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和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

信仰と美学

2025-04-24 | 古典
とりあえず、はじめて読んだ
曽野綾子著「心に迫るパウロの言葉」(海竜社)
の感想は、今回でおしまい。
再読すれば、また別のことが思い浮かぶのだろうなあ。

本の最後のほうで、曽野さんはこう書いております。

「 受け身の美学というものは、もの心ついて以来、
  私の心の中心にある。私は一応は運命に対して
  口答えも反抗もするのだが、実はほんとうは
  世の中のことはどっちへ転んでもいい、と思っている。
  ・・・・自分からはあまり積極的でない。・・

  ・・強いパウロに、このような控え目な、
  運命や時の力にスタートラインも成り行きも任せよう、
  むしろその中に、神の意志を見よう、
  という態度があることは意外であるとも言える。・・・  」(p294)


具体的な例が印象深いのでした。そちらも引用。

「 私の身近にも、何人か、洗礼を受けながら、
  それを世間に公表しない人がいる。・・・・

  こういう人たちは決まって、ひそかに
  洗礼を受けた後、今まで通りの非キリスト教的な
  行動をしてかまわないだろうか、と心配する。
  たとえば或る家には、お姑さんがいて、元旦には
  必ず浅草寺と成田山にお詣りする。洗礼を受けた後、
  そういうことができなくなると、家の中に
  波風が立つと心配するのである。

  しかしカトリックは決してそのようなことを禁じない。・・
  そこに私はカトリックの信仰の一つの明確な姿勢を見るのである。

  これは、信仰はいかなる人をも、強制しないということである。
  むしろキリスト者は運命に対して全体的に受け身でいなければならない。
  ただその受け身の姿勢で受けた自分の運命の中で、
  どれだけキリスト者的でいられるか、
  ということだけが問題なのである。

  私(曽野綾子)の母も父に隠して洗礼を受けた。
  律儀な母もその時同じように心配し、
『 日曜日に主人がミサに行くことを禁止しましたらどうしましょう 』
  と私の学校のシスターに聞いていた。するとそのシスターは
  ためらうことなく、答えていらしたのを、
  私は今でもありありと覚えている。

『 たとえ、一生に一度ももう教会にいらっしゃれなくても、
  そんなことを少しも心配なさることはないんですのよ。
  それよりもご主人さまのお望みになるようになさいませ 』 」
                       (p292~293 単行本)

この例を語ったあとに、曽野さんはこう書くのでした。

「 受け身の美学というものは、もの心ついて以来、
  私の心の中心にある。・・・・・・・

  私は自分がそのように感じることを、
  自分の生理的な特徴から出たものであって、
  キリスト教とは別のもののように長いこと思っていたが、
  実はむしろ偶然に全くキリスト的なものであった。

  どちらが先なのか分からないが、
  私は自分の信仰と自分の美学が対立しなかったことに、
  恋愛が成就したような嬉しさを感じるのである。   」(p294)


うん。こんなことは、ほんの一回読んだからといって、
分る筈もないのですが、それでも、こういう風に考えるのか?
ということは読み取れました。
だからって、自分がどうするわけでもないのですが、
それにしても、信仰と美学というのは何だか貴重なテーマ
なのだと、思うことしきりです。

はい。これで『心に迫るパウロの言葉』の初読感想はおわり。

ちょうど、4月22日に、公民館の推進委員の方が見えまして、
年一回の講座日時を7月23日(水曜日)午前中10時から12時までと
とりあえず決定。今回は講義ぽい座学となります。
場所は町のコミセンの3階とそこも決定。
題は変わりばえしませんが『 安房の関東大震災 』です。

もう一度、昨年のブログに記してた文の読み直しからはじめます。
正確に記録から再現するために、資料冊子は厚くなりそうです。
公民館職員の方は、そんなに資料費用が出せないようで、
ここはひとつ、資料冊子を有料にして参加者に購入してもらおう。
そんなことを思い描いております。まずは、
買ってもよいと思えるような、買いたくなる資料冊子をつくる方が先決。
ということを思って、講座当日に、言い忘れがないようにと、
いまから資料記録の再読です。


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救済要求の沈黙の示威

2025-03-22 | 古典
「米騒動の研究」全5巻(有斐閣・昭和34年)は、
1918年(大正7年)の米騒動の全国的概要を都道府県別に詳細を調べています。

ここには、第1巻の「はしがき」のはじまりを引用。

「1918(大正7)年の米騒動は、周知のようにわが国の
 歴史上最大の民衆蜂起であった。それは7月22日の
 富山県下新川郡魚津町の漁民の主婦たちの集会にはじまり、
 9月17日福岡県嘉穂郡明治炭坑の暴動で一応おさまるまで、
 すべての大都市、ほとんどすべての中都市、全国いたることろの
 農村、漁村、炭坑地帯など、1道3府38県、およそ500カ所以上に
 飢えた民衆の大小の暴動、あるいは暴動直前の不穏な状態として
 出現した。・・・・・・

 騒動の現象そのものは比較的単純であり、
 民衆は政治的要求を明確にすることも、ほとんどなかった。・・・・」


ネットで知った財務省前のデモも、最初の方では、
静かに集まって、各自が手製のプラカードを持っていたようでした。
それが、テレビに放映されるようになってから、騒々しさを増して
いるような気がしております(テレビの取り上げ方によるのか?)。

もどって、大正7年の米騒動に関連して、私の注意をひいたのは
この箇所でした。

「 佐渡の相川の明治維新前にもあった。
  『 安政元治の交(1854~64)米価暴騰のさい、
   窮民の婦女ら数十百人相集まり、人毎に椀一個を持ちて
   役所の前に集まり、組頭役の出庁を伺い、
   之を囲繞して無言にて椀をささげ飢餓の状を訴え・・・』(相川町史)」
                 ( 第1巻p106 )


これは、騒動の類型という項目にでてきております。
そのページをもう少し詳しく引用してゆきます。

「  騒動の目標という観点から、居住型の米騒動は、
   さらにいくつかの類型に分けられる。
   第一は、富山県下のそれや岡山県の津山町、林野町、
   広島県の三次町、和歌山県の湯浅町などのように、
   自町村の米を他へ移出することを禁止する要求が
   事件のきっかけとなっている場合である。・・・・

