第45回)「嬉しい知らせ」(11/12)
当初、この連載エッセイには反響がなかった。
「もしかしたら、読者が1人もいないのでは?」と思いつつ、ユキオは5ヶ月綴りつづけた。ゆきこの、あのキラキラした時代を形にしたい・・・その一心で。
それがここにきて、驚くべきできごとが。
このエッセイを載せてもらっている ”ライター高橋のホームページ”の掲示板に、
「『台湾うまれのヤマトナデシコ』を読んでいます。」
という、読者からの書き込みがあったのだ。
「や、やったぞ!」
ユキオはふるえた、感激した。
よく読むと、その読者の方は陳さんといって台湾に住む男性だった。
「なんと、台湾の方だってぇ?」
一瞬目を疑った。信じられなかった。
しかもその方は戦前、ゆきこと同じ樺山小学校に通っておられたという。
2つ上のお姉さまがゆきこと同い年らしい。
「これはすごい。こんなことって、あるんだ・・・」
ユキオの目に熱いものがこみ上げてきた。
「さっそく、ゆきこさんに知らせなきゃ!」
東京に電話してみた。ゆきこはなかなかつかまらなかった。
5日後にようやく電話がつながった。
陳さんという姓は台湾ではあまりにも多いので、陳さんのお姉さまの名前をフルネームで伝えた。すると、
「あー、陳さんね。知ってますよ。クラスは違ったけど最初の同窓会で
お会いして以来、いつも行ったら来てくださるの」。
最初の同窓会って、あの時じゃないか? この連載の第17回「小学校の記憶2」のなかで、昭和48年頃におこなわれた同窓会のことに触れた。
「何学年か集まったなか、同期の女性はゆきこのほかに台湾人の張さん、陳さんの2人だけだった」
と書いたが。この陳さんという女性こそ、今回掲示板に書いてくださった陳さんのお姉さまその人だったのだ。
もちろんゆきこも、この”偶然”にいたく感激した。
「40年前の同窓会には100人も集まったんです。陳さんはたしかお姉さんと一緒に見えてたかしら」。
今回書き込みしてくださった陳さんには3人お姉さんがいて、皆、樺山小のご出身だという。
陳さんは最後にこんなことを書いておられた。
「『台湾うまれのヤマトナデシコ』全回をプリントして、
姉たちに読んでもらうことにします」。
嬉しいじゃ~ないか!
それにしても陳さん、小学3年で終戦を迎え、日本語教育から解放されたにしては日本語がお上手だ。樺山小に通っておられたぐらいだから、よほど優秀な方なんだろう。
ゆきことつながりがあるというだけで、自分とも縁があるようで・・・ユキオはすぐにでも台湾に飛んで行きたかった。
第46回)「引き揚げばなし 8 招かれざる客」(11/21)
戦後、台湾から引き揚げたゆきこの一家。東京駅から列車で4時間かかって父の生家がある、千葉の旭町(あさひまち、現在の旭市)に着いた。父の生家、いわゆる本家である。
父は台湾時代、7人の子どもが小学5年生になると、一人ずつ内地(日本)へ連れて行き、この本家を拠点として関東と関西を旅行させていた。その際、「台湾のおじさん」と甥や姪たちに大歓迎された。
父は当時田舎ではまだ珍しかったハイヤー(今でいうタクシー)をチャーターして、「なんだこれ!」と目がまん丸になった子どもたちを乗せて、海岸(九十九里浜)へ連れて行ったりもした。
今でもゆきこのいとこたちが懐かしそうに語る、
「ゆきちゃんのおじさんがいつもハイヤーに乗せて連れてってくれたのよね~」。
羽振りのいい「台湾のおじさん」は人気者だったが。
引き揚げの際、台湾から持ってこられるお金は1人1,000円のみ。
かつての羽振りのいいおじさん一家も、戦後はただの”招かれざる客”でしかなかった。
お金がなくなったら、親戚というのは冷たいものだ。
本家に到着したゆきこたちは、裏の物置きみたいなところに住まわされた。
そこには畳もなく、ムシロみたいなものがかろうじて敷いてあった。
ある日、近所の人がこんなふうに噂するのを耳にした。
「あれだけよくしてもらったのに、バチがあたるわよ・・・」。
戦後の混乱期、食糧難の時代。総じて外地からの引き揚げ者というのはどこででも厄介者として扱われ、差別を受けたと言われている。
***
「日本に帰ってからの苦労というのは、親が一番大変だったと思います」
とゆきこは語る。
