会社や組織での現役の時は、まさに運命共同体であって、個々の活躍が会社や組織の成長を決める。当然である。それぞれの構成員が頑張らなくては、なるものもなるものとならない。滅びるときは一気にくる。現状維持に安心していると、である。
定年退職後は、そういうのとは違う。あくまで個人営業みたいなものであって、組織の中で通用していた手法は通用しない。あたりまえである。
人間関係というのは重要である。組織人のときは、まさにそれがぴったり当てはまる。
退職したらそうはいかない。そこで退職後の人間関係はどんなのがいいのかと思い至ったのである。
最初に考えたのが、
①フレンドリーに過ぎないこと
である。
あまり親しくないのに、さも以前からの友人のようにフレンドリーにつきあってくださる方もいたからである。こっちの個人的な情報をやたらと聞きたがる御仁。御仁というより、じょせーが多い。しかもそういう方々は黙っていられない。ねぇねぇここだけの話だけどという言い方で、あっというまに噂話のネタにされてしまう。
昨日書いたように、毎日愚生がどこに行っていようが、関係ナイはずであるのに、やたらと噂のタネにするのである。しかも、固定観念に染まっている。
大学に行っているというと、必ず教えに行っているのかね?と言われる。固定観念である。愚生のように学生であってはいかんのだろうか・・。さも変人でも見ているようなおメメをなされる。
拙ブログでも愚生の個人情報はほとんどばらしていない。Facebookでもまったく個人情報は書いていない。なかには、出身大学から、居住地、職業、会社名、生年月日、取得学位とか書いてあるカタもいる。
昨夜も、ある大学の公式ホームページを見ていた。民俗学のことで、ちょっと参考にしたいことがあったからである。そしてオオイニ驚いた。
大学の先生方のご経歴が、実に詳しく書いてあるからである。
びっくりした。いいのかね・・・いいのか。あれで。ご本人が納得済みなら。大学経営のためには致し方ないのであろうけれども。学生が来ないとどうしようもないだろうから。
あ、また脱線をしている。
本筋にもどろう。
フレンドリーである。
居酒屋で出会っても、決してフレンドリーを自ら演じることなかれということを言いたいのである。相手には聞かれたくない事情もあるからである。家族関係、結婚のこと、あるいは借金のこと、あるいは亡くなった親・兄弟のこと、またご自分の病気のこと等々たくさんあるはずである。
友人が多いことはいいことだろうが、その数を誇ってはならないと思う。良質の友人関係があるかないかである。判断基準は、好き嫌いでもいいと思う。第一印象というのは、けっこう大事であるから。一目惚れというのもこれだそうである。残念ながら、愚生にはそんな経験が無いが。(ホントか?)
「淡き交わり」がいい。つかず離れずである。山奥で、じっと釣り糸を垂れている方々はこれである。並んで釣りをしているヒトはない。海なら可能性があるが。
山奥の釣り師は、微妙な距離を保っている。お互いに。良い関係である。影響もしない。さりとて、まったく関係ないとする態度でもない。我が道を行っている。自慢もない。卑下もない。釣れなかったら、それまでである。成果主義ではない。亡父もそうだった。よく一緒に奥羽山脈の奥深くに行った。渓流釣りである。愚生は退屈で面白くなかったが、亡父はじっとたたずんでいた。無念無想であった。大自然と一緒にいるだけでいいんだと言ったことがあったっけ。
あれはあれで亡父の生きがいであったのだろう。生きていたら、あの頃の心境を聞いてみたいものである。
②あいさつをしよう
釣り師の場合も、あいさつはする。
するけど深入りはしない。
釣果は?と聞く程度かと思う。聞かない方が多いのではないか。
あっさりしたものである。
ここにポイントがある。あっさりとした関係を持ちたいものである。もっとも、このあっさり感というのが愚生の最大の欠点だとよく言われたっけ。現役時代は。納豆のように粘りっけが欲しいと。わははは。そんなのムリじゃぁ。
あいさつをしていれば、たとえそれが見知らぬ方であってもいいものである。電車を降りる時に、ちょっと片手を前に出して、失礼します程度でいいのだ。それもあいさつ、これもあいさつである。
さ、早朝トレーニングはこの程度にして、電車に向かおう。
またまたどこに行っているんかい?ってフレンドリーに聞かれたりして。。
(^0^)