宝石ざくざく◇ほらあなJournal3

ロシア語をはじめ、外国語学習に関するあれこれを書いておりましたが、最近は…?

「泣けない女の子」は・・・

2021年03月22日 | 
前に読んだ本は記憶も薄れているし、図書館で借りた本だともう手元になく確認することもできないので、間違っているかもしれないのだけれど、でも、漠然とした印象であっても、消えてしまうよりはいいかと思って書いてみる。

『コラムニストになりたかった』(中野翠 新潮社)
中野さんの読者なので、内容としてはほとんど知っていることだけれど、あらためておもしろかった。
知っている時代はあらためて懐かしい。
中野さんの他の本と違った感想として「中野さんってやっぱりなんだかんだ言っても当時の女性としては上位数パーセント?の特権階級だったんだなぁーーそしてやっぱり(編集者・文筆業としては)仕事ができる人だったんだなーー」というものがあった。
昔はそんなことはあまり思ったことがなかったのだけど、時代による女性の立場の違いとか、生まれ育った家庭の影響とかに目が行くようになったからかな? そういうことと、書かれたもののおもしろさはまた別の話だと思うけど。

ひとつ、これはいくらなんでもあんまりだと思ったことを。
「1990」の項、179-180ページに「二谷友里恵が書いた『愛される理由』(朝日新聞社)がベストセラーに。」という文章があり、あろうことか「私は読んでいないのだけれど」と続いているのだけど。

読んでますって!
「泣けない女の子」という文章を書いている!
(『私の青空』所収)
だからこそ、1990年の出来事として中野さんも思い出したのだと思う。書いていなかったら、もはや記憶の底から浮かび上がるほどの事件だったとは思えない。

悲しい。
『あの頃、早稲田で』で「くわえタバコで・・・・・・」のコラムを「単行本にも収録していない」と書いていたのよりもさらにさらにショック。
なぜなら私はこのコラムにいろんな面で感銘を受けて、影響も受けていると思うから。
中野さん以外には書けないすばらしい書評だと、今読んでも思う。
(今『私の青空』をめくってみると、あれもこれも、今日の私を形作った基になっている・・・読書でこんなに影響受けることが、中年以降のこれからはあるだろうか・・・)

それにしても、編集者はこういうことはチェックしないのか。
『私の青空』では堂々と目次の見出しにもなっていたのに「読んでいない」はないんじゃないかと思うけど、私のような読者の反応を期待して(話題作り?)わざと指摘しなかったのか?
・・・なんてことはなく、全体の中では些末な一文に過ぎず、そこまで注意が行かなかったんでしょうね。
でも、昔をイメージで美化しているだけかもしれないけど「昭和の編集者」だったら、こういうところを絶対におろそかにしなかったんだろうなとも思ったりして。

他の本についても書きたかったのだけど、また項をあらためて

最新の画像もっと見る

コメントを投稿