「私は子どものときだから(台湾時代のことを)”懐かしい、懐かしい”と今でも語るわけですよ」。
一方、17,18歳で引き揚げてきた姉はほとんど当時のことを話さない。
「どうしてかな?」と思っていたら。
つい最近、「自分は引き揚げてきた頃の過去はぜんぶ封印した」と言っていた。
それほど、大人はつらかったのだ。屈辱的だったのだ。
子どものゆきこにも、それなりの苦労があった。
外地とはいえ、都会である台北から「いっちょうら」の服を着て(物が持てないため)田舎に帰ってきた。小学6年生として新学期に登校すると、
「靴をはいているなんて、生意気だ!」とからかわれた。みんな、草履をはいていたのだ。
ショックだった。どうして靴をはいているだけで非難されなければならないのだろう。
「今の私だったら ”そんなことはない”と突き返せるんでしょうけど。まだあの時は何も言えない年頃でした」。
子どもだから順応するのも早く、その土地の人や子どもたちともすぐに馴染んだが。やはりいちばん話が合うのは東京から疎開してきた人たち。どうしても彼女たちと仲良くなる。
なかでも1人、いまだにお付き合いをしている友人がいるという。
「でもね・・・この春、認知症になってしまってね」。
悲しい目をするゆきこを見て、ユキオはハッとした。
こうして友人のように話しているけど・・・ この人、もうそんな風になってもおかしくは
ない年齢なんだな・・・と、今さらながら気づかされた。
第47回)「幼稚園の思い出」(12/1)
残すところ、わずか2話のみとなった、ゆきこの台湾ばなし。
ここでちょっとブレイク。ゆきこが楽しそうに話してくれた幼稚園時代のお話を。
「♪おおきゴムの木、ねむの花
うさぎもハトも おともだち
清いしるしの 犬はりこ
ぼくらのすきな 幼稚園 」
とゆきこが高らかにうたってくれたのは台北幼稚園の園歌。歌に出てくる「犬はりこ」とは台北幼稚園の徽章(きしょう=バッジ)に描かれた図柄である。
よく覚えてるもんだな~とユキオはまたもや感心。いや、そんなどころではなかった。こんな詳細な記憶が展開してゆく・・・。
***
台北幼稚園は3年保育。一クラス50名余くらいだったか。制服は・・・
「薄いブルーのジャンバーみたいなの着てました。そこに犬はりこの徽章と、毛糸のボンボンをつけるわけね」。
ボンボンの色はクラスによって違っていた。ゆきこが1年のときは「海の組」(ボンボン=真っ赤)、
2年のときは「森の組」(〃だいだい色)、3年のときは「山の組」(〃若草色)。
3年になると川のA組(〃濃紺色)、川のB組(〃薄い紺色)という1年保育のクラスもあった。
「幼稚園のね、鐘がいいんですよ。♪ポンポンポンポン~(音階上がる)、
ポンポンポンポン~(〃下がる) と木琴が鳴る音で始まるんです。
広いおへやで集まって、おゆうぎやったりね・・・」。
園内では持ち回りで「組長さん」という役割があった。組長さんは「犬はりこ」の、それはそれは大きなバッチをつけ、朝礼などで運動場に集まるときや、国旗掲揚をする際には、先頭に立って活躍した。
「まず月曜日に集まるんです。それで組長さんに言わせるんですよ。”きょうは昭和○年○月○日○よう日”って。それがなかなか言えないんですよ~ とっても覚えきれなくて・・・」。
ああ、情景が目に浮かぶ・・・。70年も前のできごとなのに、つい最近のことのようにユキオには思えた。
台北幼稚園でお世話になった園長、故・早川節先生のお嬢さんが
第48回)「父の死」(12/6)
「父がかわいそうだったのは・・・父はタタミの上で亡くならなかったんですよね。ムシロか何か敷いた上で・・・」。
昭和25年5月、父が亡くなった。ずいぶん経ってからも、ゆきこの母はことあるごとによくこう言った、「お父さんをタタミの上で死なせたかった」と。
台湾からの引き揚げ後、父の生家に到着したゆきこたちは裏の物置きみたいな”離れ”に住まわされた。
そこに2年ほどいたのち、(同じ敷地内の)倉庫のような建物へ移った。
そこで3年暮らした頃・・・父が亡くなった。まだ60代半ばだった。
ゆきこにとっては誇らしい、自慢の父だった。
千葉に生まれ、所帯を持つと同時に台湾に渡り、祖父の商売を継いだ父。
大柄な人だった。ハイカラで文学好きだった。
7番目の子どものゆきこにもおとぎ話をおもしろおかしく聞かせてくれた。