   そしてこの型では、移出反対と同時に、
   市町村当局や有力者に生活救済を嘆願するが、
   家屋や器物の破壊など暴動にはならない。

   富山県下の事件でも、この型の運動では、
   被検束者の釈放を要求して警察に押し寄せているが、
   暴動はおこっていない。また富山県下では、
   女の集団が椀をもって資産家の門前に立ちならび、
   救済要求の沈黙の示威をしている例もあるが、
   この形は同地方では、この年以前にも何回かおこなわれている。 」

こうして、佐渡の例を引用されておりました。

このあとに、第二の型が出てくるのでした。

「 第二の型は、米屋、米の貯蔵者等を主目標にし、
  安売りを強要し、相手がぐずぐずすれば、ただちにうちこわしをする。
  そうして一軒で打ちこわしをはじめると、その後の店では、
  しばしば安売り交渉も何もなしに、はじめから
  うちこわしになることがある。同時に米商以外の
  食糧品店、薪炭店等や高利貸、質屋、家主等をおそう。
  江戸時代町人の『うちこわし』とまったく同じである。
  ・・・六大都市をはじめ、都市の騒動はすべてこの類にぞくする・・」
                       ( 第1巻 p106 )

最後に、もう一度、相川町史の記述をもってくることに。

「 ・・婦女ら数十百人相集まり・・・
   囲繞して無言にて椀をささげ飢餓の状を訴え・・  」

財務省前のデモでは、放置すればするほど、初期の無言のデモから、
だんだんと第二の型へ移行してゆかないとも限らないわけなのです。

ちなみにですが、大正7年から5年後の大正12年は関東大震災でした。
 



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曽野さん、これからも

2025-03-14 | 古典
今日の産経新聞(2025年3月14日)のオピニオン欄。
桑原聡の連載「モンテーニュとの対話」198回に、
曽野綾子さんの写真が載っているので読んでみる。はじまりは

「 屋上屋を架すようだが、どうしても先日亡くなった
  曽野綾子さんのことを書いておきたい、そう思い
  『 心に迫るパウロの言葉 』(新潮文庫)を
  何度も立ち止まり、反芻しながら読み返した。

  ・・・・40年近くも前の文章にもかかわらず、
  鮮度はまったく落ちていない。・・・・ 」

この桑原氏の文の最後も引用しておくことに

「 ・・・これからも折に触れて
  『 心に迫るパウロの言葉 』を紐解くことになるはずだ。
  曽野さん、これからもよろしくお願いいたします。  」


はい。さっそく、その古本を注文する。
届くのは3月20日頃となっておりました。
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彼が「フン」と軽蔑した

2025-01-19 | 古典
山本七平著「精神と世間と虚偽」(さくら舎)を本棚から取りだす。
本の帯に、『 山本七平の血肉となる本の読み方! 』とある。

以前パラパラこの本をひらき、読みたい本があり。
そこに紹介されてる、辻善之助を読もうと思った。
しかも、思うだけで、終っていたことを思いだす。
もう一度、スタートラインに立つような気分です。

まずは、その本を紹介している9頁ほどの文から引用。

『 ・・・・それは辻善之助博士の「 日本文化史 」(全七巻)と
  「 日本文化史 別録 」(全四巻)である。
 
  もう十数年前のことと思うが、仲のよい、しかし相当に
  《 進歩的傾向 》があった友人に
  「 あの本は、おもしろくて便利な本だ 」と言ったところ、
  「 フン 」と少々軽蔑した面持ちで次のように言われた。

  「 あの人は歴史学者じゃないよ、一昔前の、カビの生えた学者、
   しかも史料学者にすぎない。史料学者なんで単なる
   ≪ 史料的もの知り ≫で、彼には学問としての歴史学がない 」

  とのことであった。だが、私にとって興味深かったのはむしろその点で、 
  すなわち彼が「 フン 」と軽蔑したその点であった。  』(p144)


このあとの、山本七平の論の運び方は面白いのでした。

『 「一昔前」とか「カビが生えた」とかいえばまさにその通りである。 』
という地点から、辻善之助の著作の魅力を紐解いております。

『 ・・・大正10年から今日までの変転、それはまことに
  誰も予測できないものであった。そして辻博士は、
  予測できないことは予測できないとしている。
  それが真に歴史を知る者の言葉であろう。
  「 資本主義は必然的に・・・ 」とか、
  「 西欧はすでに・・・ 」とか、
  「 必ずや日本は・・・ 」といった言葉は一切ない。 』(p146)


先を急いで、気になった箇所を引用しておくことに。

『 結局、歴史上の何かを記すということは、  
  現代人に理解しうるような形で
  『 史料選 』を提供することであり、
  それ以上のことはできないし、また、
  なすべきではないと思わざるを得なくなったという点で、
  この本は私に最も大きな影響を与えたといえる。

  その結果『 日本的革命の哲学 』であれ、
  『 勤勉の哲学 』であれ、また・・・
  『 現人神の創作者たち 』や『 洪中将の処刑 』であれ、
  今の読者に理解しやすいような形で
  『 史料 』を提供しただけなのである。

  辻博士の『 日本文化史 』はそのように
  人に考えさせる力を持つだけでなく、
  すべての人に、何かを触発させるものを持っている。

  これを通読して自分が興味を感じたところから史料に入っていき、
  その史料を基にしてまた別の史料に入っていくという方法もとれるし、
  またこれを通読して、大正時代には日本の歴史がこのように
  講じられたという点で、その時代を探求することもできる。
  また、漫然と通読しても、史料に裏づけられた
  日本文化史を知ることもできるのである。・・・・    』(p151)


はい。私といえば、この辻善之助博士の本を
腰を据えて読んでみたいと思ったことを思い出しました。
ただ、自分が腰を据えて読むことが出来ないタイプなのを忘れておりました。
すぐに興味はうすれ、腰も定まらず、ほかの本へと興味がうつっていました。

周回遅れでもいいから、もう一度このスタートラインへと立つように、
この9頁の文『 著者は語らず、史料をして語らしめよ 』をひらいています。
山本七平の本も読んでいない癖に、辻善之助の本を読めるのか心許ないけど、
まあいいや、周回遅れでもいいや、ここからはじめよう。そう思う一月です。
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宝の持腐れ。

