宝石ざくざく◇ほらあなJournal3

ロシア語をはじめ、外国語学習に関するあれこれを書いておりましたが、最近は…?

「場所」と自分語り

2021年04月14日 | 
『パチンコ』上巻で大阪が主要な舞台になっていたことも影響してか、なんだかよく分からないけど「せっかくやし」と思って、一緒に『大阪』(岸政彦 柴崎友香 河出書房新社)も借りてきて、次に読んだ。
もう返却してしまって詳細あいまいなのだけど、思っていた以上に面白く、自分の記憶が触発された。
そういう、読者が自分語りをしたくなる魅力もこの本にはあるのだと思う。
大阪在住じゃない人でも、それぞれの人が愛着のある場所に自分を託して語りたくなるのではないか。
著者お二人のいろんなことが知れたのも興味深かった。
岸さんてウッドベースやってはったんやー。綾戸智恵さんからアパート引き継いでたんやー。とか。
柴崎さん、高校のときから(デビューまもない)エレファントカシマシのライブ行ってたんやー。心斎橋まで自転車で10分とかうらやましー。とか。(なぜか感想がエセ関西弁になる)
川に渡し船があるというのは「ドキュメント72時間」でやってたなー。

以下まったくの自分語りだが。
私は「場所」に自分を託して語れる人がうらやましい。
「街」でも「学校」でも「職場」でもいいのだけど、自分の居場所(または居た場所)として、人に語るというのが、なぜかどうも自分には自然にできない。
どこもなんとなく「お邪魔させてもらってる(過去にお邪魔していた)」みたいな気持ちになる。
自意識過剰なのか、同じ場所を共有している他人の目が気になるからなのか、ライブとか映画とか本とかの感想は書けるのだけど、現実的な場所(人も)だと、ためらいが大きくなる。気恥ずかしくもある。

それはそれとして『大阪』、私は大阪にほとんど無知なのだけど、柴崎さんの章にあった「扇町ミュージアムスクエア」「シネマ・ヴェリテ」とか「4時ですよーだ」とか、ピンポイントで記憶が刺激されてびっくり。
大学時代、たまーに映画、観に行っていたんだなぁー。
もっと街歩きしておけばよかったと今は思うのだが、当時の私は全くのカントリーガール、大阪の中心地は眩しすぎた。人の多さにも圧倒された。
「4時ですよーだ」は、大学で同じクラスの人がおっかけ?しているというのをちらっと聞いたから。「圭修5」は今検索したら裏番組じゃなかったのね。

あまりにも記憶があいまいなので、当時の日記を探してみたが、たまにしか書いてなかった。もっといろいろ書いておけばよかった。
しかし、ひとつピンポイントで過去の記憶が修正された。
私の「大阪の記憶」の一つとして「大阪駅構内の店で高野寛さんのCDを買ったら、店員さんに『もうすぐ新しいアルバムが出るんですよ!ぜひ』と強力プッシュされた」というのがあったのだが、それは、大阪駅構内ではなく、京都駅地下ポルタにあるショップ(JEUGIA)だった。
買い物のレシートを日記に貼り付けていた一時期があり、判明。
なーんだ。でもいずれにせよ、あの店員さんは高野寛さんと大学時代関係あった人なんじゃないかと勝手に思っている。

あと、柴崎さんがあとがきで書いていた、近鉄奈良線で生駒を越える時に一望できる大阪の街、私もあの景色、すごく印象に残っている。私の中のザ・大阪。

パチンコ

2021年04月10日 | 
『パチンコ』(ミン・ジン・リー 池田真紀子(訳)文藝春秋)を読む。
アメリカでベストセラーというのをどこかで見て書名は記憶してたのだけど、たまたま去年の雑誌『文藝春秋』をチラ見したら著者のミン・ジン・リー氏と作家の村田沙耶香氏との対談が載っていて、にわかに読みたくなったのであった。
図書館でまず上巻だけ借りて来たのだけど、巻を置く能わざるおもしろさで、続けてすぐに下巻を借りに走った。絵や写真を言葉でなぞるのではなくて、言葉から「本当」の情景や感情を紡ぎだしている。本当の本当は分からないけど、著者は間違いがないよう誠実に取材を重ねていると思うし、視点に偏りがなくて信頼できる。

