和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

それからの7年。

2022-07-31 | 本棚並べ
長谷川洋子著「サザエさんの東京物語」の単行本は読んでいたのですが、
文庫本が、古本として異様に高かった時期があって買わずにおりました。

その文庫が古本でも安く手にはいるようになったので、思い出し
買いました。文庫本には、単行本になかった文が追加されてます。

三女の洋子さんは、零細出版社を立ち上げたことまでが単行本にありました。
『それからの7年』というのが文庫本に追加されてます。
うん。晩年の洋子さんが登場しておりました。

「私は平成15年に、仕事に見切りをつけていた。
 はじめから日本一小さい出版社と自覚はしていたが、
 やはり一人では何かと手が回りかねた。
 
 スタートの時から次女と二人三脚で始めたのは正解で、
 いろいろの点で助かった。本を読むにしても私の三倍は早く・・・」

目と耳のことが記されています。

「70を越えた頃から本や原稿が読みにくくなり、
 周囲の景色もぼやけてきた。病院で診てもらったら両眼とも白内障・・

 手術を受けた。・・初歩的なミスがあり、以来、階段の上り下りにも
 不自由するようになった。一年ほど、我慢した挙句、よその病院で
 再手術をしてもらった。
 左右の眼の違和感はなくなったが、期待したほど視力は出なかった。
 本も読みにくいし、校正もはかどらない。

 それからしばらくして突発性難聴におそわれた。
 突然、頭の中がガーンと鳴り響いて、両耳が塞がれたように音が遠のいた。
 耳鳴りもひどく、家族との会話も出来なくなった。

 突発性難聴は時間との勝負と聞いていたので、
 急いで病院に駆けつけた。ステロイドの大量投与で片耳だけは助かったが、
 それでも補聴器が必要な生活になっている。  」

うん。最後の箇所も引用しておかなきゃ。

「仕事をやめるにあたって心残りはなかった。・・・
 いろんな経験に出合う機会を与えられた。

 家の中にこもっていては知らなかっただろう世間というものも、
 少しだけ垣間見た気がする。

 結論を言えば、面白く楽しかった!
 という思いだけが残っている。儲からなかったけれど。
 関わって下さった全ての方に、心からお礼を申し上げたい。 」
               ( ~p220 )

そのあとに「文庫版あとがき」。あとがきには2015年1月と日付。
そのあとの、解説は江國香織さん。

長女まり子さんの晩年のことも記されております。

「まり子姉は平成24年に94歳で亡くなった。
 ・・・・・・・

 94歳か! と私は長寿に感嘆する思いがあった。
 なぜなら姉は若い時から心臓に持病があり・・・
 弁膜症だからなるべく安静にするようにと言われていたのだ。
 ・・・

 負けん気の強い姉は、医者の注意も家族の心配も一蹴した。
 毎日ウォーキングを欠かさず、仕事の合間にはデパート通いや
 芝居見物を楽しみ、おいしいものには目がなかった。
 肥ることは心臓の負担になると常々注意されていたが、
 全く意に介さなかった。・・・・

 また、癇癪持ちでもあって、気に入らないことがあると
 火山の爆発のような荒々しさで足を踏みならし、
 テーブルを叩いて怒鳴り散らした。・・・・

 弁膜症と診断された名医も、
 健康管理に常に親切な助言をして下さった女医さんも、
 姉より年下でいらっしゃったが、先に鬼籍に入られた。

 人の寿命は誰にも分からないものだということを、
 自ら証明して、姉は反骨精神を貫いて幕を閉じた。  」(~p218)


 はい。遠くから便りが届いたようにして、
 短文「それからの七年」を、読みました。


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ピチクリ ピイ。

2022-07-30 | 本棚並べ
まど・みちお『風景詩集』(かど創房・昭和54年)に
詩「もうすんだとすれば」がはいっておりました。

この詩集の、装幀画=まど・みちお。
詩だけでは、現わせきれない世界が、
自身の挿画にも展開されるのでした。

「YAMAGUCHI MAO 山口マオ作品集」(玄光社・2022年7月19日)
というのを手にしました。そこに2ページの対談が載ってる。
葛西薫×山口マオ。ちなみにマオ猫といえば気づく方がいるかもしれない。

絵本の画を、マオさんは描いている。
いきおい、絵本の話になっておりました。

マオ】 ・・・・絵本は、いいものを作りたいという  
      情熱がないと続けられないですね。

葛西】 芯から絵が好きじゃないとね。

マオ】 そうですね。絵本は誰でも出来るものではなくて、
    書き手の気持ちにならないと描けない。

    かと言って、逆にサービスをしすぎても、
    説明しすぎてもだめでしょうね。
    少し不器用なくらいの方がいいのかも。
    僕はどちらかと言えば不器用なほうです。

   ・・・・・・・・・・・

マオ】 ・・・・特に、いい文章だと、読んでいるうちに
    絵が思い浮かんで来るんです。

葛西】 それはすごい話だなあ。
    確かにいい文章やいい言葉に出合うと、
    僕も絵が生まれますね。言葉に触発されるというか、
    言葉が醸す空気なんでしょうね。
                    ( p117 )


この夏の私は、初山滋に惹かれ、彼が描いた絵本なども
気になれば、ポツリポツリとネット古本で購入してます。
つい最近手にしたのは、函入りでした。
フレーベル館「新しい子どものうた3 ことりのうた」(1971年)
別冊として楽譜集がついている。
各ページ見開き2ページに歌の活字があり、どの歌の絵も初山滋。
もちろん、表紙絵・初山滋。

この本の歌を、ならべておきます。

 ことりのうた・めだかのがっこう・おはながわらった
 みつばちぶんぶん・ぶらんこ・もりのよあけ・おほしさま
 トマト・ちいさいあきみつけた・こなゆきこんこ・こもりうた。

はい。各見開きごとに、ちがう絵の初山滋。
うん。どういったらよいのか。作詞者が何よりもこの絵の最初の読者。
そういいたくなるような、歌と絵とで完結した世界が醸し出されます。
その緊密な、歌と挿画のコラボを、いっしょに楽しませてもらう一冊。

