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和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

神と、野球のアンパイヤ

2025-04-20 | 重ね読み
ちょうど、曽野綾子著「心に迫るパウロの言葉」(海竜社)と
蓮井秀義著「シベリヤの月 わが捕虜記」(かもがわ出版)と
同時に読んでいたせいか。2冊をむすびつけたくなります。

「・・・神が見えもせず、沈黙している、というところにこそ、
 初めて人間が見えざるものへの忠誠を尽くす、
 という信仰の証しがなり立つのであって、

 神が野球のアンパイヤのように、即刻、
 私たちの行為がストライクかボールか、判断する、
 ということになったら、人間は
 神のご機嫌をとるためだけに行動するようになる。  」
            ( p33 「心に迫るパウロの言葉」 )

蓮井秀義氏は、シベリヤ抑留のあとに、移動し、
「ナホトカの引揚者ラーゲルに入る。」という場面があるのでした。

「ナホトカには大きな収容所が二か所あった。
 先ず第一収容所に入って引き揚げの訓練を受け、
 引揚船に乗る直前に第二収容所に入るとのことであった。」(p142~)

このあとに、続く蓮井さんの短歌を並べてみます。

      入党誓約者

  一日も早くと帰国思う身に
            入党せずば帰さずと言う

  入党の誓約書かく
       帰りたいただ帰りたい心ひとつに


    「 日本新聞 」

  日本はあらゆるものが悪くして
       この国(ソ連)のものはすべてよろしと

  この国の捕虜になったを感謝して決議文だす日本の捕虜は

  人間はかよわきものよ捕(つか)まった捕虜は
                捕(とら)えた国を讃える

     つるし上げ

  いけにえを壇上に上げまわりから嵐の如く罵声あびせる

  一番の言いたいことは言えぬなりつるし上げする人中に潜めり

  土下座して両手を合わせて帰してと大の男の泣き叫ぶ声


      二度目の帰還命令

  待ちに待った帰還命令来(きた)れども
                 残る少しの人に我なる

  ナホトカに行くは帰ると決まりたるものにあらねば我は急がず


終りに、再度「心に迫るパウロの言葉」から引用することに。

「・・人々から一せいに糾弾されようとも、
 神に対して全く無罪だということもある。

 この二重性が・・・もしこれが一重になると、
 私は真理にではなく、世論に阿(おもね)り、
 世間を納得させることに全力をあげねばならなくなる。・・  」(p41)


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見出し・小見出し・歌壇俳壇。

2025-03-02 | 重ね読み
読売の古新聞が3年分たまっていたのが、
束ねて、今度の回収に出すことに。

月一回の『磯田道史の古今をちこち』も切り取ってあります。
この磯田氏の連載は、途中挿絵の描き手が亡くなってしまい、
現在は磯田氏本人が描いておられて、以前の挿画が素晴らしかったせいか、
何とも物足りないのでした。
挿画といえば、司馬遼太郎「街道をゆく」での連載での、
須田剋太氏が思い浮びます。

読売新聞の読書欄(日曜日)も、読売歌壇俳壇(月曜日)とともに、
ちゃんとページごときりとっておいたのですが、この頃書評欄は
見ないからなあ。でも3年分で一冊の本とめぐり合えたらそれでOK。

読書欄といえば、月刊雑誌連載の蒟蒻問答で、
堤堯氏が語っておりました。

堤】 ナベツネが読売新聞の社長になった時に俺は
  「文芸春秋」の編集長で、「いろいろ知恵を貸してくれ」と
  言われて一席設けられたことがある。・・・・

ここで、全五段の広告の値段が、朝日新聞の方が高いことに、
腹を立てており『何とかならないか』と言われて

   対して、俺はこう答えた。
  「 それはクレディビリティ(信頼性)の問題ですよ 」
  「 どうやったら高められる? 」
  「 手っ取り早いのは読書欄の拡充です。
    これを拡充すれば、新聞の格が上がる 」
   そうしたらほどなく、1ページだった読書欄が2ページに増えた。
   彼って素直なところもあったね。
   その頃に来たナベツネの年賀状は、
  「 YとBでAをやっつけましょう 」 と書いてあったよ。
   Yは読売、Bは文春、Aは朝日だ。
            ( P121 月刊Hanada令和7年3月号 )

 今回の読売新聞切り抜きでは
 関谷直也氏の「 災害記憶防災に 忘却前提に伝え継ぐ 」
 という文化欄のインタビュー記事が読めてよかった(2024年2月1日)

 そうそう、2023年9月27日の特別面には
『 横尾忠則 寒山百得展 開催中 』というのがありました。
 そのはじまりを紹介しておくことに

「  寒山と拾得は、世間の規範にとらわれない
   『 風狂 』の象徴として伝統的な画題となっている。
   日本でも鎌倉時代から描かれている。
   横尾さんは、2019年からこの詩僧を描くようになった。
   本展のための制作は
   『 寒山拾得の「拾(十)」を「百」にしてみよう 』
   という思いつきから始まった。
   1年5か月間の早さで100点を完成させ・・・
   『 アーティストではなく、アスリートになったようだった 』
   と語る。 ・・・・・・    」


何だか面白そうで、古本で「寒山百得展」カタログを注文しました(笑)。

あと、気になったのが2024年9月29日「本よみうり堂」でした。
「ネットと書評の現在」とあり、書評サイト「HONZ」が13年間の
運営を終えたことを紹介しておりました。
はい。私はHONZのことを知りませんでした。
それはそうと、ネット書評の経験について、こんな箇所がありました。

「 見出しから計算し、最初の1段落目から2段落目で
  読者の心をつかまないと、読むのをやめられる。
  何を紹介し、どこで止めるかといったことも考えます 」


はい。読売の古新聞を3年分とりあえず、ひらきましたが、
どうしたかって、めくりながら見出しと写真とを見るだけ
( 朝日新聞のように、見出しを誤魔化すのはいけません )。

見出しといえば、鷲尾賢也「編集とはどのような仕事なのか」に
小見出しへの言及があったことを思い出しました。

「 ひとつには眼の休息をとり、読みやすい印象をつくるためである。
  ・・・・・
  小見出しはそういった装飾的側面だけではない。
  人間の思考能力は高いものがあるが、じつは
  二、三ページ以上、誌面を眺めつづけていると、
  誰しもが少し飽きてしまうところがある。
  書く方も同様である。せいぜい
  四、五枚(400字詰め)ほどで、ひとまとまりのはなしになる。
  それを越すと、またべつの素材が必要になってくるのではないか。
   ・・・・
  読み手、書き手の意向が合致して、
  書き手は思考が転換するところ、
  読み手は少し眼が疲れ、読むのに飽きる地点に区切りをいれる。
  これが小見出しということになる。・・・・  」
  ( P129「編集とはどのような仕事なのか」トランスビュー・2004年)

