和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

恩のある本。

2010-01-31 | 他生の縁
外山滋比古著「日本の文章」(講談社学術文庫)を読みました。
この本に、清水幾太郎への言及があって、参考になりました。

まずはおさらい。

「漱石や寅彦は、外国語のよくできる学者であったが、何のことかわからないような翻訳的文体とは完全に無縁であった。近代日本の知的散文のひとつの伝統は子規、漱石、寅彦あたりから始まると考えてよいであろう。」(p49)

「日本人は知的散文が心を躍らせるほどおもしろいものであることさえ知らずに一生をおわることが可能である。いかにも大きな不幸というほかはない。そこへいくと、漱石や寅彦の文章が、日本語としてもすぐれているのは、とくに意味があるように思われる。」(p52)

さて、次に清水幾太郎氏が登場するのでした。

「・・・清水幾太郎氏の『論文の書き方』が出た。それが昭和34年である。この本は戦後、日本人に日本語への関心を目ざめさせた画期的な本で、目からウロコの落ちる思い、という表現があるが、この本を読んでいて、そういう思いをすることが何度もあった。」(p69)

「文章に対する関心の源泉に清水幾太郎氏があるのはどうやら確かのようである。学生時代からずっと師事している福原麟太郎先生の麗筆は広く知られている。さきの『英語青年』にしても、先生の主幹の雑誌である。私は、代理として現場主任の役を果たしていたにすぎない。先生の随筆は残らず読んだが、まるで別世界のようで、真似てみようという気も起らない。人間わざとは思われなかった。清水氏の『論文の書き方』を読んで、はじめて、努力をすれば、文章は上手になるかもしれないという気持ちになった。恩のある本だ。」(p72)

「とりわけ、社会科学にはわからぬ文章を書く学者が多い。その中で際立った例外は清水幾太郎氏である。翻訳でも氏が手がけたものはいつも明快で、読んでいてこちらの頭がよくなったような錯覚をもつ。翻訳でない文章では、さらに達意、流麗、みごとなばかり。
その秘密の一部が『論文の書き方』を読んでわかったような気がした。これだけの修練があればこそ、あのような文章が書けるのであろうと納得できる。知的散文はわが国にはまだ確立していないが、その基礎の一部は清水さんのこの本によってできたといってよかろう。」(p74)

「あるとき、ある出版社の知り合いの編集者が、清水先生があなたのことをおもしろいと言っていらっしゃいましたよ、と教えてくれた。これは意外である。そんなはずはない。何かの間違いだろうと思うが、いい加減なことを伝えるはずもない。それからしばらくして、はじめて清水さんにお目にかかる機会がやってきた。大きなパーティでほんの短い時間しかお話しできなかったが、さきの編集者の言葉を裏付けるようなことを言われる。文章家からはげましの言葉を受けるだけでもうれしい。しかも、長年、文章のお手本と思ってきた方からの言葉だけにいっそう身にしみる。
昭和46年に清水さんは『私の文章作法』という本を出された。この本でもやはりいろいろ教えられた。話し言葉で書かれていてたいへん親しみやすいが、じつに、有益な本である。」(p75~76)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

はずれ。

2010-01-30 | 短文紹介
昨年。外山滋比古著「思考の整理学」を読んでから、ポッポッと外山氏の本を買っております。小説を読まない私にとっては、有難い人なのでした。そう思って読んでおります。
たとえば、「日本の文章」(講談社学術文庫)に、こうあります。

「漱石や寅彦は、外国語のよくできる学者であったが、何のことかわからないような翻訳的文体とは完全に無縁であった。近代日本の知的散文のひとつの伝統は子規、漱石、寅彦あたりから始まると考えてよいであろう。」(p49)

3人とも俳句でつながっているのが面白い。
こんな箇所もありました。

「日本人は知的散文が心を躍らせるほどおもしろいものであることさえ知らずに一生を終わることが可能である。いかにも大きな不幸というほかない。」(p52)

うん。そうだったのか。
何て、思いながら外山滋比古氏の本をポツリポツリと買っております。

さて、この講談社学術文庫「日本の文章」の解説は富岡多恵子。
では、と期待して注文した旺文社文庫の外山滋比古著「実のある話」。
でも、昨日届いたのですが解説はなし。ハズレでした。残念。
それじゃ、旺文社文庫の「ライフワークの思想」も、ほぼ解説はないだろうと、
注文をとりやめ。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

私の中の

2010-01-29 | 他生の縁
福原麟太郎の文に「私の中の日本人」という文がある。
昭和49年10月「波」に掲載されたもので、
私が読んだのは、福原麟太郎随想全集7「思い出の記」(福武書店)。
さて、河上徹太郎の文「私の中の日本人――福原麟太郎」は、
いつ書かれたのだったか。
河上徹太郎著「史伝と文芸批評」(作品社)の初出誌一覧を見ると、
それは昭和50年1月の「波」に掲載されたとあります。

