」(p18~19)

はい。200円の古本をひらいたら、この言葉がありました。
あとはどんな方が登場するのか、とりあえず名前だけ引用。

 加古里子 高村薫 稲川淳二 降旗康男 市川悦子
 倉本聰 鈴木瑞穂 村山斉 田沼武能 山川静夫
 橋田寿賀子 益川敏英 那須正幹

はい。『しんぶん赤旗』は読まない私ですが、
この本、楽しめそうです。
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暴威を揮つたジャーナリズム

2025-02-16 | 先達たち
昨日は、はじめての歯医者へ。
通い慣れた歯医者さんが、やめてしまい。
結局近場の別の歯医者さんへ行くことに。
それから、週4回ほど開く画廊へ、
こちらは、都会の画廊を畳んで、移り住んだ方です。
明治時代にアメリカに渡った女性に関する企画展ということで、
資料を購入して帰る。

さてっと、関係ない人が結びつくというのは、面白いですね。
たとえば、内村鑑三を通じて山本七平と小林秀雄が結びつく。
そういう共通項を通じて、パラパラとひらいて読める楽しみ。

正宗白鳥著「内村鑑三・わが生涯と文学」(講談社文芸文庫・1994年)
小林秀雄著「白鳥・宣長・言葉」(文藝春秋・昭和58年)
山本七平著「小林秀雄の流儀」(新潮社・昭和61年)

まあ、結びつきは、おいといて、ここには
小林秀雄の「正宗白鳥の作について」から
当時のジャーナリズム問題をとりあげている箇所を引用しておきます。

「 ところで、内村に『基督教徒の慰』を書かせた切つ掛けになったものは、
  何であつたか。周知の如く、当時『内村不敬事件』として大騒ぎになつ
  た事件である。正宗氏の観察によれば、この際、暴威を揮つたのは
  ジャーナリズムの動きであつた。第一高等中学校での教育勅語拝読の
  式場に於ける教員内村鑑三の不遜と見られた態度が、
  本願寺系統の雑誌に、針小棒大に書き立てられ、これが
  諸新聞雑誌に転載されて、騒ぎは大きくなつた。

  事の真相を顧みぬ軽薄な言論の勢ひが、
  内村の一生の運命を決めて了つたのである。
  内村は職を失ひ、国賊の家は、学生達の投石を受け、
  近親の人達も世間を憚つて、彼を離れた。
  周囲の迫害に悩まされて発病した内村を看護する者は、
  母親と事件の数ケ月前に結婚した夫人だけといふ有様となつたが、
  夫人も心労に堪へず逝去した。
  世論は、内村の私一個の事件を、
  基督教対国家皇族といふ一般的事件に造り上げ、
  内村の生活を急襲したが、身方の筈の基督教徒も、
  内村は政府当局と妥協した恥知らずといふ
  主張を造り上げて敵に廻つた。   」
            ( p47 小林秀雄著「白鳥・宣長・言葉」 )
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オンリー・イエスタデイ(つい昨日)。

2025-02-03 | 先達たち
石井英夫著「産経抄 この五年」(文春文庫)の
解説を徳岡孝夫氏が書いておりました。

ちなみに、
石井英夫氏は1933年(昭和8年)生まれ。
徳岡孝夫氏は1930年(昭和5年)生まれ。
昨年、石井英夫氏が亡くなっているので、
徳岡孝夫氏はどうだったのかと検索する。
すると、2021年に新書が発売されておりました。
徳岡孝夫・土井荘平著「 百歳以前 」(文春新書)。
ジャーナリスト徳岡孝夫氏は、今だ健在のようです。

さっそく注文した『 百歳以前 』が届く。
まずは、帯を紹介。「 『男おひとりさま』の友情  」とある。
「 視力を失くしたジャーナリストは、同級生に電話で『原稿』を送る。
  同級生はそれをパソコンで打ち込み、自身の暮らしを書き記す。
  こうして本書は書きあげられた  」とあります。

はい。最初のページに載る土井荘平氏の「執筆のプロセス」から引用。

「徳岡孝夫君と私は、大阪の旧制中学の同級生である。」とはじまります。
すこし端折りながら引用をつづけます。

「 誰しも同級生の絆というものは他の関係にも増して深いものだが、
  それに加えて私たち世代の同級生には、中学時代が戦争のさ中で、
  3年生から4年生にかけての戦争末期の特殊な体験を共有している
  という絆があった。・・・・・・

  中学時代に深いツキアイがなかった間柄が、こんな共通体験を
  話し合ううちに、その距離がアッという間になくなって以来20数年、
  ここ数年は二人とも妻を喪い、独り身になったせいもあって、
  ほとんど毎日のように、電話でいろいろなこと、その日の
  阪神タイガースのことや、弟妹や子供たちと話すのとは違う話、
  弟妹や子らが聞いてくれない話をも含んで、
  故郷大坂の言葉でしゃべり合っている・・・・

