哲学の科学

science of philosophy

生きるという生き方(11)

2012-06-16 | xx9生きるという生き方

そうはいっても、私たちはつい、「私って何?」という疑問を口にしてしまいます。それは仕方のないことなのです。私たちの身体はそうなるように作られているのですから。

私たち人間は(拙稿の見解によれば)仲間との共鳴によってこの現実を作りだし、それを共有し、その変化を予測することでその現実の中に人が生きていると思い、自分が生きていると思う。そのように(現実を共有)することによって生存効率の高い緊密な社会を維持し、高密度の人口を維持している。そういうシステムとして人類は進化した、といえます。

このように、私たちが当たり前と思っている、現実世界の中を生きる人間の生き方というものは、人類特有の進化現象の結果としてできあがった特殊なシステムである、という見方ができます。いずれにせよ、私たち人間は、だれもがこの現実世界を生きるという生き方をしているのが事実であって、(赤ちゃんや認知症の老人を除いては)そういう生き方しかできないということもまた事実です。

29 生きるという生き方 end

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生きるという生き方(10)

2012-06-10 | xx9生きるという生き方

ちなみに、人間が作る理論はどれも恣意的な部分を含んでいます。どんな理論でも,はじめは、思いつきで、好き勝手に作られていく面がある。いい加減に思いつきで作られた仮説が、いろいろな人が使ってみているうちに、経験によって修正されて、実用的なものに変わっていきます。そうしてしっかり実用価値がでてくると、それには権威が備わってきて、変えることができなくなる。

皆がそう思い込むようになって世間に定着することに成功したそういう理論も、実は最初に理論が出来上がるときはたいした理由もなく作られてしまう根拠のない恣意的な部分が残っています。実際は、かなり多くの部分でしょう。

たとえば「むずかしい話を聞くと肩がこる」という理論があります。日本人以外の人に翻訳して言ってみても全く理解されません。医学者に聞いても根拠はない、というでしょう。しかし世間話など会話に使うと便利です。会話をつなぐのに便利であるという理由だけで、実は、筆者も使っています。

そもそもなぜキーボードの左上はQでその右はWなのか?円周率はなぜパイというのか?カッパでもいいじゃないか?私たちの算数はなぜ十進法を使うのか?三進法のほうが便利じゃないか? と言うことはできても、実際は、初めにだれかが勝手に作ったものを最後はだれもが使っている。

少数の人々の間で、はじめに思いつきで理論が作られるとき、その小集団にとって、これはそういうことにするほうが分かりやすい、とかあるいは、語り合う場合に使いやすい、あるいは単に声が大きい人のいうことにひきずられて、というようなことで広く使われるようになり、広まっていく傾向があります。

根拠もなく恣意的に、理論のその部分は出来上がります。理論全体として実用上、語り合いやすくて、それで差し障りがなければ、理論のその恣意的な部分は全体とともに継承されていきます。

ただし、理論の恣意的な部分については、それがそれだけに限られる理由は説明されませんから、本当かな、ほかにも理論がありそうだ、という感じがしてしまいます。

実際、私たちは現実を説明するどの理論についても、恣意的なものと感じる部分があり、そこは他の理論もありそうだ、と(ひそかに)感じています。宗教の教義については古来多くありますし、現代科学が説明する物質世界像に関してさえも、別の理論があるという主張(多元宇宙論、タイムスリップなど)が繰り返し出てきます。

そこで、この現実世界のほかにも別の世界がありそうだ、とか、この現実世界は私の外部であって私の内部には他の何かがある、とかいう思いがでてきます(拙稿23章「人類最大の謎」

)。実際、それら現実世界のほかの世界、精神世界、独我論、あの世、死後の世界などは、古来の宗教、哲学によってそれぞれの理論として提唱されています。

しかし私たちの身体感覚にもとづく現実世界を説明する理論としては、科学や世間常識以外の理論は、恣意的に感じられる度合が大きすぎて、誰もが納得するものになっていません。

特に、宗教や哲学の理論はどれもかなり恣意的になっています。身体感覚にもとづく目の前の現実のもっともらしさに比べると、これらの理論は納得しにくいところが多いと思われます。

現実世界のほかの別世界の存在を語る理論は(拙稿の見解によれば)どれも間違いというべきでしょう(拙稿第1部 哲学はなぜ間違うのか?)。拙稿の見解では、私の内部と外部などない(拙稿19章「私はここにいる )。この現実世界は私の内部でも外部でもない。現実世界がこのようにあるかのように私の身体が感じ取り、その現実世界の中に私がいるかのように私の身体が感じ取り、その私の外部に現実世界があり内部にそれとは別に私の内部があるかのように私の身体が感じ取ることは間違いありませんが、それら(現実世界、私自身、私の外部と内部)が存在する、といえる理由はありません。私たちの身体の構造がそう感じ取るようになっている、というだけでしょう。

