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哲学の科学

science of philosophy

貨幣の力学(11)

2014-05-03 | xxx8貨幣の力学

現代社会という特殊な環境が人類の身体の潜在的な特徴を浮き出させている例はいくつもあります。たとえば、メタボリックシンドローム。肥満が成人病を引き起こして死因の多くを占めている。アルコール依存症、ニコチン依存症。あるいは人口爆発、あるいは逆に少子高齢化なども現代社会に対応する人類の身体機構の異常適応ともいえます。

これらの現象は、狩猟採集生活に適応して進化した人類の身体が現代社会の環境に過剰反応している例である、とみなすことができます。通貨システムの蔓延という現象もこの異常な身体適応であると言うと、奇異な議論に聞こえてしまいそうですが、現象としては似ています。

人類以外の動物は目の前の餌や異性にかぶりつきますが、人類はそうではない。人類の身体機構は、目の前にある餌や異性を獲得する行動よりも別の行動を優先するように作られている、といえます。それは集団行動であったり、予防的行動であったり、ときには儀礼的あるいは宗教的といわれる行動であったりします。要するに人類という動物種は社会的価値が高いといえる行動を優先する場面が多い。

私たち人類の身体は、他の動物に比べて特に、社会的価値に強く共鳴する機構になっている。人間は、物質的な環境に適応するためである以上に、仲間と作っている社会に適応するために物事や自分の身体を操作することを優先する。

そうなっているとすれば、貨幣を獲得することのように社会的価値の高い行動は、栄養価の高い餌や繁殖機能の高い異性を獲得することに優先するはずでしょう。逆に言えば、そのような人類の身体機構が貨幣の出現をもたらした、といえます。

私たちの身体がお金に鋭敏に反応し、その反応を基礎として社会が構成され、人生が構成されている。たしかにこれはうまくいっています。逆に、通貨システムが成り立っていなければ、現代の高度な産業システムも高効率の生産性もありえませんから、私たち現代人の生活そのものが成り立ち得ないでしょう。

それにつけてもお金が欲しい。私たちのこの思いが社会を成り立たせています。

なぜお金が欲しいのか、生きていくためにお金が欲しい。物を買いたいからお金が欲しい。あるいは、なぜ欲しいのかよく分からないけれどもお金が欲しい。皆の口癖をまねて言っているうちに欲しくなってしまうのかもしれません。お金が欲しいと言ってしまうから買いたいものを考えてしまうのかもしれません。いずれにしても、私たちが自分にはお金が必要だと思っていることは事実です。その事実を土台として現代の社会は築かれている、といえます。

お金なんかいらない、と私たちが本気で思ったならば、その瞬間に現代社会を成り立たせているすべては崩壊するでしょう。しかし本気でそれを心配する必要はありません。なぜならば(拙稿が主張するように)私たちの身体がお金なんかいらないと本気で思うような構造にはなっていないことを、現代人はだれもが知っているからです。■

(38 貨幣の力学 end

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貨幣の力学(10)

2014-04-26 | xxx8貨幣の力学

個々人に働くお金の力はよく分からない。人により事情により違う。しかしマクロ的なお金の働きは、経済学によりよく分かっています。変動をならす効果のある為替取引や経済政策も作れる。だから通貨システムはある程度の不確定性の範囲内でよく安定しています。その価値に大きな変動はめったになく、ほぼ(物価、為替など変動量として)安定している。それゆえに、貨幣は貨幣として働く。

個人が生活のために毎日お金を必要とする。その事実を基盤としてお金は価値を維持しています。逆に言えば、各個人が生活のためにお金を必要としないとすれば、貨幣は成り立ちません。

社会に、いったんお金が普及してしまうと、その後、お金は使われ続ける。政権が変わったり、他国に支配されたり、極度なインフレになったりすると、貨幣の信用は失われて他国の通貨や、新発行の貨幣に置き換わったりするけれども、短い混乱期が過ぎると、依然としていずれかのお金が使われ続けることには変わりがありません。

このように近代以降の社会では、どんな状況でもお金は使われている。使われ続けている、という事実があります。この事実から考えると、近代以降の社会は、お金がその土台をなしているのではないか、と思われます。つまり現代に至る近代以降の社会は、通貨システムをその基本構成要素として成り立っている、といえるでしょう。

現代では、社会のだれもがお金という共通の価値観を共有している。そのことで社会は成り立っている、といえるようです。

現代、世界中のどの国の人であっても、お金の重要さを知っている。生きていくためにお金は必要であり、さらにたいていの場合お金さえあればなんとか生きていかれる、と思っています。お金の重要性の上に、すべての人の人生が成り立っている。社会全体がその上に成り立っている、と思っています。