在日コリアンの物語、と書くだけで、なんだかいろいろ面倒くさい感情を読む人に引き起こすのだろうなと思うと、ブログを書くのもためらわれるが、とにかく、私はこの小説を読んで初めて、在日コリアンの人たちの生きづらさがいろいろ腑に落ちたように思う。自分がそれぞれの登場人物のようにその時代に生まれついたら、そして逆に、自分が当時の日本人だったら、朝鮮半島から移り住んできた人にどんな感情を持ったかということが、ありありと我が事として感じられた。小説の力ってすごい。

著者がこの小説の着想を得たのは1989年のことだそうだが、実は私が在日コリアンの問題を初めて意識したのもその頃だったように思う。
関西の学校だったからか「同和問題」が一般科目の必修になっていて、そこで「在日」も扱われていたのだったか。しかし、それまで田舎でみんな同じような感じと思って育ってきたので、今一つ問題の根っこが分からなかった。
在日三世の人のエッセイを読んだ記憶もあるけど、それは「在日の特殊性ばかり言われるけど、自分は普通に暮らしていますよ」という内容だったと思う。
小説家とか映画監督とかの活躍も目立っていたから、むしろアイデンティティをはっきりと押し出せてうらやましいとすら思っていたような気がする。
日本生まれで日本がいいと思えば帰化すればいいのにねとわりと簡単に思ってもいたような。

直接の知り合いもいなかったし、在日コリアンおよび朝鮮半島について、偽善でもなんでもなく差別意識は全くなかったと思う。無知で世間知らずともいえるし、よく言えば無邪気だった。
なので、ネット社会になり、「世間」の空気を知るようになり、かなり驚いた。
親切なつもりで書かれたのであろう懇切丁寧な説明を読んだりもして、影響を受けたりもした。
どういうふうに考えて、どういうふうに接していけばいいのか分からなくなって、かつての無邪気な自分が懐かしくなったりもした。

ま、でもネットで関心を持ってそういう記事を読んだりする方は、ぜひとも『パチンコ』一読をお勧めする。

本題とはやや外れて印象に残ったのは、早稲田大学に入ったノアが世界文学を心の友としていたこと。
私、一応外国文学を専攻していたのに、まるっきり未読なものが多いことがコンプレックスなのであった・・・今からでもぼちぼち読み進めたいものだ・・・

「泣けない女の子」は・・・

2021年03月22日 | 
前に読んだ本は記憶も薄れているし、図書館で借りた本だともう手元になく確認することもできないので、間違っているかもしれないのだけれど、でも、漠然とした印象であっても、消えてしまうよりはいいかと思って書いてみる。

『コラムニストになりたかった』(中野翠 新潮社)
中野さんの読者なので、内容としてはほとんど知っていることだけれど、あらためておもしろかった。
知っている時代はあらためて懐かしい。
中野さんの他の本と違った感想として「中野さんってやっぱりなんだかんだ言っても当時の女性としては上位数パーセント?の特権階級だったんだなぁーーそしてやっぱり(編集者・文筆業としては)仕事ができる人だったんだなーー」というものがあった。
昔はそんなことはあまり思ったことがなかったのだけど、時代による女性の立場の違いとか、生まれ育った家庭の影響とかに目が行くようになったからかな? そういうことと、書かれたもののおもしろさはまた別の話だと思うけど。

ひとつ、これはいくらなんでもあんまりだと思ったことを。
「1990」の項、179-180ページに「二谷友里恵が書いた『愛される理由』(朝日新聞社)がベストセラーに。」という文章があり、あろうことか「私は読んでいないのだけれど」と続いているのだけど。

読んでますって!
「泣けない女の子」という文章を書いている!
(『私の青空』所収)
だからこそ、1990年の出来事として中野さんも思い出したのだと思う。書いていなかったら、もはや記憶の底から浮かび上がるほどの事件だったとは思えない。

悲しい。
『あの頃、早稲田で』で「くわえタバコで・・・・・・」のコラムを「単行本にも収録していない」と書いていたのよりもさらにさらにショック。
なぜなら私はこのコラムにいろんな面で感銘を受けて、影響も受けていると思うから。
中野さん以外には書けないすばらしい書評だと、今読んでも思う。
(今『私の青空』をめくってみると、あれもこれも、今日の私を形作った基になっている・・・読書でこんなに影響受けることが、中年以降のこれからはあるだろうか・・・)

