alcoholと香水のにおいと、嫌いなものは数多く
「分類という思想」(池田清彦著 新潮選書)という本を読み始めている。昨日の拙ブログで話題にしたからでもある。
分類というのは、自然科学者なら必須の思想なのであろう。ゴミのようなメモとか、ノートとか、情報カードとかそういう類いのものは、いくらでも私の周辺にある。それにインデックスをつけて、分類していくのも楽しみである。何万枚もある。そのための専用家具も書庫にはあった。
あったというのは、リフォームのときに捨ててしまったからである。定年で退職したときにである。教育関係が多かった。もう使わないだろうと思ったし、これからは好きな日本中世分野で大いに遊ぼうと思ったからである。しかし、ちょっとやり過ぎた。
それは教育関係の原稿を書きなさいという注文を今でもいただくからである。5月ころに学事出版から四本ほど掲載されることになっている。原稿料をいただくことになっている。年金暮らしで福沢諭吉翁をみることもこのところたえて久しいから、実にありがたい。Amazonで古本専門に買っているけれども、その足しになる。ささやかな楽しみでもある。で、冒頭にあげた書籍は、昨日、Amazonから来たのである。夜。記事を書いてから、あ、この本を読んでいなかったと気がついて、一昨日インターネットから申し込んだ。そしたら、昨日の夕刻に来た。早いですなぁ~。私は、その時に風呂に入っていたので、古女房ドノが受け取ったのであるが、「また買ったのぉ~」と悲鳴が起きた。「読みもしないのに」とも付け加えられてしまった。
そんなことはない。
読むのである。ただし、この本を読みながら拙ブログの記事を書くのではない。記事を書いたから、思い出したのである。だから買う。いろいろとノートをとっているから、記事が書けるのであって、原資料があるから書いているのではない。
ま、許されよ。
年をとっての唯一の楽しみなのだ。そして、絶対に守っているのが就職していたときのことは書いていない。だから、もし、私の現役時代にお世話になった方が拙ブログを読まれていたら安心してほしい。(そんなヒトはいないだろうケド)いまさら、現役時代のことなんか、書く気にもならないからだ。守秘義務というのは退職してからもあるからだ。当たり前の話である。
それでも、垂れ流しだとか、嫌味な爺だとか、働けるのに働いていないとかいろいろとメールを頂戴する。ありがたいが、誤解である。嫌味な爺だというのは当たっているかもしれないが。そりゃそうだ。世間にずいぶんもまれて生きてきたのである。今更、治らない。治すつもりもない。
働けるのに働いていないというご指摘には、ちょっと待ったである。私は、現役の学生なのである。3月までは。本当にそうなのである。
バイトならできるから、やっている。バイトは得意である。なにしろ、それでもって一番最初の大学を卒業したからだ。それから延々と生涯学習をやっている。今年は老人クラブと、老人大学に行く予定である。つまり小休止する。通学も通信教育もやらない。ひさしぶりにやらない。
しかしである。武蔵野大学大学院でクラスメイトであった同年の男性が、この4月から埼玉にある人間総合科学大学に編入して、また生涯学習を始めるという。身体と精神のことが学べるのである。通信教育である。たいしたもんである。上には上があるのだ。見習いたいものだ。すばらしいことだ。
私も含めて、生涯学習をやられる方々というのは、「分類不可能」なのかもしれない。
つまり、一定の型にはまっていないのである。
もっといえば、メリット・デメリット論に支配されていない。
やりたいからやっているのだ。まったくそう思う。
私もそうだ。失うものはなんにもない。そもそも失うほどのものを所有していない。ゴミのような本だけだ。これもまた私が死んだら、古本店に引き取ってもらうしかない。つまらない本しかない。ノートや、読書カードなんか、焼いてもらうしかない。
私の死と一緒になくなっちまうだけである。それはそれで仕方がない。一介の田舎爺として、生き、死んだだけであるから。時間を無駄に過ごしたと言われるかもしれない。それならそれでいい。
知らないうちに生まれてきたのだ。そして、知らないうちに老人となって、知らないうちに病院から入院を宣告されて、そして、わけのわからないうちに死んでいくのだろうから。
当然、生まれ変わりということは信じない。
輪廻転生ということをである。そういう意味での期待はしない。私が、生まれ変わってなにになろうとも、私の周囲の人々は関係がないからである。私も、死んでから後、生まれ変わってなにになろうかとは考えていない。そんなの期待するほうがおかしい。
霊魂の不滅ということも信じられない。
だから、いろいろと宗教のことも拙ブログには書くが、私は信仰心がまったくないのである。
こういうのをなんと「分類」するのだろうか。
唯物論者?
違うなぁ。
無宗教?
これも違う。
だって、宗教なしには人間は生きられないと思っているからである。特定の宗教ではなくてである。Walkingで出会う、路傍の地蔵様、房総の地に多い馬頭観音像とかに、ひそかに手を合わせている私自身もいるからである。日本古来の伝承とか、そういう土地土地に根付いた信仰心というのは、なくならないと感じているからである。
今日は日曜日か。
雨が降っている。
数学の問題集でも解いて、それから英文解釈3冊、英作文1冊とやって、古文書を解読する。徒然草と、土佐日記。これが終わったら伊勢物語が待っている。塾のバイトをやっているのだから、それくらいやらないと教えられない。マジにである。教材研究というやつだ。それから雑書の読書ノートをつけ始める。一週間に一冊のペースでやっている。だから拙ブログのようなゴミブログが書けるのである。
午後は、昼食をありがたくいただいてから、市営のgymに行く。雨が降っているので、午前中のwalkingはできないからだ。
おかげで、今朝の体重は、66.7キログラムになった。中学校以来である。デブであった高校時代から、異常な太り方をしていたから、だんだんと良くなってきた。血圧も116である。順調である。
爺になって、体調管理だけは慎重にやっている。酒も、四ヶ月まったく呑んでいない。呑んだら死んじまう。
先日、呑み会の案内がきた。現役時代にお世話になった部署のである。それで断った。
理由が「alcoholと香水のにおいと、miniskirtのおねーちゃんを見ると失神するから」というのである。「皆様によろしく」と書いて「お笑いくださいませ」とやった。
まったくお笑いだけの爺である。そういう「分類」になるのだろう。
わはははっははははは。
さ、これくらいにする。際限がないからだ。
(^_^)ノ””””