このように考えてくると、結局、「私って何?」という疑問を持つことは間違いです。つまり哲学、とくに形而上学の問題は、実は問題ではないのに問題であるかのように見える、いわば偽問題である、といえます。私たち人間は(拙稿の見解によれば)自分たちの身体が作り出す現実世界といういわばバーチャルな環境を身にまとって生きています。哲学問題は、その現実世界を自分たちの身体と関係なく実在すると思い込んでしまうために出てくる偽問題です。

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生きるという生き方(9)

2012-06-02 | xx9生きるという生き方

その行き止まりの中で私たちは生きている。人間はだれもそうです。それはかつて哲学者たちが形而上学 と呼んだ問題ですが、(拙稿の見解では)これは実は高尚な哲学問題であるというよりも私たちの体感が(錯覚として)こう感じさせるのであって、それは私たち人間の身体が(進化により)そう作られているから、という理由以外の理由はありません。

私たち人間にとってこの現実の現れ方は、それ以外には何もないという意味で、すべてが現れている、といえます。目や耳で感じられる光景や音声が確かなものだと感じられることとまったく同じように確かに、この現実世界全体の存在を、私たちの身体はいつも感じ取っています。

それは人間の身体の物質的な構造そのものから来るからです。この身体の中に生きる私たちもまた、この身体が感じ取る現実以外に何か他のものを感じ取ることはできようがない、というべきでしょう。何か他にあるはずだ、と思うことは幻想です。

私たち人間は、身体が感じとる現実世界の存在感、あるいは実在感、という錯覚に惑わされるように進化したおかげで繁殖に大成功した動物です(拙稿第一部 哲学はなぜ間違うのか・第4章「世界という錯覚を共有する動物」 )。私たちは、身体が感じ取る身の周りの物事の存在感を手がかりにして、仲間とそれを共有することで客観的現実世界全体を感じ取り、さらにその上に言語を作り上げ、言語を使って文化を作りあげることで、皆で共有する現実世界を安定化し、そこにいろいろな理論を作って日常生活に使っています。

逆に言えば、仲間が感じ取っているはずの現実をそのまま現実として感じ取るように作られた身体を持っていることが、人類が緊密な社会を維持し生存繁殖するために大いに便利であったから、私たち現代人は、そう感じ取る身体を持っている、と考えることができます。

私たちが現実について語るとき、日常会話、世間話、仕事上の会話、政治、科学、神学その他すべてのコミュニケーションや言語表現は、このように共有する現実の上に作られた種々の理論について語り合っている、といえます。

そういう理論として、人はだれも自分だけが知っている自分の心がある(拙稿第2部8章「心はなぜあるのか?」)、とか、人にはその人だけの人生がある(拙稿22章「私にはなぜ私の人生があるのか?」 )、とかを問題にする考えがあります。私たちはそれが当たり前だと思い、別にそれが理論であるとは思っていません。しかしこれらは皆がそう思っているというだけの理論でしょう。そのような理論の中から、私の本当の心はどこにあるか、とか、この現実に生きる私の人生の意味は何か、というような哲学的疑問がでてくる。

人はだれも自分だけが知っている自分の心がある、という理論があるから、私の本当の心はどこにあるか、という哲学的疑問が出てくる。人にはその人だけの人生がある、という理論から、現実に生きる私の人生の意味は何か、という疑問が出てくる。そういう理論ができてしまったからこういう哲学的問題が出てきてしまった。問題はこういう構造になっています。

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生きるという生き方(8)

2012-05-26 | xx9生きるという生き方

東洋哲学も西洋哲学も、古典哲学も近代哲学も、すべての哲学はこの問題にこだわる。つまりここにあるこの現実の中に私の身体があるが、その私とは現実世界にとって何なのか?という問題の捉え方をする。

この図式そのものが(拙稿の見解では)すでに間違いです。この間違った出発点から始まる哲学は、がんばればがんばるほど、間違いを深くしていく(拙稿第1部 哲学はなぜ間違うのか? )。

まず現実世界がここにある、というところからもう間違いが始まっています。まじめに問題を深く語るほど間違いは深くなっていきます。

私たちだれもが同じように感じ取っているはずのこの現実世界は、神様が作ったとか物理学の法則が作ったとかいう前に、まずは(拙稿の見解では)人体の集合が自動的に作り出している神経系の共鳴現象だというべきでしょう。