  ・・徳岡君は、『 長寿になったといっても、百歳になったら
  もう何をする能力もなくなる。百歳以前をどう生きるかだよ、
  これからの課題は。それを書こうと思う 』と、
  
  新聞記者生活のさまざまな記憶の中からエピソードを択んで、
  締めに、問題提起や提言を置きたいと言う。

  私は、それとは何の脈絡もなく、「 『百歳以前』の身辺雑記 」
  として、90歳を超えた今現在の、環境、生活、思いなどを書いてみたい。
  ・・・こうして本書を編むスタートが切られた。 」(~p10)

土井氏の文を、もう少し長く引用させてください。

「 もちろん、二人の電話の会話は、執筆作業ばかりではない。
  時事問題の話もするし、天下国家も論ずるし、
  お互いの家族のことを話すこともあるし、
  また共通の友人の消息についての噂話もする。
  それにも増して、91年の思い出話は尽きない。
  毎日のように電話していることは、
  お互いのストレス解消にもなっているような気がする。 」(p15)

 このあとでした。土井氏は、阪神大震災に触れておられる


「 ・・・オンリイ・イエスタデイ(つい昨日)のことのように
  思えるのに実はもう26年も経っているのが信じられない思いなのだが、
  あの大震災の後、友人を神戸西灘の避難所に訪ね、
  連れだって神戸三宮駅前へ出たとき、彼と交わした会話を思い出した。

  三宮駅の瓦礫の山を見て呆然としていたときだった。
  友人が、ポツリと言った。
  『 なんでもあり、やったなあ 』
  『 エッ? 』
  『 いや、なあ、考えてみれば、オレたちの人生、
   なんでもありやったなあ、と思って。
   子供のときの阪神風水害、六甲からの鉄砲水に家ごと押し流されて。
   次は戦争や、ここらへん見渡す限りの焼野原や 』
  『 そうやなあ、さっきから見たことのある風景やなあと
    思ってたんやが、空襲のあとの瓦礫の山と一緒やなあ 』
  『 それで、今度はこの地震や。ホンマに
    なんでもありの人生、やったなあオレたち 』
  『 そういえば、オレは戦後のジェーン台風に大阪の焼跡に建てた
    急造のバラックで出遭うて屋根飛ばされたこともあったなあ 』

  ・・・・・その後、私が直接体験したわけではなかったが、
  東北の大地震という大天災が起り、その際の原発事故という人災をも
  日本は経験した。・・更に感染症ニューコロナの蔓延という百年に一回
  あるかないかの疫病災害にまで見舞われ、まだどうなるか分からない
  さ中にいる。この本を作ることを意識の中心に置いて、
  『 百年以前 』を生きてゆこうと決めている。   」(~p17)
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人生が始つたやうに思ふ

2025-02-02 | 先達たち
小林秀雄著「考えるヒント」を、
私は10代後半から20代頃に読んだような気がします。
この中に、『青年と老年』という5ページほどの文がありました。
最初に読んだ時は、堀江謙一著「太平洋ひぼりぼつち」が気になった。
それから、後に読んだ時は、徒然草の153段からの引用が気になった。
今回読み直したら、最初の導入部が気になりました。
ということで、その最初の箇所を引用。

「 『 つまらん 』と言ふのが、亡くなった正宗さんの口癖であつた。
  『 つまらん、つまらん 』と言ひながら、何故、ああ小まめに、
  飽きもせず、物を読んだり、物を見に出向いたりするのだらうと
  いぶかる人があつた。しかし、『 つまらん 』と言ふのは  
  『 面白いものはないか 』と問ふ事であらう。

  正宗さんといふ人は、死ぬまでさう問ひつづけた人なので、老いて
  いよいよ『 面白いもの 』に関してぜいたくになった人なのである。

  私など、過去を顧みると、面白い事に関して、
  ぜいたくを言ふ必要のなかつた若年期は、夢の間に過ぎ、
  面白いものを、苦労して捜し廻らねばならなくなつて、
  初めて人生が始つたやうに思ふのだが、

  さて年齢を重ねてみると、やはり、次第に好奇心を失ひ、
  言はば貧すれば鈍すると言つた惰性的な道を、いつの間にか行くやうだ。
  
  のみならず、いつの間にか鈍する道をうかうかと歩きながら、
  當人は次第に圓熟して行くとも思ひ込む、そんな事にも成りかねない。 」


はい。今回読みかえしたら、この初めで、私はもう満腹です。

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『 え、本当かい。 』

2025-01-26 | 先達たち
2025年月刊Hanada3月号の目次をみたら『追悼石井英夫』がある。
身近に接しておられた2人の方の文が印象深い。

単行本とちがい、雑誌掲載の文は、ある程度時間が過ぎると、
もうどこにあったのか分からなくなり、あきらめたりします。
ここに、記して備忘録としたいと思います。

例えば、梅棹忠夫著「知的生産の技術」を読んでから、
藤本ますみ著「知的生産者たちの現場」(講談社・1984年)を読むと、
『知的生産』の現場の新たな水先案内人に出会えた気がするのでした。

