言うまでもなくハワイの真珠湾攻撃から始まった3年8カ月に及ぶ未曾有の太平洋戦争が広島、長崎に原爆を落とされることにより終結した年だが敗戦の色濃い5月に大阪で生まれた。3月にB29が東京や大阪、名古屋を大空襲し4~50万戸が焼失、焼け野原になってしまった。そんなときにまったくよく産まれたものだ。湯もわかせないような中で奇跡としか言いようがない。
2月に米英ソがヤルタ会談。対独戦後処理、ソ連の対日参戦決定。米軍が硫黄島に艦砲射撃、戦車200両が上陸、栗林中将以下23000人玉砕(映画・・硫黄島からの手紙)
4月、米ルーズベルト大統領死去、トルーマンが昇格、イタリア、ムッソリーニが銃殺された。米軍が沖縄本島に上陸、6月23日戦闘が終わるまで軍人10万、県民20万、米軍7万が死亡。海軍、陸軍の意思不統一による、はなから兵力武器弾薬で負け必至の無茶苦茶な戦いであった。沖縄にむかった不沈戦艦大和が米艦載機の攻撃をうけ沈没。
5月。ドイツ軍が無条件降伏。米軍は戦力を欧州から日本へシフト、本土へ絨毯爆撃、民間人へ無差別攻撃をかけた。こんな状況下にもかかわらず、まだ日本政府は本土決戦に固執、国民義勇隊までつくらせた。こんななかで私は産声をあげた。
6月、秋田の鉱山で強制連行中国人が蜂起。終戦まで100万人ちかい中国、朝鮮からの強制連行労働者があったらしい。ソ連への終戦あっせん交渉うまくいかず。
7月、トルーマン、チャーチル、スターリンがポツダムで会談。日本の戦後処理について米英中の名でポツダム宣言を出した。日本はそれを黙殺。
8月6日、広島に原爆、8日、ソ連が対日宣戦布告、満州が撃破され100万日本人居留民が暴行略奪にあった。9日に長崎に原爆。
8月10日、御前会議でポツダム宣言受諾を決定、連合国へ通知。陸軍大臣は無条件降伏すれば戦死者にすまないとなお全面反対を主張、天皇が軍の欺瞞を指摘、聖断をもって無条件降伏を決定、14日14時、終戦の詔勅が発布、23時録音テープへの吹き込み終了。テープ奪回のクーデターがおこったが失敗。阿南陸相、割腹自殺。
8月15日、戦争終結の玉音放送。この戦争で300万人の日本人がなくなった。
私の父親は医療器具を製作にたずさわっており戦争にはいかなかった。この日以後、日本人は総虚脱状態におちいる。価値観の大転換を強いられる。
8月30日連合軍司令長官マッカーサーがコーンパイプをくわえて厚木飛行場におりたち、以後GHQ(連合国総司令部)による日本人の洗脳が始まり、東条英機など戦争犯罪人の逮捕、軍国主義から民主主義へ急速転換が進められた。
廃墟であった東京、代々木にアメリカ村ができワシントンハイツと言われ、20年余りの間、繁栄、民主主義国家の象徴として、日本人のあこがれの現物モデルを示した。白い大きな建物に便利な家電製品、大型自動車、金髪の女性。日本は完全にアメリカナイズされてしまうのである(「ワシントンハイツ」秋尾沙戸子・・GHQが東京に刻んだ戦後。新潮社)
1946年(昭和21年)満1歳
職人としての腕を活かして、鍋、釜やその他板金加工などして生計を立て始めたとか。私は満1歳でもっぱら母乳で育っていたのであろうが親はどんなものを食っていたのだろうか。小学校に入るまでの幼少期の記憶はほとんどない。家の近くの橋の欄干で母親の足元で着物をつかんで立っている3~4歳当時の写真が残っているのみ。
敗戦日本は元日に天皇が神格を否定した証書をだした。いわゆる天皇の人間宣言でマッカーサーは満足の意を表した。軍国主義者の公職追放が出され、インフレ対策で預貯金が封鎖、払い出し制限がくわえられ新円が発行された。しかし円では物が買えず手持ちの家具などでの物々交換で生活。不衛生から発疹チフスが大流行、DDTの強制散布が行われた。
リンゴの唄や帰り船が流行歌ではやった。戦後初の衆院選挙がおこなわれ自由党が第一党となる。幣原内閣が総辞職した後、吉田茂が自由党総裁となり内閣発足。11月には日本国憲法が公布された。経団連ができ、財閥(三井、三菱、安田、住友)解体も不十分な形でおわった。
1979年版「現代用語の基礎知識」の別冊付録、読める年表、昭和53年間の100の事件史をひもといている。あらためて戦後66年、日本人が戦い歩んできた道のりを感慨をもって見返している。こんなことがあったんだ!!!