現代ここまですべての場面において重要なものとなっているお金というものが、たかだか一万年ほど前の歴史時代に至って突然現れた現象であって、遠い過去の貨幣がない時代の人類にとってはまったく無関係の存在である、というのは無理があるでしょう。

これは結局、もともと人類の身体構造に、お金のありかた、通貨システムというものを支える機構が埋め込まれている、ということなのではないか?そしてそれは貨幣が存在していない時代にももちろんそうであったし、さらには人類発生のときからそうであったはずだ、ということを表しているのではないでしょうか? 

もしそうであれば、人類はもともと、遅くとも十数万年前から、現代の通貨システムのようなものに適合する身体機構を持っていた、ということになります。そして現代に至ってその身体機構が顕在化してしまった。あるいは現代社会が、人類のその特徴を顕著に浮き出させるような環境を提供することになった、ということでしょう。

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貨幣の力学(9)

2014-04-19 | xxx8貨幣の力学

会社や銀行や政府に集積された多額の金額を扱う少数のエリートたちだけで、貨幣システムは維持できません。このシステムは、生活に必要な貨幣を財布、あるいはクレジット口座から毎日出し入れしている無数の人々がいなければなりたたない社会的機構だといえます。

毎日の生活に必要な物を確保するために貨幣を数え、収入をはかり、支出を管理する多数の人々の真剣な努力の対象であることによって、貨幣はその社会的機能を維持する。

貨幣が社会的に価値を維持できる基盤は、中央銀行の発券制度でもなければ、金や他国貨幣あるいは国際通貨との交換レートでもありません。また仮想通貨のような交換相場でもなく、投資家の人気でもありません。あらゆる貨幣の機能を維持している基盤は、無数の無名の人々が日々の生活のために常に一定の価値の貨幣を必要とするところにある、といえます。

無数の無名の人々がお金を必要とする理由が、生活にとって切実なものであることが、貨幣システムの安定のために必要です。生活のため、生存のため、苦痛から逃れるため、食欲を満たすため、安全な住処のため、結婚のため、出産と育児のため、娯楽のため、それらの毎日の必要を満たすために貨幣がどうしても必要であれば、そのような貨幣は社会にしっかりと根付くことができます。逆にこういう毎日の必要に使われない貨幣は貨幣として成り立たないでしょう。

無名のある人が、一宿一飯のためにいくらの貨幣を思い浮かべるか、携帯電話代にいくらの貨幣を思い浮かべるか?靴を買い換えるためにいくらの貨幣を必要と思うか?その金額が、お金の価値を維持しています。

その金額は人により環境により時期により、毎日少しずつ変化するでしょう。個別の変化は予測できません。それでもその集積量はマクロ経済として表現され、予測できる法則に従って動いて行きます。

貨幣が個々の人間に働く力学をいくら詳しく観察しても、マクロな経済は予測できません。逆にマクロな経済がうまく予測できるからといって、個々の人間にとっての貨幣の働きは理解できません。

実務的な必要から経済学は、マクロな通貨量の予測理論として発展してきましたが、貨幣そのものの社会的な基盤については研究を控えています。それについて語ろうとする拙稿本章のような議論、いわば貨幣の形而上学、は現代経済学の範疇から除外されています。それは実は研究方法が見つからないので職業的学者の仕事にはならないからですが、いちおう、それは哲学(一九〇〇年 ゲオルグ・ジンメル「貨幣の哲学」)、人文科学あるいは人類学の課題である、とされています。これは現代的な学問の作られ方からして仕方のないところではありますが、一般教養の知的バランスという観点からは暗黒部分が大きくなってしまう。貨幣そのものの暗黒部分に気づかれにくくなる。という困った点もあります。

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貨幣の力学(8)

2014-04-12 | xxx8貨幣の力学

しかし、重力と金力は違うところもある。

このリンゴとこのグレープフルーツとどっちが重い?

このリンゴとこのグレープフルーツとどっちが欲しい?

この百円玉とこの五十円玉とどっちが欲しい?

どっちが重い?と聞かれれば、手に乗せて重さを感じるイメージが思い浮かんで、すぐ重さの違いが分かります。

どっちが欲しいか?と聞かれると、ちょっと違う。直感で答えるというより、金額の数値を比較する。百は明らかに五十より大きいから瞬時に答えられますけれどね。

これが、百円玉と五十円玉を数個ずつ混ぜて入れた二つの紙袋を選べ、となると瞬時には答えられません。

二つの袋、どっちが重い?

