劇場型の人間になる?
今朝のラジオで総武線が人身事故のために、不通と言っていた。マイッタね。おかげで、クルマで行くしか無い。今日は、電車で行こうと思っていたからである。午前も午後も所用があるからである。
今日は大学に寄って、昨日再診で欠席をしたので、師匠から補講をしていただく。一対一である。これが博士後期課程に学んでいることの特典である。まことにありがたいかぎりである。ルンルンと大学に行って、それから午後は千葉市に行く。郷土史の古文書講座がある。郡上一揆というものである。前回は欠席したからまだ資料にお目にかかっていない。欠席理由は、簡単である。前回は体調を崩していたから、行けなかったのである。
しかし、人身事故で思ったことがある。
死にたくなる理由というのは、人それぞれで千差万別であろう。それでも、私は納得がいかない。
それは、「なぜ都会で死ぬ必要があるのか」ということである。「都会で」というのがkeywordである。
人が大勢いるところで死にたいというのが解せない。
人間は自然の一部である。だからである。死にたいのなら、自然深い場所で、それこそ人知れず死ねばいいではないかと思っている。土に還るだけである。あるいは、海のもずくとなって、終わりである。獣や、魚類のえさになってそれで終わりである。そういうことを避けて生きていてはならない。だから、人混みの中で、死を主張するなんていうことが作為的であると思うのだ。もしかしたら、死ぬのを思いとどまるように、誰かが説得してくれると思っているのかも知れない。
誰かへの当てつけで死ぬのなら迷惑千万である。なにも都会でやることはないのである。三島由紀夫のような劇場型の自死というのもあるけれども、あれはあれで今でも納得できないことである。そもそも三島は、頭脳の人である。意識の人である。大秀才である。東大である。で、小説を書くことで人間は頭脳だけ、意識だけではないということに気がついてしまった。だから最初は剣道をやった。しかし、所詮大秀才である。運動能力がそれに比較しておぼつかなかった。だから、運動神経を求められないボディビルを始めたのである。それ以外の理由もあるけれども。そして最後は、市ヶ谷での生首である。あれが、三島由紀夫の自己主張であったのである。自然の中でやったらあの事件は意味がない。人知れず、大自然の中で死ぬことでは意味がなかったのである。つまり、主張があったからである。その中身についてはここでは書かない。極めて政治的な思想に触れざるを得ないからである。
そもそも私は政治が嫌いで、政治音痴である。どうも、あの手の人間というのは、私のような爺には理解不能である。言うことがくるくる変わるし、公約なんてどこまで信用できるのかって思っているからである。それに長い間、公務員をやっていたから無色透明でやってきた。だから、発言はしないということが習性になってしまった。
自然というものをまったく意識しなくても生きられるのが、都会である。東京を見ているとしみじみそう思う。効率と経済だけ、あるいは利益と損失のみでできている世界なのではないかと思ってしまう。
私は、毎日毎日大自然が目の前にある。太平洋である。九十九里海岸である。時として恐ろしい出来事もある。津浪だ。東日本大震災である。十四名の方々が亡くなっている。九十九里だけでである。あまり知られていないようだけど。さらに、台風も来る。大波も来る。だからと言って、転居するつもりはない。まったくない。ここで死ぬなら仕方ないと思っている。
津波だって、誰のせいでもない。
政治家が悪いからか?
社会システムが悪いからか?
どんなに説明されても、大陸プレートがどうのこうのと解説されても、そもそもの原因は全く解明されていない。地球がなぜ存在しているのかということからして現象的な説明はあっても、理由は明らかでない。
都会に住んでいると、大自然と接する機会はあまりないだろう。だから、そもそも人間は大自然の一部であるということの自覚がなくなってしまう。御岳の噴火でも責任論が出てきたのには呆れた。あれも、予想できないのは当たり前であって、誰のせいでもないではないか。
事前になぜ予想できなかったかということは、それはそれで限定的には理解できる。しかし、それが出来なかったからといって、一部マスコミから責任論が出てきたのには呆れてしまった。あくまでも他罰的なのである。まるで噴火も人間がコントロールできると思っているのであろうか。
私のような一介の田舎教師だった爺には理解できないことがたくさんある。
だから世の中おもしろいのだろうなぁと思うことにしているのだが。
ま、世の中はいろいろある。いろいろ。
(^_^)ノ””””