宝石ざくざく◇ほらあなJournal3

ロシア語をはじめ、外国語学習に関するあれこれを書いておりましたが、最近は…?

9月に読んだ本

2020年09月29日 | 
9月の読書の備忘録として、もう2冊書いておこう。

『シングルファーザーの年下彼氏の子ども2人と格闘しまくって考えた「家族とは何なのか」問題』(花田菜々子 河出書房新社)

前著『出会い系サイトで70人と実際に会ってその人に合いそうな本をすすめまくった1年間のこと』は、覚え書きノートを見ると2年前の9月に読んでいた。
図書館にあったので借りてみたのだけど、思いのほかおもしろく感銘を受けたのだった。
が、なんで、どう感銘を受けたのだったかがもう覚えてない・・・
本や他人や自分の気持ちに対する誠実な向き合い方っていうところかなぁ・・・
やっぱりちょっとでも感想を書いたりしておかないと忘れてしまうな。

で、前著がおもしろかった記憶があるので、今回の新作も書店で見て気になっていたのだが、ん、本の話ではない?私生活の話かーと、即買いするには至らずそのままになっていた。
が、幸いこの本も図書館に入っているのを見つけ、喜んで読んでみて、うん、やっぱり良かった。

家族ということじゃなくても、子どもとの関わりは難しい。何が正解か分からないし、自分がその子だったらどう思うと考え出すとますます悩む。
で、子どもとも彼氏とも、既成の「こうあるべき関係」にあてはめようとするんじゃなくて、ひとつひとつ、お互いの個性や感情を大切にしながら、関係をつくっていっている。
つくりあげていきたいと思う相手と家族になっていくんだなぁー
あくまでまったく個人的な事柄を書いてるんだけど、そこに普遍性がある、というのが好きなところかなーうまく書けないけど。

もう1冊は
『ドン・キホーテ 笑う!』(鴻上尚史 論創社)
鴻上さんの著作の中でいちばん売れていないというドン・キホーテシリーズ。
去年は新宿の紀伊國屋書店で買ったものの、今年はまったく忘れていたのだが、たまたま見た書店の棚にあったのである。
人気らしい『ほがらか人生相談』の隣にあったので、今回一緒に仕入れてみようかと思ったのかも。

週刊誌連載の時評コラムはやっぱり「足が早い(腐りやすい)」というイメージがあって、鴻上さんのでなくても、買うのをためらう向きはあると思う。
私は中野翠さんのコラム集は毎年買っているけれど、あれも文庫ではもう出なくなってしまったし。
それでも、中野さんの本は、毎年、年末に出るので、その年を振り返るという意味で買う習慣にしている人は私以外にもいると思う。
鴻上さんの本も、夏じゃなくて、年末か年度末の発売ならまた違ってくるかも。
あとやっぱり営業力かなぁ・・・書店で見かけるというのが大切なのよね・・・『ロンドン・デイズ』も買いたいと去年思っていたことを、思い出した。見かけないからあきらめてしまうのよね・・・

と書きながら、営業力とか言っても、書店に行かない人には関係ないね・・・と思う。

宇宙!

2020年09月29日 | 
もう四半世紀くらい前!?の本だけど、『本の雑誌』での連載をまとめた『発作的座談会』(椎名誠、沢野ひとし、木村晋介、目黒孝二)という本があって、好きだった。
文字通り、4人が雑多な話題についてあれこれ座談している。
本はもう手元にはなく、記憶はおぼろなのだけれど、その中で、「月に行ってみたいか」という話題があり、SF好き椎名さん、目黒さんが「絶対行ってみたい!」「だって地球が見られるんだぜ」と言うのに対して、沢野さん、木村さんは「ふーん・・・(まったく興味なし)」という感じだったのが、妙に記憶に残っている。
世の中かように、宇宙に対する興味は、ある人はすごくあるし、無い人はまったくないように思われる。
私はといえば、SFは苦手だし、はっきりと沢野さん木村さん側なんだけど、SF好き、天文好き、宇宙好きという人に対して、そういうものに興味が持てるっていいなぁーと憧れる気持ちも、ある。複雑だ。

さてさて、何が言いたいのかというと、そういう私なので、宇宙に関する本もほぼ自分から手に取ることなどないのだけど(あっ宇宙飛行士向井千秋さんの旦那様、向井万起男さんの著書は読んでいた。でも関心はもっぱら宇宙以外だったな・・・)、これはやはり買わなくては。そして読みました!

『宇宙に行くことは地球を知ること 「宇宙新時代」を生きる』(野口聡一 矢野顕子 取材・文 林公代 光文社新書)

図らずも、本日、野口さんが搭乗するスペースX社の新型宇宙船「クルードラゴン」の打ち上げが10月31日に決まったというニュースが。この本を読んでなかったら「ふーん・・・」で終わるところだった。
(テスト機の打ち上げについてはそういえば矢野さんのツイッターで見たと思うけど、まさに「ふーん・・・(興味なし)」だった(^^;)
この本の出版時期もそういうタイミングをはかってのことだったのね。

個人的に読んでいちばん思ったのは「言葉の力」。
宇宙での体や心の感じ方、死と隣り合わせているという感覚、闇の世界、そんな中で生物としての地球が持つ圧倒的な存在感・・・映像を見ても感じられる人は感じられるのだろうけれど、私は本を読んではじめて、何か、こう、具体的にリアルな感覚として「なるほどそういうものなのか」と分かった気がする。
野口さんや、全体をまとめておられる林さんは、宇宙のことを子供たちにも伝える機会も多いからだろうか、すごく分かりやすく読みやすく、一読してすっと頭に入る。すごいなぁ。

宇宙の始まりと神についての話はリスキーだと思ったけど、実際信仰を持っている人にとっては気になることだ。うまくまとめてあるなぁと思った。

宇宙飛行士の当事者研究というのも、文系人間(だからかなんでか)で、やっぱり個々の学問分野よりも携わる人間そのもののほうがいつも気になってしまう私には、興味深かった。

蛇足というか気にするところでもないんだろうけど、民間宇宙船の初号機には日本人宇宙飛行士を乗せたいと、JAXAがアメリカ、ロシアなどの宇宙機関に長年にわたって要求していたとあって、なるほどなんというかそういう政治的な働きかけってやっぱりあるのね、と思った。

野口さんに関して、NHKラジオ講座テキスト「まいにちロシア語」で連載しておられたのを思い出した。
「ガヴァリート・コスモス!~宇宙への道はロシアから~」と題して2017年4月から2019年3月まで。
当時は宇宙食とか興味ある回しかちゃんと読んでなかった(^^;
テキストを買ってなかった時期もあるので全部じゃないけど、読み直している。
ロシア語またちょっとやる気になった(^^;

関係ないんだけど、野口さんは紅白で木村拓哉さんと肩を組んでいた印象があって、キムタクと同年齢と思い込んでいたのだった...

短編集が気になって

2020年08月21日 | 
『一人称単数』(村上春樹 文藝春秋)について
「村上作品には、身に覚えのないことで悪意を向けられるパターンが結構あって、気の毒だ」
と思ったんだけど、
感想を書いてみた後に、はたと思い当たることがあり、「そういうとこやぞ」と指摘したくなったので、またまた続きを書いてみる。

この短編集はどれも「僕」「ぼく」「私」と一人称単数で書かれている。
基本的に良い読者である(と自分で思っている)私は、主人公が語る内容をそのまま受け取っていた。
しかし、小説に登場する他の人物の立場になってみたら、まるで感想が違ってくるじゃないの、ということに気づいたのであった。
男性脳と女性脳があるとして、女性脳を使って読んでいる人はとっくに気づいて指摘していたことかもしれないけど。

たとえば「クリーム」
嘘の招待状を送って、語り手にわざと無駄足を踏ませた女の子。
ひどい。納得がいかないと思う「ぼく」の気持ちはもっともだ。
でもでも、そこで自分の人生のクリームとは関係ないこととしてやり過ごしてしまう、そういう態度こそが問題なんじゃないだろうか。
女の子は連絡してほしかったのかもよ。なんでこんなことをしたんだ!と怒ってほしかったのかもよ。

たとえば「謝肉祭(Carnaval)」
付け足しのように添えられた、大学生のときの、あまり容姿がぱっとしない女の子とのデートの思い出。
「彼女をただのブスな女の子にしておかないためだけにも」彼女に電話しなくてはと思う「僕」。
はー、本気で付き合いたいと思ってるんじゃなかったら電話しなくていいでしょ。
「僕は決して容姿で女性を判断する男ではない」ということを示したいだけでしょう。自己弁護自己満足。性格が良い彼女は怒ったりしないと思うけど、彼女の友人(ダブルデートに誘ったのとは別のもっと親密な友人)だったら怒り心頭だわ。

大体、「美人だけど中身がない」「容姿はぱっとしないけど中身がある」という二項評価は、怒りを買うか呆れられるかどっちかだ。
美醜で人を判断する自分を恥じ、でも固有の醜さを味わい価値を見出せるようになった自分を誇る、みたいな文章があったけど(「謝肉祭」)、その割には「ウィズ・ザ・ビートルズ」で、年取った女性には、もうかつての夢は見いだせないですか。今の充実を喜ぶよりも夢が死んだと悲しくなるわけですか。一見、年老いた外見の内側に、かつての溌剌とした笑顔が透けて見えるよーというのが理想なんだけどなぁー

村上さんは作品が仕上がるとまず奥さんに読んでもらうとどこかに書いてあったと思うのだけど、同年代の奥様はどう思っているのだろうか。しょうがないなあと苦笑いって感じ? 

「一人称単数」で指摘された、身に覚えのない「おぞましい」ことをした自分、それは主人公の内面のある一部分が肥大して現出したものなのだと思うけど、そのおぞましさの粒子みたいなのを発見したように思った。

そして村上さんはこの「おぞましさ」に自覚的なのだろうか。
短編集のタイトルが『一人称単数』というのが、「『僕』『私』の一人称単数が言うことばかりを鵜呑みにしていてはいけない」というトリッキーな意味で付けられたのだとしたらすごいなーと思うけど、たぶんそうではないのだろう。
「クリーム」における「中心がいくつもありながら外周を持たない円」には、悪意を示された相手についてもとことん考えろという教えも含まれていたのかも?そうは読み取れなかったけれど。
でも、まったく自覚的じゃなかったら、それはそれで信じられないような。

村上春樹氏の全作品の中での位置づけがどうなるのかは分からないけど、ちょっと感想を書いてみようと思っただけなのに、はからずも、私の中では最重要作品の一つになった(^^;

短編集を読む2

2020年08月18日 | 
『一人称単数』(村上春樹 文藝春秋)の残り4編についての感想。

「『ヤクルト・スワローズ詩集』」
ふざけた内容なのかなと思ったら違っていた。ヤクルト・スワローズとの関わりを軸にした個人史。作家研究にも重要な作品かも。この作品だけじゃないけど、昔の村上作品にあった冷笑的な感じが、今は無くなっているということを、私は好ましく思う。それで読まなくなったという人もいるかと思うけれども。
サイン・ボールがぽとんと村上少年の膝の上に載った時の、お父さんが言った「よかったなあ」、そして、のちに小説家としてデビューしたときに「だいたい同じことを口にした。」というところが、いちばん印象に残った。

「謝肉祭(Carnaval)」
シューマンについて、「謝肉祭」について、聴いたり知ったりしたらまた感じ方が違ってくるのかな。言いたいことは分かるような気がするし、小説として興味深くおもしろいとは思うのだけれど、実はよく分からない。そんなに醜い人に会ったことがないからかな? 顔を背けたくなる人とは話もしないと思うし、会って話ができる人の顔はせいぜい「個性的」かな・・・と。はっ、しかし遠い昔大学生の頃は、美醜で判断されそうな場は自ら降りるようにしていたことを思い出した・・・でも現代の高度に洗練された社会では、女の子の容姿を「ブス」と評価する男の子って、もはやいないんじゃないか、と思ったりするけど、そんなことないですか?「ウィズ・ザ・ビートルズ」の冒頭でも思ったけど、その女性観は一般的なものなのか世代的なのか、はたまた個人的なものなのか・・・

「品川猿」
なんといっても温泉で背中を流したり、ビールを飲んだりする品川猿がかわいい。ちょっと「きょうの猫村さん」の猫村ねこさんを思い出した。しかし、人間の女性にしか恋情を抱けず、好きになった女性の名前を盗む、というのは困るし、気持ち悪い。かわいいなあいいなあと思って読んでいたのに、ざらっといやな読後感。

「一人称単数」
普段ほとんどしない格好をしてみたときの違和感とか、でもあえてそれをしてみようと思うことや、自分が自分でない感じとか、分かる気がする。それにしても身の覚えのないことで責められるのは辛いし怖い。関係ないけど(あるかもしれないけど)、バーで本を読むというのは一般的なことなのだろうか。してみたいけど(バーでお酒を飲みたいが人と話をしたくない)面倒なことが起こるのもいやだな・・・

だんだん疲れて、適当に思いついたことを書き連ねてしまった・・・
どれも、こういう心境とか一言で言い表せなくて、作者もこれはこういうことですよという説明はしていない、ただ「こういうことがあった」という事実(小説内事実)を提示しているだけだ。だから、下手に要約とか感想とか書かずに、ただまるごと受け取るだけで良かったのかもしれない。
けどまぁせっかく書いたので。
(いちばんどうでもいいと思っていた「謝肉祭」で、思いがけず美醜の問題を考えたのはよかったかもしれない。またあらためて考えよう)

短編集を読む

2020年08月17日 | 
なんでも書いておけば記憶に残ろうかと、最近読んだ『一人称単数』(村上春樹 文藝春秋)について、感想を書いておこう。

近年の村上作品についていえば、長編小説よりも、中短編小説のほうがずっと好きだ。
前に短編集を読んだときも、春樹ブランドみたいなイメージとは離れて、普通に小説として、いいなぁうまいなぁすごいなぁと思った覚えがある。
(というわりには、6年前の短編集ってなんだっけ?と検索してしまった・・・内容もほぼ覚えていなかった・・・)
なので、今回の新刊もつまらないことはないはずと購入。
現代において突出して優れた小説なのかとか、村上作品の中での位置づけとかは分からないけど、十分におもしろかった。

「石のまくら」
時間が経って言葉だけが残る不思議さ。ほんとうの気持ちが宿っている言葉だけが、そこに付随するいろんなものをよみがえらせる。それを職業としていなくても、自分で短歌や俳句や詩やなんかをつくっているひとはたくさんいて、その意義について考えたりすることもあると思うのだけれど、そういう人がこの短編を読むとちょっと嬉しいかも。いや嬉しくはないし、意義も分からないけど、とにかく、残るんだなぁと。

「クリーム」
村上氏の小説には、身に覚えのないことで悪意を示されるというパターンが結構あるようで、気の毒だ。気の毒だ、と書いてみたが、自分にも意外とあった。そういえば自分の「人生のクリーム」とは関係ないと思ってやりすごしていたかも。この小説は自分も18歳くらいのときに読みたかったかな。いやでも18歳の時も「へなへなと怠けてたらあかん」とは思ってはいたんだけど・・・思ってただけだけど。

「チャーリー・パーカー・プレイズ・ボサノヴァ」
ジャズ・プレーヤーについての知識はないし、演奏も知らないけど、これ、なんだか分かる。夭逝してしまった人について、あまりの若さに思いをはせることがある。実在と創作との最上の邂逅、とか書くと文芸評論家っぽい気分になるが、これはそのまま「そんなことが」と目をみはって受け取りたい。

「ウィズ・ザ・ビートルズ With the Beatles」
見当違いかもしれないけど、読みながら思い出したのは、掌編『4月のある晴れた朝に100パーセントの女の子に出会うことについて』、そして『ノルウェイの森』『国境の南、太陽の西』。村上春樹研究的には重要作品のような気がする。芥川龍之介の『歯車』読んでみたい。そうそう、冒頭の文章-自分と同年代の、かつての美しく溌剌とした女の子たちが、今では孫のいる年齢になっていることが、不思議で悲しい気持ちになることがある、自分自身が歳をとったことについては、悲しくなることはまずないけどーというの、なんだか失礼だなぁと思ったけど、そんなことないですか。

長くなったので、残り4編についてはまたあらためて。

ベストセラーを読むきっかけ

2020年08月06日 | 
目利きではない、猜疑心が強い、ケチ、結局はメジャーなものが好き・・・ということから、ベストセラーはかなり後追いで読むことが多い。
ブレイディみかこさんのベストセラー『ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとブルー』(新潮社)を読んだのも、去年の11月だった。(奥付によると11刷)
なるほど、話題になるものにはやっぱり理由がある、すごく面白かった。
同時に、なぜか図書館に以前からあった『花の命はノー・フューチャー』(ちくま文庫の)も読む。
個人的には、ちょっと年上で、円高のいちばんいい時期に海外生活を経験している人というのは、懐かしい憧れの対象で、かつ、自分もそうありえたかもという、オルタナティブ自己だったりもして、そういう人の人生への興味もあるんだと思う。
が、なんといっても、社会派の視点と文章のおもしろさが共存しているところが好き。
英国パンクロック好きというのも、私は洋楽まったく疎いんだけれど、そういう音楽が好きな人だからこその文章だと思う。

さて、私が後追いで『ぼくはイエローで…』を購入したのは、NHK「あさイチ」のゲストにブレイディみかこさんが出演した後だった。

「あさイチ」の現在の司会はご存知、博多華丸・大吉のお二人だが、番組の最後のほうで、ブレイディみかこさんが「妹が大吉さんと高校の同級生で」と言っていたのが、記憶に残っている。
その場では「へーそうなんだ」くらいでさらっと流れてしまったのだけど、その一言で、「福岡出身」「著者の年齢は華大のちょっと上」ということが具体的に分かり、「英国だしカタカナ名前だし実体ない感じ。関係ない」から身近な印象に変わって「読んでみようかな」というきっかけになったんだと思う。私の中では。

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ついでに、上記の流れとはまったく関係ないのだけれど、最近「あさイチ」を観ながら「大吉さん、無駄にイケメンすぎる問題」によく思いをはせる。
好みのタイプとかそういうことではなく、客観的にあの番組で司会をまわすポジションとして、あの外見や醸し出す雰囲気が、格好良すぎて、観ているこちらがちょっと困る。
まぁ、その違和感も含めてのおもしろさがあったりするわけで、幅広い年齢層の女性が観る朝の番組には合っているのだろうけれど。
『「大家さんと僕」と僕』(ネットに「宝塚と僕」が挙がっていて、大家さんが出てなくてもおもしろいと思って遅ればせながら買った)の中に「大吉さんと僕」という1ページがあって、それによると「ちなみに大家さんは、大吉さんを見た時『戦前の紳士』と言っていました」とのこと。 戦前の紳士…確かに…モノクロ日本映画の男優さんっぽい。

7月の私(読書記録)

2020年08月06日 | 
ブログのことは気にかかっていたのだけど、書かないまま8月になった。
特に何があったわけでもないのだけれど、湿気のせいか毎年7月は気分や活動が停滞がちな気がする。
一旦中断すると、妙に気負って再開がさらに遅れた。
リハビリがてら、7月に読んだ本の記録など。
こういう時だしと思って、わりとほいほいと本にはお金を使った。
ベストセラー本(知られている作家)ばかりでお恥ずかしいですけど。

『ワイルドサイドをほっつき歩けーハマータウンのおっさんたち』(ブレイディみかこ 筑摩書房)
『MISSING 失われているもの』(村上龍 新潮社)
『サキの忘れ物』(津村記久子 新潮社)
『猫を棄てる 父について語るとき』(村上春樹 文藝春秋)
『「大家さんと僕」と僕』(矢部太郎 新潮社)
『ペスト』(カミュ 宮崎嶺雄訳 新潮文庫)

『ペスト』は数か月前から読んでいたのだけど、他の本のためにしばしば中断して、やっと読了。
そのため個々の登場人物について、どういう人だったか思い出せなくて混乱したりしていたのだけど、親切な解説のおかげで、そうそうそうだったと総括することができた。
この小説の「ペスト」は「戦争」の暗喩だったのね、と最後のほうで分かった。戦争の終結は、今後爆撃される恐れはないという意味で、境目がはっきりしている(と思う)が、現実のウイルスとの戦いは、こういう今日から解放!オールオッケーという終わり方にはならないよね・・・自粛一部解除で「もう一切大丈夫!」とばかりに集まってお祝いしていた人たちって、この小説を読んで勘違いしてしまったのかも・・・

1粒で3度おいしい

2019年06月22日 | 
角川文庫の4月の新刊『フィンランド語は猫の言葉』(稲垣美晴)を読む。
この本について知ったのは、ご多分にもれず、言語学者というかロシア語の先生というか、の黒田龍之助さんの著書の中でだったと思う。
具体的にどの本だったかは覚えていないけれど。
この文庫の解説も黒田さんが書いている。

この本はこの文庫の前にすでに3つの版が出ていて、2008年に出たという猫の言葉社版のハードカバーを見たことがあったけど、その時は買わずにいたのだった。表紙はこの版のが圧倒的にかわいいのだけど。
文庫だとやっぱり気軽に手に取って読んでみようかなという気になる。

1970年代、フィンランド、フィンランド語が日本にとってまったくマイナーだった頃の留学記、初版は1981年文化出版局から出ている。
この本の面白さについては、たぶんもうよく知られているし、解説でも黒田さんが余すところなく伝えておられる。
留学記、異文化遭遇記の類を読むのが好きで、言葉の話も好き(フィンランド語について全然知らなくても、その分からなさが分かりやすく書かれていて面白い)、加えて著者の稲垣さんの文章が面白く、私にはちょっと懐かしい感じ。自分がローティーンだった頃の、子供向けの本からちょっと背伸びして読んでみようと思う本の文体がこういう感じだったなぁというか。

というわけで、私には1粒で2度おいしい的な本だったのだが、さらにもうひとつ。
著者は1952年東京生まれ、東京藝大卒業、藝大は美術学部だけど、ピアノに親しんでおられ、ピアニスト舘野泉さんの話も出てくる。
読みながら、あーなにかどこかにあったはずと思ってネット検索してみたのだけどなにも出てこず。
んー違うかなー、と読み進むと、終盤に、あ、YMOのライブ盤「公的抑圧」を聴いた話が出てくる。
「中でも、私は『東風』と『The end of Asia』が好きになった。」とのこと。

そこで確信。坂本龍一さんの本か記事かに、たしかフィンランド語の翻訳家にについてあったはずなのよーと探したら、ありました(笑(^^;)
89年発行の『SELDOM-ILLEGAL 時には、違法』(というタイトル、今はもうご法度ですね・・・あ、今見てるこれも角川文庫だわ)。
中学生のときに初めてラブレターをもらった話があり
「そうしたらその女性から、三十歳ぐらいになってからかな、コンタクトがあって、実はその時のラブレター事件の女の子は私よ、というんで、会ったんですよ。それがわりと有名な翻訳家になっていて、フィンランド語の唯一の翻訳家なんだよ、今。何冊も本を翻訳してて、自分も本を書いてて、フィンランド文学にかけては日本でのオーソリティになっているんだよね。」
とあるから、これは稲垣さんだろうなぁ、と。

だからどうだというわけではないのだけど、ヘウレーカ!(ちがうか(^^;)と、なんとなく嬉しい。
と、同時に、この『SELDOM-ILLEGAL 時には、違法』のこの辺の描写、当時30代、盛りの人が振り返る中坊時代って感じがよく出てて(取材・構成は見城徹氏)、そこからまた流れた長い時を思ってなんともいえない気持ちになってしまった。

本のことなど

2019年06月16日 | 
書かないまま日が過ぎていくのも寂しいので、なんでも書いてみよう。
ということで、ここのところ読んだ本について覚え書き。

・穂村弘氏による短歌本
『ぼくの短歌ノート』『しびれる短歌』(東直子氏との共著)『はじめての短歌』(監修:講座の内容をまとめたもの)『短歌ください 君の抜け殻篇』(雑誌『ダ・ヴィンチ』で連載中の短歌投稿企画をまとめたもの)

「いい短歌は社会の網の目の外にあって、お金では買えないものを与えてくれるんです。」
↑『はじめての短歌』で感銘を受けて書き留めておいたのだけど、これだけだと分かりにくいな。

世間の常識とかスピードとかに適合していこうとすると、どんどんこぼれ落ちて無かったことになってしまう気持ちや風景やものの見方なんかが、短歌にはすくいあげられていて、そういうのを読むのが、すごくおもしろい。

読むのはすごくおもしろいのだけど、自分では短歌はつくれそうにない。
もともと常識にとらわれやすい性格なので、定型を意識するとなお委縮してしまうのかも・・・?

・『ディス・イズ・ザ・デイ』(津村記久子 朝日新聞出版)
津村さんの新刊出てないかなと検索したら、あら、去年に出ていたのではないの。
サッカーの話ということで、とりあえず関係ないからいいやとスルーしたのだったかも。
でもこれは本当に面白かった!
J2リーグ(実在とは違う架空のもの)各チームのエンブレムやらマスコットやら選手のチャントやら細かいところまですごくよく設定されているのにほとほと感心。愛がなくてはできないことだ。
愛といえば、恋愛、友情、家族愛とかいろいろあるけど、これはサポーター愛というか地元愛というか、いやそもそも「愛」なんていってしまうとちょっと違うような、でも現代社会に確実に存在している大切な感情が描かれている。
読んだ後、実際のJ2リーグにも興味が出てきて、地元チーム(あ、J3だったわ)の日程とか屋台メシとかチェックしてしまった(^^ そういう現実的な効果を生むという点でもこの小説すごい。

・『シウマイの丸かじり』(東海林さだお 文春文庫)
「丸かじり」シリーズを買うのは久々。5月の連休時に『くるりのこと』の文庫版を買う時に新刊売場で見て。
東海林さんのこのシリーズについては歴代さまざまな方が絶賛されていますが、私はこれまでは普通においしそう面白いと思って読んでいただけだった。
が、自分が『週刊朝日』読者層の中核年齢になったためもあるのか?今回あらためてなるほど絶賛されるわけだと思ったりした。読み進めながらいちいち感嘆している自分がいる。
その発見、発想、そして、短いエッセイの集積でその時代も写し取っているところ。
味わい深い。読み継がれてほしい。でもこの文庫持ってるのを若い人に見られたときにどう説明するか難しいなぁなどとなぜか思い、職場などへの持ち歩きは躊躇していたのであった(^^;

ある種の人には必読かも

2017年07月25日 | 
(書かないままに7月が終わっていくので、備忘録的に)

中野翠さんてオードリーのファンだったのねー。
2016年のコラム集『ぐうたら上等』に、オードリーのオールナイトニッポンを欠かさず聴いているとか書いてある。
私は最近のお笑い番組とか笑芸人にはとんと疎いので、読み流していた。
なんのことかというと、文庫で買ったオードリー若林正恭の『完全版 社会人大学人見知り学部 卒業見込』(角川文庫)がすごく面白くて、にわかに興味を持ち、そういえばと思い出したのであった。

買うまでの経緯としては、まず書店で平積みの表紙を見てタイトルが気になったのだが、そのまましばらく日が過ぎていった。
その後、このブログの前々項を書いた時に『アメトーク!』の読書芸人の回を思い出し(たまたま時間が合って面白そうなのでテレビを点けていた)、あの本の著者はあの番組で喋っていたあの人かと結びつく。なにかいろいろ印象に残っていたのだった。
他の時だったら買わなかったかもしれないんだけど、前々項に書いたように、自分の中でタレント本ブーム(?)が来ており、「その流れに乗ったということで」と購入。知らない本を買う時は言い訳が必要なのだ。

自意識過剰だったり考えすぎだったり、つい自分を俯瞰で見てしまったり、みんなが自然に倣っているようにみえる社会の常識に違和感を感じたり・・・という性向や、年を追って社会と一応の折り合いをつけていく過程に親しみを感じるのはもちろんだけど、なんというのかなー、占星術に興味ない人にはピンとこないかもしれないけど「乙女座的」、自分の心のありようへの分析力と、それを正確に表現する文章力がすごい! 各章必ずオチも入れてるところがエライ! 

今CDデビュー20周年でKinki Kidsがよくテレビに出ているけど、堂本光一くんを見るたびに、一瞬「あ、若林・・・」と思ってしまうのは、この本を読んでの余波である。おばあちゃんかっ