と~ま君の部屋

楽しい老後を送りたいとやっています。所詮人生回り道。修士(人間学、仏教学)。ぼけ防止・脳のリハビリでやってるブログです。

蟻の街のマリア 1958年(昭和33年) 感動の映画だった! ボキもこの時代に育ったから 

2019年09月13日 16時31分15秒 | とーま君の流儀2019

蟻の街のマリア 1958年(昭和33年)

 


ウキより引用↓


東京府豊多摩郡(現:東京都杉並区)生まれ。北原金司群馬大学東京農業大学教授、経済学博士)の三女。桜蔭高等女学校(現桜蔭中学校・高等学校)、昭和女子薬学専門学校卒業。1949年光塩女子学院内のメルセス会修道院にて受洗。洗礼名はエリザベト、霊名はエリザベト・マリア[1]

 
現在の隅田公園
 
現在の言問橋

1950年に浅草にある姉の家に転居した際に、“ゼノ神父”ことゼノ・ゼブロフスキー修道士(コンベンツァル聖フランシスコ修道会)と知り合う。ゼノ修道士を介して隅田川言問橋周辺、現在の隅田公園の界隈(台東区側)にあった通称「蟻の町」のことを知る。「蟻の町」とは小沢求松居桃楼たちがまとめ役となって結成された廃品回収業者の居住地である[2]

当初は、通いながら奉仕活動をするものであったが、やがて彼女は貧者を慰問することは偽善者のごとき大きな罪であると悟り、自らが汗を流して貧者と共に労働をし生活し助け合うことが重要であると考えるようになった[3]。彼女の行動によって「蟻の町」、特に子どもたちの教育環境は段々と整えられていく。

彼女の行動は世界に発信され賞賛の声が多く届くが「財宝ばかりでなく、名誉や地位もまた悪魔的な誘惑だ」として、その名声に甘んじることはなかった。

諸々の奉仕活動での体力的無理が祟り著しく健康を害し、療養のため「蟻の町」を離れるが、やがて死期を悟ると「蟻の町」に再び移住。1958年腎臓病で夭折した。28歳没。墓所は多磨霊園にある。

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