竹迫祐子編「初山滋」(河出書房新社・らんぷの本・2007年)。
そのはじめに、初山滋の言葉がありました。そのはじまり。

「 私は、自分の仕事のすべてを童画にささげているが、
  自分の仕事を窮屈にかんがえてはいない。

  私は自分の絵の中に、たのしくねっころがって遊んでいる。
  
  時には絵の中に甘えた自分の心が、子供のように
  茶目振りを発揮していることがある。かと思うと・・・・・

  ・・・・・
  絵を描いている私の心は、童心の世界を漫歩しているのだ。
  これは実在の子供の世界とは違う。なんというのか・・・

  言葉では言いあらわせぬ絵の中に甘え切れる心、
  私は、いつもその用意をして筆をとる。・・・・     」


非力な私に、本「ことりのうた」の、絵を説明できないのが残念。
せっかくなので、歌詞「ことりのうた」の一番を引用し終ります。

     ことりのうた    与田準一

    ことりは とっても
    うたが すき
    かあさん よぶのも
    うたで よぶ
 
    ピピピピ ピ
      チチチチ チ
        ピチクリ ピイ
  

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遅れすぎて 進んでいるのだ。

2022-07-29 | 詩歌
本を3冊。

① 岩波少年文庫「イソップのお話」河野与一編訳。
② ちくま学芸文庫「荘子 内篇」福永光司/興膳宏訳
③ 阪田寛夫著「まどさん」


 「『イソップのお話』を、いままで一つも読んだことがないという人は、
  めったにいないでしょう。私たちはごく小さい時から、絵本や教科書
  などを通じて『イソップのお話』に親しんでいます。」

はい。河野与一さんは、「あとがき」をこうはじめておりました。
うん。あとがきから、ここも引用してみます。

「 イソップの名が歴史に残っている最初の記述は、
  ヘロドトスの『歴史』の第二巻の中で、それによると、
 ㈠ ギリシャにイソップという人がいて、寓話を作ったり
   話したりして名声を得ていたこと。
 ㈡ 有名な女奴隷のロドビスといっしょに、サモスの人
   イアドモーンの奴隷であったらしいこと。
 ㈢ デルフォイの人々が、イソップを殺し、
   それをのちになってつぐなうために、イソップの血の
   代償を受ける人を探したところ、イアドモーンの孫が
   来て受けとっていったことが記録されているのです。  」


②「ところで、荘子の生きた西暦前4世紀の中国とはいかなる時代か。
  それは古代中国の歴史において、戦国時代とよばれる、闘争と殺戮
  の血なまぐさい時代であった。
  戦国時代の歴史が7つの大国・・・を中心として展開するが、
  これらの大国にとって最大の関心は、『国を富ます』ことであり、
  『兵を強くする』ことであり、そのための権力の狡知であった。

  内においては絶え間なき苛斂誅求(かれんちゅうきゅう)が、
  外においては不断の戦争侵略が、人間の生活を闘争と殺戮のなかで
  凌辱し、飢餓と流亡のなかで翻弄した。

『今の世は殊死の者(刑死者)枕を並べ、桁楊の者(罪人)道路にひしめき』
『殺され死せし者は沢を以て量る』と懼れさせ、
『人間が生きるとは、憂(かな)しむことだ』
    ( いずれも「荘子」のなかに見える言葉 )

   と歎かせた不安と絶望の社会が、戦国時代なのである。
   荘子が生きたのは、このような不安と絶望にみたされた時代であった。
   彼の哲学は、このような不安と絶望の超克として始まるのである。 」
                      ( p289 )

「 彼らにとって人生とは、
  そのまま理想につながる直線的なものではなく、
  遠まわりし、後ずさりし、傾き、また覆る曲線的なものであった。

  彼らにとって、幸福とは裏返された不幸であり
  喜びとは、くつがえされた悲しみであった。
  
  そこではもはや、人間が『喪(うしな)う』ことを
  考えることなしには『得る』ことが考えられず、

  『亡びる』ことを考えることなしには、
  『存(ながら)える』ことが考えられなかった。

  『死ぬ』ことを考えることなしには
  『生きる』ことが考えられず、

  『無い』ことを考えることなしには
  『有る』ことが考えられなかった。

   ・・・・
   進むことのいさぎよさよりも
   退くことの強靭さに刮目(かつもく)した。
   ・・・・
   荘周が生きたのは、このような宋の文化の伝統のなかであった。
   彼の哲学は、このような暗い谷間の叡智を、
   その精神的な風土として成育したと思われるのである。  」(p291)


③ イソップと荘子のつぎに阪田寛夫著「まどさん」。
  戦争中の、台湾でのまどさんについて知る事ができます。

  最後は、まどさんの詩をあらためて引用

    もう すんだとすれば      まどみちお

   もうすんだとすれば これからなのだ
   あんらくなことが 苦しいのだ
   暗いからこそ 明るいのだ
   なんにも無いから すべてが有るのだ
   見ているのは 見ていないのだ
   分かっているのは 分かっていないのだ
   押されているので 押しているのだ
   落ちていきながら 昇っていくのだ
   遅れすぎて 進んでいるのだ 
   一緒にいるときは ひとりぼっちなのだ
   やかましいから 静かなのだ
   黙っている方が しゃべっているのだ
   笑っているだけ 泣いているのだ
   ほめていたら けなしているのだ
   うそつきは まあ正直者だ
   おくびょう者ほど 勇ましいのだ
   利口(りそう)にかぎって バカなのだ
   生まれてくることは 死んでいくことだ
   なんでもないことが 大変なことなのだ 


うん。朝のセミが鳴いている。
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本をバラバラに破って。

2022-07-28 | 本棚並べ
この頃になって、
初山滋の版画が気になっておりました。

それでもって、古本で購入したのが、
500部の豪華限定版の初山滋版画集。
昭和51年発行・(縦52㎝×横37㎝)。

古本で一番安かったのは5000円。
5000円+送料1100円=6100円。

夏は、大胆に過ごします。パッと買って。
豪華限定版をページごとバラバラにする。
バラバラにして一枚一枚を数えると、
切り取り方によりますが、私の場合35枚とれました。

バラバラにしてから計算すれば、一枚が約180円なり。
このサイズの額を買えば、ひとつ2000円はするので、
額を買うのは勿体ない、廃品の段ボール箱の一面に
版画集の一枚をセロテープで四隅をはりつけてから、
段ボールの方の上に二箇所穴をあけて紐を通し
壁掛けに出来るようにする。

