和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

入門本さがし。

2024-08-31 | 本棚並べ
「世にも美しい日本語」は
安野光雅・藤原正彦対談の新書なのですが、
たしかに、読んだことがあるので、本棚のどこかに
あるはずなのが、見当らない(笑)。
お二人して歌の話を楽しくしていたのでした。

たぶん。単行本と単行本の間にはさまっていたりすると、
奥にひっこんで新書の背がみえなくなってしまうことがあり、
それかもしれないし、どこかに置きざりにしたかもしれない。

はい。こういう場合は、読みたいのだけれど、読めないので、
ちょいと忘れることにして、外の本をさがしている際などに、
ふらっと出てくる場合もあるし、出てこない場合もあります。

さてっと、今回の場合は、出てくるか、出てこないか。
それとも、安い古本のお世話になるか。
読みたいときに読むと、言葉が一段と身に沁みることがあったりして。

ということで、本を読んでいるよりも、本を探しているときの方がどうも
時間的に長かったりするのは、単なる整理嫌いの、私に起因するのでした。

はい。こんなふうに、読みたい私に対して、話題を逸らせる私がいます。

ああそうだ。当ブログで『世にも美しい日本語』の書評を書いたことが
あったのでした。本が読めるまで、それを読みかえしてみます(笑)。
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涙が出るほどなつかしく。

2024-08-30 | 詩歌
わらべ歌エッセイとある、
高橋美智子著「うしろの正面」(柳原書店・昭和61年)が
古本で400円でしたので買っておいたのでした。

挿絵・装幀が森元良とあります。
表紙のカバー絵もしっくりしていて、
各わらべ歌に、ついている挿絵も違和感がない。

矢野暢氏が序文を書いておりまして、そこから引用。

「この本では、京のわらべ唄を素材に、実にしっとりとした
 居住空間としての京の街がみごとに描かれている。
 涙がでるほどなくかしく、美しい京の姿がここにはある。
 ・・・・
 漢字をつかう日本語の文章が多少とももつはずの圭角が、
 ここにはまったくない。それは、実にすばらしいことである。

 どうしてこのような文章が書けるのかを考えてみると、
 その秘密は歌にあることがわかる。文章それ自体が
 音の美しい流れとしてつづられているのである。 」

そして、こうも指摘されておりました。

「 どうやら、私たちは、もう少し歌うことのだいじさを
  再認識すべきである。心のなかに、身体のなかに
  美しい旋律とリズムとを絶えず満たしておくことは、
  日本人が日本人でありうるための条件であるのだ。
  バタ臭い歌だけうたっていればいいというわけではないように思う。 」

はい。この序文のことを思い浮かべながら、
挿絵・装幀をパラパラとめくっている幸せ。

8月28日に1時間に満たない講座をうけもったのですが、
予定を端折って語ったせいか、何か意に満たないものが残りました。
そのあとに、学校の屋上に皆さんであがったら、その屋上で
『復興の歌』の一番だけですが、ひとり歌いました。
うん。それですっきりする(笑)。

それでなのか、ひらいたのは
藤原正彦著「美しい日本の言霊(ことだま)」(PHP新書・2024年4月)。

その『まえがき』で、私はもう充分でした。
ということで、最後はそこから引用しておしまい。

「日本というのは実に不幸な国である。国土は狭小なうえ、
 大地震、大津波、大台風、大洪水、大噴火がひっきりなしに襲う。
 世界の地震の九割近くを一手に引き受ける環太平洋地震体の荒波に、
 四つの大火山がポッカリと頭を出している。
 というのが我が日本の姿である。

   こんな日本を見て、私は若い頃から、神様ほど不公平で
   無慈悲なものはないと思っていた。ところが年とともに、
   そうでもないと考えるようになった。

 日本は青い海に囲まれ、富士山をはじめとする
 絵のように美しい山や花、湖に恵まれている。
 そのうえ、世界でも珍しいはっきりした四季があり、
 季節ごとに国土は多彩な植生で覆われる。
  ・・・・・・・・・