この現実世界は(拙稿の見解では)、私たち人間の身体が(自動的に)仲間の身体の動きと運動共鳴を起こすことで生成されている。いわば人類特有の拡張表現型リチャード・ドーキンスの造語)です。私の身体と私の仲間たちの身体が(運動共鳴により)共鳴して作りだしている三次元映像のごとき錯覚(拙稿第一部 哲学はなぜ間違うのか・第4章「世界という錯覚を共有する動物」 )です。錯覚であるこの現実世界を出発点として進んでいく限り、錯覚の中に何かその根幹となる真実があるはずだと探し求めていくだけとなり、答えが得られるはずがありません。

たしかに仲間との運動共鳴を重ね合わせていくところに物理法則(たとえば拙稿27章「私はなぜ空間を語るのか?」)や神的存在や人々の人格の存在感(拙稿第2部 この世はなぜあるのか・第章「心はなぜあるのか? )を捉えることができます。そこから帰納的に物理学の法則や宗教や人間心理の傾向予測などを描くことはできる。

特に西洋では中世から近代にかけて古典哲学の伝統のもとに神学と科学が発展し、日々変化する現世の諸相は永遠不変の神の創造物である(という神学)とか、変化する物質現象は変化しない物理法則からの演繹推論によって予測可能である(という科学)とかいう世界像を語る理論が作られていきました。これらの世界像は私たち現代人の現実認識の根底を作っています。実際、現代文明諸国の宗教や科学や世間常識はそうして作られています。

伝承や経験から実験、観測を経て、神学者や科学者の間の理論形成により洗練されてきたこれらの現代的理論は現実の変化を見事に予測できます。私たちが共有する現実の経験から帰納される法則性は、たしかに人間の現実感に訴える。それをもって現実が存在する、と言いたければ言ってもよいでしょう。

しかしそう言ったときの言葉の内容は、それ以上でもそれ以下でもない。単に、だれにとっても、この現実が現実であるかのように感じられる、というところで止まってしまいます。

現実は現実に存在するかのように感じられる。そのように私たちの身体は感じる。だれもがそう感じる。しかしそこが行き止まりでしょう。それ以上に確かなものがあるはずだと探し求めてもそれはありません。そういう行き止まりです。

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生きるという生き方(7)

2012-05-20 | xx9生きるという生き方

客観的現実はいつも、現在現れている状況であると同時に、そこから次の瞬間へ向けて変化し続けている、と感じられます。現在と現在進んでいるそこからの変化の予測が現実を作っています。そのような意味で、現実は予測される明日を含む、といえます。

私たちが自分は生きていると思うということは、明日はどうなるかの予測をすでにしてしまっているということでしょう。つまり仲間と明日を含むこの現在の現実の中に生きる。それは、現在の体感にだけ反応して反射的に身体を動かしている動物や赤ちゃんや認知症の老人はしていないけれども、(言語を使用する)正常な大人の人間のすべてがしていることです。

このような生き方を、私たちは当然と思っていますが、人類(の正常な成人)以外にこういう生き方をしている動物はいないという意味で、これは人類特有の行動様式です。この人類特有の行動様式が、生きるということです。人類に特有でほかにないという意味で動物の行動としては風変わりな、あるいは奇妙な生き方である、ともいえます。

それでは大人の人間以外の動物や赤ちゃんや認知症の老人は生きるということをしていないのか? それは、もちろん生きるという言葉の使い方の問題です。医学的生物学的な意味では、彼ら(それら、というべきか)は当然生きています。しかし拙稿本章で問題にしている、(生きているという言葉のもともとの意味である)仲間と客観的現実を共有しているかどうかという観点でいえば、あてはまりません。その(言葉の本来の)意味で、生きている、といえる動物は人間の大人だけです。

読者諸姉諸兄はたぶん、こういう話はあまり聞いたことがないと思われるでしょう。「生きる」という言葉は毎日のように使われているのに、拙稿本章のような、こういう奇妙な意味付けが語られることはありません。人が生きることと生物が生きることとは違う、という話もお聞きになったことはないでしょう。拙稿としては、こういう分かりにくい話は読者に嫌われるのではないかと心配です。

この話が分かりにくい理由は、私たちが、自分たち人間の生き方だけが生物の生き方としてふつうであると思い込んでいるところにあります。人間の生き方は人類特有の進化の結果できあがった特殊な行動様式であって、ほかの生物(動物)にはあてはまりません。言語を使用しない人間以外のすべての動物(や赤ちゃんや認知症の老人)は仲間と共有できる客観的現実を感じ取ることはなく、したがって仲間の視線に映る現実の中で行動する自分の姿を感じることもありません(拙稿第一部 哲学はなぜ間違うのか・第4章「世界という錯覚を共有する動物」 )。人間以外の動物は、仲間と現実世界を共有する必要がないからそのような身体に進化しなかった、というだけのことでしょう。