はい。ちなみに、鷲尾賢也氏は、小高賢の名で歌集も出されておりました。
ということで、見出しから小見出し、そして歌壇俳壇へとつながるようで、
古新聞の整理も無駄ではありませんでした。

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小沼は私にとって

2025-01-14 | 重ね読み
だいぶ昔に、購入した小沼丹著「珈琲挽き」(みすず書房)が本棚にある。
はい。新刊の際に買いました。凾入り定価4120円。1994年1月発行とある。
よっぽど書評がよかったのでしょう、私ですから、つられ注文したのかと。
つまりは30年前に手元にあり、興味がわかずに本棚で埃をかぶってました。

最近、古本で小沼丹著「清水町先生 井伏鱒二氏のこと」(筑摩書房)を
古本購入200円。凾入り帯つき。中身はとてもきれいです。ひょっとして、
私みたいな横着者が買い、古本屋へと到着したのかと思ってみたりします。

庄野潤三をひらいていると、
小沼丹という名が登場する。

『明治学院の生徒のころから井伏さんに師事していた小沼丹をとり上げたい。
 小沼とは井伏さんを通して親しくなった。井伏さんのところへ最初に
 小沼が連れて行ってくれた。・・・・・

 井伏さんのお伴をするばかりでない。小沼と二人でよく飲みに行った。
 しばらく会わないと、電話をかけて、新宿西口のデパートの前あたりで
 落ち合う。デパートの地階のビアホールで海老の串焼きなんかとって
 ジョッキを傾ける。
 私の『 秋風と二人の男 』は、ジョッキを前にして
 とりとめのない話をする友人を描いた短篇だが、
 この『 二人の男 』とはすなわち小沼丹と私である。・・ 」
     ( p241 庄野潤三著「野菜讃歌」の中の「私の履歴書」から)

はい。こんな引用はどうでもいいようなことなのですが、
もうすぐ、私は庄野潤三を読むのを忘れて違う本を読み始める
( はい。すくなくとも、私の経験ではいつもそうなる )。
そうすると、すっかり、小沼丹と庄野潤三の関係が、
どのようであったのか、漠然として思い浮かばなくなる。
そういう際の道案内のつもりでここに書いております。

つづけてゆくと、岡崎武志さんの文の中にも、こんなのがある。

「・・・小沼丹がいる。庄野文学のもっともよき理解者の一人で、
 講談社文庫版『 夕べの雲 』の解説は情理兼ね備えた名文である。 
 庄野文学への入口として、私などはこれにもっとも強い影響を受けた。 」
      ( p116 「 庄野潤三の本 山の上の家 」夏葉社より )

ちなみに、講談社文庫の『夕べの雲』の小沼丹の解説は、
のちに、講談社文芸文庫の『夕べの雲』になると、はぶかれておりました。

そうそう。みすず書房の「大人の本棚」に入った一冊。
「小沼丹 小さな手袋/珈琲挽き」は、庄野潤三編となっております。
こちらの最後に庄野潤三が『なつかしい思い出』を書いております。
そこから、一ヶ所引用。

「 小沼は私にとって風雅の友であった。
  しばらくご無沙汰したので、庭の鉄線の花(青)が咲いたとか、
  侘助が咲いたとか、そういうことを葉書に書いて出す。
  こういう何でもない庭先の様子を書いて
  知らせたくなる友というのは、ほかにいなかった。 」(p261)

ちなみに、『大人の本棚』のこの小沼丹の本を目次をひらくと、
『 庄野のこと 』というのがあって、この一冊の中で読める、
庄野潤三と小沼丹の文とを交互に開けば、しばし時を忘れます。


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こんな会話をして

2025-01-13 | 重ね読み
庄野潤三著「ザボンの花」の、第12章は「アフリカ」。
ここに、主人公の子供の頃の写真が2枚でてくる。
長男と長女とが気に入っている
『 父のアルバムの最初の頁に貼ってある二枚の写真 』
1枚は
『 4つか5つの頃の写真で・・大きな口をあけて泣いているところ 』
『 正三やなつめがそれを見て大よろこびするのも無理ないくらい、
  見事な泣きっ面である。その次に、
  もっと子供たちが面白がる写真がある。 』

ということで、2枚目は
『 それは、棒をもった12人の主人公がならんでいる写真だ。・・
  小学五年の時の七夕まつりで、矢牧のクラスから12人の生徒が選ばれて、
  ニュージーランドの土人の踊りをやった。
  半ずぼんの上から棕櫚(しゅろ)の葉っぱをつけ、
  上半身はむろん裸、頭にはプラタナスの葉っぱをつけている。・・  』

この場面を読むと、あれっ、と思い浮かぶ本がある。
夏葉社の『 庄野潤三の本 山の上の家 』(2018年)。
そこに載っている写真は、3人の小さな子供たちが印象深いのですが、
それにまじって、庄野潤三自身の
『 昭和7年ごろ 帝塚山学院小学部の学芸会でのニュージーランドの踊り 』
という1枚があって、小説のこの箇所は本物だったことがわかるのでした。

さてっと、このあとに、土人つながりなのか、
夫婦二人してアフリカへ船旅をする夢を語る場面があります。
最初に読んだ時、なんだか、この第12章は夢物語の章なのかと、
ちょっと、他の章との違和感を感じました。
けれども、しばらくすると、生活実感があふれた家族の生活が
連綿と綴られているなかで、この箇所が出て来ることで、
夫婦の現実と夢とが入り混じるような章となっているのに気づくのでした。
そして章の終りはというと、
『 千枝は何を考えているのか、ぼんやりしていた。
  二人で行けるはずのないアフリカ旅行について
  こんな会話をしている時、隣りの部屋では子供たちは、
  蚊帳の中で入りみだれて眠っていた。入りみだれて?
  そうだ。四郎のふとんになつめが、なつめのふとんに正三が、
  そして正三のふとんには四郎が眠っていた。
  ・・・・矢牧は次の日の昼、会社で蕎麦を食べていた時に・・・ 』

さらに、この小説に驚かされることは、
庄野潤三年譜をひらくと、わかるのでした。

昭和30年(1955)34歳 ・・・4月
     『 バングローバーの旅 』を『文芸』に発表。
     『 ザボンの花 』を「日本経済新聞」夕刊に連載(152回完結)。

その2年後の
昭和32年 36歳 ・・・ロックフェラー財団の招きにより
        米国に留学することになり、8月26日、妻千寿子と
        ともにクリーブランド号で横浜港を出帆。・・・・・
        留守宅には、妻の母が来て、3人の子供の世話をみてくれた。


いったい何だい。この小説は。と、つい口に出してしまいそうになる。

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二が書け、三が書けて。

2024-12-24 | 重ね読み
庄野潤三全集の各巻の最後に阪田寛夫氏が
『 庄野潤三ノート 』を書いております。

庄野潤三の『静物』は、読んだことがないのですが、
私は読まい前に、『 静物 』を語りたくなりました。

庄野潤三著『 文学交友録 』(新潮文庫)の
佐藤春夫の章に、それはありました。
それは昭和34年。雑誌に一挙掲載の長い小説を書く約束をして、
『 なかなか書くことが決まらなくて難渋した 』(p186)状態が
半年以上続いたことに関しての記述に、佐藤春夫氏が出て来るのでした。
ある出版を祝う会に出席した庄野潤三は、佐藤春夫から声をかけられます。