 そればかりではない。天災ばかりのこの不幸な国土で、
 災害に遭遇した人々が助け合いながら生きているための知恵として、
 人々の絆、親切、自己犠牲、忍耐、秩序、勇気、正直、礼節などの形、
 そして何より惻隠(そくいん)の情が生まれた。
 一方、美しい国土からは類稀(たぐいまれ)な美的感性が育まれ、
 この二つがやがて結合し・・・・・        」

はい。私はここだけ読んで、先にすすめなくなりました(笑)。
ということで、今回はここまで。



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今年1年1回の講座終了。

2024-08-29 | 地域
昨日は、講座「安房郡の関東大震災」がありました。
まずは、お借りしている高校の先生による学校紹介が30分。
それから、私の番。
きちんと学校紹介されていた後の
私のずぼらな語りでしたので、
何より私自身が焦っちゃいました。
それでかもしれませんが、ペースが乱れて、
資料をあれこれと飛ばしながら進めました。
うん。支離滅裂な具合となりました。
途中、15分のトイレ休憩をはさんで、
そのあと、30分ほど話しました。
さいごに、『復興の歌』を歌って私の話はおわり。
その後に、学校の屋上にあがりまして、四方を見渡す。

そこで私は『復興の歌』の一番だけを一人歌っておりました。

  黒潮かおる東海に 朝日さやかに さしのぼる
  ああ 安房の国うまし国 我ら若きを歌わなん

ちょうど、皆さんが4階の上の屋上から、
太平洋をながめていたときに、歌いました(笑)。
唯一これが当日の私がホッとできたことでした。

われながら支離滅裂な講座だったのですが、
参加された皆さんを前に、とりあえず、
どの資料から語ろうとして無意識にでもとりあげた箇所を、
あらてめてもう一度反芻して、講座を振りることにします。

まったくもって、ブログにあれこれと書きこんでゆくことと、くらべて、
時間をくぎり、その中で人前で語ることの相違を体験させてもらいました。
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8月28日本番。

2024-08-26 | 地域
今日を入れてあと2日。
1時間で伝える内容を選り分けようとするのですが、
思いつきは楽ですが、こういうのの、まとめは苦手。

とりあえずは、『安房震災誌』の本を紹介しながら、
まずは、そこに掲載された図やら一覧を配布して、
それにまつわる、あれこれを解説してゆくことで、
筋道をつくってゆけたならと、思うには思うのですが・・。

う~ん。こういうのは語り出すと支離滅裂になりそうで、
とりあえずは、配布する資料のあれこれを考えてみます。
はい。素材で勝負することに(笑)。


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委細かまわず、がんこに。

2024-08-24 | 地域
全体を俯瞰するのは難しいなあ。
そういうときに、思い出したように
読みたくなるのが寺田寅彦の「津波と人間」という
9ページほどの文章です。

4年ほどまえに、地域の震災碑文などを通してめぐりました。
そのときに、印象深く反芻したのも「津波と人間」でした。
そのときの、気になった箇所はここいらです。

「・・災害記念碑を立てて永久的警告を残してはどうか
 という説もあるであろう。しかし、はじめは人目に付きやすい
 ところに立ててあるのが、道路改修、市区改正等の行われるたびに
 あちらこちらと移されて、おしまいにはどこの山かげの竹やぶの中に
 埋もれないとも限らない。

 そういう時に若干の老人が昔の例を引いてやかましく言っても、
 たとえば『市会議員』などというようなものは、そんなことは
 相手にしないであろう。そうしてその碑石が八重葎(やえむぐら)
 に埋もれたころに、時分はよしと次の津波がそろそろ準備されるであろう。」

はい。碑文をめぐって少し歩いているのは大抵が旧道の
あまり車の通らない箇所でした。またよく聞いたのは
碑文は、以前はここにはなかったのだよ。ということでした。」

はい。今回再読していて、気になる箇所はここでした。

「しかし困ったことには『自然』は過去の習慣に忠実である。
 地震や津浪は新思想の流行などには委細かまわず、
 がんこに、保守的に執念深くやって来るのである。・・・