私たち人間は、仲間のだれもが感じ取っているこの現実世界そのものを痛いほど切実に身体で分かってしまいます。この現実がまずここにあって、そしてその中に自分の身体があり、その身体の中に自分がいる、と思っています。それはそう思うように私たちの身体が(進化の結果)作られているからですが、私たちはそうは自覚せずに単に現実世界が当然ここにこうある、と思います。

現実世界はこのようにはっきりとここにあるわけで、感じられるもののすべてはこの世界の中にあるのだから、当然、それらを感じ取っているこの私もこの世界の中にある、と私たちは思っています。そういう世界の図式の中で自分が生きていると思うところから、私たちは互いに協力して社会を作っていく仕組みになっています。

そうであるから、客観的な現実世界を共有することは人間社会の基礎だといえるでしょう。そしてもし社会を維持することが人間の身体が物質的に生きていく必要条件であるとすれば、現実の共有はそのような身体を持つ人類が生き残るために必要であるから現実に存在している、ということになります。

このように人間の必要条件としての仲間との現実の共有ですが、たまにこの図式の整合性は破れることがあります。

この現実世界の中にいる私って何?とか、この現実の中に生きている私は何のために生きているの?とかの疑問が出てくる場合でしょう。自己遡及的というべき疑問提起です。これは哲学の問題のように見えます。実際、これは哲学です。

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生きるという生き方(6)

2012-05-13 | xx9生きるという生き方

なお拙稿の用語法では、先に述べたように、言語表現以外の概念形成、概念操作などを含めて広い意味で理論という語を使います。文化が作りだすこれらの理論は、皆、人間が生きるための実用的な理論として形成され継承されている、といえます。逆にいえば、私たち人間が毎日を生きるための実用的な理論を提供することが(拙稿の見解では)、文化の重要な役割だといえます。その役割を果たすことができた文化が生き残り、現代に伝わっている、といえるでしょう。文化の形態は、現代では、テレビや新聞やインターネット、書籍、先生の講義、口コミなどという形に変わっていますが、現代人が生きるために必要な理論を提供し続けるという社会的機能を果たしています。

ちなみに、これら(生きるための)理論を再生産する仕事は現代、情報通信を始め、マスコミ、教育、出版、エンターテインメントなど巨大な産業になっていて、これに従事する多くの人々の生活の糧にもなっていますね。産業は自己保存のために生産を拡大し続けるという経済法則がありますから、現代はこれらの産業活動により、毎日、続々と、この類の(生きるための)理論が再生産されている、とみることができます。

いずれにせよ、ある人が生きていると私たちが認めることは、その人が私たちの仲間と同じだと(身体反射により、あるいはさらに理論により)認めるということです。

ある人が生きているというとき、私たちは、その人が私たちと同じ姿をしていて、同じように身体を動かしていて、しかも私たちが感じ取っているこの客観的現実世界を同じように感じ取りながら行動しているであろう、という予測をしています。逆に、そういう予測ができるということが、その人が生きている、ということです。

また私たちは自分自身についても同じように感じていると思われます。つまり、私たちは、周りの仲間が自分の行動についてそういう(仲間として生きているという)予測をしているだろうと思えるとき、自分が生きていると感じます。言い換えれば、私たちはこの客観的現実を感じ取りながら行動している人間の一人として自分が生きている、と感じています。

私たちはふつう、自分がそうして生きていることは重要なことだと思っています。つまり自分がほかの人々と同じ客観的な現実世界を感じ取りながらその中に自分の身体があると感じている、ということが重要だ。そう思うことが生きるということだ。自分はいつもそう思いながら毎日を生きている、と思っています。こういう、ふつうの生き方を(拙稿においては)生きるという生き方だということにしましょう。

ふつう、人間はだれも、(拙稿がいうところの)生きるという生き方をしています。この生き方では、現在の予測にもとづいて、明日以降の未来に向けて常に生き続けることが必要です。客観的現実世界の中に自分の身体が置かれていることを確かめるためには、この現実が仲間の見ている現実と同じであることをいつも確認している必要があります。そのためには自分の周りにいる仲間の動きをいつも予測し、いつも見ている必要があり、そのためには明日以降の予測につながる現在の客観的現実をいつも感じ取っている必要があることになるからです(拙稿28章「私はなぜ明日を語るのか?」 )。

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生きるという生き方(5)

2012-05-06 | xx9生きるという生き方

いずれの文化も、客観的現実世界を共有する仲間としての生きている人間とはいかなるものであるかを見分ける理論を持つことに注意する必要があります。客観的現実世界を共有する仲間が正常な(正気な、ふつうの)人間であって、私たちは、その仲間に加わって現実の中に生き続けなければならない、と思っています。

どこの文化もどの宗教も、どの学校も、どの先生も、言葉を使って、あるいは表情やしぐさで、正常な人間のあり方を教えています。正常な人間を見分けることができるようにすること。それが文化の重要な役割です。