2025-01-18 | 古典
読むのも何なので、本棚を整理していたら、こんなのが出てきました。
金子武雄著『 日本のことわざ 評釈(一) 』(大修館書店・昭和33年)。
はい。古本で安くて、それで触手が動き買ってあって、
そのままになっておりました。いつかは読もうと買った本です。

こういう時は、とりあえずパラリとひらいてみる。
パラリとひらくのも『 他生の縁 』。ということでひらく。

『 苦しい時の神だのみ 』が目に入りました。
ああいいなあ。そう思えたので、はじめから引用。

「 大体似た意で、次のようなさまざまな言い方もある。

     叶(かな)はぬ時の神だのみ
     術(じゅつ)ない時の神だのみ
     困った時の神だのみ
     せつない時の神だのみ (北条氏直時分諺留)
     悲しい時の神祈り (本朝二十四孝)
     叶はぬ時の神たたき (松の落葉)
     悲しい時の神たたき (金屋金五郎浮名額)
     せつない時の神たたき (根無草)   」


このように、いろいろな箇所からピックアップされた言葉が並びます。
(全部のことわざが、これほど同類をならべてあるわけではなかった)
さらに次をつづけてゆきます。

「  総括すれば、苦しい時、思うようにならない時、
   途方に暮れた時、困った時、せつない時、悲しい時、
   こんな時に神に救いを求める、というのである。

   『神たたき』は神の注意を呼び起してしきりに祈ることの意らしい。
   ・・・・・・
   ・・よほどの神の信仰者でない限り、ふつうの人は神を忘れている。
   あるいは神に祈りはしない。そう思う通りにならなくとも、
   どうというほどのことはないからである。

   ところがせっぱ詰って途方に暮れ、せつなく、悲しく、苦しい時、
   やっぱり神にとりすがろうとする。
   自分の力ではどうにもならないとさとるからである。
    ・・・・
   ・・ふだんほとんど神を忘れ、あるいは思わない者が、
   そんな時になって急に神だのみするのは、当人には
   なんだか照れくさく、はたからみるとおかしい。
   それでもやはり神にとりすがるのが人情の真実である。
   そこに人間の身勝手と弱点とが見られる。
   この諺はそうした事象を指摘しているのである。

     Some are atheists only ㏌ fair weather.
                 The river past, and God forgotten.

   西洋のこういう諺も、同じような事象を指摘している。
   『 ある人々は日和のよい時だけ無神論者である 』、
   『 川を渡り終わると神は忘れられる 』という意であろう。 」
                       ( p146~147 )


このように、同類の英語の格言がある場合には、
それを各諺の説明の中へ入れておられます。
はい。買っておいてよかった(笑)。
ちなみに、この本は、何回か文庫にもなっているようです。
はい。本棚の整理はしてみるものですね。
そのまま宝の持ち腐れとなるところでした。

はい。ここまで来たら『 宝の持腐(もちぐさ)れ 』も
知りたくなります。こちらは
『 日本のことわざ 続評釈(二) 』の方にでてきます。
こちらも、面白かったので最後に引用してみたくなりました。
うん。全文引用したいけれど、最後の箇所だけにします。

「 『宝の持腐れ』という事象が起きるのは、宝を持っている者が、
  それが宝であることを知らない場合もあり、
  宝を用いる能力を持たない場合もあり、
  宝を用いる機会を得ない場合もあり、
  宝を用いようとする意欲のない場合もあり、
  宝は用いなければ宝ではないことを知らない場合もあろう。
  これらの場合、これをわらって、この諺が用いられるのである。 」
                      ( p171 「続評釈」 )


この最初の本の方にある『 はしがき 』にある言葉も忘れがたい。
はい。そこも引用しておきます。

「 諺は、批評の文芸であり、そうして、
  日本文芸の起源から今日に至るまで、
  一つのジャンルとして、日本文芸の中に、
  かなり重要な位置を占めているものと思っている。
  本書においても、主としてそういう見地から扱ったつもりである。 」

なるほど、重要な位置の在りかを『 評釈 』として
丁寧に、ツボを押さえるようにして説明されています。
それで、読み甲斐の、手ごたえが感じられるのですね。
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飛びて空に昇り。

2024-12-25 | 古典
鶴見俊輔著「文章心得帖」(潮出版社)で文間文法を語っております。

「 一つの文と文との間をどういうふうにして飛ぶか、
  その筆勢は教えにくいもので、会得するほかはない。  」


さて、『飛ぶ』ということで、久米仙人の話が思い浮かびます。

『 今昔物語集 本朝部(上) 』(池上洵一編・岩波文庫)に、
「 第24 久米の仙人、始めて久米寺を造れる語(こと) 」がある。

はい。出だしだけでも引用しておきます。

「 今昔、大和国、吉野の郡(こおり)、竜門寺と云(いう)寺有り。
  寺に二の人籠り居り仙の法を行ひけり。
  其仙人の名をば、一人をあづみと云ふ、一人をば久米と云ふ。
  然るに、あづみは前に行ひ得て、既に仙に成て、飛て空に昇りけり。 」
                       ( p90~91 )

 このあとに、久米仙人が寺を造る話までが語られてゆくのでした。
 それはそうと、ここで、徒然草に登場していただきます。

「庄野潤三の本 山の上の家」(夏葉社)に岡崎武志の文があり、
そのはじまりを引用。

「 大阪出身の作家・藤沢桓夫(たけお)は、
  庄野潤三と親交があり、よき理解者であったが、
  その文学の特徴についてこう書いている。

 『 彼の作品を読みはじめると、自分の家の畳の上に
   やっと横になれたような、ふるさとの草っ原に
   仰向けにねて空の青さと再び対面したような、
   不思議な心の安らぎがみよがえって来る・・  』

 ・・先へ先へ急ぐ現代文学の中にあって、庄野潤三の作品は、まさしく
 藤沢が言うような『自分の家の畳の上』に寝転ぶ親しさと安らぎがある。
 『 徒然草 』が七百年を経て読み継がれているなら、私も本気で、
 庄野作品も五百年後、千年後に読まれているはずだと思っている。 」
                          ( p107 )