うん。河上徹太郎氏の「私の中の日本人」は、
福原麟太郎氏の文をもとに書かれているのだと判るのです。
それは、読み比べて見るとよくわかる。


まあ、それはそれとして、吉田健一。
吉田健一著「交遊録」の中に「福原麟太郎」という題の文がありました。
そこに、外山滋比古氏がちらりと登場する箇所があります。
そこの引用。

「併しいつだつたか確か外山滋比古氏の『修辞的残像』の出版記念会に出席したことがあつた。この会は外山氏自身の望みよりも福原さんの提唱で行はれたものと思はれて集つたのも外山氏の他に福原さんの弟子に属する系統の人達だつた。ここでは弟子といふ言葉が正当に使へる。それはその会の空気で何か思ひ出すことがあるのを感じてそのうちに記憶に戻つて来たのがこつちが大学で過した日々だつたからである。・・・・
これは寧ろ優れた人間がその教へを何かの意味で受けたものに取り巻かれてゐるのを見るのは人に勇気を出させるものであると言ふ方が当つてゐる。」

以上丁寧な引用じゃないのですが、
何冊か響きあう読みが可能な箇所であり、
読みつなげると面白い。

ちなみに、「吉田健一集成3 批評Ⅲ」(新潮社)の解題によると、
吉田健一の「交遊録」は1972年より「ユリイカ」に連載されたもので、「交遊録第七回・福原麟太郎」は、1973年1月号となっています。
1973年といえば、昭和48年。まあ、1月号なら昭和47年の暮れでしょうか。

雑誌掲載の順に並べると、
吉田健一のユリイカ。昭和48年1月。
福原麟太郎の「波」。昭和49年10月。
河上徹太郎の「波」。昭和50年1月。
うん。この順番に、文が書かれていったことになるなあ。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

明るく。

2010-01-28 | 他生の縁
注文してあった古本の外山繁比古著「赤い風船」(福武文庫)が、昨日届いておりました。
さっそく、文庫の解説を読む。
そういえば、外山氏の文庫は、解説が載っていないものが多い。
まず、中公文庫も、PHP文庫も、ちくま文庫も解説なし。
でも、講談社学術文庫と、この福武文庫には解説あり。
う~ん。たしか旺文社文庫にも外山氏のがあったはずなので、
これも、注文してみようか。
なんて、ポツリポツリとネットで外山氏の古本を注文しております。
では、「赤い風船」(福武文庫)の解説を引用。
その、解説は木村治美氏。
はじめの方には、こうあります。
「私にとって外山先生は先生以外の何者でもなく、外山さんとはとてもお呼びできないし、最大級の敬語を用いないではいられない方でもある。・・・」

最後の方にはこうある。

「ある資料で『教師についての意識調査』というのを見ていたら、教育者にとってもっとも重要な資質を問うアンケートがあった。教育者としての使命感というのが圧倒的な支持を集めている。そのあと、情熱とか公平さとか研究心が続く。『明るくユーモアがあること』をあげたひとはとても少なかったのでがっかりした。これこそ人を育て導く者の最高の資質だと私は思う。外山先生をみているとそう思う。外山先生自身が、教育者についてそういわれたことがあったような気がする。明るくユーモアのある人柄は、教育者の資質のすべてを包みこむものだ
人間を観察する外山先生の目の鋭さに、私たちはしばしばたじろぎおそれいるのだが、その批評精神の背後にあるあたたかさは、人生や人間にたいする楽天主義にほかならないと思う。」

福武書店自体が、教育関係の出版社というイメージがあるので、解説も安心して先生という言葉をつかっている雰囲気があるのですが、それにしても、この解説を読めてうれしい限り。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

三河魂。

2010-01-27 | 他生の縁
益川敏秀氏がノーベル物理学賞を受賞した際に、
その学歴が印象に残っておりました。
愛知県出身。
1962年(昭和37年)名古屋大学理学部卒とあります。
そして、受賞時は、京都産業大教授とありました。

この名古屋大学と京都産業大というのは、
いったい、どういう大学なのだろうと、
漠然と思っておりました。

京都産業大については、
「私が聴いた名講義」(一季出版・平成3年)の
「近藤鉦太郎先生の講義」大野栄一の文が、すんなりと大学の雰囲気をすくい上げておりました(p91~101)。