私たちの身体は無意識のうちに正常な人間を見分けて、その結果にしかるべく反応するようにできていますが、文化はさらに意識的に言葉や歌唱、絵画、演劇その他の表現によってそれを仕分けることができるように導いてくれます。

つまり文化というものは、正常な人間を、見かけは正常な人間に似ているけれども実はそうでないもの(死者、嬰児、狂人、動物、幽霊、化け物、ロボットなど生きた正常な人間に似ているニセモノ)から、しっかりと区別する理論を持っています。私たちは、いつもその理論を求め、その理論を確認するために仲間と会話し、テレビや新聞やインターネットを見たり、本を読んだり、先生の話を聞いたりします。

これらの理論は、ときに精緻な言語表現や画像形象になっている場合もありますが、ふつうはニュアンスで分るもの、あるいはコンテキストで分かる、あるいは語り方のトーン、表情、あるいはその場の人々が醸し出す空気や匂いで分かる、というような場合が多いでしょう。そのような私たちの分かり方から推測すれば、これらの理論は、人類共通の身体反射から来ている私たちの身体内部の反応を手掛かりにして作られている、と考えることができます。

ちなみに、理論という言葉は、狭い意味では、力学理論、経済学理論のように言語や数式で書かれた概念体系を指しますが、意味を広げれば、ある集団の人々が考えて行動するときの下敷きになっている共通の信念あるいは確信を理論と呼ぶことができます。一般に、このような広い意味の理論はその土台として人類共通の身体反射の上に作られているとみることができます。

ここで話題にしている理論、つまり、生きている人間を見分けるための理論に関しては、その土台となっていそうな身体反射は何でしょうか? 

これに対応しそうな身体反射として、動物、生きているもの、意図をもって運動している物体、をそうでないものから見分ける身体反射というものがあります。人類は、哺乳類共通の神経系の機構の働きにより、生きている動物の動きを瞬時に自動的に、身体反射として、予測する能力を持っています。たとえば犬や猫(あるいは人間)が次の瞬間どう動くかは、人間ならばだれでも(あるいは犬や猫自身も)、教えられなくても予測できます。この高等哺乳類にみられる身体機構の進化的起源に関して拙稿の見解に近い理論として、自分の身体を動かすときに使われる運動計画の神経回路を他者の運動予測に転用した機構が起源であるという学説(二〇一二年  ピーター・カルーサーズ 『幼児期の読心能力 』)があります。

人間が人間の動きや考えを予測する場合、赤ちゃんも大人も無意識的にこの(進化的に古い)神経機構による身体反射を使っています。人が正常な人間として生きているか、その人が私たちと同じ現実を見ているか、という推定がなされる場合、この動物的身体反射的な運動予測が使われていると(拙稿の見解では)推測できます。

言語を使用する大人の人間は、さらにこれを土台としてさらに言語表現を含めた各文化に固有な理論を使います。それは年長者に教えられたり、テレビや新聞で聞き覚えたり、仲間から感じ取ることで学習した理論です。文化により伝えられる理論といえます。人が死んだら幽霊になるとか、あるいは幽霊などは迷信だとか、文化により教える理論は違います。

私たちは毎日を生きるためにこれらの理論を絶えず使い続け、同時に絶えず学習し続けている、といえます。

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生きるという生き方(4)

2012-04-29 | xx9生きるという生き方

それは楽観的だとか、希望にしがみついているとか、いうことであるというよりも、人間の身体はそういう構造になっている、ということでしょう。

こういうところから、宗教的感覚、たとえば「草葉の陰から見ている」とか「神がすべてをお見通しだ」とか、あるいはより日常感覚的な「離れていても心は通じる」とかいう感じ方が来ているといえます。これは(拙稿の見解では)宗教の教義とは関係なく人間特有の身体感覚を直感的に言い表した表現から来ています。

このような理由で、人は本当の意味で孤独にはなりきれない。孤独になれないような身体の構造になっている。どんな場面でも、人間にとっては、仲間、家族、あるいはだれか見てくれている人、そういう人々がいる世界が自分の周りにある、と思いこむようになっている、といえます。

あるいは実際は仲間から隔絶された孤独な人でも、人間の身体は、元来、トーテム、守護霊、祖先霊、神仏など呪術的宗教的感覚に包まれていて、あるいは現代人ならば、テレビ、新聞、雑誌、インターネット、携帯アプリ、など現代的擬似的な世界体験に取り囲まれていることで、自分の周りに広がっている客観的世界の安定感を感じ取ることができます。あるいはそう思いこむような身体構造になっている、といえます。

人類のこのような身体の構造は、たぶん、それが群棲哺乳類としての生活に有利であったために進化した仲間との運動共鳴機構を担う神経回路から作られている構造でしょう。言語機能を備える人類は、特に堅固な安定した客観的世界を共有することができるので、ここから自己を含む現実世界の存在感を維持することができます。