ここで、岡崎氏は『 徒然草 』を対比の形で出しております。たしかに、
『徒然草』は、短文と短文との章を、縦横に飛びかうようにして読める。
その徒然草の第八段に 『 久米の仙人 』が登場しております。
会得して空を飛べた久米仙人の直後のことが語られておりました。

うん。ここまで、ひっぱったので、庄野潤三の作品から脱線しますが、
徒然草を島内裕子訳で久米仙人の箇所を引用してみます。

「 世間の人々の心を惑わすものの中で、色欲くらい大きな存在はない。
  人間の心というものは、本当に愚かであることだ。

  ・・・・久米の仙人が、
  水辺で裾をたくし上げて洗濯する女の脛(すね)が色白なのを見て、
  神通力を失って空から落ちたという話がある。女の手足や肌などが
  つやつやして、ふくよかであるならば、その美しさも魅力も、
  持って生まれた生得のもので、薫物とは違って、
  取って付けたものではないから、
  仙人だって神通力を失うほどのことはあろう。   」
             ( p31~32 「徒然草」ちくま学芸文庫 )


はい。『徒然草』ではここまでしか書かれていないのですが、
『今昔物語』の方は、

 「 ・・久米心穢れて、其女の前に落ぬ。
    其後、其女を妻(め)として有り。 」

 とあり、久米寺を建立するまでが続けて記述されてゆくのでした。
 久米仙人に関しては、徒然草より今昔物語の方が、物語性があり、
 いろいろと考えさせられます。

 けれども、徒然草によって、久米仙人の話は歴史を通じて語り継がれ、
 徳川時代に、海北友雪筆になる「徒然草絵巻」にも描かれております。

 庄野潤三から、徒然草・今昔物語へと、
 古典の時空へ、下手なりの試し飛行でした。

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庄野潤三交友録

2024-12-13 | 古典
「夕べの雲」を読んでいる途中なのに、
庄野潤三著「文学交友録」(新潮文庫)を読み始めた。

年齢的には庄野氏が73歳。1994年に1年間連載したのがこの『交友録』。
私は、「明夫と良二」から読み始めたせいか、先生が歌うことや、
ロビンソン・クルーソーが、『文学交友録』のはじめに出てくる
のには、正直驚かされる。

ここは、順を追ってゆくと、 
『明夫と良二』のあとがきには、こうあったのでした。

「 『ロビンソン・クルーソー』のような話が書ければ、
  どんなにいいだろうと、思わないわけではありません。 」

交友録のはじまりに、
「私は大阪の住吉中学を卒業して昭和14年に
 大阪外国語学校英語部に入学した。・・・
 外語英語部で私が教わった吉本正秋先生と上田畊甫(こうほ)先生・・」

この先生のことから始められております。
吉本正秋先生の家は『 田圃の真中にあった 』という

『 矢田の駅を出て、人家のかたまっているところを通り抜けて、
  一本道をどこまでも歩いて行くと、先生の家が見えて来る。
  まわりは見わたす限り田圃(たんぼ)である・・・   』 (p18)

「 校友会の雑誌に吉本先生が随筆を書いているのを読んだことがある。
  ・・・
  駅からは遠い。雨が降れば歩くに難儀する。
  まわりに家は一軒も無い。そんな不便な、さびしいところに
  どうして長い年月、自分は住んでいるのか。
  そういうことを書いてあった。

  最後のところだけ、私は覚えている。
  自分はアレクサンダー・セルカークもどきに、
  『 見渡す限りは、わが領土なるぞ 』
  とうそぶいている、というのであった。・・・

  この随筆の結びのところも、その英詩らしい一句も
  はっきりと覚えているが、
 『 アレクサンダー・セルカーク 』がいったい何者であるのか、
  分からない。分からないままに年月がたった。

  戦後、私が家族を連れて会社の転勤で東京へ引越して
  大分たってからだが、・・英語の先生をしている友人の
  小沼丹(おぬまたん)に尋ねたら、アレクサンダー・セルカークとは
  『 ロビンソン漂流記 』のモデルになった人物だ、
  船乗りであったが、無人島に置き去りにされて、
  何年かひとりきりで暮したことがある。
  この経験を書いて本にした。デフォーはその本にヒントを得て
  『 ロビンソン漂流記 』を書いたと説明してくれた。・・・
  小沼丹のひとことで長年の謎がいっぺんに解けた。  」(~p24)

はい。こうして交友録がはじまっております。
パラパラ読みですがゆっくり読みだすと、この『交友録』と、
庄野潤三の作品とが、きっちりと木霊して消えてゆくような、
何だか奥行きのある琴線へと触れたような気になるのでした。



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書道の教訓書

2024-10-20 | 古典
桑田忠親著作集第1巻「戦国の時代」(秋田書店・昭和54年)
本文最後に、「武人の書風」(p336~344)があります。
そこから、印象深い箇所を引用。

「・・・・ここに紹介するのは、
 桃山時代初期の天正13年(1585)の正月29日付で、
 建部賢文(たけべかたぶん)という戦国末期に活躍した
 書道の大家が、5人の息子のために書き残した書道の秘伝書である。
 ただし、外題は『入木道教訓書』となっている。・・・ 」

はい。ここには、前書きと後書きとを引用しておきます。
前書きには、 

  『 筆道の事、若年より訓説をうけず、古法にもたがひ、流布。
   世間の嘲りを喫するといへども、愚息に対し、
   思趣のかたはし書きつくる条々 』

後書きには、

 『 賢文、十歳の此(ころ)より在寺せしめ、
  此の道に執心候といへども、
  師跡を請けず、愚才およびがたきにより、
  つひに道を得ることあたはず、すでに老年に及ぶ。

  しかはあれど、在世中巧夫(くふう)せしめ候趣、
  おもひすてがたく、自然、
  子共の中に執心する事あらば、披見せしめ、
  稽古すべきものなり 』

このあとにつづく、桑田忠親氏の文もすこし引用しておきます。

「これによると、建部賢文は、この書道の教訓書を
 その息子たちのために書き残し、その中で

『 斯道(しどう)に志ふかい者がいたならば、
  これに従って学ぶがよい 』といっている。

 賢文の子供は、・・五男のほかに一女があったというが、
 このうち、賢文の遺志を継いで、伝内流の書道を世に伝えたのは、
 三男の伝内昌興であった。
 この遺訓を賢文がしたためた時、昌興はまだ8歳の幼児であった。
 しかし、昌興は年少14歳で、すでに手鑑(てかがみ)を書き残し、
 豊臣秀吉に仕えて右筆となり、秀吉の朱印状にその得意の能筆を
 振るっているほどだから、8歳当時はやくもその天分が現れていた
 と思われる。それを父の賢文が認知し、おそらく昌興に将来に対する
 嘱望を託したのであろう。・・・  」