はい。これで一枚180円の豪華初山滋版画コレクションの完成。
むろん、版画の微妙な色彩は本物とはおおちがいなのでしょうが、
物は考えよう。本物の版画を掛けておくと、色合いは刻々とあせて来る
(ちなみに、この版画集には2枚の原画が別冊としてついておりました)。


これをするにあたって。そうだそうだと思い
浮かんだのが、丸谷才一著「思考のレッスン」(文芸春秋・1999年)。

その「レッスン4 本を読むコツ」に、本はバラバラに破って読め
とあったのでした。読んだ時は素通りしていたのですが、
きっとどこか気がかりで引っかかるものがあったのですね。
引用。

――・・丸谷さんの読書でびっくりしたのは、
    本が本の形をなしていない。
    バラバラにされて本棚に置いてあったことです。

丸谷】 僕は本をフェティシズムの対象にするつもりはまったくない。
  大事なのはテクストそれ自体であって、本ではないと思っているんです。
  美本を愛蔵するといったような趣味はまったくありません。

  だから、平気で本に書き込みするし、破る。
  一冊の本を読みやすいようにバラバラにする(笑)。
  あれは出版社の人にはとてもいやがられるんだなあ(笑)。

   ・・・・・

――原理原則としてはわかりますが、
  一冊一万円の『蕪村全集』をバラせるかというと、
  それはなかなか勇気の要ることですよね。

丸谷】 うーん。『蕪村全集』ねえ。
    やっぱり一万円だったら、僕も心が怯(ひる)む
    かもしれないねえ(笑)。

   それは極端な例として、文庫本を読むときなどは、
   心置きなく破って、必要なところだけ切って読む。
   軽くて持ち運びにも便利だし、どこでも取り出して読める。

   とにかく本というものは、読まないで
   大事にとっておいたところでまったく意味はないんです。
   読むためのものなんだから、読みやすいように読めばいい。

             ( p169~170 単行本 )


うん。美術関連でいえば、バラバラにしたこの版画集にしても、
本をとじて本棚にしまってしまえば、もう開くのも億劫になる。
そのうちに、きっと断捨離が誰かの手ではじまるかもしれない。

そういえば、主なき家から、拝借してきた
文化庁監修「重要文化財」毎日新聞社は
建築・仏像・絵画とうに分かれて数十冊。
そのうちにの一冊をひろげると
昭和48年発行で4300円とあります。
そのまま見ないままで積んである。
そのまま見ないままになるかもしれない。

うん。ここまで書いてきて思ったのですが、
私のブログは引用の断片でできております。
な~んだ。バラバラに引用しておりました。
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夏は、すぐ来て、すぐ終わる。

2022-07-27 | 本棚並べ
水曜日は、自由時間なので、
主なき家の草刈りで午前中を過ごす。

はい。よい天気過ぎて、30分ごとに休んでは、
ポカリスエットイオンウォーターをがぶ飲み。

普段でも汗かきなので、シャツはビシャビシャ。
飲んだり、着替えたりで、何をしているのやら。

200円で買った古本に
「毎日読みたい365日の広告コピー」(ライツ社・2017年)。

日付で1ページに、1コピーが載ってる。
はい。わたしの事だからパラパラ読み。

ぱらりとひらけば、

「 夏は、すぐ来て、すぐ終わる。 」

というのが、目にはいってくる。
うん。今年の夏は、すぐ終わらないように。
なんて、つい殊勝にも思ってしまうコピー。

ちなみに、下の細かい文字をみると

「 夏期講習 / 東進ハイスクール 」
 新聞 2012年 コピーライター:福井秀明(電通)

とありました。
うん。この夏。この1ページ。200円。


ちなみに。お昼は帰ってきて、ビールに、ワインに
リンゴ酢のソーダ割に、お茶にと・・・・。
こりゃまた、汗かくなあ。
まあ、しっかり食べられたのでよしとします。

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カマキリ。蚊と虻と馬。

2022-07-26 | 本棚並べ
「 祇園祭りの山鉾巡行に蟷螂=カマキリがからくりで動くという。
  これは役(えん)の行者による疫病人搬送に始まるという
  祇園祭にふさわしく、京都文化の恐ろしいまでの創造である。・・」

  ( p195 塚本珪一著「フンコロガシ先生の京都昆虫記」青土社 )

荘子を読み始めると、昆虫では蝶がでてきたり、カマキリもでてくる。
ここでは、そのカマキリ。

「 君はあのカマキリを知っているだろう。
  その腕を振り上げて車輪に立ち向かってゆくが、
  自分の力では手に余る相手と知らないのさ。

  あれは自分の才能に思い上がているんだよ。
  だからくれぐれも慎重にしなさい。
  もし君が自分の才能をたのんで
  相手にたてつくようだと、危険なことになるね。 」

そのあとに、動物が語られます。虎飼いを語り、最後は馬でした。
ここには、馬がどう語られていたか。

「 また馬好きの人ときたら、
  竹かごで糞を受け、大ハマグリの殻で小便を取ってやるほどだが、
  
  たまたま蚊や虻が馬にたかっているとき、
  不用意にからだを叩こうものなら、
  馬は銜(くつばみ)を噛み切り、
  頭を傷つけ、胸をくじくまでに暴れまわる。

  切実な愛情でそうしたのに、その愛情がだいなしになってしまう
  わけだ。だから慎重にしなくちゃならないのさ。   」

   ( p142 福永光司/興膳宏訳「荘子内篇」ちくま学芸文庫 )


余談ですが、塚本珪一著「フンコロガシ先生の京都昆虫記」には、
祇園祭の蟷螂山について、続きがありました。

「・・もう一つ、町内での解説には、南北朝時代に
 足利義詮軍に挑んで戦死した当町在住の公郷
 四条隆資の戦いぶりが『蟷螂の斧』のようであったとする。・・」(p195)


荘子にもどります。
ちくま学芸文庫の現代語訳は、簡潔を旨として興膳宏氏が訳しておりますが、
福永光司氏の解説は、長くても、一歩踏み込んだ文になっていました。
直に漢文の引用は、素人にはシンドイので、ここは福永氏の文を引用。

「・・・・そなたも見たことがあるだろう。
 ウデをふり立て、身のほども弁(わきま)えず、
 道ゆく車の輪に挑みかかって押しつぶされる
 あの螳蜋すなわち、カマキリの思い上がった愚かさを。