そして、名古屋大学というのは、
外山滋比古著「コンポジット氏四十年」(展望社)にある
「三河魂」(p33~40)が参考になりました。

と、ここでは引用を省き、備忘録のみ。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

日本人。

2010-01-26 | 他生の縁
外山滋比古著「コンポジット氏四十年」(展望社)に、
「根本は正統な師範教育を受けたから古典的教師像をいつしか胸にいだいていた。」(p61)という箇所がありました。

そういえば、と今日の朝思い浮かんだのは、河上徹太郎著「史伝と文芸批評」(作品社)にある文「私の中の日本人――福原麟太郎」でした。
そこから引用。

「福原氏の人柄の美しさは何といへばよいか、専門が英語だから英語学者又は英文学者といふのだろうが、もうここまで行くと英語でもなければ日本語でもなく、ただコトバといふものであつて、しかもコトバ即ち人格といふ所まで行きついた人である。
氏のコトバ観は一例としてその著書『文学と文明』から引用して見よう。
『つまり日本文学はこうして海外からの上げ潮にも直接に洗われて、成長したのであった。一葉が西洋文学を学ぶ青年たちに励まされて自分の文体を発見したことは象徴的であった。どこの国の文明にも時期がくればこうして一時に花が咲きコトバが繁る。
コトバというものを言の葉と書くのは西洋文学でも同じである。コトバが表現力を持つということが文学には根本的に必要なのだ。・・・そこで、吉田健一氏が言うように、明治の文学作品など一つも無くてもかまわない。コトバを残して置いてくれさえすれば、ということにもなる。必要なのはコトバとその表現力コトダマである』
ニイチェがフィロローゲンといふ言葉を使ふとかういふ意味になる。福原氏は英語の言葉に首をつき込んで頭を上げて見るとそこは国語の世界であつた。まがふことのない日本語の国であつた。コトバの世界の純潔をつきつめた『国際的』な探求から民族の雅を発見するとは、何と『日本的』なことであろう。それはもはや語学者といつた専門家ではなく、一人の『国士』の誕生である。私が大人といつたのはその意味で、その点で氏は『日本人』なのである。」(p179~181)

もうちょっと引用させてください。

「私は福原さんのことを書いてゐると、氏とかさんとかいふよりも、今まで時に書いて来たやうに、つい先生といふ敬称をつけたくなる。これは私が氏の・・・祝賀会の時のスピーチでいつたことだが、私がつい先生と呼びたくなる人が今まで三人ゐた。それは菊池寛、辰野隆、福原麟太郎の三氏である。三人とも文壇閥、学歴の上で私の先生ではない。しかもそれが口をついて出て来るのは、いふだけ野暮だが、親しみの加はつた尊敬の念からであらう。そしてその祝賀会での印象だが、福原先生が大勢の昔の弟子に囲まれて敬慕されてゐる情景は世にも美しいものであつた。岡倉先生の厳しさの中にもこんな温かさがあつたのだろう。もうこんな先生は今の時勢では出ないかも知れない。芝居を作るのが作者や役者ではなく観衆であるやうに、先生を作るのはお弟子である。今の学生にはそんな能力を失はれてゐるのである。さういへば吉田松陰が良師であつたのは、彼の資質もさることながら、久坂や高杉、殊に入江久一、品川弥二郎が良い弟子だつたからだともいへよう。」(p183~184)

ああ、また引用だけになりました(笑)。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

師範教育。

2010-01-25 | 他生の縁
外山滋比古著「コンポジット氏四十年」(展望社)では、
根本実当という名前について説明しております。
「あとがきに代えて」で
「複合、混成の、という形容詞で、コンポジット・フォトグラフは、重ね取り写真のことになる。根本実当は重ね取りの写真のような人物という命名である。つまり、根本実当はコンポジットと読む」とあります。

この本に
「根本は正統な師範教育を受けたから古典的教師像をいつしか胸にいだいていた。」(p61)という箇所がありました。

ところで、けっこう出ている外山氏のエッセイ類を、ポツポツとネット古本屋へと注文するのが、今年の注文事始みたいになっております。今日も文庫がとどきました。外山滋比古著「空気の教育」(福武文庫)。その文庫解説は森隆夫氏でした。その解説にこうあります。