もどって、Hanada3月号の追悼文を紹介します。
その宮城晴昭氏の文から紹介。

「石井(英夫)さんが産経新聞に入社し・・
 朝刊一面のコラム『 サンケイ抄 』(現産経抄)を担当したのが
 1969年で、入社14年目の36歳です。・・・
 そこから35年間、ひとりで月曜から土曜まで毎日書き続けた・・・

 私が産経新聞に入ったのは1973年で、石井さんは編集、
 私は広告業務なので、本来なら知り合う機会は少ない。
 ただ、産経抄は毎朝、いの一番に読んでいたので、
 ぜひ一度石井さんとお話ししてみたいと思い、
 入社して6~7年経った時でした。
 思い切って論説室へ行ったんです。

 『 僕、石井さんのファンです! 』と言うと、
 『 え、本当かい。俺のファンなんて誰もいないと思っていたよ 』
 と笑っていたのを覚えています。それが最初の出会いでした。 」(p284)



「 息子さんが小学生の時、
 『 お父さんは新聞のどこを書いているの 』と訊いてきたから、
 産経抄を指して『 ここだよ 』と教えたら、
 『 こんな小さなとこで給料をもらってるのずるいね 』
 といわれてまいった、と笑いながら話していました。・・・・

 また、息子さんは『私のやりたい仕事』という作文課題では・・・
 『 私は新聞記者だけにはなりたくありません 』と書いたそうです。

 『ぼくが朝起きたら寝てる。ぼくが学校から帰ってきて寝るまで
  の間にも帰ってこないから会えない。こういう親子にはなりたくない 』
 なんて書いたそうです。
 (学校の)先生がどんな家庭なのかと驚いたんじゃない(笑)。

 奥様は台湾からの引き揚げで、戦前は良い暮らしをされていたけど、
 女学校の時に終戦を迎え、日本で裸一貫になった。
 『 だから俺がどんな貧乏しても驚かないんだよ 』
 と石井さんは言っていました。・・・       」(p286)


「 石井さんは給料全額、奥様に渡していて、
  本人の飲み代なんかは印税、原稿料、講演料から出していました。
  自慢ではないですが、私は石井さんと飲みに行って一回も
  自分で払ったことがありません。・・・・
  安い店だからこそ払えたのかもしれませんが(笑)。 」(p286)



もう一人は、吉田信行氏。
ここには、一ヶ所だけ引用。

「 産経出身の作家、司馬遼太郎さんが『 産経抄 』の
  愛読者であったことは広く知られている。司馬さんの石井評は
    『 人の手の温もりが感じられる文章が書けるのは
      戦後では井伏鱒二と石井英夫さんの二人です  』
  とするとてつもなく高いもので、よく周囲に語ってもいた。 」(p280)


私に思い浮かぶのは、曽野綾子さんが産経新聞の紙面で
連載をもっていて、紙面をにぎわせていた頃のことでした。
ある時に、別々に書いているのに、産経抄と同じ指摘で同じ意見の方
同士がいて、それを曽野さんが指摘されていることがありました。
それがなんだか、とても印象に残っております。


最後に、2005年に出版された
石井英夫著「 コラムばか一代 産経抄の35年 」(産経新聞社)から、
「あとがき」の最後の箇所を引用しておきます。


「・・・私事で恐縮だが、家人が体調を崩し、
 コラムばかの私はたちまち生活不適応者に転落。
 何の介護の役にも立たなかったが、家人の入院先の
 国立がんセンターのベッドのかたわらで原稿用紙をひろげ、 本書
 『 コラムばか一代 』の執筆をつづけるというていたらくになった。・・
 35年を支えて下さったみなさまに心からの感謝をささげる次第です。
 
        平成17年4月10日           石井英夫   」
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『流言蜚語』の賞味期限。

2024-09-16 | 先達たち
清水幾太郎著「流言蜚語」に、こんな箇所がありました。

「だが報道や流言蜚語の生命は大抵或る時間の間しか存続しない。
 報道と流言蜚語とが対立して生きるのは、一定の期間だけのことである。
 その時間を過ぎてから事実との比較が行はれたにしても、そして
 その結果報道の虚偽が明らかになったとしても、・・・・・
  ・・・・ 一定の時間が経ってからでは、
 比較を試みようとする熱情が何人の胸にも湧いて来ないであらう。 」
                     (清水幾太郎著作集2・p46)


うん。「安房震災誌」に、この賞味期限内の判断への言及があります。

「 要するに、斯うした苦心は刹那の情勢が雲散すると共に、
  形跡を留めざることであるが、一朝騒擾を惹起したらんには、
  地震の天災の上に、更らに人災を加ふるものである。
  郡長が細心の用意は、実に此處にあったのである。 」(p222~223)

