現実にこのような空想会社がなぜないのか?それは就職の自由、つまり求職求人マーケットがあるためです。会社に必要な人材はマーケットで調達できるから、社員の家族に頼る必要がない。会社としては社員の家族を増やす必要がない。むしろ家族は不要なコストです。
逆に就職の自由がない社会、たとえば世襲制の江戸時代などでは子がいないと家業を継続できない。生産システムを継続させるためには家業の内部での妊娠出産育児が不可欠でした。この形態の特殊例は、皇族や歌舞伎役者など現代に続いています。これは一万年前の農耕牧畜の初期社会から続いてきた大家族を核とする栄養供給システムの終末形態です。
結局、現代産業社会の栄養供給システムには妊娠出産育児が不可欠の要素として組み込まれていません。いわば職業の自由と引き換えに、家族が栄養供給システムの役割を放棄し同時にその中に埋め込まれていた妊娠出産育児の機能を失っていった、といえます。
そうであるとしても、現代産業社会の基盤をなす職業の自由を世襲制に戻すことはできません。高度の生産性を保つ現代産業の基盤である自由市場が崩壊する危険があります。そのまえに自由を享受している大多数の人々が反対するでしょう。
それでは現代産業社会の栄養供給機能を家族に取り戻すことはあきらめて、国家の関与による社会正義ないしは福祉政策として企業に依存する栄養供給システムを改変することは可能なのでしょうか?
たとえば保育・教育の無償化、子ども手当など妊娠出産育児のコストを税金で支援するシステムの導入です。これは政治的に多数の支持を得れば可能です。現に北欧諸国では導入されています。しかし長期的効果については疑問が多い。まず財源をどうするか?大きな政府は経済発展にマイナス効果とならないか?結局、家族や婚姻の機能を国家が完全に代替するような大胆な政策がとられることはどの国でも現実にはないでしょう。
さらに、家族という身体的環境で働いていた栄養供給機能が大幅に国家・政府という抽象的集団に移される結果、家族内部での感情生活つまり異性愛、嫉妬、貞節、男女分業、財産共有、など生得的に人類の身体に埋め込まれていると思われる形質がどのように変容し、それに支えられている現状の社会基盤が持続可能であるのか、という問題は私たちには、全く未知のままです。
空想のその社会にあるその会社には、交際相手がいないと採用されません。ただし希望すれば採用前に会社が交際相手を紹介してくれます。入社式が結婚式を兼ねます。婚活と就活は同じとなりますから手間が省ける。当然、経済的能力が高く社会的評価が高い企業と思われれば、人は集まるでしょう。一方、妊娠しない社員は左遷されるというようなブラックな面も出る。新入社員は妊娠しないと昇格昇給できない。
逆に出産保育の経費は全額会社負担、育児中の社員には手当と休暇が与えられます。配偶者は社外でもよいが社内を選ぶ人が多い。もちろん婚外妊娠でも差別はありません。こうすれば子供は増える。しかし会社はどうやって存続できるのか?皆さん、首をかしげるでしょう。市場競争でどのように優位に立てるのか、分かりません。
もう一つ会社に関して別のアイデア。社員の子弟以外は入社させないという方式もあります。たとえば家族のように極端に排他的で外部の人間を参加させない集団で会社を作る。冗談で極端なたとえを言えば、それぞれの企業を独立国のように孤立させる。そこで老子の小国寡民のごとく、ゼノフォビア、ナショナリズムを極端に奨励すれば、外部の人間を雇用することを避けるようになる。
トヨタ王国ではトヨタ語を公用語とし、トヨペットという貨幣を使用する。三菱帝国では、三菱語しか話してはいけない、通貨はスリーダイヤです。よそものは入れません。それぞれの企業内部で妊娠出産育児を実行しなければその会社国家を維持できません。独占メリットを享受するゆうせい王国なら、ある程度可能かもしれない。社員の子しか採用しない内規とする。