逆に人類という動物は、この現実感覚の中でしか生き続けることはできません。モグラが、自分たちが作る巣穴の中でしか生きられないように、人類は自分たちの神経系が共鳴することで作り出している現実というバーチャルな世界の中でしか生きられない身体になっている、といえます。

私たち人間は、仲間と共に認め合い共有する現実世界の中でしか生きていけないと同時に、自分がこの現実世界に生きていることをかなり重要なことと思っています。この現象は、生物学的に人類の身体、特にその神経系がこのように進化した結果であるといえますが、そればかりでもない面がありそうです。

人類は緊密な社会構造を作り出し、集団ごとに固有な文化を創り出しています。人間集団に固有なそれぞれの社会、文化がそのメンバーに生き方を教え込んでいる、という面があることは明らかでしょう。

人類の文化には人類共通の部分と地域集団に固有の部分とがあります。言語の構造と同様に、文化も人類の身体構造に依存する部分の上に、集団的に世代継承されていく付加部分があるということでしょう。

拙稿本章のテーマである、生きるという言葉の使い方、に関しても地域集団に固有な世代継承されてきた部分があるでしょう。中世以降、現代にいたる歴史時代では特に宗教の影響も強いと考えられます。

ここまでに何度か指摘したように、「生きる」という言葉は通常、生物の生物学的な生死を指して言うと同時に、人間が仲間と世界を共有している、ということを指しても言います。ふつうの会話では、この二つの意味を特に区別せずに使います。新聞、テレビ、本、雑誌などの場でも、区別は意識されません。いわゆる哲学的な問答で、「植物人間は生きているといえるか?」とか、「動物に心はあるか?」などという話題が出るような特殊な場面でだけ、二つの意味が分離されることがあります。

拙稿にとって興味があるのは、哲学問答よりも、むしろ同じ「生きる」という言葉が意識されずに多義的に使われているという事実です。

世界のどの文化でも、「生きる」という言葉は、生物学的な状態認知に関しても人間の存否に関しても区別なく使われています。この点で、おおまかには「生きる」という言葉は人類共通の使われ方をしている、という基本は認めてよいと思われます。

ではその使われ方を詳細に見ていくと、文化による違いはどうか? ほとんどの言葉の使われ方において、細かいところは、言語、方言、文化によって違います。

また実際、国や時代によって「生きる」という言葉の使い方は少しずつずれています。たとえば、人が生きるという状態を侵害する殺人罪を定義する法律など、各国で少しずつ違います。堕胎や尊厳死の認否など国や時代によって少しずつ違いがあります。どれが正しいかということとは別に、違いがあるところに文化あるいは宗教倫理の影響が表れているといえます。

当然のこととして行われている現代の法律や習慣の背景にある人々の伝統的無自覚的な慣習や民間信仰などを調べると、人間が生きる、ということをどう捉えているかに文化の違いがはっきりと読み取れます。

たとえば、未開人の堕胎、間引き、生贄、葬儀、刑罰、病気祈祷などに現代人から見ると奇怪な風習が観察されますが、これらの文化を支える感覚は現代人の文化の底流にも見つけることができます。それぞれの文化が、「人が生きる」という概念をどのような理論で支えているかを表しているとみることができます。

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生きるという生き方(3)

2012-04-21 | xx9生きるという生き方

そもそも、ある人が生きているかどうかが私たちの内部に起こす変化とはどういうものなのか? その人が生きていれば、私たちはその人とこれからどういうふうに関わるのだろうか、と思います。その人がこれからすることは何だろうか、と思うこともできる。しかしその人がもう生きていない、となると、こういうことを思うことはありません。

その人が生きていてもうすぐ会える、とか、明日会わなければならない、とかいう場合、私たちはその人と会ったときどういう関係になるのか考えます。予測します。どうしようか、とか、どうなるだろうか、とか、期待します。もうしばらくは会わないという関係ならば、あまり深く考えませんね。それでも、時々思い出してどうしているか、と知りたくなったりします。

ある人が生きているか生きていないかということは、こういうことでしょう。それはその人のことを語ったり、思い出したりする私たちの内部の問題である、といえます。

こういう使い方をするために、私たちはそもそも「生きる」という言葉を作って、長い間使っていた。そのうち意味がだんだん広がってきて、「生きる」という言葉は、生物が生存するというような意味になりました。この使い方では、「生きる」という言葉は、客観的に見て生きているかいないかを示すために使われます。この新しい言葉の使い方は、物事を客観的にあるいは科学的に正確に記述するのには便利でよかった。しかしまた人間は、自分自身をも客観的に語る必要を見出してこの語を使うようになる。そうなると、自分を含めた物事を客観的に語るにはますます便利になる反面、いわゆる自己遡及的表現からくる哲学的混乱が現れてきます。