二つの袋、どっちが欲しい?

百円玉と五十円玉、袋の中の合計額が多い方はどっちか分かれば答えられる。だから即答せずに、私たちは、二つの袋を開けてみて中身を数えるでしょう。

こうして答える場合、視覚や触覚で感じ取る感覚を使って直感で答えるというのとは違います。お金はその合計額に意味があるのであって、重さの問題ではありません。だから手で持ってもイメージが湧かない。合計金額を知らないとイメージが湧きません。逆に合計の数値さえ知れば、どちらが欲しいか、すぐに答えられます。

お金の場合、物質的な実体を視覚や触覚で感知するものではなくて、金額という抽象的な数値を感じ取ってそれに身体が反応する、といえます。そうであれば、ここは数値だけに反応するコンピュータのようです。しかし、人間の身体はコンピュータのように抽象的な数値に反応するようにできているのでしょうか?

デジタル時計はダメだ、という人は多い。文字盤の時計ならば針の角度で後どのくらい時間の余裕があるか分かりやすい。デジタルの数字を見せられても、頭の中で引き算などしないと時間の感覚がつかみにくい。お金の場合はそうではないのか?

一万千五百円と言った場合、私たちは一万円札一枚と千円札一枚と五百円玉一枚を思い浮かべませんか? 五百円玉二十三枚を思い浮かべる人はあまりいないでしょう。コンピュータであれば、こういう具体的な思い浮かべは必要ありません。どうも人間は、お金を感じ取る時も抽象的な数値ではなく、具体的な物体を思い浮かべてそれに反応する身体を感じ取ることでお金の価値を知るのではないでしょうか?

実際、私たちの多くは金額を提示されてその価値を理解しようとするとき、それと交換できる物を思い浮かべることで納得します。貨幣が使われ始めた時代から現代に至るまで、そのようにお金の価値を理解する多数の人々に支えられて貨幣システムは機能した、といえそうです。

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貨幣の力学(7)

2014-04-06 | xxx8貨幣の力学

古典経済学によれば、自由な市場で認められる価値が正しい価値である、といえます。これれは「正しい」という言葉の意味を学者がそう定義するからそれが正しいということになる、という形になっています。しかし興味深いことには、この正しい価値という言葉が、経済学者の定義とはかかわりなく、私たち一般の人間が直感で「正しい」と感じることとうまく一致していることです。経済学者の術語の作り方が非常に巧妙である、という言い方もできますが、それにしても、見事に人間の感性に合う。

理論的な市場価値が作られる前提として、私たち人間の身体が物やサービスの価値を直感で評価し、それが平衡状態に向かう力を感じ取るから、といえるのではないでしょうか?逆に、その直感による評価が経済市場の平衡機能を維持している、と見ることもできます。

人間はもちろん、経済理論その他種々の理論に深く影響されて行動しますが、それ以前に直感による自分の身体の動きを感じ取って、それが理論の受け皿を用意している、といえるでしょう。経済学で語られる理論もまた、価値というものを直感で感じ取る私たちの身体の動き方が先にあって、経済学者は上手にそれを理論化している、といえます。

たとえば価値の加算性。同じ価値のものが十個あれば、その集合全体の価値は一個の価値の十倍になる。逆に一個の物を十個に等分できれば、分割した一個の価値はもとの十分の一になる。この原理は、法律や法則で与えられるものではなくて、身体で直感することで理解するものです。この原理を使って、私たちは貨幣を銀行に預けたり、消費したりします。逆にそうでなければ、安心して貨幣を預けたり、消費したりすることはできません。

またたとえば価値の交換可能性。価値が同じものを交換しても価値は変わらない。その物を誰が持っていても、その物の価値は変わらない。この原理も私たちは身体で感じ取ります。貨幣はだれが渡してだれが受け取っても、交換できるその価値は変わらない。この原理によって貨幣はその価値を維持しています。

どんな物であっても、質量が同じものには同じ量の重力が働く。どんな物であっても、価値が同じものは同じ量の貨幣で買える。

似ています。逆に言えば、そのように働くものを重力、あるいは金力という。

力という言葉はもともとそういうように働くものを指していた。そのような力を私たちの身体は、言葉による定義ではなく、直感で感じ取れる。視覚で感じ取れる。その物の動き方を見ることで、私たちの身体が自然に反応して動く。私たちのその身体の動きが(拙稿の見解では)力を表現している、といえます。