「大正大震災の回顧と其の復興」上巻に
安房郡長のような指導者がいなかった地域の話が載っておりましたので
引用しておくことに。

  『裸体のまま』    飯野村 竹内伊之吉   p856~857

「・・・ちょうど昼食をしやうとした我家では激しい動揺に打驚され
 『 それっ 』と裸体のまま外に飛び出した。飛び出して表をふらふら
 してゐる中に主家が崩壊した、パッと上る砂煙揺り返して来る余震、
 瓦の落ちる音、人の叫び・・・・
 七転八起、近所の竹藪に飛び込んでほっとした、
 箸を手にしてゐる人、裸体の人、子をおぶった女、
 土まみれの子供、竹藪は不安な人々で満ちた、道は裂け山は崩れる・・・

 不安な夜は来たが余震はなお続いた、北方の空は真紅に染り、帝都は
 火を発した、夕食をし様とする人もなく不安気な夜は沈々と更けていった。
 蚊群に攻められつつ余震におびやかされながら落着かぬ心にて
 まどろむのだった。明るくなれば2日の太陽が上った、
 何時もの赫々たる光は無く只無気味に真赤だ、誰もの顔に
 生色はない魂の抜けた人の様にうつろな眼をして天を眺め沈黙して居る。

 午前10時頃余震は少なくなったと言ふものの
 未だ人々の胸からは不安は去らず、徒に心配するのみ
 新聞紙の燃え残りノートの燃え残り等飛来し
 そぞろ帝都の惨状を思はせる、

 不逞の徒が某方面へ百人上陸した、
 某方面へ五十人此方へ向って来るそうだ、
 流言は飛んで蜚語を生み、
 村中は蜂の巣をつついた様其の騒ぎは一通りでは無い、
 刀を持出す人、竹槍を造る人等、

 女子や子供は地震よりも恐れ戦いた。
 一人の正しき指揮者も無く村は全く無警察状態だった。

 思ひ起せば十年前当時の模様が走馬燈の様に私の頭に行き来する、
 その事も後で聞けば全然流言だったそうだ、
 此の事では如何に多くの村人が心配した事だらう。
 思へば馬鹿馬鹿しくも悲しい事である。・・・・    」
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じゅうぶんに案の練って

2024-07-04 | 先達たち
昨日の水曜日は、久方ぶりに東京へ。
高速バス移動です。東京駅からは歩くのですが、
もう、汗だくだく。まあ、汗かきなのです。

バス移動では、ほとんど寝ています。
けれど、たまに起きているときのことを思って
文庫本を本棚からとりだして持ちました。
大村はま「新編教えるということ」(ちくま学芸文庫)。
はい。行きにすこし開きました。

大村はまさんは、戦後に中学校の国語の先生となります。
戦後すぐですから、教科書も満足にありません。

「 私はその日、疎開の荷物の中から新聞とか雑誌とか、
  とにかくいろいろのものを引き出し、教材になるものを
  たくさんつくりました。約百ほどつくって、
  それに一つ一つ違った問題をつけて、
  ですから百とおりの教材ができたわけです。

  翌日それを持って教室へでました。そして
  子どもを一人ずつつかまえては、
『 これはこうやるのよ、こっちはこんなふうにしてごらん 』
  と、一つずつわたしていったのです。

  すると、これはまたどうでしょう。
  教材をもらった子どもから、食いつくように勉強を始めたのです。
  私はほんとうに驚いてしまいました。・・・・・・

  そして、子どもというものは、
『 与えられた教材が自分に合っていて、
  それをやることがわかれば、こんな姿になるんだな 』
  ということがわかりました。
  それがない時には子どもは『 犬ころ 』
  みたいになることがわかりました。・・・・

  隣のへやへ行って思いっきり泣いてしまいました。 」

さてっと、そのあとの方に、こんな箇所がありました。

「 じゅうぶんに案の練ってあるいい話には、不思議とよく聞いてくれます。
  ちょっと材料がユニークでないとか、構成が悪いと自分で思う話のときには、
  ろこつに子どもたちは反応して、ガサガサするとか、聞いていないとか、
  おしゃべりするとか、何かをやります。 」( ~p78 )


ああ、そうかと思いました。
私は7年前にお仲間の防災士の方に、思うことを書いたことがありました。
それらをまとめた「『安房震災誌』を読む」(平成29年4月)を数人の方に、
配布したことがあります。それはそれきりそのままになっていたのですが、
昨年のあるアンケートで

『  関東大震災の内容をくわしく講習してほしい。
    地域の受災状況をくわしく知りたかった。  』

というコメントをいただきました。そのコメントに惹かれて
あらためて『安房震災誌』と『大正大震災の回顧と其の復興』を
読み直したら、あら不思議いろいろなことがつながってゆきます。

