幼い子供が一番人生を楽しめる。何も知らない。知ることが最高に楽しいときでしょう。子供のころは幸せだった、と私たちは思いますが、たぶんにそれは無知という特権、ものを知らなかったから幸せ、だったのでしょう。
大人もまた、実は、無知という特権を楽しんでいます。朝、新聞を読むとき、テレビを眺めるとき、インターネットをチェックするとき、うわさ話を聞くとき、(少数の人ですが)学校で先生の話を聞くとき、マンガや本を読むとき、私たちの身体はそれと知らずに実に楽しみにゆだねられています。
今日のニュースを知りたいから新聞を読む?話題の芸能人の顔をのぞきたいからテレビを見る?それはそうでもあるでしょう。しかし私たちはそれ以外の理由を持っている。ただ、何か、何でもよいから、新しいことを知りたい。
ニュースとは、新しいことです。新聞とは、新しいことを読むものです。テレビとは、遠くのものが見えることです。新しい知識を求めるために、私たちは多くの時間とコストを費やしている。生活の必要のために、というよりも、それが生活であり、生活の目的であるかのようです。
人生で損をしないために知識を求める。大人はそう思っていますが、本当にそうなのか? それが実は楽しいから、楽しすぎてやめられないから、自分がそうする理由を損得にすりかえて納得しているのではありませんか?ダイエットを理由にしておいしいサラダを食べているお姉さんのように。
もちろん、知識を得ることで得もする。その場合、自分は利口なことをしているのだと思えるから気持ちがいい。そうであっても知識を得ること自体が楽しい、という無知の特権を行使したことでもあります。
そうして得た知識の分だけ自分の無知は減る。無知という特権が減ってしまうのです。そちらの損はどうなのでしょうか?地球上の名所旧跡を全部観光してしまうと、あとは宇宙にでも行くしかなくなる。文庫本を全部読んでしまうと読む本がなくなる。全部のミステリー作家を読みつくしてしまう。あらゆる女性を知りつくしてしまう。人生がつまらなくなる。そうして人は老いていく、ともいえます。
地球上で発明発見され、あるいは創生されてくる新知識が今までのものよりも魅力的であればよいのですが、そうでない場合、非凡なものが生まれてこない場合、陳腐な発明しか出てこなくなった場合、人類全体の無知の特権は日々減っていきます。
人類全体が老い衰えていく、という事態を想像するのはいやですね。そうならないためにも、インターネットで知識の二番煎じ三番煎じをしてばかりいるような昨今の知識の消費は、やや控えたほうがよいのかもしれません。■
(45 無知という特権 end)

しかしこういうことは損得の話とちょっと違うでしょう。どうも損得や必要不必要という理由で私たちはドラマを見るのではない。勉強でも本来は損得や必要によるものではないでしょう。ではなぜ、私たちはドラマを見たり、インターネットを見たり、本を読んだり勉強したりするのか?
人間は生まれながらに、知識を求めるような身体になっているようです。だから人の話を聞くのが楽しい。テレビやインターネットが楽しい。読書が楽しい。あるいは(少数の人ですが)勉強が楽しい。観光が楽しい。イベントが楽しいのです。
知識を得ることがおいしい料理を食べることのように身体が求めていることであれば、それが身体にも良いし、生活の基盤にもなっているし、仲間との交流にもなっている。もっともだと納得できます。
知識が食べ物のようであれば、摂取された分は代謝されて消えていくので、毎日新しく摂取する必要があります。骨のように身体の構造になって蓄積される分もいくらかはありますが、多くは分解されて消えていきます。まあ骨も徐々に入れ替わります。
食事の間隔が開くと、おなかが空いてきて食事をする。退屈すると何かを知りたくなって人と会話したり勉強したりテレビを見たりする。似ていますね。空腹が軽い場合は、すしは食べたいがてんぷらはいやだ、とか言いますが、空腹が続くと、何でもいいから口にしたい、となります。知識欲もひどくなれば、何でもいいから新しい話を聞きたい、どんな本でもいいから読みたい、というところまで行きます。ふつうの生活ではありませんね。
食事をおいしくいただくためにはまず空腹が必要です。知識を楽しむためには知らないことが肝要。無知がよい。知ることを楽しめます。推理小説を楽しむには犯人を知らないことが必要です。横からのぞきこんで犯人を教えると、本を投げつけられます。

たとえば物の値段、物価の知識。インターネットで調べたり人と語り合ったりすれば、その町でその物を買える値段が分かります。天丼は千円で食べられるか?パソコンは三万円でどんな性能のものが買えるだろうか?