まあマンガ的冗談ですが、しかし、そのような会社が仮にできたとしても、はなはだ非効率な生産形態となり、いずれ国際市場での競争に敗れて消滅する恐れが大きいでしょう。
ここで誤解を避けるために現行の育児休暇など福利厚生施策を実施している会社とこの空想的会社との根本的な違いを確認しておきましょう。
現在多くの会社で行われている女性活躍施策あるいは妊娠出産育児の支援策は、フェミニズムのためあるいは優秀な女性を活用できるメリットのために、有給不労働時間をあえて増やすデメリットをコストとして支払うという方策です。それに対して、この空想会社は妊娠出産育児を生産に不可欠な要素として組み込んだシステムですから妊娠出産育児の時間は有給不労働時間ではなく、生産稼働時間になっています。
現代社会ではこのような空想的会社は存在しません。存在できないし、そもそも発生しないでしょう。あえて特殊な例として空想の会社に近い現代の生産形態としては、育児日記を書いて稼ぐ小説家、親子タレント、歌舞伎役者一家、茶の湯など伝統アート家元、家族経営旅館、子連れ狼(子連れの刺客)など。いずれも家族家業であってメジャーではありません。
それでは、高収入を得られない多くの人々にとっては伝統的な婚姻習慣は無子化、少子化を進行させることになってしまうのでしょうか?もしそうであるならば、妊娠出産育児を婚姻の内部に埋め込むという伝統的な習慣は、現代において社会の再生産を阻害し、国家社会の衰退の原因となる可能性を持つことになります。
過去の歴史に学べば、風俗習慣は生産形態に適応するように変化するものとみなすことができます。そうであれば、妊娠出産育児、すなわち繁殖行為が、伝統的な婚姻の外部でも実行される社会が、早晩に、実現してくると予想されます。その場合、人類の婚姻生態は崩壊するのか、あるいは形を変えて存続するとみなすことができるのか、という疑問が出てくるでしょう。
しかし有史以来あるいは旧石器時代以来、綿々と続いてきた人類の婚姻生態が、そう簡単に現代の産業社会制度によって干渉され衰弱させられるものでしょうか? むしろ、繁殖を阻害するような劣悪な社会制度は淘汰されるのではないでしょうか?
象徴的な社会現象として、先進国における非嫡出子あるいは非婚姻カップルの差別廃止の傾向があげられます。これらの現象を深読みすれば、妊娠出産育児を埋め込む機構としての婚姻の機能が崩壊していくことを予想することができます。先進国の事例をみると、公共資金による保育・教育のサービスを充実させることで婚姻および家族の機能の主要部分を代替しています。税金の投入によるこの種の公共サービスを極端に進めると仮定すると、まず低収入の男性の経済力格差をなくすことで出生数の低下を緩和できると同時に、複数の女性に複数の子を出生させることが可能になると予想できます。
この形態が実現してくるとすれば、たしかに産業社会での婚姻の機能低下を補完する役割を果たしますが、伝統的な婚姻の機能である繁殖に対する栄養補給を代替することにはなっていません。
人類の身体が単婚に適応していて複婚や乱婚に向いていないとすれば、これでは社会を正常に維持できないでしょう。やはり繁殖に対する栄養補給の機能を持つ単婚を代替するシステムが必要です。
現代の産業社会では、栄養補給は企業による賃金によって行われます。市場の競争圧力の下にある企業は、妊娠出産育児への関与をコストとして処理する仕組みになっています。企業のネガティブな関与を公共セクターが補完する制度を作れるとしても、かつて伝統的な婚姻制度が果たしていた栄養補給の役割を完全に代替することはできないでしょう。
日本でも欧米でも、世界中どこの国でも、出生という社会機能に関して企業はネガティブな位置にあります。現代の産業社会では過去の社会と違って、家族は生産の単位ではなくコストになっています。そうであるとすれば、現代社会は繁殖という重要な機能を欠いた持続不可能な存在であるのでしょうか?