それにしても、編集者はこういうことはチェックしないのか。
『私の青空』では堂々と目次の見出しにもなっていたのに「読んでいない」はないんじゃないかと思うけど、私のような読者の反応を期待して(話題作り?)わざと指摘しなかったのか?
・・・なんてことはなく、全体の中では些末な一文に過ぎず、そこまで注意が行かなかったんでしょうね。
でも、昔をイメージで美化しているだけかもしれないけど「昭和の編集者」だったら、こういうところを絶対におろそかにしなかったんだろうなとも思ったりして。

他の本についても書きたかったのだけど、また項をあらためて

「自分」と「他人」

2021年03月21日 | 
他人との関わりということで、興味深く読みながらも私にはできないことだと思ったのが
『ヤンキーと地元 解体屋、風俗経営者、ヤミ業者になった沖縄の若者たち』(打越正行 筑摩書房)。
最初は新聞の書評で見て知ったのだと思うけど、図書館の棚の割と目につくところにあったり、NHK「100分de名著 ブルデュー『ディスタンクシオン』」でも、画面に表紙が映っていて番組中でもちらっと述べられていたり、ということで、借りて読んだ。
自ら暴走族のパシリをやったり解体屋で働いたりして、調査対象の若者たちと信頼関係を築きながら調査を続けるというのは、本当にものすごく大変なことだと思う。
身体的に過酷なのはもちろんだけど、自分にできないと思うのは
・自分の人間性が試される
・自分が何者であるかを考えさせられる
・自分が対象の人物、属する社会を観察調査研究することの意義、正当性?を絶えずとことん考えさせられる
・しがらみで固まった世界に入り込む怖さ
・いったん関係をつくったら、自分から壊したり逃げたりできない。一生つきあう覚悟がいる
というところか。
そして、書かれたものを読むと、あたりまえだけどみんな人間、それぞれの環境や流儀や考え方、理由があって生活を営んでいるわけだけど
・未知の世界にサイコパスとか悪の化身とかがいないという保証はない。関わることで奈落の底へ引きずり込まれる事態が起こらないとは限らないと思ってしまう。
しかし、こんなことを思ってしまうこと自体、想像だけの世界にいる証拠で、こんな故なき偏見を打ち破るために社会学はあるのかもしれない。

さらに前に『裸足で逃げる 沖縄の夜の街の少女たち』(上間陽子 太田出版)も読んでいた。
これも新聞の書評で見てちょっと気になっていたところ、図書館でみかけて借りたのであった。
こちらもとことん少女たちに寄り添う著者の姿に、とても自分にはできないことだと思う。
自分には偏見はないほうだと思っていたけど、我が事としては全然考えていなかった。
たまたま生まれ育った環境によって、自分は裸足で逃げることはなかったけど、自分がそうだったかもしれない。書かれている環境状況人間関係に置かれて、彼女たちと違う選択ができたとはとても思えない。

ひるがえって、自分が調査対象だとしたら、どのように描かれるのか。どういう生活圏、どういう階層にいるのか。とことん「個人」でいたいと思うけれど、そんなわけにはいかず、やはり生まれ育った環境でかなり固定されているとあらためて思う。
そして自分は臆病者で、打算的だし、結構人を見下しがちなわりに、自分は見下されたくないという意識が強いななどということを今思った。
全然まとまらないが、たくさんの違った人生があるということと、違う人と関わるということについてなんだか考えてしまう今日この頃なのであった。

他人と関わる

2021年03月21日 | 
昨日読み終わった本からさかのぼっていくつか。

『戦場から女優へ』(サヘル・ローズ 文藝春秋)
前々から図書館で目に留めていたのだが、借りるには至っていなかった。
が、その前に借りた『にほんでいきる 外国からきた子どもたち』(毎日新聞取材班編 明石書店)の中にサヘルさんのお話も少しあったこともあり、読んでみようと思ったのだった。
サヘルさんについて認知したのは、個人的には、ちょっと前にNHKでやっていた爆笑問題の「探検バクモン」という番組での進行役かな。声も言葉遣いもとてもきれいで、爆問太田氏の脱線もうまくかわして番組を進める姿に好感をもっていたのだった。
サヘルさんの来日は93年。あの頃の日本でこんな生活をしていたなんて!
そして、最初に住んだ埼玉県志木市の小学校の校長先生、「給食のおばちゃん」、近所の人たちもすばらしい! 住民の民度によっては、通報即強制送還か、ホームレス襲撃のような痛ましい事件もありえた状況だったと思う。
当時はまだ意外と「他人」に対する警戒心が今ほどじゃなかったのかも、とも思ったり。
一方、中学時代のいじめについては、本当に悲しい。
この本、編集者の手が入っているにしても、大元はサヘルさん本人が書いたものだと思うのだけど、友達に思わず嘘をついてしまうくエピソードとか、自分の性格分析とか、単に「苦難を乗り越えて成功した人の話」ではない、人間らしさや個性があっておもしろい。
人格形成については、養母となった女性の教えが大きいのだと思う。
とにかくいろいろ感じることの多い好著であった。
テレビとかで生い立ちの大体のあらましは聞いたことがあったような気がしていたけど、本人が書いた本という形で読めて良かった。

