和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

オノマトペの童話音楽。

2023-07-10 | 朗読
紀野一義氏は、宮沢賢治の童話をラジオで聞いている際に、
『これが色彩と、音響と、ことばとで織りなされた幻想的な映画になったなら』
と綴っておりました。(p112 「賢治の神秘」佼成出版社・1985年)

イーハトヴ童話『注文の多い料理店』全をひらいて
序のあとにつづく童話『どんぐりと山猫』をめくっていたら、
そのオノマトペのオンパレードに、ついつい
紀野氏の『色彩と、音響と、ことばで織りなされた』という箇所が
思い浮かんできました。

はい。これは山猫の裁判の様子が童話で描かれているのですが、
ここには、オノマトペを列挙してみることに。

おかしな葉書が舞いんできたところから、はじまります。

「字はまるでへたで、墨もがさがさして指につくくらい・・・」

「山猫のにゃあとした顔や」

「 まわりの山は、みんなたったいまできたばかりのように
  うるうるもりあがって、まっ青なそらのしたにならんでいました。」

「 すきとおった風がざあっと吹くと、栗の木はばらばらと実をおとし 」

「 笛ふきの滝でした。・・滝がぴーぴー答えました。」

「 一本のぶなの木のしたに、たくさんの白いきのこが、
  どってこどってこどってこと、変な楽隊をやっていました。」

「 すると、男はまたよろこんで、まるで、
  顔じゅう口のようにして、にたにたにたにた笑って叫びました。」

「 そのとき、風がどうと吹いてきて 」

「 足もとでパチパチ塩のはぜるような、音をききました。」

「 草のなかに、あっちにもこっちにも、黄金いろの円いものが、
  ぴかぴかひかっているのでした。」

「 こんどは鈴をがらんがらんがらんがらんと振りました。」

「 革鞭を二三べん、ひゅうぱちっ、ひゅう、ぱっちと鳴らしました。」

「 それはそれはしいんとして 」

「 鞭をひゅうぱちっ、ひゅうぱちっ、ひゅうひゅうぱちっと鳴らしました。」

はい。まるでオノマトペを聞き惚れるようなやすらぎ感。
ちなみに、新潮社文庫の「注文の多い料理店」には

「どっててどっててどっててど」とはじまる
「 月夜のでんしんばしら 」の楽譜がp325にありました。






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稗貫郡立稗貫農学校教諭になる。

2017-03-03 | 朗読
宮澤賢治が稗貫郡立稗貫農学校教諭になったのは
1921年(大正10)でした賢治25歳。
稗貫農学校は、1923年に郡立から県立花巻農学校となります。

1922年2月。賢治は農学校のために精神歌を作詞、
川村悟郎(当時盛岡高等農林学生)が作曲。
年譜にはこうありました。

「川村さんが盛岡から帰って、賢治さんと二人で、ああでもない、
こうでもないと作曲をしておりました。ですから私たちは、
できあがらないうちから、精神歌をきいていたわけです。
題は、はじめありませんでした。曲ができ上りますと放課後、
音楽の好きな生徒をのこして歌わせました。
畠山校長もいい歌だと感心していました。
はじめは音楽好きのグループの生徒たちだけで練習していましたが、
三月の式に間に合うように、全部の生徒に歌わせ、
卒業式には、りっぱに歌いました。校長さんは、
宮澤さんに校歌にしてくれるように言いましたが、
宮澤さんは遠慮ぶかい人ですから、
遠慮して校歌にはしませんでした。―――堀籠文之進談」
(p162~163堀尾青史「年譜宮沢賢治伝」中公文庫)

この頃の宮沢賢治が気になります。
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斃れし人の顔色は 野辺の草葉にさもにたり。

2015-08-12 | 朗読
本を読んで、しばらくすると、
もう一度読んでおきたいと
思う箇所があります。ひょっとすると
そんな箇所は、朗読にふさわしいのじゃないか。


渡部昇一著「朝日新聞と私の40年戦争」(PHP)
最後の第5章「日本人の名誉にかけて捏造報道と戦う」。
そのはじまりを、私は朗読したくなります。


「『朝日新聞』の捏造記事で『従軍慰安婦』という
言葉が広まったとき、私は『そんなものはない』と
即座に言いました。・・・・
『従軍』というのは『軍属』です。
軍属とは陸海軍に正式に所属する、軍人以外の人たち
のことで、階級区分もありました。たとえば
従軍看護婦、従軍僧、従軍記者、従軍画家などは軍属です。
私は『従軍慰安婦』と聞いた途端、
『従軍看護婦の歌』を思いだしました。
今でも全部そらで歌えます。

一、火筒(ほづつ)の響き遠ざかる 跡には虫も声たてず
  吹きたつ風はなまぐさく くれない染めし草の色

二、わきて凄きは敵味方 帽子飛び去り袖ちぎれ
  斃れし人の顔色は 野辺の草葉にさもにたり

三、やがて十字の旗を立て 天幕をさして荷いゆく
  天幕に待つは日の本の 仁と愛とに富む婦人

四、真白に細き手をのべて 流るる血しお洗い去り
  まくや繃帯白妙の 衣の袖はあけにそみ

五、味方の兵の上のみか 言も通わぬあだ迄も
  いとねんごろに看護する 心の色は赤十字

六、あないさましや文明の 母という名を負い持ちて
  いとねんごろに看護する 心の色は赤十字


『従軍看護婦』にはこんな尊い歌があるのに、
『従軍』に『慰安婦』をつけるとは何事か、
と私はカッとなりました。
これが『慰安婦問題』に対する私の最初の怒りです。」

以下には『女子挺身隊』についての
言葉の指摘が続き、そちらも引用したくなります。
が、興味をお持ちの方は本へ(笑)。
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