 あれは自己の才能を誇り、おのれの美を恃(たの)む
 者の愚かしい悲劇の象徴だ。くれぐれも戒めるがよい。
 ・・・・

 いったい、権力者の恣意(しい)は、
 飢えたる虎の狂暴さにも譬えることができよう。
 そなたは知っているだろうか。あの恐ろしい虎を
 調教する猛獣師というものを。・・・・・・・・
 ・・・・・・・・
 ・・・
 馬のように従順な家畜でも手に負えなくなるであろう。
 というのは、かの馬を大事にする人間は、
 汚い馬糞を盛るのに立派な筐(かご)を惜しげもなく使い、
 馬の小便を入れるのに美しい大蛤の殻を用いて、
 至れり尽くせりの扱いをするが、それほど心をこめて可愛がっていても、

 たまたま馬の体に蚊や虻のたかっているのを見て、
 いきなりその体を叩けば、馬は狂奔して銜を噛み切り、
 
 首を傷つけ胸を打ち砕いて、
 手に負えないほど暴れ狂うものである。・・・・」

    ( p195~196  福永光司「荘子内篇」朝日文庫  )


はい。漢文を引用するのは、私はまったくダメなのですが、
徒然草ならば、かえって現代語訳よりも原文が分りやすかったりします。
徒然草第186段に『馬乗りとは申すなり』がありました。その全文。

「 吉田と申す馬乗りの、申し侍りしは、
 
 『馬毎(ごと)に、強(こは)きものなり。
  人の力、争ふべからず、と知るべし。

  乗るべき馬をば、先づ良く見て、強き所・弱き所を知るべし。
  次に、轡(くつわ)・鞍(くら)の具に、危き事や有ると見て、
  心に懸かる事有らば、その馬を馳すべからず。

  この用意を忘れざるを、馬乗りとは申すなり。
  これ、秘蔵の事なり』と申しき。        」

そういえば、徒然草の第238段は、
兼好自身の自讃の事を7つ取り上げている段なのですが、
そこでは、はじまりに馬が出てきております。
ここでは、島内裕子さんの訳で

「 馬乗りの名手として知られた随身(ずいじん)・
  中原近友(なかはらのちかとも)の自讃と言って、
  自慢話を七箇条、書き留めたものがある。

  それらはすべて馬芸に関することであって、
  大したものではないものばかりである。
  それなら、私にだって自讃のことが七つある。  」

  ( p455 島内裕子校訂・訳「徒然草」ちくま学芸文庫 )

はい。第238段は馬乗の自慢話から兼好の自讃へつながる。
うん。祇園祭から荘子へ、さらに徒然草とつながりました。
 



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ゆったりとそのかたわらに。

2022-07-25 | 古典
荘子の逍遥遊篇。それはわりかし最初の方にありました。
漢文は難しい。読むのはやめとこうと思う最初の方です。

「恵子(けいし)が荘子にいった」とはじまっています。

恵子とは、どなた?

「恵施(けいし・施はその名前)は
 孟子との問答で有名な梁(りょう)の恵王に仕えた
 荘子と同じ頃の論理学者であり政治家である。

 荘子との交渉も当時の思想家のなかでは最も密接であり・・・

 恵施の荘子に対する批判の重点は、要するに荘子の思想が
 余りにも超世俗的で現実に何ら役だたないということにあるが、 
 荘子はその非難に対して『無用の用』ということをもって答える。」

           ( p54 福永光司「荘子内篇」朝日文庫 )

はい。それでは、樗(おうち)が出てくる箇所。
そこを、現代語訳で引用。

「 恵子(けいし)が荘子にいった。
 『ぼくのところに大木があって、みなに樗と呼ばれている。

  その幹はこぶだらけで墨縄(すみなわ)もあてられず、
  小枝は曲がりくねってぶんまわしや差しがねもあてられない。
  道ばたに立っているのに、大工も知らぬ顔だ。

  ところで君の議論にしても、大きいばかりで役に立たない。
  みんながそっぽを向いてしまうのはそのせいだよ 』。


 荘子
 『君はヤマネコやイタチを知ってるだろう。
  あいつらは身を伏せて隠れ、うろついている獲物を待ち受けて、
  あっちこっちと跳ねまわり、高いも低いもへっちゃらだが、
  あげくに罠にかかったり、網にからめ取られたりして死んじまう。

  一方、ほら、あの大牛ときたら、
  空の果てまで垂れこめた雲みたいにでっかい。
  でっかいにはでっかいが、ネズミだって捕らえられない。

  いま君のところの大木は、役に立たんとこぼしているが、
  なぜそれを何一つない村里や、果てもなく広い曠野に植えて、

  ゆったりとそのかたわらに憩(いこ)い、
  のびのびとその下に寝そべらないんだい。

  まさかりや斧で若木のうちに切りたおされもせず、
  何かに危害を加えられる恐れもない。何の役にも立たなくたって、
  気に病むことなんてまったくないんだよ。 」

        ( p34~35 ちくま学芸文庫「荘子内篇」2013年 )


ちなみに、ちくま学芸文庫のp158には、

「人は皆な有用の用を知りて、無用の用を知ること莫(な)きなり」

ともありました。
やっと興味の糸口がつかめました。
夏は楽しく荘子を読めますように。
できれば樗(おうち)の木の下で。
  
 



            
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荘子と名前あれこれ。

2022-07-24 | 古典
福永光司の「『荘子』の世界」は、12㌻ほどの短文に、
さまざまな言葉の紹介があって便利。
はじまりは

「荘子といいますのは、西暦前四世紀、ギリシャのアリストテレスと
 ほぼ同じ時期の古代中国社会を生きた哲学者荘周のことです。
 
 荘が苗字で、周が名前です。
 この周という名前を日本人で自分の名前にしたのが、
 ・・西周(にしあまね)という明治の哲学者です。
 この方が『あまね』と読ませている周という字は、
 これは荘周の周という字を採ったものです。 」


 「なかなか紛らわしいのですが、
  人間である哲学者自身を呼ぶ時は『荘子(そうし)』と澄んで読む・・
  荘周の言行を記録した書物の方は『荘子(そうじ)』と濁って読む
  のがずっと古い時代からの習慣なのです。・・・・」