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貨幣の力学(6)

2014-03-29 | xxx8貨幣の力学

拙稿の見解では、お金という概念は、通貨や、価格や、為替、利率、マクロ経済などという現代の経済現象ばかりではなく、ずっと深く人間の身体構造に埋め込まれている機構であると考えます。そこに興味がある。

お金は明らかに価値がある。価値があるからお金として使われている。その価値とは何か、それは言葉では言いにくい。言えないことはないが、言葉にすることで意味が歪んでしまいます。

人類は、通貨が発明されるよりずっと昔から価値というものに敏感だった。むしろ、通貨を知らない人々の方が物事の価値に敏感だったと思われます。狩猟採集の原始時代から、人々は生活の上で何がどれくらい大事か、ということをよく考えていた、よく知っていた、と思われます。そうでなくては厳しい自然環境を生き抜いて子孫を残すことはできません。物事の価値を、正しく、よく分かっていた、ということでしょう。

そのころの人々が感じ取っていた価値という感覚を、現代人が感じ取るお金の価値というものと同じものではないか、つまりある環境での、ある場面に決定できる金額という数値としてよいのではないか、と考えることができそうです。

価値という感覚が人間の身体の機構から生じる重要な機能であれば、お金が発明される前から重要であり毎日の生活で使われていたはずです。貨幣を知らなければ金欲とか財力とかは発生しない、と考えるのはおかしいでしょう。逆にその感覚が人間の身体の深いところから発生しているからこそ、お金が発明されてからこれほど歴史的短期間に貨幣経済、グローバリゼーション、財力、お金の支配、というものが完成したといえます。

貨幣がなかった時代、たとえばA君は熊の毛皮二十枚と石の矢尻二十個をB君に贈る。代わりに、B君は娘を嫁にやる。この場合、A君とB君とは価値の感覚を共有していたと考えることができます。貨幣があれば、たとえば五百万円の取引だということになる。貨幣というものがない時代、A君とB君とは現代人が感じる五百万円という価値を感じ取ることはできなかったでしょうか?たぶん、A君とB君は、現代人よりも鋭い感覚で、今でいう五百万円に相当する価値を感じ取っていたでしょう。

自分にとっての価値をはっきりと感じ取る感覚が人間の身体には備わっている。身体が自然にそれを感じ取る。感じてしまう。その感覚にもとづいて貨幣はその力を働かせることができる。貨幣はその力によって商品の価格を定め、物を動かし、人を動かす。と考えることができるのではないか。

裏返せば、金銭感覚といわれる感覚が人を動かす、ともいえます。

貨幣の力は、物質の重力が質量に比例するように、その額面金額に比例します。重力が質量の和に比例するように、貨幣の力は額面の合計額に比例します。逆に言えば、そうであるから貨幣は交換の対象となっている、といえます。

貨幣の力が物やサービスに及ぼす作用は、このような加算性と交換可能性によって、水が低い方へ流れるように、高い価値がある所にあるものを低い価値の所へ押しやる。つまり水面を平にするように、物の価値を平衡させる力となっています。この平衡法則が市場という場を導くことは古典経済学の基本理論です。

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貨幣の力学(5)

2014-03-22 | xxx8貨幣の力学

ここに貯金箱がある。陶器で作られた豚の背中に縦長のスロットが開いています。このスロットからコインを入れる。毎日百円玉を一個入れることにしましょう。来年の今頃には三万六千五百円くらい貯まるはずです。

来年になってハンマーで豚を叩き割る。いくら入っているか楽しみです。叩き割らなくても取り出し用の蓋がついている貯金箱もあります。毎週土曜日にその蓋を開けてお金を数えてみるのが楽しみという人もいる。あるいは、蓋が開かなくても手で持って重さを感じるとうれしい。それがお金の価値でしょう。

お金が貯まるとなぜうれしいのか?財布が厚いとなぜ暖かい気持ちになるのか?それが、身体で感じるお金の価値というものです。

価値という概念は実はうまく定義できない。哲学者は古来あらゆる価値を議論の対象にして語ってきました。哲学者の数だけ価値の数はある。なかなか、これだ、という決め付けは出来ていません。大事なものを価値ある、という。価値とはどれだけ大事かということだ、ということがはっきりしているだけです。

