家内が友達と観に行って良かったと言うので久しぶりに国博にでかける。熊本、細川家700年の珠玉の永青文庫コレクションといううたい文句。正月から始まり来月3日で終了。またカメラをぶらさげ、10時過ぎ自宅をでて、裏道をとおって歩いてゆく。20分少々で博物館につく。学生やシルバーの団体がぞろぞろ、ちょっと遅かったかなとおもいつつ、チケット購入、65歳以上2千円割引の1100円。音声ガイドのイヤホンセットを500円で借りる。館内はもういっぱい。歩いてきたので汗ばむ。音声ガイドに従って進もうとするがこれがなかなかすすまない。展示物の案内表示が小さいので、目がおぼつかない中高年が顔をちかづけてじっと読むものだから進まない。
もと総理の細川護照さんは細川家18代の当主になるらしい。今16代当主の護立さん(1883-1970)が設立した永青文庫(東京)の理事長。
信長の部下として活躍した初代細川藤孝(幽斎)、能が好きで面(おもて)と装束がずっとうけつがれており、各種展示されていた。般若というのは仏教で知恵をあらわす言葉だが般若坊と僧侶がさいしょ作ったので般若の面といわれるようになったらしい。展示物の説明がマンガで書かれていてわかりやすく面白い。細川家の2代目は忠興(三斎)、光秀の娘、玉(のちのガラシャ)と結婚。1582年の本能寺の変で夫婦は離ればなれ。光秀は忠興が味方になってくれるよう依頼した覚え(手紙)が展示されている。がそうならず敗死。秀吉が天下統一した後、忠興は三斎の名で千利休から茶をならい、利休ゆかりの茶道具が展示されている。それにしても昔の武人は書がうまいね。秀吉の忠興あての書簡も展示されているがなかなか達筆だ。学がないといわれている秀吉がいつ腕をあげたのか不思議なくらいだね。
1600年の関ヶ原の戦いで細川親子は徳川がたに味方、縁起がよいとされたその時のよろいかぶとが展示されている。よろいをつけた武士の重量は100キロちかくなるらしいがこんなのをつけて戦ったのだからすごいものだ。家康から論功行賞で熊本が与えられ三代忠利が初代藩主となり、以後二百数十年にわたり細川家が熊本を統治する。
そのとき招聘した宮本武蔵が晩年、五輪の書をまとめたがその一部が展示されている。
1867年大政奉還で江戸時代がおわり、同77年西南戦争で熊本城の天守閣が燃える。
その後、細川家16代の当主となった護立(もりたつ)が1970年に没するまで収集した国宝や重要文化財の書画刀剣類がずらっと並んでいるのは壮観。しかし細川家の財力でよくぞ集め残してくれた16代に感謝せねばならないね。しかし日本人の美意識と工芸技術は素晴らしいものだ。護立さんは幼少の頃病弱だったらしいが白隠和尚の「夜船閑話」をよみ感銘、内観強化で病気を克服したとのこと、爾来、白隠和尚の禅画や刀剣の収集にはまっていったらしい。こういう出会いは大きいね。
いずれにしても700年にわたる家系が面々と続いている細川家は驚嘆に値する。