明治の人の名前が、取り上げられて興味深い。

〇 幸徳秋水の秋水は、『荘子』の秋水篇から採った名前です。

〇 坪内逍遥・・逍遥というのは『荘子』の中の逍遥遊篇から採っった名前。

〇 高山樗牛や相馬御風、この樗牛や御風も『荘子』の中の言葉です。


うん。初心者の私に、興味深い短文なので、ここは反芻しておきます。

「 荘周の著とされる『荘子』の内容は、大きく分けて
  二本の柱から成り立っています。

  そのひとつは『道』という言葉です。
  それが道教になっていきます。

  『道』、いまの北京語ではこれを『ダオ』と発音しますが、
  ヨーロッパではこれを濁らずに『TAO(タオ)』と読んで、
  タオイズムと呼ばれています。

  このタオという言葉と思想、これが『荘子』の第一の柱です。
  それからもうひとつの柱が『遊』、遊びということです。
  つまり
  『荘子』は『道と遊びの哲学』であると理解したらいいと思います。」


うん。ちょこちょこと引用してゆくと、どんどんと長くなるので、
あとひとつだけ、『庖丁(ほうちょう)』が出てくる箇所を引用します。

「庖というのは料理をするという意味、
 あるいは料理人ということを意味します。

 古代の中国では職業名を名前の上に置きますから、
 庖丁というのは『料理人の丁さん』という意味になります。

 この庖丁さんの登場するのは・・『道』と『技』の問題を論じています。

 儒教の場合は、
 技術というのはあまり重視されずに、精神の方に重点を置きます。

 けれど道教の場合は肉体的な要素を非常に重視します。
 この世の生活は身体が一番根本になり、その身体に心(精神)が宿る
 という考え方をします。

 そして外篇の天地篇では、この『道』と『技』をさらに展開し、
 『機械』と『機心』という言い方で論じています。

 機械を使う時は用心しなければならない。
 機械に慣れてしまうと心まで機械のようになってしまうからだ、
 と言っているのです。

 このように、機械という言葉はすでに『荘子』に出てきています。
 この機械とは、からくりを使った仕掛け道具といった意味です。

 天地篇のこの原文は
 『機械あるものは必ず機事あり、機事あるものは必ず機心あり』
 となっています。

 機械が作られると人は必ず物事を機械的に処理してしまうようになる。
 そうすると、心まで機械のように冷酷な温かみのないものになってしまう
 危険性がある。だから、機械を使う者は用心しなさいと言っているのです。

 この『荘子』が書かれたのは中国の戦国時代です。
 戦いが続き、どんどん戦うための機械が作り出され、
 効果的な武器が出てきて戦死傷者の数がますます増えてしまうため、
 荘子が警告の意味でこうした言葉を書いたのです。・・・   」


うん。ここから「無心」へとつながる箇所なのですが、
途中ですが、ここまでにしときます。

福永光司著「『馬』の文化と『船』の文化 古代日本と中国文化」
(人文書院・1996年)に「『荘子』の世界」は入っておりました。
ちなみに、この本の「あとがき」のはじまりは

「私たちが日常生活の中で意識しないでやっていることの中には、
 道教をはじめとする中国古代宗教の思想信仰やしきたりが
 習俗となって染みついています。それは想像以上といっていいでしょう。」

この本は、各雑誌などに掲載・発表されたものがまとめられた一冊。
どれどれと、「『荘子』の世界」の初出一覧を見ると、

「『花も嵐も』1994年2月号(NHK ラジオ深夜便「こころの時代」より)」
とありました。
コメント (4)
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『荘子』という書物。

2022-07-23 | 本棚並べ
だいたい私は、本文が読めずに、
解説や、書評で満足するタイプ。


文庫の古本なのですが、
中国古典選12「荘子 内篇」福永光司(朝日新聞社)を
本棚からとりだしてくる。このあとがきは3ページ。
はい。『あとがき』を引用します。はじまりは

「私が中国哲学に興味をもち、この学問を専攻しようと決心したのは、
 『荘子』という書物のあることを識ったからであった。・・・ 」

このあとがきは、「昭和30年10月1日洛北北白川の寓居にて」
と最後に記されております。

あとがきに、戦争がでてきておりました。

「 私は昭和17年の9月に大学を卒業したが、
  卒業と同時に兵隊に徴集され、約5ヵ年間の
  軍隊生活を私の青春として過ごした。・・・・

  私は今思い出しても恥ずかしいほどの蒼ざめた
  恐怖を輸送船に乗せて内地を離れたが、その時、

  私が囊底(のうてい)に携えて海を渡った書物は、
  『万葉集』と、ケルケゴールの『死に至る病』と、
  プラトンの『パイドン』と、この『荘子』であった。

  ・・・・・・
  戦場の炸裂する砲弾のうなりと戦慄する精神の狂躁とは、
  私の底浅い理解とともに、これらの叡智と抒情とを、
  空しい活字の羅列に引き戻してしまった。

  私は戦場の暗い石油ランプの下で、時おり、
  ただ『荘子』をひもときながら、私の心の弱さを、
  その逞しい悟達のなかで励ました。

  明日知れぬ戦場の生活で、『荘子』は
  私の慰めの書であったのである。     」

 
「 終戦に一年半おくれて再び内地の土を踏んだ私・・・
 
  もう一度学究として・・歩こうと決意し・・再び郷里を
  離れるという私を見送って、年老いた父が田舎の小さな
  駅の冬空のもとに淋しく佇んでいた。・・・・・

  私の無気力と怠惰を嘲笑したのは、昭和26年5月19日のことであった。
  変わり果てた父の屍の手を取りながら、私は溢れ落ちる涙をぬぐった。
  ・・・黄色く熟れた麦の穂波のなかを火葬場の骨拾いから帰りながら、

  私は荘子の『笑い』のなかに彼の悲しみを考えてみた。・・・
  私にとって、『荘子』はみじめさのなかで
  笑うことを教えてくれる書物であった。・・・・・

  私のこのような『荘子』の理解が、
  十全に正しいという自信は、もとよりない。

  しかし私にとって、私の理解した『荘子』を説明する以外に、
  いかなる方法があり得るというのであろうか。・・・・・

  私としては、私のような『荘子』の理解の仕方もあるということを、
  この書を読まれる方々に理解していただければ、それで本望なのである。

  そしてもし、死者というものに、生者の気持が通じるものならば、
  私は歿(な)くなった父にこの拙い著作を、せめてものお詫びとして、
  ささげたいと思う。   」 ( ~p343 )


うん。以前にこの「あとがき」だけを読んだのですが、
満腹感で、本文を読まずじまい。本棚に並んでました。
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こんな格言がある