生活の知識。コンセントの右の穴は7ミリメートルで触ると感電するけれども左の穴は9ミリメートルでアースされているから感電しない。東京ではエレベーターの右側を歩く人が多いけれども、大阪やほとんどの外国では左を歩く人が多い。日本では車は左側通行だけれども米国では右です。「知らなかったので逆を走ってすみません」と言ってもお巡りさんは違反切符をくれます。
法の不知は許さず(ignorantia juris neminem excusat)という法学知識。お巡りさんはなぜ寛容でないのか、市役所の窓口はなぜ堅苦しいのか、という知識も生活には必要です。
無知は損する。知っておくと便利。だから勉強しなければいけません。いつもアンテナを張って情報をチェックする必要がある、といわれます。
しかし、知識を無限に求める生活は、なにか虚しい。
何も知らない子供時代はよかった。言葉を知らない幼児は聖なる時間を過ごしています。無知が至福であるならば知識を持つことは愚かだ(Where ignorance is bliss, 'tis folly to be wise. {Thomas Gray 1742})、と思えます。
私たちは損をしないために知識を追い求めているのか?それとも賢くなることそれ自体に価値を認めているのか? それとも仲間と楽しく会話をするために知識を必要とするのか?
たとえばドラマを見て泣いたり笑ったりする。ドラマの登場人物たちと自分や家族の境遇を比べて感慨を持ったりする。人生はこんなものか、と思ったりする。あるいは時代物を見て歴史の知識を仕入れたりもする。
それで賢くもなるでしょう。そういう場合、そうしない時と比べて得なのか?損が少ないのか?

このように知識の蓄積が進んで普及しきってしまう結果、かつては重要な知識であったものが、無用な、歴史マニアだけが楽しむような知識に退化してしまいます。
これらの例は特殊なものに見えますが、実は、あらゆる知識がいずれはこのように退化する運命にあります。時代が進めば、現代のどのような常識であろうとも、それが実はプリミティブな幼稚な思い込みであったことが分かってしまうでしょう。
科学知識や人間社会、人間心理に関する知識を含めて、今日私たちが信頼し行動のよりどころにしている種々の知識は、未来の文明人の目から見れば、ほとんどは間違いであって、底の浅い、幼稚な思い込みということになるのでしょう。
この世の現実を私たちはどのように理解しているか? それは、目で見えること手で触って確かめられることのほかに人に聞いたこと、テレビで見たこと、新聞で読んだこと、学校で習ったこと、家族や友人との会話、世間話、などで知ったことによります。つまり、種々の知識で私たちは現実を理解している。
われわれが現実であると思い込んでいるこれらの知識はなぜ現実であるように受け取られているのか?
それは、これらの知識によって表される物事を現実として行動するとき、けっこううまくいくからです。つまりこれらの知識が現実に役に立つからでしょう。これらの知識を使って私たちは産業社会を維持し、食料その他生活に必要なものを入手しています。そしてそれら知識の有用性についてだれもが納得して使っている。だれもがそうであると思っていることは正しい、と思えます。逆に言えばそれが正しいという言葉の意味である、といえます。
私たちは日々正しい知識を拾い上げそれらを身に着けて、毎日を生き抜いていきます。それらの知識があらわす現実が真の現実であって、そうでない話は現実ではない。そこを見分けながら私たちは毎日やっていく。そういう知恵を持っています。
私たちはそれぞれが持っている情報を交換し合って、会話をかわしながら、協力して真の現実を見分けていきます。役に立つ知識を、集団的にというか社会的にというか、無意識のうちに協力して皆で作り上げていきます。たとえば科学。たとえば政治、経済。かしこい買い物の方法。グルメ情報。処世術、健康法、蓄財法。就活、婚活。それらについて語り合い、その知識が実用的であるかどうか、使ってみた経験を交換し合って、つねに正しい現実をつかみとっていきます。
逆にいえば私たちが語り合うために知識を交換する必要がある。そのために毎日現在の現実を表す知識が見つけられる必要がある。そうであるとすれば、知識はそれをもって人と語り合うためにある、といえる。