はい。肝心の書法の極意秘訣の箇条からも、
適宜引用しておわりといたします。

〇 筆もとはや過ぎ候へば、手跡おちつかず、筆力いづべからざる事

〇 真、草、行、仮字(かじ)にいたるまで、
  ほそく、たはれすぎ、艶なるは、みな、よわみたるべく候。
  弘法大師・尊円親王・定家卿の筆躰(ひつてい)、いかにも、
  たしかに見え候事 

〇 当座の消息は、手本書きに相違すべく候。
  すこし墨薄に、よく心を取り静め、
  字ごとに心を残し、一字一字に念をいれず、
  なだらかに、これをあるべきの事

〇 扁(へん)と作(つくり)と、気をかへず、
  おなじ心にかたらひ、字うつりへはやく心をつくべき事


注:毎日新聞社「書と人物」第3巻武人(昭和52年)のはじめに
  桑田忠親の『武人の書風』の文が載っており、
  そこには、小さいのですが「入木道教訓書」の
  巻頭と巻末の写真が載っております(p8~9)
 

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茶道史上の本能寺。

2024-10-06 | 古典
桑田忠親著作集全10巻を、『本能寺』という単語で辞書をひくように、
パラパラとめくっているとありました。「本能寺の変」。

桑田忠親著作集第一巻「戦国の時代」。そのp231~232。
桑田忠親著作集第四巻「織田信長」。そこのp115~121。

ここには、第四巻から引用してみたいと思います。

「・・・このように、信長は、単なる武将ではなくて、
 茶の湯ずきの趣味家でもあり、風雅の道に志がふかかった。
 武略にたけた強豪である反面に、かなりの数寄者でもあったのである。

 かれが、生涯の最後に、近習70人ばかりをつれて、
 西国出陣の途中、京都の本能寺に宿泊したのは、
 偶然の行動ではけっしてない。じつは、博多の
 数寄者島井宗叱(そうしつ)との先約をはたし、
 秘蔵の名物茶器を披露する茶会を、本能寺の書院で
 もよおすためだったのである。・・・」

このあとに、『仙茶集』にある『御茶湯道具目録』を紹介し、

「要するに、信長は、これだけ多くの名器を、安土から京都まではこばせ、
 かれ自身も、それを監視しながら、天正10年5月晦日、
 本能寺に到着したのであった。嫡男信忠のひきいる2000人の軍勢とは
 べつに、また馬廻の武士たちともはなれて、かれが、
 単独に行動したのは、このような事情があったからだ。

 月あけて、6月朔日、信長は、本能寺の書院で、それらの名器を
 披露する茶会をおこなったらしい。・・・・

  ・・・・・・・・・・・・・・
 さて、6月1日は、かくして暮れ、名物茶器披露の茶会のおわった
 翌2日の早暁、本能寺は突如として明智光秀の13000の大軍に包囲
 された。本能寺は兵火のために焼け落ち、38種の名器も、その
 秘蔵者織田信長と運命をともにしたのである。

 それは、天正17年の奥書のある『山上宗二記』にも、・・・
 ・・・信長の最期のとき、本能寺で火にいり、ほろびたことを
 注記しているから、たしかである。

 信長は、おそらく、西国出陣にさいし、京都で、
 名物びらきの茶会を盛大にもよおし、数寄者としての
 面目を、天下に誇示したかったのであろう。
 そうして、それが、はからずも、死の直前の饗宴とさえ
 なったのである。

 明智ほどの数寄者が、茶会の跡見を襲うことはあるまいと、
 あるいは、信じきっていたかもしれない。・・・   」

 はい。途中に『鳥井家由緒書』『宗湛由来書』『津田宗及茶湯日記』
 等からの引用があり、名器の名が並んでつらなっているのですが、
 当ブログではあまりにマニアックで煩雑になるので省略しました。
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講談の魅力と『プロジェクトX』

2024-04-14 | 古典
きさらさんから、コメントをいただき、あらためて
初回の新プロジェクトXを、取上げたくなりました。

新番組は東京スカイツリーから始まっていました。
思い浮かんだのは、幸田露伴著『五重塔』でした。

そういえばと『幸田露伴の世界』(思文閣出版・2009年)をひらくと、
すっかり忘れてたのですが、佐伯順子さんがとりあげておられました。
「 『五重塔』という『プロジェクトX』ー前進座『五重塔』と・・ 」
というのが題名です。

はい。今回はこの佐伯さんの文を紹介したくなりました。
ここで、はじまりに佐伯さんは目的を掲げておりました。

「 今回の考察の目的は、主に三つあります。
  一つめは、明治文学の昭和・平成期における受容、
  二つ目は、小説と舞台の比較、
  三つ目は、文学と社会との相関関係です。    」(p124) 

うん。端折っていきます。
はじめには今までの舞台公演の回数が一覧できるようになっていました。
つぎに、

「露伴の原作『五重塔』のプロットの特徴は・・・この物語は
 現代風にいえば、建築コンペの話という見方もできるかも 」(p127)

肝心な箇所はここかなあ。と思えるのを少し長く引用。

「・・・建築家の名前は残るけれど、
 現場で力仕事に携わる土木マンの固有名詞は普通残らない。
 ・・・そもそも、名を残したいという意識が希薄です。
 
 けれど、その≪ 無名 ≫の現場の人々にスポットをあて、
 固有名詞として物語化してメディアにのせたのが『 プロジェクトX 』であり、 
 それと共鳴する舞台『 五重塔 』は、いわば無名の土木マンの
 集合名詞のような形で十兵衛(露伴の五重塔の主人公)という
 キャラクターを突出させたといえないでしょうか。