たとえば、今年の1月1日に起きた能登半島地震の新聞記事をみていると、
百年前の関東大震災と、そして百年後の能登半島地震がつながってくる。
百年前の首都発の流言蜚語が、現代マスコミの饒舌さとつながってくる。

今年の8月28日(水曜日)に1年に1時間だけの講座をひらく手筈なのですが、
さてっと、構成が悪くて台無しになってしまうかどうか、
ユニークさを気取って、鼻持ちならない講座になるのか、
まあ、『 いい話 』は、はなから、期待はできなくとも、
『 じゅうぶんに案の練ってある 』話ができますように、
と今から心してゆくことにします。

 とまあ、そんなことをバスで思いながら居眠りしてました。
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庭いじり。美術館。

2023-12-17 | 先達たち
「足立美術館 日本庭園と近代美術」(山陰中央新報社・昭和55年)。
足立全康著「庭園日本一 足立美術館をくつった男」(日本経済新聞・2007年)

はい。「庭園日本一・・」から引用。

「美術館を造ることを決意したとき、
 日本画の美に最も似つかわしいものとして、日本人の
 美意識の深いところで関わる日本庭園をイメージに描いた。

 小学校六年のとき、近くの雲樹寺で見た庭園にいたく感動した
 ことがあったが、その時の印象が心の片隅に生き続けていたのかもしれない。

 雲樹寺は臨済宗の古刹で・・・枯山水の禅宗庭園で、春になると
 雲仙ツツジが境内一帯を埋め尽くすところからツツジ寺とも呼ばれ、
 地元の人たちに親しまれている。

 庭づくりを思い立ったのも、こうした故郷の美しい風景が
 あればこそと思うが、私の父がとにかく庭いじりが好きだったことが、
 あるいは直接の原因かもしれない。何かにつけて意見が衝突した父と
 私であったが、年をとるにつれて血はいよいよ争えないものとみえる。

 美術館の庭園は、大阪芸術大学の中根金作教授に設計いただいたもので、
 築山林泉式庭園と枯山水式庭園から成っている。・・・・

 昭和45年秋に開館して以来、毎年のように絶えずどこかを
 いじくりまわしてきたので、庭の風景はしょっちゅう変わり、
 設計時の面影はあまり残っていない。・・・・
 
 私の場合、収蔵品を喜んでいただくのはもちろん嬉しいが、
 庭を褒められると殊のほか嬉しい。・・・・

 庭からほんのちょっと目を上げると、そこには戦国時代の昔、
 毛利、尼子の両雄が戦い、毛利氏が戦勝を記念して名付けた
 という勝山が連なっている。その背後には、この地方で一番
 高い京羅木山(きょうらぎさん)がヌッと頂を突き出している。
 四季の変化をいち早く知らせてくれる、見張り山でもある。・・・」
                      ( p189~190 )


うん。以前に親しいご夫婦の家に食事に招かれたことがありました。
その際に、夫婦して足立美術館へと行った思い出を奥さんが語って
何だかわからないながら、気になっておりました。
それから古本で、その関連本が安く出た時に読まない癖して買って
置いてありました。今頃、ひょんなことで、この本をひらけました。

もちろん(笑)。私は行ったこともありません。
庭園と収蔵品とのカタログをひらくだけです。

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つつましく決意に満ちた

2023-06-28 | 先達たち
注文してあった新刊が今日届いている。
山口仲美著「日本語が消滅する」(幻冬社新書)。

「あとがき」から、この箇所を引用してはじめます。

「・・私は、その後大腸がんを患い手術。
 それから4年後には今度は膵臓がんになってしまい、手術。

 ようやく健康を取り戻しつつあった時、それまでの自分の
 日本語学関連の研究をまとめておく必要を感じ・・刊行しました。

 刊行し終わっても、まだ寿命が残っているようでした。

 せっかく生かしていただいているのだから、
 ずっと気になっていた日本語の危機についてきちんと考えてみよう。
 ・・・     」(p280)

ちなみに、山口仲美さんは1943年生まれ。
こうして、新刊を手にできるありがたさ。

え~い。ここはいっきに、この新書の
本文最後の箇所を引用しておくことに。

「 最後に、私の心に残り続けるジョン・グーレさんの詩の
  一部を引用して結びにしたいと思います。

    死にゆく言葉はそっと崩れ落ちる
    あの村でもこの村でも
    静かに倒れていく――叫ぶこともなく
    泣きわめくこともない
    さらりと、ふいにいなくなる
    鋭い目を持たなければ
    その静かな破滅に気づかない
    そしてつつましく、決意に満ちた心がなければ
    それを止めることはできない

  鋭い目を持たなければ、世界言語から見ると、
  一地方語にすぎない日本語に静かに忍び寄る破滅に気づかないのです。
  それを未然に防ぐのは、つつましく決意に満ちた日本人の心なのです。」