「私が死んだら」とか「私は生きているから」とか自分について語る自己遡及的表現は、すぐに哲学的混乱を呼び起こします。この哲学的混乱を何か神秘的で深淵なものだと錯覚すると、「いのち」、「人生」、「自分の死」というような神秘的概念に思いを巡らすことが高尚な哲学のように思い込んでしまう恐れがあります。

この問題に関して拙稿の見解を言ってしまえば、これは言葉の使い方の混乱であって、神秘でも高尚でもない。「いのち」、「人生」、「私の死」というような言葉は、もともと意味が混乱するように作られてしまった不安定な概念です(拙稿7章「命はなぜあるのか?」第2部p25拙稿第3部「私はなぜ死ぬのか? )。こういう言葉を深刻に受け取ることは危ない。薄氷の上を歩くように、すぐ踏み抜いてしまう恐れがあります。

人が、生きる、というとき、私たちは問題なくその言葉を使うことができる。しかし、私が生きる、というとき、私たちはその意味をきちんと理解することはできません。

私たちが、ある人が生きていると思うということは、いずれその人に会えるだろう、あるいはその人がこれからすることを見聞きすることができるだろう、と思う、ということです。私たちが「ある人が生きている」というとき、話し手も聞き手もそう思っています。ところが、話し手が「私は生きている」といったとすると、これは奇妙な言い方に聞こえますね。しかしこれは文法的には誤りではありません。文法で形式的に説明すれば、この文は、「ある人が生きている」という文の第三人称の主語を第一人称に置き換えた文だというだけです。

実際、どんな場合に「私は生きている」という文が使われるのでしょうか?

「おーい、聞こえるか?ジョン!生きているか?」「俺は生きているよ」というような場面。マンガではよくありそうです。

「俺は生きているよ」という返事を聞いた聞き手は、ああよかった、ジョンと一緒に家に帰ることができる可能性が残っている、そうなるようにがんばろう、と思うでしょう。そう思うことが「私は生きている」という文の意味です。しかし特殊な意味ですね。注意しなければいけないことは、このような意味は、聞き手にとっての意味でしかなく、話し手にとっては変な意味になっている点です。実際、「私は生きている」というとき私は生きているに決まっているし、私が生きていないときは「私は生きている」とも何とも言うはずがないのですから、この文は話し手にとって何の情報もない。

これは独り言で「私は生きている」というときにも当てはまることです。「私は生きている」と独り言を言ってみたところで、何も意味がない。生きている私が「私は生きている」と言っているだけで言っても言わなくても何も変わらない、と思えます。つまりこの文は、これを語っても聞いても、新しいことが分かるわけではない。そうであるとすれば、「私は生きている」という文の内容は空虚なのではないか。意味はカラではないか、と思えます。

しかし、そう簡単に切り捨ててしまわないで、もう少し、この文を口にする場合の話し手の気分というようなものを想像してみましょう。

拙稿19章(私はここにいる )である小説の例を引いて書きましたが、声を失って瀕死の悪役が筆談で「私はここにいる」と書き残す。このとき、この「私はここにいる」という言葉は独り言ではあるが、それと同時に相手役、読者、あるいは世界中のすべての人間に対して叫んでいる言葉でもある。「私がこれから何をするか、それを見てくれ。私がこれからすることを、あなたと同じ人間が何かを思ってしているのだと認めてくれ」と叫んでいる、といえます。それは、もちろん、自分がそう思いたいからです。そう思うことで、自分が生きていると感じることができる。人はだれもが、死ぬ間際に、あるいは日常的にいつでも、そういう気持ちを持っている、ということでしょう。

人が生きている、という言葉は(拙稿の見解では)、人が仲間とともに客観的な世界を共有している、という意味です。これは現代人の間でよく使われている医学的生物学的な生死の概念とは違って、生きているという言葉のもともとの意味だった、といえます。医学的生物学的な生死の概念は、近代以降、科学が発展するにつれて、言葉が作られたときの元来の意味から外れていって物質現象を描写する概念になってしまった、といえます。それはそのほうが、近代あるいは現代の社会で物事を語り合い、適切に処理していくのに効率的であったからでしょう。

時代とともに言葉の意味がずれていくとしても、いずれにせよ、どの時代でも、人は仲間とともにこの世界の中にいる。自分で自分はそうだと思っています。人間は皆そうだと思っています。そう思うことで生きている。そういう生き方がふつうの人の生き方でしょう。つまりこれは、いわば、生きるという生き方です。