「私自身、外山先生から多くの薫陶をうけているが、そのうち印象に残っていることを、二つ書かせていただくことにしたい。
第一は、立派な先生には立派な恩師がいるということである。外山先生の本の中に『ことわざの論理』という本がある。それはT書籍のT選書と呼ばれているが、T選書は表紙に推薦のことばをのせる慣わしになっている。ところが、外山先生の『ことわざの論理』には推薦のことばがのっていないのである。私がそのことに気付いたのは、私の本もこの選書の一冊に加えてもらうことになったときである。編集の人が誰か推薦のことばをいただいて欲しいという。どうしても必要なのですかと聞いたところ、例外が一冊だけあって外山先生であるというのだが、その理由は、外山先生の恩師福原麟太郎先生が他界されていたため推薦のことばがもらえないからであるという。外山先生は私が推薦のことばを書いてもらいたい人は恩師福原麟太郎先生以外にはないとおっしゃったそうである。そのとき、もしどうしても推薦のことばが必要といわれるなら、本はださなくてもよいとまでおっしゃったそうである。恩師を尊敬してやまない外山先生の姿から福原先生の空気の教育の偉大さも察しられる。と、感心は出来るが、さすが外山先生と、私のような目下の者が、外山先生を賞める訳にはいかない。なぜなら、尊敬する人から賞められるのが本物だからである。・・・」

「外山先生から学んだことの第二は、エッセイを書けるようになれといわれたことである。あるとき、外山先生が私に、『エッセイが書けるようにならなければ駄目ですよ』とおっしゃった。当時、四十歳を過ぎたばかりの私には、その意味がよく理解できなかった。・・・・ところが、最近になってエッセイの意味が何となくわかってきたような気がする。つまり、エッセイというのは題材は何でもいいのだから自由な訳である。・・・自由は自己の能力の範囲内でしか自由でありえない。そのことがわかっていないといけないということ。さらに、自由な題材ということは、『何から』でも学べることができないと不可能なのである。・・・」

この解説を読んだら、私は満腹。さて、本文を読むだろうか?
この満腹感だと、そのままになりそうだなあ(笑)。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

随筆遍歴。

2010-01-24 | 他生の縁
外山滋比古氏の本を読むと、
こりゃ随筆遍歴じゃないの。と思わずうなるのでした。
まずは、寺田寅彦。
そして、福原麟太郎。
さらに、田中美知太郎。

以上は、「中年記」(みすず書房)「コンポジット氏四十年」(展望社)「少年記」(展望社)を読むと、なるほど、とうなずいてしまいます。ちょっと、列挙してゆきましょう。

寺田寅彦は、本との出会いでした。

「・・・そして、比喩というのが、こういうときにたいへん有効な方法であるということを、はっきりではないが感じた。後年、たとえを使ってものを考えるようになったのは、寅彦の文章の影響である。学校の図書室にも、寅彦の本はなかったから、ほかのものも読んでみたいという気持ちは、三年後、東京の学生になって、寮の図書室にあった、当時出たばかりの『寺田寅彦全集文学篇』にめぐり会うまではみたすことができなかった。全集を隅から隅まで、味読した。わが知的世界は寅彦によってまず、いと口ができた。」(p182「少年記」)

「中学校三年生のとき、国語の教科書で、寅彦ではなく吉村冬彦の名の『科学者とあたま』という文章を勉強して、知の世界を垣間見た思いがした。目から鱗が落ちる、というか、思考というもののおもしろさを初めて知ったような感動は大きく永く続いた。東京の学生になると早々、寮の図書室にあったそのころ出たばかりの『寺田寅彦全集』の文学篇全巻を読み切った。ひところ物理学をやりたいと思うほどに耽溺した。」(p23『中年記』)

つぎは、福原麟太郎との出会い。

「戦争末期、昭和19年10月に、東京文理科大学英語学英文学科の学生になった。同期10名。その頃、どこの大学でも、英文科の学生はいなかった。いれば病気で軍隊へ行けない学生である。だいいち、英文科を開いている私立の大学がほとんどなかった。・・・・
入学して早々、学生控室に掲示が出た。主任教授福原麟太郎先生の名で、新入学生と個人インタビューを行なうとあって、時間が指定してある。・・」(p20『中年記』)

「英語青年」の編集をしている頃には、

「なんとか校了にすると・・・それを三部もって、その日のうちに、福原麟太郎主幹のお宅へ参上する。『よくできました』新しく出た雑誌にひと通り目を通して、先生がおっしゃる。奥さまが上等なお菓子とお茶を出して下さる。用は二十分もあれば済むのだが、こちらは帰らない。先生は、四方山の話をポツリポツリと話される。・・・毎回のようにこういう秘話がきけるのだから、つい長尻になる。そのころ先生は『売れっ子』になっておられて原稿執筆は大多忙であったはずであるが、一度だって、忙しそうな顔をされたことがない。おいとましようとすると、『まあ、もうすこしいいじゃないですか』とおっしゃる。ときには勉強についての話になることもあるが、一度も勉強しなさい、と言われたことがない。ただ、雑誌の編集を始めてから数年したころである。家内が先生のところから帰ってきて、先生が『外山くんは、雑誌ばかり作って忙しそうだ。ぼくが頼んだのだから、僕がいけないのだが、自分でものを書かないといけない』と言われたそうである。・・・これはずっとあと、こちらが編集を辞めて数年たった頃だったと思う。富原芳彰さんが『われわれ二人は、『英語青年』大学の出身だから・・』と言ったことがある。たしかにそうだ。先生ひとり、学生ひとりというたいへんぜいたくな大学である。一時間、二時間、先生のお話をきいていると、だんだん勉強しなくてはいけない、あるいは、自分だって、なにかできるに違いないという気持ちがしてくる。先生は、ほめ上手だから、こちらはほめられているとは知らずに、いい気になるのである。夕方、くれなずむころ、先生邸からの細い道を歩いて帰ると、きのうよりいくらかは人間が上等になっているような気持ちがする。『英語青年』大学はありがたかった。十二年もそこで学ぶことができたのはわが人生の幸福である。」(p65~68『中年記』)


