と~ま君の部屋

楽しい老後を送りたいとやっています。所詮人生回り道。修士(人間学、仏教学)。ぼけ防止・脳のリハビリでやってるブログです。

知らないことのみ多かりし。トルコはまだまだ未知の国だったのじゃ。団塊の働き蜂たちにはちょっとアレだったけど。

2018年05月29日 08時32分47秒 | トルコイスタンブール紀行2018年5月

旅に出ても「元***」とか、現役時代のことしか言わない団塊世代のジジイたちに、ゲンナリしてきましたっすよん(^0^)

 

 

9日間にわたるトルコの旅から昨日の夜帰ってきた。

九十九里は成田空港から近いから、一時間ほどクルマでかかるだけである。青森とか長野とか遠来から来られた旅人もいた。それに比べればなんということはない。しかも、自分のクルマである。

旅と言ってもツアーである。要するに団体旅行。

それに、トルコは英語圏ではない。イラン・イラクから石油をタダで盗み取っているという意識があって、特にアメリカに対する反感はただものではない。英語を話すのを嫌っているのである。トルコ語は難しいし、とてもではないが一人旅なんかできやしない。

今回も家人と一緒である。旅行代もなんも家人がいなかったら、ボキはどこにも行けないのじゃ(^0^)。

ただくっついているだけのダメジジイである。

今回も中高年の団体旅行である。17名の。その中でいろんな夫婦がいて面白かった。32回目の海外旅行だと言われる大工さんを引退したご夫婦や、まだ威張り散らしているだけの元国家公務員、某一流自動車メーカーでエンジン設計をしていた旦那を持つご夫婦、経営コンサルタントのご夫婦等々であった。男性陣は面白い。みんな仕事の話しかしないからである。

ボキは最後の晩まで黙っていた。仕事の話なんかしても無意味であるからだ。柔道の話はしていたけれども。

それにしても、なんてぇこった。リタイアしてからも、こだわっているのだから。

旅に出た時くらい、ミンナ忘れて良いではないか。ボキはホントウにそう思っているのだ。

 

旅の間はkindleにお世話になっていた。コーランをインストールしてあったし、いろんな本を読んでいた。

ともかくトルコ史というのを詳細に教わった記憶がないからである。ヨーロッパ中心の世界史であった。大学受験に必要のない分野がトルコ史ではなかったのか。そりゃオスマントルコとかビサンチンとかは単語としては知っている。でも、あまり積極的には学ばなかった。

今回、トルコ人がなぜ親日なのかもよ~~~く分かった。和歌山県の串本町に行ったことがあるが、あのときに知った。トルコ軍艦「エルトゥールル号」遭難の事件である。

串本町の観光協会公式ホームページによると以下のようになっている。

>http://www.kankou-kushimoto.jp/miryoku/torukokinenkan.html



明治22年オスマン帝国皇帝アブデュル・ハミット二世は、オスマン・パシャ特派大使海軍少将を特派使節として日本に派遣した。巡洋艦「エルトゥールル号」(2,344トン)の乗員は、下士官及び水兵、その他合わせて650余名であった。翌23年6月7日横浜港に到着し熱狂的な歓迎を受けた。日本に滞在すること3ヶ月、日本帝国の国賓として扱われ、9月14日横浜港を出発し、イスタンブールへの帰路に就いた。
明治23年9月16日、エルトゥールル号は熊野灘に差しかかった。その日は朝から曇りがちで風が激しく、海もひどく荒れ模様であった。やがて、山のような怒濤に揉まれ揉まれた木造艦エルトゥールル号は、同日午後すでに進退の自由を失い、風濤に翻弄されてぐんぐん樫野埼灯台下の岩礁「船甲羅」へと押されていった。この船甲羅は数百年来、海の難所として知られ、艦長以下乗組員全員は死力を尽くして荒れ狂う魔人と闘ったが、かかる絶望的な状況下ではなす術もなく、同夜9時頃、船甲羅の岩礁に乗り上げ、同10時半頃には沈没してしまいました。
地元住民の献身的な救助活動にも、オスマン・パシャ特派大使海軍少将以下580余名が遭難、69名が救助された。かくして、トルコと旧大嶋村樫野(串本町)との友情と友好関係が現在まで続くこととなるのです。

 

トルコとの友好関係
後年になって、現在の慰霊碑が建立され、トルコと串本町の友好の印として記念館が近年建設されました。長年に渡り、地元の老人や旧樫野小学校の生徒達の手で慰霊碑は通年、清掃されており、島内の小学校3校が統合された今も、大島小学校の生徒達や地元の人達により、いつも綺麗に手入れされています。
また、節目の年には、トルコ本国からトルコ海軍の艦船が訪れ、駐日トルコ大使などを招いて慰霊祭が催されます。

 


 

これである。

これ。

以来、トルコは親日国となったのである。

英語なんかより、日本語でお礼を言った方が喜ぶと現地ガイド氏にも聞いたから試してみたらまったくその通りであった。ボキの片言の英語なんかより、そのものずばりで日本語で通じるのじゃよ。これは面白かった。文化が違うと固定観念で凝り固まっているボキのつまらない知識も変革されていくというものだ。(*_*) マイッタ。

 

今回の旅も記憶に残る旅だった。

行って見なくちゃわからんことばかりである。

それに、リタイアしてからの様々な生き方にも触れることができた。元***とかしか言わないジジイ達のみっともなさも実感してきた。

改めるべきことは、改めよということである。

もっともボキは、3種類のアルバイトをやっている。過去を振り返るヒマもなし。

 

わははっはははっはははっはははっははははっははははっは。

 

ヾ(*´∀`*)ノ

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