たとえば、辞書など要らない。インターネットで足りる。図書館も要りません。インターネットで間に合います。新聞もテレビもインターネットで代わりになる。なにもかもインターネットをスマートフォンなどで検索すればよい。
しかし、逆に言えば、インターネットで読めるような知識はたいして役に立つものではない。どんな知識にも、表面に出ているその知識を作り出す元の知的文化というものがありますが、それが身についていなければ表面的知識は実際の役には立ちません。インターネットで知識を読んでそれが役に立つと思っているようでは元の知的文化は理解できていないということでしょう。
たとえば、なぜ私たちはこれほど多くの言葉を語りださなければならないのか?なぜ無料の情報を信頼できるのか?なぜ匿名の情報であっても信頼できるのか?インターネットに答えは書いてありません。
知識というものは多ければ多いほどよいというものではありません。ある分野の知識はある程度以上に蓄積されてしまうと、その分野の存在価値を減じる方向に働く場合がある。その価値を滅ぼすこともある。たとえば暦学が発展して近代天文学を生み出し、それによって地球の公転自転が正確な知識として確立されてきた結果、暦学は滅びました。生物分類学が発展して進化論と遺伝学を生み出した結果、分類学はそれらの学問から派生する位置に追いやられました。
将棋は奥深いゲームですが、数学的には決定ゲームであるので、コンピュータが十分膨大な計算を実行できるとすれば必勝法あるいは不敗法が必ず見つかるはずです。仮に将来すべての差し手の勝敗が計算しつされてしまったとすれば、プレーヤーはその計算結果にしたがって毎回負けない差し手を選び続けるだけで絶対に負けない戦法を取ることができる。
つまり遠い将来ではありますが、将棋の研究が進めば進むほど、蓄積された知識が深まれば深まるほど、将棋は結果が明らかなトリビアルなゲームになってしまい面白みが失われる運命にある。チェスも囲碁も同じ運命にあります。
漢字の書き順などもパソコンのおかげで不要な知識になってしまいます。電話番号も記憶する必要がない。そろばんはもちろん、筆算も実際上、現代人は使わないでしょう。

いくら勉強しても、テレビや動画を楽しんでも、まだ知らないことが多すぎる。いや、私たちが過去に書かれた知識を勉強したり今日放映されたテレビを見たりしている間に、世界では、その数千倍の知識が作られ、もっと重要な事実の発見がされたり、もっと面白い番組やドラマが作りだされたりしているのです。どうせそうであるならば、ぜんぜん勉強しなくても事態はあまり変わらない、といえるのではないでしょうか?
こういう事態は、百年ちょっと前にはなかった。それ以前の時代には、ほんの少し勉強すればたいへんな知恵者になれました。明治時代初期には小学校卒業でインテリでした。今は大学院を出て博士になっても学者の卵でしかない。それも実に狭い専門領域での最先端知識を持つと認められるだけです。むしろ、世界に充満しているほとんどの情報や知識には疎くなっています。
学問のような高尚な話に限らず、たとえば、おいしいものの知識は毎日爆発的に増えています。テレビをつければタレントさんたちが「おいしい!」を連発している。インターネットはグルメの店を無限に紹介してくれます。しかし人はふつう、一日三回しか食事は食べられません。一食失敗しておいしいものを食べ損なったら、そのおいしかったはずの一食の機会は人生から失われる。世界は、とんでもなくおいしい食べ物が毎日新しく湧いて出てくるのですから。
面白いビデオを見るのも大変です。二時間ドラマなど見てしまうと、その時間にほかの映画や動画を見る機会は失われる。インターネットであらすじや評判を見ておいて、正しい選択をしようとしても無理です。実際見ると聞くとは大違い。つまり勉強と同じですが、全身を打ち込んでしないと、本当に正しい知識を身につけて楽しみを味わうことはできません。
しかし時間が足りない。試行錯誤して正しいものを見つけている暇はありません。人生のわずかな時間に何を選択すればよいのでしょうか?
どう選択しても得られる知識はごく限られていて、ほとんどの知識を知ることができないまま人生が終わるとすれば、そんなわずかの知識など得られなくても、事態はあまり変わらないのではないでしょうか?