「 この会で佐藤先生は私を見つけると、
  『 どうしているのか? 』と訊かれた。・・・・

  私が自分の現在の状態を報告すると、
  『 なぜ書けないのか 』と問いつめられた。
  私はどう答えたのだろう。
  書きたいことはあるんです。
  ただ、それがみな断片で、どういうふうに
  つなげてゆけばいいか分からなくて、書けないんです
  というふうにいったような気がする。
  佐藤先生は聞き終わると、

 『 そうか。それなら、
  書きたいことを先ず一、と書いてみるんだね。
  次に二、としてもう一つ書く。とにかく、書いてみるんだね。

  それからあとは、三、として次のを書く。
  四、として次のを書く。そこまで書いて、
  もし三と四を入れ替えた方がよくなると気が附けば、
  順序を入れ替えてもよし。そうやって、
  胸のなかに溜まっているものを断片のままでいいから、
  全部書いてしまうんだね 』

  そういうふうに話された。佐藤先生は、
  考え込んでいては駄目だ、ともかく書き出せ、
  といっておられるのである。それが私に分った。  
  私は『 有難うございます 』といって、
  お辞儀をして引き下った。・・・・・

  私は、実際、佐藤先生にいわれた通りに、
  先ず一、として、子供にせがまれて一緒に
  近くの釣堀へ出かける話から書いたのであった。
  そうしたら、道がひらけて、二が書け、三が書けて、
  話が( 不思議なことに )つながって行った。・・」(p187~p188)


え~と。庄野潤三全集には各巻の最後には、
阪田寛夫の『 庄野潤三ノート 』が掲載されておりました。
そこにこうあります。

「 このノートを書き始める前、ある日
  庄野さんの著書を本棚の右端から出版順に並べ直してみた。
  その時『 静物 』がずいぶん右の方に来たのに驚いた。
  私はもう少し真中寄りだと思っていたからだ。
  私の中には『 静物 』で漸く何かが定まったという気持があって、
  すべてがここに流れこみ、ここから発するように考えていたためだろう。
  知らない間に、私は庄野さんの全作品を『 静物 』の位置から眺め、
  『 静物 』の眼鏡で味わうようになっていたのかも知れない。 」
         ( p475 庄野潤三全集第3巻 )

そうして、どこから引用されてきたのか。
ここにも佐藤先生の助言が載せてあります。
ニュアンスが微妙にことなるので、こちらも引用しておきます。

「 ・・『 書きたいと思うことは幾つもありますが、
  みな断片になって続いて行きません。それで書き出せないのです 』

  『 それなら先ず書きたいことを1と番号をつけて書く。
    次に書きたいことを2・3・4・・・と書いて行く。
    途中で4が3より前に来る方がいいと思えば入れ替えればいい 』

  更に、書かないで書けないと考えるのは
  溝の所まで来て立止るようなものだ、
  『 先ずとんでみよ 』と言われた。
  ( 註「静物」1章を見よ )その後・・・『静物』を書き出すに当って、

 『 1・2・3・4・・・と書いて行くその置き方、
   一つから一つに移るアレが生命となった。・・・  』
 と庄野さんは言った。・・・・・             」
            ( p478 庄野潤三全集第3巻 )


はい。万事横着な私は、それじゃ『 静物 』から読もうと
読まない前から思うのでした。
さてっと、佐藤春夫先生は、どういうことを伝えようとしたのか?
そう思ったら、私は鶴見俊輔著『 文章心得帖 』(潮出版社)の
この箇所が思い浮かぶのでした。最後にそこからも引用して終ります。

「 これは文間文法の問題です。
  一つの文と文との間をどういうふうにして飛ぶか、
  その筆勢は教えにくいもので、会得するほかはない。
  その人のもっている特色です。
  この文間文法の技巧は、ぜひおぼえてほしい。・・・・

  一つの文と文との間は、
  気にすればいくらでも文章を押し込めるものなのです。
  だからAという文章とBという文章の間に、
  いくつも文章を押し込めていくと、書けなくなってしまう。
  とまってしまって、完結できなくなる。
  そこで一挙に飛ばなければならない。 ・・・・ 」( p46 単行本)


まだ、私は『 静物 』を読んでいないのでした。
ただ『 明夫と良二 』をさきに読んでいるので、
そこからオモリをおろしてみたい。そんな楽しみ。

  
          


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朗読

2024-12-21 | 重ね読み
「庄野潤三の本 山の上の家」(夏葉社)の中に、
岡崎武志の「庄野潤三とその周辺」という9ページほどの文が載ってる。
そこに三島由紀夫との接点がかかれておりました。

「43年12月、広島県大竹海兵団に入団するが、その直前に書きあげたのが、
 初めて活字となった小説『 雪・ほたる 』だった。
 島尾(敏雄)の入隊が決まり、それを見送る心情を綴った作品だった。
 師の伊東(静雄)は『 読んでいて切ない気持ちになった 』と
 これを褒めた。伊東の紹介で、同作は『 まほろば 』という
 同人雑誌(44年3月号)に掲載される。この同じ号に小説を発表した作家が
 三島由紀夫。東京で『 まほろば 』同人の会合があった時、
 庄野は三島に会っている。
 三島は庄野に『 雪・ほたる 』を朗読してくれとせがんだが、
 これを断ったという。・・・           」( p111 )

なんだか、朗読といえば、うたう良二が思い浮かびます。
それはそうと、現代詩文庫『 竹中郁詩集 』の竹中氏の文にも
三島由紀夫が登場しておりました。『 あざやかな人 』という文の
はじまりにあります。

「わたしは奇妙な初対面の記憶を二つ持っている。
 ひとつは三島由紀夫氏が作家の花道にすくっと立った頃、
 銀座四丁目の歩道で画家の猪熊弦一郎氏に紹介された。
 
 三島氏は『 あなたの作詩を愛読しました 』といって、
 つづいてその詩をすらすらと聞きちがいもなしに暗誦し・・・
 狐につままれたような気分になって照れてしまった。・・・

 もう一つは吉田健一氏であった。
 これは場所は大阪か神戸かの小ていな料理屋の、
 潮どき前のしずかな時間、客といえば吉田氏とわたしのほかに
 一人か二人、かねて打合せてあった初対面。・・・

 そのときも、吉田さんは一通りの挨拶がすむと、
 わたくしの詩の暗誦を抑え目の声ではじめられた。・・・

 初対面の固くるしさを軟げる効果を、作者自身のわたくしが
 二人の文学者から教えられる始末になった・・   」( p127~128 )