『にほんでいきる 外国からきた子どもたち』では、支援の手が届かず、死んでしまったり、犯罪に手を染めてしまったりした例もあって、痛ましい。
自分に手助けできることがあればしたいなと思うのだが、現実的に自分の性格性向を考えると暗い気持ちになる・・・
先生や支援団体の人は困っている子どもや家族を全面的にサポートしている。頼られる。
私は、誰であっても全面的に寄りかかられるのが、どうにも駄目なのだ・・・世話好きの対極・・・
いろんな国籍の人がわいわいやっている雰囲気は好きなのだけど、「日本」のルールや考え習慣に従うように導く役割はやりたくない・・・自分自身が嫌だなと思いながらも同調圧力と摩擦回避のために従っていることも多いから・・・
現実に何ができるか、少しずつ模索しよう。

人との関わりについて考えたほかの本についてはまた項をあらためて。

再開/聴きながら読める

2021年03月11日 | 
一旦更新が止まると再開に時間がかかる。
止まった直接の原因は1月の大雪と寒さだと思うのだけど、その後もなんとなくもやもやと日が過ぎた。

先日図書館で借りてきた『Think clearly』(ロルフ・ドベリ著 安原実津訳 サンマーク出版)、副題が「最新の学術研究から導いた、よりよい人生を送るための思考法」というのだけど、それの第一章が「考えるより、行動しよう」で、1ページめに「何を書くかというアイデアは、『考えているとき』にではなく、『書いている最中』に浮かぶ」とある。
これ、学術的な根拠は知らないけど、私も知っている。他の何かで読んだか、自分の実感もあって。
そうだったそうだった。
「自分の思考を探ってみても最後にたどり着くのはおそらく、気分の波と、とりとめのない感情と、曖昧な思考だらけの混沌とした泥沼だけだ。」
わーまさにその通り。うまいこと言うなぁ。

読書録を書こうと思っていたのだけど、溜まった分をまとめて書こうとしておっくうになっていた、というのも再開が遅れた理由である。
読んでから日が経って記憶が薄れてしまったのが残念だけれど、『細野晴臣と彼らの時代』(門間雄介 文藝春秋)から。
偏りなく目配りの効いた内容で、良い仕事をしておられるなぁと著者にも敬意を払わずにいられない。
知らない時代も、部分的に知っている時代も興味深く。
はっぴいえんどについての鈴木茂さんのお話で「四人ともお酒を飲めないから、移動中はお茶とおまんじゅうで、(・・・)若干の違和感もあったよね、お年寄りの集まりみたいだなって(笑)」
というのが、当時の目でみても老成していたんだなあとおもしろい。
「再会」の章、21世紀になってからの小坂忠さんのレコーディングで
「小坂がかつてと同じように『細野くん』と呼びかけると、スタッフの顔色はさっと変わった。細野にそんなふうに気安く声を掛ける人はもうどこにもいなかった。」
というのも印象に残った。
個人的には、細野さんの活動はほとんど追っていない私だったが、なぜか平成元年「オムニ・サイト・シーイング」はよく聴いていたなぁと思い出す。何か影響されているかも?
著書中に出てくる楽曲について、サブスクリプション(apple music)のおかげで、すぐに参照できるのが、新しい読書の形?という感じでいいなと思った。でも大瀧詠一作品は入ってないので聴けず、至極残念・・・と思っていたら、サブスクリプション解禁というネットニュースを見たのだけど、ほんとかな?