                 ( p277~278 )



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こういう自由は捨てた方がよい。

2023-06-12 | 先達たち
論文を読むにはどうすればいいんだろうなあ?
などと、ガラにもなく思っていたら、そういえばと、
清水幾太郎著「論文の書き方」(岩波新書・1959年)が思い浮かぶ。

はい。その第一章は『 短文から始めよう 』でした。
うん。第一章だけでも読みかえしてみる。
「文章の修業」なんて言葉が登場します。

「 自由な感想を自由な長さで書くという方法は、
  あまり文章の修業には役立たない。

  むしろ、初めは、こういう自由は捨てた方がよい。

  要するに、文章の修業は、
  書物という相手のある短文から始めた方がよい。
  というのが私の考えである。

  自由な感想ではなく、書物という相手があるということ、
  それから、自由な長さではなく、5枚とか、10枚とかいう
  程度の短文であるということ、この2つが大切である。  」(p9)


ちなみに、岩波新書といえば、
清水幾太郎著「論文の書き方」が1959年で、その10年後
梅棹忠夫著「知的生産の技術」が1969年に出版されていました。

うん。10年後の『技術』と関係のありそうな箇所が気になります。

「ブローダー・クリスティアンセンの『散文入門』の本文は、
 ゲーテの言葉で始まっている。

 『 すべての芸術に先立って手仕事がなければならない。 』

 この言葉は文章の修業にも当て嵌まる、
 とブローダー・クリスティアンセンは考える。

 芸術は他人に教えることが出来ないであろう。
 しかし、手仕事のルールは、他人に教えることが出来るし、
 誰でも学ぶことが出来る。

 ・・・手仕事のルールは教えることも、学ぶことも出来るであろう。
 そして、こういう手仕事なら、学校教育に含ませることが可能でもあり、
 必要でもあろう。私はそう欲の深いことを言っているつもりはないのだ。」
                        ( p91 )

清水幾太郎が『手仕事のルール』と語った10年後に
梅棹忠夫が、『知的生産の技術』を岩波新書で出したのでした。

うん。『ルール』と『技術』。
10年前に、『知的生産の技術』への道筋が語られていたわけです。

ということで、すっかり忘れていた清水幾太郎著「論文の書き方」を
初読のようにして読みかえす頃合いになった気がしてきました。





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『 私はその日 』

2023-02-26 | 先達たち
竹中郁の詩集「動物磁気」(昭和23年7月尾崎書房刊行)の
詩「開聞岳」のなかに、「焼野原の町の」という言葉がありました。

それでは、東京での焼野原は、どうだったのか?
大村はま先生に語っていただきます。

「 昭和22年中学が創設されました・・・

  私はいちばん最初に、来るようにと声をかけてくださった
  校長先生の学校へ行きました。それは江東地区の中学校でした。

  ご存じのとおり大戦災地でしたから、一面の焼野原で、
  朝、学校に行くにも、私は秋葉原という駅で教頭先生をお待ちしていて、
  いっしょに行きました。朝早くからでも女性一人で歩くのはむずかしか
  たのです。

  見渡す限りの焼野原、ところどころに、防空壕のあとがあります。
  まだ、そこに人の住んでいる壕もありましたから、足もとがパッと
  あいて人が出てくる。どこから人が出てくるかわからないのです。

  そこを通ってゆくと、焼け残った鉄筋コンクリートの工業学校が
  あります。その一部を借りて、私のつとめる深川第一中学校と
  いうのは出発しました。

  あのころ、雨が降って傘をさして授業をしているところや、
  大きな算盤(そろばん)がどうしたわけか焼け残っていて、
  その大きな算盤に腰掛けて、子どもが勉強している・・・・

  みんな私の教室でした。
  床があるわけでなく、ガラス戸があるわけでなし。
  本があるわけでなし、ノートがあるわけでない、
  紙はなし、鉛筆はなし・・そこへ赴任したわけです。

  一年生は四クラスで、一クラス50人でしたが、
 『 教室がないから二クラス100人いっしょにやってください 』
  と、こういうわけです。その100人の子どもは
  中学校の開校まで3月から一か月以上野放しになっていた子どもたちです。

  ウワンウワンと騒いでいて・・・・
  私は・・しばらく教室の隅に立ちつくしていました。・・

  ワァワァ騒いでいる中を、少しずつ動いて何か少し教えたりして、
  なんとか授業のかっこうをつけていました、
  とても一斉授業なんてできませんから。    」

こうして、大村はまは、西尾実先生のお宅へ伺います。

「 西尾先生は高笑いなさって、
  『 なかなかいいかっこうじゃないか、
    経験20年というベテランが、教室で立ち往生なんて・・ 』
  とおっしゃり、
  『 そういう時にこそ人間というもはほんものになるのだから、
    病気になったり、死んじゃったら困るけれども・・・    』
  と取り合ってくださいません。 ・・・・   」