庄野潤三著「 明夫と良二 」の兄弟家族じゃないけれど、
家の中で、唄っている良二の姿がダブってくるのでした。

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「流言」と、ゴキブリ。

2024-09-14 | 重ね読み
流言蜚語をネット検索したらこうある。


明確な根拠がないのに言い触らされているうわさ。
世間にひろがる根も葉もないうわさ。デマ。

[使用例] 眼前の事実よりもいわゆる流言蜚語の方が現実感においてまさっているという経験は、戦争末期においての私たちの経験でもあった[堀田善衛*方丈記私記|1970~71]

[解説] 「流言」は根拠のないうわさ、つくり話のこと。
「蜚語」はどこからともなく出てくる根拠のないうわさ、
無責任なうわさ、のことで「飛語」とも書きます。
「蜚」はもともとはゴキブリをさしますが、「飛ぶ」の意があります。


うん。言葉には、意味があって、それをたどるのは、楽しい(笑)。
「使用例」を、堀田善衛著「方丈記私記」の本文にさがしてみる。

ありました。第五章「風のけしきにつひにまけぬる」の中です。
鎌倉武士に関する箇所にこうあります。ちょっと長めに引用。

「鎌倉は、たしかに関東武士に発する新しい理念、
 京都にはまったくない機動性ゆたかな理念を生んだ。

 そこに新しい日本は、たしかに芽生えていた。けれども、同時に、
 その理念をうちたてるために払わなければならなかった犠牲もまた、
 あまりに多すぎた。そうしてその犠牲の多くは、
 きわめての短期間のあいだの、近親殺戮に類したものであった。

 幕府開設以来、公暁出家まで、25年に満たずして、
 鎌倉はすでに疑心より暗鬼の生ずる夢想、夢魔に
 つかれたような状況になっていた。

 眼前の事実よりもいわゆる流言蜚語の方が
 現実感にまさっているという経験は、
 戦時末期においての私たちの経験でもあった。・・・・・

 かつはまた、ほとんど例によって、と言いたいくらいに、
 京にも鎌倉にも連続地震の季節がふたたび襲いかかって来る。 」

     ( P113~114 堀田善衛著「方丈記私記」ちくま文庫 )


もどって、「流言蜚語」の「蜚」を、ここでは、
「新潮日本語漢字辞典」でひいてみることに。

【 蜚 】 ( ひ・とぶ )             p1993
 ① とぶ。 
     ふわふわと浮き上がって宙を行く。
     非常に速く行く。「 蜚語(飛語) 」
 ② 飛ばす。遠くへ及ぼす。
 ③ 「飛蠊(ごきぶり・ひれん)」
     昆虫の名。体は平たく光沢のある黒褐色。
     長い触角を持つ。人家にすむ種は伝染病などを媒介する害虫。
     油虫。
 ➃ 農作物を食う害虫。油虫あるいは飛蝗(ばった)。


うん。最後には小学館の
「 故事・俗信 ことわざ大辞典 」をひらいてみる。
流言蜚語は、みあたらなかったのですが、こんな言葉が拾われておりました。

【 流言は知者に止まる 】            p1221

  根拠のないうわさは愚人の間では次々とひろまるが、
  智者は聞いてもそれを人に言ったりしないからそこで止まってしまう。
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本所被服廠(ほんじょひふくしょう)跡

2024-06-18 | 重ね読み
関東大震災の、本所被服廠跡について。

小沢信男著「俳句世がたり」(岩波新書・2016年)の一部が
印象深くあらためて、そこから引用。

「 9月1日が震災忌。・・・・
  火災が多発して東京の下町は一面の焼け野原。
  死者10万余人のうち約4万人ほどが本所被服廠跡で焼死した。

  跡地の一部を公園にして慰霊の震災記念堂を建立した。

  その22年後に、東京大空襲によって、より広大な焼け野原。
  ただし震災記念堂の一帯は、同愛病院から両国駅までぶじに残った。

  そこで無量の焼死の遺骨をここに納めて、
  東京都慰霊堂と改称した。以来、3月10日と9月1日の、
  春秋に大祭が催されております。

  春の大祭は賑わう。空襲の生きのこりたちが孫子をつれてくるからね。
  くらべて秋は、ややさびしい。もはや88年も昔のことだもの。
  しかしこちらこそが本家ではないか。  」

このあとも、引用しておかなければ。

「 そうです。本家の面目をいまにたもつ集いが、
  本堂のほかに二カ所あります。
  一つは慈光院。横綱町公園の南隣りのお寺です。

  震災時に、築地本願寺も全焼しながら、
  酸鼻の被服廠跡へ僧侶たちは駆けつけて、
  死者供養と、生きのこりたちへの説教所、託児所もひらいた。

  さすがは大衆のただなかの浄土真宗。
  その説教所が寺となって『震災記念 慈光院』と、
  現に門柱に掲げる。

  そして9月1日には『 すいとん接待 』の看板が立つ。
  境内は付属幼稚園の母子たちで大賑わい・・・・

  平成の童子たちが、大正12年の非業の死者たちとともに
  たのしむ施餓鬼(せがき)供養でした。
  ゆきずりの者にも気前よくふるまうので、
  折々に私も一椀ご相伴にあずかっております。・・・・ 」
                     ( p46~47 )

はい。まだつづいているのですが、引用はここまで。
この引用に『 築地本願寺も全焼しながら・・僧侶たちは駆けつけ 』
とありました。

はい。全然知らなかった私としては、この文ではじめて知りました。
まったく知らないことばかりです。

ところで、方丈記のなかに仁和寺の隆暁法印という名が出てくる
箇所がありました。
 浅見和彦校訂・訳「方丈記」(ちくま学芸文庫・2011年11月発行)
から、適宜引用してみることに。

「 さて隆暁法印(りゅうげうほふいん)であるが、
  『 隆暁 』は『方丈記』全体の中で、同時代人としては
  唯一名前の明記された人物である。・・  」(p114)

はい。まずは原文を引用。

「 仁和寺に隆暁法印といふ人、かくしつつ、数も知らず、
  死ぬる事をかなしみて、その首(かうべ)の見ゆるごとに、
  額に阿字(あじ)を書きて、縁を結ばしむるわざをなんせられける。
 
  人数を知らむとて、四、五両月をかぞえたりければ、
  京のうち、一条よりは南、九条より北、京極よりは西、
  朱雀よりは東の、路のほとりなる頭(かしら)、
  すべて4万2300余りなんありける。・・・・   」(p110)

浅見氏の評を最後に引用しておきます。

「 飢饉の餓死者が京中に溢れ、仁和寺の隆暁法印という人は
  その死を悼み、路傍に死者のあるごとに額に阿字を書いて
  弔ったというのである。

  なんとその数、4万2300余り。当時の平安京の人口が  
  10万前後と推測されていることからすると、
  京都市民の約半数が犠牲になったことになる。

  『方丈記』の記述に従えば、それを隆暁法印が一人で
  書いて回ったというのである。いくら何でも一人では
  無理であろうということなのだろうか、
  さきほどふれた嵯峨本『方丈記』では、