猫にとっては金よりもカツオブシのほうが価値がある。

紀伊国屋文左衛門にとっては金よりも粋のほうが価値がある。

世之介にとっては金よりも女の肌の方が価値がある。

価値がある、とは、好きだということだろう、というだけです。

経済学の場でも、古典経済学 では価値を経済活動の基準と考え、種々の理論を作り出してこれを定義しようとしましたが、あまりうまくいかなかった。

通貨というものが価値を表す指標であることはだれもが認めるが、通貨と価値は同一ではない。そこで現代経済学では価値に関するこの不毛のように見える議論は避けて、現実の通貨そのものを基準として為替レート、金利、物価、成長率その他の数値的関係を理論化するようになりました。しかしそうなると、実務的には便利な予測ができるようになったが、そもそも人間にとってお金とは何か、という根本的なところがよく分からなくなる。よく分からないが、現代的に割り切ってしまえば、実体経済がうまく予測できるならばそれでよしとしよう、となっていきました。

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貨幣の力学(4)

2014-03-15 | xxx8貨幣の力学

効用あるいは価値という概念が脳の状態パラメーターである、という神経経済学の仮説は一応の説得力がありますが、脳状態のそのパラメーターを、たとえば神経細胞の活動電位などとして定量的に測定し、種々の条件におけるその現象を予測する理論を構築できるところにまでは至っていません。将来、この新領域の経済学が定量的測定値に基づく精密科学になれるのかどうか、それが可能であるとしても現在の私たちにはその様相を想像することができません。

お金の価値というものを、私たちは直感で、はっきりと感知できるにもかかわらず、それを物理的な観測装置で測定することができない。言語であれば、発語を録音したり文字に書き取ったりして身体活動の結果としての言語現象を記録することができます。お金の価値はそういうことができません。身体の外部に数字と貨幣単位で表すことはできても、価値を身体が感知したことで起きる身体現象は記録できないでしょう。

一万円札をもらったときの私の身体の変化を、瞳孔の拡張比とか血圧とか脳波であるとか、客観的変動値として各種測定装置で測定して、状態ベクトルとして記録する。それから二万円(一万円札二枚)をもらった時のそれにあたる状態ベクトルを測定して記録する。それらの測定値を方程式で計算して、どうすればお金が二倍になっていることを算出できるのか?

まあ、無理でしょうね。そんなことができるくらいなら、警察庁がとっくに収賄罪摘発の証拠作成に使っているはずですが、そういう話はなさそうです。

ではどうしたら、お金の価値というものを客観的に表現できるのか?

一時間、音もしない真っ暗な部屋で待っていた人には千円をあげます、という実験をする。たぶんかなりの人が参加する。まあ、筆者のような暇人は参加するでしょう。では、五時間待っていなさい、トイレはありません、という実験条件でどうか?参加する人はだいぶ少なくなる。うっかり参加した人も途中で逃げ出す。筆者もやめます。何時間待たせると参加者が半分になるか? 半分の人が待つことをやめた時間数でお金の価値を表現したらいかがか?

こういう測定法で良いのか?

労働価値 という概念があって、一日ないし一時間働いた価値は、誰がどう働いても同じだ、という経済学理論もありますが、ちょっと直感には合わない。まず一日の労働時間といっても、個人的事情によるし、労働内容にもよる。雇用形態、会社の知名度、職場の人間関係にもよる。一万円札の価値を時間給で割っても、それが価値を表すとは思えません。

一万円を使えばコーヒーが何杯飲めるとか、タクシーで何キロ行けるとか聞いても、それこそ、その価値は、その時の事情によるでしょう。そういうことで私たちがお金の価値を感じ取っていると言えるでしょうか? ちょっと違いますね。

つまり一万円札の価値というものを私たちは直感で分かるのに、それを客観的な数値で表すことができません。私たちが身体で感じることができるお金の価値というものは物質的なもので表現することができない、ということでしょう。

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貨幣の力学(3)

2014-03-08 | xxx8貨幣の力学

むしろ現代では昔よりもお金で解決できる事柄が多くなってきている。たとえば個人的な不運や不幸の多くは事後的にも金銭的に解決できる場合がありますが、むしろ保険や年金あるいは資産蓄積という形で事前に金銭的な積立を行うことで防止することができます。

このように直接的と間接的と両方を合わせれば、お金が現代人におよぼす影響力、あるいは支配力は過去最大になっているといえます。

古代から現代まで歴史が進むほど、ますますお金は支配力を増している。人を動かす力がある。それもとても強く人を動かす力があるようです。なぜでしょうか?