うん。ここまでも長く引用しちゃいましたが、このあとでした。
大村はま先生はこのあとに『 私はその日 』と続けるのです。


「 私はその日、疎開の荷物の中から新聞とか雑誌とか、
  とにかくいろいろのものを引き出し、教材になるものをたくさんつくりました。
  約100ほどつくって、それに一つ一つ違った問題をつけて、
  ですから100とおりの教材ができたわけです。
  翌日それを持って教室へ出ました。

  そして、子どもを一人ずつつかまえては、
  『 これはこうやるのよ、こっちはこんなふうにしてごらん 』と、
  一つずつわたしていったのです。

  すると、これはまたどうでしょう、
  教材をもらった子どもから、食いつくように勉強し始めたのです。
  私はほんとうに驚いてしまいました。・・・・

  そして、子どもというものは、
  『 与えられた教材が自分に合っていて、
    それをやることがわかれば、こんな姿になるんだな 』
  ということがわかりました。それがない時には
  子どもは『犬ころ』みたいになることがわかりました。

  私は、みんながしいーんとなって床の上でじっとうずくまったり、
  窓わくの所へよりかかったり、壁の所へへばりついて書いたり、

  いろんなかっこうで勉強をしているのを見ながら、
  隣のへやへ行って思いっきり泣いてしまいました。・・・・

  私はそれ以後いかなる場合にも、子どもたちに騒がれることがあっても、
  子どもを責める気持ちにはどうしてもなれなくなりました。
  ・・・・・

  今でもときどきどうかした拍子に、子どもがよくやらないことがあります。
  もちろん、中学生なんてキカン坊盛りですから、私は今も
  『 静かにしなさい 』と言うことがあります。
  ありますけれども・・・慙愧(ざんき)にたえぬ思いなのです。

  能力がなくてこの子たちを静かにする案も持てなかったし、
  対策ができなかったから、万策つきて、敗北の形で
  『 静かにしなさい 』という文句を言うのだということを、
  私はかたく胸に体しています。・・・・・・          」


(  p72~77 大村はま「新編教えるということ」ちくま学芸文庫  )


  
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とても豊かな感じがする。

2022-12-30 | 先達たち
雑誌で、印象深い対談があったりします。
うん。雑誌は、すぐに忘れてしまいがち。

季刊『本とコンピュータ』1999年冬号。
ここに、鶴見俊輔と多田道太郎の対談
『 カードシステム事始 廃墟の共同研究 』が載ってる。

対談のはじまりには、二人して夜道を歩いている写真。
鶴見さんが笑っています。多田さんが少し後ろから、
まあまあというように鶴見さんの二の腕を押さえています。

対談は、1949年(昭和24年)の桑原武夫さんが中心となった、
共同研究が語られてゆきます。

ちゃんと、カードシステムについてふれながらの対談なのでした。
うん。二箇所引用。

「 皆の論文が集まってきたときに、桑原さんが
 
  『 いまとても豊かな感じがする 』

  と言ったのを覚えてるね。そういうものが
  共同研究の気分なんですよ。カードを共有する
  という発想もそこから生まれたんです。   」( p202 )


それから、対談の最後も引用しなくちゃ。

「 それとね、私たちの共同研究には、
  コーヒー一杯で何時間も雑談できるような
  自由な感覚がありました。

  桑原さんも若い人たちと一緒にいて、
  一日中でも話している。

  アイデアが飛び交っていって、
  その場でアイデアが伸びてくるんだよ。

  ああいう気分をつくれる人がおもしろいんだな。

  梅棹さんもね、『思想の科学』に書いてくれた
  原稿をもらうときに、京大前の進々堂という
  コーヒー屋で雑談するんです。

  原稿料なんてわずかなものです。私は

  『 おもしろい、おもしろい 』

  って聞いてるから、それだけが彼の報酬なんだよ。
  何時間も機嫌よく話してるんだ。(笑)

  雑談の中でアイデアが飛び交い、
  互いにやり取りすることで、その
  アイデアが伸びていったんです。・・   」 ( p207 )


はい。2023年になって、

  『 おもしろい、おもしろい 』

  『 いまとても豊かな感じがする 』

なんてセリフが飛び出し、伸びてゆきますように。
  

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98歳の冬。

2022-10-18 | 先達たち
苅谷夏子著「大村はま 優劣のかなたに」(ちくま学芸文庫)
はい。いつもはパラパラ読みの私ですが最後まで読みました。

最後には詩について語られている場面がありました。
大村はまの98歳の冬が無事過ぎたころのこと。

文部科学省の特殊教育関係の雑誌のインタビューを受け

「後日、インタビューをまとめた記事のゲラが届いた。
 それを読んだ大村は、どうも放っておけない違和感を感じたらしい。

 趣旨は正しく書かれていた。どこに誤りはない。しかし、
 文章の調子に、もっと引き締まった、厳しさ、切実さが欲しい
 と思った。・・・・

 それは記事全体の調子の問題であって、一つ二つ、
 注文を出したからといって変わることではなかった。
 また、そこまでまとめてくださった方に、そんなところまで
 要求できるはずもなく、その仕事を無にするようなこともしたくなかった。