『 社史や資料を見ても、事業の規模や開発のプロセスはわかっても、
  個人がどの場面に取り組んだとか、まして、
  ≪ どのような思いを抱いて取り組んだ ≫ 
  といった記録はほとんど残されてい 』ないので、

『 著名人が登場しない地味な番組 』でも、
『 一般人が歩いた軌跡を追う 』ことを意図したという
『 プロジェクトX 』は、
 高度成長期を支えた多くの≪ 十兵衛たち ≫に光をあてたのです。

 この舞台が『全国の建築関係者』に
 共感されるのも自然ななりゆきかと思われます。 」(p152~153)

はい。ひきつづき引用をしておきます。

「 一時期、教科書にも採用されていた露伴の『五重塔』は、
  明治の文明開化期以降の日本の近代化、さらには、
  戦後の日本社会の成長の原動力となったメンタリティを体現しており、

  それゆえに、名作として評価され、舞台化でも好評を博して
  現在にいたっています。

  私自身、日本文学の講師として勤めた最初の職場で、
  一回生向けの基礎ゼミで『五重塔』を講読し、
  その流れるような文体の妙に魅せられました。

  また、私利私欲をのり越えて同じ仕事をまっとうしようとする源太や、
  職人肌の十兵衛の人物造型も巧みで、名作であるには違いないと思います。
  特に暴風雨の場面は、講読すると圧倒的なリズム感でとても感動的です。

  『プロジェクトX』の、田口トモロオさんのナレーションや
  中島みゆきのテーマ音楽が人気になりましたが、形式は違えど、
  耳に訴える感動話という意味では、現代の講談ともいえます。

  特に前進座の舞台は、原作中の登場人物の格差や
  ジェンダー・ステレオタイプを視聴覚的な形で
  より印象づけ、感動的なアーキタイプに近づけて、
 『 五重塔 』の名作としての普及に貢献したといえます。

  アーキタイプの造型は舞台という芸術形式自体の傾向でもありますが、
  幅広い層に≪ 名作 ≫として支持されるに欠かせない条件ともいえます。
  ・・・・・・・・・      」  ( ~p153)





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職人の古典落語。

2023-11-27 | 古典
『職人』について、どんな本を読んだらよいか?
そういえば、と思い浮かんだのは、
臼井史朗著「疾風時代の編集者日記」(淡交社・2002年)
のこの箇所でした(日記から人物を抜き出して構成された一冊)。

「 昭和41年10月30日
  久しぶりのいい日曜日、書斎にこもって仕事をする。
  何もしないで時間をついやすことはいいことだ。

  吉田光邦氏『日本の職人像』は非常に面白い力作だと思った。

  平安から現代までいわゆる職人というものが
  どのような歩みを続けて来たか、
  時代の移りかわりの中にあってどのような社会的位置にあって
  それぞれの職人気質を形成して来たかを面白く系統的に書いている。
  名著だと思った。・・・ 」(p87)


はい。今朝になって『日本の古本屋』へとネット注文することに。
とりあえず吉田光邦著「日本の職人」(角川選書)が手許にある。
そこから、それらしい、面白そうな箇所を引用。

「 さて彼ら職人といえば、それは威勢がよく、
  気っぷもよく、宵越しの金は使わねえなどと
  巻舌でまくしたてるいきな兄(あん)ちゃんで、
  また一面には職人気質というようにこり性で、
  シニカルで意地っぱりな者と、今日では相場がきまっているようだ。

  だがほんとうに江戸時代の職人はそんなに元気なものだったろうか。
  成程地方の村や小さな町に渡ってくる職人は、明るい元気な楽天的
  な者だったらしい。しかし大都会の職人は、どれも貧しいちいさな
  九尺二間の長屋住居の者ばかりだった。

 『宵越しの金はもたねえ』というのも一日一人扶持の、
  その日暮しの貧しさを表現することばであった。
  職人は貧しいままに社会の下積みの存在であった。

 『 何事もワザを好くいたしたく候はば、
   心のむさきことなきように是第一なり。
 
   細工人は一生貧なるものと心得、
   つねに心のよごれぬようにいたしたく候 』

  と金工土屋東雨は語っている。
  一生貧なるものと心得ねばならぬのが職人であった。
  ・・・・                       」(p275)

「 ・・・・人気をあつめ同情をあつめる主人公となるのは、
  まず商に属する類の人たちであった。

  そこで職人たちはせいぜい落語、軽口のテーマ
  となるより仕方がなかった。

  天明のころの名高い落語家江戸の烏亭焉馬
  (うていえんば)はもともと大工だったし、
  三笑亭可楽は櫛工という風であったほどで、

  長屋住いの庶民の娯楽はそうした同じ類の
  人々からつくり出されたのである。

  そこで落語の主人公はことごとく、いわゆる
  九尺二間の裏長屋の住人であり、その家主で
  ありその地の地主たちということになった。  」(p276)


はい。これがさわりの箇所となります。
古本が届くのが待ち遠しくなりました。

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徒然草の第141段。

2023-10-27 | 古典
西尾実著「つれづれ草文学の世界」(法政大学出版局・1964年)。
この注文してあった古本が届く。
雑誌や論文集に発表された22篇をまとめた一冊でした。
はじまりが昭和2年の文ですが、最初から読む気にならなくて、
まず開いたのは、戦後はじめての論文
「ひとつの中世的人間像」(昭和25年2月号「文学」)でした。

そのはじまりはというと、

「『つれづれ草』が、中世文学の一作品としてすぐれているひとつは、
 著者の人間把握の確かさに応じて、史上の、また、同時代の、
 さまざまな人間を把え、みごとな造型をしていることである。・・」(p109)

はい。この文でとりあげてるのは、堯蓮上人(第141段)でした。
うん。端折って引用してゆきます。

「堯蓮上人の印象について、『声うちゆがみ、あらあらしくて』
 とあるのを見ると、いかにも、坂東武者らしい風貌が髣髴される。」

うん。この第141段を紹介するのには、
安良岡康作著「徒然草全注釈下巻」(角川書店)から引用してみます。

「本段の前半は、上人の郷里の人が、

 『吾妻(あづま)人こそ、言ひつる事は頼まるれ、
  都の人は、ことうけのみよくて、実なし』

 と言ったのに対する、上人の吾妻人と都の人との比較論であるが、

 まず『 それはさこそおぼすらめども 』と一応相手の言を認めた上で、
 『己れは都に久しく住みて、馴れて見侍るに』と、
 自己の長い間の経験と観察とに立脚し、
 『人の心劣れりとは思ひ侍らず』と、都の人を認め、その理由として、
 『なべて心柔かに、情ある故に、人のいふほどの事、
  けやけく否び難くて、万え言ひ放たず、心弱くことうけしつ』と述べて、