田中美知太郎氏との出会いは

「根本(外山滋比古氏のこと)はBR大学のときに、先生からラテン語を習った。選択科目で、各科のもの好きな学生が数名出るだけのクラスがある。先生は哲学者だったが、そちらの講義はもたされない、多分、時間講師であった。出席した学生は、先生に同情していたのかもしれない。履修者がすくなくなれば、まずいことになるおそれがある。そんな学生でしかなかった根本を先生は、戦後、京都大学の哲学第一講座の教授となられてからも、折にふれてことばをかけられた。」(p134『コンポジット氏四十年』)
ここではT先生として出てくるのでした。

ちなみに、田中美知太郎対談集「プラトンに学ぶ」(日本文芸社)の略歴によりますと

上智大学予科を経て本科を中退し、1923年東京帝国大学文学部哲学科選科入学。
帰京後二年浪人ののち、28年法政大学文学部講師、30年東京文理科大学(現筑波大)講師を兼任。以降、戦後京大に迎えられるまで、今でいう非常勤講師時代が19年続く。・・

とあります。そう、この対談集に外山氏も入っております。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

絵手紙。

2010-01-23 | 手紙
daily‐sumus氏のブログ。その1月20日に小林勇著「娘への絵手紙」(アートデイズ)を紹介しておりました。そのページが写真入りでブログに掲載されている。普通は、こういう本を買わないようにしているのですが、魔がさして買うことにしました。ちなみに、ブログでの紹介文が決め手。

「『小林勇 娘への絵手紙』(アートデイズ、一九九七年一一月一〇日、装丁=山本ミノ)。小林勇の絵手紙集。娘夫婦へ一九六五〜六六年(丙午)にかけて一年二ヶ月の間に百二十枚送ったもので、そのうちの六十二枚を収録する。当時小林は六十二、三歳、岩波書店会長の職にあった。

三十九歳で絵を始めたというから、仕事の合間を見ては、二十五年ほども描き続けていた時期のものである。生前は文春画廊、吉井画廊などで個展を重ねていた。没後も吉井画廊で何度か展覧会が開かれ、何年か前に小生も展示を見た記憶がある。絵のセンスはまちがいなく持っていた。もし最初から画家を目指していたら一派を立てただろう。・・・」

とありました。古本で注文。今日届く。最初に青木玉さんの「小林さんの絵手紙」という3ページの文あり。最後には小松美沙子さんの「父の絵手紙」という15ページの文あり。

私事。手紙を書かずに、関連本を買うのは、ちょっとどうかなあ。
とは思うのですが、とりあえず、ページをパラパラとめくってます。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

並々ならぬ手腕。

2010-01-23 | 短文紹介
外山滋比古氏の本を少しずつ読み始めて、
外山滋比古著「少年記」(展望社)をひらいていたら、
「住んでいた町の寺津には・・」(p63)とある。

ああそうだ、と思って遅まきながらネット検索してみました。
Wikipediaの外山滋比古の項目が簡潔にして、明解。
出版された本の紹介も丁寧。以下、そこにある略歴。

1923年 愛知県幡豆郡寺津町(現西尾市)生まれ。旧制愛知県第八中学校(現愛知県立刈谷高等学校)を経て、
1947年 東京文理科大学(現筑波大学)文学部英文学科卒業
1951年 『英語青年』編集長(約10年間務める)
1956年 東京教育大学助教授
1962年 『修辞的残像』で文学博士(東京教育大学)
1968年 お茶の水女子大学教授 (うち5年間はお茶の水女子大学附属幼稚園長も兼ねる)
1989年 昭和女子大学教授
現在 お茶の水女子大学名誉教授




