今日は、午前中古文書講座に行く。むろん教えてもらいにいく。生徒だからである。だいぶ読めるようになってきたし、学習法が確立してきたからでもある。
専門のホンばかり読んでいると、基地外になっちまう。
あまり専門のホンも所有していないし、専門と言ってもなにが専門で、どれが専門以外であるかとなるとだいぶ怪しいから、そんなことは言わない。
そんなことよりも、楽しく読書していればいいのである。
木村治美センセの「自分をつくる生涯学習」という著書にも書いてあるが、生涯学習はなにも範囲を限定して考える必要はないのであって、気負うとろくなことはない。
あらゆる機会が生涯学習であって、なにも通信教育で大学に入って勉強することだけが生涯学習ではないからである。
カルチャーセンターでもいいではないか。
気負ったらアカン。
そういう意味で、専門書を読み、メモやノートをとっているとあまりにも目的化しすぎてしまっていけない。
さらにそのメモでもって、論文を書いてみたいとなると病気になってしまう。
論文にすると、必ず批判されるからである。褒める人なんでありゃしない。体験上。
しかも、こっちは素人である。素人だから、書いた論文にアラが見える。自分でも見えるんだから、話にならない。
でも、それでもチャレンジすることが大事だ。
論文にしてみてはじめてわかることがあるからである。
それは、知の体系というものがわかるようになるからである。くだらない私の論文でも、鬼来迎なんていう房総の一部地域でしか演じられていない民俗芸能であってもそうなのである。膨大な知の体系が組み込まれていることが、やればやるほどわかるようになってくる。
これが唯一の収穫であったのだ。
それで自己満足しているのだが、それでもよかったと思っている。
こんな程度の素人だ。
おもしろおかしくやっているだけである。
それが楽しみなんだから、それでいいのだ。
社会に害悪を垂れ流しているわけではあるまいし。
だから、楽しみで読書しているのも、これで良いのである。楽しいからである。
ジジイから楽しみを奪っちゃならない。
孫と遊んでいるのと一緒である。
今日は、午前中古文書講座に行く。むろん教えてもらいにいく。生徒だからである。だいぶ読めるようになってきたし、学習法が確立してきたからでもある。
崩し字を家にある複合機でコピーして、それをノートに貼り付けて、辞書を片手に読解していくのである。ノートだから、傍線方式で赤ペンでドンドン書き込んでいく。
古典文法も思い出したりして、実に楽しい。高等学校の古典の授業は実に厳しいものであったから、そのおかげで今がある。進学校に学んだということを感謝しているのだ。だから塾でも、古典ができる。まことにありがたいことである。
ありがたくて、ありがたくてナミダが出て参りますよん。
(^_^)ノ””””