たとえばインターネットの閲覧などは、使うのを一切やめても、人との話題に困ることはあっても、生きていかれないというほどのことにはならないでしょう。新聞など読まなくてもあまり困りません。テレビもビデオも見なくてもすむし、本も雑誌もまったく読まないという生活もありでしょう。
学校についても、大学院にいかなくても困らない。大学にいかないと就職に困りますが、ほかに十分な収入源があれば、それも困りません。ということで、大学にいく必要がなければ高校にいく必要もなし。部活がないと困るという人は、スポーツクラブなどに入会すればよい。つまり、世の中が今のようでないとすれば勉強などする必要はありません。
むしろ現代においては、知識など努力して手に入れるものではないでしょう。いやでも、情報は入ってくる。知識はあふれかえっています。これ以上知識を集めるよりも、整理して捨てることが大事です。
(45 無知という特権 begin)
45 無知という特権
アレキサンドリアにあったプトレマイオス朝の図書館は、最古の学術の殿堂といわれ、七十万巻のパピルスが所蔵されていた、といわれています。現在、世界最大といわれる大英図書館には、一億七千万点の出版物が収められています。どのくらい多いというべきなのか、表現に困りますが、毎日図書館に通ったとしても、全部読むには十万年はかかるでしょう。
現代社会では、インターネット、特に動画あるいはテレビ・ビデオの普及により世界を駆け巡る情報量は爆発的に増加しつつあります。毎日DVD数億枚分の情報が作り出されており、その増加速度は年々加速されています。しかしその情報を消化するはずの人間の数はそれほど急には増えないし、情報を吸収する時間は睡眠時間を多少削ったとしてもそうは増えません。したがって、毎日未消化の情報が増えていることになります。
ゴミのような情報がどんどん増えている、ゴミ情報が世界を駆け巡っている、とはいえます。しかし、ゴミもこれほどの量であれば、その中にわずかのパーセントあるいはppm(百万分の一)くらいでも貴重な情報が含まれていたとすると、相当量の重要知識が毎日増えていることになります。まあ、重要情報もゴミまみれでどうやって見分けるのかが大問題ですが。
私たち、今日を生きている人類は、間違いなく歴史上最大の人口になっているし、最高の富と知識を蓄積しています。したがって優秀な人の数も、産業設備や科学機器の量も性能も、歴史上現在が最大になっている。
人類が抱えているあらゆる重要な問題は多くの優秀な人々が研究しているし、毎日、重要な発見がなされ、発明がなされています。それらの知識を普及し教育する人も歴史上最大の規模で活動しています。歴史上かつてないほど、知識の普及が行われ、あらゆる知識は地球上に、指数関数的に、蓄積されつつあります。
現代では膨大な数の人々が歴史上最高の知識を手に入れることができる。可能性としてはそうなっています。
知識は力なり(scientia potentia est)という。
これほどの膨大な知識が日々流れ込んでくる現代世界に生きている特権を生かして、私たちがそこから重要な知識を拾い上げて吸収することができれば、それこそ歴史上最高の賢人になることができるでしょう。
しかし現代人が昔の賢人たちより本当に賢いか、というと首を傾げざるを得ない。
問題は、個人が知識を吸収するには時間がかかるということです。勉強しなければ新しい知識は理解できない。字を読むばかりでなく、テレビや動画を見て笑ったり泣いたりすることも知識の吸収とみなせば、一日の吸収知識量はかなり増えます。しかし限界がある。眠りながらテレビを見ることはできません。
結局、膨大な知識を吸収するためには膨大な時間が必要なのであって、実際には個人がそれをすることは不可能です。では、インターネットの検索機能を使いこなして、膨大なデータから搾り出した上澄みのごく少量の最高品質のエッセンスを個人が取り込むことはできないでしょうか?
そういう夢想もしたくなります。しかしどうもそういうことに成功した事例はないようです。インターネットを使いこなして賢人になった人もいそうにない。人工知能を使って、ビッグデータから売れ筋の商品を選び出すことはすでにある程度の成功例がありますが、最高の知識というものではないでしょう。
結果としては、残念ながら現代の膨大な知識の量を使いこなしている人はどこにもいない。現代の私たちは、昔の人たちに比べて平均的には良質の知識を持っているのでしょうが、個人レベルでは、昔の賢人に比べて図抜けて賢いということはない。
それはたぶん、膨大な知識の使いこなしによって最高レベルの知識を得ることは、実は不可能だということなのでしょう。つまり現代社会にあふれかえっている知識の膨大さは、単に量が驚異的に巨大なだけであって、驚異的に役に立つというものではない、といえます。
人生の数だけ歴史がある、とすれば、歴史の教科書はどんどん厚くならざるをえません。特に、人口が爆発的に増えた二十世紀、二十一世紀の歴史の記述ページ数はどうなってしまうのでしょうか?歴史学者も細かく専門別にならざるをえない。西洋中世史の専門学者です、などといえるうちはよいが、2010年代史の専門家です、とか、2015年専門の歴史家です、とかいうことになってしまいます。
科学者の数に比例して発明発見が増えるとすれば、科学論文の量は爆発的に増えていく。機械やコンピュータは爆発的に便利になっていくし、科学知識も急速に増えるから、科学者も専門分野を勉強するだけで精一杯でしょう。だれも科学全体は分からなくなる。それで大丈夫なのか?