2022-07-22 | 詩歌
老子を読もうとするのですが、
初めてで、楽しめるかどうか。
身近へと引き寄せるにかぎる。

まど・みちお『風景詩集』(かど創房・昭和54年)。そこに、
何だか呪文のような詩「もう すんだとすれば」がありました。
わかったような、わからない詩で一読印象に残っておりました。

  もう すんだとすれば     まど・みちお

 もうすんだとすれば これからなのだ
 あんらくなことが 苦しいのだ
 暗いからこそ 明るいのだ
 なんにも無いから すべてが有るのだ
 見ているのは 見ていないのだ
 分かっているのは 分かっていないのだ
 押されているので 押しているのだ
 落ちていきながら 昇っていくのだ
 遅れすぎて 進んでいるのだ


はい。福永光司著「老子」(朝日選書1009)。
帯つきできれいな一冊が、古本でやすかった。
それはそうと、はじめから読む気にはなれず、
パラパラと、第41章をひらいてみる。
私に、原文はチンプンカンプン福永さんの訳。


 すぐれた人間は道を聞くと、努力してそれを実現するが、
 中等の人間は道を聞くと、半信半疑の態度をとり、
 下等な人間は道を聞くと、てんで馬鹿にして笑いとばす。
 彼らに笑いとばされるぐらいでなければ、本当の真理とはいえないのだ。

 だから、こんな格言がある。

 本当に明らかな道は、一見すると暗いように見え、
 前に進む道は、一見、後に退くように見え、
 平(たいら)かな道は、一見、平かでないように見える。

 最上の徳は谷間のように虚しく見え、
 真に潔白なものは、一見、うすよごれて見え、
 真に広大な徳は、一見、足りないように見える。

 確固不抜の徳は、一見、かりそめのもののように見え、
 真に質実な徳は、一見、無節操なように見え、
 この上なく大きな四角は、隅(かど)というものをもたない。

 真に偉大な人物は人よりも大成するのが晩(おそ)く、
 この上なく大きな音は、かえってその声が耳にかそけく、
 至大の象(かたち)をもつものは、かえってその形が目にうつらない。

 そして、これらの言葉からも知られるように、
 道は隠れて形が見えず、人間の言葉では名づけようのないものなのだ。

        ( p284~285 福永光司「老子」 ) 

老子の言葉は、昔から連綿とつながり、
その波打ち際には、まど・みちおの詩。
心してお気楽に読むすすめますように。
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娘・佐藤オリエ

2022-07-21 | 本棚並べ
昨日は、晴れたので、主なき家の草取り。
午前中3時間でおしまい。帰ってビール。

意外だったのは、夢でブログ更新をしてた。
実際は、寝てただけなのにね。

佐藤忠良自伝「つぶれた帽子」(中公文庫)を読んでみる。
写真入りでパラパラとページをめくれそれだけでも楽しい。

「昭和56年ロダン美術館での展示」という写真の次ページに
は、こんな言葉がありました。

「・・・初めての海外での個展は割合評価されたようだが、
 スポーツ競技でみんなの力が衰えているときに優勝したからといって、
 強いことにはならないのと同じだと思う。

 いろいろな国を回ってみたが、昔の銅像などルネサンス以降のものでも、
 実にうまく作っている。それに比べ今のものは歩いてみたどこの国でも、
 ひどいものが建っている。日本でも事情は同じで、
 具象彫刻は世界的に疲弊しているように見える。

 コツコツやってきたことが、少しは底光りして見えたのかなと
 思わないでもないが、やはり周りが衰えてまずくなってしまった
 からだというのが実感であった。」 ( p166 )

うん。それはそうと、文庫のはじまりに16ページにわたり写真。
気になったのは『オリエ』(昭和24年)と『たつろう』(昭和25年)。
ふたつとも顔の彫刻でした。
文庫の最後には年譜もあります。

1940(昭和15)年28歳 4月、吉田照と結婚
1941(昭和16)年29歳 長男達郎誕生。
1943(昭和18)年31歳 長女オリエ誕生。
1944(昭和19)年32歳 7月、召集を受け入隊。
1945(昭和20)年33歳 終戦を知らず約一ヵ月間逃避行ののち
           ソ連軍に投降、三年間シベリア・・
           収容所に抑留される。
1948(昭和23)年36歳 夏、舞鶴港に復員。・・・

この自伝には、復員の際の様子を書いたオリエさんの文章が
そのままに載せてありました。それを引用。

「父の友人と私達家族が、
 白い大きな布に『佐藤忠良』と書いた幟を持ち、迎えに出たのが品川駅。
 長い列車の着いたホームは、迎えの人の名を叫びながら右往左往する人達
 でごったがえしていた。

 私は誰かの肩車に乗って・・・恐ろしい所へ来てしまったと思っていた。
 ドンという感じを背中に受け私を乗せた人が振り返った時、そこに、
 黄色い妙にむくんだ顔の男がニッと笑って立っていた。

 『お父さんよ、お父さんよ』母が何度も云った。
 もう少しましな人が現れると思っていた私は、
 がっかりするというより、変な気がした。
 大人が盛大に迎える騒ぎがわからなかった。

 母の陰から何度も盗み見ては、
 この黄色くむくんだ男は何だろうと思った。
 二才年上の兄は、この人を覚えていたらしく、
 家への帰り道、手をつないで歩いた。

 その頃、私達が住んでいた千葉の母の実家は
 女ばかりの大家族だったが、広い部屋の真中に
 座布団を敷いてすわったこの男は、随分とえらそうに見えた。

 『わしは、わしは!』と自分のことを云い、猛烈に喋っている。

 私はいきなり近寄って、座布団を引っ張り叫んだ。
 『 わしさんキライ! 早く帰れ! 帰れ 』
 皆んなどっと笑った。私は泣いた。
 いつやめていいか分からず、大分長く泣いた 」 ( p109~110 )

オリエさんの高校卒業まぎわのことも自伝にはでてくる。

「ある日、近所の朝倉摂女史がオリエと一緒に私のところへきて、
 オリエを役者にしなさいとの膝づめ談判である。高校卒業の間際であった。

 ・・・
 当時俳優座がやっていた俳優座養成所へ、13期生として通うことになった。
 養成所時代、一つ二つコマーシャルの話があったようだったが、
 舞台も満足に踏めないさきに、コマーシャルに出るようになってはいけない
 と思ってお断りさせたことがあった。