    仁和寺に隆暁法印といふ人、かくしつつかずしらず
    死ぬる事を悲みて、聖を余多(あまた)かたらひつつ、
    其死首の見ゆる毎に阿字を書きて、
    縁に結ばしむるわざをなせられける。

  と『余多(あまた)』、大勢の聖たちの協力を得て
  死者の供養を行ったというのである。・・・・・   」(p113)


注も引用しておきます。

  仁和寺  京都市右京区御室(おむろ)にある寺。
       真言宗御室派の総本山。

  隆暁法印 ・・・・・元久3年(1206)没。72~3歳。
       この飢饉のころは48~9歳。

  阿字   梵語の第一母音〇。万物の象徴として神聖視される。


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当今のじいさんばあさん。

2024-01-06 | 重ね読み
古本を買ったりしてると、波が打ちよせる海岸の砂浜で、
貝殻やあれこれを、ひろっているような気分になります。

はい。初日の出を見に海岸へと行き砂浜で待ちながら、
小石を二つばかりひろってポケットに入れてきました。

波間にサーファーが見える。これは本にたとえると新刊。
そして砂浜に打ち上げられてくるのが、これは古本かな。
はい。新刊もしばらくすれば砂浜へ打ち上げられてくる。

などと思いながら、見なかった初夢のかわりにします。

昨年の古本で私が気になったのが『大菩薩峠』。
もちろん、波打ち際でひろった片言の断片です。

① 津野海太郎著「百歳までの読書術」(本の雑誌社・2015年)
② 扇谷正造著「諸君!名刺で仕事をするな」(PHP文庫・1984年)

はい。まずは①から、
「私の時代が遠ざかる」と題した文のはじまりは

「私と同年輩の知人のなかには、新聞をひらくと
 まっさきに死亡欄をのぞくというような者が何人かいる。
 
 とくに年齢と死因。それを確認して、ホッとしたり
 不安になったりするのだとか。

 いやいやそうしているのではあるまい。
 当今のじいさんばあさんは、そこまでナイーブではない。
 むしろ毎日の定例儀式として、けっこうそれをたのしんでいるのではないかな
 ・・・」(p118)

このあとに、4名が列挙されておりました。

  〇 丸谷才一、2012年10月13日、87歳、心不全
  〇 中村勘三郎、2012年12月5日、57歳、急性呼吸窮迫症候群
  〇 小沢昭一、2012年12月10日、83歳、前立腺がん
  〇 安岡章太郎、2013年1月26日、92歳、誤嚥性肺炎

最後の安岡章太郎氏についてでした。こうありました。

「・・病名は、この間に安岡さんが押した何枚ものドアの最後の一枚
 ということであって、沈黙のうちにすぎた氏の80代のすべてを語って
 くれるわけではない。だからといって、しいてそれを詮索する気もない。

 ともあれ、そのようにして安岡さんは消えていった。
 よおし、これまで何回か読みかけて、そのつど挫折していた
 長大な大菩薩峠論『果てもない道中記』に、
 もういちど挑戦してみるとするか。  」(p120)


はい。ここに『大菩薩峠』という言葉が出てきておりました。
次は、②です。②の文庫第三部に『大菩薩峠』が登場します。

「たしかフランスの作家だったと思う。・・・
『その生涯において、何度もくりかえしてよみ得る一冊の本を持ち得る人は、
 しあわせな人である。さらに、その何冊かを持っている人は至福の人である』
 というのを読んだことがある。してみると、私は、
 その至福の人にはいるのかも知れない。しかし、それらの中でも、
 私にとって≪一冊の本≫というと、何になるのだろうか。
 私は、どうも中里介山の『大菩薩峠』じゃあるまいかと思っている。」

「昭和4年・・仙台の二高の明善寮の一室に、私は、
 このうち四巻分(「大菩薩峠」)を携えて入った。
 
 昭和7年、東大に入った。そのころ私は、マルキシズムを信奉していた。
 しかし、本郷の私の下宿には、ブハーリンの『史的唯物論』や
 マルクス・エンゲルスの『共産党宣言』と並んで、この四冊があった。

 たぶん、そのころであったろう。谷崎潤一郎氏が、
 この小説(大菩薩峠)の口語体の文章の美しさを激賞しているのを
 読んだ時、私は、わが意を得たと思った。 」(p246~247)

最後に、ちょっとこの箇所も引用したくなります。

『赤大根』と題された文で、
 就職する際に、松岡静雄先生に紹介状を書いてもらう場面。

「・・私は左翼運動に熱中し・・・
 朝日(新聞)にはいる時、紹介状をおねがいしたら、
 下村海南副社長(当時)あての手紙には、

 『 この学生、いささか、赤いが、それは赤大根程度にて・・ 』

 とあった。紹介状をよむなんて不届き千万な話だが、
 心配のあまり、私は、湯気をあてて、そっとあけたのである。
 一読、驚いた。これはいけないと思った。若さというものはこわい。
 私は、鵠沼にでかけ、先生に紹介状の書き直しをおねがいした。

 トタンに『 バカもの! 』という雷が頭上に落下した。

『 もう書かぬ。いいか、よく聞きなさい。
  お前が赤いか、赤くないかぐらいは、社で調べればすぐわかる。
  これは、それを見越しての紹介状だ・・・ 』

 私は、つくづく自分がいやになった・・・。
 ご恩になった人は、そのほか数え切れない。・・・   」(p242~243)


う~ん。『赤いか、赤くないか』はべつにして
大地に埋まって根の白さが『大菩薩峠』なのかなあと、
今年、初チャレンジしてみたくなる、本となりました。

とりあえず、『読むか、読まないか』はべつとして
まずもって、今年、古本で揃えてみたくなりました。
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新鮮な時間を読む。

2023-12-12 | 重ね読み
吉田光邦の「茶の湯十二章」(「吉田光邦評論集Ⅱ」思文閣出版)に
お正月の茶の湯について言及されている箇所がありました(p140)。

すっかり忘れていたのですが、その関連で思い浮かんだのは
当ブログの2022年1月22日「福汲む、水汲む、宝汲む」でした。

ということで、吉田光邦の「茶の湯十二章」と
「岡野弘彦インタビュー集」(本阿弥書店・2020年)。

ここは、神主を継ぐ家に生まれた、岡野弘彦氏の語りから。

岡野】 小学校で僕はわりあい歌と縁ができるようになりましてね。
   お正月は、子どもなりにきちんと着物を着せられて、
   白木の桶に若水を汲みに行くんです。

 『 今朝汲む水は福汲む、水汲む、宝汲む。命長くの水を汲むかな 』

   と三遍唱えて、切麻(きりぬさ)と御饌米(おせんまい)を
   川の神様に撒いて、白木の新しい桶でスゥーッと
   上流に向かって水を汲むわけです。

   うちへ帰ってきて、それを母親に渡すと、
   母親はすぐに茶釜でお湯を沸かして福茶にする。

   残りは硯で、書き初めの水にしたりするわけです。
   それを五つのときからさせられました。・・・   」(p20)