 科学の法則とは畢竟(ひっきょう)『自然の記憶の覚え書き』である。
 自然ほど伝統に忠実なものはないのである。・・・   」

「科学が今日のように発達したのは、
 過去の伝統の基礎の上に、時代時代の経験を
 丹念に克明に築き上げた結果である。
 それだからこそ、台風が吹いても
 地震が揺すってもびくとも動かぬ殿堂ができたのである。

 二千年の歴史によって代表された経験的基礎を無視して、
 よそから借り集めた、風土に合わぬ材料で建てた
 仮小屋のような新しい哲学などは、
 よくよく吟味しにとはなはだ危ないものである。

 それにもかかわらず、うかうかとそういうものに頼って
 脚下の安全なものをすてようとする、
 それと同じ心理が、正しく地震や津浪の災害を招致する、
 というよりはむしろ、地震や津浪から災害を製造する
 原動力になるのである。・・・・    」

はい。分かるようで分からないような表現なのですが、
何年か時間をおいてまた読んでみると、分るような気がしてきます。

ということで、そんな感じで、一年に一回の震災講座。
それを来週の8月28日(水曜日)におこないます。
それが、今度の台風でできなくなるかも(笑)。
 

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昨日は練習日でした。

2024-08-22 | 地域
地震講座の「安房郡の関東大震災」を
8月28日(水曜日)午前中おこなうために、
昨日は、その予行練習をかねて、10名の方の前で語りました。

うん。関東大震災を振返ってかたるのですが、
だんだんと、終りの方ではなんだか語るほうが滅入ってきて、
それでもって、講座本番の講習の最後の終わり方だけ決まりました。

関東大震災の直後に、安房農学校の貴島憲先生が
生徒と共に歌う『復興の歌』を作詞して歌っております。
はい。8月28日の講習の最後は、皆さんでその『復興の歌』を
歌って終ろうとおもいます。

『安房郡の関東大震災』という題には、
副題に『安房郡長・大橋高四郎』とさせていただきました。
練習日では、その大橋氏は、ちょっとしか触れられませんでした。

それでもって、本番では、それを修正しておいてくださいと
丁寧に指摘してくださる方がいて、ありがたく拝聴しました。
いちおう、この題と副題とで募集をとっております。

さあ、来週の本番めざして、いまから修正とまとめをします。
本番は違う方が聴講にくるのですが受講予定者の上限は20名。
もうすこしでも、落ち着いて、誰にでも分かりやすく語れますように。

昨日は、あれから昼寝して、3時過ぎに枝や草刈をしました。
夕飯はビールを飲んですぐに寝ました。

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直下地震の体験。

2024-08-20 | 地震
南三原村駅舎で、関東大震災を経験した
安房農学校第四回卒業吉野美佐夫氏の座談会での言葉に

「 私は式が終って駅へ行き、12時何分かの汽車を待っていまして、
  時間があるので外へでて遊んでいますと一番の地震がグラグラ
  ときたんです。そしてその次の地震で駅はつぶれ、
  駅の庭が割れてしまってゴロゴロころがってしまいました。

  とても立っておられませんでしたので、
  今新聞屋がある処に丁度竹やぶがありそこへ
  逃げ込んで4時頃までいてから家へ帰ったようなわけでした。 」

   ( p45  「安房農業高等学校 創立五十周年記念誌」昭和50年 )

安房郡北條の安房郡役所にいた飯田義人氏の文から

「 ・・・出しぬけに上下動が烈しく起った、ガタ、ガタ、ガタ、
  ミリ、ミリ、ミリ、瞬く間に柱は外れる壁は崩れる。

  私は子供の時より安政の地震の話を老人より聞かされ、
  又学校の先生よりは瓦の落つることの危険なるを教へられて居たが、

  横に揺れる気長な地震にばかり遇って居たので
  之まで地震の時に驚きの声を発したことは無かった。
  併しこの時ばかりは大声を発した。地震だ地震だ皆出ろッ
  ・・・・・・・      」(p831)