それから、ネットでは松岡正剛の千夜千冊にも
外山滋比古著「省略の文学」が取り上げられておりました。
そこから、ちょっと引用。

「・・ぼくが外山をぽつりぽつりと読んできたのは、この推理を勝手にたのしむためだったかもしれない。そういう読み方で本が読めるのは、読書の快楽のひとつであり、そういう読書を許容するような書き方ができるというのは、著者の並々ならぬ手腕なのである。」

う~ん。「並々ならぬ手腕」を読んでいるわけで、
こりゃ、襟を正して、外山滋比古を読みましょう。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

記念切手。

2010-01-22 | 手紙
今年、手紙を書こう。
そう、思う一月。
まず、手紙なら切手。
とて、今日発売の記念切手を買いに。
それ、「ケロロ軍曹」という1シート10枚のアニメ記念切手。
なに、80円切手絵柄に、キャラクターが葉書をもつ。
これ、手紙を出すきっかけに。
うん、今年最初の記念切手占い。
てな、感じでたのしい手紙を書こう。
さて、切手ばかりたまる一年にならないように。
さあ、手紙を書こう。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

絶えず口説かれ。

2010-01-21 | 短文紹介
外山滋比古氏の本に、三人会が登場します。
三人による勉強会。
「コンポジット氏四十年」によると、

「日曜日に、三人のうちのどこかの家を会場にする。家族に迷惑をかけると長続きしないから、会費百円で、出前の寿司をとって食べ、夕方まで大いにしゃべるというのである。はじめは一学期に一度か二度、ということだったが、おもしろくなり、毎月集まり、ときには月に二度会をしたこともある。鈴木一雄君は文献学的背景の学問をしており、鈴木修次君は、経学、訓詁の学によりながら、それを批判した。根本(コンポジット)はケインブリッジ学派の文学研究に夢中だったから、それをふりまわした。互いに、それまでまったく知らなかったことに触れて、知的興奮を味わった。世の中がすこし違って見えるようになる。根本(外山滋比古氏のこと)がまず付属中学から足を洗うと、両鈴木君も、助手として大学へ帰ってきたから三人は同じところで勤めることになる。・・・」(p76)
うん。その三人会というのは、どんな会だったのでしょうね。
さて、大修館書店に、鈴木一雄・外山滋比古編「日本名句辞典」(1988年)があります。
古本で安かったので、さっそく買いました。そのはしがきを鈴木一雄氏が書いております。
そこを引用。

「・・編者のひとり外山滋比古は、かねて日本に本格的な名言名句の辞典のないことを嘆いていた。イギリスの政治家は演説にシェイクスピアや聖書を好んで引用する。日本の政治家が芭蕉の句や世阿弥のことばを引くのを聞いたことがない。うっかり引用すればぺダンティックだと見られるおそれもある。日常会話にもほとんど先人のことばを引き合いに出さない。日本人は、どうも、アフォリズムが肌に合わないのではないか。そんなところに良き名句引用句辞典の出現を阻んでいる因があると思うが、このままではいけない。本格的な名句辞典をつくって、もっとわれわれのことばと心と頭を培うべきではないか。彼の持論である。つねに口にし、エッセイに書き、とうとう、日本人のための『英語名句事典』をまずつくりあげた。外山に絶えず口説かれ、日本の名句引用句辞典に本格的なものがないと言われつづけているうちに、どうやら私もその要請に応えたい気持にかりたてられていったものらしい。すでに『中国古典名言事典』『漢詩名句辞典』『漢詩漢文名言辞典』などの好書が並び立つときでもある。ひとり『日本名句辞典』だけが貧弱であってよいものか。たしかに日本人は人前で先人の言を引くことが不得手かもしれない。といって、名言名句を軽んじているわけではけっしてない。簡潔鋭利な評言、警句、箴言の見事さにわれと膝を打ちながら、おのれのことばの貧しさとひき比べて嘆息する気持が強いのである。名言名句を口にするとき、ちょっとはにかむところがあるのだ。自分自身の心をくぐらせ、心に融け込ませることが先であり、自身のないかぎり人前では口にできない含羞が深いのである。内輪では、親父はけっこう諺ーーー外山はこれを作者出典不明の、庶民のアフォリズムというーーーを引いて息子を説教したり、老母は浄瑠璃のさわりを口ずさんで生涯の指針としたりしている。
われわれの祖先も名言名句にはきわめて鋭敏であった。古典の起筆冒頭に多く古来の名句が活用され、すぐれた散文には引用和歌ーー引き歌ーーがちりばめられている。歌語の発達、本歌取りの技巧なども名句摂取の効用といってよい。軍記物などの道行文、謡曲や浄瑠璃の詞章など、名句名言の頻用はあげれば切りがないくらいである。日本人もまた名言名句をこよなく愛しているのである。やや含羞をこめた、それとない引用のしかたこそ、むしろ日本の美学の特色のひとつといえるであろう。わが国においても、長い歴史の積み重ねのなかで、数知れぬほど名言が生まれ、名句が口ずさまれてきた。人々はこれに親しみ、味わい、人生の証言とも自然美の記憶ともしてきたのである。これを再確認して、その粋を集め、ことばの主と出所を明らかにしておくことは、やはり大切なことと思われる。・・・・」

