この記事の前に「ミセハラ」というオレの造語かもしれない語で、見たくもないハラスメントにあっているということを書いてみた。世の中、あちら向いてもこちら向いても、ハラスメントの横行であるからである。男だけがやっているのではないと思っているからである。だから、オレのようなじじいの前には、見せたがりや症候群の「ミセハラ」女性は、現れないでほしいということなんである。マジに。
だったら、オレの見たいのはなにかということになる。それは、FBにも書いているが、芸者さんである。和服の似合うような女性である。女優の吉永小百合のような和服の女性である。これは実にいいものがある。まず、露出度が実にしとやかである。否、露出度なんてどこにもない。長い和服でその身体は被われている。美もそっと陰に隠されている。そういった方々が、しとやかな起居動作を行うのだから、これはたまらんのである。民俗芸能をもっぱらにしているオレの役得でもある。
つまり、美というのは「思い」の中にあるのである。絵を見てもそうではないか。モナリザをルーブルで見てきたが、あれもまた露出していない。実に隠された微笑をたたえている。それをである。これでもか、これでもかと自称「美」を見せつけられたら困っちまうのだ。見せつけられる美というのは実に辟易する。ゲップが出る。映画でもそうだ。次から次へと、美人の女優が濡れ場を演じているのは、げんなりである。あれは本当に演技なのだろうかと疑問に思っているからでもある。
だから、見ているオレというか観客側に、美というものを伝えるのではなくて、観客側からイメージとしての美を喚起させるものが、すぐれた芸能だと思うのである。その点、原節子という女優の美は見せる。こちら側に、豊かな美のイメージを持たせてくれる。さらに、いろいろと文学のことも想像させてくれる。原節子の映画「東京物語」などは、笠智衆の息子の嫁の役をやっていたが、ほんとうにほろりとさせられる。ドストエフスキーまで、オレの心の中に蘇ってくるのだから、これは相当にレベルの高い演技である。素のママではないからである。素でできるのだったら、俳優とはいえないだろうからねぇ。
民俗芸能として、芸者さんについてもこれから追求していきたい。なにしろ我々の世界は、何でも屋である。芸能ならば、何でもできる。なにもいかめしく畏まっている必要も無い。エライ学者さんで、ストリップの研究までしているセンセもおられるくらいの民俗芸能の世界である。だったら、いろんな可能性があるのである。対象は広く深い。
オレは、まだ60代である。そして亡父が、60歳、亡母が64歳で亡くなった。オレは両親の死んだ年齢を上回りたい。オヤジの死んだ年齢は上回った。お袋の死んだ年齢はもうすぐ超すはずである。そして、まだまだ長生きしたい。好きな民俗芸能を見て、写して、駄文を書いてまだ死なないのか?と言われるくらいに。それがオレの使命である。
生涯学習者として、である。
それには、きれいな芸能を見て生きていきたい。能もそうである。再来週の土曜日には、千駄ヶ谷の国立能楽堂に行く。高速バスに乗ってである。昔から昔から見たかった「百萬」である。興福寺からチケットを買った。やっとの思いであった。能と唯識学ということが、オレのベースにあるからである。百萬の女性主人公を見たら、オレはたぶん泣くだろうなぁ。我が子と生き別れになった若い白拍子の女性が、「思い」として伝わってくるだろうからである。
そしてその白拍子は、ミニスカートなんかはいていない。足も、腕も、うなじも見せない。隠されているのである。
「秘すれば花」なのである。
わかるかなぁ~、わっかんねぇだろうなぁ。見せたがりやのミニスカおね~ちゃんには。
どうでもいいことだけど。
じゃぁね~。
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