では、ほかにどのような可能性があるのか?具体論としては、だれもそれは思いついていません。しかし、抽象論でよければ言える。つまり産業界、企業が妊娠出産育児をネガティブなコストではなく、ポジティブなメリットとして追及するようなシステムに変わり得れば、それは伝統的な婚姻の機能を代替できるはずです。
圧倒的な栄養供給能力つまり生産能力を持つ産業が、法人としての利潤追求ではなく、その構成員の妊娠出産育児を究極の目的として活動するという仮定を置けば、それは可能といえます。
実測データに基づいた最近の経済理論(二〇一三年 トマ・ピケティ〈THOMAS PIKETTY〉「21世紀の資本 LE CAPITAL AU XXIe SIECLE」)によると、平和が続く今世紀には会社勤めの勤労層よりも会社オーナーなど資産家富裕層のほうがたいてい高収入となる、という結果が示されています。長期にわたる市場競争が原因でその結果がでるのか、またなぜそうなるのか、という経済学上の理論はいくつも提案されていますが、いずれにせよ、実測データの結果は経済格差の存在事実を示しているのでしょう。社会には高収入で富裕な少数の人々と低収入のまま一生を終わる多数の人々とがいて、現代人の栄養供給システムは少数の富裕層に多く占有されていることになります。
そうであれば栄養供給システムの中に埋め込まれなければならない人類の繁殖生態、つまり妊娠出産育児は少数の人々の間でしか機能しなくなる。つまりその人たちが特に多子となるような婚姻生態が実質に進行していくことになるでしょう。
勤労による女性の収入よりもはるかに大きい資産収入を持つ男性の家族には婚姻は容易に埋め込まれます。現にアラブの大富豪などはそんなようですね。ヨーロッパ先進国では非嫡出子の法的差別撤廃が進んでいますが、これにより資産収入の大きい富裕層の周辺にばかり出生数上昇が起こる可能性が批判的に論じられています。
歴史には王侯貴族の後宮など一夫多妻の現象は近代にいたってようやく消滅したとされていますが、社会から見えにくい母子家庭の形で復活するのではないか、という予想です。モラルの低下を嘆く議論が多い中で動物の性淘汰にもどることであるから自然への復帰である、との論調もあります。
性淘汰を制限してきた婚姻モラルと制度が弱まれば、男性は複数の女性に子を産ませることができるし実際そうなるだろう、という予想です。男性はクジャクの羽のように美的外観によって選好されるのか、住処や生活物資を提供するような経済的寄与によるのか、保護防衛力によって選ばれるのか、人間の場合はどうなのでしょうか?
金色夜叉などに描かれる現代人の価値観からすれば、どうも経済力がある高収入の男性が子を得やすいようです。
婚姻生態が食糧・生活必要物資の獲得過程に埋め込まれた人類の繁殖生態であるとするならば、高度産業化時代における婚姻は、その時代の生産形態、つまり現代であれば、国家、企業および市場に埋め込まれているはずであろう、という推測がなりたちます。
今日、先進国の多くの人々は、勤務労働、つまり会社に参加することによって食糧・生活必要物資を獲得しています。このことから、現代の婚姻生態は、それが持続可能であるためには、会社への参加、就職とその後の勤務の継続という過程に埋め込まれていることになるはずです。
人類の繁殖過程が生産単位としての家庭に婚姻を通じて埋め込まれていた過去のシステムを、現代の生産形態に当てはめてみましょう。
妊娠出産は会社勤務に埋め込まれなければなりません。成人した若い人々は生産拠点である会社、政府など大規模な組織機構に組み込まれる。その必要から高学歴化が起こる。そうであれば会社への参加によって妊娠出産育児が可能となる必要が出てきます。かつて家族内で行われていた妊娠出産育児が会社などの内部で行われるシステムに変容したのであるならば、それが現代の婚姻システムとなって持続可能なものとなるはずでしょう。
しかし実情はまったく違うようです。むしろ女性の場合は、勤務時間の拘束のため、会社への参加によって妊娠出産育児が不可能になります。男性の場合は、競争の結果、収入の格差が大きくなるため、高収入の人は子女を多く育てることができるが、低収入の人は無子あるいは少子となります。
現代先進国における婚姻は、高収入の男性にだけ専業主婦を妻とすることで妊娠出産育児を容易にするシステムになってしまうようです。
市場競争にもとづく収入格差が、婚姻をうまく生産拠点に埋め込むことを妨げていることが現代先進国の特徴といえそうです。このことは、本当に、少子化の原因なのか?あるいは人口減の原因なのか?事実を知るためには実測データによる検証が不可欠です。