あちこち遊びに連れてってもくれた。
子どもたちが通う樺山小学校の役員をつとめ、長い間学校に寄付をした。
疎開学園にもお菓子を寄付していた。
子どもたちに家業を押しつけることはなく、「好きな道を選べばいい」と
柔軟な考えの持ち主だった。
「タウケー、タウケー(台湾語で”ご主人さま”の意味)」と台湾人にも慕われた。
戦後しばらく経ってから再会した台湾人の陳さん(浦田さん)は何度もしみじみ
こう言った、
「タウケーが生きててくれたらな~」。
それほど台湾人に愛され、みずからも台湾を愛し、そこに骨をうずめ「土になろう」と覚悟していた父。
それが突然、築き上げてきたものをすべてを引き払っての無念の引き揚げ、里帰り。
すでに老いていたとはいえ、相当な精神的ダメージがあっただろう。
「やはり”戦争”ですよ。父なんかより、もっともっと苦労している人がいる。
広島とか長崎の人はもっと大変ですよね。戦争は絶対にやっちゃいけないんです」。
父が亡くなってまもなく、母と兄は行商を始めた。母は大阪出身ということもあり、
さほど行商が苦手でもなさそうだった。そう見えただけ、かもしれないが・・・。
ゆきこはその頃、県立高校に通っていた。
第49回)「同窓会 そして台湾への思い」 (12/13)
昭和27年春。ゆきこは県立高校を卒業し、地元の信用金庫へ就職した。
しかし、3年ほど勤め、仕事にも慣れた頃、
一家は東京都内に家を建て、引っ越すことになった。
もう千葉の信用金庫には通えなくなるので、ゆきこは新しい就職先を探した。
就職難の時代で苦労はしたが、なんとか見つけることができた。
ゆきこは結婚こそしなかったが、良き上司や同僚に恵まれ、
職業婦人として充実した時を過ごした。
ユキオ: 「きっと仕事が好き、だったんだろうな」。
てきぱきした仕事ぶり、お世話好きなようすはユキオにも容易に想像できた。
ユキオ: 「なにしろ、人なつっこいもんな~ あの人」。
70を過ぎた今でもウォーキングにコーラスに・・・とさまざまな同好会の世話役として大忙しのようだ。
でも決して、ただ自由を謳歌していたわけではない。引き揚げ後、苦労が絶えなかった母の面倒はゆきこが最期までみた。
***
「私たちは内地に引き揚げてきて、もうふるさとがないわけでしょ。
だからみんなで集まることが、何よりもふるさとの交流になるわけよね」。
今も続いている、台北・樺山小学校時代の同窓会。台湾だけでなく、日本の各地でもさまざまな集まりがあるという。
あれは40年以上も前― 第1回の同窓会が台湾で行われたときは、まだメンバーはそれほど集まっていなかった。その後幹事さんが中心となって、全国の電話帳から名前を拾いはじめた。
ある時は縦のつながり、ある時は横のつながりを駆使し、兄弟や友人関係をたどり、
「どこへ引き揚げたか?」「親同士のつきあいはあるか?」など、
あの手この手で少しずつ・・・ 卒業生と在校生の消息をつきとめていった。
「樺山小学校の同窓会やってるよ~」と電話や口コミが功を奏し、
次第にメンバーが集まるようになってくる。
「(同窓会が)”よく続くな~”と人に言われる。それは、私たちが”特別”だから」。
ある時、終戦当時の在校生(1~6年)だけで1つのグループをつくろう、ということになった。同窓会といっても、誰も”卒業”はしていない。
「一期上の人(6年生)が卒業していなかったから、角田(つのだ)先生が卒業証書をつくって、お式をしてくれて・・・それはもう感動的でした」。
ゆきこにとっては小4のとき、疎開で別れたっきりの同級生たちと約30年ぶりの再会を果たしたことになる。
台湾・松山空港でのお出迎え。まだ戒厳令が敷かれている時代にもかかわらず、
「みんな日本語をしゃべる、しゃべる! 横断幕には”歓迎ー○○先生”と書いてあって・・・」。
同窓会では、みんなでなつかしい場所をめぐった。新公園で、ある男子(台湾人)が、
「この木だ!昔ぼくがのぼったクスノキだ。子どものときの感触だ!」と木の幹をさするのには、さすがのゆきこも驚いた。
みんなで校歌をうたったときは、ある女子(台湾人)が、
「わたし、ぜんぶ歌えたよ。だけど涙が出ちゃって・・・」
と涙をぬぐった。いまだ国民党政府に弾圧され、日本語の歌などもってのほか、のはずなのに。そんなつらい時代をうかがい知ることができる。