それで、そうでない生き方があるのか?そういう疑問が考えられるでしょう。しかし、生き方、という言葉で言ってしまった瞬間に、私たちは、仲間とともに客観的な世界を共有している、という暗黙の前提を認めてしまっています。

そうでなければ、生きるという言葉の意味が出てこない。現代人の私たちが語り合うときでも、人が生きる、というときの言葉の意味は、単に医学的生物学的な生死をいっているのではなくて、その人が何かをしている姿を仲間に見られている、認められている、という暗黙の想定があります。

互の姿を注目し合う仲間がいて、互にこれからどう動くのかを注目し合っていて、仲間のその視線を意識しながら動く場合に、人は生きている、といえます。極端な例として、まったく人の目から隔絶された空間に生息する人がいたとして、その人がしたことが他の人々から見てまったく痕跡も残らないとしたら、その人は生きていたとはいえません。その状況を本人も理解していたとすれば、自分でも生きていると思えないはずです。ただし、ふつう本人はそういう絶望的な状況でも自分の置かれた状況を正しく理解できずに、自分が今生きていることで何らかの生きた痕跡が残り、いつかだれかがそれを見つけてくれるだろうと楽観的に想像するものですから、自分が生きていないと思う人は実際、現実の人間としてはいないでしょう。

つまり、人間はどんな状況に置かれていても、たとえ絶望的な孤独状態にあっても、あるいは明らかに目前に死が迫っていても、自分がこれからしようとしていること、あるいはいま思っていることが何らかの痕跡を残していつの日かそれがだれかの目に触れるはずだ、という思いを捨てることはできません。

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生きるという生き方(2)

2012-04-07 | xx9生きるという生き方

私たちにとって知っている人が今生きているかいないか、ということは、このように、生物としてのその人の身体の生死という物質的問題とは違って、私たちの内部がどう変化しているか、という問題です。この点に注目する場合、人の生死はほかの生物の生死とは本質的に違うカテゴリーの現象である、というべきでしょう。

拙稿本章では、この問題、つまり、(生物にとってではなく)人にとって生きるとは何か、について考えてみようと思います。

現代日本語では、人の生き方、という言葉がよく使われます。さまざまな人生の選択がある、という現代的な思想が背景にあるのでしょう。身分制の江戸時代などにはあまり使われなかった言葉だろう、と思われます。その、人の生き方、ですが、やはりこの言葉も客観的な事実を言っているのではなくて、これを語っている話者の視座からその人を、特にその社会的関係を、どう感じ取れるか、という観点で語られるようです。ある人の生き方、というものはそれを語る人がそれをどう感じ取っているかについて語るものといえるでしょう。

たとえば、「A子は五人の子を育て上げた献身的な母として生きた」という記事があるとします。その記事を書いたのはジャーナリストのP氏でした。P氏は、五人の子を立派に育て上げた母親はどんなに献身的だっただろうか、と思いながらこの文章を書きました。この文章には、P氏のその気持ちが表現されています。

P氏はA子の生き方に感じるところがあって、この文を書いた。人が人の生き方について何か言葉を使って語るときは、必ずこのような共感、反感あるいは何か語り手自身の内部に呼応するようなところがでてきます。

これに対して、たとえばA子が犬だったとした場合の文章を考えてみましょう。

「A子は五匹の子犬を育て上げた母犬だった」

同じような形をしているけれども、この文の語り手は、人間の母親像を描いた前の例文とは全然違う感情をもってこの文を書いたように読めます。この文を書いた人の内部がこの文に表れているでしょうか?そんな感じはしませんね・

もっと極端に非人間的な記事。

「クレーンAは五棟の高層ビルの建築に使われた」

こうなると、書き手の内部など全然関係ないという感じです。

これらの例のように、人間の生き方についての言語表現は、物質現象のような形式で言語表現されたとしても、物質現象そのものよりもむしろ、それを記述する書き手の内部を表現するものである、といえます。

もし私たちがA子を知っているとすると、A子が生きていると思う場合と、A子がもう死んでしまった、と思うのとでは、私たちの内部がかなり違ったものになっています。逆に言えば、A子が生きているということは、A子にとって重要なことであると同時に、A子の知り合いである私たちにとってもある程度重要なことでもある、といえます。

このように、ある人が生きているか生きていないか、ということはその人の身体が医学的生物学的に生きているかいないかという事実とは別に、私たちの内部にかなり重要な変化を起こしている、といえるでしょう。その、生きているかいないかが問題になっている対象が、仮に、人間ではなくて、たとえば魚だった場合、ふつう私たちの内部に違いは起こりません。それが野に咲くタンポポだった場合など私たちの内部に何かが起こるはずはありません。

生きているかいないかが問題になっている対象が人間である場合だけ、私たちの内部にはっきりとした変化が起こる。それが「生きる」という言葉の重要な特徴です。

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