・いろいろな思想家の本を読むことを楽しみにしているが、やはり場当たり主義でなんでもござれではいかがなものかと思う時がある。
・C・ウイルソンの「アウトサイダー」(紀伊國屋書店)ですら、多くの引用文献を扱っていて、自称文学少年にはタネ本となるくらい有用性があるのである。それはそれでいい。ある種の傾向性を持っているからである。ただし、若干おふざけで書いたのではないかと思うところもある。なぜか。不勉強な読者(まるで私のことだ)を欺くことにかけては超一流であると思うからである。
・私はわからないことが多くある。わからないことが多くあるから学ぶのである。当然である。最初からなんでもわかって、気がついて、なんでもかんでも理解できるようなすぐれたアタマを持っていたら、そんなに苦労はしないのである。
・当たり前である。
・知識の量を誇ったり、読書の量を誇ったりしていてはならない。否、知識量や読書量はあっていいのだ。私は誇ることに疑問を持つ。
・C・ウイルソンは、難解きわまる多くの文学作品を「アウトサイダー」で取り上げてみせ、感心してみせ、わかったふりをしている私のような中途半端な読者をからかっているのではないのか。これはきつい。実にきついパンチである。そのことに気がついたら、わかっていないということであるのだから、勉強するしかなくなってしまう。
・無限循環である。
・だから生涯学習が私には大切となるのである。
・また実社会で使われているいわゆる業界用語というものも、わかって使われているんだろうかとふと思うことがある。多くの業界用語がある。いちいちそれらを定義づけて使っているとは到底思えないからである。むしろ、定義は曖昧でもみんなが使っているから、たぶんこういう意味で使っているんだろうという思い込みで、暗黙の了解で使っているのではあるまいか。
・ファーストフード店に10年くらい前に行ったことがある。あのときに、びっくりしたのだった。まるっきりマニュアルどおりに発声をしておられる。古本チェーン店でも、ひっきりなしにマニュアルどおりの大声が飛び交っている。哲学者の中島義道先生だとうるさいと一喝されるのではないかと密かに思っているのだが。ま、普段からお世話になっている古本チェーンであるから、黙って本を捜しているケド。
・わからないまま過ごしたくはないものである。こんなじぃになってもわからんことがたくさんあって、今まで何をしてきたのだろうかと思っている。さらにしょうもないのは、せっかく苦労して覚えても、ドンドン忘れていくのだ。恐怖である。だから、強制的に復習をするしかないのである。
・困ったもんである。仕方ないケド。せめてもの抵抗をしていくしかないのだ。衰えていく頭脳に。でないと後悔する。
・それでも人間は年をとっていく。そして、最後は死ぬ。誰でもである。誰でも死んでいくのだ。だったら最初からなんにもしないでいようというのは、いかん。生まれて、生きて、死ぬということの中にこそ、尊いものがある。昔のことを考えたり、あまり未来のことに拘っておると病む。今をきっちり生きるしかない。
・送別会シーズンである。「別れ」もまた未来永劫に別れるのではない。未来でもなく、過去でもない。今のこの瞬間において、殆ど同じようなメンバーで、過去の職場で経験したことや、未来における展望などを語りあうわけである。シニカルに、それになんの意味があるのだということを申し上げるつもりはない。
・そうではなく、送別というのは、ちょっと別の世界にさよならを言って旅立つということであると思うからである。旅立つというコトバを使うと縁起でもないとお叱りを受けそうだが、そんな程度のものではないのか。人間だけが、送別会をするんだから。もっとも、ワンコが送別会をやって、お目々をごしごしこすっていたなんて話はみたことも、聞いたこともない。(当たり前ですねぇ)
・職場の戦友達と送別会で語り合うことは、自己主張の場であってはならない。オレはこんなにこの職場に貢献したのだとか、どうだ凄いだろう?とくっちゃべっているのはみっともない。そんなのは、すぐに忘れられていくのだ。さよならをして、去るということはそういうことである。縁を捨て去るということである。忘れられて当然であるからだ。
・しかし、だからといって全面的におめぇなんか何の価値もなかったと他人に言うのはもっとバカである。去って行く人にあまりにもそれは失礼である。儀礼であってもいいのだ。すばらしいご活躍であったということも、また大人としての作法であろう。そう思うのである。
・静かなる心で、去っていきたいものである。もう二度と会えない方々も多くおられるのだから。「お世話になりました」というコトバは、そういう大人の智慧を意味していると思うからである。
・私も明日最後の送別会がある。
・「お世話になりました」と心を込めて申し上げるつもりである。
↓ 語源辞典から
【意味】 世話とは、気を配って面倒をみること。手数をかけて援助すること。手数がかかってやっかいなこと。お世話。
【世話の語源・由来】
「世間でよく言われる言いぐさ」「世俗の人が用いる話し言葉のこと」が本来の意味で、世間の人の話の意が原義となる。
転じて、「日常的なもの」「通俗的なもの」の意味となり、「世話物」「世話場」という言葉が生まれ、江戸時代からは「面倒をみる」意味で用いられるようになった。
江戸末期の文献には、「だれがおまえはんの病気の世話をしますえ」とあるが、この「世話」は「せわしい」の「せわ」の下略と言われており、「世話」は当て字となる。
江戸中期には、形容動詞として「やっかいなさま」「面倒なさま」を表すようになり、江戸末期には「世話が焼ける」という句も見られる。