同じく郡役所から飛び出した小瀧作次郎氏の文には

「 地震だ、大地震だと外へ出た、丁度出遭ひ頭の
  工員五六名と手を継ぎ合せて輪になって
  郡役所の入口で倒れずに過ごした、
  前は池田屋、脇は議事堂、何れへ寄っても危険なので
  そればかり気にして居た、そのうちに
  池田屋も議事堂も倒れたので最早大丈夫と思った。
  稲葉さんは池田屋の角で転がって居た事を後で聞いた。 」(p834)


  ( 以上2つの文は「大正大震災の回顧と其の復興」上巻より引用 )


もうひとり、直下地震の体験を記述されている方を紹介。
「震災予防調査会報告」第百号(甲)に掲載されている
理学士阿部良夫氏の文
「関東大震災特に鵠沼海岸別荘地に於ける状況」から一部引用。

「・・・自分は室内に居たが、急に戸、障子、柱等がガタガタ
 ガタガタと揺れ、間もなくドーンと強い音響と共に
 はげしい強い上下動が一回あった。

 この時ほど水平動を雑へない純粋な上下動は
 今まで自分の出会はない処である。
 
 強い上下動はすぐに止んだけれども、
 用心の為に自分は縁側から庭に下りた。
 庭に下りた時には地震は全く止んで居り、
 庭に立って家をかえり見るに何の破損もない。

 『 出るには及ばなかった 』と思う間もなく
 遽に足元がゆらぎ出し、直に自分は地上にたおされた。
 側の松の小木につかまって立ち上ると
 又直にはねとばされる。上下となく、前後となく、左右となく、
 メチャクチャに土地が震れて立ち上る事は出来ない。

 丁度暴風時に甲板に在る様である。
 家の近くに居ては危険と思ったの
 地上をはって門の方へと向かった。  」(p333)
  
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考えばえがする世の中。

2024-08-19 | 地域
昨日は日曜日でしたので、
8月21日の震災講座練習日の案内パンフをコピーして
近場の顔見知りの方に配る。といっても忙しそうで、
いないところはポストへ投函しておく。約20名の方に。
さてっと、数人でも来て下されば。バンザイ。

あと2日。資料作りを励むことにします。
地元の震災記録ですので、まずは地元の方に知っていただきたい。

そうすると、思い浮かぶのは、寺田寅彦の言葉でした。

「昔の日本人は子孫のことを多少でも考えない人は少なかったようである。
 それは実際いくらか考えばえがする世の中であったからかもしれない。」

寺田寅彦の「津波と人間」にある文句です。
さらに言葉はつづきます。

「・・困ったことには『自然』は過去の習慣に忠実である。
 地震や津波は・・・がんこに、保守的に執念深くやって来るのである。

 ・・科学の法則とは畢竟『自然の記憶の覚え書き』である。
 自然ほど伝統に忠実なものはないのである。・・ 」


はい。きちんと記録されている関東大震災の記述から、
その「 『自然』は過去の習慣に忠実である 」ことを踏まえながら、
もう一度、見直して、そこで多くを削って資料づくりをしてみます。

うん。資料つくりは後2日。
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伝えたいことの列挙。

2024-08-17 | 地域
〇 海岸隆起
  今年の能登地震の石川県輪島市黒島海岸の港近辺の隆起写真。
  関東大震災の館山湾の隆起の回想。鷹の島近辺についての写真。
  そこから、元禄地震のころの汀線(波打ち際)の状況をふりかえる。

〇 関東大震災の各町村の被害状況の比較図を頭に置いておく。
  活断層が、地震により同じ個所でまた繰り返される可能性を念頭に。
  その貴重な「安房郡震災被害状況図」を忘れずに示しておく。

〇 各町村の被害状況の数値一覧表を、
  分かりやすい表にしたもので引用しておく。
  ( 「安房震災誌」に載るのは漢数字だったり、手書きだったり )
  同じものでも、読みにくいかもしれないので、
  元資料は「安房震災誌」であっても、新しい一覧表にしたものを載せる。