はい。それでは、吉田光邦氏の「茶の湯十二章」から
正月と出てくる箇所。

「そして正月は、古代的な日本の神々がいっせいに、
 わたしどもの回りに復活する季節である。

 ちかごろ都会ではあまり見られなくなったが、
 門松、しめ縄などの飾りは、どれも農耕民族として生きてきた
 日本人のなかに、しぜんに存在することになった古代の神々の
 シンボルにほかならぬ。

 一年のはじめに神々をよびむかえ、神秘の空気をつくりだすことは、
 生活のたいせつなデザインだったのである。

 そこで礼式、生活のデザインとしての茶の湯も敏感に、そうした
 正月の神秘の空気を反映する。神々をむかえる礼式が演出される。

 若水を汲んで茶を点てることは、永遠の若さを求め、
 復活の願いをこめる礼である。・・・・・・    」(p140)

「 やがて新年の茶会、初釜の日がくる。新しい一年に
  ふみだす新鮮な時間を自分のうちに自覚せねばならぬ日だ。 」(p141)


はい。2022年には、岡野弘彦氏の語りを読めた。
2023年の暮れには、吉田光邦氏の文を読んでる。
コメント (2)
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知的生産のための『技術』

2023-12-10 | 重ね読み
そういえば、津野海太郎著「おかしな時代」(本の雑誌社)を
ひらくと、劇団と津野さんとの関連がわかる。そして、
劇団ということなら、吉田光邦氏とつながる。

うん。この点が面白そうなので引用を重ねます。

西村恭一氏の吉田光邦氏への追悼文に、
演劇にかかわる吉田氏のことがわかるのでした。

「吉田(光邦)先生が当時龍谷大学予科の教授で、演劇部の顧問で・」
          (p55 「吉田光邦両洋の人 八十八人の追想文集」)

そのころは、どんな感じだったのか。こばやしひろし氏は書いてます。

「『詩の朗読と劇の会』は図書館の講堂でやった。・・・
  光邦さんも誰の詩だったか忘れたが朗読された。

  それが下手なのである。実に下手な朗読で何をいって
  おられるのか伝わらないのだ。ところが本人は気を入れて
  おられるつもりだから始末に悪い。・・・・
  残念ながら当日まで下手だった。少なくとも
  リズム感のある人ではなかった。

  舞台に立たれたのはそれだけで後は役者をやるわけでもなし、
  演出をやるわけでもない。ただ私たちの稽古を見ておられるだけである。
  こちらが行き詰まると『こうしたらどう』と助けを出されるが、
  それが助けにならない程度のご意見である。

  それでも大道具を手伝ったり、効果を手伝ったりされ、
  私たちと舞台を創ることを楽しんでおられた。・・ 」(p48 同上 )


はい。ここからが本題「知的生産のための『技術』」となります。
梅棹忠夫著「知的生産の技術」は、イマイチ『技術』という箇所が
わからないでいた私なのでした。

梅棹忠夫著「対論『人間探求』」(講談社・昭和62年)のなかに
吉田光邦氏との対談「産業技術史の文明論的展開」が載ってます。

はい。最後にこの対談から、この箇所を引用しておきます。
小見出しには「技術にささえられた大衆社会」とある。

吉田】 これまで財界人ばかりせめましたが、このことは
    日本人に共通のことのようにおもいます。

    日本の社会が大衆社会だといわれていますが、
    大衆社会が成立しているのは技術があるからこそなんです。

    大衆にマイクとスピーカーでよびかける
    技術がなかったらできないわけです。そういう
    おおくのマスコミュニケーションというものが動く。

    つまりそれまではロンドンのハイドパークで自分の
    のどをふりしぼって政治演説してるマスと、
    現在のマイクやスピーカーをつかてやるマスとでは、
    到達するレベルがちがうでしょう。いわば大衆社会を
    つくりあげるひじょうに大きな役割をもつわけです。

    もちろんテレビ、ラジオ、新聞、印刷、ぜんぶ技術があるから、
    大衆社会ができてきた。だから大衆社会というのは、
    社会学的現象ではあるが、同時にそれは
    技術にささえられてうまれた現象なんでしょう。

    ところが、案外そこがスポッとおちてるんです。
    大衆社会論は山ほどあるけれども、
    それは技術でできあがっているという認識がない。 (p117~118)


このあとでした。演劇の場面からの例を吉田光邦氏は語り
なんともわかりやすかったのです。


吉田】 ほんとにふしぎなんですよ。たとえば伝統芸能といわれる
    能・歌舞伎だって、今日はぜんぜんちがうんです。

    現在の坂東玉三郎や片岡孝夫の人気は、
    あたらしい照明とあたらしい舞台機構にささえられているんです。
    江戸時代の歌舞伎では、百目ろうそくをならべて、  
    その突きだしたろうそくの光で顔を照らしていたわけです。
    ・・・・・

  いま大劇場のうえにいくと、ものすごいスイッチ・ボードがあるんです。
  そのスイッチ・ボードに専門の技術者がいてやるから、
  玉三郎も映えるわけです。その事実が完璧におちている。

  そういう認識が完全におちて、そして歌舞伎は歌舞伎、
  能は能で、これこそ伝統芸能だということでやってるわけでしょう。
  それがおかしいんです。

梅棹】 それが中世から現代までおなじものとしてかんがえとるから、
    ほんとうにおかしい。たしかに、ある種の伝承があって
    おなじ部分がある。それはあるんです。

    しかし、それをささえてる条件というのが、
    過去と現在とではすっかりかわってる。

吉田】 逆にいえば、そういう条件があるからこそいけるんですよ。
    京都の南座でも2400人はいるわけでしょう。
    それがはいるから、歌舞伎興行が成立するんです。

    むかしの二、三百人ではいまの歌舞伎は成立しないんです。(~p119)


はい。対談はこのあとが佳境にはいるのですが、ここまで(笑)。


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どこでもあることだ。

2023-12-03 | 重ね読み
吉田光邦著「日本の職人像」(河原書店)をひらいていたら、
「にせもの」への記述があり印象深い。また思い浮かべそうで、
せっかくなので引用しておくことに、

「もっともこれはべつに日本だけではない。どこでもあることだ。
 画家コローの作品と称するものが、コローが一生かかっても
 画ききれぬほど大量に世界にあることは有名なことである。

 こんな話がある。ある画商に客が来た。
 客は壁にかかっているコローの画をほしいという。
 画商はいう。それはにせものです。あまり有名ではないが
 こちらの画はほんもので、絵もなかなかよろしい。
 値段も同じくらいです。客はいった。