 都の人の心情の柔和さ・人情ぶかさを第一に指摘している。次には、
 『偽りせんとは思はねど、乏しく、叶わぬ人のみあれば、
  おのづから、本意通らぬ事多かるべし』と述べ、
 経済力の伴わないことが、約束を守りぬけない因由であることを指摘し、
 内・外から都の人の立場を理解し、弁護しているのである。
 ・・・  」

 このあとに、兼好の感想が述べられてゆくのですが、
 長くなるのでカットして、
 西尾実氏の文の重要な箇所の引用をすることに。

「古代から中世へと時代を転換させたのは、
 主として庶民的な、また、地方的なエネルギーであったに違いないが、
 その庶民や地方の社会的、文化的未成熟は、自主的な庶民社会を実現
 することもできなければ、健康な地方的文化を発展させることもできなかった。
 ・・・・・・

 だが、そういう中世文化は、
 基本的にいうと、ふたつの構造を示している。

 ひとつは、『つれづれ草』のこの人間像が示しているように、
 地方的、庶民的なものと、都市的、貴族的なものとの緊張した対立が
 生んだ止揚的発展であり、

 ひとつは、・・『義経記』や『曽我物語』における牛若丸や曽我兄弟が 
 貴族の公達化し、さらに、遊治郎化してさえいることの上に看取せられる
 ような、庶民的、地方的なものの貴族的、都市的なものへの
 安易な妥協であり、安価な屈伏である・・・・

 そのそれぞれの関係には、
 緊張した対立の止揚発展による新しい価値の創造もあれば、また、
 安易な妥協による成り上がり・頽廃もあるということになる。・・」(p114)

 こうして、西尾実氏が書かれた徒然草のことを思っていると、
 昭和25年の戦後統治下のことがダブって思い浮かぶのでした。

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徒然草の第39段

2023-10-21 | 古典
徒然草は、ちくま学芸文庫の島内裕子訳・校訂「徒然草」(2010年)を
パラパラと現代語訳を通読したくらいのものでした。
それもすっかり忘れてしまっていて、
どなたかが、徒然草の一節を引用してくださっていたりすると、
あれ、そんなのあったけかなあ、ともう一度めくりなおしてみたりします。

それでも、何だか気になっているせいか、本の題名に徒然草とあると、
それが古本でしたら、つい買ってしまうことがあります。
最近は、生形貴重著「利休の逸話と徒然草」(河原書店・平成13年)
というのがあり、買いました。はい。読みましたと言わないのがミソ。

親鸞の「歎異抄」がらみで、読み直した徒然草の第39段が、
にわかに興味をひき、あらためてそこだけに注目してみたら、

島内裕子著「兼好 露もわが身も置きどころなし」(ミネルヴァ書房・2005年)
が興味をひきました。
島内さんは、その前の第38段からのつながりを重視しております。
ここには、島内さんが説明している第38段を紹介することに。

「第38段には、兼好の精神の危機がはっきりと表れている。
 ・・・書物からの知識の限界性が露呈し、人生いかに生きるべきか
 がわからなくなってしまった八方ふさがりの状況に彼は立たされて
 いるのである。」

このあとに、島内さんはこう指摘されておりました。

「徒然草の冒頭部から窺われる兼好は、
 この世の理想と現実の越えがたいギャップに悩み、
 自分自身の置かれた貴族社会での位置付けに息苦しさを感じる
 一人の孤独な青年である。その苦悩が書物の中に理想を見出し、
 すぐれた表現力を獲得させるという成果を兼好にもたらした。

 ところがその成果が、今度は限りなく彼の精神の呪縛となってくるのである。
 そのことに、まだ本人は気づいていない。
 その顚倒したありさまを描き出しているのが、第38段である。」(p192)

うん。もうすこし、島内さんの語る第38段を聞いていたくなります。

「第38段は一読すると格調高い文体なので、自信をもって兼好が
 世俗の人々に教訓を垂れているような印象を受けるかも知れない。

 だがこれを書いた時の兼好は、そのような余裕のある精神状況ではない。
 それどころか、いったい何を人生の目標とすべきかわからなくなって、 
『 精神の袋小路 』に陥っているのだ。

 世間の人々が現実社会の中で求める目標や価値観は、
 兼好が身に付けている広く深い知識と教養によって、
 やすやすと否定されてしまう。しかしすべてを否定し去った後に、

 兼好が踏み出すべき第一歩は、いったいどこに存在するのか。
 しかも『 伝へて聞き、学びて知るのは、まことの智にあらず 』
 とはっきり書いているにもかかわらず、
 ここで兼好が世間の価値観を否定する根拠とした言葉は、
 すべて兼好が文字通り『伝へて聞き、学びて知』った言葉や思想ではないか。
 これが矛盾でなくて何であろう。・・・・

 兼好が身に付けてきた書物からの知識と教養は、
 遂にこのような荒涼たる精神の荒野に彼を連れてきてしまった。・・

 徒然草をここで擱筆(かくひつ)してもおかしくないほど、
 兼好は断崖絶壁に立たされている。 」(p196~197)

この後に法然上人が登場する第39段がひかえておりました。
島内さんはつづけます。

「結果的には、ここで徒然草が中断することはなかった。
 徒然草は荒野ではなく、その後の日本文学の肥沃な土壌として、
 生き生きと蘇った。
 
 第39段以後の徒然草が書かれたことによって、
 どれほど豊饒な文学風景が私たちの目の前に広がったことだろう。」(~p198)