う~ん。今年はB5より大きめの日めくりカレンダーをもらって毎日めくっております。いつもは小さな日めくりなのですが、今年は日めくりが2冊というわけです。
その大きな日めくりの格言。20日はこうありました。

「才能を疑い出すのがまさしく才能のあかしなんだよ」ホフマン

とあります。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

コンポさん。

2010-01-20 | 短文紹介
外山滋比古著「コンポジット氏四十年」(展望社)を、楽しく読了。
80歳を過ぎた外山滋比古氏を一冊の本にたとえると、
この本は、さしあたり、一冊の本の編集後記みたいにして読める。
そんな楽しみが読みながらも、読後にもありました。

さて、その楽しみを何と言ってよいのやら、
そう、思っていると、最近、外山滋比古氏が考えておられる
その、「第四人称」という、面白そうなテーマに集まってくる気がします。
では、「第四人称」とは、どんなことなのか。
傍観者的で取り付く島のない「第三人称」には、飽き飽きしている近頃ですが、
それでは、次にくる第四人称とは何なのか?
ぜひ、外山氏にはそれを書いてほしいと願うばかりです。

さてっと、この本に登場する根本実当こと、コンポさんは、あとがきによりますと

「根本実当は、四十年前、活字になって生まれた(『葦の髄から』のち『新・学問のすすめ』)。そしてふたたび、二年前、前著『老楽力』で元気なところを見せた。こんどは三度目、正直に呼び名を明かすことになった。思えば、四十年・・・」(p216)

とあります。う~ん。『新・学問のすすめ』と『老楽力』のどちらも、未読。
さっそく、注文してみることにします。
ちなみに、講談社学術文庫の『新・学問のすすめ』は未読ながら身近にありました。

その文庫の解説は、佐伯彰一氏。10ページもある解説です。
そこに、ひょっとしたら第四人称のヒントになることばが見つけられるかもしれません。
では、以下は佐伯氏の解説

はじまりは
「本書のいちじるしい美質の一つは、いかにもパーソナルな持ち味にある。あくまで『私的』な筆致と態度をつらぬいていて、しかもそれが世人の盲点をつく正論、公論たり得ているとことにある、とまずいっておきたい。」

それが文庫になるので読みかえすことになる

「十三年ぶりにあらためて読み返して、そぞろ懐旧の念をそそられると同時に、外山さんのいかにも『私的』な着眼と発信の主旨が、一向に古びもせず、季節外れにもなっていないことに、わがことのようなうれしさを覚える。」

ちょっと、飛ばして、あと一か所だけ引用。

「外山さんと初めて知り合ったのは、・・・『十年あまり続けていた雑誌編集の仕事』の間のことで、まず執筆者ー編集者という関係での出会いだったのだが、当の用件が片づいて雑談がはずみ出すと、外山さんは、じつに好奇心旺(さか)んで、頭の回転が早いばかりか、こちらの虚をつく新鮮な視点、アイディアの持ち主であることが分かった。練達の編集者らしく、いかにも聞き上手、話の引き出し上手ではあったが、それ以上に、こちらの話をご自身の独特なチャンネルへもちこみ、流し入れる手際が、じつに巧い。そして、話に身が入ってくると、ふと浮かび上がってきた思いがけぬアイディアや視点を、自己流にまとめ上げ、ふくらませて見せる具合が、水際だっていた。当時の外山さんは、まだ『修辞的残像』とか『近代読者論』といった世評高い名著を発表される以前の話であったことを、読者には思い出していただかねばなるまいが、いわば無名時代から外山さんは、独特の魅力ある座談家として際立っており、そうした氏の面目が、本書でものびやかに発揮されているといいたいのである。」
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

不読者。

2010-01-18 | 短文紹介
外山滋比古著「自分の頭で考える」(中央公論新社)は、カバーに舟越桂の彫刻写真が載っておりまして、なんかスゴイなあ。新刊です。まだ古本ではおめにかかれない。
さて、そこに「不熱心な読者の告白」と題した文があり印象に残ります。
その引用。

「東京高等師範学校の学生になって寮に入りますと、出版されたばかりの『寺田寅彦全集』が揃っていました。すぐとりかかって、文学篇を読み通しました。はじめて読書をしたという感じでした。その後、一時期、小説を乱読したこともありますが、寅彦の影響は文学書を吹き飛ばすほどでした。おかげでとうとう文学青年になることができませんでした。」(p91~)