***
今でも1,2年おきに台北を訪れるゆきこ。同窓会ツアーは3泊4日が定番だ。
夏に行くことが多いのは、大好物の「龍がん(りゅうがんor ろんがん)」が食べられる時季だから。
行けば決まってなつかしい人に会い、なつかしい場所を訪れ、龍がんに舌鼓を打ち。
お土産には日持ちのする「リーキャム」や「豚でんぶ」をどっさり買いこんでくる。
同窓会に行けなかった友人たちの分も。
「やっぱり私たちはどこにも馴染めない・・・台湾がなつかしい」。
と彼の地に思いを馳せる、ゆきこ。
ユキオが台湾と中国の複雑な政治事情を話すと、
「台湾には中国になってほしくない。自分の”ふるさと”になるわけだから」。
そんな素直な思いを口にした。
第50回)「あとがき」 (12/19)
いまユキオはメイデイ(五月天)を聴いている。これは2年ほど前の台湾旅行―
台北のCDショップの店頭にずらりと並んでいたアルバムだ。
やっぱりカッコいいな、メイデイは。
台湾のバンドだが、中国本土でも若い女の子たちに絶大な人気なのもわかる。
その後、ゆきこと出会った。
彼女の台湾ばなしをひとしきり聞いたあとでメイデイを聴くと・・・
なぜか泣けてくる。無性に、泣ける。
”台湾” がよけいにいとおしく思えてくる。
(今どきのロックとゆきこの話には何の共通点もないのに、ね・・・)
***
いつの頃からか、「女性にやさしい台湾」「台湾に行きタイワン♪」と
台湾は格好の観光地として人気を博している。
一般的な台湾のイメージといえば、
「近くて安くて」「南国フルーツ、ショウロンポーがおいしくて」「日本人に親切な国」・・・etc。
で、行ってみたらそのとおり。
日本語もそこそこ通じるし、首都台北は都会でほとんど東京みたいなもの。
少し地方に足を伸ばせば、ひと昔前の日本の風景が広がり、
温泉もいっぱいあってゴクラク、ゴクラク・・・。
それはそれでいいけれど。実際にみんな台湾という国のこと、どれほど知っているんだろう?
台湾が昔、日本の領土だったことは? 日本といまだ国交がないってことは・・・?
***
「ゆきこの、あのキラキラした時代を形にしなければ」― その一心でユキオは書き綴った。
時には「本にしたい」という衝動に駆られた。
企画書をいくつかの出版社に持ち込んだが、相手にされなかった。もう、そんなことはどうでもいい。
「九州くらいの小さな島、あのさつまいものような島が日本だったなんて」。
最初はただ、ロマンを感じていた。
でもそこには台湾という国の悲しい歴史があった。
日本の行き過ぎた、過去の軍国主義も見えてきた。
戦争は決してあってはならないこと。平和な時代に生まれたユキオだからこそ、
あの時代のすべてがスリリングに、ドラマチックに思えるのだ。
「美化してしまってごめんなさい!」 苦労を知らず、ただロマンだなんて・・・。
とにかくユキオにとって台湾は特別な国になった。
笑われるかもしれないが、「台湾」という2文字を新聞や雑誌で見つけただけで
胸がきゅんとなる。目を皿のようにしてしまう。
ゆきこには、ゆきこさんには、色んなことを教えてもらった。
もちろん当時の台湾のこと。つまり、戦前の日本のこと、教育のこと。
幼なじみが、その土地の風景や食べ物が ”ふるさと”だってことを。
ひとつひとつの記憶が、思い出こそが 人にとって”ふるさと”であり、
人が生きていく上でとても大切だってことを。
(もう一つ・・・ 70代の女性と40そこいらの男が、友情をはぐくめるってことも)
2人のテーブルに注文した紅茶が運ばれてきた。
ソーサーにはフレンチシュガーが2個添えてある。
「すみません、お砂糖 あと2つ、いただけます?」。
こうやってまた彼女から、台湾ばなしの続きが聞ける日を、
あの時代の歌が聴ける日を、ユキオは心待ちにしている。
= 完 (おわり) =
◆管理人より◆
ライターユキオの連載エッセイ「(日本統治時代の)台湾ばなし」に長らくお付き合い頂き、
ありがとうござました。心から感謝を申し上げます。
ご感想などございましたら、ささいなことでも結構です。下記メールアドレスまでお願いいたします。
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