〇 M7以上の地震が、関東大震災ではどのような頻度だったのかを
  武村雅之著「関東大震災がつくった東京」から図と共に示す。

〇 関東大震災の余震頻度を、
  吉村昭著「関東大震災」から引用して、毎日の余震に
  見舞われていたことを明確にしておく。

〇 安政の地震について、『安房震災誌』に安房郡にはその頃の資料が
  なかったこと、それに比して関東大震災の安房郡には資料があること。
  ( 郡長制度が、大正12年に廃止となり、大正15年まで残部整理と
   して存続されていた状態にあり、その最後の年に安房震災誌発行 )
  資料として記録をとる。後世に残すこと。後世がそれを活用すること。

〇 直接に直下地震を体験した記録として、回想を列挙しておく。


とりあえずは、練習日に以上の事を忘れずに指摘しておけるように
資料をまとめておきます。はい。まとめるのは苦手で、
いつものように、前日ぎりぎりになるかもしれない。

とりあえず、来週の8月21日は、練習日なので
安房郡長・大橋高四郎までは、とても言及できないだろうなあ。


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震災講座練習日案内。

2024-08-16 | 地域
8月21日(水曜日)午前9時45分集合の講座練習日。
その日のお話内容のパンフレット的紹介案内です。

大正13年9月1日に「震災記念碑」が
安房郡南三原村に建立されておりました。
現在は、和田町下三原の龍神社参道の
日露戦争記念碑に並んで建っております。

地震は、地区全体をまんべんなく巻き込むわけではなく、
その碑文に、こうありました。

   松田 海発 下三原 沼区 最激震
   白渚 中三原 一部被害稍(やや)軽微

関東大震災のちょうど一年後に建立されたこの碑文には
 
  死者22 負傷86  とあり
  倒壊・・住宅324 半壊・・住宅61 とあります。

その後の地震はどうだったかも記載されております。

 余震数百回 人心恟々(きょうきょう)

はい。余震におびえ半壊の住宅であっても入れない状況です。

「 或露臥樹蔭 或眠食假宿 」。ここを、私なりに現代語訳すると、
 「 あるいは露を避けて木の陰に臥し、そこを仮の宿として眠り食す 」

さて、百年後の現在なら、余震の間にどこを仮の宿とするかというと、
近場の耐震補強された公共施設へ、逃げこむことになるのでしょうか。

 海発地区にある安房拓心高校は、普段生徒がおりますので、
 かってに出入りはできませんが公共の避難場所に指定されております。
 
 その場所をかりて、講座「安房郡の関東大震災」をひらきます。
 今回その練習日として、8月21日(水曜日)をお借りしました。
 自由参加なので近場の避難訓練をかねたご来場を賜りますよう
 願っております。南三原の「震災記念碑」記述を踏まえながら、
 関東大震災の、安房のローカルな特色を語らせていただきます。
 
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1年1時間の講座。

2024-08-14 | 安房
この夏は、8月28日に、1時間の座学をします。
先だって、8月21日に、予行練習することに。
はい。どちらも水曜日午前9時40分集合で、
南房総市にある拓心高校の図書室でおこないます。

昨年の座学の際には、内容を頭の中でもってあれこれ思い描きながら、
それに、付け加え、削ったり、無い頭をこねくりまわしておりました。

今年は、当ブログで、あれこれ思い描けることを毎回書き出しており、
とりあえずは、頭の中の糞(ふん)詰まりが解消しているので、こと
この夏の頭の中は、風通しのよい状態に保つことができたのでした。

8月28日は、正式な丸山公民館講座の一環なので、
公民館の募集受付(0470‐46‐4031)を通さなければなりません。
本番は、学校側の高校紹介や見学もあるのでした(こちらは
正式に募集をしておりますので、記載してもいいでしょう)。

8月21日は、予行練習日として特別にとって頂きましたので、
受付は当日ふらりでOK。ただし学校側の管理もありますので、
午前9時40分の学校事務所へと時間厳守となります。
そこから、図書室へと移動して、座学の予行練習をします。

そうそう題名は「安房郡の関東大震災」。
本番当日の副題「安房郡長・大橋高四郎」。

予行練習日は、どちらかというと関東大震災の学校近辺にかかわる話
にしようかと思っております。こちらは予行練習なのでお気楽なお話。
関東大震災がじつは、直下型の地震であったこと、当地区では隆起は
あったものの、津波は来なかったこと。直下地震の家屋転覆のようす
などを、予行練習日は、近所の人をさそって30分ほど話しておしまい。