「すこしずつ本を読まなくなりました。専門のために必要な読書は別にして、一部のエッセイ以外、読んでおもしろいと思うものもありませんでした。教師になってからのことですが、都電の停留所で本を見ていたら、後日、学生たちから『本を読んでいる。珍しい』とひやかされたこともありました。ケンブリッジ大学の英文科教授、Ⅰ・A・リチャーズが、『彼はめったに本を読まない』と書かれているのを見て、心強く思ったこともあります。しかし、いつも、もっと本を読まなくてはいけないという強迫観念がどこかでうごめいていたような気がします。
このごろ、本が読まれなくなったといって心配されていますが、量的なことは問題にならないでしょう。質的にすぐれた本は、いつの時代もそれほど多くあるわけではなく、雑書をむやみに読むのはむしろ有害ではないか。[不読者]はそういう不逞なことを考えます。」


「本を読まないなら、新聞・雑誌は読むだろう、などと言われては困ります。決してよい読者ではありません。正直に言って、読んでよかったと思うような新聞記事に出会ったことはあまりありません。ニュースを別にして、論説などがひどく威張っているのが気に入りません。指導性が強すぎるのです。もっと読むものの心にひびく低い声でものを言ってくれないかと不満をいだいています。」

う~ん。不満を抱きながら新聞・雑誌をめくっている外山氏の様子が、私には浮かぶのですが。


「電波メディアと比べて、活字メディアはソフィスティケーションが一段上ですから、本や新聞・雑誌を読むのは知的努力を要します。それにふさわしいメッセージがないと、読む側は裏切られたように感じるでしょう。送り手の意識改革が必要になっているのではないでしょうか。」

この文の最後は、

「おもしろくて価値ある情報を送るのは生やさしいことではありませんが、それを目ざさないコミュニケーションは早晩、衰退することになるでしょう。」
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

漱石と滋比古。

2010-01-17 | 他生の縁
外山滋比古著「中年記」(みすず書房)を読みました。
はじまりは、昭和15年秋。
「・・・英語志望にケチをつけることばの前に、先生は、『お前がねえー高等師範を受けるとはねえ。本当に教師になりたいのか、お前が、高等師範とはねえ。おどろいた』と嫌味をひとくさりやったのである。・・・・よし、それなら、受けて合格して、ハナを明かしてやろうというイタズラ心が頭をもちあげた。あんなに言わなければ、高等師範も、英語も志望しなかったかもしれない。」

なにやら、「坊っちゃん」のセリフかとおもうじゃありませんか。

そういえば、
「文章は一日になるものでないことはうすうす感じていたが、とくに勉強することもなく、ゲラをまっ赤にして印刷から文句を言われることをどれくらい続けたか、いやなことだし、記憶にもない。ただ、心をこめて読んだ本の文体がいつのまにか、うつるらしいことは、漱石を読んでいたときに書いた『葦のずいから』が、「週刊朝日」のブックレビューで、「どこか漱石を思わせる文章」と書かれて、気がついた。」(p137)

という箇所もでてきたりするのです。
では、この本で、登場する漱石について以下引用。
まずは、ここから、

「東京の学生になると早々、寮の図書室にあったそのころ出たばかりの『寺田寅彦全集』の文学篇全巻を読み切った。ひところ物理学をやりたいと思うほどに耽溺した。」(p23)

「夏目漱石は中学生のときからよく読んだが、『文学論』は大学へ入ってから読む。その構想と思考の方法にはひどく感心した。おそらくこの本が出たとき、世界中でこれに匹敵する文学概論はひとつもなかっただろう。そういうことがわかるのに、その後二十年くらいはかかった。世の漱石研究家たちは、いまなお、この『文学論』を扱いかねているらしく見える。」(p24)

うん。外山滋比古氏による漱石「文学論」講義という本があってもよさそうなものです。

「印刷文化によって、文字以外、読者は作者とのつながりをほとんど失うことになるが、外国人読者にとって、作者との絆ははじめから存在しない。それだけ純粋読者でありうるわけだが、文献学的に言えば、欠陥読者にすぎなくなる。日本人として、純粋読者たりうるか、欠損読者になり下がるか、正念場であるが、明治以来、この点で悩んだ日本人はほとんどなかったのは不思議で、夏目漱石が唯一の例外である。」(p98)

「夏目漱石はもっとも高い倫理観をもった文学者であるが、外国の文献から、そっと借りてきたところが、『文学論』などにはいくつも見当たるのである。」(p163)

う~ん。漱石と外山滋比古。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする