宝石ざくざく◇ほらあなJournal3

ロシア語をはじめ、外国語学習に関するあれこれを書いておりましたが、最近は…?

「自分」と「他人」

2021年03月21日 | 
他人との関わりということで、興味深く読みながらも私にはできないことだと思ったのが
『ヤンキーと地元 解体屋、風俗経営者、ヤミ業者になった沖縄の若者たち』(打越正行 筑摩書房)。
最初は新聞の書評で見て知ったのだと思うけど、図書館の棚の割と目につくところにあったり、NHK「100分de名著 ブルデュー『ディスタンクシオン』」でも、画面に表紙が映っていて番組中でもちらっと述べられていたり、ということで、借りて読んだ。
自ら暴走族のパシリをやったり解体屋で働いたりして、調査対象の若者たちと信頼関係を築きながら調査を続けるというのは、本当にものすごく大変なことだと思う。
身体的に過酷なのはもちろんだけど、自分にできないと思うのは
・自分の人間性が試される
・自分が何者であるかを考えさせられる
・自分が対象の人物、属する社会を観察調査研究することの意義、正当性?を絶えずとことん考えさせられる
・しがらみで固まった世界に入り込む怖さ
・いったん関係をつくったら、自分から壊したり逃げたりできない。一生つきあう覚悟がいる
というところか。
そして、書かれたものを読むと、あたりまえだけどみんな人間、それぞれの環境や流儀や考え方、理由があって生活を営んでいるわけだけど
・未知の世界にサイコパスとか悪の化身とかがいないという保証はない。関わることで奈落の底へ引きずり込まれる事態が起こらないとは限らないと思ってしまう。
しかし、こんなことを思ってしまうこと自体、想像だけの世界にいる証拠で、こんな故なき偏見を打ち破るために社会学はあるのかもしれない。

さらに前に『裸足で逃げる 沖縄の夜の街の少女たち』(上間陽子 太田出版)も読んでいた。
これも新聞の書評で見てちょっと気になっていたところ、図書館でみかけて借りたのであった。
こちらもとことん少女たちに寄り添う著者の姿に、とても自分にはできないことだと思う。
自分には偏見はないほうだと思っていたけど、我が事としては全然考えていなかった。
たまたま生まれ育った環境によって、自分は裸足で逃げることはなかったけど、自分がそうだったかもしれない。書かれている環境状況人間関係に置かれて、彼女たちと違う選択ができたとはとても思えない。

ひるがえって、自分が調査対象だとしたら、どのように描かれるのか。どういう生活圏、どういう階層にいるのか。とことん「個人」でいたいと思うけれど、そんなわけにはいかず、やはり生まれ育った環境でかなり固定されているとあらためて思う。
そして自分は臆病者で、打算的だし、結構人を見下しがちなわりに、自分は見下されたくないという意識が強いななどということを今思った。
全然まとまらないが、たくさんの違った人生があるということと、違う人と関わるということについてなんだか考えてしまう今日この頃なのであった。

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