 彼女も、今もってお話があっても、まだ一度もそれには顔を出さないで
 くれている。・・・   」( p153~154 )

文庫解説の、酒井忠康氏の文中にも、
亡くなる前の佐藤忠良と佐藤オリエとの会話が引用されている。

あらためて、文庫のはじまりの写真をめくって、
『たつろう』と『オリエ』の彫刻を見てしまう。
コメント (2)
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説き来り説き去って。

2022-07-19 | 本棚並べ
福永光司・河合隼雄対談
『飲食男女 老荘思想入門』(朝日出版社・2002年)。

以前古本で読んでたはずなのに、
その時は印象鮮やかだったのに、
忘れてた一冊。はじまりの再読。
では、引用してゆきます。

河合】 僕は1962~65年の間、スイスのユング研究所にいたんです。
   そこの研究所で『老子』を読んでいる人はすごく多かったですね。

   ほとんどの人が、何らかの翻訳で読んでいました。
   『老子』の翻訳は種類がものすごく多いのですね。
   皆いろいろな訳をするから、世界で一番多いと
   言われているようです。             (p42)

河合】 スイスにいたときに、英語の訳と、ドイツ語の訳と、
    日本語の注釈書を並べて『老子』を読んだんです。
    解釈がものすごく違うので、おもしろかったです。(p107)



うん。どうやら老子へのガイド役は、あまたいるようです。
それでは、河合さんは、どうして道案内をお願いしたのか。
ここは、「はじめに」から引用することに。

「・・・現代人の心の病を治療しているとき、私を支えて
 くれている強力な思想は老荘ではないかとも思っている。

 ・・・とは言うものの、私は老荘思想の専門家ではないので、
 自分の知っていること、考えていることがどこまで確かであるか
 不明である。

 そこで・・福永光司先生に『個人授業』をお願いできないか、
 と考えた。それに、福永先生は公職を退いた後、九州・中津
 の方に引退されて、一般の者はその謦咳(けいがい)に接する
 機会がほとんどない。・・・・・・

 講義がはじまると、福永先生の面目躍如。
 文字通り説き来り説き去って、止まるところを知らず、という有様。

 ・・・まことに残念なことに、福永光司先生は、
 この書物の出版を待たずに、お亡くなりになった。
 予期せぬことで驚き、悲しみも深かった。

 それだけに、このような形であれ、
 先生の思想の片鱗(へんりん)を留めることに、
 少しでもお役に立てたことを有難いと思った。・・・

                    2002年6月吉日    」

第一章「道とは何か」に

福永】 ・・・だけど色と色が混じる間色は、道教の一番大事なことですね。
    コンビネーションというか。これは柔道がそうですが、
    五十ほどの技の連携技を知らなくて、ただ背負いだけとか、
    立ち技だけとかでは通用しないわけです。

    大試合になればなるほど通用しませんから。組み合わせること、
    つまり複合混成が命を持ったものの本来の姿です。   (p37)


はい。留まるところを知らない講義を、その断片だけでも拾ってゆきます。


〇 それから因果応報も、道教は非常にはっきり否定します。これは
  禅宗の道元の『正法眼蔵』がそうですね。因果関係は否定しています。
                          ( p51 )

〇 また親鸞の場合、人間性における自然を問題とします。・・
  親鸞はより老子にどっぷり浸かっているんです。

  だから浄土真宗の最高経典の『仏教無量寿経』も
  道教の経典を下敷きにしているんです。そして   
  三世紀の、西暦252年、洛陽の白馬寺で訳されたんです。
  当時の三世紀半ばの洛陽は、もう老荘の清談の一番の本拠地ですから、
  タオイズムを基礎にして翻訳しています。・・・
  
  『仏教無量寿経』はそう長くない経典ですが、その中には
  自然という言葉が五十六回も使われています。・・
  ですから親鸞の場合は人間性における自然、
  人間の本質としての自然をいいます。
  そこから結局中国語でいえば飲食男女、仏教が入って
  きてからの中国語でいえば肉食妻帯の問題になるわけです。
  ・・・・

河合】 肉食妻帯を説くのは、仏教では考えにくいことですね。
                            ( ~p55 )


うん。第二章から


「・・孔子は『神を祭れば、神在(いま)すが如くす』とあり、
 死後も実在するとは言っていないんです。おいでになるという
 ことにしてお祭りをしようと言うのです。・・・・  」(p101)


第4章「日本に受け継がれた老荘思想』では、
   芭蕉と漱石も登場しておりました。


「日本では道教を表には出しませんけれども、
 文芸と老荘思想を結びつけたのは芭蕉です。

 芭蕉の全集引っ繰り返してみますと、
 特に若い時代の芭蕉は荘子です。
 芭蕉は禅の勉強をしています。
 京都五山の臨済禅と老荘の文芸とを
 接近した形で自身も乞食行脚(こつじきあんぎゃ)をして、
 紀行文を書くんです。・・・

 芭蕉の俳句を全部集めたものを見ていきますと、
 やはり荘子関係が圧倒的に多いです。
 漱石の場合も老子より荘子の方が多くあります。 」(~p150)


うん。夏は汗して、福永光司の本をめくり、本めぐり。


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絵本イラストレーション。初山滋。

2022-07-18 | 本棚並べ
ぼ~としながら、絵本イラストレーションの
絵本画家初山滋の特集号をひらく。ということで、
この数日思いつく絵本やらの関連古本をポチポチと注文。

初山斗作編「初山滋の世界 コドモノクニの頃」(すばる書房)。

本の最後には、初山滋氏の長男・初山斗作(とさく)の
「八つ、やったら酒のお父さん」と題する6ページの文。
そこに登場する初山滋を引用することに。

「私は、父と語り合ったというおぼえもないし・・・

 父は、娘に、菜々(なな)・妹々(もも)・三茶(みさ)、
 という名前をつけましたが、女優や俳人とはほど遠い、
 いも娘ばかりです。息子の斗作もドラ息子です・・・

 ・・・父は『少年倶楽部』も買ってくれませんでした。
 孫に、太樹(ふとき)・おん奈(な)・富女(とめ)・
 素女(そめ)・照太(てるた)と名付けました。

 女の子で、オンナというのには参りましたが、
 とにかく、だらしなく可愛がっていました。
 孫と一緒にテレビで怪獣漫画を見ているんです。 」

うん。お酒を飲んでいる姿が書かれているのですが、
何だか、夢にでも出てきそうな感じがする場面です。

「父が飯を食べている姿は、ついぞ思い浮かびません。
 酒をよく飲み、まるで、非常に気に入っている空気の中に、
 いつまでもいるみたいに、チビリ、チビリ、ズーッと飲んでいました。」
 

