>大名の子として大事に育てられた大炊介(おおいのすけ)。彼はあるとき自分の出生の秘密を知ってしまう。
それから自身を狂態に装って藩の衆望を故意に裏切っていく悲劇を描く山本周五郎の代表作。
大炊介高央(たかなか)は藩主・高茂(たかもち)と正室の長子で、弟に弥五郎、亀之助という側室の子がいる。
高央は文武ともに優れ、藩内は皆その将来に期待した。学友に選ばれた柾木小三郎は高央に気に入られ、17歳までその任を努めた。高央は18歳になると突如としてその性格が一変した。小姓組の吉岡進之助という侍臣を手討ちにしたのである。
18歳になった時、侍臣を無礼討ちにした顛末を父である藩主は息子に問うた。近習の父母も無礼を働いた息子を詫び、ともども自刃したので藩主である父親としては当然のことであった。
どのような無礼があったのかと説明を求める父親。彼は「これは自分が無礼と感じただけであり、貴方から見れば、笑い飛ばせる程度のことだ」と、明確な理由は告げませんでした。
どのような無礼があったのかと説明を求める父親。彼は「これは自分が無礼と感じただけであり、貴方から見れば、笑い飛ばせる程度のことだ」と、明確な理由は告げませんでした。
国許に送られ蟄居させられると農家の娘を拐わかしたり、御用商人の和泉屋仁助や豪農の瀬木久兵衛に切りつけ不具にさせる等、数々の事件を起した。そして藩主は苦渋のうちに息子大炊介の命を縮める(密かに殺害)決断をしたのである。
小三郎から名を改めた柾木兵衛(ひょうえ)はその任を自ら願って国許へ向かう。国許では筆頭家老の広岡主殿(とのも)の屋敷に世話になるが、その娘のみぎわは己の縁談の相手として来たのだろうと勘違いしてしまう。
国に赴いてみると、確かに大炊介は荒んだ様子でした。
しかし、彼を心配し慕っているらしき下女の話から、兵衛は噂に疑いを持ちます。これまでの行状には何か深いわけがあるのではと兵衛は思った。
兵衛は先ず「拐わかされた」という娘たちを訪ねたが、皆、高央を可哀そうだから慰めねばと思うようになったという。
しかし、彼を心配し慕っているらしき下女の話から、兵衛は噂に疑いを持ちます。これまでの行状には何か深いわけがあるのではと兵衛は思った。
兵衛は先ず「拐わかされた」という娘たちを訪ねたが、皆、高央を可哀そうだから慰めねばと思うようになったという。
次に訪ねた泉屋仁助や瀬木久兵衛は、高央の行為は狂気であり一日も早い処置をと訴えられ、兵衛の期待は裏切られてしまう。更には他に3人斬られた者がいると聞き、兵衛は国元の蟄居先、椿ケ岡屋敷に高央を直接訪ねようとを決めた。
兵衛の供の十右衛門から、広岡家から兵衛の縁談の話が江戸の母にあったと聞かされた。兵衛はその母に、高央の改心がなく人としての反省に目覚めねば、主君より命じられた殺害の役目を果たし自分も黄泉のお供をする旨の遺書を残したのである。
兵衛は独りで椿ケ岡屋敷へ向います。
まず用人の松原忠太夫に会った。次に会った高央は子供時代自分の近習として仕えた兵衛の目的を察しており、早く自分を殺害せと迫る。
兵衛は側近の者達もあの世の供にするつもりかと高央に質した。そして兵衛自身、役目を果した後は貴方の供をすると告げた。
供はならぬと言いつつ高央は自刃しようとし兵衛と揉みあいになった。兵衛は、突然に脇腹に短刀を受けた。世間では拉致され屋敷に監禁されているという娘の仕業である。
医者が呼ばれ兵衛の傷は縫い合わされた、看病についたのは高央ひとりである。
高央は己は密夫(正妻のかくし情人)の子だと語り、母親の藩主への裏切りに子としてかわいがってくれた藩主への苦悶の日々を打ち明けた。兵衛が眠りから覚めるとあの短刀を腹に刺した娘がいた。高央はさらってきた娘には一人も手につけず追い返していた。
斬りつけた町家の者どもは、彼らが手あたり次第、他人の妻や娘に手を付けていた不道徳者だったからだと語る。
広岡主殿が江戸からの報せを届けてきた、病臥中の高茂が他界し、後継は側室の子、弥五郎となったのである。高央は出家するといい、学友時代に約束した「菊一文字」の短刀を兵衛に渡した。
娘を数多く拉致したのは母親の密通という行為を知った時から女性に対する不信感からであったことや18歳の時近習を手打ちにした事件の真相もあきらかとなる。その無礼討ちの事件は、本当の父が死の床で我が子に会いたがっている…と、そう連絡してきた吉岡進之助を我を忘れて一刀のもとに斬り殺したものでした。
尊敬する父の実の子ではなかった。
母と密夫の間にできた子だったと察した潔癖症の自分が動転しての咄嗟の凶行でした。
母と密夫の間にできた子だったと察した潔癖症の自分が動転しての咄嗟の凶行でした。
父に対する申し訳無さと恥から、彼は乱行に及ぶことになるのです。
いずれ尊敬する父が愛想を尽くし自分を討つだろうことを望んで。
代わりに看病として入ってきたのは広岡家のみぎわであった。みぎわは忠孝と道徳の間に立ちながら悩みながらも立派に役目を果たした兵衛に新たな愛を感じ嫁に行く決心を固めたことを暗示しながら物語は終わる。
山本周五郎の話は、難しい思想とか哲学はない。しかし、封建時代の武士社会を支えた規範、武士道を理解するものには意味深い話となる。
日本の武士階級の間に発達した独得の倫理が武士道である。基本は禅や儒教に裏づけられて江戸時代に大成したもの。
武士道のバイブル「葉隠」では、善悪・正不正を問わないで死を賭して主君に奉公する考え方を説き、忠孝・尚武・信義・節操・廉恥・礼儀などを重んじる。
武士道は主君への一方的忠誠,絶対的服従を基本理念とし,尚武,廉恥,剛健などを内容とする思想体系になっていった。
兵衛は過って学友として仕えた藩主の子、高央への忠義や今仕える藩主への報恩が複雑に重なる。
人の道を外れたとされる高央を切れと命じる藩主。もし人の道を外れた事実があれば武士として諫めるのも武士の本義である。しかし子供時代から高央の性格を知る兵衛は高央に武士の本分に外れる事実があるとは到底思われなかった。
武士が他の農工商と明らかに違う点は何か。それは命を掛けた職業である事なのだ。命を掛けているからこそ、そこに深い哲学も生まれ、また他への説得力も強い力をもつ。
もし不詳の事実があれば命を奪うがその時が自分の死に場所である。「武士道と云うは死ぬ事と見付けたり」――「死」を覚悟することで「生」が浮かび上がり、今この瞬間に生命がほとばしる。兵衛は何臆することなく過っての主と対峙する。
「死」が日常にあった武士たち。その生き様は潔く、美しかった。現代を生きる私には「死」は必ずしも身近ではなく潔さもない。今、いかに生きるか、たまには山本周五郎の本などを見てその意味に浸ることも肝要であろう。