ということで、これから来週の練習日のお話しを組み立てようと思います。
はい。今日はこんなことを思いました。

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講座参考本⑳

2024-08-13 | 安房
鎌田浩毅著「日本の地下で何が起きているのか」
 ( 岩波科学ライブラリー・2017年 )をひらいてみる。

鎌田氏の文は切れ味よく、飲みこめるのですが、いけません。
「首都圏周辺の活断層・・」(p54)という図があります。
関東の茨城・埼玉・東京・神奈川・静岡・千葉のはいる地図が
そこにあるのですが、何とまあ、千葉県の下、安房の箇所が
その地図から見事にカットされております。

うん。私は「安房郡の関東大震災」と題して語る予定なのに、
その安房郡が千葉県もはいっている地図からカットされている。

はい。新しく出た本ではどうかとめくってみると、
鎌田浩毅著「揺れる大地を賢く生きる」(角川新書・2022年10月10日発行)
にも、ほぼ同じ図がある(p43)。その図に題された言葉は
「関東南部の活断層と過去に起きた大地震の震源。」として
M7以上を中心に記されておりました。

はい。私がこれから話そうとする安房郡は、
蚊帳の外ならぬ、関東の地図の圏外でした。

はい。それだからなのでしょうね。今まで、
「安房郡の関東大震災」というテーマで語る方を知らなかった。


まあ、それはそうとして、
鎌田浩毅著「日本の地下で何が起きているのか」から
気持ちいいフレーズを引用しておきます。

「特に、震度7がどういう状況をもたらすかが
 あまり知られていないのは、非常に危険である。
 震度の階級では7が最大であるが、
 その揺れは震度6強とは大きく異なる。

 震度6強では固定していない家具が転倒するが、
 震度7ではピアノやテレビが空中を飛んで壁に激突する。

 人は震度7の中ではまったく動くこともできず、
 ただうずくまっているだけである。        」(p55)



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講座参考本⑲

2024-08-12 | 地域
農文協「日本農書全集66」(1994年4月25日発行)は
「災害と復興1」とあり、その資料のなかに
「高崎浦地震津波記録(安房)長井杢兵衛」(p359~385)
が入っております。解題は古山豊。その解題のはじまりを引用。

「『高崎浦地震津波記録』は、千葉県安房郡富山町高崎の永井家に
 伝わる元禄地震・津波(元禄16〈1703〉年)の体験記録である。
 
 文書には長井とあるが、現在は永井という文字をあてている。
 長井氏・・成立年月日も定かではないが、体験者自らが
 被害の詳細を伝えているところから、地震発生直後に
 書きとめたものと推定される。

 筆者の長年にわたる元禄地震に関する調査で接した文書中、
 被害のようすをこれほど具体的に、かつこと細かな観察をもって
 記しているものはほかにない。その意味では一級の資料に属する。
 ・・・・・
 『高崎浦地震津波記録』は、現在の岩井海岸南部の高崎浦を
 中心とした地震の発生から終息までの、ほぼ三か月間の記録である。」

はい。記録の現代語訳も載っているのですが、
ここには、古山氏の文から引用をつづけます。

「地震による被害がとくに岩井海岸に集中している原因を分析すると、
 久枝川の存在が大きく関係していることが理解される。
 
 町村内に川があるか否かによ被害に大きな差があった例として、
 外房の鴨川市、九十九里浜南部の長生村や白子町などがあげられる。」

「元禄地震は、元禄16(1703)年11月23日の子の刻に発生した地震である。
 そして、丑の刻に津波が押し寄せたとこの地震の関係文書は記している。

 子の刻とは午後11~午前1時、
 丑の刻とは午前1~3時を指し、
 それぞれ2時間の幅がある。

 今日のように正確な時刻を確定できないのが残念であるが、
 永井家の文書には、他の文書にはない九ツ時分(午前0時~1時)と、
 かなり具体的に示されている。

 11月23日は、太陽暦で12月31日に当たる。
 つまり、真冬の夜中に地震があり津波が発生したことになる。
 ・・・・・
 地震がおさまったのは、永井家文書などによると
 翌年の2月中旬ころである。