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徒然草と芥川龍之介

2022-07-17 | 古典
「徒然草」のガイド・島内裕子さんの
通読コースを、うしろからついて読みすすんでみると、
いままでの「徒然草」観が払拭された気分となります。

そうすると、今までのことはもうすっかり忘れてしまっている。
今までの、先入観で私はどう『徒然草』を思い描いていたのか。
それを、ふりかえってみることは、まんざら無駄じゃなさそう。

ということで、ひろげたのが、
谷沢永一・渡部昇一「平成徒然草談義」(PHP研究所)。

はじめの方に、芥川龍之介によって突っ込まれる「徒然草」が、
紹介されているので。そうだ。そうだった。と思い当たります。


谷沢】 ・・・・文学史上、有名な人物のうちで、
    芥川龍之介は『徒然草』をこてんぱんに言っています。

  『わたしはたびたび、こう言われている、
    ≪ 徒然草などさだめしお好きでしょう ≫。
   しかし、不幸にも徒然草などはいまだかつて愛読したことはない。
   正直なところを白状すれば、徒然草が名高いというのも、
   またほとんどわたしには不可解である。
   中学程度の教科書に便利であることは認めるにしろ・・・  』

  なぜ、芥川がこういうことを書いたのか。
  『徒然草』の各段を分類すると、教訓性の強い話が圧倒的に多く、
  次が物語性の濃い面白い話、それから叙情詩的なものです。
  つまり、教訓癖の強さがある。
  それに芥川がカチンときたのではないか。

  また、芥川が全編を読んで言ったのかどうかはわかりませんが、
  もし読んでいたとすれば、『鼻』のようにちょっと変わった人の話など、
  
  自分ならもっと上手に書いてみせる、せっかくの材料を兼好は
  生のままで放りだしている、と考えたに違いないとも思います。


渡部】 芥川龍之介にはずいぶんと嫌われたものですな。
    ・・・・・
    やはり芥川は若い。全然わかっていません。

                        ( p7~8 )


はい。これと関連するもう一箇所を引用しておわります。


谷沢】 芥川龍之介に関して付け加えると、芥川にしてみれば、
    自分が材料として使っている日本の説話文学について
    『徒然草』には発見がない。
    しかも、説話を兼好は面白くなく書いている。
    そういう軽蔑があったのではないかと思います。

    ただ、平安、鎌倉は説話文学の全盛期です。・・・
    『今昔物語』もここら辺です。

   ところが、たくさんある説話文学のほとんどを兼好が
   引用していない。知っていたはずなのに、それを一切退け、
   そこに書いてないことを書いてやろうという独創性を意識している。
   
   今回、調べて、そこまで徹底していたかと感心しました。
   兼好の作家魂といいますか、表現意欲といいますか、
   それは並々ならぬものがあったと思います。 
                       ( p12 )


はい。どうやらですが年齢を加えるにつけ、だんだんと、
芥川龍之介バイアスを脱ぎ捨てることが出来てきました。
これは『先達はあらまほし』ガイドさんのおかげでした。
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俳諧。蕎麦の味。

2022-07-16 | 地域
歌枕に対して、俳枕というのがあるらしい。

気になるので、そこを詳しく。
尾形仂著「俳句の可能性」(角川書店・平成8年)に、
「関東の風土と俳枕」と題する文がありました。
とりあえず、ここははじまりから引用。

「 関東は、行政的には東京・埼玉・神奈川・千葉・茨城・
  栃木・群馬の一都六県から成っている。

  律令体制下、七世紀から八世紀にかけて成立した旧国名でいえば、
  武蔵(むさし)・相模(さがみ)・安房(あわ)・
  上総(かずさ)・下総(しもうさ)・常陸(ひたち)・
  下野(しもつけ)・上野(こうずけ)の
  坂東八か国にあたる。・・・・           」(p54)


うん。はじまりからだと、あれこれ引用したくなるのですが、
まあ、いいや、前半をカットして俳諧の江戸時代へとゆきます。

「 近世の開幕とともに、文化のうえで長く後進的地位に立たされ
  てきた関東も、新興都市江戸を中心に、新しい庶民詩として
  登場した俳諧の花が咲く。

  経済の中心地日本橋は江戸俳壇の中心となり、
  新開地深川は蕉風俳諧の拠点となった。

  芭蕉の『蕎麦切(そばきり)・俳諧は、都の土地に応ぜず』
  (「風俗文選」)という遺語は、

  京の貴族の伝統文芸である和歌に対し、
  直截簡明な俳諧の、蕎麦の味がよく似合う、
  江戸的・庶民的性格を道破したものといえる。・・」(p60)


「 『俳枕』の語を生んだのも、また江戸である。

  それは芭蕉の先輩格にあたる高野幽山が、
  諸国を遍歴して成った俳書に名づけたもの。・・・

  『能因歌枕』にあやかったものではあるが、
  空想の地誌歌枕に対し、実地の見聞に基づいたところが違う。
  
  歌枕も、俳諧の目で実地にとらえ直されるとき、俳枕となる。

  
  連歌師・・の『類字名所和歌集』(元和3年・1617)のあげる
  関東の歌枕は、

  武蔵野・玉川・霞が関(武蔵)、箱根・鎌倉・足柄(相模)、
  葛飾・香取の浦・角田川(下総)、霞の浦・鹿島・筑波(常陸)、
  伊香保沼・利根川・佐野(上野)、
  室の八島・黒髪山・標茅(しめじ)が原(下野)など
  49にとどまるが、

  素外の『名所方角集』(安永4年・1775)に
  俳枕としてあげるところは176に及ぶ。

  圧倒的に増えたのは日本橋などの江戸の名所と、
  江の島などの相模の名所。
  それに日光・銚子というのも江戸時代らしい。

  一茶は放浪の間、これらに漏れた両総・安房の
  農漁村を俳枕に転生させた。・・・      」(~p61)


はい。こうして地名を引用していると、いつのまにか、
旅をして、旅館にでも泊まって枕している気になります。
そうそう、忘れずにご当地蕎麦を食べ歩きたくなります。                





 

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