購入&未購入記録

2020年12月20日 | 
12月18日 本を3冊買った。

『いいかげん、馬鹿』(中野翠 毎日新聞出版)
『コラムニストになりたかった』(中野翠 新潮社)
『細野晴臣と彼らの時代』(門間雄介 文藝春秋)

サンデー毎日連載コラムをまとめた毎年末恒例の単行本、田舎では書店の仕入れ数が少ないからだと思うけど、発売日から日が過ぎるともう買えなくなってしまうのだ。
ラッキーだった。
『コラムニスト・・・』が出るのは知らなかったのだけど、サンデー毎日の連載欄を見たら書いてあったので、その場で書店の検索パソコンでチェック。1冊あってよかった。
『細野晴臣と・・・』も知らなかったのだけど、先日ブログを書くときに坂本龍一さんのライブについての参照記事を検索したら、17日発売の情報が出てきて、これはぜひ買いたいと。
検索パソコンでチェックした書店には無かったのだけど、別の書店の棚に1冊ささっていて、無事購入。

発売日から日を待たずに3冊も買えたことが嬉しく記録。
書店でのタイムリーな出会いが難しいというのも、都会と田舎との違いかと思う。
中野さんの本は結局アマゾン経由で買った年もあったのだけど、予約、注文するのはなんとなく気が進まないのはなぜだろう。面倒くさがりだからか(^^;

書店にあれば買いたいと今思っている本は、林立夫さんの『東京バックビート族 林立夫自伝』、高橋幸宏さんの新書(PHP新書『心に訊く音楽、心に効く音楽 私的名曲ガイドブック』)、前にも書いたが鴻上尚史さんの『ロンドン・デイズ』(小学館文庫)・・・
あ、あと文庫版の『ゲゲゲの女房』(武良布枝 実業之日本社文庫だったのね・・・)。ドラマ化の後日談など、今年初頭の再放送後に無性に読みたくなったのだが、自分の本棚になく・・・水木しげる記念館に行ったときに買ったと思っていたのに、単行本は読んだからと、妙なところでケチってやめたんだなきっと。

10月に読んだ本

2020年11月05日 | 
どんどん日が過ぎてどんどん忘れていく。
10月中下旬から11月初めに読んだ本を並べてみる。
((図)は図書館をぶらぶらして目について借りた本)

(図)『なぜ、生きているのかと考えてみるのが今かもしれない』(辻仁成 あさ出版)
一周回って(?)かなり尊敬している辻氏。それにしても活動量旺盛(というのはコロナ禍のパリ生活を記録したこの本についての感想ではないが)。言葉も溢れ出てくる感じ。

(図)『生きづらさについて考える』(内田樹 毎日新聞出版)
人文学は乱世の学問。どんな問いかけにも独自の考えを説得力を持って、すっと頭に入るように説明してくれる。すごいなぁ。アマゾンのレビューをちらっと見たら両極端、「考えがまったく合わない」と星一つの人もいて驚嘆。

『関西酒場のろのろ日記』(スズキナオ ele-king books)
読んでいる間ずっと幸せな気分。いいないいなぁ。梅田「風の広場」、数年前の大阪行きで映画を観て帰ろうと思ったときに行き当たり「大阪駅隣接にこんなだだっ広く静かな空間が」と印象的だったのだが、酒飲みにいいという発想はまったくなかったなぁー

『たちどまって考える』(ヤマザキマリ 中公新書ラクレ)
巣ごもり需要を当て込んだお手軽な聞き書き本かと思いきや(失礼!だが猜疑心の大切さは本書でも言われているよ)、いろんな話題で本当にいろいろ考えさせられた。そのひとつ、ミュージシャンや漫画家の人に政治的な発言をしてほしくないなと実は自分も思っている。なぜだろう。

(図)『どこにでもあるどこかになる前に。~富山見聞逡巡記~』(藤井聡子 里山社)
発売した頃買おうかどうしようか迷って結局買わなかったんだった!ということを図書館で見て思い出す。(富山県人らしさの表れと思ってほしい・・・)
遅ればせながら、思っていた以上に重量級の衝撃だった。ひとことでは言えない。
作中出てくる島倉さん、同い年だったんだなぁ・・・
私は富山市内からもどの街からも離れた片隅の住人なので、酒場の描写が楽しそうで羨ましい・・・

前出『たちどまって考える』で、日本人について「・・・『いないように生きていきたい』とどこかで思っているようにさえ見えます。なるべく自分の主張を言わずに、誰かから何かを問われたり、追求されたりするのも避け、他者からの承認欲求もなるべく発動せず、静かに生きていきたい。」とある。
私の中の半分はまさにそういう感じだったのだけど(だからこの文章が印象に残った)、「それでいいのか!?」と強く揺さぶられたのがこの『どこにでもある・・・』だった。

