美女がガイコツになるまでの絵巻
今日はこれから「土佐日記」の古文書講座(9:30~11:00)に生徒として参加する。楽しみである。今日で二回目。まったく読めない。読めないが、原文はある程度知っているので、気が楽だ。活字本ならなんとかなるだろう。文法もまだ大丈夫である。忘れていないだろう。たぶん。
それよりも、だんだん・だんだんと人生が失われていくことを実感している。還暦をとうに過ぎたが、人生の記憶というのが、荒削りなスケッチとなり果てている。私が一生懸命やってきたこと、いろいろと工夫して努力してきたことが、その詳細が思い出せなくなってきている。
私の人生の一部が完全に消えてしまっている。そして、時々思い出す。こんな場面で、なんで思い出すことがあるんだろうかと不思議になる。
こうした消失の場面が加齢と共に増えていく。
つまり、部分的に私は死んだのである。こうして死に一歩一歩近づいていく。消えてしまった私の人生は、意識としては存在しないし、意識がなくなったら、次は臓器不全である。臓器がまともに動かないなら、血流が止まる。血液は脳の最大のエネルギーである。そうなのだ。つまり脳が死んでしまう。そしたら、私という全体が終わりである。
しかしである。
死とはなんぞや。
そういう問題は、医者の世界の問題であろうけれども、日本古典の分野でも書かれている。
それは、「九相詩絵巻(くそう)」である。
美女が亡くなって、次第にガイコツとなっていく様を描いている。内容は以下のようになっている。
。
- 脹相(ちょうそう) - 死体が腐敗によるガスの発生で内部から膨張する。
- 壊相(えそう) - 死体の腐乱が進み皮膚が破れ壊れはじめる。
- 血塗相(けちずそう) - 死体の腐敗による損壊がさらに進み、溶解した脂肪・血液・体液が体外に滲みだす。
- 膿爛相(のうらんそう) - 死体自体が腐敗により溶解する。
- 青瘀相(しょうおそう) - 死体が青黒くなる。
- 噉相(たんそう) - 死体に虫がわき、鳥獣に食い荒らされる。
- 散相(さんそう) - 以上の結果、死体の部位が散乱する。
- 骨相(こつそう) - 血肉や皮脂がなくなり骨だけになる。
- 焼相(しょうそう) - 骨が焼かれ灰だけになる。
この絵巻を見て、修行僧は、修行のために思索する。(山本聡美、西山美香編 『九相図資料集成 死体の美術と文学』 岩田書院、2009年参照)
こっちのHPも参考になる。九州国立博物館収蔵品デジタルアーカイブ (http://d-archive.kyuhaku.jp/da/collection/info/id/61/)
こういうのを見て、気持ち悪いと思うか、思わないか。それはそれで自然の流れであろう。しかしである。「死とはなんぞや」「どこからが死で、どこまでが生か」とか、私のように考えていると、逆に「気が楽になる」のである。
なぜか。
生きているうちから、私のように加齢と共に死んでいくからである。死は突然でなくて、ゆっくりやってくるからである。
生老病死は、人の自然であるからである。
誰でも死ぬからである。
オレには関係ないのではない。
私も、そっちのあーたも、あっちのきーみも全部死ぬのである。
永遠に生きていたいっていっても、それは無理だ。
だから、もっと見つめた方がよろしい。オノレの死を、あるいは生を。そういうことを爺になってから考えてもいい。でも、もうちょっと若いときから思索したほうがよろしい。
でないと感情に振り回される。
感情が、人生万般の原因である。言い方が悪いとか、なんだとか、人生のトラブルの原因は殆ど感情にある。
多くのビジネス書とか、処世訓はこの類いである。こころが別にあって、こころの制御こそ成功のなんとかとか書いてある。これは間違っている。考え方の修正ということが、こころの修正なのである。まともに生きていきたかったら、こういうことを考えたほうがいい。キレるとか、友人と、あるいは恋人と、配偶者と別れる、修復できない関係になるっていうのは、感情が問題を抱えているのである。経験上間違いはない。感情をコントロールしていくことである。それは可能なのである。マジに。
感情はこころにあるのではない。脳の中にある。あるいは考えの中にある。だから考え方一つなのである。
私は、そう思っている。
あ、8:52である。
時間だ。
もう出かけます。ルンルンと。
(^_^)ノ””””