夏になると、中村草田男が思い浮かび、
それでもって、本をひろげることになります。
それでもって、今回注目したのは、
「わが父草田男」(みすず書房・1996年)の
「草田男とメルヘン」山本健吉・聞き手中村弓子(p40~56)
ここでの山本健吉さんの言葉から引用。
「・・キリスト教と草田男さんの文学の発想は
切り離しがたいと思うんですよ。草田男さんは、
私が言った『絶対の探求者』という詩人という考えを
とても喜んで採り上げてくれたんですが、
草田男さんの中のそういう宗教的な面は非常に
本質的なものだと思うんですよ。
かたちの中でも、あるいは読者でも誰でもいいんですけれど、
草田男におけるカトリシズムというものを論じているか、
あるいはそれに共感しているか、そういう評論をね、
私はあまり見たことないんです。・・・・・・・
草田男さんからカトリシズムを除いたら、
やはり草田男さんの神髄はわからないという感じがするんです。
・・・・臨終洗礼っていうのは、半ば無意識か半無意識の状態のときに
十字を切ったら、それでキリスト教を受け入れたしるしになるというような、
・・・ああいう無意識の状態は、やっぱりね、私は宗教にとって
非常に大事なものだと思うんです。で、そういう状態で亡くなる
直前に草田男さんが洗礼を受けたっていっても、充分納得できます。 」
このあとに娘さんの中村弓子さんの言葉がありました。
「キリスト教をめぐっての、父と母との関わりということについて、
一つお話ししてもよろしいでしょうか。
『 一雲雀 』という童話を母が非常に好きでして、
童話集の『 風船の使者 』が出たのはちょうど母の亡くなった年でしたが
そのときにまたあらためて読んで、父にも、それから子供たちにも
『 一雲雀 』は非常に好きだと言っていたわけですね。
私は子供として読んだとき、『一雲雀』の最後ですね、
無私の愛による成就という、あれを読みまして、
母がキリスト者として非常にそこに共感を覚えたのはよくわかりましたし、
それからまた、父があの作品を書いたとき、おそらく
自分の中にあるものと、母のそういうキリスト教的愛といいますか、
そういうものが無意識のうちに重なって、精神的な合作というか、
そういうようなものになったのという感じさえしました。」(~p45)
中村草田男の亡くなった奥さん。そして、中村草田男とキリスト教。
はい。今年の夏は、そこに注意がゆきました。
ということで、中村草田男の童話集『風船の使者』のその箇所を
今度読んでみます。今まで無意識に読んで感嘆していた
草田男の俳句が、その神髄はわからないままでも、
グッと、にじり寄ってくるような夏になるのかも。