お金という概念の上に作られた貨幣や商業や金融は、たしかに歴史時代になって文明化された都市で開発され、各国の経済の発展とともに世界中に普及した社会システムです。現代人と同一の身体構造を持った現世人類の十数万年にわたる狩猟採集生活において貨幣の機能を持つ人工物は存在せず、農耕牧畜が普及した最後の一万年以降になって、貨幣の機能を持つ貴重人工物が出現し使用されたことが考古学研究から推定されています。

しかし現在これほどまでに普及し私たちの人生目的の根源にまで影響するものとなっている貨幣システムは(拙稿の見解では)、もともと人類の生得的な身体の中にそれを支える機構があってそれの表現(拡張表現型)が歴史時代に至って実現したものだと見なすことが自然ではないかと思われます。

お金の起源は、物々交換の対象であった金属などのうち、保管や携帯に便利なものが通貨となり、国家によって刻印された貨幣になっていったとされますが、そのとおりでしょう。お金というものの興味深い点は、歴史上どの時代のどの国家でも金銀の貨幣などの形で発行され、ほとんど同じような形態で流通使用されていることです。この現象は、世界中の言語が数千種類も使用されていて、しかもどの言語も同じように物事を表現している現象とよく似ています。お金はこうして考えると、言語と同じように人類共通の行動様式であるといってよいでしょう。

もしそうであるとすれば、言語を使いこなす人類の行動様式が脳神経系の言語獲得機構という身体的特徴を基盤として生得的に成り立つものであることと同様に、お金を使いこなす人類の行動様式も脳神経系など身体の上に基盤を持つ人類の生得的現象である、としてよいことになります。

お金を支えるその神経学的基盤はどこにあるのか?つい最近、前世紀末ころから 神経経済学 という研究領域が開拓されてきました。消費や投資など経済行動を行う場面での脳神経系各部位の活動を測定して種々の理論仮説を作っています。たとえば古典経済学の基本概念である効用とは、神経経済学では、前頭葉新皮質の状態パラメーターの一つである、となります。

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貨幣の力学(2)

2014-03-01 | xxx8貨幣の力学

一万年以上前と推定される人類の貨幣使用の始めの頃は、貨幣そのものが使用価値を持っていました。金銀は装身具あるいは装飾材として美しい金属であったから価値があった。その時代、お金が人を動かすという力は薄かったでしょう。お金に直接的な支配力はなかった、と推測できます。

近代の資本主義社会ではお金は人を動かす直接的な力を発揮しましたが、現代に至ってグローバリゼーション、情報技術の普及などが進んだ結果、お金の力は人々を動かすことに関して安定的な場を作り出している、ということがいえます。これはお金による間接的な支配といえるでしょう。

古代には、お金は人々に対して、それほど強い支配力はなかった。産業と商業の発展にしたがって、一六世紀頃から、貨幣経済は人々の生活全般にわたって支配力を強め、二〇世紀前半頃には世界のすみずみに至るまで強力な支配力を行き渡らせるようになった、といえます。さらに二〇世紀から二一世紀にかけては、科学と経済が個々人の人生までを決定する影響力を持つようになり、それらの影響はお金を通じて及ぼされることから貨幣経済の支配力は過去最大になっている、ということでしょう。

しかし一方、現代の科学と経済は、産業や生活のインフラストラクチャとして深く埋め込まれているため、直接お金のやりとりを通じて現れる面ばかりでなく、むしろ多くは間接的に、人々の生活あるいは人生に支配的な影響を与えるようになってきています。これもお金の支配力の一種ではありますが、目に見えにくいものに変わってきているといえます。

さらに昨今は、お金そのものも見えにくくなっている。小切手やクレジットカード、ローンの普及で、現金として目に見える形以外のお金が、日常生活でも主役になってきています。いまや携帯機器による電子決済、仮想電子マネーが現金に取って代わりつつある、といえるでしょう。

現代、お金は硬貨や紙幣の形ばかりではなくなり、またお金で買いたい対象物も穀物や装身具に代表されるとはいえなくなっています。現代人がお金で買いたいものは、海外旅行、携帯通信機器やインターネットを通じた情報、エンターテインメント、あるいは子どもの教育、あるいは老後の介護サービスなどでしょう。それらは、百年前にはほとんど需要がなかったものです。

形態も交換対象も、昔から見るとすっかり様変わりしているお金の有様のように思えますが、それでも私たちの生活で、直接的あるいは間接的に、お金がなによりも大事であろう、という点において、人間とお金の関係は基本的には同じでしょう。

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