踊り子の表情に引きつけられてしまった。裏にある哀切がたまらなかった。良いものは良い。それだけのものはあったから。
まるで伊集院静の小説のようだった。「ツキコの月」を思い出した。もっとも、こちらはアルゼンチンタンゴである。ベリーダンスとは違う。アルゼンチンタンゴを直接見たことはない。だから推測なのであるが、そう思った。
なぜか。
踊り子の表情がなんとも寂しかったからである。一番目に登場してきた背の高いスリムな踊り子であった。小顔の踊り子であった。美貌なる女性であった。スタイルはいい。衣装もすばらしい。しかし、なんとも虚しい寂しさがある。
場所はイスタンブールであった。有名な劇場であった。踊り子も有名ダンサーが登場してきた。現地案内のトルコ人男性にそう聞いた。ブルガリアとギリシア人の踊り子という説明を受けた。
ワインを呑みながら見ていた。だから酔っていたのかもしれない。
それにしてもなぜ伊集院静なのか。「ツキコの月」なのか。
この作品は、月夜の光に照らされ、父と踊った情愛あふれるタンゴから始まる。主人公の賀集ツキコは父の言葉を胸に懍として生きてきた。そして、父の突然の死、唯一の肉親である弟眞一郎との強い絆、幾多の激しい恋、そして芝居との出会い。心血を注いだ舞台の世界。そういう小説である。
この小説の主人公である賀集ツキコと重なったからである。場所は違う。かたやブエノスアイレスである。こっちはイスタンブールである。
しかし、両方とも踊り子であることには違いがない。
思い込みもあるだろう。ボキの方に。それでも、その美しい動きに同じ感性があるのではないかと感じていた。寂しい曲ではなかった。むしろ激しい曲なのであろう。
踊り子に引きつけられたのかもしれない。それほど美しかった。彼女の表情に哀切を感じていた。
元々、ボキは北欧系や露西亜系の女性が美しいと思ってきた。露西亜文学に興味を持っていた。学部時代は、ドストエフスキーにはまっていた。苦しい苦学生活のかたわら、ドストエフスキーを読んでいた。苦しいからこそ、救済の叫びとして露西亜文学にのめり込んだ。
ベリーダンスというと、たいていは男性の興味本位のダンスだろうと言われる。セクシーだからであろう。動きが。
でも、ボキはこの程度ならちっともセクシーだとは感じなかった。卑猥さがまったくない。日本の温泉街にある卑猥さを売りにしている場所の踊り子とはまったく違う。そもそも比較する方が失礼だ。
悲哀を表情に隠している踊り子の方が、いろいろと考えさせてくれる。
美しいものは美しいのである。
アルゼンチンにも行ってみたくなった。スペインでもいい。またボキの風の旅が始まってしまう。さ、バイトしてせっせとゼニをためなくちゃ。
今日は千葉市に出かける。夕方から宴会がある。こっちは昔の仲間たちと一緒である。めったにない飲み会である。来ないか?と言われたから仕方なく行く(ホントか?)。
楽しみである。
ヾ(*´∀`*)ノ