池田創価学会の謀略的体質のルーツは、戸田城聖(創価学会第二代会長)の遺言録といわれた「水滸会記録」にあるといいます。この「水滸会」は戸田城聖が創価学会青年部に対して、広宣流布を遂行していく為に、あらゆる分野に亘り発言したもので、後日、池田大作が加筆し修正したものです。すなわち、池田大作が都合のいいように改竄した「謀略的戦略本」の意味合いが強いのです。
〇「今日の日本では、経済界も政界でも、組織がガッチリ出来上がって、これからのびて行く余地は少ない。ところが、宗教界だけは、ちょうど戦国時代のときのような乱戦状態である。法律でしばる何ものもない。縛りを解いて虎を野に放ったようなものである。今こそ広宣流布できるチャンスだ」
時代に遅れて登場したコンプレックスで凝り固まった暗い青年・池田大作は、宗教界を足掛かりとして天下を狙えると確信したのでしょう。それには、創価学会の会長になるのが最高の選択肢であると思考しました。池田は、宗教を表看板にして政治・経済界にまで食指を動かし、国家の最高権力者になろうと画策し、実行に移しました。後述した総体革命戦略を掲げ、学会組織を謀略組織へと変質させていきました。
このように池田大作は、宗教の土俵を足場に、日本の最高権力者になるための手段にしていったとんでもない「虚け者(うつけもの)」なのです。
真摯な信仰者であれば「法律でしばるものがないから広宣流布のチャンスだ」とは考えないでしょう。
宗教に在るべき布教の姿ではありません。不法・違法行為の是非を考えながら布教するような宗教に誰が惹かれますか。
そして「経済界も政界ものびて行く余地がない~」って、のびる余地があればそっちがいいってことですか?
「何になりたい・何をしたいんですか?」ってツッコミどころが満載な発言ですね。
まあ、池田さんは普通の良心的な指導者ですがね。人を貶めたり、指導者面することもなく、宗教家として過剰に教育風を吹かせることもない。
批難のための批難という印象ですが、誰かに煽られているなら逃げるのも手だよ。
虚けは尾張の特権ですか。日本語だから誰が使ってもいいのではと思いますが。
>まあ、池田さんは普通の良心的な指導者ですがね。人を貶めたり、指導者面することもなく、宗教家として過剰に教育風を吹かせることもない。
そのように思ってらっしゃる学会員さんは多いと思いますよ。
そしてそれはあくまでその方たちの個人的感想、意見であって、事実かどうかは別問題ですし、万人の意見でも有り得ません。
時雨さんのように思う人もいれば、私のように違う意見を持つ者もいる。それだけです。
私はこのブログで書いている本の紹介や、私自身の考えなどを、学会員さんにも知ってもらいたいなー、とはちょびっとは思いますが、積極的に時雨さんのような意見を持つ学会員さんたちの考えを変えてやろう!論破してやる!とは思っておりませんし、できるとも思えません。
創価学会にしろ池田氏にしろ、「学会以外」のその他の多くの意見・考えの一つとしてこのブログはあると思います。
>誰かに煽られているなら逃げるのも手だよ。
そうですね、そうなったら私もブログから離れてお休みするか、辞めるかしたほうがいいと思います。
今のところその心配はありませんがね。
‥なんだかよくわかりませんね?
ちなみにバリバリに指導者面してるけどね?だって何にもしてないのに世界平和の大指導者なんでしょ?
あちこちから受賞しまくりだし謙虚さのカケラも感じないけど?なんで辞退しないのかな?
学会員さんは少なからず脅迫観念に煽られて活動しているのでは?活動しなきゃ不幸になるのでは?
福運なくなるのでは?悪い業を積むのでは?
自分の人生だから逃げ出して自由に生きればいいんじゃないの?
まぁ池田大作のために一生を捧げるも捧げないも個人の自由だけど、正しくも何ともないものに一生捧げるの虚しいからね。
明らかに邪宗教なんだから学会員さんは捕らわれずに逃げて、魂を解放してもいいんじゃないの?
我々は誰にも煽られず、組織に依存せず、自分の頭で考え、自分の力で自分の足で自分の人生を歩んでいるだけ、組織に依存しなきゃ生きれない人はそうすればよい、本当に正しい組織にいるのなら人生も開けるでしょう。
その逆もまたしかり、教義も政策も本当に素晴らしいものは自然にひろまる、自然に皆から支持を集める、末法の世だからとか関係ない。
血眼になって他人に無理強いしなきゃひろまらないものって一体なんなんだろうね。
いえいえ、これが惹かれちゃうのですよ^^;。
私が昔バリバリの活動家だった頃、違法行為に抵触するような事柄をこの正しき仏法のため・正しき創価のため、何とか法の目をくぐる策はないものか?
何とか非難を浴びず無難に笑えないものか?
そう思い、周囲の幹部たちと打ち合わせや相談をしたことがあります。
創価が全て正しい!全ての正義だ!
それが基本にあると、周囲の全てに対しての認識は著しく客観性を欠きます。
そして、活動家にはそれが普通になっていくのです。
ちょっと恐ろしいですね。。。
とても危ない・・・危険な世界になってますね。
人は強いけど、弱いものです。
無意識に「安逸」と「楽」を渇望しています。
依存できるモノ・オアシス・・・誰しもそういう存在を本能的に求めています。
なので、そういう「美酒」の言葉を囁かれると、当然その世界に傾きます。
そういう世界を受け入れたい!という本能が人間誰しもあります。
そして安易に受け入れてしまうのです。
そこは自分の時間とお金を捧げる世界です。
客観的に見れば非常識極まりない、理不尽で異常な搾取なのですが、オアシスだと思い・夢を叶える世界だと思う人達は、時間とお金を搾取されることを「尊いご供養だ!これで幸せになれる!」と喜び・さらに周囲にもその「ご供養」を推進していくのです。
それでも人生は悲喜こもごもです。
いい事も悪い事も起きます。
もちろん創価にいる人も、無宗教の人も起きます。
いい事があると「功徳だ!」
感謝の活動だ!感謝のご供養だ!
