夢から慈しみの世界へ

神と自然と人間の共生
神一元・善一元・光明一元の生活
人間の生命の実相は『仏』であり、『如来』であり『神の子』である

哀愁への旅路

2015年11月21日 16時48分09秒 | 日記・エッセイ
哀愁への旅路

人の背に漂う哀愁は何処から来るのであろうか、テロリストの首謀者の写真にもこの哀愁が漂っていました。
この人も人の子、神様の子と思え、胸が痛みました。どのような人間にも兄弟、姉妹、親戚、知友等はいなくとも
必ず父と母、ご先祖は必ず存在し、その一筋の生命の連続により今此処に私達の存在が意識され生かされています。
私達のご先祖様が一人でも欠けていたならば私達の存在は無いことになります。
喜びも悲しみも自分一人だけのことでなくて、ご先祖様と共に味わって来たものであります。
この世に生を享け様々な経験をして、今の私たちがあります。どんな罪人にも悲しい、苦しい経験、運命により、潜在の心には錯綜した心が有りながら、この道を生きて行くためには自分自身は正しいことであると考え、あるいはそうではないと思いながらも生活にために、この道を歩まざるをえないと考えたかもしれません。
しかしもっと深い深層の心では人間には父と母と兄弟、姉妹、親戚、知友と共に喜びも悲しみも分かち合いたいと思う慈悲の心が存在しています。その本当の自分の慈悲の心が満たされないが為に、悲哀、哀愁の心に覆われその心が影を落とし暗黒の心根に陥り、そのコンプレックスを乗り越える為に、人はそれをバネとして果敢に挑戦して善なる栄光を勝ち取り、ある人は人間の実相(本当の姿)を求めて信仰という道を選び、またある人は悪、負の根源を排除したい(排除の思想)という正義感の理想に燃えて、今ある全ての常識、概念等を排除しようと考え、手段を選ばない行動をします。
この様な思想は善を実現するには、森を一度焼き払うと新しい芽が萌えるという、悪も善も実在する二元論であり。共に平等に生産するという原始共産主義的な考えであります。また善を実現するには悪を排除しなければならないという平面的な考えは三次元的でもあります。しかし人間が生きている世界は、縦横の厚みを超えた無次元である神、または仏という無限の慈しみの世界に生かされている有りがたい存在であります。
このようなことを辿って行きますと生命の喜びの反対である悲哀、哀愁の心は、本当は素直に父と母の真心を通して神の愛を享けたいと願いながらも、カールメニンジャの『おのれに背く』という本がありますが人間は無意識に自分に背く傾向があります。
その様に、その本当は仏であり、如来であり、神の子である自分の心に背いて生きて行きますと、無意識に悲しみがわきあがり哀愁を演じることになります。




汝ら天地一切のものと和解せよ。天地一切のものとの和解が成立するとき、天地一切のものは汝の味方である。
天地一切のものが汝の味方となるとき、天地の萬物何者も汝を害することは出来ぬ。・・・・・
汝らの兄弟のうち最も大なる者は汝らの父、母である。神に感謝しても父、母に感謝し得ない者は神の心にかなはぬ。
天地萬物と和解せよとは、天地萬物に感謝せよとの意味である。・・・・・
と云うお言葉があります。


人間はどのような暗黒と見える時にも、神様から頂いた素晴らしい神の御子であることを自覚して、善なるものを見て明るく前進することが必要と思えます。





衆生劫つきて大火に焼かるると見る時も、我がこの土は安穏にして、天人常に充満せり。
園林(おんりん)諸々の堂閣、種々の寶もて荘厳せり、寶樹華果多くして、衆生の遊楽する所なり。
諸天、天鼓をうちて、常に衆(もろもろ)の伎楽をなし、曼陀羅華を雨ふらして、佛及び大衆に散ず。
法華経如来壽量品第十六


 

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 貴女の祈り | トップ | 11月21日(土)のつぶやき »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

日記・エッセイ」カテゴリの最新記事