 しかし、違和感はどうしても拭いさることができない。・・・

 丸一日、大村はじっと沈黙を守って、どうしたものかと考えていたらしい。                                      そして、突然、明るいさっぱりとした声で電話がかかってきた。
『インタビューの記事の最後に、詩みたいなものをね、
 載せてもらうことにしたの。・・・・・』
 
 それがこの『優劣のかなたに』なのだ。    
 ・・・・決定稿にまでもっていきたい。
 話し相手になってほしいから、ちょっと来てちょうだい、
 という約束の日の、その二日前に死がやってきた。  p255~257


この文の前に詩「優劣のかなたに」が、p251~255に引用されておりました。
詩の最後には注としてこうありました。
「この詩は、著者が亡くなるまで推敲を続けたので、遺されたメモ、
 下書き、校正稿をもとに、関係者らによって一部を補完した。」


うん。その詩から、一部分を私は引用したくなりました。

   今は、できるできないを
   気にしすぎて、
   持っているものが
   出し切れていないのではないか。
   授かっているものが
   生かし切れていないのではないか。     p254



はい。読めてよかった。


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『ええ、まだあります』と

2022-06-14 | 先達たち
徒然草を読むのに、シロウトの私には文庫一冊あればよし。
島内裕子校訂・訳「徒然草」(ちくま学芸文庫・2010年)。

島内裕子さんが、徒然草へ旅のツアーコンダクター。
くだけて言うなら、修学旅行のバスガイド(古い)。

はい。どんなガイドさんなのか?
ガイドさんの自己紹介が聞きたい。

はい。そんな我儘を聞き届けてくれました。
島内裕子著「兼好 露もわが身も置きどころなし」
(ミネルヴァ書房・2005年)日本評伝選の一冊。
その本の「あとがき」での自己紹介。

「多くの人がそうであるように、
 徒然草との最初の出会いは、中学の終わりか高校の始め
 頃の国語の授業だった。

 その時、この作品の清新さに、まず心打たれた。
 これが六百年以上も前の時代に書かれたものとは、思えなかった。
  ・・・・
 それ以前の『若草物語』や『赤毛のアン』や『秘密の花園』の
 世界から、いつのまにか読書の好みも変化していた。

 教科書に出てくる徒然草は、簡潔で多彩ないくつもの短い章段からなり、
 『パンセ』や『侏儒の言葉』のような断章形式が何とも魅力的だった。

 『この作品を、一生研究してゆきたい』と、
  十代の半ばで思い定めたのは、今振り返れば不思議な気もする。

 けれども幸いこの気持ちは揺らぐことなく、こうして兼好の評伝を
 書き終えるまでの長い歳月を、いつも徒然草は私の傍らにあった。 」


はい。この後も肝心な場面がありますので、
もう1ページ分を引用してしまうことに。

「だから、十代の終わり頃から読み始めた小林秀雄経由で、
 モーツァルトやランボオに出会い、大学生になってから
 美術展や音楽会に出掛けて、ヴァトーやショパンを好きになっても、
 それらのすべてが、時代も場所も越えて徒然草の世界と響き合い、
 徒然草はますますみずみずしい姿で絶え間なく生成してゆく、
 一つの生命体であった。」

うん。この次には、大学院の口頭試問がひかえておりました。
そこも引用しなくちゃ終わりにできません(笑)。

「ところが、いざ専門的な研究に取り組み始めると、
 徒然草と兼好がかなり固定化した捉え方をされていることに、
 違和感を感じずにはいられなかった。・・・・・・・

 それならどのような観点と方法で徒然草の研究をすればよいのか。
 
 忘れることができないのは、大学院の口頭試問で、秋山虔先生が、
 『研究者として、ずっとやってゆく決心はありますか』とお聞きになり、
 
 それを承ける形で今は亡き三好行雄先生が、
 『徒然草って、まだ研究することがあるの』と質問なさったことだ。
 
 一瞬、『不合格かしら』という不安が心をよぎり、
 返答に窮していた時、

 『ええ、まだあります』と久保田淳先生が一言おっしゃって、
 急にその場の雰囲気が和らいだ。

 ほんの一、二分の出来事だったが、この時の先生方の、
 厳しくも暖かい励ましが、ずっと研究の支えとなっている。 」
 
                   ( p299~300 )

はい。こうして格別の案内人を得たのですから、
ここでは旅をガイドさんと一緒に楽しまなきゃ。


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