「のべんだらり的人生の過ごし方」・・・もう十分実践しているので
湯治に行きたい。
無性に行きたい。
ひたすら行きたい。
なにも草臥れたからではない。当たり前でアル。草臥れるほど仕事をしていない。させてもらえない。去れと言われたからである。現役にいつまでもこだわっているとみっともねぇから、去れということである。後がつかえているから、いなくなった方がよろしいという案配である。それはそれでおおいに納得できる。
湯治に行くと、精神の安定がある。
湯治だから同じ宿にずっといる。温泉街をチョロチョロ散歩してあとは本当にのんびりして過ごすわけである。
しかしである。同じ宿に一週間程度ずっといるってぇことは、大人になってからは、まだやったことがない。関節とか、腰とか、足とか具合の悪いところがないからである。もっとも、あれか。悪いのはアタマである。これはもうテオクレであるから致し方ない。なにしろ大学院中退者である。
わはははっはははっははははは
かつて、亡父と亡母に連れられて同じ宿に一週間いたことはあった。故郷で。蔵王温泉であった記憶がある。あの時は、楽しかった。小学四年生の時だった。毎日、蔵王高原の草原に遊びに行って、虫取りをしていた。夏休みの時であった。
今思えば、亡父亡母はなんのために一週間も湯治に行ったんだろうか?と思う。まだ四十代ではなかったのか。私の両親は。転職とか起業をめぐってのことだったと察しはついているが、ここには書かない。そういう時も人生にはあるということである。四十代の充実した人生を送っているときでも、それこそ人生いろいろあらぁなということである。
私は、還暦をとうに過ぎた。でも湯治でもってこれまでの人生を振り返ったことがない。それほど生きてきたという実感がない。(_ _ )/ハンセイすることは多々あっても、過去を振り返ることがあまりない。
だから、のんびり同じ宿に泊まって、朝から温泉三昧という心境からは程遠い。
そもそもそんなに活躍してこなかったし、バリバリの出世亡者とは違っていたから、のんべんだらりと生きてきてしまった。これからも、のんべんだらりと余生を過ごしていくのであろうけれども。それは得意だからである。得意技。柔道でいうところの、必殺技である。誰にも負けないという私を特徴付けている技。
でもですなぁ~。
この「のべんだらり的人生の過ごし方」というのは、実に快適である。
苦痛がない。
他人にどう思われようともそもそも他人に関心がないから、動揺させられることがない。つまり、影響されないということである。ムシしているのとも違う。視界に入ってこないのである。他人が。
オノレのことだけ考えているというのでもない。
これでけっこう社会でなにが起きているのかということにも関心はあるのである。経済状況もそうである。政治にも関心がある。新聞もとっているんですぜ。マジに。隅から隅まで読んでいるし。
ニュースも英語バージョンでチェックしているし。これって、日本国内で報道されているのとはまったく違うからおもしろい。もっとも単語の意味がよくわからなくて四苦八苦しておりまするがねぇ~。
もっとも、アレか。
競争社会を生きているエリートビジネスマンから見たら、私なんぞ負け犬か。どうでもいいようなことだが。でもですなぁ~、自称他称エリート諸君には申し上げたい。そんなに急いで生きていたって、どうせ全員死んじゃうんですぜ。100%全員あの世には行かなくちゃならんのですぜ。
さらに、離婚だの、不倫だの、捨てられたの、捨てただのという現世のことばかりにこだわっているとロクな死に方はしませんぜ。
生きていうちが花だとか、生きているうちにゼータクしようとか言って、爆買いしたり、一千万以上もするような高級車に乗って見せびらかしていたって、こっちも100%死んじゃって何の意味もないのですぜ。
もっとも、自称他称エリートなんて、拙ブログなんか読みもしないか。当然ですな。当然。
ワタシャ、人生負け続きだからで。
そう言えば、退学した大学院の教授にも言われたっけ。トラブル防止のために、やりとりしたメールは保存しておくからと。おどろいたっけ。トラブルなんて考えもしなかったからである。学業が著しく劣るというのは、自分でもおおいにわかっていたからだった。今更、私のようなバカ並びに基地外が、文句を言っていたら孫末代まで嘲笑されっちまうですよん。マジに。そもそもオノレは優秀でアルという基地外のような自負心が、「山月記」の虎になった人間のように狂わせるもとになるのである。それくらい、いかに私でもわかっているからである。しかも、3年間も学業劣等ジジイを面倒みていただいて、限りなく感謝しているのである。どんなに大学院運営に邪魔であったかと慚愧の思いでいるのだ。邪魔そのものであったと(_ _ )/ハンセイしているのである。だから生涯学習ごっこという夢をみさせていただいたと書いているのである。こんなに感謝していることは、これまでの人生でたえてナカッタことである。本当である。感謝以外表現のしようがない。
「感謝こそすれ、私は退学した大学院になんの文句もありません。これまでのご指導を心から感謝申し上げます」としか言わないで去ったのである。ご縁がなかったということである。今更である。当たり前でアル。
健康を害して、論文書きができないというのではもう研究者失格である。論文を書いてナンボの世界であるからである。耐性がナカッタということになるんだろう。これだから、人生には何があるかわかったもんではないのである。
警戒して生きるべきであろう。
特に色恋沙汰には特別に警戒すべきである。若い研究者がそれでもって、挫折して研究の世界から離脱していってしまうのはそれこそもったいない。
私?
あははっははははっはははっはははっはは。
な~んにも関係ありません。色恋沙汰なんて、そんな顔ではありません。
そんなことより、「のべんだらり的人生の過ごし方」を実践してきて、これからものんべんだらりと過ごすつもりだからである。
あああああ!
長期の湯治に行きたい。
ひなびた温泉で、数冊の本を持って。もっとも、あれか。10月に行った故郷山形県の肘折温泉も滑川温泉もWi-Fi完備でしたがね。どこに行っても、インターネットからは逃れられないようでござんした。
それでは退場します。
これからwalkingをやってきますので。
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