 ・・・・地震発生わずか4年後・・
 富士山八合目付近の南東の山腹から大噴火が起こった。
 これが宝永の富士山噴火といわれる・・・・ 」

まだ、引用したいのはやまやまですが、
あと、ここだけでも引用しておきます。

「・・元禄時代が豊漁期であり、かつ漁業の発展期でもあった
 点があげられる。紀州からの漁民が房総半島に漁法を伝え、
 しだいに定着してきたのがちょうどこの時期であった。

 しかも元禄時代は江戸時代第二期目の豊漁期に当たる。
 そのため、どの浦辺でもすぐに出漁できるよう
 海岸近くには納屋が設けられていた。
 
 本来納屋は、漁具の置き場として建てられた小屋であったが、
 豊漁期であったこの時期には、いつでも出漁できるように、
 しだいに漁師の生活の場へと変化した。
 そのため、磯辺には多くの人々が寝起きしていたため、
 津波の襲撃をまともに受ける結果となった。 」(~p380)


注:古山豊氏と紛らわしい名前に、古川力氏がおりました。こちらは、
「郷土研叢書Ⅳ 安房災害史 元禄の大地震と津波を中心に」(昭和59年)に
古川力の論文「古記録に見える元禄地震と九十九里浦」(p39~67)があり、
また、古川力著作集「九十九里の研究」(崙書房・昭和62年)もあります。
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講座参考本⑱

2024-08-11 | 地震
前回、吉村昭著「関東大震災」でしたので、
今回、吉村昭著「三陸海岸大津波」(文春文庫)から引用。

「 三陸沿岸を襲った津波は、数知れない。
  その主だったものをひろうと・・

① 貞観11年(西暦869年7月13日)・・(「三代実録」による)
② 天正13年(1585年)
③ 慶長16年(1611年)10月28日
➃ 慶長16年11月13日
⑤ 元和2年(1616年)7月28日
⑥ 慶安4年(1651年)
⑦ 延宝4年(1676年)10月
⑧ 延宝5年3月12日(1677年4月13日)
⑨ 貞享4年(1689年9月17日)
⑩ 元禄2年(1689年)
⑪ 元禄9年(1696年)
⑫ 享保年間(1716‐1736年)
⑬ 宝暦元年(1751年)
⑭ 天明年間(1781‐1785年)
⑮ 天保6年(1835年)
⑯ 安政3年(1856年)
⑰ 明治元年(1868年)
⑱ 明治27年(1894年)
  明治29年6月15日
              (p60~62 「三陸海岸大津波」)

このあとに、章をあらためて「昭和8年の津波」が語られておりました。
「三陸海岸大津波」には、第二章「昭和八年の津波」に「子供の眼」という
箇所がありました。
そのなかに尋常小学校6年の牧野アイの作文が載っております。
ここには、そのはじまりの箇所を引用。

「 ガタガタとゆれ出しました。
  そばに寝ていたお父さんが、
 『 地震だ、地震だ 』と、家の人達を皆起して、
  戸や障子を開けて外に出たが、又入って来ました。

  けれどもおじいさんは、
 『 なあに、起きなくてもいい 』と言って、
  平気で寝て居ました。
  すると、だんだん地震も止んできました。
  お父さんは、それから安心した様子で火をおこして、
  みんなをあててくれました。
  ちょうど体があたたまったころに、お父さんが、
 『 なんだかおかしい。沖がなってきた、山ににげろ 』
  と言います・・・・       」(p130)


ここには、そのつづきを
 森健著「『つなみ』の子どもたち」(文藝春秋・2011年12月10日)
からたどってみることにします。

「アイの家は田老の浜辺から120メートルほどのきわめて近いところにあった。
 深夜に襲った地震に牧野の家族は逃げようと準備をした。
 アイはたまたま玉沢とし子というお手伝いに手をとられて、
 裏山の赤沼山へ避難したが、ほかの家族七人は逃げ遅れた・・・」(p248)