 有名でないならいらんよ。わたしほどの身分の家には
 コローぐらい一枚かかっていなくてはね。つまりコローがあることは、
 一種のステータス・シンボルなのだ。世間での地位のシンボルなのである。


 正宗とか左文字とか名刀のにせものもやたらに多い。
 先祖が主君から拝領した由緒のはっきりしたものなのに、
 とふしぎがる人もいる。由緒正しいからにせものなのだ。

 江戸時代、論功行賞の方法に刀をやることが多かった。
 主君が臣下に与えるのに、名も知られていないような刀をやるわけにはゆかぬ。
 それは主君の体面を傷つけることである。
 そこで名刀のにせものがいつも殿様のところにはストックされていたものだ。
 殿様はそれを臣下にやる。臣下もほんものとはもちろん信じていない。
 正宗であるか、吉光であるか、それによってランクがあったのだ。

 今の勲章の勲一等とか勲二等とかいうことと同じだ。
 やはりステータス・シンボルである。
 にせものはこうした機能をもっていたのだ。・・・・

 質より名、しかしちゃんとした機能と意味はあったのである。」(p160~161)

 ここを読んで、そういえばと思い浮かぶ箇所が
臼井史朗著「疾風時代の編集者日記」(淡交社)にありました。
そこに臼井氏に日記に登場する、叙勲と吉田光邦の箇所がある。
紫綬褒章を受章する際のことが書かれておりました。

「 昭和62年9月29日午後5時に吉田光邦氏来社。・・・・
  ・・・吉田光邦氏とても勲章が欲しいのである。
  紫綬褒章についてひとくさり話をする。

  ・・・≪辞退するかどうか≫文部省から下問があるらしい。
  変に辞退するとこれがあとあとまでも影響するのである。・・・

  人間に一生をどのように見るかは各人の勝手というもので
  どうでもいいのだが、世間には世間のルールがあるのだ。

 昭和62年11月30日午前11時に八杉君と吉田先生を訪問する。
 用件は紫綬褒章受章の御祝い、京都文化博物館における
 新しいプロジェクトについて。もう一つは
 受章祝賀パーティー用の出版進行について。・・・・・

 吉田氏は明日の叙勲のために、今日の午後に東京へ行くという。
 それでも非常に嬉しそうでうきうきしていたのである。
 やはり勲章というものは誰しもが欲しがるものらしいのである。・・」(p94~95)

そして
「 昭和63年1月25日
  紫綬褒章の受賞記念会はきわめて盛会だった。
  その中でもっとも印象的で愉快だったのは、
  人文研究所長の挨拶だった。
  
  褒章制度の歴史を、誠に軽快に話したあと黄綬、藍綬とあるが
  紫綬褒章はちょっと格が上だという話になって、
  世間では紫綬褒章はミニ文化勲章といわれている・・・と。

  ただし順番待ちをしなければならなにので、
  順番がまわってくるためには20年くらいは待たなければならないのです
  
  ・・・20年後にまた皆さんとともに今日のように
  盛大なパーティーをやることを約束いたします・・・

  とたくみなスピーチであった。
  
  この記念のために制作依頼をうけた
  『読書瑣記』が非常に好評であり安心する。・・  」(p96)

はい。まだ余話はつづいておりますがこのくらいで。
うん。『読書煩記』を読む気にはならないのですが、
吉田光邦氏の気になる本注文しておくことにします。

 
 


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利休の茶友。

2023-11-25 | 重ね読み
「利休大事典」(淡交社・平成元年)の古本が安い時に買ってありました。
函入りで2キロ。27×20で厚さ5センチ(いづれも函サイズ)。
余りに安くて、もったいない気持から買っておいたものです。

楽しい絵本の挿画のように、魅力のカラー写真がページを彩り、
せめて、目次だけでも引用しておきたくなります。

   時代   村井康彦 ・・ 1
   生涯   米原正義 ・・ 25
   茶友   熊倉功夫 ・・ 115
   茶事   戸田勝久 ・・ 193
   茶具   林屋晴三 ・・ 255
   茶室   中村昌生 ・・ 347
   書状   村井康彦 ・・ 465
   伝書   筒井紘一 ・・ 575
   遺響   熊倉功夫 ・・ 669
        筒井紘一


まずは、気になった『利休の茶友』(p116)だけでも引用。
こうはじまっておりました。

「千利休がその生涯に出会った人の数はいかほどあったか測り知れない。
 ・・・・
 利休が師事した茶人と禅僧、利休の茶会に招かれた人、
 利休と茶会で同座した人、手紙のやりとりがあった人、
 茶湯や道具に関して利休に師事した人、利休の使用人等々。
 記録に残るだけでも千を超える人々がいただろう。・・・・

 利休の青年時代、すでに堺には茶湯が流行し、名人があらわれ、
 彼らによって東山時代以来の名物道具が集められていた。

 そこで利休は武野紹鷗をはじめとする茶の大先達と出会い、
 さらに南宋寺に来住した大林宗套、笑嶺宗訢といった禅僧
 たちの提唱を聞く機会があった。

 やがて利休と同世代の堺の町衆たちに伍して、利休自身の茶湯が認めれ、     
 遠く奈良や京都にも利休の茶名が聞こえていった。

 今井宗久、津田宗及などは茶の道具の点では利休をはるかに凌ぐが、
 利休にはその茶を慕う山上宗二らの茶の弟子がすでにあって、
 茶匠としての地位が確立してきただろう。

 ・・・一変させたのは、永禄11年(1568)の織田信長の上洛と、
 それに続く元亀元年(1570)の堺での名物狩りである。・・・
 やがて・・利休は天下人の茶の接待を受け持ち、多くの武将と
 の交渉が生じ、そのうちの数十人の人々は利休を茶湯の師と仰いだ。

 なかでも主だった弟子である古田織部・細川三斎・蒲生氏郷らを
 利休七哲の名で後世呼び慣わした。・・・・・

 利休の茶を支えていた職人や使用人たちの存在も大きい。
 残念ながら史料が少ないので詳細は不明である・・・・   」(p116)

はい。次のページから人名と、その人となり解説と、カラー写真。
それがp192までありました。もちろん私はそれを読まないのです。

『職人』といえば、生形貴重著『利休の逸話と徒然草』の
はじまりの箇所が思い浮かんできました。

そこを引用しておわることに

「茶の湯の文化の第一の特徴は、日本の伝統的な
 さまざまな分野の文化が結集している、という点でしょう。

 たとえば、茶碗などの土の文化、
 釜や風炉などの金属の文化、
 茶筅や柄杓などの竹の文化、
 こうした茶道具に留まらず、
 茶室に見られる数寄屋建築の文化、
 茶庭に見られる庭園や石の文化など、