はい。その蘇りの地点に、法然の登場する第39段が位置していたのでした。

島内さんは、第38段をこうして説明したあとに、
その割には、サラリと第39段を通り過ぎてゆきます。

はい。次回は、別の方の説明を聞くことにします。

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76歳の、親鸞と増谷文雄。

2023-10-16 | 古典
筑摩書房の「日本の思想3 親鸞集」を編集した
増谷文雄氏のことが気になる。
はい。親鸞集は読み進めていない癖して、脱線します。

増谷 文雄 (ますたに ふみお、 1902年 2月16日 - 1987年 12月6日)。

「増谷文雄著作集11」(角川書店・昭和57年)のはじまりは
「道元を見詰めて」でした。そのはじめのページを引用。

「わたしは浄土宗の寺に生まれたものであるから、
 従来の宗見にしたがっていうなれば、道元禅師、
 もしくはその流れを汲む曹洞宗門にたいしては、
 あきらかに門外の漢である。

 だが、門外にありながらも、
 わたしはたえず道元禅師を見詰めてきた。・・・

 いったい、わが国の生んだすぐれた仏教者たちのなかにあって、
 今日すでに宗門の枠をとおく越えて、その徳を慕い、あるいは、
 その思想と実践を研究するということのおこなわれている仏教者
 としては、親鸞聖人と、そして道元禅師とをあげることができる。
 ・・・・   」(p11)

はい。このようにはじまっておりました。
私は講談社学術文庫の増谷文雄全訳注「正法眼蔵」全八巻を
持っているのですが、いまだ数冊をパラパラめくりの初心者。

増谷氏は、親鸞が「浄土和讃」と「浄土高僧和讃」とを
成立させたのが76歳の春のことと指摘されておりました。

そういえばと、講談社学術文庫の「正法眼蔵(一)」の
はじまりには、増谷松樹の「刊行に当たって」という文。
そのはじまりを引用することに。

「四半世紀ほど前のことである。
 父、増谷文雄が、カナダに住んでいる私を、はるばる訪ねてきた。

 私は驚いた。父の生活の中心は著述で、仕事に行く以外には、
 机の前に正座して原稿を書いているもの。そして
 それは絶対に犯しがたいもの、と思っていたからである。

 その時、父は76歳、畢生の力をふりしぼった
 『 正法眼蔵 』を完成したところであった。

 父は原始仏教と日本仏教の双方を研究しており、
 多くの解説書や研究書があるが、最後の仕事は現代語訳であった。

 仏教を現代人のものとすることを、課題としたからである。・・・ 」


なんてこった。そういう方がおられるのに、その方の本を持っているのに、
ちっともはかどらず、読み進めていない私がこうして、ここにおります。
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かたければ。なおかたし。

2023-10-14 | 古典
親鸞の「浄土和讃」の19には、こうありました。( p106 )
 左は親鸞の「浄土和讃」で、右が増谷氏の現代語訳です。

     親鸞              現代語訳(増谷文雄)

  善知識にあふことも          よき師にあうはかたきかな
  をしふることもまたかたし       おしえることもかたきかな
  よくきくこともかたければ       よく聞くこともかたければ
  行(ぎょう)ずることもなほかたし   念仏するはなおかたし


編集増谷文雄の 「日本の思想3 親鸞集」(筑摩書房・1968年)
の最初には、増谷氏による「解説 親鸞の思想」が載っております。
そのp3~p7までを読んでいると、私は、もうこれで満腹の気分になります。
うん。その満腹感の正体を味わいたいと思い、引用してみます。

「この『親鸞集』のなかでその全訳をこころみておいた『三帖和讃』
 すなわち、『浄土和讃』『浄土高僧和讃』・・『正像末法和讃』の
 三部作に着手したのも、関東での伝道をおえて、京都に帰ってから
 十年も経ってからのこと。もっと正確にいえば、

 『浄土和讃』と『浄土高僧和讃』が成立したのは、その76歳の春のこと。
 『正像末法和讃』をしたためおわったのは、もう86歳の秋のおわり・・。」
                             ( p3 )

親鸞は「90歳という稀なる長寿を享(う)けた人であった。」(p7)
歎異抄はというと、「その時、その人は、
 すでに83歳もしくは4歳の老いたる親鸞であった筈である。」(p6)

「たとえば、わたし(増谷文雄)は『歎異抄』の第二段がすきであって、
 親鸞の人となりを思うときには、よくその叙述を思いうかべる。 」(p5)

「『 おのおの方が、はるばる十余ヵ国の境をこえ、
   身命をかえりみずして、訪ねてこられた志は、
   ただひとつ往生極楽の道を質(ただ)し聞こうがためである。

   だが、もし、わたしが、念仏のほかに、
   往生の道をも存じていよう、また、
   経のことばなども知っていようと、
   いかにも奥ゆかしげに思っていられるのなら、
   それは大きなあやまりである。』 (現代語訳)

 ・・・・・ その詰めよる人々をまえにして、親鸞のいったことは・・

 『 わたくし親鸞においては、
   ただ念仏を申して弥陀にたすけていただくがよいと、
   
   よきひと(法然)のおおせをいただいて信ずるだけであって、
   そのほかにはなんのいわれもない 』

 ・・・もしも、そのほかに、いろいろの理屈や経のことば
 などが知りたいというのなら、

 『 奈良や比叡にはご立派な学者がたくさんおられるから、
   あの人たちに会われて、往生のかなめをよくよく聞かれるがよい 』
   ということであった。   」( p5 )


はい。ここまで引用したのですから、これでいいのでしょうが、
ここまで引用したのですから、もうちょっとつづけておきます。

「 そこで、彼らは、たがいに顔を見合わせながら、
 『 では、念仏だけできっと浄土に生れることができるのですねえ 』
  と念をおしたにちがいない。

  その時、親鸞が、いささかキッとした面持ちでいったことばは、
  こうであった。

 『 念仏は、ほんとうに浄土に生れるたねであろうやら、
   それとも、地獄におちる業(ごう)であろうやら、
   わたしはまったく知らないのである。

   たとい法然聖人にだまされて、念仏を申して
   地獄におちたからとて、けっして後悔するところはない。

   というのは、ほかの修行にでもはげんで、仏になれるというものが、
   念仏を申して地獄におちたのなら、だまされたという後悔もあろうが、

   なにひとつ修行もできぬこの身のことだから、
   どうせ、地獄ゆきにきまっているではないか 』(現代語訳)

 そこに読みとられるものは、
 印象の鮮明のかぎりをつくした念仏者、親鸞の人間像である・・・ 」
                      ( p5 ~ p6 )
  






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