女性に限らず男性も含めて、成人したばかりの若い人々が社会的経済的に安定できる位置を獲得しようとすることは、原始時代以来いつの時代でも同じだったでしょう。栄養供給システムの中心である集団に帰属し、その集団と運動を共鳴させる。それは人類の身体に埋め込まれた社会性であり、それによって原始人類は地球上ほとんどの地域で生存繁殖し、大発展を遂げてきました。それを結果的に、経済学的観点からみれば、生産活動の拠点への参加です。
狩猟採集時代は、それが狩猟の単位である大家族・への参加であり、農耕牧畜の時代は農村・都市国家への参加であり、それらの参加は婚姻を介して集団の単位である家族へ組み込まれることでした。生産拠点における生産の単位である家族とそれに埋め込まれた婚姻の内部で妊娠出産育児が行われ人口を維持する仕組みが働いていました。
それぞれの時代の生産活動が異なることから生産の拠点の形態も大きく異なっています
狩猟採集の時代であれば狩猟と採集の集団。農耕牧畜の時代であれば、農作業や道具製作の集団、武力活動の場合は軍隊。また百年前の近代先進国社会では、産業生産の拠点、すなわち企業、政府、学校、軍隊など組織機構への就職でしょう。
いずれの場合も、これら生産拠点は家庭を包含しそれを基礎単位として存立していました。その家庭には婚姻が埋め込まれ、婚姻の内部で妊娠出産育児のサイクルが稼働できるような、完結した生存繁殖システムとなっていました。
婚姻が埋め込まれている家族の機能は、社会の生産形態の変化に応じて変わってきました。狩猟採集の時代は、家族を包含する大家族集団が生産つまり食料獲得の基本単位でした。家族が集団で家の外に出ていき、食料を採取して家へ持ち帰る。食料は大家族の間で必要に応じて分配されたでしょう。この栄養供給システムにおいて最適な身体を保有する人類が発展し増殖して、今日の現生人類の祖先となったはずです。
農耕牧畜の時代にも家族は生産の基本単位であったでしょう。やはり家族は集団で生産し、交換で入手したものも含めて、食料は家族内で分配されました。
ところが前世紀ころまでに、先進国では、大多数の人々が都市労働者となって産業市場に参加する高度産業化時代となります。賃金あるいは貨幣を介して食料等必要物資を獲得する生活では、家族は消費の単位ではあっても生産の単位ではなくなります。
家族の生産によって供給されていた生活必要物資は、産業化にともなって、会社と市場を介して流れるように変化します。生産拠点のこの変化と婚姻の条件変化が関係しているのではないでしょうか?
そうならない場合があり得るとすれば、婚姻生態は人間の身体に埋め込まれてはいないのでしょうか?有史以来、人類は営々として結婚し続け、家族を再生産し、その結果今日の人口に達しました。人類学によれば、人類の婚姻形態は、単婚、一夫多妻、一妻多夫など多様性が認められますが、長期にわたる婚姻の内側で妊娠出産育児が行われる繁殖生態は、人類普遍的とされています。
そうであれば、婚姻が人類共通の繁殖生態であることになり、その生態は人類共通であるその身体機構にもとづいていることになります。少なくとも婚姻を構成する多くの行動因子が人間の身体に埋め込まれているに違いありません。しかしそうであるとすれば、最近の先進国にみられる少子化現象は、婚姻生態を構成する何らかの因子が欠損する現象である疑いがでてきます。
その欠損因子は文化、あるいは社会機構に起因するものである、という議論がマスコミあるいはアカデミズムに広く行われています。もし文化が婚姻構成因子の欠損に関わるものであるとすれば、かつては身体反射からなる行動因子によって構成されていた婚姻生態に、ある時代から、文化あるいは社会機構に起因する行動因子が決定的役割を果たすものとして入り込んだことによる、といえるでしょう。
たとえば文化が人間の婚姻可能条件を決定するようになってくれば、文化的社会的な条件不備による婚姻不可能、つまり未婚、晩婚現象を招来することになります。未婚、晩婚現象がつい最近の先進国に限って起きていることから推論すれば、この条件不備は、狩猟採集文化では存在せず農耕牧畜文化においても存在せず近代産業化の初期にもなかったにもかかわらず現代のたかだか百年足らずの間に欧米、日本、韓国など高度産業化諸国において急速に顕在化した現象である、といえます。
ではここで、最近百年の高度産業化にともなって文化的社会的な婚姻可能条件の何かが致命的に欠損するようになった、という仮説を立ててみましょう。
まずマスコミあるいはインターネットなどに表れている多くの議論では、未婚化晩婚化の原因は、女性の就職が容易になったことで、未婚女性が経済的に自立して快適な生活を維持することが可能となったことである、とされます。
また高学歴を獲得した女性たちは、組織内出世競争に参加し高収入と社会的地位を得る希望を持つので、独身生活を中断して結婚する場合は、人生の交換に値する高収入高ブランドの男性を要求するから、となっています。つまり現代社会においては女性を婚姻に誘導する文化的社会的因子が委縮してしまった、とされます。わかりやすい理論です。