こうして牧野アイさんは、昭和8年の津波を経験し、
さらに東日本大震災にも遭遇することとなりました。
森健氏の本には、アイさんの娘・栄子さんの述懐があります。
最後に、その箇所を引用しておきます。

「 栄子の記憶には、アイのこんな習慣が深く刻まれている。
 『 母は津波を忘れないために、
   夜寝るときには、洋服をきちんと畳み、
   着る順番に枕元に置いておく。
   玄関の靴は必ず外向きにして揃えておく。
   避難の際は赤沼山への道を決めておく。
 
   また、お盆のお墓参りでは必ず墓碑銘を読みあげ、
   誰が津波で死んだかを口にしていた。

   どの振る舞いも母自身への津波への教訓であると同時に、
   私たち子どもたちへの防災教育でもあったのです。 』・・」(p250)
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講座参考本⑰

2024-08-10 | 地震
吉村昭著「関東大震災」(文春文庫)。
ここに、余震に関する記述がある。

「9月1日午前11時58分に相模湾を震源地として起った大地震は、
 おびただしい余震をひき起した。

 3分後の午後零時1分49秒には、
 揺り返しと称される大地震が起り、
 午後1時までに強烈な地震が7回にわたって災害地を襲い、
 その後も夕方までに3度の強震があった。

 これらの強震以外に軽度の地震が絶え間なくつづき、
 同日午後12時までの12時間に、総計128回の余震が起った。

 これらは、すべて相模湾を震源地とするもので、
 家屋の倒壊と大火災におびえる人々を戦慄させた。

 さらに翌2日午前11時46分55秒には、
 前日の大地震につぐ激烈な地震が起り、
 人々は激しく揺れる大地に恐怖の叫び声をあげた。

 この大地震は、房総半島勝浦沖を震源地とするもので、
 相模湾を震源地とする前日の大地震によって誘発されたものであった。
 そして、この勝浦大地震も多くの余震をひき起した。

 相模湾と勝浦沖をそれぞれ震源地とする余震が、
 互いに入り乱れて災害地を襲った。
 そして、その日午後6時27分4秒と午後10時9分29秒に起った
 強烈な地震をふくめて、計96回の余震が続発した。

 しかし、その余震も9月3日には59回、
 4日43回、5日34回、6日27回、7日23回、8日21回と
 次第に減少傾向をたどっていった。・・・ 」(p280~281)

ちなみに、
武村雅之著「関東大震災がつくった東京」(中公選書・2023年)には、
図「関東地震の本震の断層面とM7以上の余震の分布」(p22)があり、
表「余震の発生時刻と発生場所」(p23)と二つして分かりやすいのでした。

最後に一覧表の文章項目を引用しておきます。

本震 大正12年9月1日11時58分 相模湾   M8.1
余震 大正12年9月1日12時01分 東京湾北部 M7.2
       9月1日12時03分 山梨県東部 M7.3   
       9月1日12時48分 東京湾   M7.1
      
       9月2日11時46分 千葉県勝浦沖M7.6
       9月2日18時27分 千葉県東方沖M7.1

   大正13年1月15日05時50分 丹沢山地 M7.3


武村氏の本については、もうすこし引用しておきます。

「先に紹介した岐阜測候所の記録は、本震だけでなく多くの
 余震についても完全な記録を残している。
 これらの記録の分析から震源位置を評価し、
 本震同様にマグニチュードMを決めると、
 実に6つの余震がM7以上の規模であることがわかった。」(p22)

うん。せっかくなので、最後にここも引用しておきます。
関東地震の震源断層面の位置を図で示して、解説している箇所です。

「・・神奈川県のほぼ全域と千葉県南部は断層の直上にあたり、
 震度7の地域も広い。・・・・・

 これに対して、東京は東京湾の奥に位置し、震源断層からは外れている。
 このため、当時の東京市15区では最大の本所区でも住家全潰率は22%で
 震度6強と評価され、次いで深川区、神田区、浅草区では震度6弱、
 中心部の日本橋区や京橋区では震度5程度である。

 海外では関東地震のことを東京地震と呼ぶこともあるが、
 揺れの中心は決して東京ではなかったことがわかる。  」(p21)



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