悪い事があると「宿命転換だ!」
今こそ活動だ!ご供養だ!
そしてまた、搾取される人生に拍車がかかります。
どう転んでも、会員さんは悪循環の人生になってしまう。。。
もうアリ地獄です。
笑ってるのは池田氏と、その搾取した膨大なお金の一部を貰って安泰に暮らしてる職員さんたちです。
今日、営業で桜並木の傍を車で走っていました。
春の陽光の下、お花見の人達の団欒が楽しそうでした。
桜の花びらが風に舞い、道路に舞い降りてました。
とても風情を感じました。
お花見を楽しんでる人達も、一人一人が悲しい事・辛い事・嬉しい事・・・・いろんな人生があるんだろうなぁと思います。
でも、みんなそれなりに生きてる!
多忙な中・厳しい人生の中、桜を愛で・季節を味わい・人生の春のひと時を笑顔で体感してる。
そういう「今」に感謝し、生きていく。
それが人間らしい生き方のように思います。
大いなる存在に生かされて、こうやって桜を眺めて・しばし寿ぐ。
そういうことへの感謝の気持ちが本当の信仰者のような・・・そんな気もいたします。
選挙だの師匠だの・・・ましてグッズ購入など、まったく幸せに関係ない!
むしろ不幸への歩み・・・搾取の世界!
桜並木と団欒の笑顔の人達を見ながら、改めてそう感じました。
おそらく「普通の人」が「永遠の指導者」なのが凄いところなのでは?
フツーの人間なのに、世界平和を導く指導者だなんて!なんて偉大なんだ!というところでしょう。
新宗教には珍しく、教団のトップとして池田氏は「普通」の人間です。
多くは超能力者であったり、過去の偉人や神仏の生まれ変わりだったり、神様から選ばれた人だったりします。
池田氏は日蓮さんの生まれ変わりこそ演じてはいましたが、そこは今は触れないであげましょう。
ま、ですから良くも悪くも「普通の人」には違いありません。
池田氏の評価というものは、殊更内部の方には分からないものでしょう。大本営発表しか情報源がないのですから。
異論はもとより、他と比べようもない。
ある程度の年代の方だと特に、池田氏は「普通の人間」「だけど偉大」となるような気がします。
矢野氏の著書での表現と、うちの母親の発言から鑑みるに、ですが。
それは個人の感想としては自由ですが、あと一歩、「それが万人の感想」ではないという理解に至ってくれれば、創価学会・学会員さんによる迷惑行為は激減するような気がしますね…。
>>不法・違法行為の是非を考えながら布教するような宗教に誰が惹かれますか。
>いえいえ、これが惹かれちゃうのですよ^^;。
あらら…。しかしこれは、「創価学会は正義の団体」と信じるのが先でその後「正義のためには仕方ない」となるのでは?
逆に「布教と自分の功徳のために不法・違法行為もする団体」が先に来れば「創価学会は正義の団体か?」と疑問符がつくのでは。
む~、しかし、選挙違反などは軽視して人物本位で、なんていう人もいるかもですね。
その後は活動するにつれて感覚はマヒしていくのでしょうし…。
どの角度から見ても、私には信仰できない宗教団体なのですけどねぇ(汗)。
>人は強いけど、弱いものです。
>無意識に「安逸」と「楽」を渇望しています。
特に戦後日本のように社会・人間関係が複雑化し、家族関係が希薄化した世界に生きる人間としては、何か自分をずっしり安定させてくれる「重し」になるものを欲する傾向が強いのかと思います。
フワフワ漂うように生きるのは、本当はとても強い人でなければできないことです。
その強さを持たない人間にとっては、漂うことは不安であり恐怖であり、疲れるものでもあります。
誰かに強く断言して欲しい。けれどなかなかそういった現実は得られません。
しかし創価学会という団体、決めつけと断言しか存在しません(汗)。
合ってようが間違ってようが、全部決めつけてくれます。それを有無を言わせず断言してくれます。
これはある意味、とーってもラクチンなのですね。
私は今、実家を出て自分の稼ぎで自分とにゃんこたちを養っています。
大人なら普通のことですが、私は今更になってこの生活がとても幸せであると実感しています。
自分の力で生きる。この充実感を私は今まで損していたなぁ…と、ふと思う時があります。
自分で自分のことを決める自由を手放すなど、なんて勿体無いことでしょうか。
経済的に自立が難しい方たちも社会にはいます。
しかし、支えられれば感謝を返し、そこに喜びが生まれます。
その感謝と喜びは、更に人生を豊かにしてくれることでしょう。
でも精神の自由がなければ、この感謝も喜びも歪になってしまうのではと思います。
「信心のおかげだー!」と言ってしまえば終わりなのですから…。
今桜は満開に咲き誇っていますね!
通勤時あちこちでこんもり咲いている花の美しいことといったら♪
思えば二年前のこの桜の時期に、メタボンは拾われてきました。
父親が花見に行って、桜の木の下にダンボールに入れられていた子猫たちを見つけてきたのです。
メタボンがうちに来てから、我が家はにゃんこラヴの一家になりました(笑)。
満開の桜を見ると、300グラムだったメタボンがウチに来た日のことを思い出します。