現代的問題を経済から説明している点で冷静な優れた理論といえます。しかし拙稿の関心は、それら理論の裏にある原始時代から人類の身体機構に埋め込まれた行動因子です。
ふつう動物は成長が止まるころから繁殖を開始する。繁殖に適した身体にまで成長すればなるべく早く繁殖を開始するほうが有利です。その場合、繁殖に適した環境にあることが必要になる。たとえば季節。食料、個体密度など。この生育条件が整う必要があるでしょう。また加齢により繁殖機能が衰えれば繁殖を停止してまもなく死ぬ。すべての動物がそうであるが、人類だけは少し違う。
人類の場合、家族システムの中で繁殖が起こる。婚姻関係の中で妊娠出産授乳育児がおこなわれます。人間の幼児は成長が遅く授乳育児に手間がかかる上に母子ともに高い栄養を必要とするからである、とされています。母親だけでは育児を担いきれない。狩猟あるいは農耕牧畜労働により栄養を供給する男が必要であり、家事育児の手間を提供する親族が必要です。母子に必要なそのサービスを担保するシステムが婚姻であり、家族である、となっています。
もし婚姻が人類の進化上必要なものであったとすれば、私たちの身体がそれを実現するようにできているはずです。婚姻をめぐる人類普遍の現象;異性愛、嫉妬、貞節、男女分業、財産共有、などは人類の身体に埋め込まれた形質から来るといえます。
婚姻を支える身体機構の基盤は、そうであれば、脳が大きく成長の遅い幼児の出現と共進化したものといえるでしょう。さらに男たちが従事する狩猟あるいは農耕牧畜による高栄養食糧の取得システム、つまり生産性の高い実用技術と社会組織が共進化したと推定できます。
これらの共進化が栄養供給と繁殖のサイクルを立ち上げた時期は、理論的には考古学上の旧石器時代にあたると推測できますが、石器にも化石人骨にも残らない婚姻生態の物質証拠を発見することは至難ないし不可能と思われます。ただ旧石器時代後期のホモサピエンスは現代人と同一の身体構造を持っていたと推定できるところから、そのころから現代と同様な婚姻生態が存在した可能性があります。
婚姻生態が動物としての繁殖生態として人間の身体に埋め込まれていると仮定すれば、動物一般の繁殖生態と同様に環境の限界いっぱいまでそれが推進されるはずです。つまり婚姻できる身体を持つ人間は間断なく婚姻して栄養取得システムを回転させ自動的に妊娠出産授乳育児が進行するはずです。その場合、人口は食料供給の限界にまで増加するという人口論が成り立ちます。少子高齢化などありえない。
まず結婚という事象は結婚式の華やかさに象徴されるように人生の大イベントです。結婚式の後が重要、とよくいわれるように、男女の婚姻関係は生涯にわたるものとされています。通常同居する配偶者との間で妊娠出産育児が行われる。逆に配偶者以外の者との間でこれらが行われる場合は、例外的あるいは異常とされることになっています。
では、なぜそうされているのか?改めて問われると、ふつう私たちはすぐ答えられません。改めて問われることがないからでしょう。
結婚の実態は、地域や時代によってどう変化するのか?
社会学や文化人類学では、これは重要テーマの一つになっています。現代の日本の結婚状況や子育て状況など、社会学の研究テーマとして最良でしょう。しかし拙稿の興味はそこではありません。結婚する人々はその行為によって環境が変化するであろうことを予測し、その予測に従って身体をコントロールする。その態様に興味があります。
結婚によって人の周りの環境は大きく変化します。その変化の大きさは、人生で一番大きいというほどではないにしても、二番か三番くらいになるでしょう。例えば外国に移住することに比べられるほどです。たとえば嫁入りする女性は住居が変わる。住居が変わるだけならば引っ越しと同じですが、同居家族が変わる。日常生活のルーティンが全部変わります。すべて未経験ですが、失敗を繰り返すわけにもいきません。緊張が続きます。
新世帯を担う男性も大変です。子供が生まれて家族の生計が増えるうえ、経済的にも社会的にも破綻は許されません。確実に毎年の家計を支える責任を持たされます。緊張が必要でしょう。
結婚する前にこれらの環境変化は予測できます。それでも結婚したいか、結婚しなくて済むか?人は理論を述べる以前に、身体の反応として、直感でまず回答を迫られます。したいのか、したくないのか、身体はどう感じるのか?
年齢が深く関係するようです。晩婚化現象はそこから来るのでしょう。年齢はどういう仕組みで気持ちに関係してくるのでしょうか?
結婚適齢期という言葉があって、それはもう死語だという評論家先生の決まり文句にもかかわらず、人々の結婚年齢に深く関係しているようです。「もうXX歳だから」という理由で結婚を決意したりする。逆に「まだ○○歳だから」という理由で結婚を忌避したりします。年齢の近い人々が仲間であって、行動をともにしなければならないかのようです。