(図)『百年と一日』(柴崎友香 筑摩書房)
思っていた以上に面白かった。小説でないと味わえない時間と空間の飛躍。
前述『どこにでもあるどこかになる前に』の富山市内駅前や総曲輪の様子もぐーんと俯瞰するとこの本の中の一編みたいになるなぁと思った。またこの中の一編をぐーんとズームアップするといろんな地域や住人や個人における『どこにでも・・・』みたいな大事なことを記録した本になるんだなぁと思った。

沖縄から自分ごとを

2020年10月04日 | 
『沖縄から貧困がなくならない本当の理由』(樋口耕太郎 光文社新書)読了。

そもそもは『宇宙に行くことは地球を知ること』を買いにいったとき、光文社新書の棚に並んでおり、「あ、ネットか何かで見た覚えが」と認知したのがきっかけ。
「自尊心の問題がかかわっている」というのを見て、読んでみようと思ったのかな。
「自尊心」は、私が結構敏感に反応してしまうキーワードなのだった。

沖縄の問題は濃縮された日本の問題というのが、我がこととして、分かる。
沖縄大学の学生たちの声を読んで、ずっと暗い気持ちになっていたのだが、昭和後期に小中高校時代を過ごした私の周りにもこういう空気は確かにあった。
同調圧力によって生ずる無感覚とか抑圧された怒りとか、私も後年になって自覚したことがあったのだった。自分を生きていないと、当座は平穏でも、結局のところロクなことにはならない。

対症療法ではなくて根本原因を探るという点で、去年からロングセラーになっている『ケーキの切れない非行少年たち』(宮口幸治 新潮新書)も思い出した。非行少年に関心を持つ人は多いと思うが、この本にあるような視点は「人の関心に関心を注ぐ」ことで明らかになったことだと思った。

また、先に読んだ花田菜々子さんの本になぜ感銘を受けたかというと、それが「人の関心に関心を注ぐ」こと、そして「人が自分を愛する手助けをすること」、そのことによって自分らしく生きることの実践記録になっていたからだろうかと思った。

「自分を愛することは最大の社会貢献になり得る。」
新政権の首相および閣僚の方々も、自分を愛せる人であってほしいが。政治家の二世とか圧力がすごそうな気がする・・・

能力的に人や社会のためにできることってないなぁ・・・と思っていたけど、具体的な支援でなくても、目の前の人の関心に関心を注ぐ」ことは始められるかも。

宇宙!(補遺)

2020年09月30日 | 
NHKラジオ講座テキスト「まいにちロシア語」で連載していた野口聡一さんのコラムで、最終回にあったフレーズを、勉強も兼ねて、今、自分の気持ちとして書き写しておこう。

「打ち上げの成功、順調な宇宙飛行、そしてスムーズな軟着陸を祈ります!」
Я желаю вам успешного старта и благополучного полёта . А также мягкой посадки!

「スムーズな軟着陸」=soft landing は、ロシア語でも「やわらかな着地」=мягкая посадка (みゃーふかや ぱさーとか)なのですね。ロシア語の「軟らかい」=мягкий(男性形は「みゃーふきー」)、好きな単語なのだ。ロシアのソユーズ宇宙船は、着地(陸地に)も着水(水面に)もできるのが、他の宇宙船にはないところなのだそうだ。。

このコラム、ロシアらしいところの紹介とか、とても面白かったのだけど、本当に宇宙飛行士に興味を持つ人が食いつくであろう宇宙船内部とかロケットとかのことになると、読むのがおっくうになることがあった。
分かりやすく興味を引くように書いてくれているので、読んでしまえば面白いんだけど。

そういう点で、矢野さんとの対談という形の『宇宙に行くことは地球を知ること』は、感覚の話から始まって、全体に私のような者にもすっとなじむ内容、構成になっていて、あらたな宇宙ファン(まではいかなくても、以前よりも身近に感じられるようになる人)が増えるよう、よく考えられているなぁと思う。

無重力への慣れについて、時差を例に話をされていたところで、時差といえば矢野さんの「東京は夜の7時」だけど、矢野さんはそういえば、ずーっと前から「こことは違う場所」に思いを馳せていたのだなーと思った。「電話線」も、どんな遠いところでもつながっているという感覚だし。
そう思うと、宇宙への興味は全然突飛なことではなくて、昔から持ち続けていた感覚が、解像度を増して、具体的な「宇宙」にぴったりフィットした、という感じ、なのかなー

というわけで、すごくいい本だと思うし、私はファンなので矢野さん個人の話も嬉しいが、一般的な読者層に向けてはどうなのだろうと思ったりしないでも・・・ないけど、どうなのかな?