 数えきれないほどの分野の伝統文化が
 茶の湯という空間に結集しています。

 さらに、着物などの和装の文化や、
 床に飾られる書画などの芸術、
 懐石料理や菓子に見受けられる食文化なども、
 茶の湯を構成する大切な要素です。

 ・・・茶の湯を構成するさまざまな文化は、
 多くが『職人』と呼ばれる人たちの技術の文化でもあります。

 ・・・茶の湯の文化の特徴は・・
 技術の文化の結集という点にあると思われます。  」(p4)


はい。こうしてはじまる『利休の逸話と徒然草』は
やっぱりきちんと読んでおかなきゃと思うのでした。

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のびた。のびた。

2023-11-19 | 重ね読み
鶴見俊輔著「期待と回想 語り下ろし伝」(朝日文庫)。
その第9章「編集の役割」が、印象深いのでした。
まずは、『平均寿命がのびた』とある箇所を引用。

「これだけ平均寿命がのびたのだから、
 40歳以後は、だれかの話を聴きにいくということじゃなくて、
 自分の動きを含めたサークルがつくれる可能性はだれにでもあると思う。
 ヴィデオやコピーやインターネットも使って、
 さまざまな自主的なことができるはずですよ。 」(p517)

そのすこし前に『かなり年をとっても』という箇所があります。

「森毅とは〇〇新聞の書評委員会で一緒になって、
 宿に帰ってからコーヒー一杯で雑談した。
 夜中の一時くらいまで、3時間も4時間もしゃべるんだ。
 ものすごい安上がりな雑談で、5、6年つづいた。

 これが私にとってのサークルなんだ。
 かなり年をとってもそういうサークルは成立しうるんだ。
 茶の湯の精神だね。   」(p514)


はい。『茶の湯の精神』と『コーヒー一杯』。それで
思い浮かんだのは、季刊「本とコンピュータ」1999冬号。
そこに、鶴見俊輔と多田道太郎の対談が載っております。
その対談の終わりの鶴見さんの話には『伸びてくるんだよ』
という箇所があったのでした。
最後に、すこし長いけれども、引用しとかなきゃ。

鶴見  ・・・・・それとね、私たちの共同研究には、
    コーヒー一杯で何時間も雑談できるような自由な感覚がありました。

    桑原(武夫)さんも若い人たちと一緒にいて、
    一日中でも話している。

    アイデアが飛び交っていって、
    その場でアイデアが伸びてくるんだよ。

    ああいう気分をつくれる人がおもしろいんだな。

    梅棹(忠夫)さんもね、『思想の科学』に書いてくれた
    原稿をもらうときに、京大前の進々堂というコーヒー屋で
    雑談するんです。原稿料なんてわずかなものです。

    私は『 おもしろい、おもしろい 』って聞いているから、
    それだけが彼の報酬なんだよ。
    何時間も機嫌よく話してるんだ。(笑)

    雑談の中でアイデアが飛び交い、
    互いにやり取りすることで、そのアイデアが伸びていったんです。

   ・・・・コンピュータの後ろにそういう自由な感覚があれば、
   いろんな共同研究ができていくでしょうね。 」(p207)




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『 南、こらないでいいからナ 』

2023-11-06 | 重ね読み
気になったので、松田哲夫著「編集狂時代」(本の雑誌社・1994年)
をひらいてみる。はい。あとがきには500枚になってしまったことを

「 これだけの枚数を書き続けることができたのは、
  ワープロ(パソコン)を使うことができたからです。・・ 」(p347)

と、小沢信男さんが話したと同じ指摘がされておりました。
はい。梅棹忠夫さんのタイプライター打ちからはじまって、
いつのまにか、随分ありがたい世の中になっておりました。

はい。最初から読まずに、パラリとひらいた箇所に
赤瀬川原平さんとのことが、書かれているのでした。
赤瀬川さんの本を、松田さんとふたりで凝って作る。
その反省の言葉がでてくるのでした。

「・・いい本だと、今でもぼくは思っている。
 でも、凝りすぎたこともたしかだ。そういえば、
 赤瀬川さんの出した本のうちで、ぼくが客観的に
 見て名著だと思い、売れた本というのは・・・・

 ぼくが編集にかかわっていないものばかりだ。
 どうやら、二人の凝り性が複合すると、普通の
 読者を排除する方向に走っていきがちなのだろう。」(~p206)

このあとに、南伸坊くんが『ガロ』編集部にいた頃のエピソードが
出てくるのでした。

「毎晩、おそくなるまで、ボク(南伸坊)は会社で仕事をしていたけれども、
 それは会社のためではなくて自分のためだった。

 ためというより、おもしろいからやっていたのだ。
 長井さんは時々、一心不乱みたいに、ボクが机にかじりついて、
 髪をふり乱すみたいにして・・・やっていると、

 『 南、こらないでいいからナ・・・ 』

 と、肩のすっかり抜け切った例の声で言うのだった。」

このあとに、こうあるのでした。

「『手を抜かないように』とか、『もっとていねいに』
 という注意ならわかるが、『 凝らないように 』とは
 いかにも長井(勝一)さんらしいやと、

 その話を聞いて、皆で大笑いした。笑ってからしばらくたって、
 『 そうか 』と思った。

 『 凝りすぎないこと 』なのだ。これこそ、ぼくのような、
 病的に凝ってしまう性癖をもつ編集者にとっては、
 ほかの何を忘れても絶対に忘れてはいけない、重要な教えだったのだ。」
                       ( p206 )

松田哲夫著「縁もたけなわ」に、
本の雑誌の目黒考二さんが、五カ月後に終刊した雑誌を出した松田さんを
さそう場面がありました。

「・・『飲みましょう』と誘ってくれた。いろいろ話している時、
 『 松田さん、一生懸命やっていたでしょう 』と聞くので、

 ぼくは『雑誌は未経験なので、悔いのないように努力した』と答えた。
 ・・・・すると、

 『 雑誌は一生懸命作っちゃだめ。読者が窮屈になるんですよ 』と言う。
 その時、目からウロコが落ちるような気がした。  」(p231)

この本に、もう一箇所引用したいところがありますので、
もう少しお付き合いください。それは老人力が語られる箇所でした。

「赤瀬川さんには、物忘れ、固有名詞が消える、『どっこいしょ』と言う、
 溜息をつくなどの老化現象が、現われ始めていた。
 そこで、『忘れる』談義に花が咲く。

『若い時って、イヤなことをいつまでも覚えててつらかったこともあった』
『記憶力は頑張れば身につくけど、忘れるのは頑張ってできることじゃないね』
・・赤瀬川さんらしい考え方が全面展開される。そこで藤森(照信)さんは、

『老化ってマイナスイメージしかない。思いっきり力強い表現にしちゃおう』

 と『 老人力 』という言葉を口にする。・・・・・

『 スポーツの力は筋トレなどでつけていく。
  でも、いざチャンス、いざピンチという時には、
  コーチや監督が『 肩の力を抜いていけ 』と言う。
  あれも同じじゃない 』

 ・・・そして、老人力のあらたなが解釈が積み重なっていく。 」(p210)
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